戦う政宗第7回

摺上原

 (一)
「芦名を攻める」
 米沢城の鷹屋で政宗がいった。
 政宗は戦う男になっていた。頭にあるのは戦だった。
 鷹屋は当主の書院で、小十郎は一日に何回もここに顔を見せた。
 芦名を滅ぼせば、佐竹も二度と攻めてはこないだろう。政宗が目指す奥州布武の鍵は芦名を倒すことにあった。この年三月、佐竹の次男、義広が正式に芦名家を継ぎ、会津に入ったことで、戦いの大義名分が出来た。
 これは政宗に対するあからさまな挑戦状だった。
「許せぬ」
 政宗の顔が次第に紅潮した。
「勝たねばなりませぬ」
 小十郎がうなずいた。
 芦名の重臣猪苗代盛国がすでに寝返りを約束している。芦名との戦が始まれば、盛国は伊達の先鋒となって会津黒川城に突進する。絶対に勝てるはずであった。しかし、戦が長引いて秀吉が乗り出してきたらどうなるのか。秀吉は日本国王を自認している。どんなことにも異議を唱えることが出来る。それを考えると、今回も重大な決断を伴うものだった。伊達家の老臣は、そこを心配した。
 天下人に逆らってはならぬー。
 留守政景ら老臣たちは声高らかに、芦名攻めに反対した。
「うるさい輩だ、秀吉がどうした。ここは我らの国なのだ」
 政宗が声を荒げた。 
「短期決戦、一日で芦名をほふる。そのためには、敵の動きを知ることが先決でござる」 小十郎がいった。
「分っておる、そちがいい出すからには、よき案があるのだろうな」
「はい」
「はやくもうせ」
「草調べ、名づけて黒脛巾を放ちます」
「忍者か」
「商人、山伏、行者に扮して諸国を歩き、密事を聞き出し、相手を調略することも行う。脛に黒い脛巾を付けさせる、それが目印でござる」
「うむ、面白い、早速、諸国に向かわせるべし」
 政宗が小十郎の策にのった。敵の内部を知り、作戦を立てれば、必ず勝機がある。そのことは、これまでの戦が証明していた。
 戦国時代は忍者が全盛期であった。
 真田の真田忍者、北条氏の風魔党、武田の透破、上杉の担猿、家康の伊賀、甲賀忍者などである。
「すべては内密でなければならぬ。誰を任ずるのか」
「信夫郡鳥谷野城主阿部安定にござる」
「一度、つれて参れ」
 政宗がいった。
 一族の老臣たちは、外の世界を知らなすぎた。相手の使者の話を鵜のみにし、ものごとを判断した。それでは相手の様子など分るはずもなかった。政宗はそうした古いやり方を極度に嫌った。 
 米沢というせまい領土に安住してどうするのか。政宗は慎重論の老臣にいやけが差した。 阿部安定は口の重い男だった。
 髭が濃く、年の頃は三十代の半ばであった。
 鉄砲、弓、手裏剣、水練に長じ、そういえば小十郎の手勢のなかにいた男であった。
「敵に囚われたときは、死ぬしかないぞ。その覚悟ありや」
 政宗はきっと男を見つめた。
「当然でござる。いつでも命を捨てまする」
「ならば参るがよい。芦名を倒したとき、秀吉はどうでるか。それも調べよ」
「ははあ」
 安定がひれ伏した。

 小十郎との密議が一段落すると、政宗は城を出て侍屋敷に向かうのが常だった。小十郎の屋敷や近習の屋敷を順番にまわる。
「外を歩かぬと、この城はせまくて息がつまる」
 政宗はよくこぼした。
 城は東に最上川の支流が流れ、西と北は堀に囲まれ、そこに東館、西館、本丸の三つの建物があった。本丸は大手門、北、南、西の門があり、周囲は水堀と芝生を張った土塁で囲まれていた。
 普段の政宗は気さくであった。
 出歩くのが好きで、家臣の家で双六、将棋、連歌を楽しみ、食事をし、酒を飲み、馬を走らせ、鷹狩りまでした。
 二十代の前半という若さゆえでもあった。
 近習の家では一切、戦の話はしなかった。


   (二)
 天正十六年は相次ぐ戦乱で、政宗は席が暖まる暇はなかった。
 旧小浜城主の大内定綱が芦名に背いて伊達家に寝返ると伝えてきた。
 政宗と定綱には、いわく因縁があった。かつてこの男、安達郡小浜城主であり、政宗が伊達家を継いだとき、米沢に姿を見せ、伊達家の家臣になると申し出た。ところが一時、帰国したまま二度と姿を見せず、芦名と手を組んだ。
「憎き定綱め」
 あのとき政宗は烈火のごとく怒った。定綱は四十に近く、政宗とは二十ほどの差があった。弱輩の政宗を嫌って芦名を選んだが、芦名に奉公して見ると、ひどく冷遇され、知行、給米ももらえなかった。
 餓死に及ぶ体ー。
 という奴である。
 困った定綱は藤五郎に泣き付いた。なにをいまさらだったが、藤五郎から相談を受けた小十郎は使い道があると判断した。芦名憎しを逆手にとるのだ。定綱は勇猛な男であり、実弟の片平親綱と組めば、領民との間の信頼関係を取り戻せ、強力な軍団を編成することも夢ではなかった。安達郡と安積郡を押さえる上で定綱は役だつと判断した。
 小十郎は藤五郎と詰めの作業を行った。
「留守政景どのら、お偉方は、知ってのとおり芦名攻めには反対だ。この際、反対する手合いからは兵は求めぬ。猪苗代盛国と大内定綱を加え、我々だけで攻撃する」
「ええッ」
 藤五郎が目を丸くした。
「それでは、少なくはござらぬか」
「佐藤宮内ほか、あと二、三が加わる」
「しかし、それでも」
「なにをいうか。信長公を見よ、義元を攻めんと飛び出したとき、引き連れた兵は二、三百に過ぎなかった。大将が飛び出せば、人はついてくる」
「そういうものでござるか」
「そうだ」
 小十郎が断言した。
 がたがた文句をいう奴は外すという小十郎の決断は、大きな賭でもあった。負けたら政宗の立場が危うい。しかし勝ったら、もう誰も文句はいえない。
 政事を小十郎が仕切ることになる。
 それは政宗体制の完全な確立を意味した。
 すでに政宗は父輝宗の時代を遥かに越えていた。撫で斬りで周辺の大名に脅威を与え、政宗の名前は奥州に鳴り響いた。
 芦名を倒せば、もはや向かうところ敵無しであった。

 藤五郎から相談を受けて以来、小十郎は何度も定綱に会った。
「お屋形さまは、器が大きい。働けば十分な処遇があろう」
 と何度目かのときにいい、定綱を連れて米沢城に出向いた。
 頃は四月の半ばであった。
 政宗も度量の広い人物であった。事前に伝えていたこともあり、過去は過去として水に流す器量があった。
 政宗は定綱が芦名に対して激しい怒りを抱いているのを見て、
「うむ」
 とうなずいた。人間の反発心は、ときとして岩をも砕く強さがある。
 相馬家の重臣、佐藤宮内がそうであり、定綱もまた芦名攻めには絶対に欠かせない男になると政宗は確信した。
 人は生かして使はねばならぬ。
「政宗は以後、そちを夢にも疑うことはせぬ」
 政宗は誓紙を定綱に手渡した。生涯、家臣として定綱を扱うという誓約書に、定綱は涙した。政宗の器量が見事に示された場面だった。
 定綱も政宗に惚れた。目の前の政宗は、威風堂々たる武将であった。
 全身に自信が漲ぎっていた。
「ありがたき幸せ」
 定綱は床にひれ伏した。
 これで芦名を倒せると政宗は思った。
 政宗はここに至っても絶えず勝利に悩まされてきた。
 目である。
 雨の日、雲がかかった日、とにかく見えにくかった。もし両眼とも正常であれば、どれほどのびやかな日々が過ごせたか。いつもその事が頭を離れず夜、悶々として眠れぬこともあった。その劣等感を取り除いてくれたのが、小手森城の戦いだった。
 あのとき、隻眼のことなど、まったく頭に浮かばなかった。敵兵一人一人がよく見えた。それは集中力のなせる技だった。

 政宗は一人になると、よく地図を広げた。
 父の時代、現在の地名でいうと、伊達の領土は山形県の米沢地区と宮城県の県南、福島県の県北だけだった。山形県の中心部には最上氏、宮城県北から岩手県南には大崎氏と葛西氏、福島県の会津に芦名氏、仙道口に当たる福島県の二本松周辺には畠山氏、大内氏、同じ福島県の浜通りに相馬氏、岩城氏、関東に佐竹氏という勢力地図だった。
 政宗が家督を継ぐや福島県の中通りに侵攻し、宮城県南はすべて押さえ、伯父最上義光が動いてくれたこともあって、宮城県北の大崎氏がこの年、政宗に服属した。これで北の憂いもなくなった。
 今回、芦名、佐竹の連合軍に勝利すれば、山形県の米沢地区と宮城県の全域、福島県の中通りの大半と会津を完全に支配することになる。これは奥羽布武の大きな第一歩であり、白河以北の南東北を完全に掌握、岩手県から青森県に進めば、奥州王も夢にあらずだった。 隻眼の悩みも脱却できるに違いない。その確信があった。
 秀吉といえども箱根の嶮から東は白紙であった。小田原の北条氏が秀吉に敵対しており、どうなるか予断は許さなかった。願わくば北条氏が踏ん張り、秀吉の侵攻を止めてくれれば、奥州はすべて政宗の領国になろう。
 やるー。
 政宗は野望に胸をふくらませた。
 気になることといえば、秀吉に破竹の勢いがあることだった。節目節目に使者を送り、黄金や馬を贈ることも忘れなかった。その辺りは、抜け目がなかった。

 (三)
 定綱の変心を知った芦名は怒った。
 芦名は佐竹に援軍を依頼し、仙道口に兵を進め、安積郡郡山で伊達勢と戦闘になった。現在の福島県郡山市である。芦名、佐竹の軍勢は三万を数え、政宗は郡山付近の山王山に土塁を築き、小競り合いを続けた。これは南奥羽の覇権をかけた戦いであった。
 大軍を集めた芦名だが、会津の玄関口に城を構える猪苗代盛国の動きに不審な点があり、絶えず後方が気になった。
 佐竹はいざとなれば戻ればよい。だが芦名には戻る場所はなかった。
 そこで芦名は相馬にも手を回した。
 相馬義胤はすぐに乗り、小斎城や丸森城を攻撃してきた。
 伊達の老臣たちには効果覿面だった。
「芦名どころではないぞ。まずは相馬だ」

 と色めきたち、輝宗以来の有力家臣団は、芦名攻めに反対した。
「彼らの手は借りぬ、なあに、一気に黒川城をほふってご覧にいれましょう」
 小十郎は目を輝かせた。
 勝てる戦略があった。
 芦名の主力は郡山の周辺にいる。この隙をついて檜原峠と仙道口の両面から会津に突入する。芦名が会津に戻るには、盛国の領地を避け、間道を通らねばならない。時間もかかろう。盛国の寝返りで、もはや芦名は袋の鼠ではないか。
 小十郎は勝利を確信した。
 政宗の生涯を決める戦は、刻々と迫っていた。

 政宗はこの春に落馬して足の骨にひびが入り、体調がいま一つ、不安があった。このため数日、温泉で療養し、体力の回復を待って四月二十二日、米沢を出陣した。
 板谷に一泊し、二十三日に小十郎が待つ大森城に入った。
「お屋形さま」
 みつが笑みを浮かべて出迎えた。
 みつは大森城に居を移していた。政宗は頻繁に大森城に出かけてくるので、みつは、ここの方が気がねなく過ごすことが出来た。
 大森は現在の福島市である。
 ここから小斎までは、そう遠い距離ではなく、小斎城主の宮内や軍師の勘兵衛もよく姿を見せるので、自然と小斎の話になり、みつは幸せだった。
 ここには黒脛巾の杢兵衛、左近、隼人、陣内らもよく出入りしていた。
 陣内は勘兵衛の実弟である。勘兵衛兄弟は政宗と小十郎の側近として、活躍しており、みつにとってはそのことは自慢だった。
 芦名義広は猪苗代盛国の謀反には、まったく気づかない様子だった。義広はまだ十五歳と若く、加えて芦名の重臣にまとまりがないため、生家の佐竹に頼りきっていた。杢兵衛らの報告は微に入り、細に渡り、芦名の弱点を小十郎に報告していた。
 戦は必勝の策で臨まなければ、すべてを失うのだ。戦ほど恐ろしいものはない。それにしてもである。
 どこから見ても芦名は弱かった。
「お屋形さま、岩城常隆、相馬義胤、蠅のような連中が、うろちょろしてまする」
 小十郎がいった。
 戦の匂いをかぐと、戦場を右往左往する奴や、戦況によってどちらに就くか、決める輩などが大勢集まった。
 この時代、戦は飯の種だった。
「信長公のお気持ちが分るというものだ。蠅を始末しなければ、いつまでたっても戦だ。余は皆始末して、首を晒してやる、今度という今度は芦名の首をとるッ」
 政宗は小十郎にいった。
 先鋒は大内定綱と決めていたが、神出鬼没に動くのが、小斎勢の宮内と勘兵衛である。「みつ、宮内に酒を振る舞ってやれ」
 政宗がいった。
 政宗が虎視眈々と芦名の本拠、黒川城を狙っているというのに、芦名の当主義広は郡山にほど近い須賀川城にいた。ここは二階堂の居城である。実際は佐竹の出城といってよかった。政宗は陽動作戦に出た。芦名に油断させるために大森城から相馬領に向かい、二つの出城を落として、初めて海に入って泳いだ。                  
「宮内、海というものは、でっかいものよのう。驚いた、驚いた」
 政宗はうち寄せる波とまるで子供のように戯れた。
 この頃、小十郎は猪苗代の盛国のもとに人を遣わし、芦名攻撃を告げた。同時に原田左馬之助に、檜原口からの突入を命じた。
 大森城に政宗が入ったとき、すべての準備は整っていた。
 仙道口から猪苗代に入るには、いくつかの城を突破しなければならなかった。
 五月四日、政宗は郡山から猪苗代に入る道筋の安積郡安子ヶ島城を攻め取り、さらに安達郡高玉城を攻めた。小さな要害だと思っていたが、女、童を含めて三百人ほど籠城していた。
「容赦は致すなッ」
 政宗の罵声が飛んだ。
 伊達勢は城を囲み、煙であぶり出し、出てくる者どもをことごとく引っ捉え、心を鬼にして、斬りまくった。戦利品は山と積み上げられ、褒美として首級をあげた者に与えた。分捕った赤い着物を羽織って歩く奇妙な若者もいた。
 若い娘は奪い合いとなり、それで殺傷事件が起こった。戦場の醜い裏面である。
 二つの城を血祭りにあげた政宗は、全軍を国境ぞいに展開させた。
 政宗の戦略は、磐梯山麓に広がる摺上原に芦名の軍勢を誘い込むことだった。
 聖なる山、磐梯山の麓で雌雄を決するのだ。周辺の地形も徹底的に調べあげ、決戦に備えた。
 芦名の軍勢は約一万数千と推定された。これを上回る大軍を編成した。
 先鋒猪苗代盛国二千
 二陣片倉小十郎三千
 三陣伊達藤五郎五千
 四陣白石宗実
 五陣政宗の本隊一万
 六番浜田景隆二千
 左手大内定綱千
 右手片平親綱千
 の総計二万四千余の大軍である。
 すべて政宗に命を預けた軍団である。
 実はこの大軍の中身が問題だった。大半は普段、百姓仕事の雑兵である。金目当ての人夫も大勢いた。こやつらの狙いは敵からの略奪である。勝てば戦場に金めのものがごろごろ落ちており、それを担いで帰ることが出来た。戦は出稼ぎの一種でもあった。
 困るのは、必要以上の略奪だった。
 黒川城と城下町に手を付けることは厳禁だった。政宗は米沢から黒川に居を移す考えであり、そのためには城下はそのままにしておかねばならなかった。
「火を放った者は首を刎ねる」
 政宗は厳命を下した。
 迷いに迷ったのが、磐梯山恵日寺の扱いだった。磐梯山麓にはかつて会津の権威を象徴した恵日寺があった。
 高僧徳一の開基とされる大寺院で、かつて堂塔伽藍百を越え、子院坊舎三千八百、僧兵六千、寺領十八万石といわれ、事実上の会津の支配者だった。しかし時代とともにに衰退し、もはや以前の面影は薄れていた。
 政宗は出羽で育っただけに山岳に対して特別の思いがあった。出羽三山は神々の世界であり、政宗自身修験僧と深いつながりがあった。磐梯山も会津の神の山であった。そこに広がる寺院は聖なるものであった。
「残さねばならぬ」
 と政宗がいった。信長が焼き討ちした比叡山は、暴れ者の僧兵がいて信長に反旗を翻したが、いまそういう力はない。それを焼いては政宗の権威が逆に失墜しよう。それは師である虎哉宗乙の意向でもあった。
「しかし伊達の力を示すためには、これを焼き払うことが肝要と存じる」
 藤五郎は不満げだった。
「芦名がここに立て籠るかもしれぬ。そのときは焼き討ちするしかない」
 小十郎が政宗を見つめた。
「それはやむをえぬ」
 政宗がいい、藤五郎が「分りました」と答えた。
 政宗が行動を開始したのは六月一日である。
 小十郎と藤五郎が猪苗代に兵を進め、檜原口から左馬之助率いる三千の軍勢が会津の北方、喜多方を目指して進撃した。
 この辺りから天気が崩れた。
 視界が利かず、敵の動向を探索するよりも自分の動きをするのが、精一杯だった。
 これが伊達勢に有利に働き、芦名に察知されることなく、大軍を動かすことが出来た。どの兵も決死の表情だった。それらの軍勢は二日ほど前に摺上原に布陣し、柵を作り、敵の騎馬隊の侵入を防ぐ手立てをとった。また小十郎に命じて盛国の嫡男を人質に取らせ、万全の策で臨んだ。
 準備が整ったと聞いた政宗は、近習十七騎を率いて四日夕刻、石筵から中山峠を越えて猪苗代に入った。芦名勢の姿はどこにもない。悠々たる猪苗代入りだった。芦名義広もこの日の夕刻、須賀川から猪苗代湖の南に抜け、会津黒川城に戻った。 
 運命の対決は、目前に迫った。
 この夜、政宗は始めて猪苗代盛国に会った。盛国は神経を高ぶらせ、顔面は蒼白だった。嫡男が芦名の軍勢に名をつらねている。親として気にならないといえば嘘であろう。
 つらい決断であることは、その表情にあらわれていた。
「奮戦を期待いたしておる」
 政宗がいった。
 先鋒の使命は重大だった。破られれば、一気に芦名に弾みがつく。佐藤宮内と同じように盛国もまた新参者であり、石にかじりついても勝たねばならなかった。
 勝利することでしか、伊達家に忠誠を示す道はない。
 その間も黒脛巾組の間者たちが、次々と芦名の様子を伝えた。
 間者の任務は敵の様子を探索するだけではなかった。
 黒川の町に潜入し、政宗がいかに強いかを流布することも重要な役目だった。
 刃向かった者は一族郎党、ことごとく虐殺するのが普通だったが、降伏した者には温情で接することも告げた。

 芦名の軍勢は動き始めた。
 猪苗代城はひっきりなしに伝令が飛び込み、刻々と芦名の動きを伝えた。周辺の女たちもことごとく動員され、炊き出しに大わらわである。
 最終的な陣形は小十郎が決済し、すでに兵の配置をおえていた。
 猪苗代城の前方にある小高い八ヶ森が政宗の本陣だった。
 摺上原は広大な雑木林が点在する原野である。あちこちに点在する篝火の数は何百を数え、大戦闘が間もなく起こることを告げていた。
「お屋形さま、芦名に乱れがありますぞ」
 小十郎がいった。どうも敵の軍勢に裏切りが出たらしい。政宗にとって幸先のいい知らせであった。
 猪苗代の湖畔から磐梯山の裾野にいたるまで、伊達の軍勢が配置されていた。
「橋はいつ落とすのか」
「戦況によって落とすことに致したい」
「そのときは袋の鼠だな」
 政宗は顔の汗をぬぐった。蒸し暑い夜だった。
 月が中天に輝いたとき、小十郎の笛の音が静かに流れた。
 小十郎こそは伊達軍勢の象徴的存在であり、その絶妙な音色に、将兵たちは勝利を確信した。

 (四)
 五日卯の刻、決戦の火蓋が切られた。
 前日までのぐずついた天気が回復し、天気晴朗であった。
 眩しいほどの陽光が雲の間から差し込み、夏草が色鮮やかに目の前に広がった。
 政宗の本陣からは全体がよく見渡せた。幟やさまざまな差物が原野を覆いつくし、色とりどりの美しさがあった。
 芦名の先鋒は芦名四天王の一人富田将監だった。
 将監率いる騎馬武者五百騎が、まっしぐらに盛国の陣に突っ込んできた。敵ながらあっぱれ、捨て身の突進だった。
「あれは」
 政宗がつぶやいた次の瞬間である。
 盛国の陣はあっという間に蹴散らされた。
「えい、えいッ」
 将監は声を上げて小十郎の陣に突っ込んだ。
 そこは小十郎である。左右に潜ませた鉄砲隊が騎馬武者に向かって銃弾の雨を注いだ。 勘兵衛の鉄砲足軽は百戦錬磨である。馬を狙って発砲したので、数十騎は目の前で横転した。小十郎の兵がそれを取り囲み、槍で突き殺した。将監はそれに屈せず盛国の鉄砲隊を突き破り、隊長の太郎丸を一刀のもとに切り捨て、政宗の本陣を目指さんとしたが、十重二十重に包囲され、突進を阻まれた。
 これを見た敵の二陣佐瀬河内守、三陣松本源兵衛の兵の動きが止まった。
「おじけついたか」
 政宗が吐き捨てた。
 そこへ、前線を見回っていた小十郎が息せき切って戻り、
「盛国が橋を落としましたぞッ」
 と叫んだ。これで立ち止まった二陣、三陣の敵兵の退路を絶たれたことになる。
「よし、残らずからめ捕れッ」
 政宗が大喝し、小十郎が全軍に突撃を命じた。
 小十郎は馬に鞭打つや先頭を切って芦名の本陣を目指した。これを見た芦名義広の手があがり、芦名の騎馬武者が砂塵を上げて突進してきた。
 いよいよ決戦であった。
 勘兵衛の太い腕に大筒が握られていた。
「十分に引きつけるのだッ」
 馬防柵のなかで勘兵衛は狙いを定めた。銃声が響いて先頭の馬がまえのめりに倒れ、武者が地面にたたき付けられた。
「撃てッ、撃てッ」
 勘兵衛が叫んだ。
 この日の戦い、近隣の村々に知れ渡り、磐梯山の裾野にはびっしり見物客が詰め掛けた。その数三、四千人はいる。この連中は半分もの盗りで、戦いが決着すると戦場に降りてきて、手当たり次第に物をあさる。
 死人の衣服まで剥ぎ取り、きれいさっぱり掃除してくれる。この戦いは禿鷹どもにとって、またとない稼ぎ場だった。
「この野郎、消え失せろッ」
 足軽の源太が見物客に向かって発砲した。こいつらに稼がれてはかなわない。
「ひよう、出て行けッ」
 源太は奇声を発して鉄砲を撃ちまくった。
 百姓や盗賊たちは、我れ先に逃げ出した。
 突然、山が動いたような騒ぎになった。見物の百姓たちが逃げ惑い、人の波が崩れた。 これを見て敵の二陣、三陣の軍勢が、水鳥の羽音に驚く平家の軍隊のように、逃走を始めた。
「追え、追うのだッ」
 盛国がをこれを追った。日橋川の橋はもうないのだ。盛国は逃げる兵を川岸に追い詰めた。そこを鉄砲と弓で襲った。立ち向かう兵と逃げまどう兵が交錯し、川岸は大混乱に陥った。水に飛び込み、溺死する人が何百人にもなった。
 このとき敵陣から強い風が吹いた。越後からの突風である。この風に乗って芦名の本隊が一気に突入した。土煙でなにも見えない。
 伊達勢は始めて追い込まれた。
 そのとき一瞬にして風向きが変わった。こちらが上手、敵は下手になり、立場が逆転した。チャンス到来だった。
 政宗も刀を抜き、飛び出さんとしたが、小十郎に押さえられた。 
「あとまもなくの勝利、動いてはなりませぬ」
 小十郎が叫んだ。
 政宗は本陣の床几に腰を下ろし、じっと戦況を見つめた。伊達の軍勢はあらゆる方面から芦名勢を追い詰めていた。戦場にはいつの間にか柿色の帷子を着込み、竹で編んだ矢籠を背負い、色のはげた太刀をはき、竹槍を持った一団があちこちに現れ、芦名の残党狩りを始めていた。この一団に狙われたら最期だった。弓で射られ、竹槍で突かれ、身ぐるみ剥いで殺された。女や子供も混じっていた。
 もう、だれがだれだか、分らなかった。
 小十郎と藤五郎は敵の本隊と戦っていた。
 敵の大将、芦名義広を必死で捜したが、どうやらとうの昔に逃亡した様子であった。「無念、逃げられたか」
 若い藤五郎は地団太ふんで悔しがった。
 黒川の城下にはすでに檜原口から左馬之助の軍勢が近づいていた。摺上原から城下に逃げてきた芦名の兵は軍装をかなぐり捨てて、周辺の村々に隠れた。
「そうだ」
 と藤五郎がいった。政宗にいいつかった恵日寺のことが気になった。
「恵日寺に参る」
 藤五郎が軍勢を率いて大寺に向かった。
 目の前まできたとき、金堂の辺りから火の手が上がった。
「なんと」
 藤五郎は大いに驚き馬を進めると、突然、弓が飛んできた。ここに芦名勢か、あるいは盗賊が潜んでいる様子であった。寺僧たちが泣きわめきながら消火に当たっていた。
 わずかな人数では手の施しようがない様子だった。
「助けて下され」
 寺僧が救いを求めた。
「盗人は撫で斬りにせよ」
 藤五郎は叫んだ。
 逃げる際に芦名が火を放ったのか。それとも盗賊どもが火を付けたのか、それは不明だが、火は金堂から根本堂、両界堂と燃え移り、もはや手のつけようがなかった。
 先鋒として芦名の意地を見せた富田将監は、恵日寺の寺僧の出であった。恵日寺を道づれにせんと火を放って逃亡したのか。幾つかの推理が成り立った。
 やがて火炎は天高く舞い上がり、その勢いは磐梯山をも焼きつくさんとする勢いとなった。煙のなかから雑兵が出てきた。
「容赦は致すな、皆殺しにせよ」
 藤五郎の軍勢が、この者どもを、ことごとく捉えて首を刎ねた。
 政宗はこの火炎を遠望した。
「やはり」
 という思いだった。誰かが火を放つのではないかという予感があった。
 戦場ではなにが起こるか分らない。これも不測の事態だった。轟々と燃える恵日寺は、まぎれもなく芦名の時代の終焉を告げていた。一つの文明が滅びるとき、神はすべての過去を焼き尽くしてしまうのか。天を焦がす大火災の迫力に、政宗も息を呑んだ。
 伊達軍の記録に日橋川の水に溺れる者、侍七十余騎、雑兵八百余、全体の首の数は馬上三百騎、雑兵二千余とある。
 伊達勢は五百の討ち死だった。 
 芦名義広は回り道をして、いったん城に戻ったが、留守居役の富田美作は降伏を決めており、
「こたびのことは、お屋形様の了簡が悪く、実家からきた佐竹家の者どもの不作法である。佐竹に帰られよ」
 と義広を追い出した。義広は将監らわずかの武将に守られて常陸に逃げ、鎌倉以来の名門芦名家はここに滅亡した。
 この日、小斎城主佐藤宮内と勘兵衛は政宗の勝利を見定めるや、戦場を離れ、小斎に戻った。相馬の警戒に当たるためである。
「よく働いてくれた」
 小十郎が宮内と勘兵衛の労をねぎらった。

 (五)
 政宗は六月十一日に黒川に入城した。
 芦名家の領地、会津、大沼、河沼、耶麻の四郡と安積郡の一部、下野の国、塩谷郡の一部、越後の国の蒲原郡の一部が政宗の領地に加わった。
 黒川城は米沢城に比べれば、はるかに大きな城郭だった。
 羽黒川と車川に囲まれた城郭で、三の丸、二の丸、本丸があり、郭の中の重臣太刀の家屋敷があった。しかし義広が逃げるさいに館を焼き払ったため、政宗はさしあたっての政庁を城下の名刹興徳寺においた。
館の修復は夜を徹して行われ、十二日には母の保春院と妻の愛姫が米沢から到着した。弟の竺丸小次郎も黒川に呼び寄せた。
 政宗の保母喜多も移ってきた。政宗にとって喜多は実母に近い存在だった。
 喜多には、なんでもいうことが出来た。
 みつも小斎の勘兵衛を引き連れて黒川に移った。政宗と過ごせることで、みつの喜びも大きかった。
 母と小次郎は、黒川になじめず、米沢の方がいいといった。愛姫は屈託がなかった。
「とのさま、まことによきところでございます」
 とはしゃいだ。生家の三春が米沢よりは、はるかに近い。
 政宗がここに来て最初に取り組んだのは、商業政策である。政宗は信長の楽市楽座に憧れていた。商売を繁盛させ、ここに豊かな町をつくりたい。
「これからは商売の時代だ」
 政宗は重臣たちに説いた。芦名時代の商人を大事にし、商売を繁盛させることで、伊達家も利益をえると考えた。
 奥羽の大名で、商人重視を最初に掲げたのが政宗だった。
 黒川には梁田藤左衛門という豪商がいた。
 政宗は藤左衛門を最初に招いた。
「お初にお目にかかります」
 眼光の鋭いこの男、会津はもとより越後から京都に向かう街道筋の通行権を持つ大物である。会津の梁田といえば、その界わいにその名が知れ渡っていた。
「今後とも商いのすべてはそちに一任いたす」
 政宗は梁田が持つさまざまな特権を芦名時代にひき続いてすべて、認めることにした。 その中身は次の四か条からなっていた。
 会津市中に市を立てることを許す。
 この界わいの商取引は梁田が仕切る。
 商人が山賊に襲われぬよう責任を持つ。
 関所の通行管理も梁田に一任する。
 これを読んだ藤左衛門は、
「思いも及ばぬことで、感激のいたりにございます」
 と感激の面持ちで礼を述べた。これは政宗の非凡な一面を示す政策だった。
 政宗は芦名を滅ぼす前に、黒川の統治を考えていたのである。
 政宗が目指す奥州布武は、終局のところ、戦のない世のなかだった。
 災害を防ぎ、飢餓のない世界をいかにして創世するかだった。戦は大名が好んで行うものとは限らなかった。戦がないと飯が食えない人が、あまりにも大勢いた。牛馬を盗み、衣服を剥ぎ取り、女を捉えて奴隷として売り飛ばすのも、ひどい貧困のなせる業だった。 政宗はまだ人生の経験は浅かったが、そうした場面を毎日のように見てきた。
 人の上に立つ棟梁として、政宗は世の人々のために役立つことをしたかった。
「余を人殺しと考えてもらっては困る」
 政宗は商人たちにいった。
 商人たちは、政宗の人柄と高い理想に驚きを覚えた。
 芦名に比べたら、人間性に雲泥の差があった。政宗の方がはるかに優れていた。はじめ、政宗に異を唱えていた奥会津地方の豪族たちも政宗の政策が浸透するにつれて、ことごとく政宗に服従した。
 依然、抵抗を続けるのは、須賀川の二階堂盛義だけになった。
「叩きのめす」
 政宗がいった。自分の理想を実現するためには、破壊はやむをえないと政宗は考えた。 そういう政宗は、いまや奥羽の革命児であった。
 父の時代、奥羽の世界は、談合による共存だった。絶えず戦乱はあったが、徹底的に戦うことはせず、どこかで幕引をして、お茶を濁した。一種の緊張関係を保ちながら共存する生温いやり方だった。
 このためお互いに、決定的な傷を負うことはなかったが、絶えず戦の繰り返しだった。 政宗は奥羽の信長を目ざした。刃向かう敵は撫で斬りにした。
「信長を見よ」
 と政宗はよくいった。信長は明智光秀の謀反で命を落としたが、信長が目指した天下布武は戦のない世をつくるためだった。それを求める信長の鮮烈な人生は、政宗の心を捕らえて放さなかった。
 たとえ死んでもいい。信長にように鮮烈に生きたい、政宗はある時期からそう思い続けてきた。その実現のために、あえて撫で斬りもした。
 人を斬り捨てたときの異常な興奮は、恐ろしいほどであった。首が離れても胴体は動いていた。それを見るだけで、目は血走り、鼓動は高まり、喉がからからと乾き、足がもつれ、体がよろけた。
 その夜は生首が目に焼き付き、寝床に入っても興奮は消えず、何度も寝返りをうった。眠れぬときは酒を煽り、女を求めた。誰でもよかった。そこに女が横たわっていればよかった。がむしゃらに抱き付いて、悪夢から逃れんとした。度が過ぎて、小十郎に苦言を呈された。
 幼い頃、政宗は何度も小十郎に投げ飛ばされた。幼心に怖い男だった。
 その男がそばにいるので、政宗に自制心が働いたが、いなければ乱行に走る危険が十分にあった。一国の棟梁の重みは、家臣には到底分からない苦しみだった。
 会津黒川を攻め取ったからといって、重臣たちが喜ぶとは限らなかった。米沢在住の重臣たちの反応はさまざまだった。昨今、政宗が勝利すればするほど、老臣たちに猜疑心が募る現象が起こっていた。
「黒川には行きたくない」
 と公然といい触らす手合いもいた。
「反対すれば、いつ殺されるかわからない」
 といい出す男もいた。一部の家臣たちにとって、政宗は理解を超えた人物だった。何をするか分らない恐怖の男だった。
 身内を呼び寄せたのも、ここを本拠地として、奥州布武を実現せんとする政宗の意欲の表れだったが、くすぶっている謀反の芽をつむためでもあった。
 家中の内紛は古い家の宿命ともいえた。
 手を打たねばならぬと小十郎も感じていた。
 ここに来て新たな問題も起こっていた。越後の上杉景勝が伊達を討つという噂である。秀吉が芦名を攻めたことでひどく立腹し、上杉に命じた。
「これはよくないことが、起こりそうだ」
「お屋形さまはやり過ぎたのだ」
 政宗不在の米沢は一層疑心暗鬼に包まれた。
 これは事実だった。
「正念場を迎えたな」
 小十郎が腕をくんだ。
 領地を拡大することは、それだけ大変なことだった。
「雑音に、まどわされてはならぬ」
 政宗がいった。ただ秀吉と戦って勝てるのか。
「ううむ」
 小十郎もこのことになると、迂闊なことはいえず呻吟した。
「こたびは二階堂を攻める」
 政宗がいった。鬱積した気持ちを晴らすには、仙道口に残った佐竹の拠点、須賀川城を攻め取ることだった。

 (三)
 須賀川攻撃には若干、政宗の焦りも加わっていた。
 それは秀吉の凄まじい出世である。
 修験僧の元越がもたらした秀吉の行動は、もはや天下人であった。
 関東の北条氏政、氏直親子が「あの成りあがりもの奴」と秀吉をさげすんでいたが、太刀打ちできるかどうか、怪しい雲行きだった。
「秀吉公が天下を握ること、間違いはござらぬ」
 元越がいった。
 政宗としては不本意だった。北条と手を組み、伊達家が天下の中枢に躍り出ることは出来ぬのか。
「それは極めて困難であろう」
 元越は正直に語った。上方の豪商坂東屋からもひっきりなしに、便りが届いた。
 秀吉は草木もなびく勢いで、関白太閤秀吉として揺るぎない地位を築き、その立身出世の物語りは庶民をも引きつけた。
 秀吉が得た関白とは、天皇に代わって政事を執り行う最高の位であった。この結果、これまで北条よりだった家康も、にわかに秀吉に接近した。
「これでは一人勝ちになる」
 小十郎は苦虫をかみつぶした表情である。
「うむ」
 政宗の顔も引きつった。
 政宗にとってもっともいいのは、北条、徳川、伊達の連合政権である。その場合、当面は北条が天下人になろうが、次は徳川、その次が伊達になろう。
 小十郎はそこに賭けようとしていた。それが、どうやら音を立てて崩壊したのだ。
 秀吉があまりにも強すぎた。
「時間を稼ぎ、その間に一層、腕を磨き、強大な大名になるしか、手がござるまい」
 小十郎は外の景色に見いった。
「秀吉が天下を統一する前に、少しでも領土を広げておくことだ」 
 と政宗がいった。それしか手はなかった。

 この頃、秀吉の使者伴清三郎が会津に来て、
「会津討伐を陳弁せよ」
 と政宗に迫った。天下人秀吉の威圧が籠っていた。
 秀吉は大名間の戦闘を禁止する「惣無事令」を発布していた。
「知らぬとはいわせぬ、早々に上洛し、申し開きを致すべし」
 清三郎は政宗を、にらみ付けた。
 政宗には勝手な「いいがかり」という不快な思いも正直あった。奥州はまだまだ戦国の世なのだ。横やりを入れられては、奥州布武が叶わなくなる。かなわない。いくら関白とはいえ、越権行為ではないか、そういう思いがあった。しかし相手は関白である。小十郎の取り成しで政宗は、伊達家の祈祷の司、良覚院栄真を上洛させた。
 栄真は元越ら数人を従えて京に上った。栄真が頼ったのは前田利家と施薬院全宗である。 ふたりとも秀吉に影響力を持っていた。
 都に入った栄真は弁明に務めたが、結果は同じであった。
「なぜ、政宗は出てこぬ」
 と利家が詰問した。
 そこで政宗は遠藤不入斎と上郡山仲為の二人を送り、豊臣秀次と前田利家に、秀吉への取り成しを頼んだ。
 幸いというか、秀吉はこの時期、奥州のことなど、それほどの関心事ではなかった。
 四国も九州もおのれの領土である。小田原を手に入れれば、奥州など手に入れたも同然だ考えていた。
「これはもっけの幸いじゃ」
 政宗はその間隙をぬって、領土の拡大に精を出した。
 攻め取る相手、二階堂盛義の須賀川城は、佐竹の出城だった。
 だが二階堂と伊達の家は、もともと縁戚だった。十五代晴宗は長女を二階堂に嫁がせ、四女を会津芦名家に嫁がせ、五女は佐竹に嫁入りさせた。それがどうしたというのだ。婚姻などなんの歯止めにもならず、伊達とこれらの家は、入り乱れての戦いを繰り広げ、憎しみだけが存在した。

 老臣どもがどういおうが、須賀川城を奪い取ることが、当面の政宗の使命だった。
 秀吉に迂闊なことをいわせないためにも、佐竹の出城、二階堂を葬り去らねばならなかった。
 二階堂の家は盛義が若くして病死し、当主は政宗の叔母、大乗院その人であった。
 それだけにお互いに無駄な命を落としたくはなかった。まずは調略である。
 小十郎が石川郡泉に館を構え佐竹寄りの石川昭光を口説き落とした。昭光は大乗院の実弟である。この動きに二階堂一族の保土原江南斎が伊達家に同調した。守屋筑後守もなびいた。
 伊達の作戦は高度だった。
 政宗の攻撃を聞いて佐竹が援軍を寄越したが、十月の末に須賀川城はあえなく落ちた。浜通りの岩城氏も政宗に帰属した。
 これで政宗は周辺のすべてを配下に収め、十二月の始めに黒川城に戻ることが出来た。。
 天正十八年、政宗は黒川城で正月を迎えた。
 政宗は七日、礼式の連歌に、
  七草を一葉によせてつむ根芹
 と発句を詠んだ。
 この歌は白河、石川、岩瀬、安積、安達、信夫、田村の仙道七郡を手に入れ、得意満面の歌であった。政宗は二十四歳にして、宮城県の大半、福島県の会津と中通り、山形県の南部、新潟県の一部、栃木県の一部を手中に納め、得意の絶頂にあった。
 政宗は豊かな教養人でもあった。
 歴代風流の道を励み、曾祖父稙宗は近衛家と親交があり、三条西実隆、冷泉為広から添削を受けた。祖父晴宗も連歌を好み、正月に和歌を詠んだ。父輝宗も連歌と能を好んだ。「伊達家の血は争えぬものでござる」
 小十郎が政宗の歌を褒めた。政宗はのちに吉野の歌会に招かれている。
「感無量であるのう」
 政宗は終始上機嫌で、豪商梁田藤左衛門を相手に、都にも乗り出さんと夢を語った。  奥羽は陸奥の国五十四郡と出羽の国十二郡の、合わせて六十六郡からなっていた。
 それはこの日本国の約半分にも及ぶ面積だった。
 その面積の半分を手に入れたのだ。
 政宗が発句に詠むのも当然だった。
 藤原秀衡の再来という人もいた。伊達家の一族と家臣団は、
「正月だ。まずはめでたい」
 と勝利の美酒に酔いしれた。しかし心のどこかに不安があった。それは天下人秀吉の動向である。ここ奥州の地は、京の都からはるかに離れている。その距離感が政宗を安堵させた。しかし、ふとしたときに、秀吉の顔がちらついた。



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