皆殺し小手森城 (一) 米沢城で政宗と小十郎は天下の状勢を慎重に分析した。その後の知らせによれば、清洲会議なるものがあり、秀吉は明智光秀との争いで倒れた信長の嫡男信忠の遺児三法子を後継者に立て、自分は黒幕になった。 「間違いなく秀吉の時代がまいろう」 小十郎はそう判断した。謀反人明智光秀の首をとった功績は、決定的といえた。 それにつれて世のなかが、どう動いてゆくのか。 小十郎は小斎の勘兵衛を仙道筋から関東に潜入させ、探査を命じていた。 勘兵衛には長年、戦場で生きてきた独特の勘があった。 出羽三山の修験僧も上方に送り出した。 勘兵衛は忍びをつれ、商人の姿で旅立った。修験僧は越後に向かい、上越から富山、能登と歩き、敦賀から都に入る長い旅である。 政宗は米沢の山塊を見つめながら、日々を過ごした。 小十郎は、信夫郡の大森城主を兼ね、しばしば峠を越えた仙道筋に向かったので、政宗は一人になる日も多かった。政宗は関東から戻った勘兵衛に日々、関東や越後の様子を聞いた。 「越後上杉の重臣、直江兼続という男、なかなかの評判でござる」 勘兵衛がいった。 「どのようにだ」 「直江は鉄砲の数寄者で、上杉には多くの砲術師を抱えておりまする。お屋形さまも砲術師をお集めくだされ。鉄砲が戦の勝敗を決めまする」 勘兵衛は政宗に鉄砲談義を進講した。 戦乱相次ぐ世であることは間違いなかった。 鉄砲をいち早く取り入れたのは、信長だった。く 政宗は即座に対応し、勘兵衛に砲術師を数多く探すよう命じた。 米沢の周辺諸国は小康状態を保っていたが、ここ奥羽でも戦いの危険はいつもあった。 米沢の北方には山形城主最上氏、加美郡中新田城主大崎氏、登米郡登米城主葛西氏、宮城郡岩切城主留守氏、同郡松森城主国分氏がいた。最上氏は政宗の伯父である。留守氏、国分氏は縁戚関係にあり、要警戒は大崎、葛西氏だけだった。 問題は南方である。 会津には芦名氏、安達郡二本松に畠山氏、同郡塩松に石橋氏、同郡小浜に大内氏、田村郡三春に田村氏、岩瀬郡須賀川に二階堂氏がいた。また常陸から佐竹氏が北上していた。田村氏は義父である。田村に楔を打ち込んでいたが、畠山は油断がならなかった。 天正十三年の正月、米沢城はひきも切らせず来客があった。 来客の一人に安達郡小浜城主大内定綱の姿があった。 現在の福島県二本松市の近郊、岩代町の城主である。 定綱は会津の芦名、常陸の佐竹に従属していた。 「今後はもっぱら伊達家に奉公を励みたい。ついては米沢に屋敷を賜り、妻子ともに移りたい」 と定綱がいった。 「喜んでお迎えいたす」 小十郎がいった。 願ってもないことだと政宗も喜んだ。 奥州道ぞいの小浜城が手に入れば、芦名、二階堂、畠山、石川、白河、佐竹の連合勢力に楔を打ち込み、三春の田村氏との連携も一段とたやすくなる。仙道制覇の道が開けるというものだ。藤五郎の工作が実り、政宗は大いに喜んだ。 政宗は米沢に屋敷を与えることを約束した。 定綱は米沢で越冬し妻子を呼び寄せるために一時、小浜に帰ったが、雪が消えても米沢に姿をみせなかった。 執政の遠藤基信が度々催促したが、なしのつぶてである。 「余をこけにしたとは許せない!」 政宗は激怒した。 裏切られた小十郎も怒り心頭だった。 「このままでは伊達の名が、廃れるばかり」 と叫んだ。 「憎きは芦名なり、芦名を攻める」 政宗は芦名攻めを決断した。 この時期、芦名は家中に問題をかかえていた。子がないまま盛興が死去して以来、混乱が続いていた。盛興のあとを二階堂家から入った盛隆が継いだ。しかし家臣団の反乱にあって殺された。 跡目争いは、いずこも血なまぐさいものだった。 ここに乗り出してきた男がいた。 豊臣秀吉である。 秀吉は芦名に首を突っ込み、盛隆の嫡男亀王丸を後継者に指名した。だが亀王丸はわずか二歳である。 「秀吉め、余計なことをしてくれる」 政宗はこのことも不快だった。 その亀王丸も三歳で他界し、家中は乱れに乱れている。 秀吉のあてがはずれたいま、芦名を攻める絶好の機会だった。 そもそも芦名とは何者か。 頼朝の平泉征服後、奥州は関東武士が支配するようになった。 最初に会津に入ったのは三浦一党の佐原十郎義連である。 三浦一族が北条氏に滅ぼされ、それに代わって台頭したのが芦名だった。 芦名直盛が会津に下向し、黒川に城を築き、周辺の豪族を押さえ、天文二十二年、芦名盛氏の時代には伊達と並ぶ奥羽の大名になった。双方で縁組し縁戚関係にもなった。 盛氏の時代は堅固だったが、盛氏の子盛興が田村清顕と戦って大敗し、土台骨がぐらついた。加えて亀王丸の死は決定的だった。 その跡をめぐって二つに割れた。 佐竹義重の次男義広を迎えんとする一派と、と政宗の実弟竺丸を迎えんとする集団が激しく対立した。曾祖父稙宗の妻は芦名盛高の娘である。祖父晴宗の母になる。だから竺丸も十分にありえた。 秀吉の意向もあったか、竺丸は外された。 「これで芦名の命運もつきたも同然」 と小十郎がいった。 伊達が芦名を討つ大義名分ができた。 竺丸を担がんとした一派は、いざとなれば、伊達に寝返るに違いない。 「うふふふ」 小十郎は含み笑いをした。 両雄並びたたずー。 もともと伊達と芦名は雌雄を決する運命にあった。 「疾きこと風のごとしだ」 小十郎の目が光った。これぞ孫子の兵法というわけだ。 父輝宗はすぐに反応した。 「芦名は強い、やめておけ」 と反対である。輝宗も何度か会津攻めを試みたが、その都度、檜原城主穴沢加賀に撃退されてきた。老臣も、ことごとく輝宗の肩をもった。 米沢から会津に攻め入るのは、磐梯山北麓の険阻な檜原峠を越えなければない。今日でも冬期間は通行止めになる難所である。 この峠に築かれた檜原城は絶壁に囲まれた鉄壁の守りで、正面から破ることは困難だった。背後の猪苗代には、これまたこの界わいの豪族、猪苗代盛国がいて、鉄壁の守りを敷いていた。 「小十郎、これは、彼を知り己を知れば、百戦殆からず、だな」 政宗がいった。孫子の言葉である。 「まことに、その通りでござる」 小十郎がニンマリとほほ笑んだ。どんなに強靭に見えても相手の内部に必ずなにかがあるはずだった。 小斎、丸森、金山の戦いでも相馬の名のある侍が何人も投降した。 相馬の主君には、包容力と気配りがなく、家臣団に不満が鬱積していた。宮内の反逆も父親の敵ばかりではなかった。小十郎は芦名の領土に攻め入る一方で、内部を攪乱するため家臣団に亀裂を起させる調略策をとることにした。 格好の男がいた。 左馬之助の家来の平田太郎右衛門である。この男、かつて会津浪人であった。小十郎は平田にいい含めて会津に送った。平田は旧知の会津北部の関柴城に内通を働きかけた。 関柴城主松本備中、弾正親子は、平田の勧めで伊達へ寝返りを約束した。関柴と米沢は古くから商人の交流があった。 幸先がよかった。 次は猪苗代の豪族猪苗代盛国である。 小十郎は出羽三山の修験僧元越を盛国のもとに送った。 会津の磐梯山や飯豊山にも修験僧がいた。元越はその人脈を頼って猪苗代盛国に会う段取りをつけたが、お家の事情もあり、そう簡単に結論は出なかった。 あとは、攻め込んで様子を見ることだ。 「お屋形さま、檜原峠にまいりましょうぞ」 小十郎は政宗を誘って、檜原峠に自ら馬を走らせた。 ここは重疊した山塊が、はてしなく続く天然の城塞であった。 昔、文太郎という山賊がいて、峠を通る旅人を襲い、金品を奪ったが、芦名盛高に討たれ、その後は芦名の家臣穴沢越中が砦を築き、伊達を睨んでいた。 「ここは難しい」 小十郎がつぶやいた。小十郎は檜原口から猪苗代を攻めると見せかけておいて、左馬之助を間道の関柴から侵入させた。 さすがに芦名である。必死の逆襲に出た。ここはあくまでも小手調べである。まともに戦うのをさけて撤退したが、峠を破られたことで、芦名は大いに狼狽した。 政宗はこれを機会に小十郎の進言にもとずき、家臣団の再編成をはかった。 父輝宗の取り巻きの一掃である。 老臣の筆頭は伯父の宮城郡利府高森城主留守政景である。 政景は祖父晴宗の三男である。 ついで石川郡石川城主石川昭光、晴宗の四男である。ついで晴宗の十男、仙台に城を構える国分盛重がいた。 いずれもうるさ型であった。これら老臣は、衆議を開いても、自分の身の安泰を願うばかりで、冒険もなければ挑戦もなかった。 新体制は小十郎が執政を務め、藤五郎、左馬之助が補佐し、ほかに茂庭良直、綱元親子、軍奉行の後藤信康、奉行の山岡重長、津田景康らで政事を進める大刷新であった。 小十郎が兼務していた仙道の玄関口、大森城主には藤五郎を配した。 「ありがたきしあわせ」 藤五郎は歓喜した。 それは突然のクーデターといえた。 もちろん、すべてが刷新されたわけではなかった。母が竺丸を溺愛し、重職の座を追われた老臣たちを抱き込み、巻き返しをもくろんでいた。 「誰であれ、陰謀は除かねばならぬ」 小十郎がつぶやいた。 (二) その頃、藤五郎のところで新たな動きがあった。藤五郎は配下に大内から奉公替えした侍を何人か抱えていた。そこから大内の家来、伊達郡飯野刈松田城主青木修理が伊達家に寝返るという話が持ち込まれた。 藤五郎はすぐに修理に会った。 「まことか」 「武士に二言はござらぬ」 修理がいった。 大内配下の城主は豪農や地侍から出た人が多かった。城といっても小斎城のように大きなものではなく、砦、あるいは館と呼ばれるものだった。 彼らは配下に、いくつかの小さな村落を抱え、百姓の暮らしを守ることで、領主の面目を保っていた。 領民の土地は狭く、暮らしは厳しかった。 百姓は暮らしが難しくなると、村を出ていった。その分だけ年貢が減った。 「昨今、ものいりも多く、容易ではござらぬ」 修理がいった。 疑心の輩ー 親類広き族ー と領主は陰で百姓のことを呼んでいた。 このため領主が、百姓の女房や子供を人質にとることもした。 修理は大内の力では伊達に勝てぬと判断した。そうなれば、いち早く伊達に寝返ることが、領民の暮らしを保証する道だった。 主人を替えることなど特に珍しいことではなかった。 奉公替えー といい、裏切りではなかった。領民を守り、自分も生きる術である。 藤五郎は米沢に使者を送り、このことを政宗に伝えた。 「ううむ」 政宗は一言、うなった。ここは大内を攻めるべきか。 政宗は呻吟した。 「芦名に打撃を与えることができる」 小十郎は賛成した。 「どのように戦うおつもりか」 小十郎が聞いた。それは政宗の決意を確かめるためだった。 「こたびは大内を皆殺しに致す」 政宗が肩をいからせた。 小十郎は驚き、まじまじと政宗を見つめた。 主君の成長に驚いた。 小十郎は戦国時代のあるべき主君像として信長を見つめてきた。そのことを絶えず主君政宗に伝えてきた。比叡山の焼き討ち、小谷城の浅井攻め、一向一揆との戦、信長はいつも相手を徹底的に叩きのめしてきた。それによって信長の権威が高まり、人々は恐れおののいてひれふした。 絶対に容赦はしなかった。 小十郎は政宗の成長を目のあたりにし、政宗の判断に確かなものを感じた。 「伊達家の棟梁は、それでいいのでごいざる」 小十郎は頭をさげた。 ついに政宗が起ったのだ。自らの意思で奥州に乗り出さんとする政宗の姿に、小十郎はおもわず涙ぐんだ。 小十郎には、もうひとつ感動の出来事があった。 それは小十郎が仙道方面を走りまわっていたときである。 政宗から一通の手紙がきた。 「そなたは誕生間近の我が子を殺すといっておるようだが。どうか、私に免じて助けてやってくれまいか。将来のことはおぼつかないのに、そなたのことをとやかくいうのは、おかしいが、私に任せて欲しい。もし子供を殺すようなことがあれば、そなたを恨みに思うぞ。どうか助けてやってくれ」 そこにはこうあった。 たしかに小十郎の妻は懐妊していた。しかし主君政宗には、まだ子供がいない。主君よりさきに子供をもうけては申し訳ない。小十郎はそう考え、子供を生まないよう妻に申し付けた。それがまわりまわって主君に耳に入り、このような手紙となったのだ。 「私に任せて欲しい」 という文体を見て小十郎は嬉しかった。やがて小十郎に目に涙が浮かんだ。 政宗は紛れもなく大輪の器である。小十郎は確信を抱いたのだった。 今度の戦闘は収穫前になりそうであった。 これまでの戦は農繁期を避けて来た。それが敵味方双方の暗黙の了解事項になっていた。 戦闘に加わる雑兵は百姓であった。百姓たちは、いざ鎌倉となれば、刀や槍をとって戦場に向かった。籠城戦の場合は、百姓たちも城に籠り、侍と一緒に戦った。 戦の動向は百姓次第であった。 その百姓を殺せば、影響は甚大だった。伊達家に不信を抱き、その後の政事に支障を来すこちは避けられなかった。そのためには短期決戦だった。。 「すべてを殺すのだ、鉄砲一万丁を用意致せ!」 政宗が凛然とした声でいいはなった。 目下のところ、領内の鉄砲は、いいところ五千丁である。これから買い揃えても数千丁であろうか。 「用意致しましょう、ただし、いささか時間が必要でござる」 と小十郎がいった。 小十郎はすぐ上方の坂東屋に勘兵衛を送り、鉄砲の調達を頼んだ。 閏八月になって、ようやく八千丁の鉄砲がそろった。 これだけの鉄砲を政宗がそろえたことに、奥州の大名は驚いた。 伊達家の地位は揺るぎないものになった。 八月の上旬、政宗は米沢から信夫郡の杉の目城に入った。 「仙道口は広いのう」 政宗は信夫郡と伊達郡の広々とした穀倉地帯を見やった。 米沢は山岳に囲まれた盆地だが、ここには果てしなく広がる大地があった。 本来、伊達家は福島県伊達郡が発祥の地である。しかし曾祖父稙宗と祖父晴宗の七年に及ぶ父子の争いがあり伊達郡は荒廃した。そこで晴宗は本拠地を伊達郡の桑折から米沢に移した。 その理由は山形の長井地方には紅花や青蔬など商品作物があり、最上川を下った酒田から日本海経由京都、上方に通じる利便もあった。 しかも仙道口は関東にもつながり、その魅力も十分にあった。 いつまでも米沢にくすぶっていては、時代に乗り遅れると政宗は思った。 信長や秀吉は山城の時代は終わったとし、信長は晩年、安土に宏壮な城を築き、秀吉は大坂に巨大な城を建てた。しかし奥州はまだ山城の時代であった。 仙道の豪族の多くは、福島と栃木県に横たわる阿武隈山系に城を築いていた。 猫の額のような水田に依存するため生産性は低かったが、外敵から身を守る上では有効だった。それを撃破し、関東に攻め入るのだ。 「これが天下人の第一歩でござるぞ」 小十郎がいった。 藤五郎に付き添われて刈松田城主青木修理が、杉の目城に出頭した。 「伊達家にご奉公でき、これにすぐる喜びはござらぬ」 修理はひれ伏した。 「そちの所領は政宗がすべて安堵致す」 政宗が約束した。 大内の居城小浜城は、いくつかの砦に囲まれていた。その最初の戦場は誰が見ても飯野刈松田であった。ここは信夫郡杉の目城とはそう離れておらず、あっという間に蹴散らされることは必定だった。 この男、なかなか小才が利くのう−。 政宗はそう思いながら、修理が差し出した大内の図面を広げた。 「さてどこから攻める」 政宗が聞いた。 「一気に小浜城を突くべきかと存じます」 修理がいった。 「小浜城か」 といって政宗は沈黙した。 「この戦、温情はなりませぬぞ」 小十郎が強い口調でいった。政宗の目に一瞬の迷いがあったが、それはすぐに消え、 「逃げはせぬ、立ち向かう、大内を殲滅いたす」 と政宗がいい切った。政宗巣立ちの戦いが、いままさに、始まろうとしていた。 (三) 大内は伊達の侵攻に備えて小浜城の周辺に、三つの城塞を築いていた。 西から築館、樵館、小手森城である。 政宗はこの戦いに岳父の田村清顕に協力を求めた。清顕が三春から出撃するためには、小手森城が邪魔になった。これを取り囲み、兵を城内に引きつける必要があった。 「清顕どのをお迎えせねばならぬ。そのためには、まず小手森を攻撃致する」 政宗が強い口調でいった。 清顕が三春城からここに向かうには、小手森城の全面を通らなければならない。 敵を小手森城に籠城させれば、通過は簡単だった。 「わかりました」 修理がひれ伏した。 小十郎はこの戦を政宗の天王山と考えた。 一万の軍勢に鉄砲数千丁を運び込んだのもそのためだった。 「まず攻めるのは小手森城、敵のくみした民百姓は老若男女の別なく撫で切りに致す」 政宗を通じて、そのことも周辺に知らしめた。 驚いた大内定綱は手勢を率いて小手森に入り、周辺の民百姓千前後を籠城させて、政宗を迎え討とうとした。小十郎の作戦は、すべてが図に当たった。 最大のものは政宗の自立だった。 岳父の清顕が大内の領内をまんまとすり抜けて阿武隈山系の蕨平に向かい、政宗と初めて顔を合わせた。 「おお、岳父どの」 政宗がひざまずいて清顕を迎えた。清顕は娘婿の見事な軍団に目を見張った。 「愛姫は元気か」 清顕が聞いた。 「米沢で吉報を待っております」 「そうか、勝たねばならぬのう」 清顕は満足そうにうなずいた。 小手森城は現在の安達郡東和町針道の愛宕森に広がる複雑な山城である。 二本松から阿武隈山系に、四里ほど入ったところにあった。 政宗は小手森城を見下ろす遠方の丘陵に本陣を構えた。 小手森城は起伏した丘が三方、四方に伸びており、いたるところに郭があった。 また坂をけずり取った断崖、土塁、空堀もあった。 城の周囲には根小屋と呼ぶ侍たちの住まいが並んでいた。 「根小屋を焼き払えッ、百姓とて容赦はするな」 政宗の怒声が飛んだ。 町人であれ百姓であれ、すべてを皆殺しにする信長流の戦術だった。 先鋒は藤五郎であった。 「命にかけて戦いまする」 藤五郎がひれ伏した。 藤五郎の陣営には戦闘に長けた小斎城主佐藤宮内がいた。勘兵衛は足軽鉄砲隊百を率い、城の東側に潜んだ。 小手森城の後方には芦名、畠山、二階堂、佐竹などの援軍が陣を張り、その数は数千に膨れ上がった。 父輝宗も兵を率いて駆け付けた。政宗の晴れ姿を自分の目で見たい思いと、心配で、いてもたってもいられない心境が重なり参戦した。 八月二十三日、 戦雲が阿武隈山系にたなびき、周辺の丘陵に幟が林立した。 田畑には百姓の姿はなく、不思議な静けさがあった。 突然、雷雲が広がり、バリバリと音を立てて雷が落ちた。 それは、この戦闘が前代未聞の戦いになる前触れであった。 翌早朝、東の空が明るくなった。朝靄のなかに赤い雲が見えた。 陽が上り始めたその瞬間、戦いの火蓋が切って落された。 「ぐわん」 伊達勢の大筒が一斉に火を吹き、砲声が殷々と針道の山野に響き渡った。赤い炎が小手森城に着弾し、あちこちに火の手があがった。 根小屋にも火が放たれ、村落の民家が燃え上がった。百姓たちは城に動員されていたので、どこもも抜けの空だった。 残っていた何人かの老婆が、 「あああ」 と悲鳴を上げ、よろけながら裏山を目指して逃げた。 そこに容赦なく鉄砲が放たれ、老婆は道端に吹き飛んだ。 城に籠った百姓たちへのみせしめだった。 小手森城を守るのは大内の家臣小形源兵衛、石橋勘解由、小野主水、荒井半内らである。 定綱も前日、この城に入った。文字どおり背水の陣だった。 大筒の砲撃が終わると、勘兵衛の鉄砲隊が東側から横筋違いに撃ち掛け、丘陵の砦に迫った。たまりかねて敵兵が砦から飛び出し、双方が鉄砲を撃ち合った。 「いまだ、槍隊、前え!」 佐藤宮内が大喝した。いつも先鋒が小斎勢である。 「やああ」 小斎勢が突撃した。 戦争巧者である。勘兵衛がガンガン撃って突撃を援護した。 勘兵衛の気迫に押され、敵は散乱し、藤五郎の兵が二の丸まで侵入し、敵兵百を討ち取る大戦果をあげた。 味方にもかなりの怪我人が出たが、それは覚悟のうえだった。 生首が城の周辺に吊された。 城内から悲鳴が漏れ、動揺している様子が前線基地まで伝わって来た。 「してやったり」 政宗は初戦の大戦果に喜んだ。 夜、大内勢は夜襲を掛けてきた。伊達の戦闘小屋に火をかけられ、何人かが殺された。 (四) 戦いは一進一退だった。大内勢も士気は高く、依然として城は落ちなかった。 八月二十六日、政宗は自ら陣頭指揮し、三千丁の鉄砲を並べて城に撃ち掛けた。 雨、霰の銃撃であった。すると大内の家臣石川勘解由が城門を出てきた。 「城を引き渡し、小浜に引き上げたい」 勘解由が申し出た。 「ならぬ!」 政宗が顔を真っ赤にして怒鳴った。 「そのような勝手なことは聞けぬ」 政宗は怒りを爆発させ、一気につぶせと藤五郎に総攻撃を命じた。 藤五郎が山に入って枯れ木を集め、砦の周辺に積み上げた。 「火を掛けよ!」 藤五郎が大喝した。藤五郎の兵が積み上げた枯れ木に、次々と火をつけた。 この日は強い風が吹いていた。 火は風にあおられ、轟々と音を立てて城に迫った。 やがて火は猛烈な勢いで城の建物や小屋に燃え移った。黒煙が空まで届き、火の勢いはますばかりである。 「一人残らず討ちとるべし」 政宗は前線基地に次々に命令を出した。 ここで徹底的に勝利しなければ、やられるという危機意識があった。 「いざ殲滅せん」 本陣に控えた小十郎も、きっと前方を睨んだ。 小十郎が総攻撃と判断した。 「参るぞ!」 小十郎が、残る三千の兵を率いて飛び出し、城内に突入した。 城内は大混乱に陥っていた。 初めは溜め池の水で消火に当たっていたが、小屋という小屋に火が燃え移り、手がつけられなくなっていた。 「助けてくれ!」 百姓たちは騒ぎだし、我れ先に城を抜け出した。 「容赦致すな!、すべて討ち取れッ」 小十郎と藤五郎は容赦せず鉄砲隊に発砲を命じた。 二の丸の入り口まで攻め込んだ勘兵衛の鉄砲隊は、激しい勢いで鉄砲を撃ち続けた。百姓たちは驚いて城に逃げ戻った。だが城内は火の海である。 兵は軍装をかなぐり捨て、刀も槍の弓も鉄砲も捨てて、百姓の着物を奪い取って、堰を切ったように、城から脱出を始めた。 中には伊達勢の包囲網をかいくぐり、脱出した者もいたが、大半は鉄砲で撃ち殺され、いたるところにおり重なって倒れた。 勘兵衛の鉄砲隊は、勇猛を極めた。二の丸から本丸にまで突入し、抵抗する大内勢を追い詰めた。 午の刻に始まった総攻撃は申の刻には伊達軍の完全勝利に終わた。 大内勢は八百人の死者を残し、残りは勝手知った間道を通り、ほうほうの体で小浜城に逃げ帰った。小手森城の後方には大内の本隊、畠山、二階堂、芦名、佐竹らの応援部隊が控えていた。彼らもここぞと逃れる兵を追撃した。 大内勢は全滅といってよかった。 藤五郎と宮内は残党狩りを行い、敵兵は見つけ次第、槍で突き殺した。 この日の夕刻、政宗はまだ燃え続ける小手森城を見て回った。 城内は見る影もなく焼け落ちていた。 「大内の首は一人残らず、晒すのだッ」 政宗は鬼となって将兵を叱咤激励した。 八百余の首が、あるいは樹木に吊され、あるいは竹矢来に吊され、道端に並べられた。 鬼気迫る恐ろしい光景だった。 政宗はこの模様を周辺諸国の広げんと、領民を動員して見物させた。 敵も死に物狂いだったので、味方にも多くの死傷者がでた。 その数は三百にも達し、大内勢も必死に戦ったことを示していた。 「戦死者は手厚く葬るべし」 小十郎が将兵に命じ、付近の寺に収容した怪我人を政宗とともに慰問し、奮戦ぶりを称えた。 政宗は怪我人には最大の配慮をした。見舞いの金子を渡し言葉をかけ、伊達の棟梁としての役割を見事に果たした。人を率いる天性の才能があった。 伊達勢のなかで、もっとも犠牲が多かったのは、小斎の佐藤宮内の兵だった。 伊達家では新参者である。必死に働くしかなかった。 三百人ほど連れてきた兵のうち、三十人ほどの行方が分らなくなっていた。勘兵衛の報告に佐藤宮内が顔をゆがめた。よくいえば奉公替え、悪くいえば寝返った佐藤家である。伊達家のために死を決して戦うしかなかった。 勘兵衛は部下たちと山野を捜し回った。 「親方、仁作が胸を割られて死んだ」 足軽の五兵衛が真っ青な顔で飛んできた。 場所は北西の大手の辺りの草むらだった。 目をえぐり取られ、左手も切り落とされ、見るも無残な姿だった。 仁作は鉄砲の名手だった。敵の陣中深く入り込み、不覚にも囚われたのだろう。 勘兵衛は首を小斎に運ぶよう部下に命じた。 五頭の馬に菰にくるんだいくつもの首がくくり付けられ、小斎に戻っていった。 仁作には年老いた親と女房子供がいた。その嘆き悲しむ姿が目に浮かんだ。勘兵衛はおもわず落涙した。 ここから小浜城に向かう道筋に、伊達勢の兵士の斬殺死体がいくつも樹木に吊されていた。手足のない者、睾丸を切り取られた者、衣服を剥ぎ取られた婦女子の無残な屍もあった。婦女子はいつも戦の犠牲者だった。 百姓たちが盗まれないようにと、牛馬を城に運び込んだので、何百頭もの牛馬が焼け死んだ。どこもかしこも無残だった。 政宗が城内を見回った。 「頑張ってくれた」 政宗が宮内や勘兵衛のところで足をとめた。 累々と横たわる死骸を目の当たりにして、政宗も思わず目をそむけた。 野山に遺体が散乱し、夏なので早くも悪臭を放ち、野犬や烏が骸を食いちぎっていた。「くくく」 政宗は、一人になると、身をよじって泣き崩れた。 政宗も人の子であった。 Copyright© 2024 Ryouichi Hoshi. 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