星亮一 今日の一言

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2007年3月31日(土) 国際化進む星亮一オフイシャルサイト
このページ

一段と国際的になりました。

事務所のパリ駐在、といっても本田さんの私費留学ですが、

「masayo本田のパリ通信」が始まり、

郡山自由大学のトーマ菜美さんの

英語の投稿も増えています。

実はトーマさん、4月から週3回、星亮一事務所で仕事をします。

郡山自由大学のこと、出版に関する様々なプランニング、

交渉、資料の整理、校正、翻訳などです。

さらにパソコンを自由に操る佐藤さゆりさんも、レギュラーで勤務、

このページも一新する予定です。佐藤さんはMBA21も担当します。

どうぞご期待ください。

といっている間に「masayo本田のパリ通信1」 が入って来ました。

早い、早い、地球は狭いものだと感じました。

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Bonjour!!

今日は午前中から午後にかけて雨が降り、寒い一日でした。

午前中はフランス語クラス分けのレベルテストのため学校へ行きました。
学校はオペラ座のすぐ近く、パリのど真ん中といってもいいくらいのところにあります。
たくさんの日本人がフランス語の勉強に来ています。

午後からまずは、ジュンク堂書店へ行きました。
もちろんのことですが、日本の本を売っています。
先生の本をさがしたら『山口多聞』と明治の歴史コーナーには『白虎隊と会津武士道』がありました!
ここでも先生の本を手にできるは嬉しいですね。先生の本も海を渡り羽ばたいています。

書店を出たあとはオペラ座を背中にして南にむかい、ルーブル美術館へ。
さすがは世界最大の美術館、近くでみると迫力があります。そして、たくさんの観光客がいました。
今日は中に入りませんでした。
今度、落ち着いたらゆっくり鑑賞します。やはり、モナ・リザに会いたいものです。

それから、ルーブル美術館に平行しているサントノレ通りを西へむかいロワイヤル通りに出て、マドレーヌ教会へ。
なんだか、おいしそうな名前の教会です。しかし、ロワイヤル通りのつきあたりに堂々と建つ姿は荘厳です。
途中には、ヴァンドーム広場があります。ここはパリでもっとも豪華な広場といわれているそうです。

こちらは、30日の午後七時三十五分です。
まだまだ落ち着かずおりますが、ひとまず無事到着のご連絡です。
またメールします。

A bientot!!(←また近いうちに)

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パリ通信、楽しみです。

午後は一揆と信長を書く予定でしたが、

「山本五十六と山口多聞」

の校正が入ってしまい、一揆と信長が明日に延期です。

玉本五十六の苦悩難は、国力の無い日本でした。

飛行機もパイロットもすぐに底をついいてしまい、

補充が効かなくなったのです。

その中でどう戦ったらいいのかでした。

負けるとわかって戦う、これはつらいことだと思います。
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2007年3月30日(金) 土一揆と城の戦国時代を行く
今日は大先輩の立教大学名誉教授、藤木久志さんの近著の紹介です。

先日、東京で東北大学時代の恩師、豊田武先生を偲ぶ会がありました。

そこに藤木さんもお見えになり、何十年ぶりかでお会いしました。

私が文学部の3年生の時に,藤木さんは新潟大学から東北大学の大学院に

こられました。

新潟大学には井上鋭夫という著名な学者がおられ、「上杉謙信」「山の民・川の民」

など数々の作品を出されておりました。

藤木さんは、井上教授の高弟で,新潟大学の英才との評判の方でした。

さわやかな弁舌、にこやかな笑顔、われわれ学生には魅力的な先輩でした。

さて、土一揆とは何か。

藤木さんは戦国時代を農民のサイドから見つめ続けてきました。

藤木さんのデータベース,気象災害情報によると、応仁,文明の乱に至る

15世紀は凶作と飢饉が相次いだ時代であったのです。

夏でも寒く「山、野、江、河に亡民充満」という状況でした。

村人は自然の食べ物を食い尽くすと難民となって、京都を目指したのです。

亡民、貧民、乞食、あるいは悪党と言われた人々です。

夜ごと土倉、高利貸しが襲われ、京の貴族たちは震え上がったのです。

四辺の土民蜂起、それがど土一揆でした。

いつも収穫物が都に入る8月以降に、京の町を封鎖し、町を荒らしまわり、

幕府に徳政を求めたのです。

これを取り締まることは困難だった。

幕府方の雑兵もこれに加わっていたからである。

いまの北朝鮮のいの状況にどこか似ている。暴動は表面的には見えないが、

軍隊が各地で荒らし回っているらしい。

幕府は静めるために徳政を交付する、その内容は借金を大部分、帳消しにする

分一徳政だった。

雑兵は足軽と呼ばれるようになり、足軽は公然と物取りや人攫いを行った。

土一揆は、食べものも無い飢饉難民を救う生活のサバイバルだったと

藤木さんは書いていた。生命維持装置である。

一揆と信長の戦場

明日、お送りします。
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2007年3月29日(木) 現代のトップランナー高杉晋作
昨夜のNHKテレビ、その時、歴史が動いた

もう一度聞きたいあの人の言葉

トップは高杉晋作だった、

その言葉は

面白きこともなき世を面白く

だった、

病気療養中の作品である。

これを歌人の野村望東尼にみせると、

すみなすものは心なりけり

と詠み完成させている。慶應二年の暮れの話である。

高杉は文学青年だった。

400編近い歌を詠んでいる。

これは29歳,この世を去る4ヶ月ほど前の作品である。

面白く生きなきゃいかん、時代の風雲児、高杉らしい辞世の句である。

これがなぜトップなのか。

ここまで書いた段階で、仙台の寒河江君からメールが入った。

面白き世をもっともっと面白く

であった。

若い人の志向にぴったりだったのだ。彼は列藩同盟サイドの人間である。

戊辰戦争研究会仙台支部長のポジションにある。

ハンドルネームは仙台藩参謀玉虫左太夫。

にもかかわらず高杉を否定はしない。

うううん

私はうなってしまった。

以後、玉虫左太夫晋作と呼ぼうか

これも時代の流れか。
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2007年3月28日(水) 星亮一と行く泰面鉄道の旅
かねてから計画していたクワイ河マーチで有名な泰面鉄道の旅、

本日、旅行社から具体的な提示があり、これをつぶさに検討し、

実施することに決めました。

日程は下記の通りです。

7月17日、成田発、バンコック、カンチャナプリ

7月18日、クワイ河鉄橋、戦争博物館、鉄道博物館、連合軍、日本軍墓地

7月19日、ミャンマーの国境へ

7月20日、ミャンマー観光

7月21日、サンクランプリ観光

7月22日、バンコック観光

7月23日、帰国、成田着

料金は25万円前後です。

参加希望の方はご連絡ください。



参考
ヤフークワイ橋
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今日の日曜日はクワイ河へ行ってきました。カンチャナブリというところで、バンコックから西北に約200km、高速で2時間半のところです。空気が澄んでいてきれいな観光地です。標高が高いらしく、バンコックに比べると湿度は幾分低いのですが日差しが強いので日本の9月の暑い日に似ています。

ここは泰面鉄道で有名なところです。鉄道用のクワイ橋はレールの間に板が敷いてあって、観光客が大勢歩いています。そこへ時々列車が通ります。観光客はばらばらとレールと橋のアーチの間に避難して、ゆっくりと通り過ぎる列車の写真を撮ったりしています。

クワイ河も他の東南アジアの河と同様に茶色の水が滔々と流れています。川幅は隅田川程度ですが、岸辺の緑が美しい河です。その緑の中にところどころ真紅の花がさいています。

観光客の三分の一くらいは日本人です。日本人は大型の観光バスでどっと来ます。バスターミナルはクワイ橋のたもとにあって、その近くには戦争博物館があります。日本人観光客でそこへ行く人は殆どありませんが、泰面鉄道の建設の悲惨な模様が展示されています。

展示の説明によりますと「日本軍は泰面鉄道の建設に(一般東南アジア人の他に)連合軍の捕虜と受刑者あわせて61,300人を動員し、過酷な労働、食糧不足などでうち45,000人を死なせた」とあります。そしてその大部分はイギリス人とオランダ人だったということで、ふんどし一つで労働に従事しているイギリス人やフランス人の写真が展示されています。

泰面鉄道は1年あまりで完成したが、連合軍の1回の爆撃で破壊されてしまった。その際に日本軍は「捕虜を鉄橋の上に並べれば爆撃しないだろう」と700人を鉄橋の上に並ばせたが、連合軍の飛行機からは識別できなかったのか、爆撃は予定通り行われ、さらに犠牲者を増やした、と説明されています。

現在の橋は、戦後はじめてタイに進出した日本企業の人々がこの悲惨な話を聞き、そのようなことが人々の記憶から消えないように橋を復元しようと、苦しい経営資金の中から皆でお金や資材を出し合い、それにより再建されたものだ、と言う話も現地で聞きました。

クワイ河からの帰りの道ばたにススキがさいていました。日本のススキと同じですが、やや穂が大きく純白で、かたまって生い茂っています。日が照っているのに急に激しい雨が降り始めると、左手に見事な二重の虹がでました。

 
  
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2007年3月27日(火) 日本海軍の凋落
ハワイで勝った日本海軍はミッドウエーで惨敗した。

以後、たちなおる事はなかった。

なぜか、科学技術の差が勝敗に大きく影響した。

たとえばレーダー、日本の戦闘機は事前にキャッチされ、

迎撃された。

対空砲火もまったく違ってきた、弾丸に信管が組み込まれ、

銃弾が戦闘機に向って飛んできた。そこから逃れることは困難だった。

補給が悪く、特に飛行機は年々、劣悪化した。防備も悪く、

すぐに燃えた。日本の戦闘機は100円ライターと同じだった。

これではパイロットはたまらない。ベテランパイロットは

失われ、戦えるパイロットがいなくなった。

海の忍者、潜水艦の性能が悪く、十分に機能しなかった。

米国の潜水艦が優秀で、日本の輸送船はことごとく沈められ

物資は極端に不足した。ガソリンも切れた。

山本五十六はミッドウエーで勝利し、

米国と和議を結ぼうとひそかに考えた。

すべて無になり、山本はラバウルで戦死する。

覚悟の死であった。私の

「山本五十六と山口多聞」(PHP文庫)

は5月発売である。
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2007年3月26日(月) 真珠湾攻撃2
日本は日米戦争の緒戦で大勝利をあげた。

日本から空母部隊が発進し、ハワイを奇襲攻撃するというのは、

奇想天外のことだった。アメリカ国民は仰天し、挙国一途で日本に立ち向かって

来た。この作戦を指揮した日本海軍連合艦隊の山本五十六司令長官は、

たちまち英雄としてあがめられた。

米軍に探知されずにハワイ沖まで向い、飛行隊を発進させ、

ハワイの米太平洋艦隊を壊滅させたのである。

しかし、米軍の反撃は早かった。

日本本土に接近した空母から爆撃機が飛来し、東京を爆撃、

反撃に出た。

山本五十六は敵空母の殲滅作戦に出た。

ミッドウエー海戦である。

日本が誇る機動部隊が、敵空母艦隊と決戦に出た。

しかし索敵に失敗し、敵空母はいないと判断、

ミッドウエー島の爆撃に熱中している隙に、米空母部隊が現れ、

日本海軍が誇る「赤城」「加賀」など4隻の空母を爆撃し、これを撃沈させた。

歴戦の搭乗員も戦死した。

以来、日本海軍は負け続きだった。

真珠湾は成功したが、ミッドウエーは惨敗だった。

なぜか、慢心があった。連携も悪かった。

司令長官、参謀長、参謀らのミスもあった。

そうした構造的なミスに加え、なにくそというヤンキー魂に敗れた。

敵の艦船を攻撃するためには、魚雷が最適だった。

ところが敵空母がいないと判断したので、南雲機動部隊は魚雷を爆弾に替えた。

陸上攻撃のためである。そこに敵空母発見の知らせが入った。

このため再び魚雷に積み替えた。その最中に爆撃を受けた。

爆弾で十分だった、すぐ発艦させるべきだった。

このもたつきで、日本海軍は敗れた。

米軍の攻撃機は爆弾を積んだ急降下爆撃隊だった。

米海軍の方が気合で勝っていた。

日本海軍は形式にこだわり惨敗した。

明日に続く。
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2007年3月25日(日) 山本五十六と山口多聞1、真珠湾攻撃
山本五十六の校正

久しぶりの戦記ものなので

勘が狂いミスが多い、

水曜日締め切り

今日はガッチリやろう。

なぜ日本は戦争したか。

これが結構むずかしい。

メインは真珠湾攻撃である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ヤフーで見ると、いくつかの記述がある。

そのなかから

真珠湾攻撃
(太平洋戦争始まる)を引用させていただいた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この文章・略図は、主に世界文化社『連合艦隊上巻・勃興編』
を参考にしています。
掲載写真・比較検討には、光人社NF文庫『写真太平洋戦争・第1巻
及び、新紀元社 『太平洋戦争海戦ガイド』を参考・編集しました。
他にも、PHP研究所 『歴史街道増刊 真珠湾攻撃』も詳しいです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

と冒頭にありました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和16年(1941)11月26日午前6時、

択捉島(エトロフトウ)の単冠湾(ヒトカップワン)に集結していた

第一航空艦隊(南雲機動部隊)は、

駆逐艦隊の警戒隊を先頭に、重巡の第八戦隊、

戦艦の第三戦隊、潜水艦の哨戒隊、そして最後に

空母の第一、第二、第五航空戦隊(搭載機合計380機)が

順次錨を揚げて出撃しました。連合艦隊初(世界で最初)

の空母を主体とした機動部隊は、補給船も含めると30隻の大艦隊でした。

(編制上の空母は、まだ補助艦艇)

12月1日に御前会議が開かれ開戦を決定。

翌日、作戦開始を12月8日とする天皇の允裁を得、

山本五十六連合艦隊司令長官は午後5時30分、

洋上の機動部隊に隠語電文「新高山登レ一二〇八」

(開戦日を12月8日とする)を打電しました。

読み方は(ニイタカヤマノボレ、ヒトフタマルハチ)

航空母艦から第一次攻撃隊の183機は各集団ごとに集合、

機動部隊上空を大きく旋回したのち、

6時15分ハワイを目指して進撃を開始します。

攻撃隊は水平爆撃機隊を先頭にし、その右後下方に雷撃隊、

左後下方に急降下爆撃隊という隊形をとっており、

赤城分隊長 板谷茂少佐の率いる43機の制空隊は、

これら集団の上空500メートルに占位してハワイに迫って行きました。

 ハワイ時間7時40分、攻撃隊はオアフ島北端のカフク岬沖に到達、

7時49分、攻撃部隊総指揮官 

淵田大佐機から攻撃隊全機に全軍突撃を命じる

ト・ト・トのト連送が打電されます。

続いて艦隊司令部宛の隠語電文

「トラ・トラ・トラ」(我奇襲二成功セリ)が打電されました。

制空隊は雷爆撃隊を援護するため3群に分かれ、

真珠湾上空、ホイラー飛行場、カネオ飛行場に向かい、

攻撃隊上空で敵戦闘機の反撃に備えていましたが、

予期していた敵戦闘機の反撃もほとんど無かったため、

飛行場の機銃掃射を敢行します。

 そして第二次攻撃隊167機が発艦したのは、

第一次攻撃隊が発艦してから1時間15分後の7時30分に進撃を開始。

8時40分、オアフ島北端のカフク岬東方沖合に到着し、

8時58分全軍突撃下令が発令されました。

第一次攻撃隊とは状況が異なって、

炎上した敵機や艦船の煙がたちこめていたうえ、

対空砲火も熾烈だった様です。

第一次攻撃隊(損失機9機)は完全に奇襲となり、

反撃もほとんど有りませんでしたが、

第二次攻撃隊は反撃体制がある程度整っていた処へ攻撃した為、

損失機20機と多くなってしまいます。

母艦に帰着被弾機の中でも急降下爆撃機隊の損害が

約半分を占めていましたが、

空母部隊の空戦爆撃技量など、

世界一の実力があったからこその大戦果とも言えます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この記述は非常に分かりやすく

優れています。

問題はなぜ日米戦争が起こったかです。なぜ山本は

ハワイを奇襲攻撃したのか。

そのためにどのような訓練が行なわれ、どのにょうな機動部隊が編制されたのか、

それを考察しています、今日から3回、連載します。

ご意見をお寄せください。
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2007年3月24日(土) 豊田先生と私の戊辰戦争
今日、東京南青山の墓地で、東北大学時代の恩師豊田武先生のお墓参りがあり、

そのあと南青山のレストランで、会食と懇談があります。

東京を中心とした同窓生の集まりです。豊田先生は日本中世史の権威者で、

数々の研究作品があり、多くの門弟を育てました。

今日は私が「豊田先生と私の戊辰戦争」と題して

話をいたします。

私は東北大学で歴史を学んだあと、福島民報の記者になり、

20代の半ば、会津若松に駐在しておりました。

そのとき「会津若松史」の編纂事業があり、それの監修者が豊田先生でした。

白虎隊をどう評価するか、それが大きな問題でした。

当時、会津はまだ賊軍の評価でした。

しかし会津若松の歴史書です。そのようか官軍対賊軍の構図で

会津戦争を書くことは出来ません。

「星君、会津藩の立場で、それでいて冷静に会津戦争を書いてくれないか」

豊田先生はそうおしゃって私を抜擢してくださったのです。

一介の新聞記者だった私をもっとも大事な部分に

登用してくださったのが豊田先生でした。

こうして私は戊辰戦争と取り組むきっかけをつかむことが出来たのです。

昨年、NHKのラジオ深夜便で、豊田先生の学恩について二夜連続で放送しました。

大変、反響があり、

今日、その事を話するために東京に出かけた次第です。

今日は12人、出席という連絡が入っています。

著名な方も一杯おります。詳しくは夜、ご報告します。
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2007年3月23日(金) 今日は仙台で講演会
朝8時の電車で仙台に向います。

東北電気協会電気記念日、記念講演会 
講師 星 亮一
平成19年3月23日
江陽グランドホテル5階鳳凰の間 11〜12時

演題 仙台戊辰戦史

レジメ

1. 戊辰戦争研究、白石集会
2. 戊辰戦争130年in 角館、平成10年
3. 白石・川井前市長の発言
4. 仙台藩の役割、会津救済、参謀玉虫左太夫奔走
5. 奥羽越列藩同盟
6. 玉虫の理論、航米日録
7. 惨敗
8. 仙台を愛した玉虫
9. 航米日録の内容、油断するな、米人はよく働く
10. 玉虫左太夫の復権、銅像の建設

講演会の結果は夕方、報告します。
△top
2007年3月22日(木) 北越戊辰戦争3
これが今回の最終編です。

戦争をすべきどうか。

この判断は何時の時代でも大変だった。

国家の命運がかかっているのだ。

負ければすべてを失ってしまう。

長岡藩の軍勢は、どう見ても3、4千に満たない。

会津、米沢、庄内、そして越後の諸藩の応援があったとしても

怒涛のごとき薩摩、長州軍に勝てるのか。

これは大きな疑問であり、河井も悩みに悩んだに違いない。

では開戦の決め手はなんだったのか。

私は長岡武士道であったと思う、武士は対面や面子を重んじた。

勝つか、負けるかの計算よりも、大義名分を大事にした。

陰謀と策略で幕府を倒した薩長は認めがたい。という事だった。

会津藩の梶原平馬、秋月悌次郎との密約もあった。

男同志の約束である。

仁義は何よりも優先されることだった。

河井は情の人だった。決して理ではなかった。

しかし河井が考えていたよりも早く負け戦になった。

新発田藩の裏切は大きかった、米沢藩も腰砕けになった。

ここの内部はバラバラだった。最後に残るのは会津だった。

仙台、米沢も離れ、会津は孤立した。

「会津の化けの皮もはがれたか」

重傷を負った河井がつぶやいた。

河井は苦悩にさいなまれながら

憤死する。北越戊辰戦争をどうまとめるかは、難しい。
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2007年3月21日(水) 北越戊辰戦争2
歴史の歯車を前に戻そう。

鳥羽伏見の戦争の時、河井は大坂にいた。

大政奉還があったと聞いた河井は慶應3年11月25日、

主君牧野忠訓とともに上洛した。これには六十余人の藩士が同行した。

ここで目撃したのが、鳥羽伏見の戦争だった。

慶応3年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの

働きで発せられた王政復古の大号令により、

大坂に退いていた前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。

さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行うと

慶喜の周囲は「討薩」を望む声が高まった。

ついに正月元旦、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは京都に向って進んだ。

正月3日の夕方に、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と

大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、

鳥羽では総指揮官の竹中重固が不在や滝川具挙が戦闘の火蓋を切った。

しかし幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が

薩長軍の小銃火力に敗れた。

旧幕府軍は淀藩主稲葉正邦を頼って、

淀城に入り建て直しをはかろうとした。

しかし淀藩は薩長と戦う意思がなく、

城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ。

このため旧幕府方は15,000人の兵力を擁しながら

緒戦にして5,000人の薩長軍に敗れた。

翌4日も戦闘が続き、5日になると明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え

薩長軍が官軍となる。これにより日和見を決めていた

諸藩が薩長軍に付いた。

このため、旧幕府軍の劣勢は決定的になった。

開戦に積極的で無かったとされる慶喜は

旧幕府軍の敗戦が決定的となるや

僅かな側近及び老中・板倉勝静、

同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・

桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、

大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。

総大将の徳川慶喜の撤退とで

多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、

旧幕府軍の全面敗北となった。

さてどうするか、江戸に戻った河井は考えた。
△top
2007年3月20日(火) 北越戊辰戦争1
私が主宰する戊辰戦争研究会の小名さんの

ページを最初にご紹介します。

8月25、26日、長岡で戊辰戦争研究会の

長岡集会を開きますが小名さんがその幹事です。

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この文章は、このホームページの管理している小名泰裕の個人的想いです。

河井ファン宛てに出した自分のメールから(2001年11月30日)

(2005年09月24日)

小千谷会談の決裂に始まる北越戊辰戦争は、東軍、西軍ともに、相手の認識の

甘さ、戦力の過小評価が原因で始まったのではないでしょうか?

今回でも、長州側の市長さんの発言

(第一回長岡歴史シンポジューム 2001年8月)から

見られように長岡にたいしてあまり知識がない?ことが、じつは、

130年前にも同じような状況だったのではないでしょうか?

また、戦力=石高という認識もまだまだあったとおもいます。

越後長岡藩7万4千石など眼中になかった。あれほど、京都で権謀術策を

使い、また、東北の大藩にはそれなりの工作をしていますが、長岡藩には

どうだったのでしょう。

 長州藩は、四境戦争(長州征伐)、鳥羽伏見の戦いで兵員では絶対優勢な

幕軍を破って意気揚揚と越後にきます。おそらく、榎峠から長岡をみたとき、

長岡城は平城であることからなんなく落せるとおもったはずです。事実、

長岡藩は開戦後、長岡城を守り切れませんでした。

西軍が、とんでもない相手と戦っていると気づくのは、長岡城落城後でしょう。

3ヶ月もまさか戦うとは思わなかったでしょう。城が落ちればすぐ越後平野は

平定できるとおもったでしょうね。もし、このような戦況が事前にわかって

いればおそらく、談判に応じる、または、河井を捕らえるか、あっさり首を

とったでしょ。

 北越戊辰戦争の知名度が低い原因の一つに西軍が慈眼寺談判の対応の悪さに、

戊辰役後きずいたのでしょう。西軍とて、あれだけ犠牲者をだした北越戦争で、

河井にたいする処理(捕縛をふくめて)が当然問題になります。

現に、品川弥二郎は山県に責任を責める発言をしています。

北越戦争は、西軍にも罰の悪さが残ったためにあまり話題にしたくなかったの

でしょう!だから、今でも知名度が低いのかもしれません。

 しかし、長岡軍は、初めての戦争なのにあれほど活躍できたのは

不思議です。西軍と対等に戦ったのには驚嘆します。

長州藩、薩摩藩等は北越にくるまでに戦火をくぐっていますから

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なるほど大変参考になるご意見です。

まったくそうだったろうと思います。

さて私はいま、開戦前夜の長岡藩を考えている。

地元の重臣たちは当初、薩長に恭順だった。

もう日本の大勢は決まったという判断だった。ところが河井が江戸から

戻ると藩論は二つに分かれる、恭順派と抗戦派である。河井は抗戦派である。

征討軍の方針は長岡攻撃だった。献金もしない。兵も出さない。

これは敵対勢力だというわけだ。これを行なったのは河井だった。

なぜ河井は、拒否したのか。必ずしも薩長が絶対的に優位にあるわけではない。

という認識があった。

最近の研究では,土佐藩のい内部に反薩長派がいて虎視眈々と、

薩長の分裂を待っていたという。

大政奉還は土佐のアイデアでした。これに乗って徳川慶喜が

将軍職を返納した瞬間、慶喜はただの人に転落し、

すべての権力を失った。土佐も一杯、食わされたのだ。

しかし土佐の願い、薩長の分裂は起こらなかった。なぜか、

それは奥羽、越後が弱かったからに他ならない。

土佐が付け入る隙はどこにもなかった。

河井は奥羽、越後が弱いことを知っていた。

だから本当は戦争をしたくなかった。

ぎりぎりまで粘った。

しかし滋眼寺の会談が決裂し、戦争になった。

どっちみち長岡は戦場だった、

薩長に恭順すれば長岡は会津攻めの先鋒である。

会津との死闘が待っていた。会津につけば薩長との戦争である。

そうなれば武士の義からいって会津だった。会津の方に夢があった。

薩長を破れば天下が取れる。

長岡が戦場になる。これは宿命だった。なぜなら会津藩は,長岡周辺に領地を

もっており、自衛のために戦闘にはいっていた。
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2007年3月19日(月) 防衛大学校卒業式
平成18年度の卒業式が昨日、行なわれ、テレビで報道された。

帽子を投げ上げるシーンは何時見ても、いいものである。

安倍総理の演説も非常によかった。

卒業生にはタイやモンゴルなどアジア各国の学生もいて国際的だった。

現在の防衛大学校長 五百旗頭(いおきべ) 真(まこと)さんは

著名な国際政治学者である。戦前の軍の学校は、軍人が校長だったが

防衛大学校は,一貫して民間人である。

シビリアンコントロールの意味あいが深いのだろう。

防衛省のホームページに防衛大学校とは、どんな学校か、

五百旗頭校長の談話が出ていた。

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防衛大学校は、4年制の大学教育を受けながら、

英語能力を身につけ、学生の約10パーセントが

海外短期留学することができます。

キャンパスには留学生が多数おり、

海外の士官学校の学生の訪問が頻繁にあり、

国際的な雰囲気があります。

そして毎年国際士官候補生会議が学生たちによって組織されております。

防衛大学校は、こうした国際交流を重視しているかたわら、

全員運動部に所属して体力の向上を目指すことに力点をおいた大学でもあります。

防衛大学校は自衛隊のリーダー(幹部自衛官)

となる人たちを育成する日本で唯一の大学教育機関です。

防衛大学校は防衛省の機関ですので「大学校」といっておりますが、

一般大学と同じ4年制の教育を施し、学位を授与しています。

防衛大学校は毎年約460名を基準に学生を採用しますが、

その内訳は約85名が人文社会科学系、約375名が理工学系です。

人文社会科学系では3学科、理工学系では11学科があり、

学生は現代社会に関連の深い、多様な14分野のうち1つを

専攻して卒業することができます。

学生の専攻分野は2学年に進むときに決まりますが、

1学年生は教養教育科目を重点的に学び、

その間英語教育、情報処理、日本語表現能力のほか、

憲法、歴史、政治学などの人社系基礎科目、

数学、物理、化学などの理工系の基礎科目を習得し、

2学年に進むときに専攻分野を決めます。

防衛大学校の教官数は約350名で、

これは学生4.8人に1人の割合になり、

全国でももっとも望ましい少人数教育が行われています。

防衛大学校のもう一つの特徴として、

制服教官(幹部自衛官)による防衛学の授業があります。

戦史や国防論、戦略論など、一般大学では見られない、

防大ならではの教育科目です。この意味で、防衛大学校は、

将来の日本の国防の任につくためのリーダーとしての資質を磨く

「士官学校」でもあります。

防衛大学校は、横須賀の三浦半島の先端に位置し、

東京湾を望み、富士山を仰ぐ風光明媚な

自然環境に恵まれたところにあります。防衛大学校は、

若人が4年間の大学生活を過ごすのに最適な大学です。


五百旗頭 真

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私はこれまで3回,防衛大学校を見学に行っています、

観閲式は実に見事で、さわやかです。太平洋戦争の

まずい判断を繰り返さないためにも、

国際性に富んだ幹部自衛官の養成は大事です。

目下「山本五十六と山口多聞」の校正中です。

この中に海軍兵学校を書きましたが、将来、海軍兵学校、

陸軍士官学校を復活すべしの声もあるようですが、今後も全軍一緒の

防衛大学校がいいのではないかと、私は思っています。
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2007年3月18日(日) 今日は日曜日、ゆっくり新聞を読もう、
新聞は自宅で朝日新聞と福島民友新聞をとっている。

都知事選のテレビを見たので、正直にいうと、あまり詳しく読む

時間がなかった。ひとつ、へえという記事があり、切りとった。

それは共同か時事通信の記事である。

旧南満州鉄道の嘱託社員の待遇である。

大川周明が月1000円、現在の価値で200万円、

尾崎秀実が500円、100万円とあった。

満鉄というところは凄いところだと思った。

彼らは東京在住であり、情報収集の面で協力していたのだろう。

満鉄の内幕が見えてくる。

仕事場に行く途中、コンビニで、毎日新聞、産経新聞を買った。

仕事場では読売新聞、河北新報、福島民報を取っている。

さあ、新聞タイムである。

読売新聞

都知事選特集が目を引いた。

石原対浅野、どうなるのかだ。石原の東京再起動宣言に対して

浅野は情報公開で迫る、

クリーンがうたい文句の宮城県もハコモノで多くの借金を抱えている。

テレビ討論でもまあ互角である。安全な東京となると、石原がリードの

感じもある。予断は許されない選挙だ。

14面に大人の趣味教養フエアの広告があった。

オンライン書店の連動企画である。

そこに私の本の広告があった。

三修社の戊辰戦争シリーズである。

「幕末史」「仙台戊辰戦史」「会津藩斗南へ」「箱館戦争」

である。星亮一の好評既刊とある。確かにオンライン書店で伸びている。

ありがたいことだ。

毎日新聞

ペットの事が出ていた。

ペットを飼う中高年が増えているが、

各地で大きな問題が起こっているという。

それは何か。ペットの寿命が延び小型犬で、年間12万円以上の

費用がかかるというのである。

飼育も難しい。

老人は犬に馬鹿にされ、何人もの人が噛み付かれている。

他人に噛み付いたら多額の慰謝料を取られる。

散歩も絶対に欠かせない。安易に飼うべきではないと警告する。

これはなるほどと思う記事である。

また従軍慰安婦問題が何箇所かにあった。

戦争にはいつも付きまとう問題である。この問題がない軍隊はなかった。

ベトナム戦争での米軍にもあったというし、満州に攻め込んだロシア兵は

日本人女性を無差別に強制連行した。

この際、幅広く討議すればいい。

産経新聞

読書欄に「白疾風」しろはやち

が出ていた。北重人の作品である。昭和23年,山県県生まれ、

有望な人である。

文芸春秋の内容紹介■

金脈に埋蔵金!? 武蔵野の谷の村が何者かに狙われる。

かつて伊賀の忍びとして活躍した三郎は、自分の村を守るため村人と共に戦う

かつて伊賀の忍び、「疾風」として名を馳せた三郎が

住む武蔵野の村。命を捨てる戦とは無縁の、

畑を耕し命を育む穏やかな年月だったが、ある日、

江戸から風魔残党や隠し金山の噂など、不穏な気配が漂ってきた。

祭りに呼んだ風流女が発端となり、平穏な村の毎日に綻びが生じていく。

村を襲う何者かの陰謀。三郎は、再び忍びとなって立ち向かう――。

定評のある艶やかな文章で、

老いた忍びが武蔵野を駆け抜けます。

エンターテインメントの面白さが詰まった時代小説の誕生。とある。

書評では村の生活観がよく出ているとある。野良仕事、作事、衣食、

嫁取、葬式、それらが丁寧に描かれているという。読んで見たくなる。

河北新報

置の山林を無農薬野菜の生産基地に 相馬・成田食品
-
モヤシやカット野菜の製造販売で全国最大手級の

成田食品(福島県相馬市)が、

ゴルフ場計画が立ち消えとなった相馬市内の山林などを買い取り、

無農薬野菜の自社栽培に乗り出す。

計画地には産業廃棄物処理業者も食指を動かしていただけに、

地元は歓迎ムード。

30年近く塩漬け状態だった土地は、

救世主の出現で安全性の高い食品の生産拠点に生まれ変わる。

なるほどねえ,これはいいですね。

福島民報

県内ニュース

漢字検定、1日早め失格 喜多方東高で60人超

陸上王国の秘密明かす 福島大と田村高監督が対談

エール大に9月完成 朝河博士たたえる庭園

アルミホイール120本盗難 倉庫から20万円相当

旧国鉄の動輪、さよなら JR常磐線鋼製「415系」最終運転

DVD見てくんちぇ 「フラガール」発売でイベント

聖光学院が甲子園練習 投打とも仕上がり順調


と豊富だった。

それにもまして,えっと驚くニュースがあった。

知人が新潮新書から本を出したのである。

どうして、なぜ、とにかく凄い、

私は記事を食いいるように見つめた。

村井幸三著

「お坊さんが困る仏教の話」

である。帰りに書店に寄り、手に入れなければならない。

村井さん、おめでとうございます。

これだけ読むと疲れたなあ。

おかげで原稿が書けなかった。」

来週は飛ばして読むことにしよう。
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2007年3月17日(土) 会津若松のベストセラー
午後,お伝えします。

そのまえに西武ライオンズ裏金問題

今朝のスポーツニッポン

清水に欽ちゃん球団が“救いの手”
 
西武の裏金問題で早大野球部を退部処分となった

社会人球界が救いの手を差し伸べた。

日本野球連盟・鈴木義信副会長(63)が、

同選手を受け入れる態勢があることを明らかにしたもの。

これを受けて茨城ゴールデンゴールズ(GG)の

萩本欽一監督(65)がさっそく入団させたい意向を示すなど、

西武の不正によって大学球界を追われた清水に

野球を続ける道が開けた。(スポーツニッポン)

よかった,欽ちゃん,すばらしい。

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福島民報掲載,今週のベストセラー、

会津若松,西沢書店

1、渡辺淳一 鈍感力 集英社

2、早川広中 真説白虎隊

3、あさのあつこ ラストイニング 角川書店

4、竹内一郎 人は見た目が9割 新潮社

5、星亮一 会津武士道 青春出版社

6、青山七恵 ひとり日和 河出書房新社

7、十和 クリアネス スターツ出版

8、島田洋七 がばいばあちゃん 集英社

9、中村彰彦 会津武士道 PHP出版

10、板倉晴武 日本人のしきたり 青春出版社

私の会津武士道が5位と健闘です。

ありがとうございます、

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2007年3月16日(金) 白虎隊論,皆さんの声が聞きたい
白虎隊をどう考えるか。

実は未整理の問題が多々ある。

今日はそれを論じたい。

皆さんの声も聞きたい。

その前に西武の裏金問題

早稲田の選手は犠牲者である。

彼の将来がどうなるのか、気になるところである。

幸い、退学ではないようだ。ここから這い上がるしかない。

さて白虎隊である。

正月にテレビ朝日が白虎隊を放送した。

主人公は士中2番隊の所酒井峰治である。

酒井は途中で仲間とはぐれ,農家に飛び込んで戦況を聞き、

白虎隊の服装を脱ぎ捨て,百姓の子どもになりすまし、

味方の兵に出会って無事,入城することが出来た。

戦後は北海道に渡り、開拓農民として一生をおえた。

戦闘の記録も残し,立派な生涯だった。

もうひとり,1番士中隊永岡清治の生涯も注目される。

永岡の著書「旧夢会津白虎隊」は,なぜかあまり利用されてこなかった

文献である。

実にすばらしい中身である。

敵が大野ヶ原まで攻め込んだ。滝沢峠を越えれば

会津若松である。この時、軍事局を仕切っていたのは

佐川官兵衛だった。1番士中隊は城下で待機していた。

夜,城内の様子を調べに行った永岡は、ばったり佐川に会った。

「今夜中に敵は追い出す」

と佐川がいった。永岡は大いに安堵したが、これは的はずれだった。

翌朝、敵は怒涛のごとく城下に攻め込み老人,婦女子が殉難した。

永岡はこの事実を終生、覚えていた。

会津に必要だったのは、的確に情勢を判断する参謀だった。

それが残念なことだった。
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2007年3月15日(木) 西武裏金
早稲田の学生は気の毒です。

退部はやむをえないが、退学はさせるべきではない。

大学当局にお願いしたいものである。

在学が認められた場合、人生はこれから、がんばるべし。

以下は

3月15日12時1分配信 時事通信です。

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 プロ野球西武がアマチュア2選手に金銭を渡していた問題で、

当該選手一人が野球部に所属している早稲田大学は15日午後、

東京都新宿区の早大キャンパス内で記者会見し、

この問題の調査委員会(委員長=村岡功早大スポーツ振興担当理事)

が調査結果を発表した。

 記者会見ではまず、早大の田山輝明副総長

と調査委の村岡委員長が結果を説明した。

引き続き、早大野球部3年で当該選手の野手、清水勝仁選手(21)

と野球部の応武篤良監督、川口浩部長も出席。

 清水選手は兵庫県出身で、専大北上高(岩手県)卒。

甲子園大会には出場していないが、

好打の内野手として高校3年時にドラフト候補に名前が挙がった。

東京六大学リーグでは2年時の2005年春、

12試合に出場して優勝に貢献。同年秋から外野手登録となった。

 西武が金銭供与したもう一人は

社会人野球・東京ガスの木村雄太投手で、

10日の記者会見で事実関係を認めた。

▽清水勝仁選手の話 このたびアマチュア野球のルールに

反したことをやってしまい、誠にご迷惑をおかけしました。

報道があった時にすぐに本当のことが言えず、

迷惑をかけたことを深く反省しています。
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2007年3月14日(水) 北越戊辰戦争
いま「北越戊辰戦争」執筆の構想を練っている。

河井継之助中心の戦争から越後全体に視野を広げ、

この戦争はなんだったのかを考えたい。

8月25、26日に、

長岡市で戊辰戦争研究会長岡集会を

開くことも決まっており,新しい観点から

北越戊辰戦争に迫りたい。

会津藩が戦争に突入したことは誰が考えてもわかる。

だが長岡はなぜという疑問が残る。

なにも戦争などする必要はないのではないか。

そう友人の川島億二郎は河井をいさめた。しかし河井は

鼠輩のやつらに頭など下げられるか,とあくまで戦いを叫んだ。

鼠輩、そはい とは目の前をうろちょろする悪者どもである。

継之助にとっては、薩長は欲望丸出しの悪党どもであり、

正義の軍隊でも天皇の軍隊でもなかった。

会津や仙台、米沢と手を握り、薩長を打倒せんとした。

薩長のどこが嫌いだったのか。

思うに、彼らの独裁的、唯我独尊の行動だった。

奥羽、越後の家老はすべからく馬鹿家老という

思い上がった見方、態度が許せなかった。

武士の誇りが、継之助を戦場に向わせた。

男は戦わねばならぬときがある。

継之助はそう考えた。西郷や山県有朋が、河井と一度

話し合ってみようと考え、継之助と会談を持てば、

おそらく戦争は

なかったであろう。

これほど話合えば分かる男はいなかった。

話し合いもせずに、なぜこうも無差別攻撃しなければならなかったのか、

それが惜しまれてならない。

武士の一念、それが北越戊辰戦争だった。
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2007年3月13日(火) 春の大雪で大渋滞
もう降らないと思っていたら大雪、車はスリップ、朝は大変だった。

問題は原稿である。

昨夜、三修社に「白虎隊と二本松少年隊」の校正原稿を宅急便で送った。

作家にとって原稿は命である。いつもなら午前中に

原稿が着くはずである。着いたらすぐ電話があるのだが、

連絡がない。昼で出かけて午後3時に事務所に戻った。

そこに未到着のメールが入った。

「これは雪だ」

と思い宅急便の会社に電話した。都内には入っているという、

3時半、いま到着の電話があった。

やれやれである。原稿は初校、再校と精度を上げてゆく。

途中でなくなったら大変である。もちろんコピーをとって

バックアップはしている。しかし再校原稿には写真や地図が入っている。

着くまでは気がかりなものである。

さて夕方になってきた。

ちょっと休憩、コーヒータイムである。

夜は郡山自由大学の打ち合わせである。

4月から並木キャンパスを開く。北東文芸協会の

岡田君が並木キャンパスの常勤になり,運営に当たる、

私は月1回、

「星亮一の文章講座」

を担当する。第一火曜日、午後6時である。

教室は並木にある大志ゼミナールの校舎である。

うすいキャンパスは順調に推移しているが、

軌道に乗せるまでは大変である。

夜の講座なので、ビジネスマンが聴講してプラスになる内容が大事である。

私は人生をどう豊に生きるかをテーマに講義したい。

申し込みは024−935−5110

郡山自由大学並木キャンパス、

星亮一の文章講座掛
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2007年3月12日(月) 昭和天皇の肉声3
昭和19年夏以降になると、東京は連日,空爆にさらされる。

7月3日,高松宮と昭和天皇が,激しく議論したしたことが記されている。

高松宮は海軍に籍があり,連合艦隊は壊滅したという認識をもっていた。

戦争終結について激しく天皇に迫ったのではないかと見られた。

小倉侍従の推察だと、昭和天皇は、まだ望みをつないでいた。

10月18日には台湾沖で,空母10隻撃沈、3隻撃破炎上と発表され、

昭和天皇は大いに喜んだ。朝日新聞が大々的に報道した。

これもニセの発表だった。米空母13隻は健在で

1隻も沈んではいなかった。

神風特攻隊が宣伝され、昭和天皇は靖国神社に参拝した。

昭和20年,東京空襲は一層ひどくなった。

正月元旦。

昭和天皇夫妻は米軍機が飛来したため地下室に避難した。

3月16日、硫黄島玉砕、

4月1日、米軍、沖縄に上陸、

5月25日、米軍機250機来襲,御所も炎上、

6月23日、昭和天皇は戦争終結の研究を命じた。

8月14日、昭和天皇はポッダム宣言受諾を表明され、

終戦に向って歩み始めた。

「各員皆慟哭,ここに受諾に一決せる由、まったく御聖断によるもの」

と侍従日記にある。

昭和天皇が果たした役割は大きかった。
  
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2007年3月11日(日) 昭和天皇の肉声2
ミッドウエー海戦について考察したい。

東京空襲の驚いた山本五十六は、米機動部隊との決戦をもくろんだ。

それがミッドウエー海戦である。

ミッドウエーに進出した連合艦隊の機動部隊は、敵を探索したが、

空母部隊は見当たらない。そこで積んでいた魚雷をはずし、

爆弾に切り替えて

ミッドウエー島の米陸上基地を爆撃した。

第二次攻撃隊を発進させる直前に、敵空母部隊を発見した。

この時取るべき作戦は即、攻撃機を敵空母部隊にむかわせることだった。

しかし南雲機動部隊がとった行動は違っていた。

戦闘機に積んだ爆弾を魚雷に積み替えるよう命じた。

空母の攻撃は魚雷でなければならないという、

石頭的発想である。緊急事態である。爆弾でもかまわないのだ。

ここで1時間以上のロスをした。そこへ米軍の艦載機が襲来し、

日本海軍が誇る先闘型空母を4隻もうしなった。

大惨敗だった、

翌日の侍従長の日記にはどうあったか。

昭和17年6月7日

昨日辺より,御気色,少しく御不良に拝す,海軍の戦果につきてには

あらざるかと推せらる、

とあった。

海軍の戦果とはミッドウエーの惨敗である。

しかもこの時、昭和天皇に報告されたのは、空母2隻損害だった。

2隻でも昭和天皇は,非常に不快だった。

2隻、ごまかしていたのである。

もし全滅を知っていたら,戦争は止めなさいと一喝したかも知れなかった。

それだけではない。翌日の侍従長の日記を見ると、

海軍は敵空母4隻撃沈と報告していた。

天皇はことのほかお喜びになり、歌を詠もうとされた、

すると,これは極秘事項なので、詠まれない方がいいと止めていた、

なにをかいわんやである、

こちらが損害を与えた空母はたったの1隻だった。

昭和天皇もだまされていたのである。これでは正常な判断は出来ない。

こうして日本はずるずると負け、最後は原爆を食ってしまう。

日本軍は負けるべきして敗れた。

その印象が強い。

情報公開がいかに大事かである。
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2007年3月10日(土) 昭和天皇の肉声
今日発売の文芸春秋の特集です。

これから書店に出かけ、本を求めた。

衝撃の新発見、「小倉侍従日記」昭和天皇戦時下の肉声

文芸春秋の表紙は実にセンセーショナルだった。

昭和天皇の肉声は必ずしもはじめてではない。

「昭和天皇独白録」とか「木戸幸一日記」

などいくつかあるので、ビックリ仰天というほどではないが、

天皇のナマの声が忠実に収録されている点では、際立って資料的価値は高い。

私が最初に注目したのはシナ事変である。当時の日本人は

中国をひどく蔑視していた。当然、軍隊も弱いと見ていた。

ところがである。蒋介石はドイツ陸軍に援助を求め

ドイツから指導教官を招き、武器弾薬を輸入し、

日本軍Jに対抗した。甘く見た日本軍は突撃して、ドイツ製の機関銃で、

壊滅的な損害を出し続けた。

昭和天皇はそのことを知っていた。

昭和15年10月、昭和天皇はこう述べた。

「シナが案外に強く、事変の見透史は、皆が誤り、特に専門の

陸軍すら観測を誤れリ。それが今日M各方面に響いている

との仰せあり」

これきわめて重大な発言だった。当時の日本の最大の課題は

中国とどう和解するかだった。米国は満州のみならず全中国からの

日本軍のい撤退を求めていた。これをどう解決するか。

陸軍は武力による制圧をかかげた。司会いくら攻めても中国は

降伏しなかった、日本軍は泥沼に追い込まれた。

昭和天皇の声を政冶に反映させ、打開の道を探るべきいだった。

結果として天皇の声は封印されてしまった。

以下、続く
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2007年3月9日(金) 首都決戦
午前中に書いた阿部次郎賞は、後日にして首都決戦である。

前宮城県知事浅野氏は、なぜ立候補したのか。

差別発言、都政の私物化、側近政治、恐怖政治のような教育現場など、

石原都政の問題点の変革を願うメールや意見に接するうちに

、立ち上がらなければと思うようになったと記者会見で表明した。

いま河北新報と東京新聞で合同取材を

行ない、二つの新聞に首都決戦が報じられている。

今朝の新聞は、「地方軽視の東京に反旗」である。

総額2億4千万円の海外主出張、高級料亭での接待

4男の都政関与、石原都知事に対する浅野さんの批判が載っていた。

一体、都民はどう考えているのか、

大変、注目される知事選挙である。

オリンピックも争点である。

浅野氏は、石原氏の“三選の目玉”とされる

二〇一六年夏季五輪の招致活動について

「都政の課題の中で真に優先すべきか考え直す必要がある」と述べ、

計画の是非を慎重に見極める姿勢を示している。

 宮城県知事時代に推進した情報公開に関しては

「政策立案の過程も外から見えるようにする」と言及、

都民の目による監視の制度化を提言した。

 浅野氏は政党の推薦は受けないが、

すでに民主党が支援を決めている。

一方、自民党は石原氏支援を表明している。

論客として石原さんはすばらしい。

こういう人が日本には必要である。

だが都知事である必要があるのか、むしろ国会議員ではないのか、

あるいは在野の国際的論客。

そんな風にも思える。

以下、後日に記述。


さて昨日の戊辰戦争研究に必要な読書についての反応があった。

林さんのメールである。

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自然科学では著者の思想よりも読み手の受け止め方が

強く作用すると思うのです。

一方、歴史学では書き手の思想がモロ影響し、

読み手の受け止め方で更に変質する、

という2重の偏りが生ずる可能性があると思うのです。

従って、紹介してた本が偏らない様、

多岐な本の紹介にならざるを得ないのでしょうね。

それにしてもボーダイな文献です・・・、

冥土まで宿題をしょって行こう、冥土の路銀には成りそうだ。

エンタの神様風〆、『紹介された本をサッサと読むか、

発刊予定の戊辰戦争事典を待つかは、自由だ〜っ』

でも、先ずは、星先生の本から”眼光紙背”!

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とあった。

戊辰戦争事典、これは時間がかかる。

自前での勉学、期待である。

首都決戦、ときどき考察したい。
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2007年3月8日(木) 明治維新の光と影
ズバリ(アンチョコ的)『明治革命の光と影』風の文献は有りませんでしょうか・・・・?

というご質問がありました。

この問題に関する手ごろな参考文献をご紹介します。

がしかし、最初にお断りしますが、アンチョコはありません。

膨大な分野に及ぶ問題ですから、

系統だてて読書をする必要があります。

モットもいいのは中公新書です。

ここのは西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、大村益次郎、高杉晋作、

坂本竜馬ら勝者の伝記が並んでいます。

彼らがどのような過程で勝者の道を歩んだのか。

十分な理解が得られると思います。

敗者サイドの人間としては徳川慶喜、勝海舟、近藤勇ら新撰組、

会津藩関連の本が数点あります。

これも読むことでしょう。会津藩の「ある明治人の記録」は必読です。

私の「奥羽越列藩同盟」「会津落城」も加えてください。

問題はそこから明治維新をどう構築していくかです。

日本近代史の私の師匠は石井孝です。激しい研究者であり、

かつ辛らつな批評家でした。

石井教授の「明治維新の国際的環境」「戊辰戦争論」は

お薦めです。前者は古書店で求めるといいでしょう。

値段は高いかもしれません。

最初に気をつけることは明治維新は必要だったという政治的判断で

制作された本がかなりあるという事実です。これを見分ける

事が大事です。

歴史を学ぶとことは、いかに客観的、冷静に、その時代や人物を

見つめるかです。初期の段階ではこれが大事です。

少し専門的になりますが、吉川弘文館からは、

「明治維新の再発見」「維新政権」「明治天皇と政治家群像」

「それぞれの明治維新」「明治維新と長州藩」

など無数に出ています。

県史、市町村史も必要に応じて目を通したいですね。

あとは自分の史観の確立です。

まずは中公新書からはいる。これが1番いいですね。
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2007年3月7日(水) 松坂は凄いなあ
小生は野球大好き人間です。

昨今のニュース、大リーグ松坂に尽きる、

堂々としている。笑顔も絶やさない。

日本人としての誇りもある。テレビを見るのが実に楽しみである。

今日の日刊スポーツ

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マツザカはジャイロボールを投げた」

3月7日11時39分配信


<マーリンズ6−14レッドソックス>

◇6日(日本時間7日)◇フロリダ州ジュピター
 松坂と初対戦したマーリンズの4番、

ジェイソン・ストークス内野手(25)が、

魔球「ジャイロボール」の存在を認めた。
 
空振り三振を喫したが「1球だけジャイロボールを投げた」

と米メディアで噂になっている魔球

(高速スライダーかカットボールと思われる)の存在を証言した。

 同じく空振り三振のミゲル・オリボ捕手(28)は

「スライダーがいい曲がりだった。見えなかった」と脱帽。

ハンリー・ラミレス内野手(23)は「信じられない投手だ。

彼がア・リーグで良かったよ」と苦笑いを浮かべていた。

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大変な評判である。日本人もインターナショナルになってきた。

頼もしい限りである。
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2007年3月6日(火) 河井継之助
なぜ今、河井なのか。

実は戊辰戦争研究会の長岡集会が決まったためである。

8月25、26日である。

25日は長岡の方々にもおいでをいただき、研究発表、討論会を開く、

翌日は史跡めぐりである。

河井継之助がなぜ戦ったのか、一言で言うのは困難である。

日本列島全体で見ると、大勢は薩長に決していた。

江戸は無血開城し、占領されてしまった。

「もはや抵抗しても勝ち目はない」

長岡藩校崇徳館の教授たちは、恭順を藩侯に上申した。

「ならぬ、なにを考えているか」

と一喝したのが、江戸から帰った河井継之助である。

恭順論は吹き飛んだ。だが河井はじっとして動かない。

薩長軍はこの間に小千谷を占領してしまった、これが命とりになる。

なぜ、河井は動かなかったのか、

戦争は総力戦である。

少なくとも藩士の大多数の賛意がなければ戦えない。

もうひとつ、大義名分が必要だった。

長岡藩の立場は、なにが何でも戦わなければならない

というわけではない。

そこで河井は逆に薩長軍に下駄を預けた。

小千谷に乗り込み、敵の参謀と対決した、会談は屈辱的なものだった。

一方的に軍門にくだることを求められた河井はついに

立ち上がった。結果は、歴史に残る大戦争となった。

河井をどう評価するか、

戊辰戦争研究会の長岡集会、大変、楽しみである。
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2007年3月5日(月) 中国の防衛費凄い
今日にニュースはこれだ。

5日、発表された中国の国防費は、5兆3千300億円、

推定1220億ドル。日本をはるかに越し、

アメリカに迫った。原子力潜水艦を持ち、空母の建造計画もある。

途轍もない軍事大国がアジアに出現したのだ。

このままでいったら日本は中国に支配されかない。

冗談じゃない、日本の独立と防衛は絶対に守らなければならない。

日本はこれまで軍事問題をタブー化してきた。

もうそういう時代ではない。

中国の原子力潜水艦にすべて監視され、あれこれ文句をつけられる

のはごめんである。

参考、

主要国の国防費、陸軍兵力
  国防費(防衛費) 陸軍(地上軍、陸自)

米国 4,605億ドル 50万人

英国 490億ドル 12万人

ドイツ 297億ドル 19万人

カナダ 101億ドル 2万人

フランス 400億ドル 14万人

オーストラリア 117億ドル 3万人

シア 652億ドル 36万人

中国 250億ドル 160万人

韓国 164億ドル 56万人

日本 403億ドル 15万人
※防衛年鑑(05年版)などから作成

これを見ると国防費はアメリカだダントツである。フランスとほぼ同じである。

続く
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2007年3月4日(日) 今日は山本五十六の原稿整理
PHP文庫から出す「山本五十六と山口多聞」の

再校は明日が期限である。

今日、最終チェックして夜の宅急便で東京に送る。

印刷工程作業はきちんと決まっているので、

日程は厳守しなければならない。

それはライターが守るべきルールである。

ところが夕方になって重大事態が起こった。

数枚ほど写真が見当たらない。結局、宅急便は明日になってしまった。

午前中、大見得を切ったことが悔やまれる。

人生、断言はいけない。ああああ、

ごめんなさいである。

さて山本五十六である。

太平洋戦争中、アメリカでもっとも有名な日本人は

山本五十六だった。ハワイ攻撃はそれだけ衝撃的だったのだろう。

それは、それとして

連合艦隊司令長官、山本五十六をどう評価するかである。

ハワイ攻撃は軍人としてみた場合、完璧だった。

空母を取り逃がしたり、燃料タンクを爆破しなかったなど

若干の問題点はあったが、文句のつけようがない勝利だった。

問題はミッドウエー海戦である。大失敗の原因は

山本のあいまいな指示にあった。

現場に任せすぎた感がある。敵空母部隊の電波を傍受しながら

機動部隊に伝えなかった。

南雲司令官の判断ミスは大きいが、連合艦隊の

作戦に甘さがあった。

しかも惨敗の責任を不明確にし、封印してしまった。

これは山本もミスであろう。

それを一番よく知っていたのは山本自身であり、

それゆえに、山本は戦場に出かけ、自ら戦死を望んだのではないか。

私はそんな解釈を今回、行なった。

午後、新潟県阿賀野市の長谷川孝治さんから下記のメールが入った。


星亮一さま
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長らくご無沙汰しております。日ごろのご活躍をお慶び申し上げます。

旧安田町、そして旧水原町でご講演をいただき、

今度は阿賀野市で計画できればなどと思ったりしています。

 昨日、先生の「平太の戊辰戦争」を携えて、

新津在住の3名の歴史家が、我が家を訪問して、

しばし、戊辰談義に花が咲きました。

その際に、小松陣屋の話がでましたが、その場所が特定できず、

小松陣屋は「あった」「なかった」で、地元の人々も両論といった現状です。

その時に来訪者の一人が、先生の著書「平太の戊辰戦争」

42ページに「……最初は当時蒲原郡の小松村(安田町)、

ついで福岡村(水原町)に移り、……」と載っているとのこと。

確かに載っていましたので、小松陣屋の詳細についてご存じでしたら、

ご教示賜りたいのですが、また、文献等があれば、

ぜひ、ご紹介いただきたく存じます。

 昨今、幕末をはなれて、三川・岩谷の斎藤さんの宿願であった

「余五将軍・平維茂」について、水原・斎藤勇氏が執筆し、

私がPC入力・印刷の自家製資料本(約100部くらいとか)

に取り組んでいます。

完成を一番喜んで頂けるのは斎藤さんではないかと思っています。

また、昨年末には、「前原一誠」の越後の軌跡を訪ねて、

下関(赤間神宮権禰宜ご夫婦他)から来越され、

渡辺氏と地元3名の6名で、これまた歴史談義に花が咲きました。

その後、松陰神社にて「前原一誠萩の変百三十年祭」が

行されるとのことで、私が会津若松市長に手紙を書き送り、

会津士魂を理解し、心開いた前原一誠の人となりについて触れ、

祭文の一句でもとお願いしましたが、

「……市民感情が今まだその期になく、申し訳ないがお許しいただきたい……」

とのことでした。これまでの歴史に学べばさもあらんことですが、

残念な結果でした。これからも会津弔霊義会の佐藤潤氏らを通じて

少しでも前進できればと考えております。

 突然にメール便にて、甚だ礼を失しておりますが、

「小松陣屋」について、

聊かなりともご教示賜わりますようお願い致します。

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懐かしいお便りです。

またお会いしたいですね。

小松陣屋がどこか、うううん、これは分かりません、

一緒に考えましょう。

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と返信した。

なぜか新潟県に縁のある日曜日だった。
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2007年3月3日(土) 今日はNHK講座、満州
午後1時から講座、午前中は超多忙、

今日使うテキスト、満州歴史街道、光人社、注文が遅れて

午前中に着く。それから「白虎隊と二本松少年隊」三修社の

再校も午前中に着く、それを確認して、NHKに走る。

今日はプロジェクターを使うので、パソコンと一緒に

持参する。

凄く天気がいいので、気分もさわやかである。

時には多忙も必要である。緊張感があっていい。

昼食は時間がないので、コンビニのおにぎりである。

こういうときは夜食べるしかない。

NHKに入ると、遠藤由紀子君から連絡が入り、

大学で博士号授与の発表があり、結果は合格だったという。

論文のタイトルは

「近代開拓村における帰属意識の変遷に関する研究、
−旧会津藩士および屯田兵と神社の関係からー」

あの若さで博士号取得、まずはおめでとう。

これを本にすることも進行しており、大いに期待される。

講座は2時半までびっしりあり、少し疲れた。

3人の方から質問があり、それなりに活発な講義だった。

4月からは関東戊辰戦争である。

上野のお江戸探訪も宣伝しておいた。

夕方は事務所開きがあって福島市に出かける。

原稿が書けない1日である。
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2007年3月2日(金) 郡山自由大学、2期目に入る
4月講座から郡山自由大学は2期目に入る。

うすいキャンパスの講座は一段と多彩になる。

さらに並木キャンパスも開設する。

広げすぎると問題も多々出てくる。

内容が低下しては困る。社会のニーズにあうように

こまやかな配慮が必要である。

現在、決まったうすいキャンパスの講師は硫黄島で戦った少年兵、

秋葉鶴次さん、文春新書はベストセラーである。

日本中世史の権威東北芸術工科大学の入間田宣夫さん、

白虎隊記念館の早川館長、

福島大学の白石豊教授、

わたくしは、4月23日に講座を担当する。

演題は、「奥羽越列藩同盟参謀玉虫左太夫の生涯」

戊辰戦争研究会で復権を目ざしている人物である。

通訳のトーマ菜美さんの「トーマ菜美の初級英会話」も始まる。

トーマさんは24日である。

多彩な講座である。

4月29日、日曜日、ゴールデンウイークには

郡山自由大学初の課外講座、

戊辰戦争白河の旅を実施する。

郡山からバスを仕立て出かける。20人定員。

昼食は白河そば、楽しみである。料金は目下、見積もりを取っている。

料金はできるだけ安く押さえたい。

申し込みは八重洲ブックセンター郡山うすい店

024−927−1524

あるいは

星亮一事務所へ

024−933−5020
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2007年3月1日(木) 戊辰戦争研究会、東京で歴史探索
わたくしが代表を務める戊辰戦争研究会、東京支部が誕生し、

上野周辺で歴史探訪を行なうことになりました。

これは大変なことです。

戊辰戦争の時、奥羽越列藩同盟は、白河の関を越える

ことは出来ませんでした。

先日、宮城県白石で集会を開き、奥羽越列藩同盟参謀の

玉虫左太夫の復権を活動の目標のひとつにかかげましたが、

今回、東京に進出することで、戊辰戦争研究会も、

大きく一歩、踏み出すわけです。これを機会に仲間を増やしたい

と思います。

同好の志よ、きたれです。



◎東京支部からのお知らせ◎

 来る、2007年6月3日(日曜日)に
日帰りの 江戸史跡巡りを含めた 会員懇親会を開催いたします。
 
 この集まりは、長岡集結前の 会合、会議も含め
 登録未参加の 首都圏近郊会員、また全支部会員の 
気さくな交流を目的としています。

 研究発表、講演等は有りません。散策後に、
飲食店での懇親会で星代表のお話を頂きたいと思います。

 またこの集結では、一般参加の方も受け付けます。
 戊辰戦争に興味のある方
 また歴史自体に興味のある方
 
会の事務局まで御連絡下さい。入会の強要はありません。一緒に江戸を散策
しませんか?

 会員、一般とも参加お待ちしています。

 (概要)
 (日時)・6月3日(日)
     13時集合20時解散予定。
 
(集解散場所)・JR上野駅 不忍池口
(散策コ-ス)
  上野恩賜公園 寛永寺・上野東照宮
  皇居東御苑・江戸城散策
  靖国神社
 {上野〜東京間電車移動です。)

 (懇親会場所)
   未定
 (予算)
  懇親会4000円以内
 (注意事項)
  比較的動きやすい服装、靴で(歩きます)
  天候変化の場合の雨具
  遠方から御越しの方で宿泊される方は
  各自で宿泊場所確保願います。

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一般の参加希望者は、
戊辰戦争研究会事務局 nakamura-toh8@hotmail.co.jp
にご連絡ください。

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クラインガルデンの反応

郡山市N・T
クラインガルデン。
どこかの学校が買い取って「食育」などに利用することができたら面白いだ
ろうな、と思います。人間は永劫回帰、土と共に暮らす生活に立ち戻る機会
が必要であり、そうすることで言葉や形にはできない、人間であるために必
要な要素を再認識できるのではないかと思います。
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