星亮一 今日の一言

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2003年9月29日(月) ダリ美術館
今日、裏磐梯の諸橋近代美術館を見て来ました。
ここはスペインの作家サルバドール・ダリノ記念館です。
20ン世紀を代表する天才芸術家の彫刻、絵画、版画に圧倒されました。

時間の気高さ

という作品がありました。
時間は無常に過ぎ去ってゆく
かけがえのない時間も人の人生の
喜びや悲しみも
その流れにはあがなえない。

チーズのようにゆがんだ
ダリの時計は、しっかりした土台に
根を生やす時間の木の玉座に
もたれかかるようだ。
その針は誰も入り込めぬ

ゆがんだ空間のなかで
永遠に止まり、
時は凍結されたままだ。
そこで時間は気高い王様の冠を与えられる。
こんな説明がありました。

一度、お出かけください。
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2003年9月28日(日) 留守にしています
昨日は日本大学大学院の中国事情研究会の発会式があり、東京水道橋の日本大学経済学部に出かけました。
ノモンハン報告会のことを話ました。
今日は一関一高の同級会で、これから会津若松です。
観光地を回って、「会津の歴史と私」のスピーチをします。
昨今の会津観光事情は、後日、報告します。
それでは出かけます。
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2003年9月26日(金) ノモンハン報告会
12月6日土曜日、午後2時から郡山市の磐梯熱海温泉浅香荘で行います。
ノモンハンに参戦した酒井実さん、
当時衛生上等兵のビデオによる報告もあります。
ノモンハン事件は何であったか。
多角的に討論します。

会費は聴講のみ1000円、
懇親会にも出席6000円、
宿泊12000円(すべて込み)です。

なお報告会は
郡山ノモンハン会、
日本大学大学院安全保障研究会
の共催です。
同歴史研究会には協賛を依頼中です。
一般の来場も歓迎します。
ご希望の方はメールで申し込みください。
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2003年9月25日(木) 一関一高同級会
私の母校、岩手県立一関一高の同級会が、28日、会津若松で開かれます。
私は父親の転勤で、中学3年生の時、
仙台の愛宕中学から岩手の千厩中学校に転校しました。
大船渡線の一関と気仙沼の中間にある町です。
この辺りは宮城県と岩手県の高校に受験が可能で、
最初、宮城県の気仙沼高校を受験し、
それから一関一高を受験するパターンになっていました。
両方に合格すると、多くは一関を選びました。

この学校は岩手県では二番目に古い高校で、明治何年かの創立です。
戦前に4回ほど甲子園に出場しました。
私も両方合格し、汽車通学で一関に通いました。
蒸気機関車だったので、
1時間ほどかかったように記憶しています。

今回の同級会には、なんと全国から62人が参加し、
会津鶴ヶ城や飯盛山、武家屋敷、諸橋近代美術館などを
まわります。

私の講演会も開いてくれ、
宿泊する東山温泉の原瀧本館で
「会津の歴史と私」
と題してしゃべります。
同級会となると
やはり懐かしいのは汽車通学の仲間です。

山汽車組といって
団結が強かったのです。
28日が本当に楽しみです。
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2003年9月24日(水) 会津藩はなぜ朝敵か
KKベストセラーズから昨年出した「会津藩はなぜ朝敵か」が、増刷になりました。
いま増刷になるのは大変です。
久しぶりの増刷に私もホッとしております。

この本は歴史教科書でいまだに朝敵とされている
会津藩の悲憤を描きました。

なぜ御所の警備に当っていた会津藩が朝敵なのか、
突如、朝敵の烙印を押された
会津藩に何があったのか。

その秘密に迫ったのがこの本でした。
この機会に
お読みいただければと思います。
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2003年9月23日(火) 高校生と文学
10月3日に福島県の高校文芸部の全県集会があり、私が講演することになりました。
正直、困ったいるところです。
文章は高校生の思考では、なかなか難しい世界です。
何をどう勉強すれば書けるのか。
これもこれという図式はありません。

強いていえば
幅広い教養を身につけるしかありません。
小説を読んだから
書けるわけでもないし、
新聞を読んだから
書けるわけでもありません。

感性をどこで
どう養うかです。

私の場合、
高校時代はまったく文章を書くことに
興味も関心もありませんでした。

大学に入って就職の段階になって
新聞記者になりたいと、ひらめいたのです。

それだけで
文章が書けるからというわけではあリませんでした。
強いていえば社会の木鐸になりたいでした。

この問題について
皆さんのご意見を是非、聞かせていただきたいのですが。
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2003年9月22日(月) 安倍幹事長は長州
長州の政治力はいまだに健在です。
安倍晋三の晋の字は長州藩のヒーロー高杉晋作から取ったものだそうです。
ライバルには拍手を送るべきだと思います。

不思議に思うのは、会津からは総理が出ていないことです。
長州の山口県からは、数人の総理が出ているだけに残念です。

どこでどう違ったのか。
歴史認識の欠如があったのではないかと、私は思っています。
岩手県生れの原敬は、
薩長藩閥政治の打破を掲げて、総理になっています。
本来、会津の政治家が掲げていいスローガンを岩手の政治家が掲げ、
総理になっています。

何も総理がすべてではありませんが、それぞれの分野で
日本をリードする人材が会津から生れて欲しいのです。

今回、その可能性を会津高校生に見ることが出来ました。
郷土が生んだ大先輩、
山川健次郎博士を顕彰せんという、そのハートは
これまでの会津の若者には、見られなかったものです。

行動する会津高校生が誕生したのです。
彼らは近い将来、何かをやってくれるそうだと私は思っています。

また彼らと話したいですね。
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2003年9月21日(日) 会津高校生の快挙
会津高校生が大先輩の山川健次郎の銅像建設のために、30万円をカンパしたニュースは、感動的でした。
私の講演がきっかけと聞いて、感無量です。
私は会津高校での講演で、
白虎隊士から東京帝大総長を務めた教育界の大御所、山川健次郎の銅像がないのは、残念だと述べた。
健次郎は敵方の長州藩士の庇護を受け、薩摩藩士黒田清隆の発案による、アメリカ留学でエール大学に学び、物理学を専攻したのでした。
高校生に皆さんは真摯な態度で、講演を聞いてくれ、
カンパを集めたのでした。

これで銅像建設は一気に拍車がかかりました。
健次郎は自分を匿い、勉強させてくれた長州藩士奥平謙輔を尊敬していました。
奥平という人物は情の人で、晩年は不遇でした。
大久保や木戸の政治を批判して萩の乱を起こし、
命を落としました。

この際、奥平の銅像も一緒に作ってはどうでしょうか。
会津と長州に新時代が訪れることは間違いありません。

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2003年9月20日(土) 山川健次郎の逸話
ふとしたことで、健次郎の少年時代の逸話を知りました。
健次郎15歳、猪苗代に謹慎中のことです。
これまでは商家の二階にいたとされてきましたが、
そうではなく
町の中心部にあり安穏持に泊まっていました。
近所に六角医院があり、よくそこに出かけていたようです。
会津では大きな病院でした。

あるとき卵を見つけた健次郎は小さな穴をあけ、中身を上手にすすりました。
誰も見ていないと思い、卵を元の場所にそっと置きました。
その時です。
「こら、この悪がきが」
この家のお婆ちゃんが見ていたのです。
健次郎はこっぴどくしかられました。

健次郎も普通の少年だったわけです。
どのようにして穴をあけたのかは知りませんが、
さすが、のちに物理学を専攻するだけのことはあったようです。
私は思わす笑いました。
決して聖人君子ではなかった、
茶目っ気で、いたずらもしたことを知り、
ホッとした次第です。

よほど空腹だったのかも知れません。

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2003年9月19日(金) 会津戦争の死者数千人
いま下北から帰って来ました。
新幹線、八戸までの「はやて」は早いですね。
もう飛行機なみです。
今回の下北旅行、数多くの収穫がありました。
斗南会津会の吉川さん、星さん、小町屋さんが出迎えてくださり、
斗南ヶ丘、会津人の墓地、円通寺、柴五郎の住まいの跡、
会津人上陸の地などを見てまわりました。

最大の収穫は会津戦争の死者数千人という記述です。
これまで私は見逃していたのですが、
円通寺の招魂碑に会津藩の学者、南摩綱紀が明確に数千人と記述していました。
一般的には3000人とされていました。
その倍の死者がいたというのは衝撃でした。

今後、これを検証していきたいと思います。
取り急ぎ、ご報告まで。
その他は後日、報告します。
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2003年9月18日(木) 下北半島
今日、明日とNHKの記念館、むつでは会津藩が藩庁を置いた円通寺、斗南開拓村の跡地、
柴五郎の住まい跡などを見学します、
後日、報告致します。
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2003年9月17日(水) 北東文芸協会
私が会長を務め、郡山市をベースとして活動する文学愛好会です。
今日、会合を開き、今年後半の活動を協議します。
秋には新潟方面に研修旅行です。
上越から湯沢方面です。
雑誌「まほろば」の編集にも入ります。


今年は何人かが福島県文学賞に応募し、
上位入賞の期待もかかっております。
最近、NPO法人も取得したので、
一般の方を対象に
文学と歴史の勉強会も発足させます。

来年は
シルクロードかチベットにも出かけます。
文明の発祥地を訪ねる旅です。

会員は現在20人、
職種はさまざま
大学の先生からOLまでさまざまです。
入会ご希望の方はメールをください。
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2003年9月16日(火) 東北にプロ野球チームを
阪神優勝、おめでとうございます。
星野監督の見事な采配でした。
ニッサンのゴーン社長に匹敵する業績と元巨人軍監督、赤バットの川上さんが、おしゃっておりました。
私は東北福祉大の関係で、今年は阪神を応援してきました。
金本、矢野は東北福祉大の出身だからです。
講師である私としては、祈る思いで応援して来ました。
二人とも大活躍で、どちらかがMVPを取るだろうといわれています。

それはそうとして、作夜、テレビを見ているうちに、
にわかに寂しさがこみ上げて来たのです。

それはなぜか、
やはり阪神は関西の球団だということでした。
関西弁はどうもしっくりこないのです。
東北は巨人フアンが多いのですが、
巨人は金だけで人を集める悪癖があり、
巨人も好きになれない。

阪神フアンのあの喜びを体験するには、東北にプロ球団を作るしかない。
そう思えてきたのです。

九州にはダイエー、広島にはカープ、札幌にはファイターズがあるではないか。
東北だけがないのだ。
これこそ不公平であり、
東北のスポーツ文化の貧困を物語るものではないか、
私は俄然、
東北にプロ野球チームを作るべし
という考えにいたったのです。

球場は仙台でしょう。
各企業、個人も献金し、ここにドーム球場を作る。
名前はどうしましょうか。

東北アテルイズ

とか
東北ジョーモンズ

とにかく
ユニークな名前を付けて

全国に東北をアピールしたいですね。
私はことあるごとに叫び続けます。
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2003年9月15日(月) 斗南藩の人々
18、19の両日、NHKの旅行で下北半島に出かけます。
会津藩流罪の跡をたどる旅です。
下北では
斗南会津会の人々にお会いするのが楽しみです。
吉川さん、小町屋さん、役員の方々が待っていて下さいます。
私はいま
「会津藩vs長州藩」
の本を書こうと準備中です。
なぜ両藩は対立するようになり、今日もなお、対立の構図が続いているのか。
それを探る本です。
そこには下北に渡った会津藩士の末裔の方々の声も収録する予定です。
今回の旅行、
まだ若干、枠がありますので
興味のある方はご連絡ください。
またとない機会だと思います。
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2003年9月14日(日) 会津戦争
中公新書から出す「会津戦争」
12月発売と決まりました。
昨年12月に「幕末の会津藩」を出しましたので
ちょうど1年ぶりの発刊です。
幕末維新の大きな出来事が「会津戦争」でした。
これまで数ある会津戦争者の決定版と自負しております。

それにしても気になるのは「幕末の会津藩」が再版になっていないことです。
この本が「会津戦争」が前座です。
是非、ご支援をお願いします。
これを読んで会津戦争を読むと
時代背景がよく分かります。
併読してくださるよう
お願いしておきたいと思います。
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2003年9月13日(土) じらす阪神
優勝は難しいものですね。
簡単には優勝しないものいです。
金本が1本打てば勝てるのに、
打てない。
見ている方も大変です。
私もいらいらがつのって体調不良です。

ところで
山川健次郎伝
表紙のデザインが出てきました。
16日にお見せしますが、
なかなかのデザインです。
ご期待ください。

今日は土曜日、
テレビを見て楽しみます。
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2003年9月12日(金) 石原さんの発言
現代の政治家は当り障りのないことばかりしゃべっています。
小泉さん、しかり、どの大臣もしかりです。
こうしたなかで、もっとも異色な政治家は石原さんでしょう。
北朝鮮に対しても中国に対しても、
この人ほど噛み付いている人はいません。
そういう意味で、貴重な方であり、
なくてはならない人です。
今回の田中外務審議官に関する発言ですが、
言わんとすることは、分かりますが、表現がよくなかったということでしょう。

もっとまともに
経済制裁をして拉致を解決せよと
いえばよかったと思います。

ともあれ
北朝鮮問題はこのままでは
国民のフラストレーションがつのるばかりです。
もっと強力に北に対して拉致家族の
返還を求めるべきです。
自民党もコップの中の争いをしている暇があれば、
もっと真剣に拉致問題に
取り組むべきです。
石原さんはその不満がこうじて
爆発したのです。
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2003年9月11日(木) 野口博士売上好調
私の知人、ライトエージェンシ―の伊藤さんが開発した野口英世博士のラベル、
各社からひっぱりだこで、このラベルを貼ったサッポロビールは、売上好調で増産に追われています。
サッポロビールは、利益還元として、
福島難病者連絡協議会に100万円を寄付すると今朝の新聞は報じていました。
野口博士は来年7月から1000円札に登場します。

私も近々、ちくま新書から「野口英世」を出版します。
サッポロビールにあやかり、ベストセラーをねらいたいですね。

私は以前、テレビの番組を制作するために
英世の足跡を尋ねて
アメリカに行きました。
そこで英世の負けじ魂をこの目で見て来ました。
凄いハングリー精神の持ち主が英世でした。

生家がある猪苗代町はもう英世一色です。
記念館は敷地を広げ、
観光客も倍増だそうです。


私の野口英世もご期待ください。
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2003年9月10日(水) 派閥政治の終焉
野中さんの引退を高く評価する向きもあリますが、私は全然違います。
派閥政治の終焉であり、
腰抜け外交の終焉であると思っています。
北朝鮮政策で野中さんは、北寄りだったし、中国にもべったりでした。
自衛隊の国際貢献にも反対でした。
テレビを見ていると国士という表現すらありましたが、
それなら北朝鮮に対してもっと毅然たる態度を取るべきでした。
同じ派閥の青木さん、村岡さんに裏切られたとおっしゃっていましたが、
要は権力闘争に敗北したということでしょう。
橋本派これを機会に解散し、
政策研究会ごとに再編すべきでしょう。
国民よりも派閥の利益にために
動く野中政治は
はっきりいって、なじめないものを感じて来ました。
今回の引退、若手も歓迎しているのではないでしょうか。
引退による影響があるとすれば、派閥の弱体化、再編成だろうと思います。
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2003年9月9日(火) 畑俊六日誌
ノモンハン関連で資料を集めていますが、
元帥陸軍大将畑俊六が、会津藩士の子弟であることを知りました。
俊六の父俊蔵は、会津戦争では朱雀隊に加わって白河口の戦闘に参戦、
戦後は下北半島に移住、辛酸をなめました。
その後、警視庁の巡査となって西南戦争に参戦、
抜刀隊で活躍したのでした。
母も会津藩士の娘で、俊六は明治12年、東京で生れました。
秀才の誉れが高く、府立1中から陸軍幼年学校、士官学校と進み、軍人の道を歩みました。
日露戦争では旅順攻撃に加わり
、陸軍大学校を首席で卒業、参謀本部付となり、
ドイツ駐在を経て、昭和8年には14師団長、ノモンハン事件の時は、
侍従武官長で、その後、陸軍大臣に要職に着きました。
9月8日の日誌に次ぎようにあります。
「戦積不良にして支離滅裂、軍旗2旗を焼却し、死傷1万を越え、いまだかってあらざることなり」
と関東軍の失態を責めていました。
畑俊六とは何者、これから日誌を詳しく読もうと思っています。
△top
2003年9月8日(月) 須賀川市はすばらしい
1昨日、須賀川市の文化団体連絡協議会からお招きを受け、講演を行いました。
演題は「会津藩と長州藩」
いつまでも怨念が続くのか、それとも和解の道があるのか、
その展望を私なりに申し上げました。
会津若松では、まだまだ反対の声は強いのですが、白虎隊士から東京帝大総長になった山川健次郎博士の銅像建設に関して
山口県からも募金があり、新しい段階に入っていることも事実です。
須賀川の会場からも、「そろそろ和解を」という声がありました。

ところで須賀川市は、実に魅力的な街で、大いに可能性を感じました。
まず中世の大名二階堂氏の居城跡です。
広大な公園になっており、ここに中世の館を復元すれば、観光の目玉になることは
間違いないと思いました。二階堂氏は伊達政宗にほろぼされましたが、勇猛果敢な戦い振りは有名でした。
もう一つは、須賀川が生んだ幕末の銅版画家、亜欧堂田善の銅版画コレクションです。
須賀川市博物館に収蔵されていますが、
これは独立した記念館に分離すべきだと思いました。
全国から見学の人が来ることは間違いありません。

須賀川文化会議のようなものを立ち上げて、
討議するといいのではないでしょうか。
隣街の郡山に住む私として非常に興味のあるテーマです。

●亜欧堂田善 あおうどうでんぜん

 1748〜1822(寛延1〜文政5)江戸時代後期の洋風画家。本名を永田善吉といい,約して田善と称した。磐城国(福島県)須賀川の紺屋永田惣四郎の二男。兄の昆山から絵の手ほどきをうけ,長じて,画僧月僧や谷文晁について画を学ぶ。やがて洋風画に転じて司馬江漢とは別途に銅版画(エッチング)の技法を習得した。1796年(寛政8)松平定信の白河城下に移り,御用絵師となる。官命により,1810年(文化7)銅版『新訂万国全図』を完成した。リーディンガーの銅版画やルイケン父子の銅版画など外国製銅版画の模刻を試み,『曳馬図』『籠造り図』など多数を残す。江戸風景の連作に創作版画として,「金龍山図」など数多くの傑作あり,その写実的描法は注目に値する。肉筆洋風画には,『今月瓦焼図』(神戸市立博物館蔵)や,『浅間山図』(東京国立博物館蔵)などがあり,後者は装飾的な屏風絵を洋風画法で描いた大作。
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2003年9月7日(日) 中曽根さんの提言
朝、フジテレビの報道2001に中曽根元総理が出演していました。
小泉総理を支持すると断言し、三つほど注文をつけていました。
教育改革です。
現在の633制が破綻をきたしていることは間違いありません。
中高一貫教育の推進、語学教育の刷新、しつけも徹底させる、これは当然でしょう。
大学も再編成でしょう。
いらない大学が多すぎます。
駅弁大学は統合すべきです。
憲法改正、これも必要でしょう。
明確に防衛を憲法にうたうべきです。
国際貢献、
これも明確にすべきでしょう。
それから道州制
もっと推進すべきでしょう。
どういう国家に日本をするのか、
小泉さんは明確に国家像を出すべきです。
もうその時期です。
私も小泉さんを支持します。
いまに日本には小泉さんが必要です。
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2003年9月6日(土) 関東軍の兵士
今日、ノモンハンの戦闘に参戦した方にお会いしました。
福島県須賀川市の酒井実さんです。
二十二歳の時、救護班で戦闘に加わったそうです。
ノモンハンの草原には狼がいて、そのなきごえを毎晩聞いたそうです。
時間があまりなく立ち話だったのですが、
「戦車の数,飛行機の数,ロシアは凄かった。皆下痢がひどく,タコツボに入って耐えに耐えた」
と語っていました。
飛行隊長の遺体も収容したとか。
「認識票を取ってて爪を切った」
そうです。
私の住まいからは近い方なので、ゆっくり時間を取っていただき
詳しく取材致します。
私のノモンハン行きが新聞に載り、それを見て、
須賀川での講演会にたずねてこられたのです。
大変な方にお会いし、
幸運です。
取材にはずみがつきます。
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2003年9月5日(金) 萩の旅
星亮一と行く「萩」、歴史の旅
10月5日―7日に行います。
新潟空港から福岡に飛び、下関、萩を回り,空路福岡―新潟で帰ります。
企画主催は財界21、電話0245-35-0005です。
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2003年9月4日(木) 中国の懸念は無用
日本のミサイル防衛構想に対して、中国が懸念を表明したと伝えられえております。
中国の軍事力は日本の比ではありません。
今回のノモンハン旅行でも
軍事関連施設の見学、撮影は禁止され、どこでも一等地に軍の施設がありました。
日本の自衛隊など軍隊にあらずと思っているのが、中国軍の本音です。
日本は北朝鮮の脅威にさらされているのです。
ミサイル防衛構想は
自衛のためにどうしても必要なのです。
中国が日本の安全を保障しているわけではありません。
それなのに、
内政干渉は納得出来かねます。
日本人は誰一人、中国を仮想敵国とは考えておりません。
もっとおおらかに見てください。
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2003年9月3日(水) 関東軍の悲劇
戦史叢書「関東軍」を読み始めました。
防衛庁戦史室の編纂による決定版です。
ノモンハン事件に深くかかわる関東軍は、
もともと満州の居留民の保護と南満州鉄道の権益の確保のために派遣された軍隊でした。
関東というのは中国と満州を隔てる山海関の東の意味で、最初ロシアが使った言葉でした。
軍の規模は2個師団と独立守備隊の約1万でしたが、満州国の建国とともに、
5個師団、約8万に倍増されました。
最大の仮想敵国は対ロシアでした。
国境紛争が激化していたからです。
1938年、朝鮮国境のソ連赤軍との間で戦闘があり
それがノモンハンの前触れでした。
関東軍が重視したのは夜襲と白兵主義でした。
国力の乏しい日本軍が敵を撃破するには
命がけで突っ込む夜襲と白兵主義でした。
これが日本陸軍の悲劇につながるのです。

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2003年9月2日(火) ノモンハンの死闘
北海タイムスが、昭和38年に連載した「ノモンハンの死闘」を入手、読んでいます。
ロシア軍と本格的に戦った第7師団は北海道出身者で固めた部隊でした。
戦死傷者3357人は、全兵力15000人の20パーセントに当りました。
師団はチチハルにあり、250キロを6日間かけてノモンハンに向かいました。
ここに記された戦闘の場面は強烈でした。
「空気を引き裂いて敵弾が飛ぶ。遮蔽物はまばらに生えた草だけ、敵戦車が現れた。
怪物じみた黒い影がグワーと襲いかかる。かすかにずれて轢かれなかった。
続いて次ぎの戦車だ。
その車輪に火炎瓶を叩きつける。
パーと燃える」
とにかくすざまじい戦闘の日々でした。
資料を集めて来年には本を出したいと思っています。
何かありましたらメールをください。
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2003年9月1日(月) ノモンハンから帰国
昨日、ノモンハンから帰って来ました。
ノモンハンの草原に立ち、感無量の想いでした。
3日間走っても延々と続く大草原のなかで1939年、ノモンハン事件は起こりました。
この時の関東軍参謀辻政信が書いた「ノモンハン」という手記があります。
そこに、
「ガソリンをかけられて焼き殺された日本軍の死骸が累々と散乱していたとありましたが、
日ソあわせて数万人が死傷する大戦争でした。ノモンハン村の古老、
ボインドテンさんに戦場を案内してくれました。
「ここで日本兵は5万人が死んだ」
と老人は言いました。
日本軍の発表は死傷2万となっおりますが、
現地の見方は大分、異なっておりました。

ともあれ写真を入れて取り急ぎ
明日から速報を掲載します。
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