奇兵隊内閣だそうです。

管内閣誕生。奇兵隊内閣だそうです。
仙台人であり、会津にこよなく親近感を抱く私としては、複雑な思いもありますが、閣内に知人の玄葉光一郎さんも入っているし、枝野幹事長も仙台の大学なのでエールを送ることにしましょう。高杉晋作の時代はいまだ会津とも仙台とも対決してはおらず、その後の木戸孝允の時代になって会津と長州は犬猿の関係になります。それはともかく、今年の3月の長州藩の旅は、みるべきところも大変多く楽しい日々でした。 門司ではアンティークな建物が多く羨ましい限りでした。次はどこにいこうか、考えているところです。
いずれ星亮一の旅紀行を書きます。

そのときの写真です。









2010年6月10日[福島民報]記事
幕末の会津藩主・松平容保の写真

今朝の福島民報に松平容保の写真が新たに2枚発見されたという注目すべき記事がのっておりました。私も驚いております。


秋山 隆氏「会津戦争の帰結」

秋山さんからお手紙をいただきました。
ありがとうございました。


拝啓
 初夏の侯、お変わりなくお過ごしのことと思います。
 この度、第一美術展に「会津戦争の帰結」を出品しましたが、風景画の多い
会場では唯一の歴史画で特異な存在でした。そのポストカードをお送り致します。
私が所属している岩手歴研の有志が、二〇一二年九月十七日に岩手県で
安倍貞任没後九五〇年祭を行い、その時安倍元首相の講演をしたりして、安倍
氏と源氏の和解等を図ることを計画しております。
私としては合わせて会津戦争の和解も触れて欲しいものと思っております。
以上の近況報告とご健康をお祈りして失礼致します。                                  敬具
         二〇一〇年六月一日
                  秋山 隆 

私の甲子園の夏はおわりました。

私の甲子園は終わりました。我が母校、一関一高はベスト16位にすすみ、ベスト8位を目指し盛岡第四高校と対戦。 前半は健闘していたものの、後半追いつかれ延長15回の熱戦の末、7対6で破れ甲子園への道が絶たれました。
組合せが決まったとき、私は若干嫌な予感がしました。というのも、何年か前の決勝戦で盛岡四高とあたり、下馬評では一関が有利だったものの破れたことが頭によぎりました。今回は勝つ!と遠くから必死に声援を送っておりましたが、残念です。しかし、稀にみる大熱戦。応援団の大奮闘が目に浮かびます。 選手のみなさん、おつかれさん。また来年がんばってください!

盛岡四 7-6 一関一
(延長15回)

なお、岩手県代表は、一関学院高校と決まりました。同じ一関です。一関学院のみなさん、がんばってください!
それぞれ母校の応援に懸命です。
我が母校、岩手県一関第一高等学校もそこそこに善戦しております。どこまでいくでしょうか。 木村正太投手を擁して、過去に21世紀枠で甲子園出場しました。甲子園は過去4回出場しています。動画は、甲子園出場の際の映像です。 木村投手は巨人に入団しましたが、肩を壊して調整中です。



応援団が有名な中高一貫の県立高校です。ご覧のように色とりどりのスタイルで、各種の大会に応援団が出て、話題を振りまいています。学校創立110年、応援団は明治時代から有名だったようです。

以下は、過日、東京の在京関中一高会に招かれ講演したときの様子です。
演題は「会津藩と長州藩」でした。




真ん中の人物は、元週刊プレイボーイ編集長、集英社インターナショナル代表取締役を勤めた高校の後輩の島地勝彦氏です。最近は、著述業、意気盛んでした。


偶然、同じ講談社+α新書から、島地さんと星の本が出ています。
『謀略の幕末史』

「ノモンハン事件の真実」(PHP文庫)
Amazonランキング(日中・太平洋戦争)
6位と大善戦!

最近の星。



Amazonランキングに、6月18日午後1時50分現在、星の書籍がランクインしています。前回の43位から大きく上昇しました。
43位 (6月17日午後2時45分)

最近、陸軍と海軍の違いがテレビで論じられた。
NHKスペシャル『日本海軍 400時間の証言』である。その後、PHP研究所から『〔証言録〕海軍反省会』として出版された。
集まったのは、旧海軍の佐官クラスの参謀たちだった。少佐、中佐で当時の年齢は四十代が多かった。全員、海軍兵学校、海軍大学校出身のエリートだった。
「やっちゃえ、やっちゃえ」
という乱暴な発言で、作戦が発動されたこともあったと語った。
陸軍に関する話も出た。陸軍は下剋上が多い。とにかくひどいと旧海軍の参謀たちは陸軍の参謀を酷評した。
それは、どういう意味なのか。
海軍は軍艦に乗せられて、艦長が「右、左」と言えば、それに従っていくしかない。独断専行が可能なのは艦長だけということだった。

関東軍参謀・辻政信もその一人である。
辻がハルハ河の河畔に現れたときから、ノモンハン事件の拡大と隠蔽が始まった。



広大なこの草原が戦場の地だった。

私がノモンハンの草原に立って、この戦争を考えたのは平成十五年(二〇〇三)の夏だった。
実に広い草原であった。
中国の東北地方、旧満州の西北、興安嶺を超えると、茫漠たるホロンバイルの大草原が外モンゴルのモンゴル人民共和国に続いている。
そこを南北に流れるハルハ河の手前が、ノモンハンであった。満州建国以来、同地方を事実上支配していた関東軍と、外モンゴルを勢力下に治めていたソ連軍は、この一帯で対立関係にあった。
国境線が不明確で、それが紛争の原因になった。
昭和十四年(一九三九)五月十一日、満州国の国境警察隊がソ連軍配下の外モンゴル軍から発砲を受けての小競り合いが続き、満州国軍が救援に出向く出来事があった。
五月下旬になると、ソ連軍と外モンゴル軍が大挙して越境を始め、満州国の領土を侵害したと見たハイラルの第二十三師団は一個連隊を急派したが苦戦に陥り、ついには七月下旬、第二十三師団とチチハル駐屯の第七師団を投入する大規模な戦争が勃発した。
これがノモンハン事件である。
結果、ソ連軍の優勢を思い知らされ、日本軍は大きなダメージを受けた。
私がノモンハンで出会った村の古老は、
「日本兵は五万人も死んだ」
と語った。
この身を隠す場所もない大草原で、日本軍とソ連、モンゴル人民共和国連合軍との死闘が行われた。
このとき紀行文を書いたが、いずれ本格的にノモンハン事件を書こうと思い続けてきた。それが今だと感じた。
日本軍はこの草原で特攻作戦を行っていた。
ソ連軍はノモンハンの戦場に戦車を大量投入した。装甲の薄い日本軍の戦車は、ソ連軍の戦車砲で吹き飛んだ。



草原には砲弾のモニュメント

ノモンハン事件で日本陸軍が考えたのは、兵士を武器として使うことだった。
日本陸海軍はその路線の延長で太平洋戦争を引き起こし、惨敗した。
資源のない日本が、世界の列強と戦うのは無謀なことだった。
これを止める人間はいなかったのか。
加えて最大の問題は、なぜノモンハンでこれだけの戦争を行う必要があったのか。ソ連側も首を傾げる戦争だった。
「日本は本気でソ連の領土を奪おうとしたのか」
「まさか、それはない」
「ならばなぜ戦争をしたのか」
そう言われると言葉に窮する戦争だった。
日本人とは何か、どこに欠陥があったのか。
かつて北海タイムズが取材し、連載した『ノモンハンの死闘』(三田真弘著、北海タイムス社)や防衛庁防衛研修所戦史室編の『戦史叢書 関東軍<1>対ソ連備・ノモンハン事件』(朝雲新聞社)、辻政信や従軍した将兵の数々の手記などを参考にしながら、改めてノモンハン事件を検証した。
題して『ノモンハン事件の真実』である。




星は、「山本五十六と山口多聞」など、戦記ものに関する数点の文庫をこれまで出しており、ノモンハン事件もその中の1つです。 ノモンハン事件は昭和14年(1939)、旧満州国北東とソ連の国境線沿いで行われた大戦争です。

日本兵が5万兵死んだと現地の人々は語っておりましたが、実際には1万数千の日本兵士の死傷者を出しました。 日本兵はサイダーびんにガソリンをつめたものが主力武器で、ソ連の戦車に肉弾攻撃をかけるという散々たる戦争でした。 その二年後に、日本兵は太平洋戦争に突入。壊滅的な敗戦を喫します。

資源のない日本が、世界の列強と戦うのは無謀なことでした。
それを止める人間はいなかったのか。
日本人とはなにか、どこに欠陥があったのか。

星は6年前にノモンハンに訪れ、それについて考え、まとめ、執筆したものが今回の作品です。


星は日の丸を掲げ、虚しくこの地に散った兵士たちの霊を慰める。

江戸集会。

戊辰戦争研究会の仲間とこのほど江戸集会を行いました。 まず、赤坂の氷川町にでかけて勝海舟の邸宅跡や氷川神社などをみてきました。



びっくりしたのは、勝海舟の邸宅跡がモダンな喫茶店になっていて、夜はパブにでもなっているのかな?と思いました。
ぜひ、一度行ってみたいとおもいました。


テラスでくつろぐ星。



また、赤坂には大久保利通が暗殺された周辺に彼の碑がありました。
それから、三田にある勝海舟と西郷隆盛の階段の場所にも行ってきました。赤坂周辺は、緑もあってなかなかいいところですね。


昼飯は赤坂でつけめんを食べました。夕方は浅草で生ビールを飲み、楽しいひと時を過ごしました。







そうそう、泉岳寺にも行ってきました。18000歩も歩き、もうくたくたでした。でも楽しかったです。



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