星亮一 今日の一言

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2006年9月30日(土) 背景は奥が深い
前福島県知事の人間像が、連日、報道されている。

県庁職員は、くたくただったというのだ。

呼びつけられて、説明を求められる。

それはいい。

怒鳴られる。

それもあるかもしれない。

だが、しょっちゅうだったというのである。

なぜこういう話が、今ごろになって出てくるのか。

談合だって、多くの人が知っていたという。

それを知事に言う人はいなかったのか。

いうまでもあるまい。

知事は知っていたはずと見る人も多いが、それは闇の中の話である。

県議会はなにをしていたのか。

職員組合はなにをしていたのか。

副知事はみて見ぬふりをしていたのか。

5期となれば、職員よりも知事の方が精通しているケースもあるだろう。

それは悪いことではないのだが、唯我独尊、自分だけが正しいと

思うようになったら、もう末期症状なのだ。

兄弟のことが話題になっているが、私は愚兄賢弟だったのではないかと

さえ思っている。

いまの日本の選挙は大変な金がかかる。

それを集め仕切ったのが弟さんだった。

公共工事には建設業者が群がる。それをどう整理するか。

前知事は自分は関係ない、自分は潔白といい続けた。

現実に目をそむけ、すべてを弟に任せた。

県職員にとって弟さんは、むしろ都合のいい存在だったのかもしれない。

自分は関係ないと逃げることができる。

その結果、こうなったのではないか。

私は弟さんに、深い同情を禁じえない。

前知事はいまの時代ではまだ若い。

残されたさまざまな責任をきちんと果たし、

コツコツと奉仕活動をされることを切望する。

同じような形で辞職した元福島県知事木村さんは、老人ホームの理事長

のような仕事をされた。晩年の木村さんは、結構、人に愛された。

私は木村県政の時代に県政記者を務めたので、木村さんのことは

何時も気になり、ボランティア活動には、拍手を送ったことを覚えている、

ともあれ、福島県はおかしな事で

有名になってしまった。

これを書いているさなかに、東京地検特捜部は今日午前11時過ぎ、

福島県庁の捜索に乗り出した。

事件では、県土木部の有力OBがパイプ役となり、

佐藤前知事の実弟らが決めた受注調整の結果を県幹部に伝え、

県側が落札予定業者を指名業者に入れた

官製談合の疑いが浮上しており、

捜索は談合への県側の関与を裏付けるためと

読売新聞ニュースがインターネットで報じた。

これはもう前知事逮捕まで行くかも知れない。

少なくとも事情聴取は必至だろう。
△top
2006年9月29日(金) 会津黄門の名前がチラホラ
佐藤知事の辞職に伴い、次期知事の選挙戦が

水面下で始まっている。

東京地検の捜査が進むにつれて、

前知事への疑惑も一層深まっている様子、

大変な事件、つまり前知事まで行くのではないかと、

憂慮されている。

これを立て直すにはどうしたらいいのか。

とにかく新知事を中心に大刷新をはからねばならない。

新知事の任期は2年、短期政権である。

となると、この方はどうかと、浮上しているのが、

会津黄門の渡部恒三代議士である。

今朝の福島民友新聞に、そのことが出ていた。

「おれの出る幕にあらず」

と謙遜しているというが、こうした事態だけに

黄門しかいないという人も増えつつあるようだ。

74歳、高齢といえば、高齢ではあるが、

全国を行脚中なので、健康には自信がありそうだ。

台風の目になるかもしれない。

ともあれ来週には、候補者の名前が出てくるだろう。

一部には女性知事がいいという人もいる。

これも人材を発掘できれば、いいのでは。

一方、東京地検特捜部は今日、佐藤前知事の実父宅(同県郡山市)を、

関係先として家宅捜索したもようだ。
 
特捜部は、談合をめぐる資金の流れの解明を進めており、

ついに実父までもが、調べられる結果となった。

父親は実に気の毒である。
△top
2006年9月28日(木) 熊が出る二股峠
今日も全国紙のトップは福島県知事の辞職。

知事の任期はなんと5期、18年に及んでいた。

もはや天皇ですね。

知事は3期までと規制が必要だね。

次の知事には公約してほしいものだ。

福島県の談合事件、これで終わるわけではない。

県庁の家宅捜索、佐藤前知事の事情聴取が取りざたされている。

まだまだ県政の混乱は終わらない。

なお福島県議会は28日午後の本会議で、

責任を取って辞職表明した佐藤栄佐久知事(67)の辞職願に

全会一致で同意した。佐藤知事は同日付で失職した。

これを受けて11月12日投開票が有力視される出直し知事選に向け、

候補者選びが本格化する

自民、民主両党は県選出の参院議員を軸に調整を急ぐとしている。

それでいいのかなあ。

疑問もある。

ともあれ、次に向ってスタートするしかない。

さて私の函館旅行、収穫は凄かった。

いろいろあるが、土方歳三が奮戦した北斗市の二股峠、

ホームページでは熊に注意とあった。

「これは危ない、とても単独ではいけない」

市役所に電話して、事情を説明し、取材の協力を依頼した。

「わかりました」

 と郷土史家の木下さんと落合さんを紹介してくれた。

木下さんの装備をみて驚いた。

腰には鈴、それから笛、笹薮を払う鉈、万全の熊対策だった。

「この前、峠の上り口の見慣れない車があった。

登って見たら東京の若い女性で、実に軽装で登っていた」

「それは危ないですね」

「いつ熊が襲ってくるかわかりませんよ」

という物騒な場所が二股峠だった。

土方はここに塹壕を築き、連戦連勝だった。

しかし、別のルートが破れ、無念の思い出引き返した。

ここは土方フアン必見の場所である。

ただし単独では行動しないこと。
△top
2006年9月27日(水) 佐藤知事辞職
夕方、出先で佐藤知事の辞職を知った。

県議会各派は、知事が自発的に辞職しない場合、

超党派で不信任決議案を提出することを決めており、

ついに辞職に追い込まれたことになる。

男は腹を切らねばならぬ時がある。

知事も遅ればせながら決断をした事になる。

公職選挙法の規定により、県選管に通知してから50日以内に

出直し知事選が行われる。

次の知事には、県政の大刷新をお願いしたい。

さて今日はNHK星亮一と行く歴史街道。

河井継之助が没した南会津の只見に出かけた。

河井が越えた八十里峠をすこしのぞいてきた。

「八十里、腰抜け武士が越す峠」

河井の嘆きが、山あいから聞こえた。
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2006年9月26日(火) もう辞めるべきかなあ
連日、福島県政の構造汚職が新聞、テレビをにぎわせている。

もううんざりである。

渦中の佐藤知事、参議院議員の時代から、いや厳密に言うと、

郡山青年会議所の時代から知っていた。

政治家になってからは、

総理大臣の座を蹴飛ばした会津若松の伊東正義先生の指導を受け、

清潔な政治をモットーにしてきた。

4度目の知事選に出ると聞いたとき、どうかなあという印象を受けた。

独善的で周囲の話を聞かないと,うわさされていたからである。

すべての中心が自分で、

他人の声は聞こえなくなっていたような感じだった.

東京地検は、早ければ今週末にも

佐藤知事の事情聴取に踏み切る模様との情報もある。

そうなれば、もう泥まみれである

ここまで来た以上、潔く辞職すべきだろう

師匠の伊東先生は、

ならぬことはならぬ。

と何時もおしゃっていた。

あの世でそう思いながら、この混乱をみているに違いない。

人間、腹を切らねばならぬときがある。
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2006年9月25日(月) 今夜帰って来ました
箱館戦争の取材、

五稜郭、木古内、江差、二股峠、矢不來台場などを取材して

今夜8時に帰って来ました。

凄い収穫でした。

天気は連日、暑いぐらい、カンカン照りで、汗だくでした。

明日から函館周辺のルポを掲載します。

写真の特集も組みます。
△top
2006年9月23日(土) 山川記念シンポジウーム決まる
今日は江差です。
開陽丸の報告はあとでゆっくり。

秋の山川記念シンポジュームの日程が決まりました。

皆さん、お出かけください。


○山川記念シンポジウムー日本の物理学者の系譜と現代科学教育の課題ー
 開催の御案内

期 日:平成18年11月23日(木:祝日)
場 所:九州工業大学戸畑キャンパス記念講堂
式次第:13:00−13:30開会挨拶及び祝辞
    13:30−14:00基調講演:「現代の科学教育に望むこと」
               有馬朗人先生(財)日本科学技術振興財団会長
                        元文部大臣、元東京大学総長
    14:00−14:30講演「会津と山川健次郎」作家 星 亮一 氏
    14:30−15:00休憩(パネル展示など)
    15:00−16:00講演及び実験:「科学の楽しさをすべての人に」
               滝川 洋二 先生(東大教授:NPOガリレオ工房代表)

    17:00−18:00懇親会(西日本工業倶楽部)

主催:九州工業大学、共催:明専会
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2006年9月22日(金) 今日は函館です
郡山を8時台の電車で出て、函館には午後2時着。

すぐ市役所へ。

函館に一泊して、明日は木古内から江差へ。

江差に一泊して、北斗市へ。函館に戻り一泊、25日午後、函館発の電車で帰る。

この欄は23、24、25と休載の予定だが、あるいは

中継でここに送信できるかも知れない。

それは今研究中、

それでは出かけます。

これは予定稿。前日に打ち込んだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

函館
ふるさと発見から 

 一発の銃弾が土方歳三の命を奪った。明治2年(1869)の旧暦5月11日。土方は35歳だった。

 当時、箱館と亀田の境にあった寒村「一本木」(現函館市若松町)が、「土方最期の地」とされ、1958年(昭和33)に、旧若松小の同窓会メンバーらが碑を建立した。

 だが、「土方が果てた地」には諸説がある。小説「燃えよ剣」の中で、司馬遼太郎は「栄国橋説」を採り、古文書によっては「鶴岡町」との記述もある。

 函館市史編纂室の紺野哲也室長(54)は「土方の最期を見届けた者の中に、一人として記録を残した者はいない」と言う。なきがらの処置すら確かな史料はない。不思議なことではある。


□─■─□
 伝習隊、彰義隊、新撰組隊士など、陸・海軍3000の兵で編成した旧幕府脱走軍は、明治元年10月20日、折からの吹雪をついて噴火湾・鷲の木(渡島支庁森町)に上陸した。その中に元新撰組副長の土方もいた。蝦夷地で徳川家再興を夢見ていたのである。


 途中、榎本武揚と共に面談した仙台藩幹部から、「論ずるに足りぬ小者」(仙台戊辰史)と見られた土方だった。が、「時代を俯瞰(ふかん)出来る人物ではなかったものの、一連の箱館戦争では彼の率いた隊だけが連戦連勝だった」(紺野室長)。死線をくぐり抜けてきた男のすご味が、史実からも浮かび上がる。

 ただ、土方の死は新政府軍との箱館戦争に終焉(しゅうえん)を告げるものともなった。死の7日後、脱走軍は降伏、「建国の夢」はついえたのである。

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その紺野さんにお会いする。
△top
2006年9月21日(木) 明日から北海道
今日、講演会の主催者から手紙が届き、29日支払いと書いてあった。

これで一件落着かな。

さて明日から北海道である。

その準備で、今日はかなりの時間が取られそうだ。

午後、切符を買いにJTBに出かけた。

「星さん、遅いですよ」

といわれた。

列車で函館に行くとなると、

新幹線で仙台まで行き、仙台で八戸行きの新幹線、八戸から

函館まだ在来線の特急である。

仙台、八戸は全席指定、八戸ー函館は特急券、指定券が必要だ。

連休のため予定した仙台ー八戸間の電車は全席売り切れ、

八戸ー函館間の指定券なしである。

「何たることだ」

「3日、遅いですよ」

「事件のせいで、頭が回らなかった」

と地団駄踏んだが、いかんともしがたい。

仕方がないので、次の電車にした。

予定より40分遅れである。

しかも仙台ー八戸は禁煙席が取れない。

「ああああああ」

ため息が漏れた。

まあ仕方がない。

最善を尽くそう。

明日はついたらすぐ函館市史編纂室である。

ここでしっかり、く基本的な問題を頭に叩き込まねばならない。

ひとつは蝦夷島政権の性格である。

私はロマン派、榎本政権は時間は短いが独立政権だったとみたい。

違う。アレは反乱軍という人は多いが、大いに反論するつもりだ、

どうなりますか。

今日5時過ぎ、木古内の公民館に電話した。

「あさっておじゃまします」

担当の木元さん

「駅でお待ちします。ところで星さんは戊辰戦争を書いている」

「はいそうです」

「それはそれは」

本当にありがたい。

これまで本を出してくださった講談社、中央公論新社、三修社、ベストセラーズ、

あるいは平凡社などのの皆さんに感謝、感謝である。

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ところで、海軍兵学校の内容に関して光人社の坂梨さんからメールをいただいた。

星様

ウチで出している本では、
「偉い人」の兵学校時代についての資料は
あまり無いようですが、参考になるかと思われるものを挙げると……

●「海軍兵学校よもやま物語」生出寿著
著者は74期生。自分の体験を中心に事細かに兵学校生活を記述。

●NF文庫「海軍の逸材・堀悌吉」宮野澄著
五十六の同期生、軍縮派で海軍を追われた提督の伝記。
兵学校時代についても少し触れてある。

●NF文庫「海軍人造り教育」実松譲著
海軍士官教育の歴史、エピソード集。

あと探すとしたら、海軍提督の死後に編まれた私家版の伝記・文集の類を
当たってみると良いのかも知れません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ありがとうございます。
△top
2006年9月20日(水) これはなんなのだ
某月某日に某所のセミナーに招かれ、

「松江豊寿と会津武士道」についてしゃべった。

終わって主催者が、

「新幹線がグリーン使用か普通使用か、わかりませんでしたので、

今日、謝礼の準備ができませんでした」

と妙なことをいった。

おかしな話ではないか、事前にメールで聞けばいいじゃないか、

と思った。仕方がないので、

「普通でいいですよ」

と答えた。

「そうですか、それでは、すぐお送りします」

ということだった。

どこの場合も講師料、交通費はその場で支払うのが常識である。

すこし嫌な予感もあった。

前日、事務所に電話したら、不通なのだ。

まあ二、三日中に送金があるだろうと思ったが、

まったくない。

電話は通じない。

最終的に19日、書留で送金するとメールがはいった。

ところが、どうもきそうもない。

「こないねえ」

とメールを送ったら電話が入り、

「これでよろしいでしょうか、という明細を送った」

という。そんな明細はどうでもいい話に思えた。

各地で講演をしているが、これははじめての体験である。

世のなかいろいろあるものだ。

おかげで午前中、原稿が書けなかった。

私は相手の立場も尊重して、

某月某日、某所とした。
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2006年9月19日(火) どえらい人だ
もはや昼寝の時間はない。

今週は気を引き締めて頑張ろう。

昨日に続いて山本五十六の執筆。

旧制長岡中学校の入学時の成績は一番だった。

驚いたのは制服と教科書。

五年間を同じ制服で過ごした。だんだん体が大きくなる。

母親がチョキチョキはさみで切って継ぎ足した。

いまの高校生にこういう人いるかなあ、いないだろうね。

ひとりぐらいはいるかもしれない。

それは応援団の団長、しかし、どこか汚い。五十六はこざっぱりしていた。

教科書は一冊も買わなかった、

上級生に見せてもらい、ノートに全部写した。

なるほど、それで全部覚えたわけだ、

靴は一足もはかなかった。下駄である。

後年、連合艦隊司令長官時代の山本はおしゃれだったが、

中学生時代は、ツギハギだらけの制服だった。

これは参考になるね、

山本五十六フアッション、誰か流行させてくれないかな。

海軍兵学校入学時の成績は二番、

地方の秀才は中央に出ても秀才だった。

海軍兵学校時代はひとり、ポツンと聖書を読んでいた。

これはもう変人である。バンからな学校である。

多分に浮いた生徒だったろう。

卒業時の席順は七番、聖書ばかり読んでいた分、

成績が下がったかもしれない。

この人、すべてが、並じゃないね。

ますます好きになって来た。
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2006年9月18日(月) 睡魔に襲われた
相変わらず天気は曇り、街は静かである。

いつもの本屋めぐり、1冊買って帰って来た、それがなんと自分の本である。

急に「長岡藩軍事総督、河井継之助」が必要になった。

山本五十六との関連で、読む必要がある。

ところが見当たらない。どこかに一冊はあるはずだが、見つからない。

仕方がないので、買い求めた。

その本を開いて、パソコンに向った。

800字も書かないうちに睡魔に襲われた。

どうしても眠い。

仕事場は本の山なので、地震が怖い。

本がばらばら落下し、頭に当たったら危ない。市町村史をかなり買い込み、

並べきれないほどあるので、うっかり昼寝もできない。

なにせ重くて硬いのだ。これが落ちたら大怪我だ。

そこで考えた。

テーブルの下に潜り込むことだ。

これは意外に快適である。

薄暗いのであっという間にグースカグースカである。

起きたら3時だった、

どうも2時間は寝たらしい。

これは大変だ、

原稿がさっぱり進んでいないではないか、

コーヒー、コヒー

いまコーヒーを立てている。
△top
2006年9月17日(日) 山本五十六の家系
午前9時、朝のお茶。

正午、昼食、書店の帰りラーメンを食べる。

午後3時、開戦時の連合艦隊司令長官、山本五十六を書いている。

山本の家系、代々長岡藩士だった。

父は銃士隊の下士官で、薩長軍と激しい戦いを演じ、城を奪われると、

会津若松に退避し、ここで戦った。

徹底的に反薩長であった。

凄いのは祖父である。

祖父は祖母とともに城下に残り、火縄銃6丁を使って敵兵と戦い、

十数人を倒し、それから敵中に突入、壮烈な戦死を遂げ、

長岡藩士の武勇を轟かせた。

そのとき77歳である。

五十六は、この人の孫だった。

父は晩年、小学校の校長を務め、日々、日記をつけ、書をよくし、

子どもの教育には厳格だった。

ここから山本五十六の人間性が浮かんでくる。

ひとつには反権力である。

もうひとつは勤勉である。

頭もいい、子どものころから餓鬼大将だった。

今日はこのあたりを書いた。

同じように戦った会津には、特別の思い入れがあり、

山本の妻は会津人である。

長岡と会津、なるほどなあと思う結婚である。
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2006年9月16日(土) 高橋ツトムさんは凄いね
奥会津文化フオーラムに参加が決まった漫画家の高橋ツトムさん

凄い人気だ。昨日、この欄で発表したら、問い合わせが殺到している。

最新作ヤングジャンプコミックス SIDOOH 士道 1 集英社

680円 は「みんなの書店」評価、5点満点中5.0点である。

店長「モリゾロ」さんの評価

江戸末期の混沌とした時代に母を失った幼い二人の兄弟が、

「刀」を握り強く生き抜くこと決意した。  

修羅の世界で「純」な少年が「現実」を前にどう育っていくのか、

今後がとても気になる作品です。そして、

高橋ツトム先生が描く感情が滲み出して...

とあった。

実にすばらしい作風である。

私は一度、郡山で高橋さんと食事をした。

豪快な方である。

10月21日は、どうなるのか。

整理券でも出さなければだめなのか。

それも大変などでv先着順かな、それで行こう。

高橋フアンの皆さん、奥会津文化フオーラムをお忘れなく。

サイン会も多分あるだろう。

さて今日はNHK福島文化教室。太平洋戦争の第3回、

「大和沈没」がテーマだった。

三連休とあって新幹線が混んでいて、下りは座れなかった。

原稿は「山本五十六」の執筆にはいった。
△top
2006年9月15日(金) 「士道」大討論会、奥会津文化フオーラムで開催決定
北東文芸協会と戊辰戦争研究会の共催、福島県西会津町の協賛を得て

10月21(土)、22日(日)の両日、福島県西会津町

で開催する奥会津文化フオーラム。

今年のメインテーマ、「士道」の内容が決まった。

いまをときめく会津黄門、渡部恒三代議士、

集英社の週間ヤングジャンプで、爆発的人気の漫画家

高橋ツトムさんが特別参加、

私の司会で、会津武士道をテーマに大討論会を開く。

女性士道フアンも何人か参加する。

時間は21日午後1時スタート、

会場は新潟県境の西会津町公民館、

収容人員は限定300人、早いものがちになりそうだ。

いまの日本にもっとも必要なもの、それが、士道、つまり武士道だ。

士道に生きた会津藩佐川官兵衛、長岡藩河井継之助、

郡上藩朝比奈茂吉、仙台藩細谷十太夫、村上藩鳥居三十郎らについて

大いに論じる。

このほか女流作家工藤美代子さんの講演もある。

山本五十六の伝記「海燃ゆ」

で爆発的人気を博した方である。

会場の西会津町は国道49号線の福島県と新潟県の県境近くの

豊かな自然の中にある。

午前11時開会予定。

北東文芸賞の授賞式、研究発表。

夜は、温泉健康保養センター・ロータスインで、

劇団鴉座による時代劇もある。

宿泊は下記のロータスインのほかに町内に旅館もある。

各自、申し込むこと。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
温泉健康保養センター・ロータスイン
〒969-4495 福島県耶麻郡西会津町登世島字下小島187
TEL 0241-45-2900
お問い合せ lotos@nct.ne.jp
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2006年9月14日(木) 箱館戦争は必要だったのか、疑問ありだね
いま箱館戦争の締めを書いている。

よくよく考えてみたら、この戦争の大義名分はどこにあったのかなあ

そんな思いにかられている。

榎本に蝦夷地を預けて開拓してもらえば、よかったのではないか。

松前藩も戦争などせずに、榎本とタイアップして、共同で開拓に当たる

方法はなかったのか。

逆転の発想だが、そんなことを考えている。

もともと榎本は戦争する気はなかったのだ。

開拓と防衛が第一であり、開陽丸を失ったために、

戦争になってしまったのだ。

榎本くみしやすしと、黒田が攻め込んできたのだ。

開陽丸があれば、しり込みし、にらみ合っていたに違いない。

開陽丸を沈めてしまった榎本のミスということにもなるが、

松前城の攻防戦をみて、無駄な戦争だったと強く思った。

藩内抗争が加わり、凄惨な戦争になってしまった。

この戦争は必要なかったのだ。

そいう問題提起をするつもりである。

今日、北斗市の文化担当者から電話をいただき、24日に二股峠と

矢不來の激戦地を案内していただくことになった。

本当にありがとうございます。

あとがきのなかで、現地ルポを書きます。
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2006年9月13日(水) 大高善二郎さんのお別れの会
今日、郡山市のビューホテルアネックスであり、出席した。

大高さんは日本有数のスーパーマーケット、

ヨークベニマルの前社長である。

われわれ友人は善二郎さんと呼んでいたが、

60代の後半で旅立ってしまった。

趣味のひとつがヨットだった。

私もヨットに乗っていた時代があったので、

何回かセーリングにご一緒したことがあった。

ヨークベニマルには教育文化財団があり、

海外と青少年の交流事業を行なっている。

ある時期、私も財団の理事を委嘱され、

善二郎さんと一緒にロスアンゼルスに行ったことがあった。

私はそのころ、仙台伊達藩の支倉常長を調べていた。

仙台の海からメキシコのアカプルコに行き、

それからローマに渡った歴史上の人物である。

「星さん、支倉の跡を見たいね」

ということになり、ロスからアカプルコに出かけ、

支倉常長の銅像を見たことがあった。

仙台の人々が立てた銅像が砂浜にあった。

アカプルコはカジキマグロのトローリングでも知られ、

海に船を出して、一日、トローリングに挑戦もした。

お互いにでつかいマグロをつリ上げ、アカプルコの漁師を

びっくりさせたこともあった。

それから何年か後にカナダとの交流のため、マニトバにもご一緒した。

人間はいずれは、あの世に旅たってゆくものである。

それにしても彼は早かった。もっと人生を語りたかった。

さまざまなことを思い、感無量の一日だった。

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読売新聞ニュース

大高善二郎氏=ヨークベニマル前社長
2006年 9月 9日 (土) 22:15

大高善二郎氏(おおたか・ぜんじろう=ヨークベニマル前社長)

9日、心不全で死去。68歳。告別式は近親者のみで行う。

喪主は長男、愛一郎氏。「お別れの会」は13日午後2時、

福島県郡山市中町10の10郡山ビューホテルアネックス。
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2006年9月12日(火) 北海道取材旅行
いま北海道の関係市町村と連絡を取り、

取材先での資料の提供や、戦跡の案内などをお願いしている。

江差市、木古内町役場、北斗市から取材協力の電話やメールが

入っており、感謝、感激である。

函館では市役所内の市史編纂室におじゃまし、

専門家からレクチャーを受ける。

箱館戦争研究の第一人者の紺野哲也さんにお会いできるのは大きい。

江差や北斗市でも、著名な方々にお会いできることになり、

これはしっかりまとめるしかないと、気を引き締めている。

原稿の方は95パーセントほど書き上げ、

今回の取材で得たことをあとがきに書きくわえ、完成となる。

ラストサムライで一緒に原稿を書いた昭和女子大大学院の

遠藤さんの解説も、すでに送られてきた。

遠藤さんの専門分野は屯田兵の研究である。

解説は「箱館戦争とその後、北海道開拓との関連から」と題した、

30枚ほどの力作である。

これがはいったことで、ぐんと厚みが増したと思う。

箱館戦争を書いて思うことは、榎本武揚の栄光と挫折である。

開陽丸を失わなければ、案外、幕臣による北海道の開拓は

可能だったのではないか。そうも思えるのである。

榎本はロマンチストだった。

夢を求めて北海道に渡り、懸命にトライした。

だが結果は無残だった。でも何かは、確実に残した。

それは何か。

今回の取材旅行で、新しい面を開拓し、本に反映させたい。
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2006年9月11日(月) 明治政府は狭量である。
箱館戦争で、黒田清隆の美談があった。

箱館の街に攻め入った段階で、黒田は会津藩の諏訪常吉を通じて、

和議の交渉に入った。

榎本も同じ日本人である。

天皇に盾突いた逆臣ではない。

黒田は武士道の論理で榎本に降伏を勧めた。

榎本という男は理想主義者だった。

薩長政権とことを構えるというのではなく、

北海道を旧徳川の家臣団に払い下げるよう陳情した。

天皇政府の元で開拓に当たり、

仮装敵国ソ連に対抗しようとした。

開陽丸という屈指の軍艦を持つ榎本は、今日の感覚で言えば、

核弾頭を保持しているようなものであった。

これを上手に使えば、軍艦外交で、戦争をせずに北海道開発の

主導権を握れるはずであった。

つまらぬことで、開陽丸を沈めた榎本は、

希望しなかった戦争をする羽目になる。

弱いと見た明治政府軍が攻め込んだ来たからである。

黒田の武士道精神で榎本らは助命されたが、

二年半も牢獄につながれた。

四畳半に七人が詰め込まれ、蚤と蚊に責め立てれた。

飯はおにぎり一個と沢庵一切れ、たまに味噌汁がついた。

武士道などまったくなかった、

拘留された期間は長く、ひどい処罰だった。

会津藩に対する過酷な処分はあまりも有名だが、

箱館戦争も同じだった。

明治の元勲と言われる木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛、

大黒幕の岩倉具視らを改めて検証する必要がある。

誰がどう考えたかである。
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2006年9月10日(日) 日本史必須論
いままで知らなかったが,日本史は高校で選択科目だという。

日米戦争を知らない高校生もいるというので、首都圏の教育長が、

文部科学省に、日本史必須を要望するという。

これは当然の話である。

同時に私は日本史ではなく、国史に変更するよう求めたいと思う。

国の歴史、国史の呼び方が消えたのは、30年ぐらい前からだろうか。

いつの間にか日本史になってしまった。

国史という呼び方はいつからはじまったのかは知らないが、

相当に古い時代からであろう。

反動的ということで、変更されたように記憶している。

国家の歴史は国史である。

これもあわせて陳情してほしい。

さて昨日は東京でパラオの関係者と会食した。

戦跡の写真、特に水中写真を全国に紹介したいという集まりだった。

「パラオ・海底の英霊たち」(撮影・田中正文 監修倉田洋二先生)

を制作し、世に広める集まりだった。

私もいまパラオ戦記を書いている。

来年3月までには本にしたいと思っている。

写真集とセットで売り出したい。
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2006年9月9日(土) 今日は東京
用件その1、 DOAS経営者研修会

「坂東俘虜収容所長 松江豊寿という人」

9月9日(土)午後1時から3時まで

日本印刷会館(中央区新富)2階会議室

主催者からのメール

ーーーーーーーーーーー
ご講演では松江豊寿という人についてのお話の他に、
是非、星さんの人生や文筆活動などについてもお話を伺えないかと思います。
せっかくお越しいただきよいお話を聴かせていただくのに

誠に少人数の勉強会ですが、受講者との質疑なども交えていただきながら
進めていただければ幸いです。
受講者の皆さんが楽しく学ぶことができて、人の生き方を見つめなおす機会になればと思っております。
以上、どうぞよろしくお願いします。


用件その2

パラオ・海底の英霊たち写真展・写真集制作実行委員会
丹野 徳穂さんに会う。

丹野さんからのメール

ーーーーーーーーーーーーーーーー

昨年より、機会を得て「パラオ・海底の英霊たち」(撮影・田中正文 監修倉田洋二先生)写真
展・写真集制作実行委員会のプロデューサーを拝命され活動しています。
倉田先生と打合せをしている中、星先生のことを伺い、私も戊辰戦争に以前から興味を持ち、先生の著書も拝読させていただきました。また、この度、パラオのことを取材されていることを伺
い、パラオに携っているものとして嬉しく思います。

写真展開催目的は先の大戦のことを伝える方が年々少なくなり、また、知りたくとも学ぶ場所がなくなっている現状です。私どもは薄れていく事実、戦争の悲惨さを若年層に継承しなければと考えます。

6月13日より、1週間千葉県市川市にてパラオ大統領も来市され通常の展示会では100人位のところ約3,000人ほど来館され、ご年配の方は写真の前で嗚咽を漏らす方も数多く見られ関心の大きさを痛感しました。これら写真展を市川市だけではなく一人でも多くの方に見せたく全国展開を考えています。

今後、来年3月14日〜6月30日まで靖国神社 遊就館にて写真展開催決定し、各県遺族会・護国神社にて開催予定を組んでいます。
星先生の御意見を賜りたく、一方的なお話で大変恐縮ですが、ぜひ、ご面会可能なチャンスをいただければ幸いです。

パラオ・海底の英霊たち写真展・写真集制作実行委員会
丹野 徳穂
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2006年9月8日(金) 開陽丸、一瞬の光彩
江差には23日の午後に着く。

まず開陽丸青少年センターに出かける。

ここで「開陽丸ルネッサン」の著作のある開陽丸記念館の初代館長の

石橋藤雄さんにお会いすることになっている。

開陽丸研究の第一人者である。

どんな話が聞けるか、本当に楽しみである。

今、開陽丸は、ほぼ原寸どおりに復元され、

開陽丸青少年センターとして船体を江差港に浮かべている。

海底に埋もれたままになっていた開陽丸とその積載品の

本格的調査と引き上げが文化庁によって、昭和五十年から開始され、

それとともに開陽丸が復元されるに至ったもので、

おびただしい引揚げ品が復元開陽丸内に展示されている。

そこには開陽丸建造に関する興味ある資料も揃えられている。

以下、「開陽丸21世紀新聞」によると、

ヒップス・エン・ゾーネン造船所で建造中、開陽丸の命名式が行われ、

その祝賀パーティーがドルトレヒト市のヴァン・デル・ホルスト亭で

催されたことやその様子などをそれらの資料によって知ることができる。

祝賀パーティーでは、幕府留学生代表赤松大三郎の招待により、

命名を祝って集まった造船所の行員ら約二五〇名が

お祝いの振舞酒を大いに飲み、『開陽丸に捧げる歌』を合唱した。

進水式の模様を地元の『ネーダランス・マガゼイン』誌が、

次のように報じている。

『巨大な軍艦が水の中を滑りだしていくありさまは、

すばらしい光景であった。

集まった数千の見物人の中には、海軍大臣や

オランダ貿易会社の重役を始めとする多くの来賓が目に付いた。

席上日蘭の古い友好関係をたたえ杯が上げられた。

オランダ貿易会社の社長が日本の将軍の健康を祝して乾杯の音頭を取り

次いで日本の留学生団長がオランダ国王の健康の答礼乾杯をした。

市の警備隊の音楽隊はセレナーデを演奏してパーティーに花をそえた。

『VOOR LIGHTER』というのが

オランダでの開陽丸の呼び名である。

『開陽』とは、もとは中国での北斗七星の第六星の呼び名で、

開陽丸は、まさにその名の通り、明治の黎明期において、

ほんの一瞬、光り輝いたのだった。

しかし、蝦夷地に着いてすぐ、厳冬の江差の海に沈み、

榎本ら幕臣たちの夢は消えた。

オランダでは、国を挙げての豪華絢爛たる門出であっただけに、

わが国での開陽丸の最後はあまりにも惨めだった。

私はこれまで2回、ここを訪ねている。

今回は周辺の遺跡も訪ね、改めて開陽丸をしのびたいと思っている。
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2006年9月7日(木) 木古内町、箱館戦争の激戦地萩山・薬師山展望台☆☆☆
22日から函館ですが、23日午前中は木古内町に行くことにした。

ここは仙台藩額兵隊が戦ったところである。

それが萩山・薬師山展望台である。

町の生涯学習課に電話したところ、文化財担当の方が案内してくれる

ことになった。

昨今、各市町村にそうした窓口があり、大変、便利になった。

町役場のホームページを見ると、幕府軍艦だった咸臨丸

が明治4年(1871年)、函館から江差に向かう途中、木古内の

更木(さらき)岬沖で台風に遭い座礁し、破砕た事がわかった。
 
咸臨丸は幕末、幕府が当時唯一国交があったオランダから

購入した木造の軍艦で、万延元年(1860年)遣米使節の随行艦として

日本人による最初の太平洋横断に成功した。

艦長が勝海舟だった。

もっとも勝はひどい船酔いで、寝てばかりいた。

実際の操艦したのはアメリカの海軍士官だった。

明治維新のとき、榎本艦隊に編入され、北海道に来るはずだったが、

房総沖で遭難し、清水港で官軍に拿捕された。

その後、明治にはいって北海道の開拓使付属船となり、

青森と函館間の輸送船として使われましたが、

就航中に座礁し、更木岬沖で沈没した。

何か残っているのかも知れない。そこもみて来ようと思う。
                
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2006年9月6日(水) チンパンジー、序列で役割…道路横断時に先陣・見張り
今朝の読売新聞をみて驚いた。

チンパンジー、序列で役割…道路横断時に先陣・見張り

という見出しで、京都大霊長類研究所(愛知県犬山市)の

松沢哲郎所長(霊長類学)らの調査でわかった

チンパンジーの生態がでていた。

チンパンジーが道路を渡る際、先陣、見張りなど役割分担しながら

危険を回避しているというのである。

群れの第1位のオスがしんがりを務めるケースが多いなど、

役割は序列で決まることも判明した。

「互いに助け合って危険に対処するという高い知性のあらわれ」

としており、米生物学誌「カレント・バイオロジー」の最新号で発表した。

松沢所長らは、西アフリカ・ギニア東南部の森に住む

大人のオス3頭、メス5頭、子ども4頭の群れを対象に調査。

すみかの森を分断する幅12メートルと3メートルの2本の道を渡る

様子をビデオで収録し、分析した。

これは人間社会以上のすばらしい役割分担である。

人間ももともとはこうだったと思うのだが、

老人軽視の時代風潮とともに、集団の役割分担が消えてしまった。

最近、復活しつつあるが、こうなると、チンパンジーに負けるなである。

私は北東文芸協会、戊辰戦争研究会の二つの会合の

世話役をしているが、

年配者の役割だけは、キチンとこなして行きたいと考えている。

10月21日には福島県西会津町で、両団体共催の

「奥会津文化フオーラム」を開く。

北東文芸賞受賞者の記念講演会、

戊辰戦争研究会のメンバーによる武士道の討論会、

会員の研究発表などを予定している。メンバーは全国から集まる。

劇団鴉座の公演もある。座長寒河江君の熱演が見もの。

チンパンジーに負けないよう頑張ろう。
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2006年9月5日(火) 函館の旅
榎本武揚を書いているうちに、どうしても北海道に行きたくなった。

戊辰戦争研究会の人々と、12月に出かける予定でいたのだが、

待てなくなってしまった。

旅は行きたいと思ったときに出かけるのが一番である。

22日から出かけるのだが、

最初に江差に行ってしまおうかなとも思っているが、決めてはいない。

オーソドックスに函館に一泊して、

翌日、レンタカーで松前、江差と行ったほうがいいのかナとも思う。

これからゆっくり考えよう。

江差からは乙部に行き、

帰りは土方奮戦の二股峠をみて、函館に戻ることになるだろう。

そうそう、木古内にも行こうと思う。

ここは仙台藩額兵隊が戦ったところである。

ここは松前に行くときになる。

時間があれば鷲の木も行きたいね。

3泊4日

どこまで回れるかですね、

これはという穴場、宿泊の場所などいい情報があれば教えてください。

ところで、昨日、福島県にもきな臭い事件と書いたが

今朝の新聞を見たら2人、逮捕されていた。

県政にからむ問題、

どうなるのだろう。


  
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2006年9月4日(月) いろいろ問題がありますね
秋田の連続児童殺害、県警が初動捜査ミス認めた。

杵淵智行本部長は「『事故の可能性が高い』と判断したが、

もっと慎重にすべきだった。

責任は組織全体にあると初めて判断ミスを認めた。

これはもっと早く認めるべきだった。

昨今の事件を見ると、開きなおったところが

だんだん、おかしなことになるようだ。

パロマがそうだった。

若い社長は「悪いのは改造した業者だ」と

啖呵をきった。

それがテレビで放映された。

国民は一層不信感を募らせた。結局、メーカーにも非があった。

人間は過ちが多い、過ちにきずいたら、謝罪すべきだ。

私が住む福島県でもきな臭い事件が話題になっている。

東京地検特捜部が動き、全国紙の紙面に出ているのだから、

なにかあるのだろう。


さて、榎本武揚

22日から函館、松前、江差、乙部に取材に出かける。

現場を踏まないと、どこかで解釈を間違う。

ゆっくり焦らず、道南を回ろう。

久しぶりの単独取材旅行である。
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2006年9月3日(日) 蝦夷島共和国
榎本の最終的な構想は、

明治政府から北海道を徳川一族の領地として譲り受ける。

つまり蝦夷島共和国の建設だった。

榎本帝国の建国といってもいいだろう。

フランス、イギリスの函館領事、あるいは外国の軍艦の艦長を通じて、

明治政府にこれに関する嘆願書を提出した。

嘆願と言っても強い態度で要求した。

そして諸外国に対しては、戦争になった場合、

局外中立を守るよう要請した。

蝦夷地の開拓計画も示され、移民の勧誘、鉱山の開発を挙げ

フランス軍事顧問団の参加を高く評価し、

フランスの優れた知識、技術力によって開発を進展させると強く訴えた。

対応に当たったのは岩倉具視は、これを却下すると通告した。

榎本の行動は朝敵以外の何ものでもないという理由だった。

そして諸外国に局外中立の撤廃を求めた。

岩倉の強硬な態度の背景にあったのは

軍事バランスの崩壊である。

それは開陽丸の遭難であった。

牙のいない榎本艦隊は恐れるに足らずと見られたのである。

開陽を失った時点で、榎本の立場は逆転した。

さらに武器弾薬の輸出禁止の措置もとられた。

榎本は絶対絶命の危機に陥った。

これをどう打開するか。

蝦夷島政権首脳の苦悩が始まる。
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2006年9月2日(土) どうして簡単に人を殺すのだろうか。
徳山高専の殺人事件

なぜ簡単に殺すのだろうか。

この原因はどこにあるのだろうか。

人はいろいろのことを言うが、

根本的には家庭、学校の教育しかないだろう。

人を殺したら自分はどうなるのか。

武士の社会では、切腹の覚悟が必要だった。

会津藩では、不始末を起こした場合、切腹だった。

留学先で飯がまずいと母に手紙を書いた郡長正は切腹した。

犯人はなにをどう考え、同級生を殺害したのか。

人間の不可解さを感じさせる事件である。

この機会に徹底討論が必要である。

学校も家庭も友人同士も人間の命について討論を深める必要がある。

今日はNHK郡山の歴史講座だった。

講義を中断して、殺人事件について語った。

この種の事件はもうたくさんだ、絶対になくさなければならない。

中国新聞の報道だと事件に使われたのは

荷造りに使うビニール製のひもだという。

 捜査本部は犯行の計画性を判断する材料とみて、

殺人容疑で指名手配している男子学生が外から持ち込んだか、

もともと研究室にあったかを調べているそうだ。

 調べでは、この荷造り用のビニール製のひもは

一般の量販店などでも簡単に入手できるという。

計画的犯行なのか。女子学生の遺体は

研究室の床で首にひもを数回巻かれた状態で見つかった。

犯行直後から行方不明の男子学生は

一体、どこに消えたのか。

これも不思議である。犯人と見られる学生は名前も顔写真も出ていないが、

公表すべき段階ではなかろうか。

 
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2006年9月1日(金) 開陽丸はなぜ沈んだか
毎日、開陽丸を考えている。

慶應4年11月15日、

開陽丸は江差の海にいた。

松前兵は土方に蹴散らされ、軍艦が出るほどのことはなかった。

「荒れた海になぜでるのか」

遊撃隊の人見勝太郎がいった、

「いやあ。気休めだね、海軍は何もしていない。大砲の一発も撃たせないと」

「必要ないんじゃねえかい」

「気休め、気休め」

榎本は、万事、甘くみていた。

江差の海の怖さをしらなかった。大砲を数発撃って、上陸した。

船は沖合いに錨を二本打って係留した。

夕方、暴風雪となった。

この辺でいうタバ風が吹いた、北西の烈風である。

諸説いろいろある、機関を焚いて荒天準備をしていた。

いや蒸気は十分にあがっていなかった。

錨が効いていなかった。

ともあれ、錨は流れ、船は岸壁に流され、座礁した。

大砲を放って離礁しようとしたが、無駄だった。

開陽丸あっての榎本である。軍艦を失った榎本は裸の王様だった。

翌春、榎本は明治新政府の艦隊に攻められ、降伏する。

榎本の夢は開陽丸とともに江差の海に沈んだ。
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