戦う政宗第9回

葛西、大崎一揆

(一)
 政宗は芦名攻めのとき、葛西晴信から鉄砲隊の応援を受けていた。
 加えて小田原に出かけるとき、
「なにぶん、よしなに」
 と一任を受けたいきさつがあった。
 甘かったといえばそれまでだが、とても葛西どころではなく、自分の命を守ることで精一杯だった。葛西、大崎の怒りは察するにあまりがあった。武士であれば戦うのは当然だった。
 小十郎は黒脛巾の間者を二つの領内に繰り込んだ。
 帰ってくる間者たちは息をはずませて報告した。
 その報告をもとに米沢城の一室で、小十郎と藤五郎が情勢の分析を行っていた。
「葛西は死ぬ気で戦うらしい。大いにやれとはいえぬが、ここは高みの見物も悪くはない。葛西、大崎が奮戦して木村が負け戦になり、木村を救出せよと関白さまから命令がでるかも知れぬ」
 小十郎が低い声でいった。
「ということは、葛西、大崎をひそかに応援することでござるか」
 藤五郎が聞いた。
「物騒なことはいうな。口をつつしめ、物事はそう単純ではない」
 小十郎の声が、さらに低くなった。
「こたびの奥州仕置、関白どのに付け入る隙を、我らが与えたのだ。そのことも忘れてはならぬ、同情だけで戦っては、こちらが危ない」
「いかにも」
 藤五郎がうなずいた。
「多分、大崎と葛西は、結局のところ、戦には勝てまい」
「同感でござる」
「蒲生と木村は勝利を収め、秀次どのと三成どのの軍勢は帰国致す。そして木村氏が葛西、大崎を収めることになる」
「それでは、なんらなすところなく、秀吉に大崎、葛西を取られたも同然ではござらぬか」「いや違う」
 小十郎が立ち上がって障子を開けた。
「木村が大崎、葛西の領地を収め切れるとは思わぬ。必ずへまをする」
「なるほど」
「過酷な検地をして、間違いなく反感を買うだろう。百姓は怒る。土地を奪われた侍も怒る」
「一揆が起こる」
「そういうことだ。木村は大崎、葛西の旧臣に殺される。となれば、秀吉はお屋形さまに助けを求める。この地を収めきれるのは伊達家をおいてほかにない、ということにはならないか」
 小十郎がいった。
 藤五郎は驚いて小十郎の顔を、穴のあくほど見つめた。
 なるほど、これこそが逆転の謀略であった。

 ほどなく大崎、葛西の両氏は領地の没収を蹴り、太閤秀吉と真っ向から戦うと宣言した。「あわてず高見の見物じゃ」
 と政宗がいった。
 大崎、葛西がどう頑張っても、その先は残念ながら見えていた。
 大崎、葛西は敗れ、秀次と三成の軍勢は蒲生と木村を残して、意気揚々と帰国するだろう。だが、それからが勝負という小十郎の密策は、凄いものがあった。ゆっくり木村をいじめ、ここから叩き出すという謀略である。
「こたびの戦は、道案内だけに願いたい」
 これを受けて政宗は秀次にいった。
 小十郎は葛西晴信の甥、葛西流斎と接触した。
「命を落としては、なにもかもなくなる。かりに今回、勝ったとしても、次は勝てまい。その大軍たるや、凄まじいのだ」
 小十郎は小田原攻めの模様を語り、和議をして戦力を温存せよと勧めた。
「されど、葛西には意地がござる。叶うべきにあらずといえども、陣を出し、叶わざるときは、腹を切る覚悟でござれば、撤退はありえぬ」
 流斎はかたくなだった。
「そこまでいわれては、ぜひもなし」
 小十郎はつぶやいた。
 戦闘は八月の上旬から始まった。
 大崎、葛西の間に何度か会談が持たれ、共同で戦う気運が盛り上がったが、結局はそれぞれ自分の領土を守ることで落ち着いた。
 葛西軍の総大将晴信は最後まで迷っていた。
 あちこちに砂金を手配し、利府の政宗に届けるよう指示したりした。しかし、その砂金はどこにどう消えたのか、行方は分らなくなっていた。
 どこか気乗りせぬまま、晴信は七百騎の親衛隊に守られ、佐沼城に本陣を構えた。
 ここは城の回りに佐沼川が流れ、水は深く、一方は深田、一方は大きな沼、東南に濠を巡らせ、内部にも内堀があった。石垣を高く積み、馬出しも設け、堅固な城であった。
 しかし鉄砲にどれだけ堪えられるか、不安があった。
 秀次を総大将とする奥州仕置軍は奥州街道と海岸線ぞいの浜街道の二手に分れ、葛西、大崎軍が守りを固める中新田城、佐沼城と寺池城に殺到した。
 中新田に立て籠もった大崎義隆は、たちまち苦戦に陥り、二、三日で落城した。
 大崎は清和源氏、足利氏の一門で、志田、加美、玉造、栗原、刈田郡の大崎五郡の領主である。ここにそのすべてを失った。

 仕置軍は一気加勢に葛西の領内に攻め込んだ。
 葛西は登米郡、本吉郡、牡鹿郡、桃生郡、気仙郡、江刺郡、胆沢郡、磐井郡など葛西八郡から兵を動員し、奥州街道は薄衣胤勝を大将とする千五百騎、浜街道は大原胤重の千五百騎を配していた。しかしたちまち蹴散らされ、佐沼城と寺池城の周辺で合戦になった。 両軍、ほら貝を吹き、太鼓や鉦を叩き、弓を放ち、鉄砲で討ちかけ、戦闘に及んだ。しかし葛西軍はいたるところで敗れた。最後は残兵が佐沼城に籠ったが、鉄砲隊の攻撃に歯がたたず、奥州総奉行を務めた名家も、わずか数日で降伏のやむなきに至った。
 晴信は捕らえられて降参した。
 政宗がひそかに城内と連絡をとり、お家再興、本領安堵を条件に投降を勧告した。それは、あとあとのことを考えた戦略であった。これで奥州仕置はひとまず決着した。
 政宗はなんの加増もなく、木村親子が葛西、大崎の膨大な所領を手にいれた。
 十月に入って浅野長政は政宗に協力を求め、二十日過ぎに秀次とともに、帰国の途についた。すべては政宗と小十郎の計算どおりだった。
「木村のお手並み拝見でござる」
 小十郎がいった。

 (二)
 大崎、葛西の旧領地からは不満の声が、ひんぴんと小十郎の耳に入ってくる。
「木村は高圧的な男のようだ」
 小十郎がつぶやいた。
 木村吉清は親子で来ており、吉清は葛西の本城である登米寺池城、跡継ぎの清久は大崎の重臣古川弾正の居館古川城に入り、検地を進めた。
 吉清は思いあがっていた。秀吉の権威を笠に着て、検地と刀狩りを強引に進めようとして暗礁に乗り上げた。
 この男、もとは明智光秀の家来で、丹波亀山の城代であった。山崎の合戦で秀吉に仕え、美濃国の検地奉行として実績をあげた。しかし、たかだか五千石の領主が、一挙に三十万石である。秀吉の威光などどこ吹く風、畿内とはまったく違う葛西、大崎を収めきれるはずはなかった。
 葛西、大崎の家臣たちの取り込みも下手だった。葛西、大崎の旧臣にやらせればいいものを、占領軍でことを運ぼうとした。
 それがつまずきのもとだった。
 検地は田畑の面積、品等、石高を測り、年貢を取り立てるもので、これまでは大ざっぱだった。従来と異なることは一反歩が三百六十坪から三百坪に縮ったことである。
「これは百姓の首を締めるもんじゃねえか」
 村々から不満が噴出した。
 その作業に質の悪い中間、小者などが当たったので、ことは一層面倒になった。
 乱暴で横柄で、百姓たちを虫けらのように扱った。
 女をみれば追いかけて手ごめにした。男たちは歯ぎしりして悔しがった。
 十月の中旬、ついに火の手があがった。
「燎原の火のごとく、領内の村々に一揆の火が燃え上がり、木村は百姓たちに殺されるであろう」
 小十郎のもとに知らせが入った。その日から毎日のように飛脚が米沢に着いた。

 政宗は近侍の常長と小斎の勘兵衛を現地に送り込んだ。
「よく見て参れ。ただし余も間もなく白石に向かう。そこから利府に着順いたすことになろう。我らの動きを掴み、ぬかりなく報告いたせ」
 政宗がいった。
 勘兵衛は芦名攻めのとき、葛西の鉄砲隊とともに戦った。そのとき葛西勢と知り合った。足軽の源太も銀の兜をかぶって従った。
 常長はもくもく馬を走らせた。
 政宗に一つの思いがあった。
 それは三年前のことであった。
 秀吉は九州を征伐してご機嫌麗しく引き上げたまではよかったが、肥後国で国人層が反乱を起した。秀吉は烈火のごとく怒り、千人の国人領主を血祭りにあげ、肥後の領主にすえた佐々成政に切腹を命じた。この分で行けば木村親子は切腹か追放であった。
 鎮圧は蒲生と政宗に命じるだろうが、失敗すれば、処分をうけよう。ここのところが思案のしどころだと政宗は思った。
「お屋形さま、蒲生にいいところを、さらわれてしまうと、なんの益もございませぬぞ。お屋形さまお一人で成敗致すのが、よろしかろうが、蒲生が手をこまねいて見ていることはござるまい。となれば、蒲生は苦戦し、我々の手で勝利を得れば、領地は伊達家のものになる」
 小十郎が腕をくんだ。
「おもしろい」
 と政宗が笑った。そうした秘め事があるとは知らず、単純に喜んだのは足軽の源太である。
「久し振りに、ひと稼ぎでござるな」
 源太は意気揚々と一揆の戦場に向かった。秀吉に痛め付けられ、源太はこのところ、くさり切っていた。戦のない日々は退屈だった。博打をしても、さほど面白くもなく、身のおきどころがなかった。
「根切りの旦那、どっちを応援しやす」
「決まってるじゃねえか」
「そうでござんした。木村の野郎をこてんぱんに、やっつけるのでござんしょう」
 源太は飛び跳ねた。
 根切勘兵衛は鉄砲を握りしめた。率いるのは小斎の鉄砲足軽と源太の手勢二十人である。 今度の騒動、火は岩出山で起こった。
 木村の雑兵たちが、百姓屋に入り込み、嫁や娘をかどわかし、手ごめにした。
 百姓は泣き寝入りだったが、旧大崎家の家臣の家に押し入り、妻と娘を奪おうとして事件が起こった。家の主人は刀を抜いて賊に斬りかかり、それを知った近所の百姓たちが、鉈や鎌を手に応援に駆け付け、雑兵たちをなぶり殺して、村の入り口に晒した。
 素っ裸にして睾丸を抜き、腕を斬り落とし、足をぶった斬った。
 これに怒った木村の腹臣岩出山城主の杉野三右衛門が兵数百人を動員し、村に攻め入ったが、鎌や鉈、竹槍を持ち、鉦、太鼓を鳴らした千を越える百姓たちの待ち伏せに遭い、さんざんな目にあった。
 杉野は百姓たちにふんづかまり、なぐる蹴るの暴行を受け、岩出山城には火が放たれ、城は轟々と音をたてて燃えた。
 城の回りに、杉野の兵が無残な姿で晒され、木村の権威はことごとく失墜した。
 百姓一揆は、もはや止めようがなかった。あっという間に領内に広がり、木村親子は逃げ惑うほかはなかった。
 勘兵衛と源太は一揆軍のなかにいた。

 一揆は間髪を入れずに、磐井郡の前沢城に飛び火した。
 千葉大学を頭とする葛西浪人三千人が暴発し、代官をめった斬りにして殺し、一揆の火は岩谷堂、一関、水沢と磐井郡一帯に燃え移り、さらに気仙郡、本吉郡と南下した。大崎では成合半左衛門が二百騎を率いて立ち上がった。
 もはや百姓紀一揆ではなく、旧家臣たちによる反乱だった。
 勘兵衛と源太は、大崎、葛西勢の助っ人として、暴れ回った。
 百姓たちも燃えた。勝手気ままに何でも出来た。
「これは凄いや」
 足軽の源太が、口をあんぐりあけて驚いた。百姓たちの戦は滅法陰惨だった。竹槍で突きまくるので、木村の雑兵は体中、穴だらけとなり、衣服はことごとくはぎ取って奪うので、一様に丸裸で捨てられていた。刀、槍、鎧、兜、戦利品は早いものがちで奪い、百姓同志が奪い合いで喧嘩になった。
 人は実に残忍で、浅はかで、腹黒く、いったん荒れ狂うと手のつけようのない生き物だった。
 木村の代官や城代はことごとく殺された。
 百姓たちの目は野獣のようにギラギラと光り、夜もあちこちで篝火が焚かれ、太鼓や銅鑼の音が響いた。
 大崎と葛西の領内には、野に下った三千余の城将がいた。それも鉄砲や弓をとって動き出した。もはや大反乱の様相を呈した。
「これはもう一揆じゃねえや、戦だぜ」
 常長が報告のために、政宗のもとに駆け戻った。
 この一揆を鎮めることが出来るのは、自分をおいてほかにないと、政宗は思っていた。 百姓たちを背後で操る大崎、葛西の浪人たちに、いかに話を付けるかだった。
 政宗と小十郎はさすがに早い。兵を米沢から奥州街道に出し、白石から宮城郡の利府に着陣し、いまや遅しと秀吉の動きを待ち受けていた。
 一度、秀吉に命を取られそうになった政宗である。秀吉にはしかるべき手を打った。
 一揆が起こるや、鬼庭綱元を報告のために上洛させた。
 黒川の蒲生氏郷に通報した。いつどこで、どういう嫌疑を受けるか分らない。逃げ道をつくっていく必要があった。
「すべからく抜かりなくいたせ」
 政宗は小十郎にいった。すべて小十郎が処理してはいたが、念には念をいれることが大事だった。
 氏郷からはすぐ出陣いたすと連絡があった。これはいささか誤算だった。一揆の鎮圧は政宗一人で十分であった。葛西と大崎の旧臣たちを口説くなど、わけないことで、彼らに餌を与えて手を引かせ、百姓たちを孤立させれば、一揆は終わりであった。ところが氏郷が出てくるとなると、八百長が出来なくなる。本気で戦うと、犠牲も多く、あとあと困った事態が予想された。
 政宗は思案していた。
 勘兵衛が利府にたどりくと、政宗と小十郎が、いまや遅しと待っていた。 
「とてつもない一揆になったようだな」 
 と小十郎がいった。
「木村吉清はどうしておる」
 政宗が聞いた。
「佐沼城に籠ったよしにございます」
「うむ、生きておればよいが」
「しぶとい男ゆえ、そうたやすく死ぬこともござるまい」
 勘兵衛が答えた。

 佐沼城の一帯は北上川と迫川の遊水帯に囲まれた湿原である。
 鉄砲だとたやすく攻め落とせるが、弓と槍では容易ではない。木村親子はそこに籠って蒲生と南部に救援を求めた。政宗は怖いと見えて、援軍を求めなかった。
「葛西の残党は木村を殺せば、厄介なことになる。関白さが、またお出ましということになる。そのときは、皆殺しに遭う。この辺りで残党には手を引かせることも必要だ」
 政宗がいった。
「いいか、常長と勘兵衛、もう一度、でかけ、葛西の残党に伝えよ。蒲生の軍勢が入らぬうちに、政宗にまかせろとな、急げッ」
「はッ」
 常長と勘兵衛は黒脛巾の間者とともに、ふたたび葛西の領地に駆けた。
 政宗はこの夜、せっせと手紙を書き始めた。
 宛先は大崎義隆と葛西晴信の旧臣たちである。手紙の内容は、大崎や葛西の旧領回復には努力するので、一揆に深入りせず、すべては政宗に委任せよなどが書きつらねてあった。これは、徹底的に痛めつけよという秀吉のやり方に反するものであった。
 政宗は一揆を好機到来と見たのである。

 (三)
 奥州仕置の大任を果たし、帰国の途についた豊臣秀次と浅野長政は、駿河国まで戻ったとき一揆発生の知らせを受けた。
 すぐ関白秀吉に通報し、戻ることを伝えた。
「ばか者めが、あれほどいって聞かせたのに」
 秀吉は顔を真っ赤にして怒った。
 九州のときもそうだったが、
 一、百姓ら痛まぬよう肝要のこと
 一、一揆起こらぬよう遠慮あるべきこと
 と噛んで含めるように、木村に教えた。木村の力量では、無理な仕事とも思えたが、佐々の失敗を学び、地道に努力すれば、なんとか務まると考え、抜擢した。
「まったく、能なしめが」
 裏切られた秀吉の怒りは、秀次や浅野長政にも向けられた。
 大崎、葛西の状況を確かめもせずに、早々と引き上げ、のうのうと駿河くんだりを歩いていることに腹がたった。
「すぐに一揆を征伐せよッ」
 秀吉は、かたわらの前田利家を怒鳴りちらした。
「まことに大失態でござる。政宗に与えた方が、よかったかもしれませんな」 
 といったので、秀吉の機嫌がさらに悪くなった。
「今日はちと所要がござって」
 利家は姿を消し、この日は皆、恐れをなして遠ざかった。
 これで木村の失墜は間違いなかった。
 秀吉はすぐ政宗を向かわせたいと思ったが、「待てよ」と制動がかかった。どこか信用が出来なかった。政宗の側に仕える小十郎という男、小細工が利き過ぎ、どうも信じがたかった。あの男なら一揆を仕掛け、木村を追い落とし、政宗に乗っ取らせるなど朝飯前のはずではないか。
「そうは問屋がおろさせぬ」
 秀吉は、ぶつぶつつぶやいて、一人、部屋の中を歩き回った。
 小十郎はとうに見破られていたのである。
 さすが天才的なひらめきだった。 
 蒲生氏郷が一揆の鎮圧に向かったのは十月の下旬だった。
 もう会津は冬であった。
 暖国育ちの氏郷は会津の寒さに、身も心も氷る思いだった。
 二十九日からは大雪となり、積雪が馬の胸に達するほどで、出発は足どめになった。政宗が兵を奥州街道に待機させていたのに比べ、ひどい遅れになった。
「どうも政宗が糸を引いているらしい。殿は無事に帰れまい」
 と家臣たちは噂しあった。なにかことが起これば政宗というのが、定着していた。
 当の政宗は利府で、いらだっていた。だいたい氏郷などくる必要がなかったのだ。それなのに総大将というのが不愉快だった。
「なにも分らん男の下で、戦はできぬ」
 政宗は氏郷に敵意をあらわにした。
「いっそのこと、氏郷を葬り去るぞ」
 いつも極端に走るのは藤五郎である。
「そちは過激だ」
 小十郎もそういいながらも、まんざらでもない様子だった。小十郎は、図星のとき、口の辺りに手をやる癖があった。
 政宗は黙ったままである。だまっているときは、同感の意味である。
 この夜、小十郎と藤五郎が話し込んでいた。
「百姓たちが蒲生を攻めればよい。竹槍一本ですべてかたが付く」
 小十郎がいえば、
「そうすれば、お屋形さまの奥州布武がなる」
 と藤五郎が勇ましくいった。
 戦場のどさくさまぎれに氏郷を殺す。それが二人が描いた粗筋だった。勘兵衛と足軽の源太に加え、黒脛巾組にやらせれば、討ち損じることはないはずだった。
 氏郷が三千騎を率いて黒川を出たのは、十一月も五日になっていた。大崎にやっと入った氏郷は十四日に黒川郡下草城で政宗に会った。
 お互いに、どこかぎこちないところがあった。
「伊達が一揆に通じておるとの噂しきり」
 氏郷がいえば、
「それは下種のかんぐりというもの」
 政宗は否定した。
 この噂、公然たる秘密になってしまった。
 どうも漏らす奴がいるようだった。氏郷は神経質になっていた。この日、出された饗応の膳に毒が混入していたと、難癖をつけ、氏郷はさっさと席を蹴った。実は氏郷のもとに政宗の姦計をあばく密告があった。
 氏郷に駆け込んだのは、政宗の家臣須田伯耆と祐筆の曾根四郎助である。
「政宗は蒲生どのを亡きものにせんと、たくらんでおります」
 と、こともあろうに、氏郷に伝えた。
「なにッ、その手口を申せッ」
 氏郷は身を乗り出した。
 伯耆の父は輝宗に殉死していた。にもかかわらず待遇が悪いと日頃、政宗を恨んでいた。政宗には何千人という家臣がいる。一人一人、隅々まで気を配ることは困難だった。
 政宗は一族の老臣にさんざん抵抗され、殺されかかったことがあったので、自分の周りには小十郎や藤五郎らごくわずかの家臣しか、おかなかった。このため家中には僻みも多かった。曾根は不始末があって逃亡をはかった男だった。
 伯耆は異常な興奮で喉を詰まらせ、しきりに咳をしながら政宗の悪事を訴えた。
 明日、氏郷と政宗は大崎勢の拠点、名生城に攻め入ることになっていた。そのときが危ないと伯耆はいった。
「酒をとらせよ」
 氏郷が気を配った。木村吉清とは、気配りに雲泥の差であった。
 伯耆は一気に酒を飲み干し、落ち着きを取り戻した。
 伯耆が語る陰謀とは、このようなものだった。
 共同作戦の朝、政宗は腹痛のため出陣できない旨を氏郷に通告する。これは仮病で、狼煙を合図に周辺の城から一揆勢が、わっと氏郷を十重二十重に取り囲み、氏郷を捉えて殺す。これを見て政宗の軍が総攻撃をかけ、氏郷の兵を一人残らず撫で斬りにする。
 伯耆は息も絶え絶えに語った。この夜、伯耆は氏郷にすべてを喋った。
「遠慮は致すな、飲むがよい」
 氏郷に何度も酒を勧められた伯耆は、酔いにまかせて、腹の中にあるものを一気にぶちまけた。政宗と小十郎の間の謀略のやり取りは、氏郷を驚かせるに十分であった。
 政宗の中枢部からこれほどの密事が漏れるとは、信じがたいことだった。
「間違いはないか」
 氏郷が念を押した。
「天地神明に誓って、その、間違いはございません」
 伯耆はやや呂律がまわらない口で答えた。
「さても、曲者の政宗めがッ」
 氏郷の顔がゆがんだ。
 曾根は持ち出した政宗の直筆の手紙を差し出した。それはまぎれもなく大崎、葛西の旧臣たちに決起を促す政宗のものだった。
 氏郷は、
「ううう」
 とうめき、
「憎き政宗めが」
 と叫ぶや、
「ただちに出陣の用意を致せッ」
 と叫んだ。
「明日、陽の出とともに名生城を奪う」
 氏郷はなにか予感があったのか、素早い決断だった。それは、この城なら何日かは籠城は可能で、政宗に対抗できると踏んだためだった。
 さすがその辺りは信長、秀吉とともに戦って来た歴戦の勇士であった。
 陽が暮れるや、氏郷は兵を名生城の周辺に潜ませた。政宗の間者は、氏郷を見張ってはいたが、そこまでは見抜けなかった。この城は内外を濠で囲み、攻めにくい構造になっていた。氏郷はひそかに周辺の小舟も集めさせた。
 
 漆黒の闇のなかを氏郷は出陣した。
 東の空が赤く輝いたそのとき、氏郷の軍勢は名生城の大手門を叩き割り、城内に侵入し、籠城していた大崎の兵士と百姓たちを斬り割いた。
 寝ぼけ眼の大崎兵は弓で射られ、槍で突かれ、武装した氏郷の兵になすところなく敗れた。大崎勢をことごとく斬り捨てた氏郷は、堅く門を閉ざして籠城した。
 あっという間の出来事で、さしもの政宗も完全に出し抜かれた。
「ううむ。六右衛門、そちは気づかなかったか」
「まことに申し訳ございません」
 常長が、平身低頭して謝った。
 氏郷をここで一気に攻め滅ぼす手も、なきにしもあらずだったが、そうすれば秀吉と全面戦争になり、いずれ敗北するだろう。
 そう考えると政宗も動けなかった。
 氏郷は、そこを計算し、じっと城に籠った。
「秀吉公の兵がいずれ参る、それまでの辛抱だ」
 と氏郷は将兵を激励した。
 毒の混入は多分にいい掛かりで、さしたる証拠はなかったのだが、この密告で政宗の謀叛の嫌疑は濃厚であり、またしても政宗は窮地に陥った。
 今回は氏郷に分があった。
「あの男、なかなかやるな、それにしても憎き伯耆め、殺してやる」
 政宗は腕をくんだ。

 (四)
「いかがすべきか」
 小十郎は目をつぶって考えた。
「木村吉清を助けだすしかあるまい」 
 政宗がいった。
 木村親子は佐沼城に籠っていた。そこを葛西の旧臣たちが取り巻いている。
 木村も殺すことにしていたが、これを助ければ、政宗の謀反の疑いは消える。
「佐沼にすぐに参ることに致す」
 藤五郎は立ち上がった。包囲している葛西勢のほとんどが、旧知の仲である。事情が変ったとなれば、たやすく囲みを解くであろう。こうなると氏郷の籠城はもっけの幸いになる。氏郷が知らぬ間に、政宗の方ははやばやと対応策を打ち出した。 
「お屋形さま、恐れ入りました」
 小十郎が頭をさげた。
「うふふ」
 政宗が笑った。   
 政宗の行動は早かった。
 志田郡の中目、師山、栗原郡の高清水、宮沢の城を奪い、二十四日には木村親子が籠城する佐沼城に向かった。
 政宗は周囲を固める大崎、葛西勢の陣屋に乗り込んだ。
「頼みがある、木村を助けてはくれぬか」
 政宗が頭をさげた。
 一揆勢の大将は葛西の一族、千葉信胤、信重兄弟である。
「政宗どの、心がわりされたか、木村は我々の手で始末する」
 と千葉兄弟は強硬だった。
「裏切りもの、とっとと帰れ」
 政宗に野次も飛んだ。すると政宗が叫んだ。
「お前たち、太閤閣下と本気で戦をする覚悟があるのか。よく聞けッ、秀吉公は一筋ではまいらぬお方だ。このままならお前ら全員が討ち首になる。生きておれば、領土を取り返せる日もある。ここは余にすべてを任せよ」
 政宗が叫んだ。
「我らが協力を致せば、この地は我々のものになり、太閤閣下は、我らを従来通り遇してくれるというのか」
「いかにもその通りだ、そう太閤閣下に申し上げる」
「ならば、顔をたてよう。しかし葛西、大崎の復権が認められぬときは、我ら一同、死ぬまで戦う、よいであろうな」
 千葉信胤が政宗をにらんだ。
「間違いはない」
 政宗は一揆勢に借りをつくり、木村親子を助けだした。
 木村親子はまさに地獄で仏だった。涙を流して政宗に礼を述べた。
「政宗は関白さまに忠節を誓う身でござれば、当然でござる」
 政宗は太閤秀吉を持ち上げ、木村親子を伴って氏郷が籠る名生城に急いだ。
 意外な事態に氏郷は驚いた。
 狐に摘まれた顔をして政宗と対峙した。
 木村親子は政宗に異心なしと弁明これ務めたので、氏郷も振り上げた拳のやり場を失った。納得したわけではなかったが、反論の余地はなかった。
 政宗めッ、うまくごまかしたに違いない。それは分っていたが、ここで争えば、政宗の軍勢に蹴散らされてしまうだろう。氏郷としても、ここは手を握るしかなかった。
 二人は誓紙をかわした。
 氏郷起請文
 一、このたび政宗は無二の覚悟をもって我ら同然に働き、木村伊勢守親子を助けた。こ   れは比類なき次第であり、上様に対する忠節である。
 一、この上は葛西、大崎の儀は、政宗に預け置かれるように、上様に取り成しをする。 政宗起請文
 一、木村伊勢守の救出は、ひとえに氏郷どのの働きによるものである。
 一、氏郷どのに対し、表裏などあるはずもない。
 誓紙の内容はこのようなものあった。
 ここまではよかったが、氏郷はしたたかだった。
 政宗に人質を求めた。
「片倉小十郎と伊達藤五郎を出してもらいたい」
 そう切り出されたとき、政宗は一瞬、息がつまった。
「それはしかし」
「ならば太閤閣下に政宗謀叛とお知らせ致す」
 氏郷が譲らない。端正な顔のわりには、この男も強気であった。ここで逡巡は許されない。最後のつめで、逆転を許した。
「やむをえまい。伯父の国分盛重と藤五郎を出すことにしたい」
「ならば和解いたす。二人は当分、お預かりする」
 氏郷はざまあ見ろといわんばかりに、政宗を見据えた。
 政宗はまんまと大崎、葛西の土地を手にいれたかに思えた。しかし、そうはならなかった。伯父のほかに片腕の藤五郎を取られ、加えて秀吉の怒りは爆発寸前だった。
 世のなかは深いと政宗は思った。
 油断大敵であった。知らせを受けた秀吉は、
「今度こそ政宗を殺してやる」
 と周囲に当たり散らし、徳川家康、石田三成の軍に出動を命じた。この知らせはすぐに米沢にも通報された。
 一難去ってまた一難である。
 政宗はすぐに良覚院栄真や上郡山仲為らを上洛させて弁明に務めた。幸い木村親子がかばってくれ、氏郷も起請文のことを知らせたので、兵は途中から引き上げた。危ういところだった。

 天正十九年正月、藤五郎がやっと開放され、米沢に戻ってきた。
「氏郷は悪い男ではない」
 と藤五郎がいった。政宗の謀反の動きありと、秀吉に通報したことを悔やんでいるというのだった。政宗が木村親子を救出したとき、氏郷は困ってしまい、秀吉に、
「あれは誤報だった」
 と詫び状をおくる結果となった。それを見た秀吉が、「小者めが」と氏郷を罵倒したという噂が流れ、氏郷はひどく気にしていた。
「それは気の毒なことをしたな」
 政宗はこれで氏郷に勝てたと笑いがこみあげた。氏郷は所詮、秀吉に使われる身であった。その点、不自由なものであった。
「そうか、面白い話だ、それで、わしのことを、なにか話していたか」
 小十郎が問うた。
「それが」
 と藤五郎が真剣な顔付きになった。
「太閤秀吉という男、異常に疑い深いようでござる、氏郷の書状をほうり投げ、こんどこそ、お屋形さまの首を取ると息巻いておったとか」
「ううむ」
「それで、どうしろというのだ」
「上洛せよと、申しておるそうにござる」
「しかし迂闊に上洛は出来ぬ、第一、土産がない」
「土産とはなんでござるか」
「一揆の首謀者の首だ」
「一揆は終わっているでは、ござらぬか」
「それは違う。大崎、葛西の浪人どもは、まだ城を固めておる。それを討って土産にする」「しかし、それでは、裏切り行為になるではござらぬか」
 藤五郎が疑問をなげた。
「我らが生きるためだ」
 小十郎が厳しい顔をした。



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