戦う政宗第3回

小斎城争奪戦(ニ)

 (三)
 翌朝、政宗が小斎城の城門をくぐると、宮内の家中は全員、ひざまずいて政宗を迎えた。 政宗は小斎城を見て回った。
 深い湿地に囲まれた難攻不落、堅固な山城であった。
 ここからは周囲が一望に見渡せた。これなら敵の様子が手にとるように分かる。
 本丸の周囲は切り立った崖で、容易には登れなかった。
 南側の斜面には幅広い段がついていた。馬に乗ったまま登り、降りが出来る仕組みである。二の丸から本丸に渡る空堀の橋は、非常の際、取り外しが出来た。
 兵はどれも屈強であった。
「勝てぬはずだ」
 政宗も感じ入った。
「若君、この城をいかようにもお使い下され」
 宮内がいった。
「あい、わかった。存分につかわせてもらうぞ」
 政宗がいった。
 宮内は嫡男の勝信を連れ、礼服に身を包んで矢の目の本陣に向かった。
 伊達輝宗への挨拶である。
「苦しうない、さあ、こちらに、こちらに」
 輝宗が宮内親子を手招きした。
「この度のこと、あっぱれじゃ。そちは今日から伊達の一門であるぞ」
 輝宗がいった。
「嫡男を人質として伊達家に差し上げる所存にござれば、なにとぞよしなに、お使いくださるように願いあげたてまつる」
 宮内がいうと、「それには及ばぬ」と輝宗は度量の広さを示した。
 宮内の反乱は相馬氏に衝撃を与えた。
 最大の出城、小斎城を兵ごと失ったのだ。前線の最高司令官の謀反である。
「あやつめ」 
 盛胤、義胤親子は歯ぎしりし、
「戦じゃ、馬を引け!、小斎を奪い返せ」
 と叫び、「宮内の一族は皆殺しだ」と二人は目をつり上げた。
 予感がないわけではなかった。しかし宮内には二人の兄がおり、また金沢美濃も送ったので、このようなことはないと義胤は思っていた。
 義胤はすぐ宮内の兄弟の館に兵を差し向けた。しかし兄弟はまったく知らずにいた。
 兄弟は白装束に身を包み、盛胤、義胤の前に出頭した。
「ただ今承りますれば、弟宮内、反逆に及びましたること、知らぬこととはいえ、兄弟の儀なれば、我ら御前にて切腹つかまつる」
 兄弟は、すぐにも切腹せんとした。
「それはならぬ、この借りは必ず返す、存分に戦え」
 盛胤、義胤は苦渋に顔をゆがめながら反撃を命じた。

 相馬家は、相馬将門を祖とし、頼朝の平泉攻めに参戦し、南北朝の動乱を経て相馬重胤が下総国相馬郡から奥州の行方、標葉郡に移住し、現在の相馬地方に領主権を確立した。 大国伊達と国境を接し、たえず緊張状態にあった。兵力は騎馬武者七百騎、歩卒五千、この数、伊達の十分の一にも満たない。しかし、山岳戦や遊撃戦に優れた。
 幕藩体制が確立してからの相馬の領地は六万石である。伊達は六十二万石、その差が当初からあった。それでいて伊達が攻めきれなかったのが、縦横無尽に走り回る相馬の騎馬軍団に蹴散らされたせいだった。怒濤のごとく攻め込んでくる騎馬武者は、伊達の槍隊をも粉砕した。
 義胤は敵愾心の強い男だった。
 後日、義胤は遺言を残し、合冑をまとい、弓矢を持って北方の伊達を向いた姿で埋葬させている。
 相馬の反撃は、義胤が先陣をきって始まった。
 全軍七百騎を、いくつかに分けて、四方八方から小斎城に攻め込んだ。
「来たかッ」
 小十郎が鋭い目を国境の山間に向けた。
 この界わいを熟知している小斎勢が、いかに戦うかが勝敗の鍵を握った。
「勘兵衛、そちが先鋒を務めよ」
 小十郎がいった。地の利である。
「われら佐藤の家中に、お任せ下されば、必ずや相馬を殲滅いたす」
 勘兵衛はまなじりを決した。
 敵将の多くは顔見知りだった。親戚、縁者も大勢いた。しかし袂を分かった以上、敵であった。勘兵衛という男、冷徹な性格だった。
 この頃から雨の日が続いた。
 阿武隈川はたちまち増水し、随所え氾濫した。
「若君、ここは引くべきかと」
 小十郎がいった。
 天災にはかなわない。見張りの兵を残して伊達勢は米沢に引き上げた。
 この戦、休戦であった。
 佐藤宮内の反乱だが、時期について天正九年と十年の二説がある。『丸森町史』は九年、『角田市史』『米沢市史』は十年説である。

 仕切り直しの第二戦は翌天正十年である。
 またも先鋒は小斎勢である。勘兵衛の兵は国境に布陣した。
 勘兵衛は鉄砲足軽と傭兵を率いて待ち伏せ、夜襲、放火と敵の裏をかく作戦に出た。
 傭兵は顔に泥を塗り、百姓の姿をして村落に潜んだ。
「草いだし、でござる」
 と勘兵衛がいった。
 傭兵は悪党、物取り、乱暴人、土地によって、さまざまな呼び方があった。
 小斎の兵には限りがある。そこで、これはと思う男たちを金で集めた。
「活躍が見物だ」 
 小十郎がいった。
 勘兵衛は相馬の戦法を熟知しており、それが強みだった。
 国境のいたるところに、相馬兵の山小屋があった。食糧を蓄えた戦闘の前線基地である。 見えないように樹木で覆い、また山中の岩穴に基地を設けた。
 勘兵衛は一つ一つ、つぶしにかかった。
 勝手知った小屋に接近し、枯れ草を積み上げて火を放った。一つの小屋に十人から二十人の雑兵がいた。
「曲者だ、曲者だッ」
 敵兵が飛び出してくるところを鉄砲で射殺した。
 勘兵衛の側には、弟の陣内、子分の左吉、次郎助、十内、九介ら小斎衆がいた。
 傭兵の親分は足軽の源太である。上半身に入れ墨を彫り、銀色の兜をかぶり、ときには、上半身裸で戦場を飛び歩いた。
 銀色の兜は傭兵の間で流行っていた。どこからともなくその兜が広がり、陽光にキラリと光る源太の姿を見ると、敵はおびえた。
「ひよお−お」
 源太は奇声を発し、逃げる敵兵を追いかけて、槍で突き殺した。戦場から戻ると勘兵衛は小十郎に報告をした。
「面白い」
 奮闘ぶりを聞くたびに、小十郎は笑った。
 引っ捕えた者は、敵の動きを聞きだしたあと斬殺した。
 首は国境ぞいに晒した。食糧はことごとく奪って運び下ろした。
「相馬も怒るな」
 小十郎がいった。
「それでどうなる」
 政宗の問いに小十郎がいった。
「さよう、攻めて参ろう」
「迎え撃つか」
「いかにも」
 二人は顔を見合わせて、うなずいた。
 翌朝、朝もやをついて相馬の騎馬隊三十騎ほどが間道ぞいに襲来した。騎馬武者は小斎城周辺の村に焼き討ちを掛け、百姓を殺し、女をさらい、盗賊まがいの行為を繰り返した。 百姓たちが半鐘を鳴らし、小斎勢が駆け付けたときには、とうに姿を消していた。
「ゆるせぬ」
 政宗が怒りの声を発した。決戦の火ぶたが切られようとしていた。

 (四)
 天正十年五月下旬、小斎城最大の戦闘が始まった。
「敵五百余騎!」
 物見が叫んだ。
 義胤はほぼ全軍を動員し、二つの峠を越えて怒濤のごとく攻め込んだ。
 小斎城の政宗と小十郎に緊張が走った。
 山を一つ越えた亘理郡亘理から老臣亘理元宗の軍勢が駆け付け、峠を守っていたが、怒濤の騎馬軍団に蹴散らされた。
「若君、そろそろ攻め込んできますぞ!」
 小十郎が叫んだ。政宗は合冑に身を固め、勘兵衛の手勢も率い、前線基地である明護山の砦に陣を張った。
 鉄黒漆五枚胴具足に身を包んだ政宗は、見事な若武者だった。国境に土煙が上がった。「きたか」
 小十郎が手をかざして国境を見つめた。
 朝焼けのなかを相馬の騎馬武者が、旗差物をなびかせ、土煙をあげて迫って来た。
 馬がいななき、迫力のある光景だった。
「引きつけるのだッ」
 勘兵衛が叫んだ。
 敵の騎馬武者は、人馬一体となり、旗差し物をなびかせ、地響きを立てて砦に殺到した。 防護の柵が破られ、伊達の隊列が大きく乱れた。
「いまだッ」
 勘兵衛の鉄砲足軽が連射した。
 銃声がこだまし、火炎が漂い、馬が血をふいて横転した。
 雑兵が群がって騎馬武者を囲み、槍で叩いた。
 馬のいななく声、将兵の怒号、鉄砲の発射音、明護山の砦はたちまち阿鼻叫喚の地獄と化した。
 そのとき、新たな敵騎馬軍団五十騎ほどが現れ、柵の外に出て追撃態勢にあった伊達勢を蹴散らした。
 政宗は柵まで押し出して采配を振るった。
「勘兵衛ッ、しかとお守り致せッ」
 小十郎が大喝した。勘兵衛は政宗を守りながら鉄砲を撃ち続けた。
 何度か敵の騎馬武者が政宗の目前まで迫ったが、勘兵衛が追い払った。政宗の小姓たちも弓に矢をつがえ、群がる敵兵に矢を射かけた。きわどい戦いだった。
 目の前で敵味方が激しくつかみかかり、腰に血のたらした生首をぶら下げて、なおも戦う兵士たちに、政宗の体は小刻みに震えた。
 戦場に一陣の風が吹き、敵の御大将相馬義胤が突如、疾風のごとく現れた。
「政宗、出てきて勝負せよ!」
 義胤は大声で叫び、鉄の団扇を振り回し、真一文字に柵に向かって来た。
「伊達のこわっぱに負ける義胤にあらず」
 義胤は高らかに叫び、しばらく馬を止め、こちらを見つめたが、勘兵衛が一発、鉄砲を見舞うと、馬首をひるがえして遠ざかった。
 義胤は旧主君である。勘兵衛はわざと玉をはずした。
 この日は昼すぎまで戦闘が続き、やがて次第に相馬の動きが緩慢になった。
 激しい戦闘は、そう続くものではなかった。
 次は目の前にある金山城、丸森城の奪還である。なかでも丸森城は政宗の曾祖父の稙宗が晩年、過ごした城だった。稙宗が他界するや、相馬に奪われた。輝宗の弱腰を見て、これみよがしに占領された。
 屈辱以外の何物でもなかった。
 城は小斎城から阿武隈川を挟んで、真向かいに望めた。
「なんとしてでも奪いかえす」
 政宗は丸森城を仰ぐたびに歯ぎしりした。
 夕方、小斎城周辺の森を飛び回るカラスの群れが、丸森山に帰ってゆくのも癪だった。 政宗は自ら前線を見てまわった。
 小十郎は腕っ節の立つ原田左馬之助を政宗の回りに配置した。この男、まだ二十歳そこそこだが剣術、槍術、馬術、なんでもこなし、遠目が利き、火縄銃を扱えるのが強みだった。しかし、政宗も左馬之助もまだ若かった。無警戒に丸森城に近づきすぎた。
「若君、身を伏せよ!」
 左馬之助が突然叫び、咄嗟に鉄砲を放ち、草むらにかくれた敵の雑兵を射殺した。だが、そこにもう一人の敵兵が潜んでいて、その兵が放った銃弾が、政宗の馬に命中した。
 馬がもんどりうって崩れ、政宗が落馬した。
「あッ」
 左馬之助は青ざめた。幸い政宗に怪我はなかったが、これを知った小十郎の鉄拳が左馬之助の頬に飛んだ。 
「余が悪かったのだ」
 政宗が小十郎にわびた。その日から政宗は慎重になった。
 伊達勢は二つの城を完全に取り巻き、食糧、弾薬を絶つ作戦に出た。
 峠には各所に落とし穴を堀り、馬で攻め込む伊達の騎馬隊を牽制した。
 補給を絶たれた金山、丸森城の相馬勢は次第に追い詰められ、落城は目前に迫った。
 敵将は大河内外記といった。
 小十郎が総攻撃の命令を下した。
 火矢を放ち、飛び出してくる城兵に鉄砲の雨を降らせた。 
 たまりかねて突撃してきた大河内は、勘兵衛の鉄砲足軽に撃ち倒された。
 残党が籠ってなおも抵抗したが、数日で掃討され、城が落ちた。
「若君、この日をお忘れなく」
 小十郎がいった。 
「分っておる、奥州布武の始まりだ」
 政宗がうなずいた。
 小十郎が絶えず口にしていたこともあり、政宗の目標も天下に乗り出すことだった。
 信長と伊達家の関係だが、輝宗の執政、遠藤基信が信長に接触し、何度となく会っていた。その都度、基信は奥州の鷹や馬を信長に贈り、信長からも何通もの礼状が来ており、伊達家との関係は極めてよかった。既存の権威を否定し、すべて自分の判断で行動することに、政宗は引かれていた。
 なかでも信長がこの世に華々しく登場した桶狭間の戦闘が大好きだった。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度、生を得て滅せぬ者のあるべきか」
 日頃愛唱する幸若舞「敦盛」の一節を舞って、わずかの小姓と二百人ほどの雑兵を率いて飛び出した桶狭間は、血わき肉躍る場面だった。
「武将とはこうあるべきだ」
「まことに、そうだ」
 政宗は小十郎と一日中、信長を論じたことすらあった。
 信長の足下に一歩、近づいたことが嬉しかった。

 (五)
 残るは金山城であった。
 岩山にそびえ立つ山城で、北面に一本の上り口があるだけで、三方が断崖である。
「全軍で包囲せよ」
 政宗が声高に命じた。
 丸森城を落としたことで、政宗は一段と武将らしくなった。
 小十郎が頼もしげに政宗を見つめた。しかし、長雨が続き、阿武隈川が氾濫を起し、戦は中断した。
 雨があがった暑い日の午後であった。
 修験僧の元越が飛ぶように丸森にやって来た。
「片倉さま」 
 といって倒れ、息も絶え絶えだった。米沢から走りに走ってきたのである。
「信長公が殺されましたぞ」
 元越はそういって床に突っ伏した。
「えッ」
 小十郎は声をあげた。
 小十郎は自分の体に戦慄が走るのを感じた。
 小十郎は政宗を信長のような人物に育てたいと願ってきた。信長の天下統一は目前であった。その暁、この奥州は伊達家が預かる。それが叶わぬときは、信長と一戦を交えることも辞さぬ、というのが小十郎の考えだった。まさかという思いだった。大動乱が起こるかも知れないと、小十郎は直感した。 
「誰に、いつどこで殺されたのか」
 小十郎は聞いた。
「六月二日、本能寺で明智光秀に討たれたそうにございます」
 元越は小十郎を見つめた。すでに半月はたっていた。
 この頃、信長の軍勢が越後の春日山城に迫っていた。もはやこれまでと覚悟していた上杉景勝のもとにた知らせが入り、そこから各地の修験僧を伝わって出羽三山にも伝えられたのだった。
「すぐ都に人をだしましてござる」
 元越は光秀謀反の模様を説明した。天下布武目前にしての信長の急死である。政宗も小十郎も言葉がなかった。問題は光秀が天下を握るのか、それとも信長の家臣の誰かが主君の仇を討つのか、であった。
 このとき政宗は小斎城にいた。
 小十郎は元越を連れて小斎城に急いだ。
 政宗も棒立ちになった。
「嘘ではあるまいな」
 政宗がいった。自分が狼狽していることが、手にとるように分った。
 ありえぬことが起こったのだ。世のなかなにが起こるか分からない、それを実感した。 それから半月ほどして都から二人の使者が姿をも見せた。
 上方の豪商、坂東屋の番頭利兵衛と織田信長の重臣羽柴秀吉の家中、和久又兵衛である。二人は長旅の疲れか、顔が土色になっていた。不眠不休で駆け付けたと利兵衛がいった。た 坂東屋は伊達家御用達の商人である。何代も前から伊達家とは昵懇の付き合いがあり、この戦で使っている鉄砲は大半、坂東屋からの調達であった。
「本能寺の件、聞いておった、その後、いかがあいなったのか」
 小十郎が問うた。
「光秀は、わが主君羽柴秀吉が討ち果たしてござる」
 又兵衛が髭をなでた。
「信長公が亡くなられて、わずかに十三日後のことでござった」
 利兵衛が付け加えた。
ほど前でござる」
「やはりそうでござったか」
 小十郎がうなずいた。
「柴田勝家どのは、いかがされたのか」
 小十郎が又兵衛に聞いた。
「数歩遅れ申した、これで天下は秀吉のものでござる」
 又兵衛が、胸を張った。
 ー相馬との戦、早く決めねばなるまい。
 小十郎はきっとした表情になり、政宗を見つめた。
 このまますんなり秀吉の天下になるとも思えない。
 上方でいつ大戦争が起こるとも十分二あろう。その場合に備えて準備が必要だった。
 勘兵衛が呼ばれ、相馬の村々に至急、攻め入るよう小十郎が命じた。
 伊達にせよ相馬にせよ、困るのは村の焼き討ちだった。百姓が路頭に迷い、年貢もがた減りである。相馬と手を打つためには、あえて、禁断の実に手を付けるしかなかった。
 小斎勢は勝手知った山間に潜み、敵の侵入を止め、この間に足軽の源太が飛鳥のように相馬の集落を駆け巡り、女を奪い、火を放った。
 三日ほどして勘兵衛のもとに相馬から使者が訪れた。
「水に流そう」と男がいった。「わが方も同じだ」と勘兵衛がいった。これ以上の戦いは、お互いに傷が深くなるばかりだった。相馬も光秀の謀反を知っており、戦の終結を望んだ。 上方の方は賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破り、信長の後継者の座を手に入れ、奥羽に戦乱が及ぶことはなかった。。
 それから二年後の天正十二年五月、田村、石川、佐竹、岩城の四氏の調停によって伊達と相馬の和睦がなり、三年余に及ぶ戦闘がようやく終わった。
 調停の決め手は政宗の義父、田村清顕だった。清顕は相馬に入って盛胤、義胤と対面し、た。
「伊達と相馬は親族ではないか、宮内のことは怨恨である。やむを得ぬことだ」
 清顕は説得を続けた。金山、丸森が風前の灯ということもあり、さしもの義胤もしぶしぶ、二つの城の返還に応じ、佐藤宮内のことも含めて和議がなった。
「政宗公は、いい岳父を持たれた」
 盛胤がいった。
 父輝宗は政宗が自ら戦場に立って、陣頭指揮したことに満足した。自分にはない覇気があった。小十郎、藤五郎、左馬之助ら側近の統率も見事だった。加えて小十郎の非凡な才能も驚きだった。勘兵衛という勇者も現れた。
 輝宗は政宗に家督を譲る決断をした。

 小斎城で伊達勢の勝利の宴が開かれた。
 奪還した丸森城でという声もあったが、この長い戦を陰に陽に支えたのは小斎の侍と領民だった。
「宮内をはじめ、皆に苦労をかけた」
 輝宗と政宗が小斎城に家臣団を集め、これまでの苦労を慰労した。 
 この席で輝宗は突然、自分の隠退を表明した。
「もはや余の時代にあらず。家督は政宗に譲ることに致した、皆の者、政宗を支えてもらいたい」
 輝宗がいったとき、宴席は水をうったように静かになった。
 まだ輝宗は四十を過ぎたばかりである。
 政宗はまだ十八歳である。加えて北の方の義姫は、次男の竺丸を家督に推している。  重臣たちの脳裏に、そのことがよぎった。
 輝宗がそれを振り切って決断したことが嬉しかった。
「若君、おめでとうござる」
 小十郎がひれ伏した。
 その声とともに、満座から政宗の家督相続を祝う声が上がった。
 それを見つめる輝宗の表情には、「これでよい」という安堵の色があった。
 義姫に終始、押さえ付けられてきた輝宗だが、男としての決断を家臣の前に示した。
 政宗は家臣団注目のなかで、第一声を発した。
「父の意思を継ぎ、仙道を制覇致す」
 その凛然たる声に人々は度肝を抜かれた。仙道とは関東に続く奥州街道筋である。
 それは奥州の覇権を目指す宣言だった。
「おおう!」
 家臣たちは興奮に包まれて痛飲した。
 翌朝、政宗は小斎城主佐藤宮内の処遇について父輝宗と相談した。
「宮内に褒美を与えてはいかがでござろう」
 政宗が輝宗に尋ねた。政宗は過分の褒美を考えた。
 武将は信賞必罰でなければならない。政宗はそう考えた。今回の勝利は宮内の動きが決定的な要因だった。しかし難しい問題もあった。宮内の行為は相馬から見れば裏切りであり、利敵行為であった。そこに横たわる微妙な問題を懸念する声もあった。
「そのようなことは、取るにたらぬことだ」
 政宗は歯牙にもかけなかった。
 政宗は即決即断こそ武将のあるべき姿と考えた。若さゆえの気負いもあったが、立派な判断だった。
「小十郎、宮内をこれへ」
 政宗がいった。
「お屋形さまになられ、まことにおめでとうござる」
 宮内が挨拶した。
「そちのおかげである。そこで余はそちを大身に取り立てたい」
 政宗がいった。
 宮内は「ありがたきお言葉なれど、大身に取り立てていただけば、このこと相馬にも聞こえ、利欲のために主を替えたと陰口を叩かれましょう。それゆえ、大身は望みません。ご一門の列に加えていただければ、それで十分にございます」といって、断った。
「そうか」
 政宗はうなずき小十郎の顔を見た。
「それは立派な心掛けである」
 小十郎がいった。
 政宗は従来どおり小斎村一千貫文を宮内に下し、伊達一族に列し、縦三ツ引両の紋を賜った。この紋は伊達家の初代朝宗が頼朝に従って平泉攻めに加わったとき、頼朝から贈られた紋だった。
 一族は伊達家の格式の一つで、一門、一家、准一家、一族、宿老、着座、太刀上、召出に分かれており、その下に平士、組士、卒があった。一族は早い時期から伊達家に臣従した家柄で、とくに功績のあった武将に贈られた。
「ありがたき幸せにござる」
 宮内は平伏し、感涙にむせんだ。
 宮内の精神が代々佐藤家に伝えられ、佐藤家は明治維新までこの小斎を領地として石高はずっと一千貫文であった。石高に換算すると一千石である。
 末裔は全員、宮内の通称を継承した。
 
政宗にとって小斎での戦いは終生、忘れられないものとなった。
 ここ小斎で初恋も体験した。
 相手は小斎城にかいがいしく働く娘だった。容姿端麗、一際目立つ乙女で、政宗の身の回りをかいがいしく世話した。
「おおう、可愛い娘よのう」
 武将たちはいつも目を細めた。
 乙女は宮内の家中の娘で、「みつ」といった。
 政宗には三春から来た愛姫がいた。しかし、まだ花も蕾の少女であった。
 政宗ももう十八歳である。妙齢な美女が身の回りを世話してくれれば、愛が芽生えるというものだった。
 みつは、いつも笑顔をたやさなかった。
 色白で胸に膨らみがあり、ちらりと見える足首に色香があった。
 政宗の想いが、一気のふくらんだ。あるいは佐藤宮内の貢ぎ物かも知れなかった。
 ともあれ政宗は恋をした。
 みつが政宗の寝所から出てくるようになって、周囲は政宗の恋を知り、
「若君は目が高い」
 と皆が感心した。
「若君も男になり申した」
 と家臣たちはにやにやしながらも喜んだ。子供が出来てもそれはそれでよかったし、なによりも大人になったことが、嬉しかった。
 政宗はみつに夢中になった。
 最初、自分の目のことが気になった。
「おみつ、余は目が悪い」
 と政宗がいった。
「そのようなこと、みつはなんでもありません、とのさまのお役にたちたいのです」
 みつは、けなげにいった。
 政宗は嬉しかった。
 どうしても目のことが気になっていた。
 みつに励まされ、政宗は安堵した。
 愛姫とはまったく肌を合わせたことはなかったが、みつは同じ年なのでもう立派な大人であった。初めてみつの真っ白い裸体を見たとき、政宗は頭に血が上り、それだけで漏らした。
 この夜は顔を赤らめた政宗だったが、次の日はしっかりと、みつを抱き締め、男としての自信を得ることが出来た。
 それからは政宗は、みつを片時も離さなかった。
 小十郎は見ぬふりしていたが、政宗から告白された。
「みつが好きになった」
 政宗はてらいもなく小十郎に告げた。
「愛姫との間にはなにもないのだ。余はみつに夢中だ。米沢に連れて帰る」
「それはしかし」
 小十郎が口を挟むと、
「たとえそちが申しても、みつは離さぬ」
 政宗は強い口調でいった。小斎を引き上げるとき、政宗はみつを米沢に連れ帰った。
 みつは政宗にとって最初の女性であり、それだけに思い入れも深かった。

 



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