星亮一 今日の一言

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2003年7月31日(木) 25年、初めて語ったあの日
これは読売新聞の見出しです。
蓮池さん夫妻が、語った25年前の悪夢は、本当に許せません。
北朝鮮は依然、拉致家族の子供立ちを返そうとはしていません。
「タバコの火をかしてくれ」
といって近ずき、3人で殴ってボートに乗せ、さらに船に乗せて拉致した北の犯罪は、身の毛もよだつ恐ろしいものです。
私は蓮池さんが拉致された海もこの目で見てきました。
ごく普通の海岸でした。
そこヘ北の工作員が侵入してきたのです。
何たることかです。
日本がいかに甘く見られていたかです。
小泉さん、菅さん、何が何でも蓮池さんらの家族を取り戻し、北朝鮮に謝罪させるべきです。
万景峰号の入港などとんでもない話です。
これは日本国家の問題です。
北に対してはこれまで以上に強い態度でのぞみ、
これまでのような甘い態度を見せるべきではありません。
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2003年7月30日(水) 会津戦争撮影の日々
中公新書の「会津戦争」に使用する写真の撮影のために会津を飛び歩いています。昨日は、会津軍が国境警備のために軍を置いた湖南町の中地口の撮影に行きました。いくら地図を見ても見当たらない。
飛び込んだ店のおばさんが、
「それは中野だ」
といいました。名前が変わっていたのです。
会津戦争の時、会津藩は郡山や長沼、白河との国境に兵を配置し、薩長軍の侵攻を防ごうとしておりました。その最大の基地が中地でした。中地は猪苗代湖に面した集落で、現在は郡山市の一部ですが、かつては会津藩領でした。通称湖南といいます。
旧中地は郡山から湖南に抜ける三森峠の麓にある集落で、右に白河に抜ける勢至堂峠、左に郡山から抜けるもう一本の峠、御霊櫃があり、ちょうど、中間の要衝でした。
ところが完全に裏をかかれ、二本松を発した敵の軍勢が、郡山市熱海の石筵から母成峠を攻め、ついに国境を破られたしまったのです。ここは軍勢が少なく手薄でした。
中地で農作業をしていた老人に会いました。
「じいさんから聞いた話があってな」
「どんな話ですか」
「じいさんの親父、ひいじいさんは、戦争の時10歳だったそうだ。よく戦争のことを話したそうだ」
「ほお」
「官軍が攻めてきて、ここも大騒ぎになった」
「どんな具合に」
「家ごとに触れを出して、逃げたそうだ」
「そういう話が残っているんですねえ」
「うん、ここは会津領だからな」
じいさんはこともなげに、おしゃった。
母成峠を落とした敵の軍勢が、一部、湖南にも回ってきたのかもしれなかった。
今日は猪苗代の撮影です。
月末には原稿と写真を送りたいと思っています。
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2003年7月29日(火) ノモンハン雲行き悪し
もの事は一度、中断すると気運が盛り上がらなくなるものですね。
ノモンハン旅行、一緒に行くと最初に申し込んでくれた人が20人もいたのに、目下、6人ほどに減ってしまいました。
「だめかなあ」
私はいささか悲観的になっています。
旅行企画の佐川さん、
「もうちょっと待ってください」
という。
出発予定日は8月の25日です。
残された期間はせいぜい1週間、
最低15人は集まらないと、団体にはなりません。
今年はやはりだめかなあ。
どうも、つきのない初夏です。
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2003年7月28日(月) 講演会続報
会津高校同窓会の講演会の一方的なキャンセルは、反響を呼びつつあります。
名古屋の方からメールがあり、信じがたい理不尽な話だとありました。
会長はどう考えているのか、問い合わせるべきだという声もありました。
あるOBは「現執行部は指導力が弱いのではないか」といっておりました。
ともあれ、
理由のよく分からない電話一本でのキャンセルは、
困りますね。少なくとも責任者のコメントが必要ですね。
昨年、在校生を対象に講演をさせていただき、自分としては、会津高校に学ぶ生徒諸君と
絆が結べたと自負していただけに、
大人たちの、「約束違反などどうということもない」という思いあがった態度は、どうかと
思います。

ところで、久しぶりに駅の売店でサピオを求めました。
教育特集でした。
愚にもつかない大学が多すぎる、
税金の支払いを止めるべきだという声もあれば、徴兵制をしいて
若者を鍛えなおせ、それができなければ、
1年間のボランテイアを義務付けるべしとの声もありました。
考える時期に来ています。
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2003年7月27日(日) 消えた講演会
会津高校同窓会から、会津藩と長州藩について講演して欲しいという依頼があったのは、半月ほど前のことでした。
9月14日に会津若松で同窓会があり、そこで話をということでした。最初の電話は会議にかけるのでという電話で、二回目は決まりましたという電話でした。
実は先日、会津若松で萩と会津若松の市長らの座談会があり、私を司会をして、会津藩と長州藩の和解について話し合っていました。
同窓会の幹部の何人かの方がこの座談会を聞き、またテレビで放送もされたので、
「お呼びしたい」
とのことでした。
座談会で、私はいつまでもかたくなに拒否するのはどうかと思い、和解の展望にそって努力すべきだと申し上げました。
会津がいつも正義で、長州はいつも悪という対立構図は、必ずしも歴史を正しくとらえてはいないと思っていました。
同窓会の事務局では、そうしたことも話してくださいということでした。
ところが昨日、電話があり
「実は幹部の一部に異論があり、講演はなかったことにして欲しい」
ということでした。楽しみにしていましたので、驚きました。
「理由はなんですか」
「同窓生の話を聞くべきだということになりまして、本当にすみません」
事務局の方は恐縮していましたが、
理由にならない理由であり、
正直、納得できかねました。
人生、いろいろあります。
こうしたこともあるでしょう。
しかし、どうもすっきりしません。
心は曇りです。
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2003年7月25日(金) 取材と打ち合わせ
取材と打ちあわせのため、本日と明日の一言は休載させていただきます。
日曜日から復活致します。
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2003年7月24日(木) 会津戦争異聞
中公新書の「会津戦争」は大変、難航しています。
史料が結構、多くどうつかうかが、難しいのです。
会津藩兵は索敵は苦手で、大軍が移動しても、どんな目的で移動したのか、行き先はどこか、などのは、あまり関心を示さず、
「来るなら来い!」
と気炎を上げ、
酒盛りをしているうちに、敵が攻め込んできたなどが、どうも多いのです。
情報戦がきわめて苦手だったようです。
捕虜を生かしてつかうことも意外に下手でした。
薩長軍は捕虜から会津軍の実情を詳しく聞き出しておりました。
これまでにないインサイドスト―リイになりそうです。
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2003年7月23日(水) 夢ふくらむノモンハンの旅
星亮一と行くノモンハンの旅、8月25日出発で、調整中です。今の予定では25日に新潟空港からハルビンに飛び、ここから列車に乗って、車中泊をして、満州里に向かい、ここで一泊、翌日はハイラルに向かう予定です。
満州開拓の奥地です。
満州の面影が色濃く残っているといわれ、期待しています。
ハイラルからは阿木古郎鎮ヘ、ここで体調を整えて、いよいよノモンハンです。
日露戦跡の見学、雄大なホロンバイル大草原ツアー、たまらない魅力です。
帰国は31日です。
これは滅多にいけない大旅行です。
目下、準備に大童です。
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2003年7月22日(火) 土井さんと金正日
社民党の土井さんは自分は悪くないと開き直り、見苦しい限りです。誰も土井さんを信じないのに、本人はまったくわかっていないのは悲劇です。これで社民党は瓦解するでしょう。
金正日もまったく同じです。こちらは核兵器を持っているのだから一層始末が悪いわけです。昨今、米国に決戦を挑むと、威張っているようです。
悪魔の独裁者の元で暮らす、北の人々は実にかわいそうです。
我々にとっても戦争が現実のものに成りつつあるわけで、こわい限りです。
日本も本腰を入れて北の対策を練るしかないでしょう。
それにしても世のなか、ますます不透明になってきました。
土井さん、いい加減にしてください。透明にしませんか。
時おり地下壕にこもって、戦争準備に没頭している金正日さん、
引退する考えはないのですか。
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2003年7月21日(月) 雨の撮影
今日は会津戦争の激戦地、郡山市と猪苗代町が交差する石筵の母成峠に出かけて、撮影をしました。土砂降りの雨で、一瞬の晴れ間を狙っての撮影でした。ここは今、グリーンラインという有料道路が走っていて昔の面影はありませんが、石筵の集落からのびる旧道には、かつてのイメージありました。
会津藩の軍事局は現在の国道49号線の中山峠から侵攻すると見て、この周辺に主力部隊を貼り付けていました。もっとも手薄で、難所の母成峠を攻められ、国境を破られてのでした。
帰ってきて、ホッとしているとラジオ福島の小林さんから電話があり、会津藩と新選組について連続8回の放送を編成したいので、原稿を書いて欲しい旨の電話がありました。
1回、400字4枚、全体で32枚ということでした。
ちょうど成美堂出版から出る「図解検証新選組」の会津藩の部分を書いている最中でした。
「分かりました、それでどんな形式で放送するのですか」
「女子アナが読み上げます」
「なるほど、それは面白いですね」
「いつからですか」
「9月の上旬です」
「なるほど、なるほど」
また忙しくなりました。

それから昨日の会議ですが、
山川健次郎の銅像を来年7月までに日新館に建てることを決めました。
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2003年7月20日(日) 会津若松へ
今日は山川健次郎の胸像建設の会議のため会津若松です。
あわせて『会津戦争』の関連写真の撮影です。
朝8時、これから出かけます。結果は明日、ご報告します。
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2003年7月19日(土) 土井さん、もうおやめなさい
秘書給与流用疑惑の問題で、辻本前議員と土井さんの元秘書が逮捕されました。
この問題、最初から土井さんの責任が問題になっていました。
北朝鮮の拉致問題以来、土井さんという政治家に不信感が募っていました。拉致はないと主張し、発覚後、国民に何らの釈明もなかったし、今日にいたっても実に冷たい態度を続けています。
社民党という政党は残念ながら、もう国民の信頼を失ったのです。
今回の逮捕も、ある意味で社民党が抱える本質的なところに迫ったのではないでしょうか。
自分はいつもただしくて、悪いのはいつも他人という土井流政治の破綻がきたのです。
土井さんは、潔く引退なさるのがいいと思います。
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2003年7月18日(金) ノモンハン続報
今日、日本大学大学院の安全保障研究会の高木さんからメールが入り、ノモンハンに参加と書いてありました。これまで20人ほど希望者がいたのですが、いったん延期を決めたので、すべて振り出しに戻ったのですが、それでも現在、参加者は5人になりました。
「15人にはなりますよ」
今朝の電話で佐竹さんは明るい声でした。
ノモンハンとは何か、
「ここを見ずして日本の現代史はありません」
というのが佐竹さんの持論です。
ノモンハン事件が発生したのは昭和14年です。
日本とロシアの国境争いに端を発したもので、従来はロシアの機械化師団の攻撃で、日本軍は壊滅したとされてきました。
「どうも違うようですよ」
佐竹さんはいいます。
どこがどう違い、真実はどうだったのか。
私もこれから勉強です。
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2003年7月17日(木) ノモンハン
新型肺炎が発生しなければ、私は、間もなくノモンハンに向けて旅をする予定でした。
新潟空港からハルピンに飛び、列車で内モンゴルに向かい、満州里、ハイラルを回り、ノモンハンにバスで入る予定でした。
来年に延期のつもりでいたのですが、旅行代理店の佐竹さんが見えて、
「どうでしょうか、やりませんか」
とおしゃった。
「ええ、大ジョブなのですか」
「もう解禁ですよ、なにせ、今年行きたい人が多くて」
「本当ですか、それでいつですか」
「8月25日から一週間です」
「何だって」
私は慌てて手帳を見ました。県文学賞の審査が入っていました。
自分で見る作業だから、事前に済ませる手もないわけではない。
「ただし、人が20人集まったらです」
佐竹さんはそういって、いそがしそうに帰ってゆきました。
どうなることか、またも落ち着かない日々です。
佐竹さんの連絡先
三矢トラベル、024−956−7116−。
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2003年7月16日(水) もう一つの会津戦争
中公新書「会津戦争」の最後を書いています。奥会津文化フォーラムで、只見町の飯塚さんに聞いた奥会津の戦闘を盛り込んでいます。
これまで会津戦争というと会津若松の周辺の戦闘でした。ところが、はるか離れた只見や田島周辺で、農民による戦争があったのです。田島については本に書いたことがありますが、只見はあまり知りませんでした。
会津藩の呼びかけではなく、地元民による独自の戦いでした。それは一体、何か、
それを書き込んでいます。
こうご期待です。
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2003年7月15日(火) 時には休憩も
今日から奥会津文化フォーラムの報告を書くつもりでしたが、心身が疲労気味で、今日は書けませんでした。時には休憩も必要ですね。
新聞もゆっくり読みたいし、出版社の編集者にも電話をしたいし、そんなことで夕方になってしまいました。
長州対会津のテレビ放送、なかなか反響があり、会津高校の同窓会から講演依頼の打診がありました。
会津はすべて正義で、長州はすべて悪である式の歴史観は、もう通用しなくなりましYた。
正式に決定した時は、戊辰戦争は一体なんだったのか、冷静に客観的に報告したいと思います。
それが未来志向時代の長州対会津だと思います。
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2003年7月14日(月) 次なる目標に向かって、
この何日か、頭の中は奥会津でいっぱいでした。
それが終わり、ホットする半面、寂しさもあり、複雑な気持ちです。
フォーラムの整理に少し時間をとられますが、今日からは、また多忙な日々の始まりでもあります。
今秋発刊予定の『星座の人』-白虎隊総長山川健次郎の生涯(平凡社)の校正がありますし、
中公新書『会津戦争』の締め切りも迫っています。
今回のフォーラムで「戊辰戦争伊南川、只見川筋の戦い」の鼎談を組ませていただき、新しい事実をいくつも発見することができました。その成果もふんだんに盛り込みます。奥会津には独自の歴史や文化があり、戊辰戦争でも、奥会津を守ろうとする独自の戦闘があったのです。
地元の研究者の皆さん、いろいろご教示いただき、ありがとうございました。
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2003年7月13日(日) 奥会津文化フォーラム成果を上げて終了
奥会津文化フォ-ラム、大成功でした。
三島町、奥会津作家協会をはじめ、日本大学大学院総合社会情報研究科、福島民報社、福島民友新聞社、読売新聞会津若松支局など多くの皆さんのご協力によりまして、すべての日程を終え、13日夕方、郡山に戻ってきました。各地から70人の方々が会場に見えました。三島町、金山町、昭和村の町村長もお見えになりました。
東京からは歴史を楽しむ会の方々、日本大学大学院の皆さん、仙台からは別冊東北学の編集部の皆さん、泊り込み出おいでくださり、民俗芸能虫送りを見学し、野外バーべキュ-で交流を深めました。
大会を運営された三島町交流センタ-山びこの五十嵐所長、奥会津書房の遠藤さん、坂内さん、また主催団体の若手スタッフの皆さん、ありがとうございました。
明日からシリーズで、大会の成果をお知らせ致します。取り急ぎ、終わったことをご報告致します。
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2003年7月10日(木) 奥会津文化フォーラムいよいよ開幕
奥会津文化フォーラム、いよいよ12、13日に迫りました。
私は13日の「戊辰戦争伊南川、只見川筋の戦い」の取材のため11日から只見に入ります。
11日夜は東京から見える集英社の高橋さんと打ち合わせをして、12日の開幕を迎えます。
作家熊谷達也さんの講演「狩猟民の記憶」は、まさにこのォーラムを象徴する講演です。
このあと「自然、人間、文学」の討論会が開かれます。
13日は「未来志向の時代」と題して日本大学大学院の乾一宇教授の講演です。
乾教授は国際関係論、安全保障論のエキスパートです。
会場には大学院の修了生、在校生が多数、訪れます。
会津の皆さん、是非、お出かけください。
このあと、私と飯塚さんの戊辰戦争です。
「今週の一言」、11、12日は休み、12日夜に奥会津の第一報を掲載します。
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2003年7月10日(木) 憂鬱な朝
長崎に事件は憂鬱でした。12歳の少年が性的いたずらをして、子供を屋上から投げ捨てる、言葉がない事件でした。人間の心の奥に潜む魔性、狂気を見せ付けられ、思わず周囲の少年たちを見つめてしまいました。
この種の事件は、たとえ少年であれ。厳罰に処すしか方法がないように思います。心理学者がどうおっしゃろうと、明確な罰則を設けないと、しめしがつきません。
悪いことをしたら処罰される、これを徹底させることだと思います。それから防犯ですね、この少年は子供に対する犯罪を繰り返していたわけで、これを見抜けなかった大人社会の責任も重大でしょう。大人も立ち上がる必要があります。
とにかくやりきれない朝でした。
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2003年7月9日(水) 奥会津文化フォーラムで、板垣退助の誤解を正す、
私は奥会津文化フォーラム二日めの13日、只見町の郷土史家飯塚恒夫さん、奥会津書房の坂内紀子さんと「戊辰戦争、伊南川、只見川筋の戦い」について討論しましす。
従来、会津戦争は武士だけの戦いと言われて来ました。
会津に攻め込んだ土佐藩の参謀板垣退助が、後年「自由党史」のなかで、会津の農民はまったく無関心で、戦いを傍観していたといい、「これでは敗れる」と述べたことが、大きなフアクターになっていました。
ところが南会津の戦闘は、まったく様相を異にしていたのです。
強力な農兵隊が編成され、薩長の連合軍は、きりきり舞いしていたのです。
当時は野戦といいましたが、今日のゲリラ戦です。
農兵隊は独特の戦法で、敵の弾薬、食料を奪い、会津軍はそれをつかって戦っていました。
会津藩が当初から農兵隊を大々的に採用し、特に中山峠、母成峠、猪苗代の戦いに投入していれば、勝利もありえたと思います。
13日の会場は12日と同じ三島町交流センター山びこです。
戊辰戦争に新しい局面を開く、画期的な討論になると思います。
皆様のお出かけをお待ちします。
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2003年7月8日(火) 会津藩と長州藩
昨日、福島県須賀川市の教育委員会の方が私の事務所に見え、9月6日に行われる第17回須賀川市文化フォーラムについて打ち合わせを行いました。私が記念講演の講師を務めるためです。演題をどうするか、私は「会津藩と長州藩」で話をすることにしました。
先日、萩の市長が入った討論会があり、会津と萩の和解を巡って新しい進展があったためです。
従来、どこがネックになって会津側が長州との和解を断ってきたのか、しかし未来志向の現代、そのままでいいのか、和解の道はないのか、これらのことを話したいと思います。講演は午後1時から須賀川市中央公民館で行われます。
問い合わせは須賀川市教育委員会生涯学習課内、須賀川市文化団体連絡協議会事務局、電話0248-75-1111、内線662です。
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2003年7月7日(月) 迫る奥会津文化フオーラム
今月12、13日、福島県三島町で開く「奥会津文化フオーラム2003」、いよいよ迫って来ました。奥会津書房の遠藤編集長、坂内さん、交流センター山びこの五十嵐所長、皆さん、毎日、準備に汗だくです。メインゲストの作家熊谷達也さんの人気はすごいですね。
全国からフアンの方が三島町においでになります。
五十嵐さん、遠藤さん、坂内さんもスピーカーとして参加されます。
地元の方と外部の方が一体となって「奥会津」を語りあうのです。
人間は何を求めて、どう生きるべきか、都市と農村の関係はどうあるべきか。
議論は山ほどあります。
会場においでくださった皆様にも積極的に発言していただき、会を盛り上げます。
まだ若干ですが、宿舎に余裕があります。
是非、お出かけになって「自然、人間、文学」についての討論に加わってくださるようお願いします。
ここでいう文学は、歴史、民俗、宗教、哲学、文系全般にわたリます。
狭い意味の文学ではありません。
三島町を訪ねてくださり、どんどん、発言なさってください。
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2003年7月6日(日) 助役、収入役はいらない
今朝の河北新報は助役、収入役が不在の市町村が、東北全体で3割に達したと報じました。この前、宮城県の丸森町で私が関係するイベントがあり、その時同級生の収入役が「いや我々はリストラの対象ですよ。ただ座っているだけでは、もはやだめですね」といっていたことを思い出しました。宮城県中部の港町七ヶ浜では、町議会が助役、収入役の人事案件を拒否、不在になりました、町議会が必要なしと判断したのです。人口12万の石巻市も助役、収入役が不在です。市長がその気になれば、助役、収入役など要らないかも知れません。部長や課長がいるわけですから公務の支障はないのでしょう。
原因は助役、収入役が形式と化し、何ら機能していないことにあるようです。
加えて財政難もあるでしょう。それぞれの地域で、このニ役、見直す必要ありですね。
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2003年7月5日(土) イラク復興支援で日本は大きく変わるのか
派遣される自衛隊の規模は2000人を超えるといわれています。持参する武器も対戦車砲は最低限、必要との見解のようです。
世界をリードする先進国である以上、これはやむを得ぬことでしょう。
戦死者が出るとの予測もあります。不幸にしてそうした事態になったときは、どう対処するのか、万全の保障をすべきだと思いますし、安全な地帯に出すというあいまいな言葉はやめるべきでしょう。
実際問題として、これは事実上の海外派兵であり、憲法解釈で乗り切るのはもう無理ではないでしょうか。
憲法改正を国民的議題にすべき時期にきていると思います。
最近、何人かの人々と討論しましたが、そこまで議論は来ているように感じます。
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2003年7月4日(金) 東北文学論
奥会津文化フォーラムで司会を担当するため、地域社会と文学について、考えており
ます。
私は文筆を生活の糧にしておリます。歴史小説は本を出すことじたい、非常に厳し
く、四苦八苦の状態です。新書は私の場合、まずまずの状態で、多分、年内に2冊の新
しい本が書店に並ぶと思います。
年3冊も新書が出れば、今日の不況のなかでは、恵まれた方かもしれません。
そういう気持ちで日々、暮らしております。
今の時代は、本物志向のような気がします。バブルの時代は安易な発想の本も売れま
した。
大河ドラマで宮本武蔵を放送すると決まれば、武蔵を書き、新撰組となれば、近藤勇
や土方歳三を書くといった具合でした。
でも読者はそうした薄っぺらな本には、飽き飽きしていたのです。ですから、その類
の本は売れなくなりました。新書が比較的好調なのは、どこな新しい事実が書いてあ
り、著者の顔というか、ものの考え方が見えるためではないでしょうか。
値段が安いこともあるでしょう。
ともあれ1000円以内で、何かを得られる本となれば、新書になるのです。でもそれで
は活字文化が滅びます。
どうすればいいか、書き手も発想の転換が必要です。
東北に住む作家は東北にこだわり、この地で生きてきた先祖の跡をたどり、そこから
東北の文学を創造してゆくことだと思います。
基調講演される熊谷達也さんは、そうしたことを話してくれるのではないかと期待し
ています。
私フォ-ラムでは東北文学論を展開したいと思っています。


   
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2003年7月3日(木) 会津戦争
今、会津戦争を書いています。なぜ会津藩は敗れたのか、会津藩敗北の研究といった方がいい内容です。従来の会津戦争とは、大分、違った本になりそうです。
不思議なことが、幾つもあったのです。たとえば老人、婦女子の殉難です。
何十人という婦女子が自害しました。なぜか、
もっとも多いのは、城に入れなかったためでした。
会津藩軍事局では、敵が迫れば、半鐘を鳴らすので、鐘が鳴ったら城に避難するよう触れを出していました。
ところが、半鐘がなったのは、敵が城下に攻め込んだときでした。
大砲は放たれる、小銃弾が打ち込まれる、火が放たれる、たちまち大混乱になり、おまけに城門はいち早く閉まったため、多くの人が城に入れず、自宅に戻り、あるいは寺に向かい、自害して果てたのです。
危機管理体制のはなはだしい欠如でした。
軍事局の人々は、敵は郊外で押し戻すと豪語していました。
これまで日本婦人の鑑とまでいわれた婦女子の自害は、通報の遅れによるパニック現象の公算が大だったのです。
物事をあまり神秘化してはなりません。
事実は事実として抑える必要があるのです。
もちろん会津藩の素晴らしいところもたくさんありました。
総合的、かつ冷静に戦争を描くことに、つとめています。
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2003年7月2日(水) 盛り上がる奥会津
12、13日、福島県三島町で開かれる奥会津文化フォーラム、各地から問い合わせが来ております。東京、仙台、新潟、盛岡、ずい分、広がりを見せています。このため温泉付の宿は、そろそろいっぱいになりつつあります。しかし民宿はまだまだ収容週能力があり、大丈夫です。
やはり一番人気は基調講演をされる作家、熊谷達也さんです。「狩猟民の記憶」、奥会津にぴったりの演題です。夜、一緒にバーべキューパーティを開きます。
会費は1500円です。宿の食事は頼まない方がいいでしょう。
問い合わせは上記の奥会津書房。お気軽に電話して見てください。
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2003年7月1日(火) 山川健次郎と長州藩
平凡社から『星座の人』東大総長山川健次郎の生涯-を出すことになり、この二日間、原稿の整理に追われました。これは産経新聞の東北版に毎週日曜日、一年間にわたって連載したもので、
力をこめて書いた作品です。
会津対長州は今もなおギクシャクしていますが、健次郎はすでに長州との和解を具体的に進めていました。主君容保の次男英夫を長州の山田家の養子に入れ、恩人である長州藩士奥平謙輔を、生涯を通して尊敬し、いつの日か本格的な和解を念じていたのでした。
今回、会津若松市で開かれた会津と長州の討論会の会場に、会津松平家13代当主の松平保定さんが見え、懇親会でそのことを皆さんに話されたのです。
[我々松平の者はとうに長州と和解していたのです。しかし、会津の皆さんの心情を考えると、そのことはいえませんでした。しかし、もういがみ合う時代ではありません。和解に向かって歩むべきです」
この発言は衝撃的でした。旧主君の末裔からの、いわばお願いの形で和解が披瀝されたのです。
これで和解の動きにはずみがつくことは間違いありません。今度の本にも、そのことを書きました。
会津と長州のわだかまりは、劇的な形で、急転回する可能性がでて来たのです。
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