星亮一が歴史小説を書いた理由

特別講演 「山 川 健 次 郎 と 出 羽 重 遠」

 ただいまご紹介いただきました星でございます。今大塚会長から、ご紹介いただいたのですが、三十何年前ですからずいぶん昔なんですが、当時、私は福島民報の記者で若松におりました。新聞社に入ってほとんどすぐくらいに若松に転勤になりまして、ここで二年七、八カ月くらい、若い時代にお世話になりました。その時豊田武先生・・・・・・この方は日本の中世史のたいへんな権威者でありまして、赫々たる、研究成果を出された先生ですけれども・・・・・・その人が、監修責任者で会津若松におみえになって、作ったのが『会津若松史』なんですね。豊田先生はいつも市役所の前の旅館に泊まっていたんですけれども、私は会津若松にいるもんですから、先生がみえるたびに、あいさつにいくということだったんです。
 ある時、先生がいうんですね。「実は困ったことがある。会津戦争を書くのは非常にむずかしい」と…。当時、正義は薩長であって会津は賊であるという考え方が研究者の間では一般的でした。したがって、なかなか頼むべき人がいないと…。研究者に頼むと、学界の流れはそうなっているんで、そのような原稿ができあがってしまった場合、これは会津若松市が作る歴史であるからして、監修者として困る。そこで、いろいろ考えているんだと先生はおっしゃったんです。「ああ、そうですか」と聞いていたんですけれども…。そのうち、先生が、「君がやったら?…君は新聞記者だから客観的に、地元の人の意向を組み入れた会津戦争、白虎隊が書けるじゃないか。君が書くぶんについては、学界その他から批判も出ないだろう。どうだ、やってみないか」っていう話を、当時二十代の半ばぐらいでしたけれども、先生から、受けたんです。まさにこれこそ、もう青天の霹靂というか。信じられないような話だったんですけれども…。そういう英断を先生が下されたんです。当時、東京大学に小西四郎という近代史の先生がいまして、その人も顧問で関係していたんですけれども、原稿を書いたら小西先生に添削を受けてやるように…というのが豊田先生の私に対するご指示だったんです。それで、私は時には、東大の史料編纂所に行ったりして、小西先生の指導のもとに非常にラッキーなことに「幕末維新とはなんぞや」というところから勉強する機会を、得たんです。それが、そもそも私が会津戊辰戦争あるいは明治維新に取り組むことになった、きっかけなんです。だから、恩師であること以上の存在が、豊田先生という人だったんです。果たして二十代半ばくらいの青年にそういう大きな仕事を「お前、やってみろ」と、任せることが今の自分にできるかということになると非常に大冒険で…。なかなかできないことを、先生がやってくださったということになるんだろうと思います。
 新聞記者は、事件があったりすると忙しいですけれども、暇な時は図書館に籠ったりして、新聞記者としてはあまりいい記者ではなかったかも知れませんけれども…。いろいろ勉強させていただいたということで。私は福島民報に十一年ほどいまして、それから福島中央テレビ設立の時にそちらの方に移りまして、そこにも二十年ほどいまして、大体サラリーマンとしての、定年の近くまで勤めまして、やっとフリーになり、ものを書いているというわけです。
 日本テレビで白虎隊の放送を何年か前にやったことがあります。テレビで放送すると本が売れたんです。今はダメです。
 『徳川三代』もなかなか本は売れません。当時はテレビと連動して本が売れたんです。それでぼくは、日本テレビでそういう企画をねらっているというのを聞いていたもんですから、知り合いの出版社に、「白虎隊の話を私が書くから出さないか」といったんです。そしたら「星さんは、若松市史を書いたことは知ってますけれども、それ以外は書いたものはない」と最初は断られたんです。しかし、いろんなデータからいって絶対売れるし、私自身、自信をもってるといったら向こうから回答がきまして、「原稿料は出せないけれども、三〇Ο〇部だけ出してあげよう」ということになったんです。それが『会津藩燃ゆ』というタイトルをつけた最初の本だったんですけれども…。あっという間にその本が三〇〇〇部売れまして。追加追加で、どのぐらいになりましたか。七刷か八刷くらい売れまして。その会社では私が出すものはフリーパスで全部本にしてくれるという?ラッキーな話になりまして。それで、ずいぶん、その出版社から本を出したんです。
 で、私の本、出しすぎたせいか去年出版社が倒産しましてね。責任を感じているんです。私の本は売れたんだけれど、調子にのって他の本を出して、それがダメだったらしいという話を聞いてほっとしてるんです。出版社も、非常に今、厳しい状況です。それは、長野県の出版社だったんですけれども、長野県の出版社でも東京その他に本は並びます。で、東京の出版社がそれを見るわけです。「なるほど、おもしろいことを書いている男がいるようだ」と。で、すぐ角川書店の方から電話がきて、「それを文庫にしたい」って。文庫にする場合に、まだ版権が出版社にあったんですけれども、その版権料を買い取るという形で角川書店で文車にした。それ以来、東京の出版社からも本を出せるようになったんです。
 私は、もともと作家志望でありませんし、小説家というより、出だしが豊田先生の門下生で、いろいろ調べ上げて書くということでスタートしているもんですから、やはりどうしても、ノンフィクションのやや学究的な資料を使いこなした、そういうものを書きたいという願望がありました。
 荒川勝茂の日記もそのひとつです。当時、マイクロフィルムで図書館にありまして。いろんな人が使って論文を書いていたんです。全国に売り出すだけの価値は、あるということで、一般の読書家が読むのは、新書版がいいだろうと思いまして中央公論に話をしました。大体、その歴史物はほとんど薩長なんです。本屋さんに行ってご覧になると分かりますけれども。高杉晋作から西郷隆盛、大久保利通、木戸孝充…もう全部に至るものが、日本の歴史というもの、特に幕末維新の人物史というのはほとんど彼らのもので、東北の人間で出ているなんていうのはまずないんです。今でも皆無に近いです。
 で、出版社がいうんですよ。「どうしてないの?」「売れない。有名じゃない」ということでなかなか出してくれないんです。中央公論新書と直談判しまして『敗者の維新史』という本を出して、そのあと『奥羽越列藩同盟』というものも、中公新社で出してもらって、今、第三冊目の新書を書いているんです。それは、みなさんご存じのとおり、東京の老人クラブの方が早稲田大学の図書館に入って古文書を見ていたら、それが会津藩のものであったということがありました。会津若松市で『幕末会津藩往復文書』という上下二冊を出したわけです。あれは、限定、たしか三〇〇部とか五〇〇部ということなんで、一般の人は手に入らないし、読むのも難しい。
 そこで『会津藩庁記録』と今度の『幕末会津藩往復文書』を使ってそれを分析しようと考えました。タイトルは、まだ決まっていませんけれども、『会津藩密事文書』という思わせ振りのタイトルになるかも知れない。幕末の薩摩藩、幕末の長州藩という本は、中央公論新書から出ているんです。ですから、それに対抗して、『幕末の会津藩』というのでもいいのかも知れません。これは、編集者との協議になりますけれども…。今、大体、池田屋騒動ぐらいまで書き終わったので、十一月いっぱいには書きあげて中央公論に渡そうかなと思っていたのです。
 今、改めて『会津藩庁記録』とか『幕末会津藩往復文書』を、見ますとやはり、会津はいかに、苦労の多い職務に、京都で就いたかというのがよく分かるのです。日々忙しいから、私もなかなか、『会津藩庁記録』を全部読むのは容易ではないのですけれども…。でも、本にしようと思って読むと、会津藩の人たちの苦労と、長州藩と会津藩の違いが明確に出てくるんです。一つ明快な理論を打ち立てることができるかなあ、というように思い始まったのです。会津藩の、京都守護職という使命は、非常に難しい仕事なんです。京都守護というのは御所を守りなおかつ、幕府も守る…つまり、松平容保の頭の上には、孝明天皇と、徳川将軍、家康以来の将軍がいるという、こういうことです。それに対して薩摩とか長州のスローガンは、幕府を倒して天皇家を中心とする政権を作るということですから、彼らの頭の上にいただいているのは一つです。会津藩の場合は二つの星みたいなものを仰ぎながら絶えず、努力をしていかなければならないという、非常に苦労の多い職務だったんです。どちらか一つに割り切れれば、ある意味でやりやすい面もあったんですが、両方立てなきゃならない。そういう非常に難しい職務を課せられて、会津の人たちが、大体、常時八〇〇名から一〇〇〇名、戦闘状態になると千数百名の人たちがここから京都にいって、苦労しているということが克明に分かってくる。特にこの度発見された『幕末会津藩往復文書』について、それを見つけた東京の古文書研究会の方々に手紙を出しまして、最も感銘を受けた部分はどこかと聞きました。その方々が読みおわるのに約六年かかったそうです。その古文書は早稲田大学で、あるところから買ったのですが、だれも研究する人がいなくて図書館の隅に積み上げてあった。それを、坂下の出身の方がその中においでになりまして、「会津だ」ということで、さらに熱が入った解読になったのです。
 この中には赤裸々な苦労がよく書いてある。金がなくてもうどうしようもない。クラスによっては行きっぱなしの人もいっぱいいました。やれ、子どもの教育がどうのとか、そういういろんな細かな、やっぱり悩みがこちらの留守家族の方にはある。それから、もう、ヤケを起こして公金を使い込んだ人も中にはいる…と。今まで会津藩というのは、規律が非常にしっかりしていて、そういうようなことはないというふうに一般的には言われていますけれども、やはり人間社会ですからね。そういう苦労に耐えかねて、使い込みに走る人もいたのです。それから、もう何度も京都守護職をやめて早く帰りたいという陳情は行なっていました。これは、『会津藩庁記録』にも何度も出ていますけれども…。全部幕府から押さえられる。しかも、幕府だけじゃなくて孝明天皇からぜひいてくれ、と。朕が最も信頼するのは松平容保だっていうふうにいわれますと、これはもう、なかなか簡単に帰るというわけにはいかない。徳川慶喜がいつも上にいて、指揮をとっていたんですけれども、当時は一橋慶喜ですけれども…、彼は、武力をもっていないんです。水戸家の出ですが、三卿の一つ、一橋ですから武力集団はもっていない。で、慶喜の頼りは会津藩の武力ですから。会津藩が京都から引き上げたら、慶喜はタダの人です。なにもない。裸の王様になるから、絶対(会津藩を)帰したくない。
 それで、行って二年後くらいに容保はたいへんな病気になって、『藩庁記録』を見ますと、ほとんど毎日のように寝ているんです。背中が痛いとか、足腰が立たなくなったとか、まだ三〇そこそこなのに、とにかくたいへんな病気で、半年ぐらい寝たり起きたりしているんです。子どももいない。そこで、慶喜が考えた…慶喜だけじゃないんです…朝廷、貴族の一部も考えたんですけれども…この際、養子を貰ったらどうだというんで、慶喜の弟の、水戸家の一五男でしょうか。たしか、昭武を養子、内縁をするんです。それは最終的には、そのまた、下が養子になりました。会津藩は、慶喜の弟が養子に来てしまえば、次期会津藩主ですから、もはや一橋、徳川、水戸家の間に、完全に挟まってしまった。片や、天皇からも信頼される。京都に公用局というのがありまして、日々折衝に当たるんです。薩摩に行ったり長州をのぞいたり、幕府の二条城に行ったり。宮家…中川宮に行ったり、情報収集に追われているんです。会津藩は武力集団だといわれていますけれども、軍備の研究はたいへん遅れたんです。頭のいい人はみんな文官に任命したんです。で、武官というのは佐川官兵衛みたいに、もうとにかくすぐ怒って人をたたき斬るとか、そういう手合いだけが、武の方にいって、文武のバランスを欠いている状況が幕末に出ているんです。なんでもバランスを欠くと、非常にまずい結果になるんですが、そういう状況で一敗地にまみるんです。この辺のことは、みなさんも、ご存じのことですから、この程度にしまして。
 さて、今日の演題の山川健次郎と出羽重遠ですが、二人は本当に偉い人で大人物なんですが、全国的にいうと意外に知られていない人でもまたあるんですね。
 山川健次郎は、白虎隊員だったんですが、年齢が一つ足りないということで留守隊になり、籠城して、また白虎隊に入っているから白虎隊員といって、いいと思うんですけれども…。彼は、長州の奥平謙輔の庇護を受けて、若い時と少年時代に勉強して、薩摩の黒田清隆の発案によるアメリカ留学制によって、アメリカに渡る。そういう意味では、敵方と関係の深い人なんです。山川は、当時の留学生は明治政府の高官になるわけです。したがって、法律とか行政とか、財政とかを勉強する人が非常に多いんです。
 ところが、山川健次郎は、会津が負けたのは、理工科系の知識が遅れていた部分があると感じていたようです。例えば、会津藩の戦法をとっても洋式部隊に編成替えしたのは、鳥羽伏見で敗れて会津に戻ってきてからですから、それまでは本当に、槍と刀を主体にした…極端にいえば火縄銃の戦法ですから、薩長とはすでに数年の開きを実はもっていたんです。なぜそうなったか。そうした研究開発をする人的な余袷がなかったし、財政的にもなかったということですか。やっぱりこれからの時代は法律や経済も大事だけれども、科学技術の振興だということを彼は考えたと、自分の伝記の中にも書いています。したがって、理学を勉強するんだと彼はいって物理学の道に進むわけです。日本の物理学というのは、まあ、湯川秀樹や朝永振一郎とかノーべル賞を貰った人が何人もいて、世界的なレベルにあるわけですが、実は日本の物理学界のトップ…最初に東京大学の物理学の主任教授になったのが山川健次郎なんです。ですから、日本の物理学の先駆者というのは、山川健次郎なんです。山川健次郎によって日本人に初めて物理学というのは持ち込まれている。そして、今日、ノーべル賞の研究者が何人も輩出するような物理学というものを日本に作ったその人は山川健次郎なんです。ところが、なぜかそういう認識も非常に薄い。
 山川健次郎の直弟子というのは、田中舘愛橘といって、これは南部藩の人ですけれどもこの人は非常に有名です。第二号の弟子は、長岡半太郎という人です。この人も非常に有名です。先生より弟子の方が非常に有名である。田中舘愛橘なんかは岩手県の福岡に行ったら「田中舘愛橘記念館」というものすごく立派な記念館ができています。まさに神様級の扱いを、彼は受けています。長岡半太郎も横須賀に、記念館がありまして、それなりの地位を築いておりますけれども山川健次郎先生に関してはそういうものは何もない。これは一体、どうしたもんかと、山川健次郎を考える度に私はいつも思うことなんです。
 ただ山川先生は、田中舘愛橘と長岡半太郎を、ドイツに留学させて研究のメドが立つとさっさと、物理の先生をやめまして主に大学行政の方にかわるんです。で、東京帝大総長をやり…それから、九州大学、京都大学総長もやる。普通は東京大学総長とか京都大学総長ぐらいになれば大御所です。今でも、内閣総理大臣と給料が同じなのは、東大総長あたりですからね。明治の時代においては今の総長よりももっと社会的地位も高かったんじゃないかと思うんですけれども…。山川先生は「私が今日あるのは、会津藩のおかげである。そして、自分はたまたまそういうポジションにいるけれども、下北半島などで貧しい暮らしをしている人も多い…」といわれ、高位高官に安住することはできない、といって…、東京大学とか京都大学とか、九州大学の総長をかなり早い時機に退官しまして、一介の教師になるのです。九州に作った明治専門学校、今の九州工業大学ですけれども、そこの理事長になり青年の教育に当たる。富士通の工場に、九州工業大学の卒業生がいて、私も、連絡をいただいたんですけれども…。「私の誇りは山川先生である。うちの工場が会津にあって、私もここに来たんで、なんとか山川先生を顕彰しないといかん」と、山川先生の討論会を会津でやりました。それから今度は、武蔵高等専門学校、(現在)武蔵大学というのが東京にありますけれども、そこの、校長をやっている。旧制高校ですから、年代でいうと、ま、二〇歳前後の青年たちに人間教育を施している。象牙の塔にふんぞり返っていないで、庶民レベルのところに降りて一生過ごしたというのが、この人の最大の偉さではないかなと思うんです。
 実は一月から産経新聞の東北六県版に…日曜版五Ο回連載で、山川健次郎の伝記を書くことになっています。一回が四〇〇字四枚の原稿なんで、まあ、五〇回書いても二〇〇枚ぐらいの原稿で一冊の本にちょっとならないのですけれども、それは書き足していずれ一冊の本にしようと思っています。それを始めるのでぼつぼつ、書いてはいるんですけれども…先生はいつも会津のことを忘れない。大体、人間というのはあるレベルに達し偉くなりますと、ついつい自分の生れた所を忘れたりしますけれど、そういうことは一切、ない。山川健次郎の妹の捨松さん、大山巌の細君です。率直に申し上げれば、彼が東大総長になったのは、若干、大山家のヒキがあったかもしれない。また、大山が後ろについていることによっていっそう山川健次郎の重みが増したということがあるかも知れませんけれども…。だからといって、山川は絶対に薩長のことは許していないというのがあるんです。長州の人から庇護を受けて…長州のことも知っている。薩摩の庇護でアメリカに留学する。妹の夫が薩摩だから、両方の立場がよく分かる人です。しかし、薩長を許すことができないというのが、山川健次郎の固い信念でした。それでもって、東京大学総長をやめたあとに会津藩の研究を始めるのです。
 『会津戊辰戦史』という、これは有名な本です。私はいつも机においていますが、これは史料と膨大な時間といろんな人の積み重ねでできた本だと思います。もう一冊、『京都守護職始末』。これは、兄の山川浩の名前になっていますが、これも実際に作ったのは山川健次郎です。会津はいかに正義であったかを彼はまとめていったわけです。今日、我々は非常な恩恵を山川先生から受けているわけです。
 山川健次郎が抱いたもう一つの大きなシナリオは、朝敵の汚名の返上です。秩父宮妃殿下の誕生となるわけですが、これは山川健次郎が、ウルトラCみたいな感じで描いた大構想なんです。これは、彼の、人脈、特に薩摩の大山との関係ということによって実現していったんです。薩摩、長州ともに、山川さんのおっしゃることは逆らえないということでもって、とんとん拍子に進んでいったのです。山川先生は本当の意味でやっぱり偉い人だと思います。
 先生には「フロックコートを着た乃木将軍」とうニックネームがついていました。清貧で曲がったことは嫌いでした。講演会に行っても報酬は受け取らない。それから、宴会はめったに出ない。芸者さんのいる宴会は、とくに嫌いでした。「そういう華やかなことは、おれはできない」ということで、さっさと帰ってしまうんで、設営した人はもうびっくりしてしまう。これほど神様みたいな人はいない。現代の政治家を見てますと最も求められているのは、山川健次郎みたいな人間像じゃないかという感じがします。どんな立場になっても清貧の心を忘れない。私は、産経新聞に、かなり力を入れてこの部分を書こうかと思っております。
 出羽重遠という人も、山川とは仲がよかった人です。しょっちゅう山川家に出入りして、二人はいろんなことを話し合っています。出羽重遠は山川健次郎より一歳ぐらい下の人ですから、まだ、白虎隊の前です。よく、戊辰戦争の本に出てきますけれども、会津の子どもが凧揚げをしていたと。あの戦争の最中に。それが出羽重遠ということになってます。出羽重遠は、貧乏士族の子弟で日新館にも入れなかったんです。私は、日新館に士族の子どもがみんな入れるのかと思ったら、中級武士以上でないとなかなか入れない。彼は、別のところで商人の子どもなどと一緒に勉強するんです。だから、ある意味で子どもの頃からの反骨精神があったかも知れません。勉強もできるが、喧嘩も強い。下北半島につれていっても、勉強させることができないわけです。柴五郎なんかは、裸足で走り回って、食うものがないような状況です。やっと青森県庁の給仕になって勉強を始めた人なんです。そういう状況ですからどうしようもない。出羽の父親は秋月悌次郎の門下の一人でありまして、秋月悌次郎が非常に出羽のことをかわいがっておりましたので、秋月の口利きで、彼は、静岡の方に預けられるのです。徳川慶喜はじめ、旗本、幕臣は駿府に移りましたので…。そこに、静岡藩学校…沼津兵学校というものを作り、青少年の教育を始めたのです。そこに下北の斗南藩から、出羽重遠を送り込んだんです。彼は、静岡藩学校で勉強したんです。そして、そこからどこか上級学校に進むに当たって、授業料がかからない海軍兵学校−軍兵学寮といいましたけれど、そこに、出羽重遠は静岡藩学校から入学するわけです。柴五郎も、陸軍幼年学校に、青森県庁の給仕から入学するわけですけど、これも、お金がかからないということで、入るわけです。
 海軍兵学寮に行ってみたら、全部、ほとんど薩摩の人間でした。上から下まで薩摩であり、「お前は会津か」と賊軍みたいな目で見られる。イジメの対象になるようなところに彼は入っていくわけです。ところが、その薩摩の連中ばかりの中に会津の一人がぽつんといるっていうのは、薩摩の人にとっても何か気になる存在です。オヤジとかジジイから聞いたところによると、会津は結構強いらしい。相当の戦争をした。そこから来たとなると、何となく、話を聞いてみたいような気もする。上級生に、山本権兵衛がいまして、彼が薩摩閥…薩摩の生徒を束ねているボスで…後に海軍大臣になるんですが、彼が上級にいて「お前、会津か」というんで、彼にかわいがられるんです。やっぱり、そういうヒキみたいなのがないと、なかなか人間というのは、茅が出ることが難しいので、山本権兵衛という人はなかなか偉い人です。なんせ、薩摩の連中は薩摩だというだけで威張っている。当時はどこを見てもみな、県知事をはじめ、薩摩、長州のどちらかです。警察署長に至るまで全部そうなんですから…。なんでも自由になるわけです。そうすると日本もちょっとおかしくなる。やはり、違う血を入れなければ、だめなんだと…。黒田清隆なんか、そういう考え方で会津藩と庄内藩から留学生を一人ずつ入れようということで、山川はアメリカに行くことができたのです。山本権兵衛は「会津の出羽というのはなかなかいい男だ。腕っ節も強いし、剣道にしても柔道にしても強い」ということで、たえず自分の部下にしていくんです。そのあと、東郷平八郎にも出会って…東郷というのも薩摩ですけれども…山本権兵衛の引継ぎもよかったのでしょう、東郷平八郎にも非常に可愛がられて、日本海会戦では、東郷の直系の司令官となり、日本海会戦に参戦。あの大きな戦果をあげたのです。出羽はのちに海軍大将になるんですけれども、山川にはよく会い、日本の将来のこと、あるいは会津のことを話し合ってるんです。
 そして、勢津子妃殿下の誕生にあたっては出羽もずいぶん骨折って、薩摩なり長州なりの人脈を使って丁解を得るようにしています。大正天皇の奥方が、会津から秩父宮の妃殿下を迎えることに乗り気でした。「会津っていうのはどういうところだか見たい」といわれ、その時に案内したのが…出羽重遠です。鶴ケ城とか飯盛山を案内して、なるほどこういうところかと、たいへん喜ばれたということです。それも出羽と山川の根回しなんです。彼はそのあと脳溢血になりまして、それで倒れて、当時はテレビはないので、ご成婚の日には…寝ながら次の日の新聞で見ているというような状況でした。
 しかし、二人とも、そういうような友情をもっていた人です。会津から意外に早い時代に海軍大将が出たんです。その後なぜか会津若松から、海軍兵学校に入る人が少なかったようで、そのあとの海軍というと、東北では仙台と盛岡、米沢です。例えば、米内光政は盛岡です。それから、米沢からずいぶん海軍の高官が出ていまして、米沢の閥みたいのができているんです。会津はどうしたんでしょうか。陸軍にしても海軍にしても…。やはり平和が大事ということを考えたんでしょうか。柴五郎の後継者も出羽重遠の後継者も見当らない。そういう意味ではちょっと寂しい気がします。
 私は、山川健次郎の兄の山川浩の伝記を二、三前に書いたことがあるんです。そのとき、山川さんのうちに取材に行ったのです。現在のご当主が、「実は、うちの息子は貿易商で、全然歴史に興味がない。会津藩といっても、全然ピンとはこない。山川といっても、全然興味も関心もないというのがうちの息子です。私も七〇いくつになってね。息子に会津藩がどうの山川家がどうのといってもしかたがない。今、若干の遺品があるわけですが、これは、どうしたもんか。ま、息子(の代)になったら、なくなるにちがいない。といって私も会津若松に知り合いもないし困ったもんですね」というんです。山川家のご当主がです。不思議な話もあるもんだなと、私は思ったのです。会津藩の籠城戦の時の、軍事総督をやった人が山川浩です。斗南藩の最高指導者になっていたのも山川浩ですから…。その山川家が会津若松に知り合いがいないと、末裔がおっしゃるということは、不可思議な話でした。とても本当の話と思いにくいんですが、そうおっしゃるんで、「そうですか」といいました。それで、遺品…遺物をとりあえずなんとかしなければなんないというんで…かなり前ですけど、私はどうしたもんかと、その時、考えたんです。で、たまたま頭に浮かんだのが、県立博物館館長の高橋富雄先生です。博物館というのは、たしか分厚いコンクリートで作ってあって、収蔵庫は、地震があっても火事があっても、燃えないはずだと。とりあえず、ここに預かってもらうのがいいんじゃないかなと思って、高橋富雄先生に電話したんです。そうしたら、「わかりました。お預かりします」と…。完全に寄付じゃなくて寄託という形だったかもしれませんが、それで、すぐ、博物館の学芸員が東京に行きまして、リストを作ってこちちに収藏してあります。ただ、ここの場合の難点は、いつもの常設展示ではないんです。したがって、山川さんが一度見に来たら、どこにあるのか分からん…。それはそうです。地震になつても壊れないものの中に入つているわけですから…。見えないわけです。で、たまたま何かの時に、戊辰展というときに山川家のものを出すというわけですから、「絶対ご安心ですから。ちゃんと立派にしまってありますから…」と私はいったんです。
 山川健次郎についても、もう少し広く認識するように、私自身も努力しなければいかんと思って、これから書き始めるのです。
 出羽重遠についても、末裔の方々にお会いしましたけれども、かなりのものは「会津藩校日新館」の方に寄託されたんです。その外に、かなりのものが残つていまして、現在の方が、いずれかの機会に会津若松市の方に、寄託したいということを申されています。ですから、戊辰戦争記念館のような、公的な設備がここにあると、非常にいいのではないかという気がするんです。残されたものの行き場がないというんでは困るという気がするんです。会津藩の場合は、多くの人が会津若松から出ていったということにも関係しまして、その辺のコミュニケーションが、やや、とれていないような部分もなきにしもあらずなんです。そうしたこともあって、文化財の保有の面は多々問題があるようです。
 会津藩に内藤介右衛門という武将がいまして、会津藩の藩兵を率いた実戦部隊の、彼は将官でした。最終的には家老ですけど、弟が梶原平馬といって、政務担当の家老で、籠城戦を仕切るたいへん優秀な人物でした。その内藤介右衛門という人の末裔は、青森県の五戸町に住んでおります。三沢からむつ市にはすぐ行ってしまうのですが、五戸は、ちょっと入るんです。私は、何回も行ったんだけれども、どうも、五戸だけはちょっと寄りにくくて寄らなかったのです。ある時、五戸の内藤さんのところに思い切ってお墓参りにいったんです。そうしたら、お寺の住職の奥さんが出てきて、「どこから来たんですか」というから、「福島県です。内藤のお墓を一つ…」「そうですか、内藤さんのうちはそこです」というんです。お寺の真ん中が内藤さんの現在の方の家だったんです。真ん中でいわれて、当主の内藤さんがおいでになりました。内藤介右衛門からすると三代目になる方です。
 内藤さんは、会津籠城戦の最高指揮官の一人ですけれども、薩長軍が入りこんで来た日に両親から奥さん、子どもまで全部が城に入れなくて自刃するんです。内藤家の場合は、泰雲寺に、たしかお墓があります。家老の両親、妻女ですら救えなかったような驚天動地があの日の出来ごとだったんです。話があちこちにとびますが、なぜ、敵がそこまで来たのに避難体制のとれないままに、あの日の朝を迎えてしまったのかと、疑問な点があるんです。内藤は下北に行ってから、会津の人と再婚し、現在の人はその末裔になります。
 「泣血氈」というのがあります。長崎の商人、足立仁十郎から会津藩に贈られた、赤い絨毬です。あの降伏の式の時に路上に敷いて、松平容保がそこに立って、謝罪をした、あの絨毬があります。その日出席した内藤介右衡門とか梶原平馬、萱野権兵衛ら何人かの人が切り取って、絨毬を分けあいました。それを泣く、血の、毛氈の氈「泣血氈」と名づけて、「この日を忘れないように」持ち帰ったのです。内藤家には、今も大事に保存してありました。私が内藤さんの家に行くと、「いや、よく来てくださいました」と、いちばん先に見せてくれたのが、その「泣血氈」です。まだ鮮やかな色が残っておりまして、高級な絨毯だったんでしょう。短刀で切って、切り裂いて分けたのですから、こういうふうに正四角形じゃなくて乱雑な形に切ってあるんです。これがあの有名な「泣血氈」ですか、と、私が手にとって眺めているうちに、内藤さんが、にわかに「鋏、もってこい」と奥さんにいって、何をするのかと思ったら、それを切るんです。チョキチョキチョ…。一尺四方くらいに切りまして、「これを星さんにあげる」というんです。こんな畏れ多いものを貰うわけにいかないと辞退したんですが、最終的には、私はこれをいただいて来まして、自分の部屋に、今、一番正面に飾っております。家宝みたいなものです。
 その時も、内藤さんがいうんです。うちの息子は横浜に行っていて、奥さんと二人きりです。古道具屋がしょっちゅう来て、その緋毛氈とか刀とか陣羽織とかいろいろあるんですが、売ってくれといって来る。「絶対売る気は、もちろんない」が、しかし、「私が死んだあとはわからん」とおっしゃるのです。
 まさに山川家と同じ話をそこで聞きました。今回は会津若松市の方にお願いをして、今、市の方でお預かりしてもらいました。
 その時、内藤さんがおっしゃったことが一つあるんです。どうも、会津若松の歴史保存には不満な点がある。内藤さんが、ある時、会津若松に行ってみたら、内藤介右衛門の写真が飾ってあった。でも、よくみたら、それは自分のオヤジだっていうんです。オヤジが、ちょん髷を結って、祖父になって、そこに飾ってあった。私はその話を聞いたときに、なんと答えていいかわからず、「そうですか。あー、そうなんですか」というしかなかったのです。
 当時、写真を撮った人というのは…松平容保は何点か写真がありますけれども…一般の武将までは、なかなか写真はありませんでした。その息子だったら、ちょん髷をかぶせればオヤジに似ているだろう、という発想だったのかもしれませんが…。末裔が見たら怒りますよ。オヤジに似てそっくりの人だったのかなあとも思ったが、あまりにも似過ぎてると、どうみたってこれほどの瓜二つとは思えない、とおっしゃるんです。これには非常に落胆したといっていました。それはなにも会津に限らなくたって、薩摩でも長州でも、そういうことはあると思います。それは仕方がないかも知れないが、困ったことです。
 あえて、その言いにくいことを、今日は申し上げたわけですが、他のところで話をするよりも直接、会津の人にそういうことがあったということを申し上げた方が…いいなという私の判断で申し上げたわけです。
 先人をどのように顕彰するかっていうことは、非常に地域社会にとって大事なことなのです。盛岡に行きますと、盛岡市立の「先人記念館」がありまして、盛岡が生んだ原敬、それから、米内光政とか金田一京助とか、石川啄木まで、すべての人が、ずらずら並んでガラス張りのケースの中に入っているのです。そういう立派な施設があるから、子どもでも、盛岡からこういう人が出てるということが、一目瞭然で分かる。盛岡市立の記念館だから管理も行き届いていまして、私の知ってる盛岡人は威張ります。おれは金田一京助の学問の世界に触れ、学問の道をめざしたのだとかいうわけです。原敬、これはものすごい…。今日に至るまでいろんな影響を、先人が与えているのが盛岡です。
 で、隣の水沢にいきますと、これもすごい。町の中に「高野長英記念館」がある。これは反逆児みたいな人ですけれども…しかし、たいへんな男です。それから、「後藤新平記念館」があって、「斎藤實記念館」があって、展示公開している。小澤一郎も水沢ですけれども…結構プライドが高いです。
 会津若松の場合も綺羅星のごとく先人がいるわけです。野口英世まで含めれば、それは盛岡どころの騒ぎでない。会津の高校生から中学生まで、たいへんな誇りをもって、勉強したり、何か夢をもったりするんじゃないかと思ったりします。だから、ぜひそういうものは、将来の時点において作るべきではないかなと思います。
 例えば女性問題にしても、山川捨松、第一回の女子留学生ですが、この前NHKで、津田梅子の津田塾のことをやってましたが、最大の協力者は山川捨松です。若松賤子みたいに、クリスチャンで、学者になって文壇に出た人もいる。昨今では伊東正義先生もおいでになられる。内閣総理大臣にならないところがちょっと惜しいですけど。これがなってれば「盛岡がどうした」となるんですが、ともあれ、そういう施設がほしいですね。
 私は、NHKの歴史講座というのを、NHK郡山文化センターでもっていまして、生徒さんが二〇人くらいいるんですけど、近く萩の方に研修旅行に行くんです。福島空港から便が悪くて、新潟空港から福岡にいって、初日目は高杉晋作をまつった下関の「東行記念館」に行き、一坂太郎という若い研究者がいまして、話を聞いて、翌日は、いよいよ萩に乗り込んで、萩の人々とのミニトーキングをする予定です。みなさん、会津でなくて郡山の人なんですが、敵陣に乗り込むような心境でいるわけです。私は会津じゃないんだから敵対視する必要もないんですが…会津のことを長くやっていると、なにか向こうが敵み たいに見えてきたりするんです。
 萩のすごいところは、全国公募で学芸員を採用しているんです。だから、神戸とか大阪とか東京都から、萩の歴史を勉強したいという青年が試験を受けて入って来てるんです。だから、エッと驚くくらいの若い人がいます。古文書なんか、すらすら読んでいる。そういう人はかならず出てきて、我々に応対するんです。それが一人や二人じゃない。もう、何人もいますから、どんな場合でも対応できるという体制を、萩はとっているのです。
 それから、山口県立歴史博物館を萩に作っていまして、「近代日本の発祥地は萩である」というコンセプトになるわけです。
 それからもう一つは、萩は、交通の便の非常によくないところです。新幹線も通っていなければ、高速道路もない。新幹線で行くと、あまり聞いたことのない駅で降りて、バスに乗って行かなければならないんです。それで、バスとかタクシーで行くと、萩の町の入り口に「道の駅」がある。ちょうどここから萩だというところに、松下村塾の、刀をさした青年が数人、等身大で並んでいて、睨んでいるわけです。これには、最初から一本取られたという雰囲気なんです。
 だから、会津若松はうかうかできない。敵がそうなら、こちらも白虎隊の群像をどこか見えるところにおく。「いやあ、会津に行ったらど肝を抜かれた。高速道路のインター降りたら、白虎隊が刀さしてだーっと並んでる…これには参った!」というようにしないと、とてもなかなか、現代の、歴史戦争には勝てないという感じがあります。ただ、弱点があります。その松下村塾の群像は、金がないから張りボテなんです。本物の銅像じゃないんです。触ってみたら、なんかベこっといきそうな…張りボテなんです。いずれ本物にするとおっしゃってますが。その前にこちらで、本物のヤツを作って並べて迎え撃たないと、また返り討ちにあったりしてはまずいというのを、一つ申し上げたいのです。
 同じものが、薩摩にもあるんです。鹿児島の駅に降り立つと、ダーンとこの、青春群像というのが立っている。薩摩藩は幕末に、イギリスに留学生を出したんです。十数名くらい。当時、海外渡航を禁止されてますから密航です。で、薩摩藩の若手を選りすぐってイギリスに留学させるんです。その時に行った人が文部大臣になったりして、それぞれの分野で明治の中で活躍するわけですけれども…。その人たちの銅像がずらーっと二〇人ばかり、見上げるくらいに、並んでいるのです。我々の先人は、密航までして勉強して、帰ってきて日本に尽くしたかという姿を、毎日子どもたちは見ているわけです。毎日見てれば何も感じなくなるのかも知れませんが…。
しかし、やはりそういうものを作るという精神は、見習う必要があるんじゃないかと思いますね。会津若松駅には、たしかに白虎隊の像もありますが、あれはちょっと小さすぎます。偽物じゃだめなんだけど…。とにかくそういうアイデンティティというのが必要かなあという気はします。
 最後に一言だけですけれども…よく講演会にお招きいただきまして、今月は庄内鶴岡でも講演会がありました。「会津藩と庄内藩」というタイトルでしゃべらせてもらったんですけれども、庄内藩の場合には、会津が中心になって、あの東北戦争を戦ったんだ、したがって、戊辰戦争のことは会津に行ったらみんな分かる、そのような施設がほしいということを、庄内の人もいっておりました。なんといっても、幕末維新の天下を分けたのは薩摩、長州と会津ですから、おおいにその歴史に誇りをもって、まず、先人も讃える。そのことによって波及的効果はかなりあるんじゃないかなと、私は思います。大塚会長始め、皆さんにもご努力をいただいて、新しい文化歴史開発というか、そういうものをしてほしいという気がいたします。時間がまいりましたので、これで終わらせていただきます。何か質問があれば私の答えられる範囲でお答えしたいなと思います。ご静聴ありがとうございました。

(拍手)



戻る
株式会社メディアハウス