星亮一 今日の一言

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2006年2月28日(火) 民主党の混乱
民主党は永田議員氏を辞職させない方向で対応するという。

そんなことがはたしてできるのだろうか。

党内では執行部批判も強まっており、鳩山由紀夫幹事長や

野田佳彦国対委員長の引責辞任に踏み切るかも検討されているという。
 
でもそれは、ある部分、筋違いである。

まず永田議員自身でけじめをつけるべきだろう。

前原誠司代表は現体制を維持したいと、むしのいいことを考えているらしいが、

それで国民は納得するのだろうか。

午後、新たな事実が浮かんだ。永田議員は当初、

「仲介者だけでなく、情報提供者にも直接会い、銀行名や口座番号の情報を得ている」

と伝えていたが、これも真っ赤な嘘だった。

ひどいね。

これでも居座るのか。国民に示しがつかない。

馬鹿馬鹿しいからこれで、やめる。

時間の無駄だ。

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徳川慶喜の原稿を書いていた。慶喜が、

「己まざるべし」

という言葉を使っていた。

鳥羽伏見の戦争で、慶喜は珍しく大演説を行なった。

「千騎一騎となるとも己まざるべし」

といった。どこまでも戦うという意味である。

「戦時訓」の言葉だった。

戦陣訓 

【条項』

第六 攻撃精神

凡そ戦闘は勇猛、常に果敢精神を以て一貫すべし。
 
攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。

防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。

陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断乎として飽く迄も徹底的なるべし。
 
勇往邁進百事懼れず、沈着大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、

有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。


【意訳】

第六 攻撃精神

 戦闘というもののは本来、勇猛果敢の精神で押し通すべきである。

 攻撃にあたっては、積極果敢に堂々と敵を打ち負かさなければ

終わらないという決断が必要である。

防御にあたっては、攻勢の鋭気を持ちつつ、常に主導権を握る戦いが必要である。

敵に戦場を無条件に明け渡すことは決してするな。

 勇敢に進めば恐れもなく、大胆に進めば難局にも対処でき、

堅い信念で困難に打ち勝って、あらゆる障害を突破して

勝利のために進むべきである。
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ということだった、

そういっておきながら慶喜は、将兵を置き去りにして軍艦で江戸に逃げた。

誰かによく似ている。

一体、誰だろうか
△top
2006年2月27日(月) 今日はMBA21
イベントが重なって多忙、

今日は午後6時から郡山市のホテルプリシードで、MBA21の

2月例会である。

講師はノースウエスタン大学MBA,野村證券経営役の岩佐昌治氏、

演題は[勝ち組企業へのシナリオ
  誰がどのようにして企業価値を高めるか」

40人の会員が集まり、討議も行なう。

歴史と現代、そこを往複しないと、生きた歴史が見えてこない。

MBA21は会員制の勉強会、70人の会員が所属している。

来月の講師は論客で知られる東北大名誉教授の田中英道氏。

演題は「文明の衝突」ー靖国問題を考えるー。

3月23日午後6時から、郡山市のビューホテルで行なう。

田中氏の最新刊は「新しい日本史観の確立」文芸館

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追記

民主党の偽メール問題

永田さんの謝罪会見でおわるのだったら、

一体全体、国会議員て何と言うことになる。

辞職が筋だと思うのだが。
△top
2006年2月26日(日) 日曜雑感
午前9時、仕事場に入る。

お湯をわかして、お茶をのみ、新聞を読んで、さあ、午前中なにをするか、瞑想中である。

以下、続く。

午前中、桂太郎の本を読んだ。

松江が韓国にいたときの総理である。

桂は戊辰戦争の時、奥羽鎮撫総督府の兵隊を率いて仙台に上陸した。

れっきとした長州藩士である、同じ長州から参謀として世良修造がきていた。

世良は仙台藩公を侮蔑し、いかった仙台藩士に斬殺され、東北戊辰戦争が勃発する。

世良に比べると、桂はついていた。会津攻撃ではなく、庄内藩の攻撃を命ぜられた

からである。

秋田藩が列藩同盟を裏切、薩長についたので、桂は窮地を脱した。

凱旋した桂はドイツ留学を希望し、3年間、ベルリンでドイツ語と

ドイツ陸軍を徹底的に学び、帰国して軍部の中枢を歩み、日清戦争、日露戦争を戦い

台湾総督を経て、明治31年、伊藤内閣の陸軍大臣になった。そして明治34年、

総理に就任した。

いつもニコニコと笑顔で接し、肩をポンと叩いて親しみを表現するので、

「ニコポン宰相」と呼ばれた。

(私はどうも笑顔が足りない。目つきもよくないとよく言われる。

冒頭の写真は例外。あれは日経新聞関連のカメラマンが苦心して撮ってくれたもの。

ニコポンをすこし真似をする必要があるかも知れない。)
ーーーーーーーーーーー
この部分は書き足し。
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戊辰戦争研究会の土方副長、どうでしょうか。

もう遅い、というところだろうか。

松江の周辺はすべからく長州だった。

伊藤の知己を得たとはいえ、それほど深いものではなかったろう。

長州というだけで立身出世は意のままだった。

午後は板東俘虜収容所の新聞「ディ・バラッケ]を読んだ。

俘虜たちの手による鳴門の探訪記があった。

町の様や大凧の話である。以前、海岸で直系20メートルもの凧を上げた。

現在は風がなかったり、ひき手の呼吸が合わず、あがらないという。

昔の人には特別な知恵があったのかも知れない。

今夜は「功名ガ辻」である。

お湯わりを飲みながらテレビをみることにする。
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2006年2月25日(土) 今日は郡山自由大学歴史講座
郡山駅前の高層ビル、ビッグアイ7階特別会議室でのはじめての講座。

NHK文化センターや自由大学の教養講座の受講生の皆さん、

それから戊辰戦争研究会の何人かが、きてくれるはずである。

午後2時開会、ちょっと緊張である。

今日のテーマは

「幕末維新を問いなおす」

ゼミ形式で、自由討論の形で行なうことにしている。

夕方、感想を書こう。

新聞もテレビも荒川さん一色、何度みてもすばらしい。

品格がある。華麗、優雅、すべて世界チャンピオンにふさわしい人だ。

自由大学、

よかった、

仙台、栃木県壬生、福島、須賀川、三春、船引、

各地から見えた。

すごい人がいた。

戦争中、東京で女学生だった。空襲を逃げまわった。

焼け死ぬこともなく無事大人になり、好きになった男性が郡山だったので、

この町に移り住んだ。

という。

「す・す・す・すごい!!」

と若い女性が言った。

ぜひ、皆さんもいらして下さい。

来月は、26日(日)午後2時〜郡山市駅前ビックアイ7F特別会議室です。

タイトルは「会津藩VS長州藩」です。
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2006年2月24日(金) 金メダル最高、永田議員最悪
荒川さんの、日本人初の金メダルの快挙、

これはすごいな。ダントツでのゴールドメダル、

国民栄誉賞の価値ありだね。

そ入れに比べ、民主党の永田議員、何ら説明もしないで入院とは

まるでガキのやることだ。

昨日は議員を辞職するといい、当然だと思っていたら

民主党幹部が慰留しているという。

迷走はひどすぎる。責任感がまるでない。

だから日本はどこもかしこもだめなのだ。

ならぬものはならぬー。

この会津藩の教え、

いよいよ登場だね。

執筆に入ろうと思う。

午後、松江の続報を書こう。

新しいニュースが会津若松から入ってくるかも知れない。

しかし夕方までに会津から連絡がなかった。今日は北東文芸協会の集まりである。

来年の大河ドラマは信玄である。それを見越して何人かが、信玄研究をはじめた。

風林火山の世界である。

たまには戦国時代を肴に酒を飲むのも悪くはない。 
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2006年2月23日(木) 松江豊寿解任の謎
松江が韓国人をどう思っていたか。

これについて重要な情報があった。

会津若松に住む友人のS君に別件で電話すると、

「星さん、いま松江を書いてるんでしょう。特種ですよ」

「なんですか」

思わず声が上ずった。

「あのですね、会津若松のロータリークラブの面々が、韓国に出かけたところ、

松江を知ってるか、という話になったそうです」

「ええ、それはすごい情報だね」

「もちろん、知ってる、どうして松江ですかと聞くと、松江は韓国に同情的だった。

彼は数少ない韓国人の心を知った軍人だったといったそうです」

「本当ですか」

「もちろんです。皆さんは松江の故郷の方々ですか、なんと言う偶然だ。韓国の人は

そいいって涙ぐんだそうです」

「それはすごい話だ、特種だね、それはいつ頃の話ですか」

「ううと、10年ぐらい前かな」

「もっと調べてくれない」

「わかりました。明日、当時の人たちに会って見ます」

「イやあ、驚きだ。期待してます」

という会話だった。

松江がなぜ韓国駐在の副官を解任されたか、

その真相が明日、わかるのだ。

今から胸どきどきである。
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夕方、いきなり下記のニュースが飛び込んできた。

「ガセネタ」と批判されたライブドア前社長の堀江貴文被告の「送金指示メール」問題で

民主党の永田寿康議員が突如、議員辞職の意向を示したというのである。

これだけのニュースになった以上、永田さんも覚悟を決めたのだろう。

まだ30代、再起はできる。きっぱりやめて、出直した方がいい。

若い人には未来がある。
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2006年2月22日(水) 松江豊寿という人
第一次大戦弐おけるドイツ人俘虜を寛大に扱ったとして知られる人物が

鳴門市の板東俘虜収容所長の松江豊寿である。

会津人で陸軍歩兵大佐だった。

松江を語る場合、会津人というのが、キイワードである。

松江の父は会津藩の最強部隊、朱雀隊の幹部だった。

越後の戦場を転戦し、最後は篭城した。会津の猛将佐川官兵衛の配下

ではなかったかとおもわれる。

戦争に敗れて青森県の陸奥の地に流された。

柴五郎の「ある明治人の記録」の世界である。

松江はそこで生まれた。

一部に会津若松説もあるが、家族の証言があるので、青森だろう。

柴五郎と同じように陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進み、軍人になる。

松江が歴史に登場するのは、日露戦争終了後の韓国である。

長州閥の長谷川好道大将の副官として韓国に駐留した。

韓国統監に伊藤博文が選ばれ、伊藤と知り合い、じっこんになった。

伊藤は韓国を自主独立させようとした。

国を奪われ、亡国の民となった会津人松江にとって、韓国併合は反対だった。

軍部は韓国併合だった。

長谷川は松江を解任した。

松江は部署もないところに飛ばされた。

「長州め」

そう思ったに違いなかった。松江は陸軍の本流から外れた。

俘虜収容所長が松江に与えられた職務だった。

出世コースからは大きく外れていた。

以下、明日に続く。
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2006年2月21日(火) PRの日です。
ビーケーワン
書籍名
会津落城 戊辰戦争最大の悲劇
シリーズ名 中公新書 1728
このシリーズの書籍

著者名 星亮一/著

出版社名 中央公論新社
発行年月 2003年12月
ページ数・版型 202P 18cm
ISBNコード 4-12-101728-5
価格(税込) 756円

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セブンアンドワイ: 注文可能(当日〜2日で発送)

書籍内容

慶応四年春、幕府軍は鳥羽伏見の戦いで敗れて瓦解した。江戸城無血開城を経て戦場は東北に移る。長岡での激戦、白河の攻防、日光口での戦い…。会津藩をはじめ奥羽越列藩同盟軍は各地で戦いつづけるが、薩長軍はついに国境を破り会津若松に突入、一カ月に及ぶ籠城戦がはじまる。なぜこれほどまで戦わねばならなかったのか。会津藩の危機管理、軍事・外交、人材育成を検証しつつ、戊辰戦争最大の悲劇を浮き彫りにする。

目次

第1章 江戸の情勢(神保修理の死
容保の謝罪 ほか)
第2章 会津国境の戦争(越後方面の戦い
日光口の戦い ほか)
第3章 会津城下の戦い(敵、滝沢峠に迫る
老臣、家族の殉難 ほか)
第4章 籠城一か月(会津武士の意地
城外の戦い)
第5章 降参の白旗(米沢藩に工作を依頼
仰ぎ見る者なし)

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kkベストセラーズ

悲劇の英雄 源義経と奥州平泉

著  者 : 星 亮一
定価(税5%) : \882
( 本体価格 : \840 )
判  型 : 新書
刊 行 年 : 2005.09.20
ISBNコード : 4-584-12098-6


源義経の悲劇性が濃密になっていく二度目の“東北落ち”以降にスポット当て、奥州に“王国”を作ろうとした藤原4代の夢をからめつつ、“まつろはぬ者”の栄光と挫折を描く

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
紀伊国屋書店
中公新書

奥羽越列藩同盟
ISBN:4121012356
261p 18cm
中央公論社 (1995-03-25出版)

・星 亮一【著】
[新書 判] NDC分類:210.61 販売価:\840(税込) (本体価:\800)


在庫が僅少です。品切れの場合お取り寄せとなります。

鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩救済を当初の目的とした列藩同盟は、いつしか明治天皇を奉戴する薩長閥政権に対抗して、輪王寺宮公現法親王を擁立する東日本政府樹立に向かって結束を固めていく。
なかでも仙台藩の玉虫左太夫は、渡米体験をもつ国際派参謀として精力的に活動する。
凄まじく厳しい権力抗争の渦中に身命を投じて敗者となった仙台、米沢、会津、庄内、秋田、長岡諸藩の志士の動向に、秘められた戊辰戦争の諸相をみる。

第1章 列藩同盟の戦争戦略論(眠れる獅子仙台藩;北方政権構想;米沢藩の野望;決死抗戦会津藩 ほか)
第2章 戦争勃発と終結(庄内藩燃ゆ;烈藩同盟戦略の失敗;榎本艦隊動かず;河井の逆襲;会津落城と戦争の終結)
第3章 参謀たちのその後(白河以北一山百文;苦難の道)

この書籍は、「日本書籍総目録」に存在しますが、品切れの場合もありますので予めご了承下さい。

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セブンアンドワイ
野口英世の生きかた
ちくま新書 505

著者/訳者名 : 星亮一/著
出版社名 : 筑摩書房 (ISBN:4-480-06205-X)
発行年月 : 2004年11月
サイズ : 215P 18cm
価格 : 735円(税込)
発送時期 : 当日〜2日で発送
発送時期について

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本の内容

子供向け偉人伝で圧倒的な人気を誇る野口英世。一方でその放蕩ぶりや借金癖が極端な形でクローズアップされたこともあったが、どちらも英世の持つ一面であり、その人物像は、なかなか語りつくすことができない。本書では、英世の波乱に満ちた生涯を振り返ると同時に、かかわりあったまわりの人々をとりこにしてやまなかった英世の人間的魅力に迫る。英世の生きかたは、現代に生きるわれわれが忘れかけている何かを思い出させてくれるだろう。

目次

第1章 英世の原風景を歩く
第2章 志を得ざれば再び此地を踏まず
第3章 偉人伝に載らなかった英世
第4章 東洋のモンキー
第5章 シンデレラボーイ
第6章 アクラに死す
第7章 今よみがえる野口英世

お客様コメント

お客様読者からのコメント投稿と「みんなの書店」店長さんのコメントです。
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2006年2月20日(月) 今日は曇り
安達太良がみえないなあ。

朝から電話数本あり。

大半が25日の郡山自由大学の特別講座の申し込みである。

25日のテーマは、「幕末維新を問い直す」

でも歴史全般の持論を話すことにしている。

歴史は資料の発掘によってどんどん、かわる。だから面白い。

三内丸山遺跡がそうだし、戊辰戦争だってまだまだ資料が眠っている。

だから楽しく、うきうきするのだ。

昨夜の大河ドラマ

「功名が辻」

なかなか面白いね。出世するにはまず親分を選ばねばならない。

武勲を上げなければならない。

家中の面倒も見なければならない。

そのためには女房の協力が大事だ、というわけである。

今も昔も同じかな、そんな印象を受ける。

月曜日は週のはじめである。びしっと決めなければならないのだが、

日曜日の疲れが残っていて、どうも午前中はよくない。

午後、頑張ろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

午後は腰が痛くて指圧に行ってきた。

姿勢が悪いのだろう。

ワープロもパソコンも両手で打てないのである。

なぜか右手一本で打っている。

そうするとバランスが悪く、右肩が凝ってくる。腰も悪くなってくる。

それやこれやで指圧になった。

これから板東俘虜収容所、すこし書くことにする。
△top
2006年2月19日(日) 松平家当主の発言
松平家の14代当主といっても、そのこと自体で、

おおきな影響力をもつ時代ではなくなったが、

しかし、会津では「殿さま」として、依然、注目を集める存在にかわりはない。

13代の保定さんは、何年か前の「会津松平家13代を囲む座談会」でこう述べた。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
もう十年以上前かなあ。ある席で、

「まだ薩長と喧嘩しているのはおかしい」

といったら、

「まだ時期が早すぎる。仲良くしないのだ」

という話がありました。

それが会津のPRななるのならいいかも知れないが、

心からそうなってしまうのはどうかなと。

これは私の伯父の山田英夫は、容保公の三男で、山田家に養子にいったのです。

山田家と言うのは、山口の藩士なのですね。

それの中をとったのが山川健次郎さんだったという話なのですよ。

明治時代も終わりになっても、

「薩摩だ、長州だ。絶対許さないといっている気持ちはわかる

だけど、それはそれとして仲良くしましょうよ」

ということの現れに、山田家に養子にいかされたそうです。

それで家に来て一杯飲みますと、

「おれは長州に養子にいったけど、人質に取られたのだ」

といっていましたよ。

「おれの苦渋がわからないのかなあ」

などといっていたことがあるのですよね。

それを聞いていると、なんだか伯父がかわいそうでした。

ま、そのんことは忘れてはいけないけど、

会津のはもっとすばらしい自然があるし、会津魂もあるんだ。

それを継承していくことが大事ですね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

薩長憎しはもういいじゃないか、これが13代だった。

14代の発言も、会津人の深層心理を反映したものであり、薩長反対派は、

これによって勢いづくことは間違いない。

それも会津魂のひとつの発露だろうが、

問題は今後である。

和解はしない。しかしこれだけでは不十分である。なぜ和解しないのか。

理論的な構築が必要である。

私は長州の各階各層の人々との対話を提言している。

基本は歴史認識である。明治維新はなんだったのか。

それを徹底討論し、従来の薩長中心の史観の転換をはかる。

それを経た上で、昨日の敵は今日の友として、

酒を酌み交わす。これだと思っている。

私は戊辰戦争研究会や、私の著作活動を通じて、この運動をすすめてゆきたい。

14代は14代のルートで、何らかの行動を起こされ、

会津に新しい風を巻き起こすことを期待したい。

一度、お会いしたことがありますが、その時は名詞の交換だけ。

ゆっくりお話しを伺いたいものです。

われわれの会にも是非、いらしてください。
△top
2006年2月18日(土) 今日はNHK教室
午前10時から福島教室、
午後1時から郡山教室

新幹線に飛び乗っての掛け持ちである。

会津藩主末裔発言の意味は夜、掲載、

25日は郡山自由大学の特別講座
「幕末維新を問い直す」

午後2時、
郡山駅前、ビッグアイ、7階特別会議室、
このホームページでの意見交換の模様も議題にあげる。

若干、入場の枠あり。

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午後4時、仕事場に戻りました。
非常に疲れました。

会津藩主末裔発言の意味は、明日に延期します。
△top
2006年2月17日(金) 会津藩主末裔の思い切った発言
どんな内容だったのか。

「曽祖父の会津藩主松平容保は大君(徳川家康)の恩に報いるためにと家訓を

愚直に守り、損な役割を引き受けた。

それがおおきな悲劇になった。

容保は、頼リにしていると書かれた御宸翰を孝明天皇からいただいた。

しかし御所に大砲を撃った長州藩が官軍になった。

その理不尽さえの怒りがあった。

恨みはないが、歴史は大切に語りつがなければならない。

長州との和解は個人的には、しなくてもいいかなと思う。

平和な世だから仲直りしましょうか

とはいいたくない。

ならぬものはならぬ

の精神を持ち続けるのもいいと思う」

という発言だった。

松平家の13代の発言は和解だった。

14代の保久さんは、反対に舵を切った。これは大胆で、かつ意味深いことだった。

どこがどう大胆で、意味深いのかは、

次回、論じる。
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2006年2月16日(木) 会津藩と長州藩
会津若松でのオープンカレッジin会津で、会津藩と長州藩のことが討議された。

私は参加できなかったが、福島民友新聞によると司会の筑紫哲也さんはこう発言した。

「歴史は今と未来にどのような意味があるかを考えるのが大切だ。戦後六十年

が過ぎたが、いまだに戦後処理は終わっていない。

戊辰戦争から百三十年が過ぎたが、足を踏んだ人は忘れるが、

踏まれた人は忘れない。

会津は悲惨な歴史の体験をバネにして、プラスに転じさせた典型だと思う。

クローズ、ユア、会津

は一度、目を閉じて、自らの在り方を考える大切さを教えてくれ、

とてもよい、キャッチフレーズだと思う。

138年後の手紙にもし勝手に自分が答えるとすれば

許すけど、忘れないよ

であり、歴史は忘れないことが大切だ。

忘れることで、間違った歴史を刷り込まれたり、次の過ちを

犯してしまうことがある。悲痛では在るが、会津は先祖の血を代償に

貴重な財産とをえた受け止め、今後に生かしてほしい」


次に菅家一郎会津若松市長はこういった。

「戊辰戦争で会津藩は勤皇佐幕にもかかわらず賊軍という扱いを受け、

苦渋を強いられた。

会津の歴史、文化の中には、真面目に生きたがというつらい思いも

あったが、その後の会津発展のバネになった部分もある。

会津はつらい歴史を歩んできたが、今はこれからどうするかを、考えなければ

ならない。時代的に手打ちというのはどうかと思うが、今後の日本をよくするために、

中央政権に対してともにものを言える関係を築いていければいいし、歴史的な

ゆかりを大事にして交流することは、キーワードとして大事だと思う」

菅家市長は現実論を強調した。

筑紫さんは、いかにもテレビ司会者らしい、格好のいい発言であり、市長は

安倍総理実現あたりを踏まえた発言だったのかも知れない。

ほかにこれはという発言はなかったのか。

あった。

それがあったのだ。

会津松平家14代目松平保久さんの発言である。

これは、ある意味で重大、かつ重要だった。

以下、明日に続く。
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2006年2月15日(水) オリンピックで寝不足
今度はメダルが取れるかと、ついつい朝方までテレビをみてしまう。

かくてひどく寝不足である。

みていると、他国の選手は頑丈な体型で、強そうに見えて仕方がない。

女子の500メートルなどは、まさしくそうだった。

ニュースがないせいか、今度は本命とテレビが煽るので、ついその気になってしまう。

元来、冬の競技は日本人には無理なのだ。滑降を見ると、そう思う。

あんな急斜面を滑れるはずはないのだ。大体、そんな斜面はないのだ。

スケートリンクだって、そうはないのだ。

わが町にはゼロである。

騒がないで、こっそり見るしかないのだ。

今夜からは早々に寝ることにする。

追記

長田渚左(おさだ・なぎさ)

というノンフィクション作家がいる。

桐朋学園大学演劇専攻科卒業後、スポーツライター、キャスターとして活躍。


フジテレビ「スーパータイム」では、10年間にわたり


スポーツキャスターを務めた。現在は、「週刊ブックレビュー」(NHK-BS)

の司会を担当する。著書に『こんな凄い奴がいた』

『「北島康介」プロジェクト』(ともに文藝春秋)など多数。


彼女が男子500メートルで加藤選手が敗れたことをとりあげている。

前の選手が転んだとか、氷が傷ついたとか、待ち時間が長かったとか、

つべこべ言うなと、テレビの解説者に苦言を呈した。

堀井元選手のことだろう。

彼女がいうには、勝者はどいう状況でも勝つというのである。

それもそうだね。

加藤選手自体は、無言であった。

つべこべ彼は弁解していない。

立派な青年だと思う。





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2006年2月14日(火) 電話が多い日
朝から電話が何本も来る。

郡山自由大学やMBA21、青森の校正など、いろいろ手がけているので、

電話がないほうがおかしい。

「25日の歴史講座、まだ枠はありますか」

栃木の中山さんからだ。

「大丈夫です。お待ちしております」

「もしもし、三修社の北村です。三八斗南会津会ですか、それとも三八会津会ですか」

「ううん、どっちだっけ、ごめん、八戸の広沢さんに聞いてくれませんか」

折り返し電話があった。

「三八会津会です」

「それはよかった」

「会津藩斗南へ」の最終校正での問い合わせである。

「MBA21、4月は25日でいいですか」

「ちょっと待ってください。もしかしたらサイパンに行っている」

「どうしてまたサイパンに」

「取材です」

すると次の電話である。

「金曜日、飲み会、大丈夫ですか」

「ええと、そうだっけか」

「星さんがいったのですよ。皆さんに通知してます。サイパンの集まりですよ」

という具合で、原稿が進まない。仕方がない。

こういう日もあるのだ。

でもいささかつらい。

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注釈

三八会津会

青森県の三戸郡と八戸市の会津関係者の集まりです。だから三八です。

会長は広沢安任の一族、広沢安正さんです。十和田には十和田会津会、

むつ市には斗南会津会があります。
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2006年2月13日(月) Apes! Not Monkeys! > 読書メモ05 >『千里眼事件』、『会津戦争全史』
長山靖生、『千里眼事件—科学とオカルトの明治日本』、平凡社新書
星亮一、『会津戦争全史』、講談社選書メチエ

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上記の書評を読ませていただきました。
鋭い分析です。
ありがとうございます。

星亮一

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有名な「千里眼事件」の顛末を描いているが、特にメディア(新聞)の関与という観点に重点を置いている(これは現在読みかけの、同じ著者が新潮新書で出した『日露戦争』と同じアプローチである)。著者はこれまでも偽史やオカルトを題材にした著作を発表しているが、歴史修正主義と疑似科学の共通点に関心のある私にとってはいろいろ示唆されるところも少なくない。

書評で見かけて購入。読み進むうちに戊辰戦争についてはほんとに教科書的な知識しか持っていなかったことに改めて気づく。

本棚を眺めてみても、明治維新前後の時期を扱った本はほとんど持っていない。
これでも子どもの頃は司馬遼なんかを読んでいたのに…と思ったが、

実はまさに(通俗化された)司馬遼的なものへの反発、“維新の志士”や新撰組をやたらに美化する語り口への反発が理由なのかもしれない(同様に、戦国時代についての文献をほとんど持っていないのは『プレジデント』的なものへの反発かも(w )。

徳川慶喜ないし松平容保に決断力があれば有栖川宮をかついだ薩長のクーデーターは失敗に終わった可能性が高い、という著者の考察を云々するだけの知識は私にはないが、

なるほど東国〜東北諸藩の出方次第では「この国のかたち」もずいぶんとちがっていた可能性はあろう。著者は対外的にも武力より強調に基づく国家ができたのでは、としている。これは希望的観測が過ぎるという評価もできようが、

「軍閥」の弊害を思うときあながち夢物語ともいえまい。また、奥羽越列藩同盟が上野の輪王寺宮を天皇(東武天皇)として担いだ具体的な新政権構想をもっていたことは初めて知ったが、薩長同様に天皇を担ぎだす発想をもっていたことは興味深い。

また、同盟の結成にあたって仙台藩の家老がアメリカの南北戦争を引き合いに出し、「北軍」たる同盟の正当性を訴えたというエピソードも印象に残った。

会津戦争の悲惨さについては、主として白虎隊の末路によって広く知られているが、薩長軍の略奪のひどさ、人肉食、事実上戦闘力を失った敵への容赦ない砲撃、戦後に会津藩戦死者の埋葬を禁じたこと(これは長州の招魂社に起源を持つ靖国を“日本の伝統”として正当化する議論との関係で重要)、などが紹介されている。

会津戦争は今から140年近く前の出来事だが、著者は会津の人々が未だに抱くわだかまりについて繰り返し言及している。会津若松市と萩市の“和解”が数年前にニュースでとりあげられたのを記憶している人もいるだろう。

15年戦争や植民地支配における被害へのこだわりを中国や韓国・朝鮮の民族性に還元して嗤っている人々は、その2倍会津人を嗤わねばなるまい。和解に約140年かかったということは、戦争の生存者から直接はなしを聞いた人々がほぼこの世を去って和解が可能になったということを意味する。

南京事件や植民地支配については当事者から直接はなしを聞いた世代がまだ当分存命しているということを考えるなら、なんでもかんでも反日教育のせいにすることの愚は直ちに了解できよう。

Posted: 日 - 11月 27, 2005 at 01:22 午前 Apes! Not Monkeys! 読書メモ05 Previous Next
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2006年2月12日(日) 今日は日曜日
今日の一言は休載。

ただぼんやりと過ごそう。

窓から見える安達太良連峰は頂上付近は真っ白、

昨日、山スキーに入った四人が、下山しないと新聞に出ていた。

無事救出を祈るばかりである。

明日は

「会津藩 斗南へ」

の3校締め切り、

その原稿も今日は見ない。

日曜日はそれでいいのだ。


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夕方になったら原稿を書きたくなった。

板東俘虜収容所である。

収容所というと、監獄を連想するが、ここはかなり自由だった。

俘虜が経営する店がいっぱいあり、アイスクリームも売っていた。

どういう方法でつくったのか、

興味がある。

俘虜の夫人が訪ねてきたときは、黒山の人だったという。

はじめて見る白人の女性である。

老いも若きも収容所の前に列を作った。

ここは地域の人々にとって、またとない見物の場所であったかも知れない。
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2006年2月11日(土) 渋沢栄一の生家
時々、外の空気をすいたくなる。

そうなると、ぱっと新幹線に飛び乗って出かけることにしている。

拉致された蓮池さんが、柏崎に帰ってくるという朝、私は新幹線に乗って柏崎に

向っていた。蓮池さんが市長に挨拶するというので、

市役所の広場で蓮池さんを待った。一種の追っかけ心理かも知れなかった。

テレビカメラの放列があった。うろうろしている間に、カメラに写ってしまったらしい。

夜、広告代理店の人から電話があった、

「一体、柏崎でなにをしてたの」

「どうして」

「テレビで見たよ」

「えええ」

と驚き、あれこれと説明した。

「星さんも ものずきだねえ」

と、その人がいった。

今日と明日は連休である。目が疲れたので自然の風景を見たいと思った。

それではと大宮から高崎線に乗り、埼玉県の深谷に出かけた。

八重洲ブックセンターの郡山店長は大宮の近くから通勤している。

深谷といえどもそう遠くはないのだ。

私は7時過ぎの電車に乗った。

日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の生家を見たくなったのである。

深谷の駅に降りてびっくりした。駅舎がレンガづくり、見事な建物なのだ。

第一国立銀行なのか、それとも東京商業会議所なのか,

あるいは東京海上保険なのか、それらをミックスしたのかも知れない。

すごい建物なのだ。

タクシーの運転手さんいわく。

「前の市長が建てたのです。何でも三十数億かかったそうです」

「ヘええ、でもまあ,渋沢栄一が生まれた深谷のイメージにはぴったりですね」

「それが、建てた市長、選挙で落ちてしまったのです」

「落ちた。ううん、でも、百年もたったら評価されますよ」

「そう思っています」

運転手さんが言った。

渋沢の生家は田園の中にあった。

見学客は誰もおらず,ボランティアガイドが、懇切丁寧に説明してくれた。

渋沢のことは大体は知っていたので、早く終わらないかなと思ったが、

なにせ人がこない、延々聞かされる羽目になった。

それにしても、こういう田園地帯から、どうして渋沢のような人物が生まれたのか。

「なぜだ、なぜだ」

私はうなりながら、屋敷の周辺を散策した。

実にいい天気で、汗ばむほどだった。

今日の収穫は何かと問われると、答えは出ないが、いつか、渋沢を書いて見たい。

そう思った。
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2006年2月10日(金) 第一次世界大戦と板東俘虜収容所
今第一次大戦の青島攻略戦を書いている。

幕末維新からにわかに第一次世界大戦である。

しかし私は日露戦争に関して二冊の本を書いている。

「東郷平八郎伝」と「出羽重遠伝」である。ともに光人社文庫にはいっている。

太平洋戦争は、

「山口多聞」「渕田美津雄」「伊藤整一」をPHPから出している。

だからまったくはじめてではない。

当時,日本は日英同盟を結んでおり,イギリスを支援して、青島に駐留する

ドイツ軍を攻撃した。

戦闘は77日間行われ、日本が勝利したが、途中、

二度、休戦があり、相互に死体の収容を行った。空中戦も行われ,手で爆弾を投下した。

飛行機同士は石をぶつけ合ったという記録がある。のんびりした戦争だった。

一人のドイツ兵は礼儀作法をわきまえ、まるでスポーツのようだった

と書いていた。

ドイツの俘虜4000人ほどが日本に送られ、各地の収容所に入れられた。

そのひとつが鳴門市の「板東俘虜収容所」だった。

所長は松江豊寿といい会津藩士の長男だった。俘虜を虐待してはならぬと松江は言った。

会津のサムライたちは戊辰戦争に敗れ、全員俘虜になった。

松江はその苦しみを知っていた。

東映が今度、これをとりあげ、「バルトの樂園」と題して松江を世界に紹介する。

私も以前から松江を取材しており、

5月にベスト新書から

「板東俘虜収容所」
  −武士道の人、松江豊寿所長ー

を出版する。タイトルはかわることもある。

それを今書いている。
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2006年2月9日(木) ロータリークラブで講演
郡山南ロータリークラブで講演した。

演題は「会津戦争全史」

地元なので関心は高く、盛会だった。

私は週刊ダイヤモンドに紹介された書評を紹介した。

同志社大学の浜矩子教授の批評だった。

浜さんは、私の「会津戦争全史」を取り上げ、

「著者は会津戦争を薩長革命政府軍と奥羽越列藩同盟に夜東西対決戦ととらえた」

「薩長によるゴリ押しの権力奪取の試みに対して,東北勢が新生国家樹立の夢

を抱いて対抗した」

「戊辰戦争が引き分けに終わり、東西両陣営に夜連立政権ができてこそ、

過去を引きずらない理想的な明治国家ができた」

などの部分を紹介し、

「これは歴史を否定する重要な本だ」といってくれた。

私は通説を皆ひっくり返したからである。

通説ではあの戦争がすべて正当化され、会津は賊軍だった。

週刊ダイヤモンド、1月14日号をぜひご覧いただきたい。
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2006年2月8日(水) なぜかもてる会津藩
ニ、三日前、国会中継で会津藩のことが取り上げられた。

「ならぬものはなりません」

という会津藩の格言である。

こんなにすばらしい格言があったではないか。

確か民主党の議員がいった。

これはすっきりしている。

悪い物は悪いのだ、

現代流に言い直せば、ごまかして株価を吊り上げてはなりません。

構造設計書を偽造してはなりません。

ホテルの設計を勝手に変えてはなりません。

民を拉致してはなりません。


からはじまって道路でタバコを吸ってはならない。ごみを捨ててはならない。

人にあったら挨拶をしなさい。

外でものを食べてはならない。

年配者に敬意を払うべし。

親のいうことを聞きなさい。

といったことになる。会津藩では当たり前のことなので、特段、説明はない。

守りなさいと命じたのである。ある時期、これは古臭いと一蹴された。

だが、現代のように乱れに乱れてしまうと、会津藩の教えが俄然注目されるわけだ。

私はこの格言の功罪も知っているので、

すべて賛成ではないが、聞くべきことが多いのは事実である。

これを機会に皆さん、会津の本を読むべきですね。

どの本ガいいかなあ。

私の場合だと、山川健次郎伝、

ほかに、会津戦争全史ですね。
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2006年2月7日(火) まゆちゃん定食
仕事場で原稿を書いているので、昼は外食である。

仕事場のすぐしたに「まゆちゃん」という飯食いどころがある。

600円から700円で定食を食べさせてくれる。

焼き魚定食、刺身定食、カレーライス、ラーメン、何でもある。

「野菜をくわねえと、体に悪いよ」

店のだんなが言う。すべてにキャベツがついている。

まゆちゃんは娘の名前である。だんなの本職は土建業、言葉は荒っぽいが、

人はすこぶるいい。

自由大学の教室とも近いので

「学生にはすこしやすくしてよ」

「じゃ50円引きでどう」

「もう一声」

「飲むときは1割引き」

「いいでしょう」

という具合である。

さて今日はなにを食べようか、昼の時間である。
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2006年2月6日(月) 「鴉組隊長細谷十太夫」
仙台の玉虫左太夫どのから、上記の本のコピーが送られてきた。

江北散士編とあり、昭和6年発行、発行者は仙台の桜田憲章とあった。

十太夫の写真もついていた。

立派な顔である。

目次は21項目、

付記に家族のことが書いてあり、昭和6年の段階で、

長男はニューギニア在住、三男は海軍少佐、長女仙台に在住とあった。

家族からも取材したことは間違いない。

鴉組の組織は6番隊まであリ、総勢70人前後で大隊を編制した。

「大隊進めっ」

と十太夫は号令をかけていた。

仙台からは川村今助の農兵隊も出兵しており、共同作戦で敵を翻弄した。

戦い振りはなかなか面白い。

戦争になるとどこでもサムライはだめで、こうした人々が、

仙台を支えたことがよく分かる。

仙台藩降伏のうら事情も書いてあり、

資料としても貴重である。

いいものをみせてもらった。

玉虫どの、ありがとう。
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2006年2月5日(日) 昨夜はお湯わりを飲んだ
人間は時おり、集まってわいわいがやがやと騒がないと、ストレスがたまってしまう。

昨夜は光人社の坂梨さんや、八重洲の石塚店長、昭和女子大の遠藤君らと、

よもやま話をした。

私はもっぱら焼酎のお湯わりである。

体調に合わせてお湯を入れることができるので、非常にいい。

なにをしゃべったのか、朝になると、忘れてしまうのだが、

私は珍しく文学談義をしてしまった。

好きな作家、

へミングウエー、カフカ、モームなどしゃべってしまった。

これらは大学の教養部の時代に読んだもので、

ヘミングウエーは「老人と海」

カフカは「変身」

モームは「レイン」雨だった。

老人と海は最近、ますます引かれるようになった。

自分がその年齢であり、あの老人のように、幕末維新史を追いかけたい、

その思いは強まる一方であリ、時おり、カジキだったろうか、

巨大な魚を追いかける光景が脳裏を掠める。

なぜカフカの「変身」か。

少年時代、夏のある朝、起きたら足が立たなかった。起き上がれないのである。

田舎に住んでいたので母親が自分をリヤカーに乗せ、随分離れた町の病院に毎日、

運んでくれた。

病名は分からない。私は非常に不安だった。その頃、私は水泳ぎに凝っていた。

毎日、沼に行って、唇を真っ青にして泳いでいた。

そのせいではないかと母親は言った。ある日、突然、なおった。

物心ついて変身を読んで仰天した。

私とそっくリの主人公がいた。朝おきると奇怪な虫に変わっていたのである。

人生の不条理を描いた作品だった。

「レイン」は教養部時代の英文購読の教科書だった。

どこか雨の多い南海の島で、若い宣教師が現地の若い女性に恋をして、一線を越えてしまい、

確か雨の砂浜で自殺する。

そんなストーリーだったように思う。

なぜこんな話をしてしまったのか。

なにかの弾みで、昨夜はそうなってしまった。
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2006年2月4日(土) メールの不可思議さ
戊辰戦争研究会とか、その他の問い合わせがよくある。

住所も氏名もないのがよくある。

普通、問合わせる場合は、自分を名乗るものだと思うのだが、そうではないようだ。

事務局の中村副長は厳しい人である。

びしっとはねられるかも知れない。

なにせ副長は新選組の武士道をモットウにしている。

局中法度である。

 士道に背むくまじきこと

が基本である。

となるとやはり最低のルールは必要である。

ところで春の自由大学の講座も明日で終了である、

今日、明日を除いては平日なので、年配者が多かった。

若い人のための新規講座も開発が必要と感じた。

勤務時間終了後の夜の講座になるだろう。

ボランティアデはじめた自由大学だが、片手間では難しいことも分かった。

意欲に燃えた同士が必要だ。

われと思う方はぜひ、仲間に加わってもらいたいものである。

今日はラストサムライの共著者遠藤さんの担当である。

パソコンを使って講義する。若い人はIT講義である。
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2006年2月3日(金) 誇り高き魂の軌跡
帯コピーは、

さいはての地に復活した”会津魂”。
秘められた藩士たちの苦闘の歴史を描き切る!

というのでいかがでしょうか?

サブタイトル

会津藩 斗南へ
ー誇り高き魂の軌跡ー

でしょうか。ちょっと、かな?

というメールが今朝、三修社の北村さんからはいっていました。

今度発刊する

「会津藩 斗南へ」

のサブタイトル
と本の帯です。

どうして、これを公表するかといいますと、

一冊の本が出来上がるまでに、多くの人手と知恵、アィディアが必要なのです。

それを知ってほしいと思ったからです。

ー誇り高き魂の軌跡ー

これはぴったりですね。

青森県大間の木村さん、感想はいかがですか。

さて今日は残業というか、夜遅くまで事務所に残って執筆です。
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2006年2月2日(木) ひどい雪だね
今朝は大幅に遅刻だった。

雪のため渋滞で走れない。

のろのろ運転で10時すぎに事務所についた。

メールをい開くと今日の自由大学の講師の井上さんから連絡がはいっていた。

12時着だという。

井上さんは講談社の編集者である。新幹線は走っているので大丈夫だろう。

昨日、三修社に再校原稿を送った。

「会津藩 斗南へ」

の原稿である。多分着いたのだろう。

そう思っていると編集の北村さんから電話が入った。

早くサブタイトルを考えてほしいという。ううん、どうしよう。

ーラストサムライたちの軌跡ーもあるかな、降伏人たちの軌跡ー

ちょっときついな。

あるいは、ー自主の民となるべしーいろいろあるな。

そんなことを考えながら今日はなにをするのか、点検である。

昼、当然、飯を食う。

午後2時、自由大学、井上さんの講演である。

おわってすこし原稿を書く。坂東俘虜収容所である。松江がいつ陸軍士官学校

を卒業したのか、わからなかったが、光人社の坂梨さんから陸士5期と教えてもらった。

明治25年入校、27年卒業である。

同期生は212人、

ここから大将が4人、中将が18人出ていた。

松江はやめる前に少将になった。まあまあであろう。

夜は井上さんや八重洲ブックセンターの石塚さんらといっぱい飲む。

これが楽しみである。
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2006年2月1日(水) 松江豊寿という人
いま坂東俘虜収容所長だった松江豊寿大佐を書いています。

そこはどこですか、

徳島県鳴門市です。

松江はどこの人ですか。

会津若松生まれ、生粋の会津藩士の末裔です。

なにをしたのですか、

第1次大戦のとき、日本は日英同盟を結んでいた関係で、英国の敵だったドイツを

攻撃します、中国青島に5000人のドイツ兵がいたのです。

日本は3万の兵を動員、ドイツの要塞を陥落させました。

日本にドイツ人俘虜が送られてきました。

日本では降伏は恥じでした。しかしドイツは違っていました。

全力を尽くして戦った以上、

降伏もまたやむを得ないことだという考えでした。

坂下俘虜収容所の所長に選ばれた松江は、あくまでも人道主義を貫き、

俘虜に接しました.

戊辰戦争のあと会津藩の人々は

日本最北端の下北半島などに流され、食べ物も着るものもなく辛酸をなめました。

松江はそれを知っており、ドイツの俘虜に温情を与えたのでした。

武士の情けです。

いま東映がこれをモデルに映画「バルトの楽園」を制作中です。

ちなみに松江を演じるのは松平健です。

松江ブームがくるかも知れません。
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