星亮一 今日の一言

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2004年8月31日(火) 中国の水道
私の仕事場に近くに寿泉堂総合病院があります。
チベットから帰国して、ひどい下痢が続いたため昨日、
診察してもらいました。
血液検査、便の検査をして
点滴をしてもらい、抗生物質と整腸剤を薬局から購入しました。
診断では腸炎で、特に心配はないということでした。
おかげで気分も良くなり
快方に向っております。

この3年ほど中国から帰ると必ず同じ症状になります。
中国の水に原因があると自分ではおもっています。
飲料水はボトルの水を飲みましたが、
野菜、果物などは察する水道で洗っているのではないでしょうか。
中国の水道は雑菌が多くて飲めません。

オリンピックもいいですが
水道をまず完備してもらいたい
そう思うのです。
△top
2004年8月30日(月) 高山病
まさかと思っていたのですが、
チベットで高山病にかかってしまいました。
頭が重い。息切れがする。
食欲不振
見学の意欲が薄れ、
木陰を見つけては
すわり込んでいました。

ポタラ宮殿の最上屋は
標高4100メートル
もうふらふらでした。
金魚のようにパクパク
息を吸っていたのですが
ダメでした。
いたるところで
小型の酸素ボンベが売られていましたが、
これは役に立ちませんでした。

チベットに行く方は
対策が必要ですね、
まず万全の体調ででかける。
高地トレーニングも必要かもしれませんね。

チベット便りはじょじょにはじめます。
△top
2004年8月29日(日) チベット報告
いま事務所です。
チベットは大変でした。
高山病にかかり、
またいつも事ながら帰国直前から
腹に変調を来たし、
今日も最悪です。
来年は中国は止めて
ヨーロッパにしようと思っています。
中国に出かけると
かららず体調を崩すのです。
チベット報告は
体調が回復すれば
明日から連載します。
でもむずかしい状況です。
△top
2004年8月28日(土) 中国帰国1日遅れ
北京から事務所に連絡が入り
飛行機の関係で
帰国は
28日
夜になりました。
△top
2004年8月27日(金) 中国第七日目(最終日)
14:00 中国国際航空機にて成田へ(北京経由)

<<成都【パンダ繁殖センター】>>
成都市北郊の斧頭山にあるパンダの保護・繁殖と科学研究の基地である『成都パンダ繁殖センター』は、20頭ものパンダが大事に飼育され、その様子を見学できます。
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2004年8月26日(木) 中国第六日目
ラサから成都へ
成都市内観光

<<成都【杜甫草堂】>>
成都市の西郊、浣花渓にある杜甫草堂は、唐代の大詩人杜甫が、45歳の時、安禄山が長安を陥し、杜甫も捕らわれて幽閉され、のち脱出して逃れました。
唐が長安を回復したあと、飢饉のために官を棄てて彼は食を求めて放浪し、その年の12月に、彼は蜀道の険を越えて四川に入りました。その後48歳から51歳まで、約四年間住み、その間に240首余りの詩をつくったのが杜甫草堂です。

<<【武候祠】>>
成都市街の南西部に位置する武候祠は、三国時代の蜀の王、劉備玄徳と丞相諸葛孔明を祭る廟です。
西晋時代末期の760年に別の場所に建立された諸葛孔明を祭る祠堂を明代に現在の場所である劉備玄徳の墓・昭烈廟の隣へ移し、君主と臣下を共に祭る「君臣合廟」としたもので、武候祠の名は、諸葛孔明の死後のおくり名、忠武候から取られました。
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2004年8月25日(水) 中国第五日目
ゲルク派最大の寺院デプン寺を見学。

<<ラサ【デプン寺】>>

 ラサ市の市街から西北に5キロ、山の斜面にあり、セラ寺、ガンデン寺とともにゲルク派三大寺院とされ、なかでも最大の規模を誇っていたのがデプン寺です。創建は明の永楽14(1416)。ゲルク派の創始者・ツォンカパの高弟ジャヤン・チェジュによって建てられ、多いときには七千名を超える僧侶が修行をしていたといわれています。
 セラ寺とならぶ学問寺として、十七世紀には七つの学堂を擁し、現在残っているのはそのうちの四つ。最も規模の大きなのはロセリン学堂、ついでゴマン学堂。デヤン学堂は顕教の学ぶためのもの。そして、ガクバ学堂は顕教を学んだ僧が密教を学ぶためのものです。
 
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2004年8月24日(火) 中国第四日目
終日ラサ市内観光

<<ラサ【ポタラ宮】>>
紀元7世紀に営造された中国の名高い宮堡式の建築群であり、古代チベット族建築芸術の精華であるポタラ宮は、敷地面積は41万m2で、世界の文化遺産に指定されています。5世ダライラマからすべての重大な宗教、政治式典が行われ、政治、宗教など旧チベットの統治の中心地で、歴代ダライラマの冬の離宮でした。

<<【ジョカン寺】>>
チベットで現存する最も古い木と石構造の建物で、紀元647年、唐の文成姫を迎えるためにとくに築かれたと伝えられています。

<<【バルコル】>>
大昭寺の目前に栄えるバルコルは、巡礼路として、また人々の生活を支えるマーケットとしてなくてはならない街。寺にお参りに来る人のためにはお線香やヤクバターなどの巡礼グッズ屋さんが、観光客向けにはチベット的な刺繍の施されたバッグやアクセサリーなどのおみやげ物屋さんなどが店を開いています。

<<【セラ寺】>>
セラ(色拉)寺はラサ市街地の北八キロの山麓にあり、レプン寺、ガンデン寺とともにラサ三大寺とよばれています。十五世紀初めに、チベット仏教ゲルク派(黄帽派)の始祖ツォンパカの高弟ジャムチェン・チュウジェによって創建されました。
一九〇一(明治三十四)年には、河口慧海が入門し、約六八〇〇人の僧侶を擁し、隆盛を誇っていました。
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2004年8月23日(月) 中国第三日目
ツェタン市内観光

<<ツェタン・タントク寺>>
ソンツェンガンポ王の故郷ツェタン。この町にあるチベットでも有数の古寺・タントク寺。小さな寺ですが,真珠でつくられたタンカ(仏画)があることで有名です。

<<ユムブランカ>>
チベットで最も古いと言われる城で、紀元前127年に初代のチベット王が天から地上に降りてきて、ここに居を構えたのが始まりといわれています。

<<ノルブリンカ>>
ダライ・ラマの夏の離宮です。チベット語で“ノルブ”とは宝物、“リンカ”とは苑のことで、かつてダライ・ラマは、夏の間、この離宮で政治と宗教の事務をおこなっていました。
ダライ・ラマがインドに亡命したのもこのノルブリンカからでした。
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2004年8月22日(日) 中国第二日目
11:30 成都からラサへ

<<ラサ>>
平均海抜4000m以上のチベットは「世界の屋根」と称されています。チベット自治区の区都ラサは輝しい高原の真珠とたたえられ、ヤルツァンポ江の支流・ラサ河谷地にあり、紀元7世紀初期の吐蕃国の都でした。ラサとはチベット語で、「聖地」の意味で、日差しがとくに強いことから日光城とも呼ばれています。ラサはチベットの政治、経済、文化、交通と宗教活動の中心地で、ポタラ宮、ジョカン寺などは名が世界に知れわたり、ラサを中心にチベット各地の名勝旧跡などが見学できます。

13:20 ラサからチョンギェへ

<<チョンギェ 【蔵王墓】>>
ツェタンの南28km、チョンギェの村があります。ここは7世紀の初め頃,古代チベット(吐蕃)国の王ソンツェン・ガムポがラサに遷都するまで治めていたところです。かつてソンツェン・ガムポの先祖たちは,部族単位でこの地一帯を治めていましたが,やがてソンツェン・ガムポ父子の代になって周辺の部族を統一し,古代チベット王国を建国したとされています。
 村の南の道路のそばにソンツェン・ガムポの墓陵があり、その東側一帯の麦畑のなかに歴代の王墓が点在しています。
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2004年8月21日(土) 中国第一日目
9:25 中国国際航空にて成田から成都へ

<<成都>>
四川盆地にある成都は四川省の省都で、中国西南地区における科学技術、商業貿易、金融、交通、通信の中心地です。面積は1万2400km2で、人口は960万人。
 昔から「天府の国」と称されてきた成都は物産が豊富で、すばらしい気候に恵まれています。
長江に沿って下れば東の三峡に行くことができ、西には神秘色に包まれたチベット、九寨溝、黄竜寺、北へ行けば西安の兵馬俑坑が、南には峨嵋山や楽山大仏があります。
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2004年8月20日(金) 明日、チベットへ
今日午後のバスで成田に向かい、
明日朝の飛行機で、中国成都に飛びます。
日本は
ゴールドラッシュです。
女子の柔道がすごすぎますね。
正当派の日本柔道が
大きく開花した感じです。
ヨーロッパの柔道は
柔道なのか
反則すれ擦れのごまかし柔道か
見ていて
どうもすっきりしません。

その点、
日本の柔道は実に鮮やかですね、

さて今日の一言
明日から
休載となります。
再開は28日土曜日です、

チベット報告を開始します。
残暑厳しきおり
睡眠を十分にとって秋の陣に備えてください。

それでは28日に
お目にかかります。
△top
2004年8月19日(木) 今日は暑いです
久しぶりのい猛暑です。夜はオリンピックのテレビ観戦、
原稿のぺ-スが少し落ちました。

明日午後、成田に向かい
あさって朝、中国成都に入ります。
マーボ豆腐発祥の地です。
ここに一泊して、いよいよチベットです。

お土産は何を買おうか
チベットを訪ねた人は
曼荼羅を買い求める人が多いようです。
しかし慧海は、仏像、仏画、仏器ともつまらないと書いています。
慧海のいうチベット人の短所
不潔
迷信
不倫
不自然な美術
でした。
さて今日のチベットはどうでしょうか。

最初に見るのは
チョンギュです。
チベットをはじめて統一した
王朝発祥の地
人口わずか500人、
美しい農村風景が見られます。

次がツエタン
チベット中南部の町
ここに泊まります。

それからラサに入り、
ここで三日間過ごします。

すべては行ってからになります。
△top
2004年8月18日(水) ダライ・ラマ、チベット我が祖国
インドに亡命した打ライ・ラマ14世の作品に
「チベット我が祖国」
があります。
チベットはなぜ中国に併合されてしまったのか。
この本に詳細に書かれています。

中国にはチベットは中国の一部であるという考えがありました。
チベット側はそれには何の根拠もないと主張してきたのです。
1951年、中国軍は突如、ラサに侵攻してきました。
3000人に軍隊です。ラサは食料不足になり、
穀物の価格は10倍に跳ね上がりました。
中国軍隊駐留の影響です。
ダライ・ラマが事態を打開するために
北京に向かい、毛沢東に会いました。

毛沢東はチベットが祖国に復帰したのは喜ばしいと語りました。

チベットでは激しい反中国運動が起こりました。
それに大して中国軍は正規軍を投入、
ラサの宮殿に砲撃を加え、武力で制圧したのでした。
これで数万人のチベット人が虐殺されました。
ダライ・ラマはヒマラヤを越えてインドに亡命したのです。
亡命者10万人、
チベットの悲劇はいまも
続いています。

中国がなぜチベットを略奪したのか
一つは広大な土地です。
人口、7、8百万人のチベットは人口10億の中国には魅力でした。
第二に鉱物資源です。
第三にアジア侵略の基地のためとされています。
チベットの山々は難攻不落の要塞です。

チベットの基地からはインド、ビルマ、パキスタンはひととびです。
あれから半世紀、
チベットはどうなっているでしょうか。
つぶさに見て来ます。
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2004年8月17日(火) 河口慧海8、チベットの将来
慧海はチベットの将来について、みとうしを書いていました。
しかし、それは間違っていました。
一つはロシアに占領されるという説でした。
ロシアはヒマラヤの南の麓にあるインドの征服をもくろんでいる。
そのためにチベットを
占領するという見方です。
もう一つはイギリスです。
インドはイギリスが支配しており、
その気になれば
チベットも占領できるというのでした。

第三はネパールです。ネパールとチベットが一緒になる、
これも面白い見方でした。
しかし三つとも外れました。
チベットを占領したのは
中国でした。
中国にはその力はないとチベットの人々は考え、
慧海もそう思ったのでした。

なぜ中国に占領されてしまったのか。
それは次回です。
△top
2004年8月16日(月) 河口慧海7、婦人の風俗
貴婦人の身だしなみは豪華ですが、顔に墨のようなものを塗っており、
違和感があります。
体は皆、大きく、美人も多いです。
ラサの婦人は愛敬があり、なかなかですが、
困ったことに酒が好きで、不潔なことです。
手は洗わない、トイレに入ってもです。
ここでは男女同じ給金で
婦人は一様にへそくりを持っています。
未亡人はまれで、夫が死ぬと、すぐ再婚します。
これには慧海も嘆きました。

夫を踏みつけて
浮気をするなど日常茶飯事で、
「お前の稼ぎが悪いから、私が銭儲けに行ってきた」
とシャーシャーとしていました。
日本人には理解できません。
一妻多夫だからでしょう。

さて現在はどうなっているでしょうか、
取材してきます。
△top
2004年8月15日(日) 河口慧海6、鳥葬
葬儀を見ました。
チベットでは死体を棺に入れるのでもなく、壷に入れるのでもないのです。
棒を二本並べてそれを縦にして、その棒にまた小さい棒を二本、横たえ
網のように絡み付け、その上に敷物を敷いて死体をのせ、運び出すのです。

それからどうするか。
葬儀の方法は、いくつかあり、ラマ僧が決めます。
水葬にしろ!
火葬にせい!
あるいは、土葬にしろ!
鳥葬にしなさい!
などが決められます。

鳥葬はもっとも一般的で、次ぎが火葬、水葬で、
一番悪いのが土葬です。
ただ天然痘で死んだ時は、鳥葬はしません。
鳥への伝染を防ぐためです。
火葬は燃料がないためほとんどやりません。
水葬は魚が食べやすいように体を切断します。


チベット仏教では人間は地火水風の四つから出来ていると考えます。
鳥葬は風になるわけです。

山に登ると、たくさんの坊主鷲がいます。
鳥葬を待っているのです。
坊主が死体を山に運び上げます。
死体の腹を裂き、内臓を出します。
それから首、手足と切断してゆきます。
肉は肉、骨は骨と仕分けます。
頭は大きな石でこなごなに砕きます。
山上にはいくつかの穴があって、刻んだものをそこに入れ、
細かく叩きます。

坊主は手を洗うことはしません。
パタパタと手を叩いて山を降りると坊主鷲がワット群がり
つついてしまうのです。
残るのは髪の毛だけです。
後はすべて鷲が食い尽くしてしまうのです。

ビックリ仰天でした。

いまはどうなのでしょうか。
もちろん取材の対象です。
△top
2004年8月14日(土) 河口慧海5、処刑
驚いたのは犯罪者の処罰でした。
まず拷問で痛めつけます。
割り竹で指の爪をはがす、
石の帽子を頭にかぶせる、
柳に太い棒で思いっ切り叩く、

牢屋は真っ暗で、どこからも日がささない、
手首を切断する刑もありました。
目をくりぬくこともよく行われ、耳剃り、鼻剃りも
よく見かけました。
死刑は水責めでした。
生きたまま皮袋に入れて川に流す方法です。、
船に乗せて中流に連れて行き、石を重しにつけて沈めるのです。

しばらくして上げ、まだ生きていると、また沈めるのです。
死んだと分かると五体をバラバラに切断して、川に流すのです。
首は持ち帰ってしばらく晒した後、瓶に入れてお堂に放りこむのです。
そのお堂に入ると一生、
再生することは不可能だというのでした、

なぜ信仰の厚いチベット人が、このように残忍なのか
慧海は考えこみました。
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2004年8月13日(金) 河口慧海4
チベットでは妻の権力が非常に強く、
3人夫がいれば、3人が稼いできた
お金を全部、取り上げてしまうのでした、
もし夫がへそくりを持っているのが、ばれると、
妻は怒って夫を殴りつけるのでした。

一妻多夫ですから
妻は何度も結婚式を挙げるのでした。
そのとき、他の夫は出稼ぎに出るとか、遊びに出るとか
姿をくらますのでした。

いまは違うでしょうが、
慧海が出かけたときは、
これがあたりまえでした。

子供は一体、誰の子かわかりませんでした。
父親は一体、誰なのか。
一番上の夫を
子供は父親と呼んでいました。
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2004年8月12日(木) 河口慧海3
河口慧海の旅行記は
講談社学術文庫から出ています。
慧海がチベットに入ったとき、僧侶は特別な階級でした。
僧侶には三階級があり、基本的に寺院の内外で暮らしていました。
財産は家畜で、上等の僧侶はヤクが五百匹以上、
そのほか馬、田畑を持っていて特権階級でした。
住まいも別で中には自分の寺を持っている人もいました。
召使も大勢いて、優雅な人々でした。
チベットが中国に占領された時、
これらの特権階級は追放されてしまいました。

下層の僧侶は出稼ぎや内職で暮らしており、
財産は羊の皮一枚と木椀一つ、数珠一個、敷物一枚でした。

日本と違ってチベットの僧侶は
いい暮らしをするための手段でした。
僧侶になれば財産が得られる、社会的評価も高い、
千人中九百九十九人までそうした考えでした。

これは驚きでした。
ならば
神とはなんで
祈りとは何だったのでしょうか。

慧海の探求が始まりました。
△top
2004年8月11日(水) 河口慧海2
チベット行きのコンダクター
佐竹さんから今朝、電話がありました。
「ほしさん、髯を剃らないんですか」
「うん、剃らないよ、ただねえ、カミさんが反対していてね」
「どうしてですか」
「似合わない、みっともないというんだ」
「そうですかねえ、いいと思いますが、ほしさんが剃らないのなら、私も剃りません」
「それは心強い。剃りません、決定です」
「分かりました」
という朝のやり取りでした。

河口慧海によれば、
髯の男性は尊敬されるというのでした。
中身がいささか心細いので
髯となったわけです。
イラクに出かける自衛隊の方々の心境です。
イラクでは髯がなければ
男ではないそうです。

さてチベット事情です。

私の知人にチベットの専門家がおります。
高野山大学の奥山教授です。
山形の出身で、東北大学文学部の同門です。
年はぐっと若く、
行動派です。
最近
『評伝河口慧海』
を中央公論新社から発刊しました。
何度もチベットに出かけ、各地を探索している
現代の河口慧海です、

この本もあわせて読んでいます。


当時
ラサの街は二、三階建ての家がびっしり並び、道端には無数の露天が並び、巡礼者、
買い物客、商人、大道芸人、物貰いで終日ゴッたがえしていました。
人は右回りにゆっくり動いており、日本のマッチも売られていたそうす。

100年後の今日
どう変わっているのでしょうか。
△top
2004年8月10日(火) チベットセラ大学
河口慧海は日本人とは名乗りませんでした。
チャンタン、西北限からきたチベット人と名乗りました。

チベット人ということでセラ大学に入学を認められました。
チベット人と同じくらいチベット語ができたということでした。

10ヶ月髪を切らなかったので、ぼうぼうでした。
床屋に行くと、髯は剃るなという。
チベットでは髯が貴重で、剃らないのだという。
髯を生やして暮らすことになりました。

私も今回は髯を剃らないようにします。

チベットには漢方医しかいなかった。
子供が喧嘩して腕の骨が外れた。
灸を据えるしかないという。

慧海が接骨の知識があったので、
骨を入れるとすぐなおった。

たちまち名医になってしまった。
じょじょにチベット社会の仕組みが分かってきました。

一妻多夫、
母親が死ぬと、父親と息子が同じ女性を妻にする、
肉を食い、酒を飲み、女色にふけることが
解脱の最上秘密の方法であること、

などなどでした。

続きは明日です。
△top
2004年8月9日(月) 野口英世の死
河口慧海は
ときどき連載します。
この三日ほど
野口英世の校正に追われています。

彼は偉大な変人でした。
特に東京時代の英世は
時おり常軌を逸しるところがありました。
私は二十年ほど前
英世を訪ねてアメリカを歩きました。
ロスアンゼルスで英世の研究者の
プレセットさんに会い、
東部のフイラデルフイァに飛び、
彼が毒蛇の研究をした
ペンシルベニァ大学に行き、
ニューヨークに戻って
ロックフエラー大学を訪ねました。

日本で考える以上に
英世の評価は高いものでした。

ロックフエラー研究所のスターでした。
しかし晩年の英世は孤独でした。
彼が発見した黄熱病の病原体は誤りでした。
まだ電子顕微鏡はなく
彼は従来の光学顕微鏡で研究していたのです。
ウイルスは
見ることはできませんでした。

時代の限界です。
それを知ったとき
英世の悲しみは察してもあまりうあるものでした。
自殺説があるのも
そうした事情によるものでした。

しかし
彼の功績は消えるものではありません。
英世の複雑な人生を書いてみたのです。

タイトルは未定ですが

『野口英世の生きかた』
  偉大な変人の生涯

とか

『野口英世の生きかた』
  我々は何をまなぶ

とか

ずばり

「野口英世 偉大な変人の生涯」

もあるかなあ、

何れにしても調整中


高校野球

東北高校頑張れ、
まず1勝
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2004年8月8日(日) 河口慧海1
河口慧海とはどんな人物でしょうか。
慧海は慶応2年、大坂の堺で生れました。
家業は樽桶製造業で、仏教とは直接,関係はありませんでした。
15歳の時、仏教の世界に目覚め、精進をはじめます。
酒、肉を3年間絶ち、出家して僧侶になりたいと両親に伝えました。


どんなに反対されても仏教に対する思いは深まるばかり、
ついにはチベット仏教の聖地,ラサを訪ね、ここで勉強することを考えたのです。
明治30年、32歳の時、チベットへ向かいます。
6月26日、神戸を出帆し、7月25日にインドカルカッタに着きました。
そこからダージリンという山奥に向かい、チベット語やチベット事情を勉強します。

1年2ヶ月、滞在、チベット語で会話できるまでに上達、
今度はネパール国境に向かい、そこからヒマラヤに入りました。

これを越えなければチベットには入れません。
ネパール人の協力を得ながら
ヒマラヤ越えに挑戦するのです。

「いけばかならず死ぬ」
と何度も止められました。
寒さと飢え、人を襲う虎、
すざまじい大冒険でした。
慧海はそれに挑戦したのです。


明日に続く。

星亮一作品情報

今日は野口英世の校正です。
新札発行は11月1日と決まりました。
それにあわせて出版です。
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2004年8月7日(土) 山川健次郎ロングセラー
会津若松市
宝文館書店今週のべスト10
本日の福島民報読書欄

1、茅田砂胡 天使たちの華劇 中央公論新社
2、ガッツ石松 最驚ガッツ伝説 光文社
3、小川陽子 博士の愛した数学 新潮社
4、西村京太郎 金沢歴史の殺人 双葉社
5、志村史夫 水をかじる 筑摩書房
6、斎藤孝 声を出して読みたい日本語 草思社
7、星亮一 山川健次郎伝 平凡社
8、佐伯泰英 清掻 光文社
9、 A.ロビス グッドラック ポプラ社
10、渡辺延朗 奇跡の日 ガイア出版


第7位、大変うれしいです。
幕末史(三修社)もよろしくお願い致します。


星亮一作品情報

野口英世の校正


自分が書いていて、時々わけがわからなくなる、
それが英世の実像です、
彼には
幾つもの顔があって、
どれだどれだか
分からなくなるのです。

死に物狂いで勉強する英世
とことん
飲みまくり一文なしになる英世

天才的にひらめく瞬間

どれも英世なのです。

偉大な奇人です。



非常に困っています。
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2004年8月6日(金) チベットの準備
20日出発とあって準備をはじめました。
いま河口正著「河口慧海」( 春秋社)を読んでいます。
河口慧海は日本最初のチベット入国者です。
100年前、
真実の仏法を求めて命がけで禁断の地、
チベットに侵入した僧慧海
その波乱の生涯を描いた身内の方の本です。

日本を出て3年、ようやくチベットに入った慧海は
野宿しながら
ラサを目指します。

ヤクの糞を集め、火打ち石で火をつけ、
それからチベット鍋に水を汲んで、お湯を沸かし、
バターと塩を入れて飲む。
空気が薄いので
何度も高山病に掛かり、血を吐くこともありました。

国境からラサまで三ヶ月ほどかかってやっとたどりついたのでした。
私たちは
日本からたった2日でラサに入ります。
そこには何があるのか
期待に胸が膨らんでいます。

星亮一の作品情報

本日、
仙台の
本の森社に
「戦う政宗」
再校原稿を送りました。

9月発刊に向けて
ラストスパートです。

また
長岡藩軍事総督河井継之助
の原稿も
ベスト新書に送りました。

あとは野口英世の校正です。
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2004年8月5日(木) 歴史遺産の旅
国内旅行が変わりつつあります。
観光地を回り温泉に入るだけの団体旅行はすたれ、
目的意識をもったツアーが増えています。
私が担当している
NHK文化センター郡山の旅に
はっきりその傾向が出ています。

郡山を基点に
年間6回ほど
日帰りバス旅行
2回ほど
1泊ないし2泊の旅行をしていますが、
基本的に
歴史遺産を訪ねる旅です。
海外旅行も行っており
今月20日からはチベッチです。

今年は
足利学校、
白石城、
酒田湊
さらには京都新選組と会津藩の旅を実施し、
これから津軽の旅に出かけますが
参加希望者全員を収容できず、
キャンセル待ちの状況です。

この三年間だと
新潟豪農の旅
仙台史蹟めぐり
遠野民俗紀行
下北半島周遊
北海道の旅
など多彩です。

現地では地元の歴史家、
あるいは学芸員などを必ず手配し、
知的好奇心に応える体制をとっています。

バスのなかでは
私の旅論も披露します。

皆さん
大変熱心で、
足を棒にして歩きまわり、
感想を述べられます。
これに私個人の旅
を加えて
いずれ
「星亮一の歴史旅紀行」
として発刊したいと思っています。

ちなみにチベット旅行
チベット大学のご協力を得て
チベット仏教の奥義を
極めます。
ギりギリ
まだ間にあいますので
興味をお持ちの方は
ご連絡ください。
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2004年8月4日(水) ベルリン陥落1945
上記の本を読んでいます。
白水社刊、著者はロンドン生まれのアントニ・ビーヴァー
元英陸軍将校です、
世界100万部のベストセラー
戦史ノンフィクションの決定版
というだけあって凄い迫力です。

戦争下の一般市民、特に女性に対する性暴力の実態は
すさまじいものがあります。
戦争の本質を鋭く突いた力作です。

私のテーマ
戊辰戦争でも性暴力は限りなくありました。
妊婦の腹を裂いたり、
衣服を剥ぎ取って
惨殺し、木に吊るすなど目をそむけるものでした。
官軍と自称する
薩長軍の兵士に暴力行為が多く見られました。

会津若松と長州の和解が
なかなか進展しない背景には
それもあるのです。


星亮一の作品情報

ラスト侍河井継之助
原稿を書き終え
来週、
ベスト新書に送ります。

ご期待ください。
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2004年8月3日(火) 記憶にない
橋本元総理
1億円をもらったのに
記憶にない。
これで自民党の凋落は決定的ですね。

大体、総理経験者が国会議員として残っている慣習がおかしいですね。
総理経験者は
政界を引退して
教育活動をするとか
福祉活動を実践するとか
別の道を歩むべきです。

民主党の羽田さん、
自民党の森さん
そのほかにもいましたね
引退すべきです。

私は会津白虎隊士から東京帝国大学総長になった
山川健次郎先生の伝記を書きました。
最大の感動は
大学総長引退後の生活でした。
旧制武蔵高校の校長になり、
自ら教壇に立って英語をおしえました。
また全国を行脚して
講演会を開きましたが、
旅費を除いて報酬は受けとりませんでした。

こういう清貧な暮らしこそ
上に立つ者は実践すべきことなのです。


以下はPR
『山川健次郎伝』〔平凡社)
はおかげさまで3刷になりました。
もう書店には並んでいないようですが
まだまだ在庫はあります。
ご注文ください。
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2004年8月2日(月) 早くも八月です
岩手県の北上市、水沢市を回ってきたらもう八月です。
二度目ですが北上の奥の夏油温泉に泊まってきました。
夏休みの土曜日とあって混んでおり、
人が多くて、
最初に訪れた時の感激はありませんでした。
秘湯といわれるところは一回行けば十分かも知れません。

ここの特徴は七つある内湯と露天風呂です。
一番ゆったりできるのは大湯ですが、
ここは熱くて入れませんでした。

夏油と書いて、なんと読みますか
げとう
です。

アイヌ語で、何でも崖の淵の意味とか、
山懐に囲まれた深山幽谷の地で、もう涼しい風が吹いていました。

水沢では
後藤新平の旧宅に寄ってきました。
下級武士だったので
こじんまりした質素な家です。
私は数回
ここを見ており
特に新しさはないのですが、
今度、
後藤新平伝を書くので、
その思いで見てきました。

旧宅は水沢市が管理しており、
常時、職員はおらず、近くの武家住宅に詰める職員が巡回しています。

「いたずらされることはありませんか」
「ないですね、皆さん、マナーはいいですよ。
そうそう、ここに入って昼寝している人がいました」
「ありえますねえ」
「風とうしがいいから眠くなりますよね」

といった具合で、
いたってのんびりしていました。

帰ってきたら
仕事の山

河井継之助のあとがき、
財界とうほくの原稿、
「戦う政宗」の再校、
「野口英世」の初校、
また多忙な日々です。
20日からはチベット
その準備もあります。


星の作品情報
8月6日付け
週刊読書人
光人社NF文庫売れ行き好調10点

1、星亮一 東郷平八郎伝
2、小田敦己 ビルマ最前線
3、飯山幸伸 異形機入門
4、大内建二 輸送船入門
5、大内建二 忘れられた軍用機
以下
艦爆隊長の戦訓
エニグマ暗号戦
最強部隊入門
わたくしはラバウルの撃墜王だった
彗星夜襲隊
 
というわけで
私の
東郷平八郎伝
がトップでした。

「戦う政宗」
の表紙
作業上のことで
明日、
ご披露します。
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