星亮一 今日の一言

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2003年8月25日(月) ノモンハン今日出発
いま朝6時30分です。
これから新潟空港に向かいます。
郡山から高速道路で新潟に入りますが、
万景峰号の入港で新潟は騒然としています。
しかし空港周辺は大丈夫という情報が入っています。
それでは皆さん、
行ってきます。
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2003年8月24日(日) 明日からノモンハン
明日12時の飛行機で、新潟空港からハルピンに飛びます。
新潟は万景峰号の入港で、混雑しており、すこし早めに空港に向かいます。
ハルピンには1時間ちょっとで到着し、夕方6時の列車で満洲里ヘ。
車中泊で、26日9時48分に満洲里に到着します。
そこからバスに乗り、
阿木古郎鎮に一泊、車でノモンハンに向かいます。
天候はよさそうです。

帰国は31日です。
この間1週間,今日の一言は休ませていただきます。
皆さん、9月1日にお目にかかります。
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2003年8月23日(土) 東北高校準優勝
東北高校と常総学院の決勝戦、残念無念の一言に尽きました。
予想に反して東北高校の打線はもう一歩、及ばず、
またも真紅の優勝旗は白河の関を越えることは出来ませんでした。
秋田中学、三沢高校、磐城高校、仙台育英高校が果たせなかった夢はまたも実現できませんでした。
今日はつらい日です。
いつ優勝旗が白河の関を越えるのでしょうか。
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2003年8月22日(金) ノモンハン事件
25日の出発を前に落ちつかない日々です。
ノモンハンで惨敗した日本陸軍は、どのような責任を取ったのでしょうか。
参謀本部の中島参謀次長、橋本第1部長が予備役に編入され、関東軍では植田軍司令官、磯谷参謀長が予備役編入、服部、辻の参謀も更迭されました。
現場の指揮を取った萩洲第6軍司令官、小松原23師団団長も予備役に編入されました。
この戦争弐おける日本軍の損害は戦死、行方不明8741人、戦傷8664人、戦病2263人とされていますが、疑問が多いとされています。
もっと多かったのではないかというわけです。

ソ連側の損害は戦死、行方不明7974人、戦傷15251人、戦病701人とされ、日本よりも多くの人的損害を出していました。
日本軍は善戦したとも言えるわけですが、
負け方がひどく、惨敗でした。
辻参謀は程なく復帰し、太平洋戦争でも多くの戦場で参謀を務め
何度も惨敗を重ねました。
身内に甘いのが陸軍でした。
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2003年8月21日(木) 東北高校優勝旗を
甲子園大会、今日は東北高校、光星学院の東北勢の対決となり、
東北高校が明日の準決勝に進出が決まりました。
こうなったら優勝を目指して欲しい。
そう思います。
東北勢はまだ優勝がありません。第1回の大会で秋田中学、
戦後は青森の三沢高校、仙台育英高校が決勝に進みましたが、
全国制覇はなりませんでした。
全国優勝は東北の悲願です。
今年こそが悲願を達成して欲しいと思います。
ダルビッシュ投手、疲労もあるでしょうが、
がんばって欲しい、
その一言です。
東北福祉大は全国大学選手権で優勝しています。
高校は東北高校と行きたいものです。
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2003年8月20日(水) 北朝鮮万景峰号
ノモンハンに熱中している間に、25日には万景峰号が新潟に入港するということです。
個人的にいえば反対ですが、法的に入港は拒否できないとか。
散々日本を誹謗しておいて、何が入港かと思います。もし入港となれば、
この際,徹底的に船を調べるべきです。
テレビ番組テレビタックルによれば,拉致家族の家族は一人10億円出せば返すとか。
冗談じゃないよといいたいです。
日本国民を拉致しておいて、10億円、とんでもない話です。
こういう暴力的国家は、許せません。
許さないなら日本にミサイルを撃ちこむと騒いでいるようですが、
そうした脅しに屈する日本ではありません。
それを国民全体で確認すべきです。
拉致家族を即刻返さなければ、
万景峰号の入港は,総理の判断で
断固、拒否する。
そういう覚悟を持つべきです。
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2003年8月19日(火) チチハル
今回のノモンハンの旅、急遽、チチハルに寄ることになりました。
チチハルは黒龍江省、第二の都市です。人口560万人、
チチハルは少数民族ダフール族の言葉で、国境の要塞の意味です。
景色も気候も北海道によく似た地形といわれています。
ソ連軍が攻めてきたとき、北満州にいた日本の開拓民は、チチハルを目指しました。
難民収容所は幾つも出来、収容所で重なり合うようにして寝ました、
八路軍、ソ連軍に婦女子は暴行され,地獄の日々を過ごしたところでもありました。
清朝時代,ここに北の砦がありました。
市街は城壁に囲まれ、天人そびえる魁星楼があります。
写真リポートにご期待ください。
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2003年8月18日(月) ノモンハン事件
陸軍に辻政信という参謀がおりました。
ノモンハン事件に深くかかわった人物です。
「ノモンハンの夏」を書いた作家の半藤一利さんが書いていますが
「笑うと笑顔が驚くほど無邪気だった」
といいます。
無邪気さで戦争の指導をしたのでしょうか。
この事件、日本陸軍は壊滅的な惨敗でした。
資料によって数字はマチマチなのですが、
土門周平の「参謀の戦争」では、日本軍の参加人員15、140人、死傷者11、124人ということで、
記録的な惨敗でした。
その責任者の一人だった辻参謀は、昭和25年に「ノモンハン」を執筆しました。
この本、戦後書かれたものだけに、客観的な記述になっており、ソ連軍の優勢を伝えていました。
日本軍は精神力を重視し、ソ連軍を過小評価したことが敗因と書かれていました。
当時、精神力を強く主張していた当の本人が辻参謀でした。
前線でウイスキーに酔い、戦意喪失の連隊長、ガソリンで焼かれた何百という日本兵、
壊滅的な敗戦でした。
その後の日本軍を象徴する惨敗、
それがノモンハンでした。


 
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2003年8月17日(日) 旧満州で考える
日本とロシアは、明治以来、敵対関係にありました。
日露戦争にはじまってノモンハン事件、満州への奇襲攻撃、シベリア送り、戦後も冷戦の終結までは仮想敵国でした。
今回の旅で、私は日本とロシアの関係について、二つのことを考えて来ようと思っています。
一つはノモンハン事件です。
この事件は満州国とロシアの国境問題から起こりました。
国境紛争はよくあることですが、
ロシアの戦車部隊によって日本軍が壊滅的打撃を受けたことに、重要な問題点がありました。
NHKが終戦特集として昨日、関東軍のことを放送していましたが、その中に
ハイラルの陸軍病院の看護婦だった方の証言がありました。
「日本兵はバラバラに吹き飛ばされ、また壊疽患者が大量に発生し、目も当てられぬ状態でした」
その方は証言していました。
日本陸軍はその惨敗をひた隠しに隠しました。日本軍は突撃を繰り返し、犠牲者を増やしていったのです。
日本陸軍の突撃はいかに無意味か、
それを隠し続けたのです。
太平洋戦争でもこの突撃は続きました。
玉砕戦法です。
兵士を虫けら同然に扱う日本軍の悪しき戦法でした。

もう一つは満州に攻め込んだロシア兵のおびただしい略奪、暴行です。
満州開拓の日本人は、ロシア兵によって何万という死者を出しました。
戦争とは何か、
国家とは何か、
考えることがいっぱいあります。
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2003年8月16日(土) 興山会津村開拓団 
ノモンハン行きの準備に明け暮れています
大東亜戦史という本があります。その本の満州編は、新聞記者が書きつづったものでした。
その中に上記のタイトルの一文がありました。
著者は福島民報編集局顧問佐藤民宝とありました。
私が記者をしていた時期、佐藤さんは短い期間でしたが、編集局長のポストにありました。
この方は作家でもあり、いくつかの小説を残しています。
満州に会津開拓団があったことは、知りませんでした。
今度、私が出かけるノモンハンの途中にチチハルがあります。
交通の要衝です。そこから200キロ離れた山中にその開拓団があったのです。
ソ連軍侵入の知らせに開拓団の人々は、汽車でチチハルを目指すことになりました。
68戸、280人の人々は最寄の駅に向かいましたが、すでに占領され、汽車に乗れません。
チチハルまで野宿しながら歩くことになりました。
毎晩、満州民に襲われ、
持ち物を奪われました。
「会津に帰る」を合い言葉に必死に歩きました。
子供、身重の婦人もいました。
一人の落伍者もなく10日後にチチハルに着きました。
これは奇跡でした。
チチハルでは収容所に1年間、いれられ、そこで身重の婦人は死に、70人もの人が発疹チフスで死にました。
会津の人々は、それから奉天に向かい、昭和21年、佐世保にたどり着いたのです。
会津若松に戻って1週間目に一組の夫婦が死にました。
ふるさとを見て、もう思い残すことはなかったのかも知れません。
そうではなく、精も根も尽き果てたのかも知れません。
一人は川に身を投げて死にました。
何があったのでしょうか。

鶴ヶ城が見える小田山の麓に「会津村殉難者慰霊碑」があるということです。できれば出かける前に参拝したいと思っています。
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2003年8月15日(金) 戦艦武蔵の最期
各新聞は終戦特集を組んでいますが、
今朝の河北新報に戦艦武蔵の最期証言が掲載されていました。
宮城県の狩野養三郎さんの証言です。
狩野さんは、戦艦武蔵に乗ってレイテ沖海戦に参戦しました。
昭和19年10月24日、日本海軍はレイテ沖で最期の決戦に臨みました。
武蔵は6時間以上にわたる空襲を受け、4隻の空母とともに沈みました。
「武蔵の戦闘は甲板上に土嚢をたくさん積み、まるで地上戦のようだった。若い兵士が
手や足を吹き飛ばされ、次々となくなった。甲板は血の海だった」
と狩野さんは証言しました。
狩野さんは、沈没寸前に駆逐艦に移乗、助かったのでした。
帰国すると幽閉され、一般人との接触を禁じられました。
日本海軍がなぜ戦争に踏み切ったのか、
私も「山口多門」や「伊藤整一」を書いて、考察しましたが、
太平洋戦争は
無駄な戦争でした。
軍部だけではなく国民全体が無知でした。
おかげで日本はひどくゆがみ、
今日もなおその後遺症に苦しめらているのです。
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2003年8月14日(木) 郡山に薬学部
今朝の福島民報に郡山市に薬学部設置のニュースが出ていました。
これは朗報ですね。
郡山も年々、仙台との結びつきが強まっていますが、薬学部を設置するのは、仙台の東北文化学園大学です。
東北には東北大学薬学部と東北薬科大学しか薬学部はありません。
二つとも仙台です。
郡山には日本大学工学部、郡山女子大学、奥羽大学の三つがあります。
奥羽大学には歯学部があり、これで理科系が三つ揃うわけです。
東京ではなく仙台から進出というのも、注目すべきことです。
昨今、仙台に出かける人が増えておりますが、
これも仙台との密着を示すものでしょうか。
薬学部は6年生です。
平成17年開設、場所は郡山駅の周辺です。
1学年250人、将来は1500人規模の学部になるわけです。
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2003年8月13日(水) 満州語と満州文字
今回、出かける満州は三回目です。
1回目は、まだ観光が自由化される前なので、ずい分、昔でした。
船で行きました。2回目はバスで大連からハルビンまで縦断しました。
今回は新潟からハルビンに向かい、内モンゴルに向かうわけです。
満州というと戦前、日本が作った満州国を連想しますが、
中国東北部には満州族がいて、
満州という国家が存在したのです。
言葉も満州語、文字もありました。
トルコ語、モンゴル語に近い、ツングース語の一つです。

中国は広大です。
さまざまな部族が集まって中国が誕生したのです。
その辺も今回の見所でしょうか。
ハルビンでは黒龍江省民族博物館で、少数民族を勉強してきます。

出発までと10日ほどになりました。
そろそろ持参する荷物の点検に入ります。
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2003年8月12日(火) 日本一のふるさとを創る会
作夜、福島市で行われた日本一のふるさとを創る会の講演会は、大勢の方においでいただき、大変盛況でした。福島民報の花田社長にも久しぶりにお会いしたし、福島県や福島市、福島商工会議所の幹部もの方、自営業の方、ご婦人の活動家、遠くは双葉町の川崎さん、
今度、萩に一緒に行く財界21の小野さん、いろんな方にお会いしました。
この会のプロデュ―サ―の小林さんはラジオ福島の企画室長で、
もと福島民報記者、私と一緒に働いていた時期もありました。
なかなかの手腕でした。
毎月、例会を開いているというから立派なものです。
私は「幕臣たちの誤算」と題して、日常生活のどこにでもある倒産や失敗について語りました。
質問もいっぱいありました。
福島県に未来展望についての感想ももとめられました。
青森、秋田、岩手の三県は北東北州を目指して協議を進めていますが、
福島県はどこに行くのか、見えないと申し上げました。
下手をすると会津は新潟、いわきは茨城、白河は栃木、相馬は仙台に吸収され、福島県はなくなるのではないか,という率直な感想も、あえて申し上げました。
各界各所で討論する時代であり、またそのことは実に楽しいですね。
今度は、福島トヨペットのデーラーの会、須賀川の文化団体連絡協議会で、
話をさせていただくことになっています。
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2003年8月11日(月) 高校野球
甲子園大会を毎日、見ています。
今年は東北勢が弱く、岩手、福島、山形が敗れてしまいました。
青森は勝ち、今日は宮城、東北高校の登場です。
東北高校は優勝候補の一角です。今日は勝ってくれるでしょう。
福島県の高校は初戦敗退の連続です。別に雪国でもありません。
どこが弱いのか、
とにかく負けるのです。
常総学院の木内監督のような人物の不在かなとも思います。
高校野球は監督の哲学が大事のようです。
それがないと、どうも勝てないようです。

さてノモンハンの旅、迫ってきました、
「原稿、書くんでしょう」
といわれるのがつらいところです。
一週間の旅ではたして一冊の本が書けるか、
不可能ではありませんが
旅を楽しんでいる暇はありません。
そこがつらいところです、
本が売れない時代です。
悠々と旅をしてきたと思います。
その方がいいもの書けるかもしれません。
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2003年8月10日(日) 久しぶりに晴れ
台風一過、青空です。
爽やかですね、
中公新書の「会津戦争」の写真撮影、梅雨の曇り空でした。
今日だったら最高と悔やんでおります。
ノモンハン行きを前に、平凡社から出る「山川健次郎」の校正が入っており、
撮影に行く時間はなくなってしまいました。
残念だなあ。
25日からはハルビン、満州里、ハイラル、ノモンハンです。
その準備もあります。
多忙大賛成、
サーズ予防の薬も持参します。
そうだ、
あしたは
福島で予期せぬ講演会です。
あれもこれもで、毎日が矢のように過ぎてゆきます。
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2003年8月9日(土) 情報化時代の落とし穴
昨日、日本一のふるさとを創る事務局から突然、faxが入りました。
私の講演会、この11日だというのです。
11日は東京で日本大学大学院の集まりがあり、
出席することにしていたので、ビックリ仰天、事務局に問い合わせました。
「私は22日で連絡を受けていました。これは一体、なんですか」
「えツ、ア、間違ってしまいました。全員に通知を出してしまいました」
普通ならありえないことが、起こってしまったのです。
明後日のことであり、もうどうにもならない感じなのです。
私もイベントは多く抱えていますが、マスコミも関係した講演会で、このようなことが起こったのははじめてです。
基本的な連絡、確認のミスでした。
東京ではあいさつも予定されていました。
地元をキャンセルしようと思ったのですが、知人も多く、東京にお詫びのメールを送りました。
いま多忙な時代です。
それだけに一層、確認が必要ですね。
地方には、ナアナアのよさがありますが、
半面、ルーズさもあります。
事務局の責任者は担当の職員に確認を命じていたそうですが、
私には何の連絡もなかったのです。
ともあれ東京の了解もいただいたので、
しっかり講演は致します。
お互い自戒したいですね。
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2003年8月8日(金) ハイラル続報
ハイラルは内モンゴルの首府です。市内には漢族、モンゴル族、回族、満州族、タフール族、エべンキ族、オロチョン族が住んでいて、人口はわずか22万です。
西シベリアの気候で、一年中、季節風が強く吹いています。
見所は遊牧民テントのがある大草原、草原には青い湖があり、
通称、ホロンバイン観光が目玉です。
エべンキ博物館も有名です。
エべンキ族はホロンバイル草原の東南部に住む少数民族で、
ここにはカヌーやテントが展示され、生活様式や歴史がわかるようになっています。
また町には日本軍が2万人の中国人を動員して作った地下大要塞があります。
ここには日本軍の悪行が展示されているとか、
ここは気が重いです。
多分、徹底的に悪く書いてあるに違いありません。
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2003年8月7日(木) ハイラル
私たちは、26日、ハイラルで降り、ノモンハンに向かいます。
ハイラルは海拉爾と書きます。ハイラルには関東軍が常駐していました。
地下壕も多く残されており、抗日戦争の跡地として保存されています。
日本人の開拓地もあり、そこを見るのも楽しみです。
目下、資料が不足しており、
集まり次第、ご報告します。
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2003年8月6日(水) 満州里ヘ
今回の旅行の楽しみの一つは満州里です。
満州里にはハルビンから寝台特急「満州里号」で向かいます。
ロシア国境の町まで15時間かかります。
今回は夜の6時48分に発車し、翌朝9時47分に到着します。
言葉はロシア語とモンゴル語です。食べ物は絶対ボルシチ、ポテトサラダ、ポテトフライ、ロールキャべツ、パンです。お店の人はいい人が多く、
「足りないときは、また頼みなさい」
といってくれるそうです。
夜はナマビールとウオッカです。
周囲は見渡す限り草原です。
朝晩は冷えるので、ベスト、セーター、カーディガンが必要です。
風邪を引きやすいので、葛根湯、しょうが湯の持参もかかせません。
段々、燃えてきました。
明日から見所を紹介します。
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2003年8月5日(火) ノモンハン
昭和10年ごろから満州国とソ連の間で、国境紛争が激化していました。
当時、ソ連はドイツと対抗するために軍の機械化を進めていました。日本軍は機械化軍団の編成はまだでした。
昭和14年、ここで武力衝突が起こり、当初、日本軍は優勢でした。
わが国の航空部隊は優秀で、ソ連機56機を撃墜、敵の飛行場を奇襲攻撃し、150機を撃破し、戦果を上げたのです。
しかし地上戦に入ると、ソ連戦車部隊の大攻撃に遭い、砲弾の備蓄も底をつき、敗退したのでした。日本軍は突撃を繰り返し、戦車の餌食になったのです。
日本軍の死傷者16000人、ソ連軍15000人、表面上は双方互角でしたが、
日本軍の指揮官は大半戦死し、壊滅的な打撃を受けたのでした。
今回、ここを見てきます。
日本陸軍は白兵主義の失敗を学んだはずでしたが、教訓を生かせず、太平洋戦争まで引きずり、失敗するのです。
日本陸軍の失敗は、
ノモンハン事件を生かさなかったことにありました。
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2003年8月4日(月) 奥会津の小さな旅
昨日は一言、休んでしまいました。
すみません。
実は奥会津の三島町に行っていました。
交流センター山びこで文化フォーラムの打ち上げがあり、金山町の花火大会を見学し、宮下温泉の栄光館に泊まり、柳津に立ち寄って遅く帰ってきました。
来年は「只見川・大自然」をメインテーマにしたいと私は提案しました。
尾瀬に源を発する只見川は会津若松の周辺で阿賀川、新潟県に入ると阿賀野川と名前を変え、日本海に注ぐ大河です。
今回、総合司会を担当された山びこの五十嵐所長、
「いヤア、私が考えていたことと同じです。やりましょう」
と叫び、固い握手を交わしました。
奥会津書房の遠藤編集長、
「それよろしいんじゃない」
と合づちを打ってくださり、感触は上々でした。
今後十分に内容を詰め、発表して行きたいと思います。

柳津でも大変、収穫がありました。
版画家斎藤清のアトリエにしばらくぶりに立ち寄ってきました。
斎藤さんがご健在のころ、私は三、四回、ここにお邪魔をしまて斎藤さんの哲学を聞きました。
「俺はなア、一生、版画家だ」
いつもそうおっしゃって仕事をなさっていました。
アトリエの窓から見える只見川は、
あのときとまったく同じで、
悠々と流れていました。
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2003年8月2日(土) ノモンハン実施決定
ノモンハンの旅は新聞発表を行った結果、申し込みが相次ぎ、15人を超え、実施が決まりました。
25日、新潟空港からハルビンに飛び、旧南満州鉄道に乗って、北満に向かい、ノモンハンを見て31日に帰国します。
中国国境の満州里、ノモンハンの旅は、めったにいけないオリジナル企画です、
料金が23万8000円、参加ご希望の方は私のメールに申し込んでください。
来週からはノモンハンの勉強です。
辺境の旅、ノモンハン、ロマンがありますよ、
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2003年8月1日(金) 北東北学の構築
青森、秋田、岩手の北東北の三県は新たな地域ずくりを進めるため、北東北学検討委員会を設置しました。
私はかねて東北は二つに分かれると主張してきました。
それは取材を重ねて実感したのですが、福島、宮城、山形は次第に東北の印象が薄れ、関東や越後に組み込まれつつあるのに対して、北の三県はかたくなに東北を守っているからです。
北の三県はそれを十分に心得、先手を打ったのです。
さすがですね。
私も北東北学の勉強のために三県を尋ねる機会を増やしたいと思います。

ところで北朝鮮、拉致問題で小出しにしてきましたね。
ニ家族だけ返すなどとんでもないことで、
それで日本人をごまかそうと考えても無理でしょう。
拉致者全員と全家族を返さない限り、
北に援助をすべきではないとい思います。
もちろん、民間団体をつかって揺さぶりをかける手にも乗るべきではないでしょう。
とにかくやり方が姑息です。
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