戦う政宗第8回

死に装束

 (一)
 はっきりいえば、政宗と小十郎は秀吉をいささか、見くびっていた。
 大名間の私闘禁止など秀吉が勝手に決めたこと、芦名との戦は長いいわく因縁の結果であり、私闘にあらずと政宗は開き直った。だから「ただちに上洛して釈明せよ」という秀吉の意向にはうなづけず、「なにが秀吉だ」という反発があった。
 前田利家の使者が来ても、政宗は動かなかった。
 上方には上方の事情があろう。しかし奥州には奥州の事情があるのだ。力のごり押しで命令するとはけしからぬ、そう反発した。
 それは小十郎も同じだった。だが一族の老臣たちは違っていた。天下人に盾ついたらどうなるのか。それでなくとも、ひどい撫で斬りで、周辺諸国から恨みを買っている。これは伊達家の危機だと騒ぎ始めた。
「政宗、最上は心配しておりますぞ、上杉がそちを討つといっておるそうではないか。早く上洛し、太閤殿下に申し開きをしなさい」
 母は口に絹着せずにいった。ときには柳眉を逆立て、小十郎を面罵した。
「そちがついていて何事ですか。このままでは伊達家が危うい」
 となじった。最上義光は家康を通じて秀吉に接近し、その配下に入っており、情報はそう間違ってはいなかった。しかし政宗は義光という人物に、不信感を抱いていた。家中にたき付けて不穏な空気を醸し出してきたではないか。母もすっかり乗せられている。
 政宗は、そう見ていた。
 政宗は母がむきになればなるほど、不機嫌になった。母は小次郎を好み、伊達家の棟梁に小次郎をと輝宗に迫った人である。その一件もあるので、政宗は母がなにをいっても、その言葉に左右されることはなかった。
 政宗に拒絶されたと見るや、母は輝宗時代の老臣たちを集めては愚痴をこぼし、政宗を非難した。
 政宗と母の関係は悪くなる一方だった。
 政宗が母の苦言に耳をかさず、悠然と構えていた背景には、秀吉に刃向かう北条氏の健在ぶりがあった。人は皆、秀吉の勝利を確信していたが、政宗は北条氏に一発逆転があるかも知れぬと見ていた。
 根本にあるのは秀吉に対する不快感であった。佐竹が政宗の悪口を秀吉に言いつけ、それを信じて行動する秀吉が嫌いだった。その感情が先に立ち、客観的な判断に欠けていたといえば、それまでだが、政宗の深層心理には奥州を見くびるなという義憤もあった。  北条の一発逆転の理由はなにか、と問われれば、ひとつには天下の嶮、箱根の山である。二つには徳川家康の北条支援である。難攻不落の小田原城の存在もあった。
 もうひとつ政宗自身が北条からあてにされている事情もあった。北条から再三、援軍を求める手紙が来ていた。
 伊達と北条は天正十四年以来、同盟関係にあり、北条からは年に五度、飛脚を立て近況報告を求められていた。
 黒脛巾の間者が十日に一度は小田原の様子を伝えた。箱根の山の守りは堅く、北条は悠々たるものがあった。
「万民に年内中の兵糧を蓄えよ命じ、二、三年は戦う様子にございます」
「領民も意気盛んでございます」
 政宗の耳に入るのは、北条の堅い守りだった。
 政宗自身が大坂に出かけて、六層九階の大坂城をみれば、天下人秀吉の力のほどが分ったであろうが、上洛はしておらず、関白秀吉の威光が、なんたるかを肌で感じてはいなかった。これは小十郎も同じである。
「太閤閣下の力は莫大なものがございます」
 と政宗に再考をうながしたのは、ほかならぬ梁田藤左衛門だった。その頃、各地の大名が雪崩を打って北条攻めに加わり、小田原に参陣を始めていた。
 最上も上杉も参陣した。
 手遅れにならぬうちに政宗に参陣せよと、前田利家から再三の催促がきた。
 三月十三日には、京都から浅野長吉、木村清久が書状をもたらし、秀吉出陣を知らせてきた。家康は完全に北条を見限ったことも知らされた。遅れた場合は政宗を殺すとまではっきりと、秀吉はいい切っていた。
 これをめぐって連日、黒川在住の重臣たちと政宗の会議が持たれた。
 和戦両用の意見が飛び交い、結論は容易にはでなかった。
「かくなる上は、秀吉と戦うべし」
 藤五郎は一歩も引かなかった。
「いまや遅きに失したことはいなめない。我は討ち死に覚悟で戦うべし」
 誰がどういおうが、藤五郎は自説を曲げなかった。反対しようものなら、
「腰抜けものめがッ」
 と罵倒した。これには政宗も困った。
 政宗は日夜、在地の重臣たちに手紙を書いて苦衷を訴えた。まだ二十四歳の青年である政宗にとって荷が重すぎることだった。しかし、すべては自分の責任で決めなければならない。そこに政宗の苦しみがあった。
 側近の一人、茂庭綱元にも手紙を書いた。
 父は人取り橋の戦いで命を落とした茂庭良直である。政宗は綱元に絶対の信頼をおいた。綱元は政宗よりは十数歳上であった。小十郎と藤五郎は気迫にあふれ、ともに激しい言葉を使ったが、綱元は四十を越え分別を心得ていた。
「ただただ胸が苦しい。関白のこと、無事にすめばよいが、このままでは切腹も免れない」 政宗はときとして弱気になった。しかし藤五郎に迫られると、戦うしかないのかと心が揺れた。まだ独裁者には至らない弱さもある政宗だった。無理もなかった。伊達家の命運だけではない。すべての家臣とその家族、領民、莫大な人々の命がかかっていた。
 小十郎はじっと見つめていた。
 政宗の決断を待っていた。棟梁は自分の判断でものごとを決しなければならない。そのためには冷たく突き離して見つめることも大事だった。むろん小十郎の気持ちは決まっていた。
 こまりに困った政宗は小十郎を頼った。
 夜遅く政宗は小十郎の屋敷にやってきた。米沢時代はなにかといっては、屋敷にやってきた。黒川に来てからは始めてだった。
 小十郎はもう寝床に入っていた。
 眠れずに、うつらうつらしていた。政宗のことが気になっていた。
「旦那さま、お屋形さまが」
 妻がおどろきの声を出して寝所に入ってきた。
「なに」
 と起きようと体を起したとき、もう政宗が寝所に入ってきた。
「そのままでよい、着替えずともよい」
 政宗がそこにあぐらをかいた。妻が慌てに慌て、奥の間の燭台をともした。
「小十郎、余は決めかねておる。藤五郎のいうことももっともだ。しかし勝てまい。ここで玉砕をする必要があるのか、悩みに悩んでおる」
 政宗は沈んでいた。
「いや、戦えば、そうたやすく負けることはないでござろう。我々はそれほどの弱兵にあらず、いくども勝利してきた強兵でござる。たとえ秀吉といえど、一度や二度は撃退してごらんにいれましょう」
 小十郎は毅然たる態度であった。
 政宗は小十郎に威圧された。これではならぬと気持ちが引き締まった。
「ただし、秀吉を殺したところで蠅のような連中が、秀吉の仇を討てと入れ代わり立ち代わり攻めて来ましょう。前田利家、あるいは上杉景勝、徳川家康、はてしなく戦でござる。やがて疲れはて、伊達家は破れるでござろう。そのとき家臣たちはそれぞれ、新しい主人を見つけて仕官することになりましょうぞ」
 小十郎は冷たくいった。客観的に見て戦いはもうなかった。ここは恭順するほか道はなくなっていた。それが時の流れであった。
「潮時でござろう」
 小十郎が重ねていった。臨機応変な戦略をとる小十郎である。流れを敏感に捉えた。
 
 それから間もなくであった。
 重大な知らせが黒川城に入った。難攻不落とみられた箱根の嶮を、秀吉はたった一日で攻め落とし、箱根に入ったというのだった。
 政宗は小田原参陣を決断した。ぎりぎりの段階での方向転換だった。
 伊達家中騒ぎはこれで終わったわけではなかった。
 老臣たちが政宗の判断の遅れを取り上げ、批判した。
「今ごろ和議を求めても通用はしまい。伊達家はおとり潰しになる」
 と政宗の隠退を求める声すら出るようになった。政宗はきびしい局面に立たされた。
「ここは一筋縄では、まいりませんぞ」
 小十郎の顔がますます厳しくなった。
「どういうことか」
「保春院さまのことでござる。お屋形さまが小田原に出かけ、ご不在のおり、城中に異変が起こる懸念がでてまいりました」
「謀叛ということか」
「さようでござる。ご母堂が老臣どもと結託し、小次郎どのを擁立せんとしたら、どうなりますか。秀吉の思う壺でござろう、内紛を理由に取り潰す」
「秀吉ならやりかねない、そうなれば戦うしかなくなる」
「そうではござらぬ。混乱を未然に防ぐことこそ肝要でござろうぞ」
 小十郎が迫った。
 政宗の額に汗が浮かんだ。小田原に到着する前に北条が降参したらどうなるか。戦に遅れたということで、征伐されるだろう。そのときは伊達は全軍をあげて戦うしかないが、小田原に監禁されては、もはやどうにもならない。加えて家中に内紛があっては、取り潰し以外に道はない。
 事態は深刻であった。
 小十郎は小次郎擁立をたくらむ二人の人物を調べ上げていた。
 柴田郡村田に三万石を有する大叔父の村田宗殖が急先鋒であった。宗殖は十四世稙宗の第九子である。
「政宗では伊達家が滅びる。小十郎に引きずられ、我らをないがしろにしてまいった。その振るまいは目にあまる」
 とあたりかまわずののしり、保春院に接近していた。もう一人、国分盛重も声高に政宗を誹謗した。盛重は祖父晴宗の十子である。
「我ら親戚をないがしろにし、独断専行が目にあまる。あれをやめさせねば、ご先祖さまに申し訳がたたぬ事になる」
 と、これまた強硬だった。ここまで政宗はすべての戦に勝利した。その力で老臣を押さえてきた。だが、こうなると、それをとめるのは容易ではなくなった。
「とんでもない奴等だ、お家の一大事というのに謀反を企てるとは、成敗してくれん」  小十郎の怒りは沸騰点に達した。結局のところ、老臣たちのいい分は、自分がないがしろにされたという不満だった。だが政宗にいわせれば、老臣たちの政事は談合となれあいで、事を収める古いやり方だった。
 それを続けていれば、秀吉に根こそぎ奪われてしまうのだ。小十郎は一大粛正もやむなしとの心境になっていた。
 小十郎の報告を政宗は黙って聞いた。
「始末せねばなりませぬぞ」
 小十郎は決断した。

 (二)
 政宗は母の居館「西館」に挨拶に出かけた。
 政宗と母は険悪な関係になってはいたが、母のすべてを嫌っていたわけではなかった。政事の話さえしなければ、母は勝ち気ではあるが普通の母親だった。父輝宗とは夫婦仲もよく、父は尻に敷かれて満足していた。政宗の夫婦関係はあまりにも幼い時期の政略結婚だったので、正直、愛情はあまり持てなかったが、父と母はいい夫婦であるように思えた。 小田原に行くというと、
「それはよかった」
 と母がいった。珍しく御膳が並べられた。
「油あげの菓子」や「膾」が並んでいた。
 おいしそうだと政宗が「膾」を一口食べたとき、惨事が起こった。
「ぎゃあ」
 と声がして、目の前で膳番が倒れた。
 口から血を吐いて、のたうち回っている。
 政宗も胃の辺り押さえて顔をゆがめた。
「お屋形さまが、お屋形さまが」
 女中たちが悲鳴をあげた。
「これはなんだ、誰が仕掛けたのだッ」    
 政宗は険しい表情で怒鳴った。
「まさか、そんな」
 最上氏が悲鳴をあげた。
   政宗は「西館」を飛び出し、急いで本丸に戻り撥毒丸を服用した。
 喜多はなにか深い理由があるに違いないと、弟の小十郎を捜した。小十郎は自分の屋敷で瞑想していた。その横顔は厳しかった。
「小十郎」
 喜多が呼んだ。 
 小十郎が振り返った。その表情にもの悲しい陰影があった。
「すべては、そなたの胸のうちのことでしょうね」
 喜多が小十郎を見すえた。沈黙が流れた。
「たとえ姉にでも、いえぬことはある」
 小十郎が低くつぶやいた。
「それは分っています。わたしがいいたいことは、お前がすべてをかぶりなさいということです」 
 喜多は、そういって屋敷を出た。
 小十郎がすっと立ち上がり、本丸に戻って重臣たちを集めた。
「ことの顛末が分った」
 と満座を見渡した。
「お屋形さまを毒殺せんとする恐るべき謀叛が露見した。最上義光が後ろで糸を引き、毒を盛らせたのだ。最上の者どもを厳重に取り調べ、すべてを白状した。お屋形さまを亡き者にし、小次郎どのを立て、自ら伊達家の実権を握らんとする恐るべき義光の陰謀であった。最上の者はただちに成敗した」
 皆、茫然として小十郎を見つめた。 
 政宗は終始無言だった。
「よく考えねばならぬ」
 政宗は部屋に籠った。小十郎が政宗に処断を求めた。
「かくなる上は、小次郎どのといえども、成敗せねばなりますまい」
「う、ううう」
 政宗がうめいた。

 戦国武将は大なり小なり、骨肉を殺さざるを得ない局面があった。信長も実弟を殺していた。武田信玄は父を追放し、上杉謙信も実弟を追放した。戦国武将が生きのびるためには、これもまたやむを得ぬことであった。
 この事件、史書はさまざまに伝えている。 
 正史『伊達治家記録』は危機一髪のところで政宗は食事を摂らずに帰ったとし、最上義光に母堂がそそのかされ、毒を盛ったとした。だが歴史の真実は、もっと深い闇のなかにあった。
 小次郎はそれから二日後、傳役の小原縫殿之助の屋敷で成敗された。
 勘兵衛の鉄砲足軽が屋敷を固めた。
「不審な者は討殺せ」
 小十郎が押し殺した声でいった。雨がしとしとと降る夜であった。
 座敷に政宗の姿があった。
 近習の屋代勘解由、鈴木重信らが部屋に控えた。
 通称、勘解由は置賜郡に五千石を有する仕置人である。先祖は伊達家の国老を務めた。戦場では撫で斬りを指揮し、顔色ひとつ変えずに首を刎ねた。政宗の命令を冷徹にこなし、人は勘解由を殺し屋と呼んだ。
「勘解由、小次郎を討たねばならぬことになった。そちが討て」
 政宗が命じた。勘解由の顔が真っ青になった。
「ごかんべんくだされ、それだけは平にご容赦を」
 勘解由は頭を畳にこすりつけて、はいつくばった。こんな勘解由を見るのは始めてだった。そのとき、障子が開いて小次郎が入ってきた。
 小次郎が政宗の前に正座した瞬間だった。
 政宗は立ち上がり、ばっと刀を抜くや、
「えいッ」
 と喉からしぼりだすような声をあげ、小次郎の肩に振り下ろした。
「ぎゃッ」
 悲鳴を上げて倒れた小次郎を、政宗はなおも斬り付けんとした。
「あああ」
 小次郎は手をあげて政宗を制したが、政宗は鬼神の面相で、もう一太刀を小次郎にあびせた。小次郎の肩は斬り下げられ、薄暗い燭台の灯のなかで、小次郎がのたうち回った。 辺りは血の海であった。
 勘解由も重信も息を呑んだ。あまりのことに声も出ない。体が小刻みに震えた。
「勘解由、とどめを刺せッ」
 政宗がうわずった声で命じた。勘解由はよろけるように立上がり、脇差しを抜いて、
「ごめんッ」
 と喉を突き刺した。
 鮮血がどっとあふれでて、畳いっぱい広がった。
 政宗はうつろな顔で立っていたが、小次郎が息絶えると、刀を投げ出して突っ伏して泣き崩れた。
 隣室に待機していた小十郎が、サッと部屋に入った。
「お屋形さま、心中をお察しいたします」
 小十郎も政宗のかたわらで泣き伏した。小次郎の遺体はすぐ運び出され、小十郎が、今回の出来事の責任を取り、小次郎君が自害されたと家中に伝えた。
 政宗の母、保春院は突然の出来事に言葉もなく、身をよじって泣き崩れた。
「勘兵衛、西館を封鎖いたせ」
 小十郎が命じ、勘兵衛の鉄砲足軽が西館を取り囲んだ。
 翌朝、母保春院は憔悴した顔で実家の最上に落ちのびていった。
 政宗は本丸から母の姿を追い、目がしらを押さえた。
「くくく」
 政宗の唇から嗚咽がもれた。
 母は凄い女性であった。二年前、大崎氏のことで伯父の最上義光と衝突し、あわや戦になろうとしたとき、母は輿に乗ったまま両軍の間にわけいって居座った。それが二か月にも及び、結局、戦にはならなかった。

 (三)
 政宗が黒川を立って小田原に向かったのは、四月十五日だった。
 会津はもう初夏であった。汗ばむほどの気候であり、周囲の緑が目にしみた。
 政宗に従うのは小十郎ら、わずかに百騎である。政宗のもとに近侍する不断組の者と政宗に服属した芦名や大内の家臣どもだった。
 このなかに昨今、目をつけている青年がいた。
 まだ二十歳の支倉常長である。
 この若者、柴田郡支倉の出で、信夫郡山口村で育った若手武将である。この頃は六右衛門といった。利発で顔立ちもよく、ものおじしない態度、口上の述べ方、判断力、すべてが同世代のなかでは際立っていた。政宗は近侍に抜擢し、小田原行に加えた。
 のちに政宗の使者としてヨーロッパに派遣される常長の若き日である。
 むろん勘解由もこのなかにいた。
「それでは、あまりにも少のうござる」
 藤五郎が自分も小田原に行くと直訴したが、政宗は「ならぬ」とこれを押しとめた。
「万が一、お屋形さまに異変があった場合は、そちが全軍をまとめ、秀吉を討つのだ。そのことが分らぬのか」
 小十郎が藤五郎を諭した。
「お屋形さまッ」
 藤五郎が政宗の袖を掴んで泣き伏した。
「たのむ」
 政宗が藤五郎の肩を叩いた。いざという時、政宗は藤五郎の負けん気に家運を託した。二度と戻れぬかも知れない。政宗の心中は、悲壮であった。
 政宗は南会津を経て関東に出る道筋をとったが、大内宿で梁田藤左衛門が待っていた。「関東の諸城は北条の兵が固めており、通行は困難でござる」
 と告げた。
「越後、信濃経由しかございませぬ。わたくし奴がご案内仕ります」
 藤左衛門が胸をはった。越後は上杉景勝の領地である。藤左衛門は越後路の顔役であり、いたるところで顔が利いた。
 政宗は米沢に立ち寄り、西置賜郡の小国から越後に抜けた。信濃川を上り信濃路に入り、さらに甲斐路をへて小田原に到着したとき、季節は六月も五日になっていた。
 真夏の太陽がじりじりと照り付け、真っ黒な顔の兵士がいたるところにいた。
 戦はまだ終わってはいなかった。
「間にあいましたぞ」
 小十郎の安堵する顔を見て、政宗も生きた心地だった。小十郎が前田利家や浅野長吉の陣営に駆け参じ、秀吉への取り成しを依頼したが、秀吉に却下され、政宗は小田原に近い底倉に押し込められた。ここは名前の通り摺り鉢状の山中で、罪人としての監禁だった。「斬り死にも覚悟せねばなるまい」
 小十郎が皆にいい渡した。
 夜、小十郎の笛の音が山中に響いた。皆、米沢や黒川を思い出し、感無量の面持ちだった。これで死ぬのかと、あきらめにも似た気持ちになった。
 そのとき、はるか遠くの山中からほら貝の音がかすかに聞こえた。
「うう、あれはッ」
 と小十郎が小さくうめいた。
 それは間違いなく出羽三山のほら貝だった。修験僧が政宗の後を追って、ここにたどりついたに違いなかった。となれば黒脛巾の者どもも、近くに身を潜めておろう。
 藤五郎奴、ぬかりなくことを進めおったなー。
 小十郎の顔に不敵な笑みがこぼれた。
 最悪の場合は秀吉を殺す。
 小十郎は暗殺隊を密かに送り込むよう藤五郎に命じていた。二日後の七日、底倉に前田利家、浅野長吉、施薬院全宗ら五人の詰問使が派遣された。政宗は前田利家が来てくれたことに安堵した。利家は政宗に何度も手紙を寄越し、秀吉に帰属するよう説得に務めた温情の人であった。その利家をここに寄こしたことは、秀吉が殺す意思のないことを、におわすものだった。
 だがすべては、こちらの答弁いかんにかかっていた。政宗は大きく息を吸い、唇をかみ締めた。詰問は硬軟とりまぜたものだった。
「なぜ参陣が送れたのか」
 利家がずばりと聞いた。
「近隣と長年にわたる戦があり、国を守るため、参陣が遅れ、まことに申し訳なき次第、関白さまに謝罪申し上げる」
 政宗は冒頭、率直にわびた。
「わびるというのか、芦名家は関白さまの縁につながる大名である。それをなぜ攻めたのか」
「芦名はもともと、わが伊達家とは縁戚でござった。その芦名が我が父を殺害した畠山を匿い、伊達に敵対した。そこで攻め入ったまででござる。父の仇を討つのは武門の習いにござる」
 政宗は措くせずにいい切った。
「そちに一理があるというもの」
 利家が政宗のいい回しに理解を示した。よく人は政宗のことを、田舎の暴れ者といった。撫で斬りを重ね、悪辣な戦法で次々と戦を起す不逞の族だといった。利家はそうは思ってはいなかった。政宗は関東武士の流れを組む奥羽の雄、伊達家の棟梁ではないか。
 氏、育ちからして、そのような無法者にあらずと思っていた。何度か手紙もらい、教養あふれる青年であることを知っていた。
 目の前の政宗は思った通り、品位のある武将だった。隻眼も、さほど気にならなかった。「そちの尊敬する人物は誰か」
 という利家の問いに、
「それは信長公でござる」
 と政宗が答えたとき、利家は政宗に決定的な好印象を抱いた。覇気にあふれる武将ではないか。信長公の名前を上げるなど、よく心得ておるではないか。利家は政宗に非凡の才能を見つけ、いずれこの男は、秀吉政権の柱を担う人物と見抜いた。
 信長公ならすぐに家臣として召し抱えたに相違あるまい。利家はそう思った。
 政宗はそれから最上氏とは、家臣の鮎貝宗信を通じて伊達家に混乱を起したため戦になったこと、相馬氏との争いは、伊達の領地に相馬が攻め込んだことが発端であること、などを申し述べ、
「奥州五十四郡はもともと奥州探題である伊達家の所領でござる」
 と締めくくった。それは奥州探題が持つ戦国主権の論理であり、非の打ちどころのない正当性があった。

 政宗はこの日の陳述のために、もう一つの論理も考えていた。それは奥州王藤原王朝の後継者でもあるという堅い自負心であった。奥州布武こそは、藤原王朝の再現であり、その実現を目指すことで、戦のない一つの奥州国家が完成する。政宗は気後れなく詰問に打ち勝つ戦略を固めていた。
 かたわらで小十郎が胸を張った。
「ううむ」
 利家はうなずきながら聞いた。すべてにわたり、理路整然としていた。
「そなたは梵天丸といったそうだな。なにやら、ただならぬ響きがあるのう」
 と利家は感心した。
「余の詰問は以上である。あとは、おのおの方にまかせよう」
 利家が浅野長吉と全宗の顔を見た。
 二人の詰問は、利家のようなわけにはいかなかった。
「小十郎、そちに聞く。そちたちは、関白さまをないがしろにしていたのではないか、前田どのは寛容なお方ゆえ、そちたちは安堵しておろうが、必ずしもそうはまいらぬ」
 長吉が小十郎をにらみつけた。
「われらが聞き及んだところによれば、奥州布武と称し、勝手な理屈で諸国の大名を攻め、行く行くは関東に攻め上ぼり、関白さまに一泡吹かせんとしていたというではないか。小十郎、いずれ切腹は免れまいぞ」
 と切り込んだ。小十郎は泰然と構え、きっと浅野の顔を見た。
「くどくど弁解は致しませぬ。すべての誤解はこの小十郎が至らぬせいでござる。切腹せよとあれば、腹を斬ることに、なんのためらいもござらぬ」
「いい覚悟だ。その言葉、忘れぬことだ」
 長吉が掃き捨てるようにいった。
「では聞く」
 今度は全宗が問うた。
「政宗公の首を差し出せと申さば、いかにせん」
 全宗はじっと政宗と小十郎を見つめた。政宗は目をつむった。小十郎は瞬き一つせず全宗を見返した。風が座敷を吹き抜けた。小十郎の脳裏に数々の戦場の場面が浮かんでは消えた。いつも勝ち戦ではなく、むしろ苦戦の連続だった。ときには政宗の本陣まで攻め込まれ、薄氷を踏む思いでの勝利もあった。勝敗は時の運であり、ここも戦場の一つである。小十郎が、おもむろに口を開いた。
「全員、斬り死にいたす」
 そう答え、全宗を見つめた。
「政宗どの、それに異議はござらぬか」
 全宗が聞いた。
「国を出るとき、家臣たちに申し伝えてきたことである。我ら全員、ここで討ち死にいたす」
 利家ら三人が顔を見合わせた。
「そちたちが斬り死にしたとき、国もとの家臣たちはどう致すのか」
 利家が聞いた。小十郎が待ってましたとばかり、胸を張って開陳した。
「城将は伊達藤五郎と申す者にござる。すでに国境に兵を送り、固めておるはずでござる。さらに大崎、葛西、南部、津軽、奥州の大名にも働きかけ、太閤閣下と十年は戦ってご覧にいれましょうぞ」
「十年とな」
「いや二十年かもしれませぬ」
「ううむ、、小十郎、大きく出たな、貴公らの気持ちはよく分った」
 利家は鷹揚に構えて、ふうと息をはき、それから笑みを漏らした。
 政宗が信長を好きだいったとき、利家はこの男は殺さないと心に決めた。
「どうだ、政宗、われらとともに、天下統一のために、働く気はないか」
 利家がいった。
「ありがたきお言葉でござる。もとよりそのつもりで、小田原に参陣した次第にござれば、身命を賭して働く所存にございます」
 政宗がはっきりといった。
「うむ、よういってくれた」
 利家がうなずき、その場に和やかな空気が流れた。

 (四)
 政宗がここで前田利家に会えたことは、幸運というほかはなかった。
 これまで何度か手紙の交換もしており、気心はしれていたが、この時期、利家は秀吉の叱責を受け、進退を噂されていた。北条に荷担した関東勢の処置が寛大に過ぎたという讒言によってであった。
 北条に荷担した者は厳罰に処せという秀吉の意向に反し、利家は命を助けた。秀吉は烈火のごとく怒り、勘気をこうむった。しかしこうして、この場に姿を見せたことは、勘気がとけたことを意味していた。
 目の前の利家は魁偉堂々とした体躯であった。しかしときおり浮かべる笑みは春のようにおおらかな表情になる人物だった。もとは尾張の土豪の倅で、秀吉より三つ下、信長に仕えて信長に重用された。しかし、必ずしも順風万帆ではなかった。同朋の拾阿弥を斬殺して、信長の怒りを買い、織田家を離れたこともあった。桶狭間の合戦にひそかに参戦し、敵を打ち取り、帰参が許された。苦労もしていた。
「わしが、そちの年の頃、なにをしておったかのう」
 利家が目を細めて話題をかえた。
 元亀元年から天正二年に至る五年間、利家は近江一向一揆の鎮圧、浅井一族との戦い、伊勢長島一揆の討伐と席の暖まる暇もなく、戦い続けた。前線の指揮官になったのは、元亀三年の長篠の戦だった。鉄砲足軽を率いて、奮戦し、敵を追撃するとき甲斐の武将と一騎打ちになり、危うく命を落とす危機にも遭った。
 秀吉はこの頃、すでに部隊長の地位にあった。いつも秀吉にはかなわなかった。
「偉いものだのう、わしが鉄砲足軽を率いていたころ、そちは、一国の棟梁か」
 利家は感慨深げにいった。そして、
「凄いことじゃ」
 と率直に政宗を褒めた。
「おそれいります」
 政宗はひれ伏して利家の好意に甘えた。
「つきましては、ひとつお願いがございます」
 席を立とうとした利家に、政宗がいった。
「小田原に千利休どのが、おいでになっていると伺いました。茶道の教授をぜひお願い申し上げたい」
 政宗はそういって、ふたたびひれ伏した。
「それは太閤閣下にお伝えいたそう」
 利家が笑った。
 秀吉のことも、しっかり調べ上げておるわー。
 利家はこの一言で秀吉が感心すること疑いなしと、驚きを禁じ得なかった。
 報告を聞いた秀吉は、
「ふううん」
 といい、
「この者に逆心はあるまい」
 と漏らした。

 九日、政宗は秀吉の陣所で初めて秀吉に謁見した。
 秀吉はこともあろうに小田原城を見下ろす石垣山に巨大な城をつくっていた。北条を支持した関東の諸城はあらかた陥落し、秀吉の軍勢が小田原を埋め尽くしていた。
 この朝、政宗は持参した死装束に着替えた。
 髪もばっさり短く切り落とした。
 小十郎苦心の装束だった。
「切腹を命ぜられたとき、都合がよろしかろう」
 奇想天外な小十郎の演出だった。
 人の上に立つ者はひらめきがなければならぬ、と小十郎は思っていた。平凡なありきたりの衣装では面白くもおかしくもなかった。アッと人を驚かせる。秀吉の度肝を抜いてやる。そうしたこれまた抵抗の精神が秘められていた。
 短い髪は「かぶろ」といった。髪を水引に結び、甲冑の上に白麻の陣羽織を羽織った姿は、実に奇怪であった。隻眼も異様に目だった。
「どうだ」
 と政宗がいった。
「まことにもって」
 といって黙った。あまりの異様な風体に小十郎自身、言葉を失うほどだった。
 この風体で秀吉の前に出たとき、並み居る重臣たちから「ほう」という小さな吐息が漏れた。秀吉自身、おもわず引き摺り込まれ、政宗に見入った。
 政宗はことと次第によっては、秀吉と差し違えんと懐には脇差をしのばせていた。
「こなたへ、こなたへ」
 と秀吉がいった。秀吉は床几に腰を下ろしていた。
「ははぁ」                                  
 政宗は急いで脇差を懐から抜き捨て、秀吉の面前に進んだ。
 秀吉は持っていた杖で政宗の首をつついた。
「さてもその方は愛いやつだ。よい時分に参った。いま少し遅かったら、ここが危なかった」
 秀吉はもう一度、杖で政宗の首をついた。
 政宗は首に熱湯をかけられる思いだった。
 心中、ひそかに「狡猾なたぬき爺め」と思っていたが、世のなかに、これほどの人物がいようかと、正直、恐れおののいた。
「その方はまだ若く、田舎住まいゆえ、このような大軍を見たことはあるまい。よく見ておくがよい」
 秀吉はそういって小田原城を包囲する総勢二十二万の秀吉軍の陣立を詳しく説明した。「まことに壮大でござる」
 政宗は憶することなく自分の感想を述べた。
 このとき秀吉五十四歳、政宗二十四歳である。いつの間にか秀吉は父親の心境になっていた。政宗の落ち着いた立ち振るまいが見事に秀吉の心を捉えた。それはまた死装束を演出した小十郎の勝利でもあった。
 ただし芦名から奪い取った会津の領地は没収となった。これは不満だったが、秀吉の面子を立てるうえでやむを得ぬことでもあった。
「命さえあれば、また領地はふやせましょうぞ。これで我らの戦が終わったわけではござらぬ」
 小十郎はまだまだ開き直っていた。政宗はこのとき、ただただ秀吉に圧倒されたが、小十郎の心のなかは、違っていた。小十郎の凄さであった。
 この夜、政宗は留守を預かる藤五郎に手紙を書いた。
「今日、関白さまのもとに伺候したが、ことはすべてうまく運び、なにもいうことはない。関白さまの直々のご懇意、言葉に言い尽くせないほどである。これほどのもてなしを受けようとは思いもおよばなかった。明日は茶の湯に招かれた。明後日には黒川に帰国を許された。奥州の仕置もこちらの希望が、かないそうである。皆もきっと満足するであろう。 追伸、この手紙の写しをこれらの人々の送ってほしい。このほか親切なもてなしを受けたが、書面には書ききれない」
 政宗は感激しながら、この手紙を書いた。そこにはなんとか責任を果たせたという安堵感があった。

 翌日、秀吉はふたたび政宗を陣所に招き、茶の湯で歓待し、刀を与え、自ら政宗に奥羽仕置を命じた。領地の削減と組み替えはあると前田利家が付け加えたが、伊達家は安泰であり、政宗の心は紺碧の空のように壮快だった。
 秀吉は小十郎の存在の大きさも、十分に認めていた。
「小十郎、そちもなかなかの男だ。田村五万石を遣わそう」
 といった。小十郎は黙考したあと、
「ありがたき幸せなれど、私は伊達政宗に従う者でござれば、恐縮ではござるが、ご辞退申し上げます、ひらにご容赦を願い奉る」
 とひれ伏した。
 これは多分に、政宗と小十郎を引き離さんとする秀吉の狡猾な罠だった。
 秀吉は政宗の所領のうち、会津、岩瀬、安積、田村、安達を没収し、本拠地である羽州置賜と信夫、伊達、刈田、柴田、伊具、亘理、宮城、黒川の各郡と志田郡の一部を安堵する考えだった。田村は会津に入部する新しい大名、蒲生氏郷の領地に囲まれる。そうなれば、政宗と小十郎は離ればなれになる。
 小十郎は、そのことがすぐに分った。
「いらぬというなら、それもよかろう、政宗、いずれ、奥羽にまいるぞ」
 秀吉がいった。
 政宗は、これで俺も秀吉の子分になったかという、自嘲も入り交じった不思議な気持ちになった。
 次の瞬間、待てよという気持ちがわいた。人間、命が助かると、もう次のことを考えるものだった。まだ二十代の半ばである。若い政宗から奥州布武の野望を消し去ることは出来なかった。政宗という男、秀吉が「愛い男」と見た以上に、実はしたたかだった。
「六右衛門、よく見ておけ」
 政宗が近侍の常長にいった。

 (五)
 政宗が会津に戻ったのは六月二十五日である。
 会津の国境には大勢の将兵が出迎え、政宗の無事を喜びあったが、一人藤五郎は不満だった。せっかく戦い取った会津を取り上げられたことに納得はしていなかった。
「わしも気持ちは同じだ。しかし、すべてを失うよりはいい」
 小十郎は藤五郎を慰めた。
 伊達家の老臣たちは、小十郎の報告を聞いて、政宗は名実ともに伊達家の棟梁に成長したことを知った。
 雨降って地固まるー。
 の心境だった。これまで批判的だった人々も一様に口を閉ざした。小次郎もこの世にはいない。最上氏、保春院もいない。謀叛の芽は完全に摘まれ、政宗の独裁体制が確立した。 米沢に戻ることに家臣たちの抵抗はさほどなかった。
 愛妾みつも喜んでいた。
 政宗の胸に顔をうずめながら、
「米沢ではなく大森に帰していただけませぬか」
 といった。
「いずれ愛姫は都に参る」
 政宗がいうと、
「ええ、本当えすか」
 みつは驚いて政宗を見つめた。
 のちに数人の愛妾をもうける政宗だが、この時期は、みつ一人であった。愛姫の寝所に行くことも稀で、みつにすべて満足していた。
 小田原が陥落したのは七月五日であった。
 北条早雲以来、百年にわたって関東を支配してきた北条氏が滅び、秀吉は四国、九州から関東も支配下におさめた。奥州もいまや秀吉に敵対する者はなく、信長以来の天下統一の事業が完成したも同然だった。
 秀吉の奥州入りは電光石火の早業だった。
会津に来るに当たって秀吉は、小田原と会津間に幅三間の道路をつくることを命じた。 工事は道筋の大名の負担で、政宗は白河・会津間を仰せつかった。
 一斉に工事が始まるのだから、工期が短縮され、すぐに出来るというわけだ。
 信長に仕えていた時代に会得したやり方である。
「なるほど、これなら早く道路ができる、ううん」
 小十郎も感嘆しきりだった。
 あまりうますぎて狐爺の印象も免れないが、秀吉のやることは、桁違いに壮大だった。「未練を残さず、さっさと会津を去り、米沢に引きあげましょうぞ」
 と小十郎がいった。
 秀吉では相手が悪い。
 城受け取りに秀吉の家臣木村清久、浅野正勝が来ており、秀吉が来る前に米沢に戻っていなければならない。
 政宗は芦名との戦で抱えた旧芦名の家臣はそのまま会津に残し、従来の家臣を引き連れて十五日に、いったん会津を引き上げ、米沢に戻った。
 秀吉はその連絡を待って、七月十七日、小田原を出発して会津下向の途についた。
 政宗は伯父の最上義光とともに宇都宮城に向かい、秀吉を待ち受けた。
 二人が宇都宮に呼ばれたのは伊達が旧奥州探題として奥羽最大の大名であり、最上は羽州探題としての格式によってであった。
 総勢二十万を越える大軍勢を目の前にして、政宗はまたも秀吉の凄さを感じないわけにはいかなかった。

 秀吉に従うのは徳川家康、豊臣秀次、前田利家を始め、会津城主となる蒲生氏郷ら天下の武将たちである。奥州支配の総帥は秀次で、浅野長政、石田三成、大谷吉継、宇喜田秀家がその実行部隊という豪華絢爛たる奥州征伐の一大デモンストレーションだった。
「政宗、道中、よき眺めであった。わしのおかげで最上とも仲が戻り、母上も安心であろう」
 秀吉が出迎えた政宗と義光に配慮を見せた。しかし居並ぶ武将たちの前で秀吉が放った言葉は、冷酷なものだった。
「そちたちの領地は、おおむね認めるが、妻子を人質として上洛させよ、家臣が居住する城郭はすべて破壊せよ。刀狩りを行い、百姓から武器を取り上げるべし。逆らう者は撫で斬りにせよ」
 秀吉は頬の辺りをピクつかせ、甲高い声で命令し、
「ここは占領地なるぞ、手加減いたすな」
 と武将たちに厳命した。
 天下人、太閤閣下とは超独裁者であることを、まざまざと見せつけた場面だった。このときの秀吉には、小田原で見せた好好爺の一面は微塵もなかった。政宗は自分の腑甲斐なさをかみ締めた。もっと早く奥州布武を完結していれば、こうもたやすく秀吉に踏み込まれなかったに違いない。
 政宗の胸に、忸怩たる思いがあった。
 秀吉は小田原に参陣しなかった白河義親、石川昭光、田村宗顕、大崎義隆、葛西晴信、和賀義治、稗貫広忠らの所領の没収も宣言し、
「関白に逆らえば、誰でも没収する」
 と政宗と義光をジロリと見すえた。
 政宗は困惑した。葛西とは何かと付き合いが深く、所領安堵の陳情を葛西晴信から受けていた。そのことを浅野長政に伝え、秀吉の取り成しを頼んでいたが、ばっさりと切られた。責任を痛感するとともに、一波乱あるに違いないと直感した。
 小十郎が一瞬、苦虫をかみつぶした顔になった。それを秀吉が、薄目をあけて見ていた。 油断も隙もなかった。
 大崎は宮城県の県北、葛西、和賀、稗貫は岩手県の県南、県中の地域である。のちにこの地域の大半が伊達の所領となった。南部、津軽、秋田と政宗と犬猿の仲だった相馬、佐竹は安堵された。秀吉は政宗の腹のなかを見通していた。若いだけにいつ暴発するか分らない。その牽制の意味で、相馬と佐竹を優遇した。
 天下人は怜悧冷徹、かつ狡猾であった。
 秀吉は八月六日に奥州の関門、白河の関を越えた。
「ここから陸奥か」
 秀吉も感慨深げだった。天下人がここを越えたのは鎌倉将軍源頼朝が最初であり、ついで太閤秀吉であった。政宗の先祖は頼朝軍団の一人としてここを越え、平泉を攻撃した。 そのときの褒美として頼朝から拝領したのが伊達郡であった。当時、ここ陸奥は無人の荒野であった。関東から来た侍たちは、この地を開拓して今日に至っていた。
 政宗にとってこの陸奥こそは、汗水流して作り上げた自分たちの大地であった。それをいともたやすく秀吉に占領されたのだ。想いは複雑であった。
 秀吉は七日には長沼城に進み、勢至堂峠、黒森峠を通って、猪苗代湖の南岸に出て、背炙山を越え、九日に黒川城にたどり付いた。馬も通わぬ道も多く、秀吉がふうふう息をして歩く場面もあった。
 途中で関守や村長が秀吉を歓待したが、言葉がまったく通じず、秀吉のご機嫌はななめだった。
「実に険しい道であった、会津とは容易ならざるところだ」
 と肩で息をした。
「まことに」
 とかたわらで蒲生氏郷がぜいぜい息をしながら答えた。それを見る秀吉の顔に、薄笑いがあった。蒲生氏郷は信長の家臣で、その後、秀吉に仕え、伊勢国松ヶ島城十二万石の城主だった。生まれが近江国日野城主の嫡男で、しかも夫人は信長の娘とあって、毛並みがよすぎて秀吉に疎まれ、会津に飛ばされたという噂もあった。
 まだ三十五歳の若さである。 
 不本意な会津入りに、本人はどこかしっくりしない気持ちだった。ともあれ、天下人に嫌われたら最後、誰も人は自分の運命を甘受するしかなかった。
 ところで二十万の軍勢が、すべて会津に向かったわけではなかった。
 家康らは関東に戻り、蒲生氏郷の四千騎と浅野長政の三千騎、石田三成の千五百騎を主力とする約二万が秀吉に同行したが、その主力は田島経由の道をとり、秀吉とは別だった。 秀吉に従ったのは蒲生氏郷の騎馬武者と従者約三千で、それでも道が狭いため、先頭と最後尾では、半日以上の差があった。

 秀吉の目的は、奥州に関白秀吉の威光を知らしめることであった。
 奥州仕置の名で、命令に背いた大名の領地を没収、さらに各地の山間に点在する土豪や地侍から刀や槍を取り上げ、兵農分離を徹底し、奥州に残る古い体制を徹底的に破壊することだった。
「侍はすべて城下町に移住させよ、あとは皆、百姓だ。刃向かう者はなぶり殺せッ」
 秀吉は激しい口調で下知した。これは一見、理にかなうように思えたが、これまで村々を仕切ってきた土豪や地侍、そこで働く百姓を虫けら同然に扱う過酷なものであった。
 そこまでやるのかー。
 政宗は愕然とした。
 小十郎は憤然としていた。
 奥州には奥州のやり方がある。すべて秀吉のいう通には行くまい。
 これからも戦は必至だった。
 それは領地を没収された葛西、大崎氏が黙ってはいまいということだった。
 葛西、大崎氏の領地は現在の宮城県北と岩手県南に広がる約三十万石の領地である。 会津の蒲生氏郷は信長の娘婿という毛並みのよさと、本人の実力で収めることが出来るかも知れないが、葛西、大崎を統治する木村吉清は全くの未知数だった。自前の兵を三百騎しか持たない吉清には収められまいと小十郎は踏んでいた。
 政宗は、秀吉の実像が捉えにくく戸惑っていた。ときには父親のような、いたわりも見せるかと思うと、次の瞬間、人が変ったように冷酷無残になった。その二面性がこわかった。自分を見失えば、ただちに攻め滅ぼされてしまうかもしれぬという思いを抱いた。
 すべて腰をすえてかからねば成らぬと感じた。
 奥州仕置を行った秀吉は、十三日、黒川城をあとにして、南会津の田島から五十里をへて、藤原を越えて京都に戻った。関東に出るまでは、来た道よりも、もっと幽山深谷の連続で、馬を降りて歩く難行苦行の道程だった。
「太閤下ろし」
 という地名が、ここの峠路に残っている。
 
 



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