最近の星。12月、木枯らしの郡山駅周辺の散歩です。




年末ジャンボ宝くじを買いました。当たりますように。


郡山駅2Fにあるシュークリーム屋さん『36STICKS』。店員さんたちとお話中。


ビッグアイ。


星がよく行く居酒屋『だいこんの花』。



また執筆に戻ります。


星亮一の作品から<1> 
坂本龍馬を考える 

 坂本龍馬は国民的なヒーローである。
 それを決定づけたのは、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だった。
 どんな歴史の文献であろうが、この作品にはかなわない。
 土佐の郷士の次男坊が、京の都を舞台に薩長連合を作り上げ、大政奉還にいたる幕末の政変を、鮮やかに仕切ったという龍馬の生涯は、痛快きわまりない物語だった。
 司馬の作品は歴史と小説のすれすれの狭間にあるストーリー展開だったが、この本を読んだ人は、間違いなく龍馬ファンになった。
 これが歴史だと考えた。
 高知市にある坂本龍馬記念館を訪れた人々が、龍馬に送った手紙「拝啓龍馬殿」には、
「リユウマ (龍馬)はわしらの、血よ!」
「龍馬のように大きくなーれ!」
「龍馬さんにあこがれ、追い続けています」
 など、全国津々浦々から老若男女問わず、龍馬への想いが寄せられている。
 平成三年から十八年までに届いた手紙は一万二千通、どれも「ううん」とうなる内容である。
 しかし、この手紙と歴史上の龍馬には、かなりの乖離があるのではないか。


(写真右)坂本龍馬

 龍馬の魅力は、晴天の日の海のように、青々と果てしなく広がり、こころが躍るスケールの大きいその生き様である。と同時に、龍馬の心にあったのは「差別からの解放」だった。
 高知を訪ねた人は、必ずといっていいほど高知城を訪れる。
 天守閣から眺める高知の街は美しい。しかし、驚くべきことが、ひとつある。
「龍馬はこの城に入れなかったのです」
 土佐の郷土史家は、口をそろえて語る。
 これは誰しもが驚く言葉だった。龍馬は身分が低い郷士であったため、登城を許されなかったのである。龍馬は複雑な思いで日々、高知城を見上げていたに違いない。
 これは現代人にはまったく理解しがたいことだった。全国から手紙を寄せた人々も大半は知らずにいたかもしれない。
 龍馬が生きた幕藩体制というのは、そういう時代だった。そこから逃げ出せば脱藩者として処罰される。
 脱藩した龍馬はしばらくの間、犯罪者だった。
 龍馬の願いは、身分で差別されずに、自分が思うままに生きることだった。
 龍馬の雅号は「自然堂」である。威張るわけでもなく、へつらう風でもなく、見る目にはぶっきらぼうに映ったが、自分の言葉でものを言う。周囲はそれに賛同した。
 大政奉還がなされ、幕府がなくなり藩という呪縛が消えたとき、自分はどう生きるか。龍馬が作成した新政府の要員には、自分の名前はなかった。
「なぜでござるか」
 西郷が聞くと、龍馬は、
「きゅうくつな役人なんか、真っ平ごめんだ」
 と言った。
「それでなにをやりますか」
「そうですなあ、世界の海援隊でもやりましょうか」
 と事もなげに言ったと、平尾道雄の『坂本龍馬海援隊始末記』(中公文庫)にある。世界を股にかけた商社というところだろうか。
 龍馬の魅力とは、まさにそこにあった。

 土佐の近世以降の大名は山内氏である。
 藩祖・山内一豊は信長に仕えていた頃、妻の蓄えで「東国第一の駿馬」を手に入れた。その後、秀吉、家康に仕え、関ケ原の戦いの功績で、掛川(静岡県)五万石から土佐二十万石の国主となった。
 しかし幕末維新の主役は、一領具足(兵農夫分離の地侍)といわれた旧領主・長宗我部氏の遺臣たちで、それらの人々の多くは、城に入れない差別された集団だった。
 龍馬は長宗我部氏とは無縁だが、気持ちは遺臣たちと同じだった。
激動の幕末、土佐を担ったのは、一豊の末裔・山内容堂(豊信) であった。
 この人は酒と詩をこよなく愛し、「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」という風流な呼び名を持っており、幕府も含めた新政府を考えていたが、公卿の岩倉具視や薩摩の西郷隆盛や大久保利通に、一瞬にして覆され、苦汁を飲まされた。  その意味では龍馬も同じだった。土佐は使い捨てにされたのだ。

(写真右)会津藩主 松平容保
 龍馬を考えるとき、いつも複雑な思いに駆られるのは、龍馬暗殺である。
 京都見廻組の幹部だった今井信郎の証言で、長い間、同じ見廻組の佐々木只三郎が実行犯にされてきた。佐々木は会津藩重臣の手代木直右衛門(勝任)の実弟である。
 会津悪人説が出てくるゆえんである。
『佐々木只三郎』(史伝研究所)に、
「実兄の手代木が息を引き取る数日前に、坂本龍馬を殺したものは実弟只三郎であり、それは某諸侯の命によるものであることをはじめて語ったという。某諸侯というのは、のちに見廻組が属した京都守護職松平容保すなわち手代木の藩主を指すのであるが、この事実を公にすると、累を藩主に及ぼす恐れがあるので、直右衛門はずっと後代まで沈黙を守っていたのである」
 とある。
 しかし、これには首をかしげる部分が多い。会津藩の重臣たるものが、主君である松平容保にとって不利な証言をするだろうか。しかも手代木の証言の時期が死ぬ数日前というのも、作り話の印象がある。容保の実弟、京都所司代であり桑名藩主でもあった松平定敬の指示という文書もある。
 この時期、龍馬は幕府若年寄の永井尚志と再三、会っており、ハト派の政策を進めていた。戦争ではなく平和裏に、新生日本を作ろうということだった。
 その人物を、幕閣の松平容保や定敬が暗殺せよと言うはずはない。つじつまが合わない。
しかも手代木自身にも不可思議なことがあった。
戦犯として幽閉されていた手代木は明治五年、明治政府から特赦を受けた。戊辰戦争で敗れた会津藩の同僚が青森県に流され、塗炭の苦しみにあえいでいたときのことである。手代木は明治政府に出仕し、香川、高知の権参事(副知事)を経て、岡山県下の各郡長、区長を務め、正六位勲六等に叙せられた。
 明治政府の要人のだれかが龍馬暗殺の犯人として、只三郎を作り上げ、只三郎が無実であることを知っていた兄の手代木を処遇し、口封じをはかったのではないかとも考えられる。
 何かが隠されている。そんな気がしてならない。
 土佐では薩摩黒幕説、あるいは土佐藩内部の抗争説、さまざまな説が語られていた。
 天衣無縫に生きた龍馬の輝ける生涯のなかで、最期の部分は依然、闇の中である。

                                   星 亮一
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星亮一著『坂本龍馬その偽りと真実』(静山社文庫)、序文より
詳しくは著書をご覧ください。