戦う政宗第6回



 (一)
 戦闘のあと政宗は伯父の最上義光に手紙を書いた。
「鉄砲八千丁でもって攻め、定綱の身内五百余人を討ち取り、犬まで撫斬りにし、合わせて千百余人を斬殺した。小手森城のほか四つの砦も落城し、大内は小浜城だけになった」 政宗は得意げに戦果を誇示した。
 撫で斬りは八百人とされているので、実際よりは誇張されてはいたが、政宗の面目躍如たるものがあった。
 八百人の撫で斬りは周辺の百姓たちを震え上がらせた。
「政宗は恐ろしい男だ」
 と義光が重臣たちにつぶやいた。
 大内定綱は領内の百姓から見放され、重臣の塩松玄蕃、小島二休斎、小島丹波らは定綱を見捨てて政宗に寝返り、定綱は芦名を頼って会津に逃亡した。
 もはや一文無しであった。
 かくて九月中旬には、小浜城はも抜けの空で政宗の手に落ちた。
 政宗は兵を率いて小浜城に入った。
 ここは安達郡を眼下に見下ろす古い城郭であった。
 本丸、二の丸、三の丸があり、本丸の南に大手門があった。本丸の周辺は石垣で覆われ、母屋や長屋が建ち並び、東西南北に見張りの櫓があった。
 ここは通称下館といい、近くに上館と称する宮森城があった。
 父輝宗はこの宮森城に入った。心配で任せられないという心境であったろう。
 政宗にとっては煩わしいことだった。老臣がなにかと口を挟むからである。
「親心でござろうが、いつまでも親はおりませぬ、すべてはお屋形さまのご采配で」
 小十郎がいった。
 政宗は小十郎、藤五郎とともに本丸にのぼった。青い空が果てしなく広がり、鷹が上空を舞っていた。
「皆、よく戦ってくれた」
 政宗がいった。
 その顔は数段、逞しくなっていた。
 今回の撫で斬りは、すべての人を驚愕させた。
 二十歳そこそこの政宗が、八百人とも千人ともいう大量の大内勢を惨殺したのである。このようなことは奥羽では前代未聞のことであり、伊達の若大将は、なにをするか分からないという恐怖感を周辺に与えた。
 信長を彷彿とさせる破天荒の出来事であった。
「畠山とて容赦はせぬ、一人も討ち漏らすな」
 政宗がいった。
 信長のやり方をすべからく踏襲する。自分は信長のやり方でゆくのだ。
 そう決めると政宗に迷いはなかった。
 信長は比叡山を囲み、三千人の男女の首を刎ねた。
 浅井長政を攻めたとき、目の前に山のように生首を積み上げ、満足げな表情で家臣たちに褒美を与えた。さらに浅井久政、長政親子、朝倉義景の三人の髑髏を薄濃にして酒盛りをした。それから長島の一向一揆では、一向宗徒をことごとく焼き殺し、反逆した荒木村重一族をことごとく虐殺した。自分の留守中に出かけたという理由だけで、召使の女たちを打ち首にした。すべて異常とも思える残虐行為だったが、その背景には、自分を絶対視させることで、天下布武を達成せんとする信長の計算があった。
「畠山め、八つ裂きにしてくれるわ」
 左馬之助も語気荒く叫んだ。
「うむ」
 小十郎がうなずいた。
 小浜城の前方を流れる阿武隈川を渡河すれば、畠山の二本松城である。
 兵の士気も高まっており、畠山など一気呵成に攻略せんと意欲を燃やした。

 二本松城主畠山義継は天正二年以来、伊達家に従属して来た。
 今回、裏切り行為に及び、大内を支援した。
 奥州布武からいえば畠山も早晩、叩きつぶさねばならなかった。
 恐れをなした畠山義継は宮森城の輝宗のところに出頭した。
 政宗ではなく輝宗というところが、義継の奇策だった。
 以前、輝宗が相馬と戦ったとき、義継が兵五百を送ってくれたことがある。
「なにとぞ和議を結びたい」
 義継は輝宗に頭を下げた。
「政宗は、わしのいうことはきかぬ」
 輝宗が苦しい表情でいった。輝宗は、こうした和議で決着をつけて来た。結果としてそれが裏目になり、領土は減り、伊達家の威厳は地に墜ちた。
 なめられたのだ。
「もともと、わしは戦は好まぬ。こたびの政宗はやり過ぎだ」
 一度は断った輝宗だったが、期待を持たせるようなことをいった。
「ぜひ、執り成しをいただきたい」
 義継はもう一度、はいつくばった。
「ただではすまぬが、政宗にかけあってみよう」
 人のいい輝宗は、きっぱり拒絶できずに、義継に温情で接した。
 輝宗は小浜城に向かった。
「輝宗公がみえられてござる」
 と小姓が政宗に伝えた。
 何事かと政宗は思った。早く米沢に戻ってもらいたいと思っていた矢先だった。
「政宗、相談があってな」
 輝宗が気忙しげな表情でいった。かたわらには執政の遠藤基信がいた。
「何事でござろうか」
 小十郎がいった。
「実は畠山義継、和議を申し出た」
 と輝宗がいった。
「和議でござるか、しかし」
 小十郎は不服げな顔をした。
「狸めが、企みおったな」
 藤五郎が毒づいた。
「たとえ父上のお話でも、それは出来かねる」
 政宗がいった。
「むろん領地は削る。二本松領のうち、杉田川以南と油井川以北の地は没収し、二本松周辺の五ヵ村だけを与えるということでどうじゃ」
 輝宗が絵図を広げた。それを見た小十郎がいった。       
「それでは、痛くもかゆくもないでござろう」
 小十郎は憮然とした顔である。
「父上、拙者は奥州布武でござれば」
 政宗がことわった。
「ならばそのことを伝えよう」
 輝宗がいった。輝宗は義継に降伏を迫った。
「領地半分の没収で許してもらいたい」
 と義継は手をついて哀願したが、政宗は一切を認めない以上、戦うか、降伏しかなかった。結局、義継は降伏すると申し出た。こうなると、政宗も呑まざるを得ない。
 やられたという思いがした。

 (二)
 十月の八日、義継は高林内膳、鹿子田和泉、大槻中務らを従えて宮森城に姿をみせた。 輝宗に降伏の挨拶だった。
「以後、伊達家の家臣としてお仕え致す。よろしくお願いしたい」
 義継は低姿勢だった。
 この日、降伏の席に立ち合ったのは、輝宗の実弟留守政景と執政の遠藤基信、政宗の腹心伊達藤五郎だった。
 藤五郎はこの男の横柄な態度が、最初から気にいらなかった。
 ぎょろりと人を睨み、家臣になってやるという態度である。
 内心、不愉快だった。この野郎と思った。
 この男は油断がならないので、大内と同じように徹底的に攻撃すべしと思ったが、輝宗公の裁定なので、やむを得ずここに座った。
「どうも気乗りがせぬ、すべては、そちに任す、おかしなことをしたら首をとるのだ」
 政宗はそういい、この日は小十郎と鷹狩りに出かけた。
 この辺りは山鳥、兎などの獲物がいた。
「畠山義継、こずるい男だ」
 狩り場に着いたとき小十郎がいった。
「あまりいうな」
 政宗も浮かぬ顔である。二本松城を火の海にして、義継を血祭りにあげるはずが、違った結果になり、腹だたしいことおびただしい。だから義継の顔など見たくもなかった。
 藤五郎を出したので、なにかあった場合、へまをすることはあるまいが、じっとしていても落ち着かなかった。
 小十郎は昨夜、義継に一泡ふかせるべく、政宗に黙ってひと芝居打っていた。小浜の商人をつかまえて耳打ちした。
「わが方には、暴れ者が多くてな。義継を殺すと騒いでいる。困ったもんだ」
 そういって商人を見やった。
「内緒のはなしだ」
 驚く商人に、小十郎はたたみかけた。
 商人は噂話が大好きだ、黙っていることは出来まい。それが義継の耳に入ったとき、畠山勢はどう出るか、小十郎はにやりとした。
 藤五郎にも「油断いたすな」とだめを押した。
 この日は安達太良山からときおり冷たい風が吹き、汗ばんだ体には壮快であった。政宗と小十郎は、なぜか獲物にありつけなかった。
 政宗はいらだっていた。
 万一、変事があった場合のことを考えて政宗は、勘兵衛の鉄砲足軽を宮森城の周辺に配していた。
 この日、政宗はどこかうわの空で、鷹狩りに熱中できずにいた。
 時刻は未の刻を過ぎていた。日差しがかげるのは早い。風が一段と冷たくなった。
 この頃、義継の表敬訪問がようやく終わった。               
 義継が伊達家への忠節を誓い、輝宗は上機嫌だった。
「これにて失礼致す」
 義継が席を立った。
「お送りいたそう」
 輝宗がいい、玄関まで送る途中、異変が起こった。
 家臣が義継に耳打ちした次の瞬間、義継の顔色が変わった。
 突然、義継が輝宗をはがいじめにした。
「なにを致す!」
 輝宗が叫んだ。
「手を離せ!」
 藤五郎が怒鳴った。
「騒ぐな!」
 義継は脇差しを抜いて、輝宗の首にあてた。
「大殿、あわわわわ」
 執政の基信は慌てふためいて、手をばたつかせた。
 義継の家来二十人ほどが抜刀して、輝宗を囲んだ。
「騙されぬぞッ」
 義継は必死の形相で叫んだ。
「騙すなど、そのようなことを伊達家がするはずもない」
 基信が手をあげてとどめるが、義継は聞かない。あとで分かったことだが、この日、小浜の町で、刀磨きが「今日、義継が来たら、この刀で試し切りに致そう」と戯言をいった。 刀磨きに吹き込んだのは件の商人だった。
 この話が回り回って、畠山の重臣に伝わった。
 実態のない噂話が一人歩きしたのである。小十郎の言葉は重かった。
 輝宗は引きずられるようにして玄関から、城門の方に引き出された。
「お屋形さまに知らせよッ」
 藤五郎がうろたえた。何人かが厩に駆け込み、馬に鞭をくれるや、鷹狩の場に駆けた。 まったく予想だにしない出来事だった。このまま大殿を拉致されては、大殿の立場はなくなる。前代未聞の不祥事だった。
 藤五郎も唖然茫然、なすべきことが浮かばず、ただただ手に汗をかき、
「止めろ、戻せ、手を離せ」 
 と叫ぶだけであった。
 輝宗はどんどん引きずられて、阿武隈川の方向に連れられて行った。
 城門で警戒に当たっていた勘兵衛の鉄砲足軽も動転した。
「撃つぞ、離せ!」
 勘兵衛は鉄砲を向けたが、輝宗が取り巻かれている以上、どうにもならない。
 あわてふためいて追いかけるのが、精一杯だった。
 行くこと二里、阿武隈河畔の高田原に至った。
 政宗の姿はまだない。対岸は二本松である。川を渡られては、もう手の施しようがない。後を追ってきた何百という伊達の軍勢は、空しく見つめるほかはなかった。
 義継は輝宗を舟に乗せようとした。
「撃つぞ、やめろ!」
 基信が絶叫した。
 そのときである。
「速やかに義継を撃ち殺せッ、我をおもんばかって伊達家に恥を残すな、さあ撃て!」  輝宗が毅然たる声で叫んだ。しかし撃つことは出来ない。勘兵衛は焦った。このままでは埒があかない。
 義継は強引に輝宗を舟に乗せようとした。脇差しの刃が輝宗の首の辺りに触れた。
「躊躇致すなッ。これは余の命令であるぞ」
 輝宗は声をふり絞った。もう一刻の猶予もなかった。
 撃つしかない。藤五郎も思った。
「大殿ッ、ご免、撃てッ」
 基信が命令を下した。
「撃つのだッ」
 政景も叫んだ。
 その瞬間、勘兵衛の銃弾が義継の兜を貫通した。畠山の兵が輝宗を斬り付けた。
 鉄砲隊は畠山勢に乱射した。三十人ほどが折りかさなって倒れた。
 河原は真っ赤な血で染まり、そこには輝宗の死体もあった。
「大殿!」
 基信と政景が輝宗に抱き付き、号泣した。

 (三)
 政宗のところに向かった使者は、政宗を探し出すのに骨を折った。
 何人もが手分けして山野を駆け巡ったが、見つからない。
 やっと政宗を見つけた時は、夕刻になっていた。ただちに狼煙が上げられ、政宗が見つかったことが小浜城に知らされた。
「なにッ」
 政宗は父輝宗が拉致されたと聞いたとき、朝から政宗を襲っていた不安が的中したことを知った。あの胸騒ぎはこれだったのか、と戦慄した。
 顔が見る見る青ざめていくのが分かった。
 事件が起こってから、もう二刻は過ぎている。父はもう二本松に連れ去られたに違いない。
「義継め、殺してやる」
 小十郎が政宗を見た。
「もはや間にあうまい」
 政宗は阿武隈川の方角を睨むや馬に鞭をくれた。政宗が阿武隈の河原に着いたとき、まさに陽が沈まんとしていた。
 阿武隈川の流れに夕日が輝き、幻想的であった。
 政宗の姿を見るや、藤五郎が走り出た。
「お屋形さま、腹を斬ってお詫び申し上げる」
 藤五郎は脇差しを抜いた。
「馬鹿やろう」
 小十郎の鉄拳が藤五郎の顔に炸裂した。
「それどころではあるまい。義継を殺せッ」
 と怒鳴った。
 政宗は輝宗の遺体にひざまずいた。
 高田原には伊達勢、数百人が戦闘配置に付いていた。
 輝宗の遺体は白い布に包まれ、横たわっていた。
 政宗は輝宗に抱き付いて泣きわめいた。
「あああ、許してくれ、政宗が付いていれば、このようなことはなかったのに」
 政宗は輝宗を抱き締めて離さなかった。
「まことに申し訳ない。腹を斬ってお詫びを申し上げる」
 基信が切腹せんとするのを家臣たちが止めた。
 政宗は苦々しい思いで基信を見た。この男、父の忠臣ではあるが母の北の方にも通じ、竺丸の擁立を計っているとの噂もあった。
 腹を斬る勇気もないくせにと政宗は腹だたしかった。
 藤五郎が爆発寸前の政宗を見て進み出た。
「お屋形さま、成実一生の不覚でござった。思いっきり殴ってくだされ」
 顔を政宗の前に突き出した。
 政宗は憤怒の形相になった。
「そちが付いていてなぜ父上を死なせた!」
 政宗は藤五郎の胸倉をつかまえ、頬を殴った。
 二度、三度、政宗は激しく殴った。それから声をあげて泣いた。
「わあ、わあ」
 と男泣きに泣いた。
 政宗は母親の愛情が薄かった。一身に愛情を注いでくれたのは父輝宗だった。
 その最愛の父が無惨にも殺されたのだ。
 そのすさまじい泣き方に、重臣たちは政宗が父輝宗に抱いてきた情愛の深さを感じ、胸が締め付けられた。
 やがてやおら立ち上がった政宗は刀を抜くや、義継の遺体を斬り付けた。
「ちくしょう、ちくしょう」
 政宗は義継の死体をなますのように切り裂いた。
 ドス黒い血が飛び散り、政宗に付いた。
 政宗は鬼になっていた。
 義継の遺体はずたずたに斬り刻まれ、手足が飛び散った。
 それは異様な光景だった。
「お屋形さま、もういいでござろう」
 小十郎が政宗を後ろから抱き抱えた。
「これらの者どもを晒せッ、晒すのだッ」
 政宗が怒鳴った。
 その顔には激しい憎悪と敵意があった。
 ずたずたに斬られた義継の遺体は、縫い合わせて小浜の町頭、小川の端に磔られた。
「明日、即刻、畠山を攻める、すべてを殺すのだッ」
 政宗はいまにも飛びださん勢いだった。
「それはなりませぬぞ」
 小十郎が諭した。
「まず大殿の初七日を済ませ、米沢に埋葬なさることでござる」
 小十郎がいった。
 政宗はこの言葉で我に返った。
 翌九日未明、政宗は輝宗の遺骸とともに高田原から小浜城に戻った。
 政宗は仮通夜を行い、それから信夫郡佐原村の寿徳寺に輝宗の遺骸を運び、米沢から虎哉宗乙和尚が見え、虎哉和尚を導師として荼毘に付した。
 政宗は父の遺体が火炎に包まれ、その煙が天高く上ってゆくのを見つめた。
 母東の方と目は合わせたが、言葉は交わさなかった。異常な親子の関係だった。
 政宗は父の遺骨を灰のなかから拾い集めた。
 愛しくて、愛しくて堪らなかった。
 泣いても泣いてもまた涙が流れ、その都度、畠山を皆殺しにせんと決意した。
 遺骨を現在の山形県高畠町、出羽夏刈の資福寺に運び、丁重に葬った。
「そなたは今後、自分の責任ですべてを取り仕切っていくのだ」
 虎哉和尚が政宗を諭した。
 もう甘えは許されなかった。
 政宗は虎哉和尚の言葉を噛み締め、伊達家を隆盛にせんことを父の霊に誓った。  父輝宗の葬儀を取り仕切った政宗は、一段と逞しさをました。
「頼もしくなられた」
 小十郎も目を細めた。 

 あとは輝宗の弔い合戦であった。
「畠山を殺す」
 政宗は唇をかみしめた。
 畠山勢は義継の遺児国王丸十二歳を擁して籠城の態勢を固めた。
 指揮を執るのは義継の従弟新城弾正である。
「この城は難攻不落だ、芦名も佐竹も兵を出す。政宗とて攻めきれまい」
 と豪語していた。
 佐竹義重は常陸太田に本拠地をおき、関東を荒らしまわる豪族である。芦名に次男を送り込み、佐竹、芦名、畠山同盟を結成した。先祖は源義家の弟新羅三郎義光である。
 後三年の役ののち常陸に入り、この地に領土を広げていった。秀吉にも脈を通じ、芦名を助ける形で白河から奥州に攻める魂胆を見せており、その出鼻をくじかねばならなかった。
「いまに見ておれ」
 小十郎がいった。
「どうするのだ」
「水戸の江戸氏に攪乱を頼むことでござろうか」
「余もそう思う」
 政宗がうなずいた。
「すぐ人をおくりますぞ」
 小十郎が行動を開始した。
 佐竹が気を使うのは水戸の江戸だった。佐竹の後ろ盾は秀吉だが、江戸は小田原の北条と組み、佐竹をにらんでいた。江戸と佐竹はいわば犬猿の仲だった。
 この世は複雑に入り組み、対立の構図があった。それを読んで適格に行動しないと、怪我をした。
「北条氏にも使者を送りましょうぞ」
「それがよい」
 政宗は小十郎のすばやい動きに安堵した。奥州布武を掲げる政宗にとって、関東の佐竹は、相容れない敵であった。
 小十郎は修験僧の元越を水戸に送り出した。
 元越が帰ったのは半月後だった。
「佐竹は二本松に援軍を送るべく、準備をととのえてござる」
 元越がいった。畠山のいうことに間違いはなかった。
「江戸はどうだ」
「神官どもに、伊達は芦名を必ず破る。芦名に荷担した佐竹もほふると触れ回りました」「佐竹を攻めよと伝えたであろうな」
「そこはぬかりなく伝えてござる。佐竹が兵を出せば、常陸はがら空きになる。そこを攻めれば、常陸は江戸の領土になると」
「それでよい」
 小十郎が大きくうなずいた。
「佐竹を誘いだすために、畠山を攻めねばならぬ」
 小十郎は戦いの準備に入った。
 輝宗の初七日が済んだ十月十五日、政宗は阿武隈川を渡河し、一万三千の軍勢で二本松城を取り囲んだ。しかし、畠山勢は寂として声なしで、まったく戦おうとしなかった。
 援軍を待って戦う算段である。
「ええい、鉄砲を放て!」 
 政宗は三千丁の鉄砲を並べて銃撃したが、この城は小手森城よりははるかに高い山頂にあり、本丸には弾が届かず、いかんともしがたかった。
 季節は新暦に換算するともう十一月中旬である。
 十六日には初雪が降り、戦は困難であった。
「ここは小浜城に兵を引くべし」 
 の声があったが、
「それはならぬ」
 小十郎は撤兵を認めなかった。小十郎には佐竹が必ず姿を見せるという読みがあった。 それは出兵の準備中という元越の報告によってであった。
 政宗と小十郎は小浜城で、小雪が舞う安達太良山を見つめた。
 武将は戦うことで自分を表現した。生きるか死ぬか、ぎりぎりのところで、しのぎを削るのだ。死ぬこともある。それが戦国の習いであった。
「来るであろうか」
「間違いござらぬ」
「そうか」
 政宗は大きく息をすった。心の奥に恐怖があった。伊達がつぶれることもあるのだ。死にもの狂いに戦うしかなかった。
 山の頂上には、うっすらと白いものがあった。山の向こうは会津であり、そこは芦名の領土であった。春になればそこに攻め込むのだ。政宗は全身に震えを覚えた。

 芦名が仙道口に出てきたのは、中興の祖、芦名盛氏の時代である。
 家臣団の中核は越後街道を抑える金上氏、会津盆地の北に本拠地を構える針生氏、四天王といわれる松本、富田、佐瀬、平田の四氏である。ほかに猪苗代の猪苗代氏、奥会津の山内氏、長沼氏、河原田氏らであった。猪苗代はすでに伊達に鞍替えしているが、以前、手強い相手であることに変わりはなかった。
「佐竹、二階堂、白河、相馬、皆、動き出しましたぞ」
 白河方面に出ていた勘兵衛が、息せき切って駆け付けた。
「参ったか」
 政宗は左の目を見開いて、関東の方角を見やった。
 いよいよ決戦のとき来たるであった。
 
 (四)
「敵兵力は、ざっと三万でござる」
 勘兵衛がいった。伊達勢はせいぜい八千であった。
「多いな」
 政宗がいった。
 兵の数は季節によって、あるいは豊作、凶作などの収穫の状況によって異なった。政宗の軍は村に依存していた。兵は普段、百姓仕事についており、いざ戦となると、槍を抱えて参戦した。村の有力者には弓、槍、鉄砲が支給されていた。一般の百姓は村の有力者に所属していた。
 小十郎や藤五郎らの有力側近が領主になったのも、年貢と兵を獲得するためだった。
 小十郎直属の手勢は鉄砲三百挺、弓百張り、槍二百五十本、馬上六十騎、徒士三百六十人手廻りの者百人、小荷駄六十、その他合わせ千五百であった。
 藤五郎は鉄砲二百挺、弓五十張り、槍百五十本、馬上七十騎、徒士四百二十人、その他百、小荷駄七十の合計千二百の兵員だった。
 これは政宗の軍団のなかでは、際立って多い数字であった。これは政宗が二つの軍団に支えられていることを示した。
 政宗と小十郎の関係は、あくまでも主従の線を越えるものではなかった。
 二十歳を過ぎてからの政宗は、肝心なことを自分で決済した。
 尊敬する信長が桶狭間で、今川義元を討ち取ったときの年は二十七歳である。
 この年齢がひとつの目安だった。そこまでに奥州の覇者になる。それが政宗の密かな決意であった。
 政宗は慎重に戦闘配置を決めた。
 政宗の立場はまだ盤石とはいえなかった。一族の老臣たちは政宗の突出と小十郎や藤五郎の台頭を極端に警戒しており、政宗が失態を犯せば、ただちに弟小次郎の擁立を謀らんとしていた。
 それを防ぐのは勝つことであり、家臣団を一つの目標に向かって走らせることだった。 政宗は図面を広げ、老臣桑折宗長、伊東重信が安積郡高倉城を固め、一族の瀬上信康、中島宗求を安達郡本宮城に配した。白石宗実は安達郡の玉井城、藤五郎は手勢一千を率いて、その後方に布陣した。
 小斎城主佐藤宮内は勘兵衛の鉄砲足軽とともに、郡山方面に出動した。足軽の源太も一緒である。
「敵の略奪、乱暴を防ぐべし」
 宮内には小十郎から特別の指令が出ていた。
 これは特殊な仕事だった。
 戦場は略奪、暴行、生け捕り、何でもあった。
 常陸太田から遠征してくる佐竹の軍には、当然のことながら悪質な雑兵が大勢混じっているはずだった。この悪党どもは牛馬を盗み、女をさらい、人を見れば叩き殺し、身ぐるみ剥いで持ち帰る強盗の集団だった。
 下々の百姓を悪党から守るのは、伊達の棟梁としては当然のことだった。
 宮内は命をかけて、すべてに取り組まねばならない。それが奉公替えの宿命だった。宮内は命令どおり街道筋の集落に潜んだ。
 仙道口の軍馬がいななき、旗差し物が街道にはためき、甲冑を着た武者が沿道を埋めた。 百姓、町民は山の奥に逃れた。だが戦がすめば、百姓はたちまち盗賊に早変わりし、槍、鎧兜、なんでも手当たり次第に盗んで売り飛ばすのが、彼らの常套手段だった。
 政宗は兵四千に鉄砲三百を備えて、高倉と本宮の中間にある観音山に陣どった。
 前回の小手森城の戦いでは、八千挺の鉄砲をそろえた。しかし今回は芦名が檜原口を越えて米沢に攻め入ることも想定して、兵力の分散をはかったので、鉄砲の数は全軍で二千だった。
 政宗の本陣には小十郎を筆頭に、亘理元宗、国分盛重、留守政景らが詰めた。元宗は亘理郡亘理城主、盛重は政宗の伯父である。後に謀反の嫌疑を受け、佐竹について秋田に落ちのびる。政景も政宗の伯父、輝宗の最期を見取った。
 一族を結集しての背水の陣だった。ここで敗れれば、伊達家は間違いなく崩壊する。
 各陣営とも、緊迫した空気があった。
「なにが佐竹じゃ」
 一人の老人が政宗の陣営にいた。
 鬼庭左月である。
 槍の名手で、鎧は着用せず、捨て身で戦う覚悟であった。
 十一月十七日、三万の敵軍勢が怒濤のごとく阿武隈川の支流、瀬戸川の川岸に攻め込んだ。佐竹の本隊はまっしぐらに政宗の本陣に向かってきた。
 佐竹の精鋭は政宗を倒さんと、槍隊が穂先をそろえ、今まさに突撃せんとしたときに、元宗が川原に馬を進め、
「拙者、伊達の一族、亘理元宗、佐竹の大将、出会えッ」
 と大喝した。突然のことであった。どうなるのか、一瞬の緊迫が周囲を包んだ。
 佐竹側から一人の武将が出てきた。それは絵を見るような光景だった。
「拙者、勇士岡田兵部、岡田兵部ッ」
 と名乗り、お互い騎馬での槍の突き合いになった。
 決着がつかないと見るや、元宗は兵部の馬を刺し、兵部が落馬するや、自らも馬を降り、一騎討ちとなった。両軍の兵士が固唾を呑んで見つめるなか、二人は上になり下になり、最期は元宗が脇差しで兵部の首を貫き、仕留めた。
「わああ」
 元宗は拳を突き上げた。
 伊達勢は喚声をあげて敵に向かって突進した。政宗も観音山を下りて鉄砲隊をそろえて応戦したが、鉄砲の数が足りず、人取橋の周辺で双方入り乱れての大乱戦となった。このとき、鬼庭左月が飛び出し、敵兵を突きまくった。
「左月を助けよ!」
 政宗も槍をふるって突進した。
 政宗はたちまち敵の標的になり、甲冑に数発の弾丸を受け、危機一髪の戦いになった。「お屋形さまを守れッ」
 小十郎は武蔵坊弁慶のように、政宗の盾となって戦った。
 これを見て伊達勢は老臣と若手が互いに助け合って奮い立ち、敵を押し戻した。
 藤五郎も決死の奮戦で持ち場を守った。
 この時期は日没が早く、寒さが募ったため双方、夕刻にはそれぞれ後方に退き、決戦は翌日に持ち越された。
 敵の異変に最初に気づいたのは小斎の勘兵衛だった。
 小斎勢は本宮近郊に潜入し、敵が宿舎となった寺院や集落の周辺に潜み、待ち伏せをかけたが、寺や民家に寄る気配もなく、佐竹勢は慌ただしく帰国していくではないか。
 江戸が常陸太田に攻め込んだに違いない。
 小十郎の作戦がまんまと当ったのだ。勘兵衛は小躍りした。
「源太、追いかけて痛め付けてやれッ」
 勘兵衛が怒鳴った。
「合点でござる」
 銀色の兜をかぶった足軽の源太が敵を追った。
 道端の荒屋から女の悲鳴が聞こえた。
「てごめにしやがったな」
 源太は槍を構えて荒屋に飛び込んだ。目の前の光景は無残なものだった。数人の男が若い娘を裸にして、輪姦していた。
「野郎ッ」
 源太は飛鳥のように飛び込み、驚いて立ち上がった一人の兵を突き殺し、逃げようとしたもう一人も後ろから突き刺した。源太の足軽勢も怒り狂い、逃げ遅れた二人を殴り倒し、裸にして木に縛り付けた。
「一人残らず、殺せッ」
 源太が叫んだ。
「わああ」
 足軽たちは、敵兵の手を切り落とし、鼻を削ぎ、耳を削いだ。
 娘は顔を殴られ、気絶した状態だった。むき出した下半身は血にまみれている。
「みちゃいれらねえ」
 源太が剥ぎとられた着物を娘にかけた。戦はいつも娘たちにひどい犠牲を強いた。逃げ遅れたための犠牲だった。源太自身もしばしば加害者になり、人のことばかりはいえなかったが、目の前でこの残虐行為を見ると、むしょうに腹がたった。
 源太は野獣と化した。
 敵の小荷駄を襲い、人夫を叩き斬り、馬ごと鉄砲や武具を奪い取った。後で売り飛ばすのだ。これが足軽たちの稼ぎだった。 
「ひょう」
 源太は奪った馬にまたがり、逃げる佐竹を追い詰めては殺した。
 勘兵衛は敵の雑兵を取り押さえ、縛り上げて地べたにころがしていた。
 尋問するためだった。
「やい、てめえら、何で逃げるッ」
 蹴飛ばした。
「しらねえ」
 男達は悲鳴を上げた。
「吐かねえなら殺す」
 一人を木に吊し、槍を突き出すと、皆、あわてて口を開いた。江戸の一族が攻め込む動きに出たと飛脚が伝えたといった。
 それだけではなかった。軍師の佐竹義政が前夜、下僕に殺されたことも白状した。これも江戸がからんだ反乱と佐竹勢は怖じ気づき、われ先に駆け出した。
「ざまあみやがれ」
 勘兵衛がほくそ笑んだ。翌日の朝、戦場に佐竹の兵はいなかった。
 芦名の援軍も夜のうちに山を越え、会津に戻っていった。
 政宗は小十郎の用意周到な作戦に助けられた。
 これで二本松城の陥落は必至となった。
 天正十四年を小浜城で迎えた政宗は、畠山の重臣箕輪玄蕃、氏家新兵衛、遊佐丹波を奉公替えさせ、これらの配下の侍二千人も伊達に就いた。畠山は裸の大名だった。
 小十郎はさらなる外交を展開した。
 越後の上杉景勝に書を送り、友好をむすぶことを求め、小田原の北条氏にも贈り物を送り、秀吉を牽制した。
 芦名や佐竹を使って伊達を滅ぼさんとする秀吉に敵対した。
 この年七月、二本松城主畠山国王丸は城に火を放って、会津の芦名のもとに逃亡した。 一年余にわたる畠山との戦いは政宗の勝利となった。
 政宗は小十郎を残し、満一年ぶりに米沢に帰った。
 これを機に家臣の論功行賞も行ない、二本松城には藤五郎が入り、小十郎が大森城主になった。この戦、伊達の記録では、敵の首九百六十一をあげ、味方の損害は三百八十余人とある。佐竹の記録では伊達の討死千、手負い二千とある。ともあれ一日の戦闘としては激しいものだった。

 (五)
 米沢での日々は、おだやかなものだった。
 政宗にようやくゆとりが生じ、近習をつれて野山を散策して過ごした。
 多分に小十郎と藤五郎が不在のせいもあった。
 老臣たちは、政宗の動きに恐れをなし、本丸に近づかなかった。
「政宗が棟梁では伊達家は危うい。いずれ怨霊に呪い殺される」
「まったくじゃ、竺丸君ならお家安泰じゃ」
「小十郎も藤五郎も自分の立身出世しか考えておらぬ」
「ああ、伊達家は滅びる」
 老臣たちは集まっては愚痴をこぼし、亡き輝宗の時代を懐かしんだ。
「腰抜けめが」
 政宗は歯牙にもかけなかったが、それがまた老臣の疎外感を一層深くした。
 小十郎と藤五郎は城代に指図し、ひととおり領地を見回れば、米沢に帰国することになっていた。政宗にとっては、ほんのつかの間の静寂だった。
 この間、みつが、かいがいしく政宗に仕え、政宗は、好きな女と過ごす幸せを感じた。小十郎が愛姫との不和を心配したが、男と女のことは如何ともしがたかった。
 そろそろ鷹狩りの季節であった。鷹といえば、父輝宗の実弟、伯父の宮城郡利府城主留守政景が、素晴らしい鷹を持っていると自慢していた。
 凄い鷹らしい。その鷹がほしいものだ。狩りが大好きな政宗は胸の高鳴りを押さえきれず、伯父に手紙を書き、使者に持たせた。
「仙道も静かになり、伯父上も心がやすらかでござろう。今年は鴈が沢山参り、近年にない豊猟でござる。昨日、今年初めて野に出て、鴈を四羽、捕りもうした。それにつけても伯父上の大鷹、この秋、貸してもらえないだろうか。羽根など生えそろっていなくても結構である。使者を遣わすので、なんとか頼む、頼む、頼む」
 政宗は手紙を出してニンマリした。
 伯父も老臣たちに愚痴をこぼされ、動揺している様子である。ときには甘えることも大事だと政宗は考えた。
 政景は上機嫌で大鷹を政宗に譲ってくれた。
 政宗は置賜の大地を走り回り、鷹猟に興じた。しかし、それは周辺の大名を安堵させるための偽装工作に過ぎなかった。
 油断がならないのが、伯父の最上義光だった。
 母東の方の本心は弟竺丸の擁立である。
 出羽との国境の置賜郡鮎貝城主、鮎貝宗信を巻き込み、攪乱を狙っていた。
「宗信に気をつけるべし」
 小十郎はこの男を嫌った。

 天正十五年の正月を政宗は米沢城で迎えた。
 連日、猛吹雪だった。
 三日に合戦になぞらえた狩りがあり、四日から伊達、信夫、伊具、亘理、刈田、柴田など各地から一家、一族の大身が年賀の挨拶に訪れた。
 弓稽古初め、連歌、政事初め、能の乱舞、般若心経の読経、護摩供など幾多の行事が行われた。
 政宗が仙道口を占領したことは、奥羽や出羽の大名に恐怖感を与えた。
 伯父最上義光もその一人だった。
 この年十月十四日、鮎貝宗信の父、宗重から「息子が謀反を起した」と通報があった。 宗重は米沢城下に住んでおり、息子の宗信は国境に在城していた。鮎貝家は出羽長井地方の古い豪族で、もともと伊達の侵攻に不満があった。 
 義光に唆のかされて蜂起したが、いざとなると義光は援軍を送らず、宗信は孤立した。「このような反乱は許さぬ、全員撫斬りに致すッ」
 政宗は声高らかに宣言し、兵を率いて鮎貝城に向かった。
 政宗の攻撃は苛烈を極めた。城を取り巻いて鉄砲を撃ち掛け、枯れ木を積み上げて火を放ち、煙にいぶされて出てくる鮎貝の兵は女子供も含めて全員を殺した。
 その数八百人、領内始まって以来の大虐殺だった。
 政宗は鬼気せまる表情え、自ら刀を抜き、捕らえた敵の首を刎ねた。
 そう数多く斬れるものではなかった。
「これ以上はよろしかろう」
 小十郎が止めた。
 斬り取った首はうずたかく積み上げ、それを村人に見せた。
「ひやあ」
 百姓たちは悲鳴をあげ、顔をおおった。
 村の中に嗚咽が広がった。これは見せしめだった。
 このときの政宗は悪魔に見えた。人々は政宗に恐れおののき、政宗が姿を現すと地べたにはいつくばった。悪魔とは悪者ではない。途方もない力をもった神に近い存在を意味した。
 戦う場所が日本の辺境ではあったが、政宗は、まぎれもなく信長の再来であった。この戦いに駆り出された人々は、武将から小荷駄の雑役夫にいたるまで、政宗に逆らうとどうなるかをこの目で見て、戦慄した。
 政宗自身、まぎれもなく信長の心境でいた。信長の家臣荒木村重一族の皆殺しを脳裏に浮かべていた。村重は各地を隠れ歩いたが、結局、見つかり、一族三十余人は六条河原で斬られ、婦女子百二十余人は磔になった。妾や僕従五百余人は焼き殺された。
 人を殺すことも奥州布武のために、避けては通れないのだ。
 夕刻になっても城主の姿はなかった。
「宗信はまだか!」
 政宗はひきつった表情で叫んだ。
「はあ」
 家臣たちは血眼になって宗信を探したが、宗信の姿はなかった。百姓に扮してひそかに最上のもとに脱出したに違いなかった。
「逃げおったか」
 政宗はこめかみの辺りをピクピクさせ、深く息を吸った。いらだっている様子がありありと伺えた。
「誰であれ、謀反を起した者は、一族郎党殺す」
 政宗はうめいた。
 小十郎は、宗信が逃げたことに、内心、ほっとしていた。
 宗重をなますのように斬り裂いては、やり過ぎの感を免れない。そう思い、この問題の一日も早い沈静化を願った。



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