星亮一 今日の一言

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2003年12月31日(水) 北斗新聞
会津藩VS長州藩
を書いていますが、
そのなかに会津藩士北村渉が登場します。
長州藩の藩校は明倫館、
会津藩の藩校は日新館ですが、
その歴史をまとめたのが、北村でした。
北村は会津落城後、下北半島に移住
青森県の県紙東奥日報の前身である
北斗新聞の編集長や青森新聞の社長を務めました。
『東奥日報百年史』
に詳細な記述がありますが、
北斗新聞は明治10年の創刊、
経営は苦しく、二年ほどで廃刊になり
それから青森新聞、青森新報と名前を変えるのですが、
なかなか軌道にはのりませんでした。

東奥日報の創刊は明治21年です。
そこには北村の名前はありませんでした。

北村は東京に出たようで
晩年、精魂込めて書いたのが
『会津藩教育考』でした。

会津藩からは明治以降、多くの人材が生れましたが
青森の新聞界の草分け
北村渉もその一人でした。

この項目
東奥日報社総務部長の
鎌田さんのご協力を頂きました、
△top
2003年12月30日(火) 斎藤清の旧宅
今朝の読売新聞福島県版に
鎌倉にあった版画家斎藤清の旧宅が
売りに出されたと報じました。
私は数回、ここにおじゃまをしたことがあり、
懐かしいお宅でした。
斎藤清は晩年、会津に帰り柳津に住みました。
鎌倉の旧宅は78年に鎌倉の長谷に建てた洋風建築で、
山が背後にあり、緑に囲まれた
住まいでした。
ここで斎藤は
「会津の冬」
など数々の作品を制作しました。
「おれはなあ、戦いの連続だったよ、会津の奥からでてきたおれは、長い間、相手にされなかったよ。負けるものかと頑張ったよ」
斎藤は何度も同じことをいったものでした。

旧宅は土地付きで4000万円、会津の田園風景の絵が1点付くそうです。
△top
2003年12月29日(月) バカの壁
連日、凄い新聞広告です。
なぜ松井選手が凄いかがわかりました。
なぜイラクとアメリカが分かりあえないかがわかりました。
なぜ日本がおかしくなったのかがわかりました。
なぜわからないかがわリました。

何でもわかってしまう本なのです。
そのコピーでいえば
私の新書シリーズも
幕末維新に関してなんでもわかる本です。

なぜ会津が戦ったかがわかりました。
なぜ会津と長州のなかが悪いかがわかりました。
会津の篭城戦がいかにひどかったかがわかりました。

なぜ幕府が崩壊したかがわかりました。
東北、越後の侍たちの気持ちがわかりました。

となるでしょう。
最新作
『会津落城』(中公新書) 

これまで発刊した
『敗者の維新史』
『奥羽越列藩同盟』
『幕末の会津藩』(以上中公新書)
『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書)
『白虎隊と会津武士道』(平凡社新書)
『会津藩はなぜ朝敵か』(ベスト新書 )
『幕臣たちの誤算』(青春出版社新書)
と、
2月刊行
『新選組と会津藩』(平凡社新書)
をよろしくお願い致します。
△top
2003年12月28日(日) 暮れ正月
どこも休みに入り、いたるところ静かになりました。
私は
『新選組と会津藩』の校正が入り、寝正月ではなく、
リズムのある正月を過ごせそうで
よかったと思っています。
新選組
テレビの放送も始まり、
私の本は出遅れの感もあリますが、
タイトルが他の本と異なるので
そこそこ読んでいただけるのではないかと思っています。

何度か申しあげましたが
新選組は
会津藩の傭兵部隊でした。

京都守護職御預
会津新選組隊長
近藤勇

近藤はそう書いて、使命感に燃えておりました。

歴史は立場によってまるで違うものです。
長州から見た新選組
会津から見た新選組

これが違うのは当然ですが、
どこがどう違うのか
そこをずばり書いています。
△top
2003年12月27日(土) 吉田松陰
会津藩VS長州藩
の執筆に入っています。

その導入部に欠かせない人物、
それが吉田松陰です。

日本にアメリカの黒船がきたとき、
日本は大混乱に陥ります。
日本には満足な大砲もない。
むろん軍艦もない。
どうするか、
いかにして追い払うか
戦々恐々だったのです。

長州藩の軍学者吉田松陰は、考えたのです。
あの巨大な軍艦を作ったアメリカという国を見たい、
しかし日本は鎖国を敷いており、アメリカに行くことはできない、
密航するしかない。
そう考えた松陰は
アメリカの軍艦に向かい、
アメリカにつれて行ってくれと、申し出るのですが、
拒否され、国禁を犯した罪で、断罪に処せられるのです。

もう少し待てば
日本もアメリカと通商条約を結び
勝海舟、福沢諭吉らのようにアメリカにいけたかもしれませんでした。

先覚者の悲劇です。
しかし松陰のその精神が長州藩の若者に受け継がれ
明治維新を成し遂げたともいえるわけです。

会津藩VS長州藩
多角的に考察しています。
△top
2003年12月26日(金) 裏切り
戊辰戦争に取り組んでいると、いたるところで裏切りにぶつかリます。
長岡の人は新発田を裏切りといい、二本松の人は三春を裏切り者と非難し、
仙台は秋田を裏切り者といっいました。
多分に過去の話ですが、今日まで引きずっていることは事実です。

越後に出兵していた会津の兵士は、新発田が列藩同盟を離脱し、突如、敵に回ったため
散々な目にあっています。
これまで友軍だった新発田の兵士が、銃撃してきたのだから
たまったものではありません。
多くの犠牲をだしました。

会津に言わせれば
これは裏切りでした、
新発田に言わせてば
自国を守るための政策転換ということでしょう。
言い分はどちらにも
あるわけです。

しかし
日本人の歴史観には
どうも裏切りはマイナスのイメージになっています。

新潟の作家の中島欣也さんの作品に、新発田藩の裏切りを扱った
『裏切り』
があります。

思い切った題材です。
このなかで中島さんは
[裏切りには理由があり、自分をその場に置けば
いかにつらい決断だったかが分かるはずだ]
とおしゃっていました。

難しい問題ですね。
しかし
同盟を離脱することは
同盟サイドから言わせれば
裏切りであり、
それもまた事実なのです。

歴史か逃げることはできません。
裏切りは裏切り
信念を持って裏切ったのなら、
それはそれでいいのではないでしょうか。
△top
2003年12月25日(木) 北朝鮮の欺瞞
今朝の新聞によりますと、自民党の平沢議員らが北京で北の高官に会い、
拉致問題を協議したというのです。
北側は蓮池さんらが、ピヨンヤンまでくれば、
家族を返すといったというのです。
冗談じゃない。
さっさと返すべきだというのが、
日本人の心情でしょう。

これで日本人の反北朝鮮の感情は倍加されたと思います。
何の保障もない話に乗れますかというところでしょう。

1日も早く経済制裁に踏み切るべきです。
北に対して日本人は、
毅然たる態度を見せなければなりません。

なぜここまで北朝鮮に甘い顔を見せてきたのか。
自民党の一部、
社民党の土井さん
懺悔が必要ですね。

共同通信

被害者の平壌出迎えが条件 北朝鮮が日本側に提案

 日本人拉致被害者の家族帰国問題で北朝鮮当局が、日本にいる拉致被害者が平壌空港まで出迎えに来ることを条件に、家族を日本側に帰国させるとした提案を用意していることが24日、分かった。複数の与野党関係筋が明らかにした。
 関係筋によると、北朝鮮の政府高官は20、21の両日、北京で超党派の拉致救出議員連盟の平沢勝栄衆院議員(自民)らと会談し、この提案を示した。同高官は、昨年10月に行われた日朝国交正常化交渉の鄭泰和・同交渉担当大使とみられる。
 日本政府にはまだ正式な打診はなく、今後北朝鮮がこの案を日朝政府間交渉のテーブルにのせるかどうかが、大きな焦点になりそうだ。
 提案は(1)日本側が蓮池薫さんら帰国した拉致被害者を平壌空港まで連れて来る(2)北朝鮮側がこれに合わせ、被害者家族を空港で待機させる(3)被害者は入国手続きを取らない段階で家族と面会した上で、帰国する−などの内容。(共同通信)
[12月25日2時1分更新]


読売新聞

平沢議員ら、北京で北朝鮮高官と接触

 自民党の平沢勝栄衆院議員は24日、読売新聞の取材に応じ、今月20、21の両日、中国国内で北朝鮮の政府高官と接触したことを明らかにした。

 平沢氏によると、日本側からは民主党の松原仁衆院議員、北朝鮮による拉致被害者の支援組織「救う会」全国協議会のメンバーらが参加。北朝鮮側は「政府高官」ら5人が出席したという。

 平沢氏らは、〈1〉拉致問題の解決は非政府間機関(NGO)ではなく、外務省を通じた正規の外交ルートで行う〈2〉拉致被害者5人の家族の早期帰国を実現する――などを要請した。これに対し、北朝鮮側からは明確な回答はなかったという。関係者によると会談場所は北京で、北朝鮮側は、被害者家族の帰国条件を提示したという。

 これに関連して外務省の高島肇久外務報道官は24日の記者会見で、「事後に、そういうことがあったということは聞いている」としたうえで、「北朝鮮が話し合いをしたいという意思を示してくれるのであれば、話し合いをしたい。ボールは向こう(北朝鮮側)に行っているという認識だ」と述べた。(読売新聞)
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2003年12月24日(水) 大西郷全集
神田の古書店で求めたのは「大西郷全集」全3巻でした。
大正15年、平凡社から発行されたこの全集は、島津家、西郷家、大久保家をはじめ
全国から集めた三百余通の書簡を吟味して編集した西郷研究には欠かせない史料です。
これで西郷の心を読み取ることができ、
厚みのある西郷論が書けそうです。
人物を論じる場合、
どれくらい
史料を集め
読みこなしたかにかかってきます。

残念ながら
会津の侍たちの書簡は散逸してしまい
見つかっておりません。
どこかに絶対あるはずです。

たとえば
越前福井家、
幕府の史料
土佐の山内家
このあたりにないものでしょうか。
会津の侍が何を考えていたのか
知りたいのです。
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2003年12月23日(火) 今日は東京
今書いている「幕末の雄藩」薩摩、長州、会津に関する文献の調査と、日大大学院の中国事情研究会の例会に出るため東京です。
11時の電車で出かけ、神田の古書店を回り、市ヶ谷の日大本部に向かい、研究会に出席した後
忘年会です。
帰理は東京駅夜八時ぐらいの電車です。
東京に泊まることは
基本的にはありません。
どんな本が手に入るか
それも楽しみです。
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2003年12月22日(月) 河北新報と山川健次郎
今朝の河北新報読書文化欄に『山川健次郎伝』(平凡社)が大きく取り上げられました。
河北新報では、二つの点を強調しておりました。
一つは健次郎威が物理学を選んだ理由です。 
「会津が負けたのは科学に対する認識が浅かったからではないか」
健次郎はこのように後年、述べておりました。
その部分を取り上げてくれたことです。
私としてはこの部分に力をいれて書いたつもりでした。
しかしあまり注目されませんでした。
これを取り上げてもらい
嬉しく思いました。

二つめは、明治天皇が乗る予定だったお召し列車が、門司駅構内で脱線した問題です。
このとき健次郎は九州にいました。
世論は厳しく駅関係者を非難しました。
このため駅員は自殺に追い込まれたのです。
健次郎は駅員をかばいました。
「錦の御旗を掲げれば何でも正義と言うのはおかしい」
と批判したのです。

戊辰戦争のとき、
官軍は天皇の名前で東北に攻め込み、
悲惨な会津戦争を引き起こしました。
安易に天皇の名前を使うべからず、
これが健次郎の考えでした。

河北新報は、薩長政府が東北を白河以北一山百文
と呼んで蔑視したことに対する抵抗の姿勢を社是にかかげています。

山川健次郎の生涯もまさにそのことに対する抵抗でした。
東北が生んだ思想家としてみていただき感謝しております。
△top
2003年12月21日(日) 白雪の安達太良山
仕事場から白雪の安達太良山を眺めています。
本来なら日野に出かけて新撰組の史跡を見ているはずでした。
10時集合なので、ちょうどいまその時間です。
腰は、相変わらず痛みがあります。
時期も悪く、長引きそうです。

今朝の新聞は、なんでしょうか、
リビアの核開発放棄でしょう。
フセインが逮捕されて、リビアのカダフィ大佐も観念したのでしょう。
利口ですね。

残るは隣の方です。
日本も厳しい経済制裁を早く課して、
拉致問題を1日も早く解決すべきです。

朝のテレビを見ていると、民主党の岡田幹事長、
イラク派兵反対、小泉内閣打倒を叫んでいますが、
すベて具体的な対案なし、
反対のための反対は土井さんの再来ですね。
イラクに出かけるとか、
行動でしめしてほしいですね。

さて
歴史です。
目下

『幕末の雄藩』
  薩摩、長州、会津
を書いています。
何はともあれ、この三藩が京都で
ときには手を握り、ときには戦い、明治維新が形成されたのです。

三藩の相克のなかから明治維新が完成したのです。
そういう考えで書いています。
△top
2003年12月20日(土) 新撰組あれこれ
私の周辺の方は、新撰組で多忙です。
雑誌、新聞、単行本、仕事に追われ、
大変です。
売れに売れている人も大勢います。

皆さん、20代、30代の若手も多く、
熱のこもった文章を書いています。
それを読むのは楽しいものです。

私は独自の世界を行くというか、
ひと味違った新撰組を書いています。
文章を書く人間はいくつかのタイプに分かれます。
若い頃から小説家を目指した人間は
新撰組にロマンを求めるようです。

私のように国史というやや古めかしい世界で歴史を
学んだ人間は、史実はどうかということを、どうしても考えてしまい、
また学んだ時期が、史的唯物論の全盛期だったこともあり、
ただ手放しでロマンにひたれない性癖があります。

だから歴史家の新撰組論は
どなたも辛口です。
奈良本達也は、歴史のあだ花と呼んではばかりません。
私はそれなりの必然性は認めているし、
あだ花と言うよりは、長州の奇兵隊の
幕府版なのかなと思ったりもしています。

今度のテレビが
どういう新撰組像を出すのか
それによってまた新しいイメージが作られるのでしょう。
テレビ
もうすぐですね。
△top
2003年12月19日(金) 新撰組と腰痛
私は昨日、21日の日野新撰組めぐりの世話役、伊藤さんに次ぎのメールを送りました。

>腰痛が思ったより悪く
>回復しそうもありません、
>今回はやむを得ず
>欠席させてください。
>どうにもなりません。

今朝、伊藤さんからメールが来ました。

 体の方が大事ですからご自愛ください。
私も数日前、足指骨折しましたから痛いです。
 日野はイベントが始まる前に最後のものとして
土方さん宅には今後、見ることは出来ないものが
展示され佐藤邸も資料館となるために中を公開中。
井上宅は日野市の友人のコネで蔵の中を見る予定
でした。 残念無念というところでしょうか。


なんと、よだれが流れるような企画ではございませんか。
ああ、行きたい
何とか腰痛
なおらないか、
これから整骨院に行こうと思います。
ただどういう状態かは
朝にならないと分からないので、
なんといえませんが
行きたいですねえ、

日ごろの健康管理の悪さが恨めしい。
△top
2003年12月18日(木) 腰痛、時期悪し
ストレッチとマアッサージをしていますが、簡単にはよくなりませんね。
寒さがきつくなり、いかにして悪くなるのを防ぐかです。

今日は
「新撰組と会津藩」
の講演です。

どうも慶応年間になると、
会津藩は新撰組をもてあましていたようです。
薩長同盟が結ばれてからは、新撰組の威力はがくんと減少してしまいました。
京都の薩摩藩邸は治外法権で、新撰組が手出しできる状態ではありませんでした。
もし薩摩藩といざこざを起こしたら
新撰組は京都から叩き出されていたでしょう。

この段階になると
新撰組は
会津藩にとってあまり必要のない存在になったのです。
そんなことをを話すつもりです。

さてイラクの自衛隊派遣で国論は揺れています。
自衛隊に被害者がでたらどうするか、
今朝の新聞に家族会が派遣に反対とでていましたが、これはおかしいですね。
危険がいやなら転職しかないでしょう。
自衛隊に入隊した限りは、危険なところにも行く覚悟が必要です。
そう思います。
△top
2003年12月17日(水) 腰痛で休暇、リハビリ
突然、ひどい腰痛になり、病院で治療、リハビリをしています。
少し、働き過ぎたかもしれません。
病院のベットに横たわり、
背骨の周辺のストレッチに励んでいます。
明日、講演会、日曜日は日野に出かけ新撰組の史蹟を回ります。
明日の正午までに
とりあえず直さなければなりません。
原因は老化現象と運動不足です。
△top
2003年12月16日(火) 中東問題座談会
今朝の読売新聞のイラクに関する座談会は、示唆に富んだものでした。
出席は軍事評論家の江畑謙介さん、拓殖大学教授の森本敏さん、アジア経済研究所の酒井啓子さん、
テレビによく出るおなじみの顔ぶれです
江畑さん
フセインが逃亡している間、イラク国民はフセイン政権の復活を懸念し、じっとしていた。これで精神的重圧から解放された。今後の戦争は特殊部隊の活躍が大きくなる。

森本さん
テロ攻撃は急には終わらないが、収束に向かうだろう。これからの二ヶ月が重要だ。

酒井さん
フセインは臆病だった。
われわれはそんなものじゃないという勢力が出てくるかもしれない。
米軍とも抗争は、強まるかもしれない。不平不満を除く施策が大事だ。

江畑さん
テロの実行犯への報酬は、参加報酬100ドル、成功報酬500ドルだった。
最近は参加報酬2000ドル、成功報酬5000ドルにあがっている。
警察官の月給は80から100ドル、
これではテロに走る。

タイムリーな座談会でした。
これからしばらくは目を離せません。
△top
2003年12月15日(月) フセイン元大統領
駅で読売新聞と福島民報の号外をもらい、フセインの拘束を読んでいます。
テレビとは違った迫力です。
小さな穴に隠れていたわけで、情けないの一言でした。
多額の懸賞金がついていたので、身内から売られたのでしょう。
フセインに比べたら戦国時代の日本の武将は立派ですね。
切腹で責任を取る、日本の武士道を教えてあげたいですね。
これで自衛隊も出やすくなりました。

昨日、イラク派遣に関するテレビ討論を見ていて感じたのですが、
北朝鮮が攻めてきたとき、誰が日本を守ってくれえるか、米軍しかいない。
日米安保条約を結んでいる限り、自衛隊の派遣が当然と、石破防衛庁長官が述べておりましたが、まったく同感です。
日本と米国の間には安全保障条約があるわけですから、フランスが反対しようが、ドイツがどういおうが、
日本はもっと早く自衛隊を派遣すべきだったのです。

民主党は反対していますが、
じゃ日米安保条約を破棄するのか。
そのあと、どうするのか
その回答がまったくないのです。
これでは
社民党と同じです。このままでは、民主党が政権をとることはないでしょう。
アメリカを非難する向きもありますが、
じゃ、いつまでもフセインの存在を許すのか、
民主党の歯切れの悪さには失望しました。


さて
私の山川健次郎
朝日新聞と読売新聞に書評が載ったことで、 
全国各地からメールをいただきました。
本当にありがとうございます。
これからも一生懸命に書き続けます。

参考

読売新聞ニュース

急襲に「撃つな、私は大統領サダム・フセインだ」

 泥やれんがで入り口を隠した、たこつぼのような穴の底に、ひげ面の男が潜んでいた。米兵に突然、発見されてうろたえ、「撃つな、私はイラク共和国大統領、サダム・フセインだ」と叫ぶ。13日夜、イラク中部の寒村アッドールで行われたフセイン元大統領の拘束作戦「レッド・ドーン(赤い夜明け)」は、米軍の周到、執拗(しつよう)な追跡の成果だった。(バグダッド 緒方 賢一)

 ◆短銃、75万ドルを所持◆

 元大統領の潜伏先に関する重要情報がイラク駐留米軍に届いたのは、13日午前10時50分(日本時間同日午後4時50分)ごろ。米軍が尋問した元大統領の遠い親族5―10人の1人から得られたものだった。


 塀に囲まれた農家で、居宅2つと羊の畜舎にはさまれる形で、レンガ造りの小屋があった。小屋の内部には小部屋が2つ。1つは寝室で、たくさんの衣服、靴下数足、サンダル数足が散乱。もう1つは粗末な台所で、水道が通っていた。敷地から林に逃げようとした男2人(のち元大統領の部下と判明)を拘束したものの、元大統領はいなかった。またも空振りだった。

 それでも米兵が執拗(しつよう)に付近の捜索を続けると、小屋から数メートル離れた屋外に泥やれんがで覆われた敷物があり、その下から発泡スチロール製のフタが見つかった。簡単に持ち上げられ、穴の底にフセイン元大統領が潜んでいた。オディエルノ米陸軍第4歩兵師団司令官によれば、元大統領は「非常にうろたえ、短銃を身につけていたが、抵抗しなかった」という。

 穴は非常に狭いもので、深さは1・8―2・5メートル。底はやや広く、ひと1人が横になれる広さで、地下で生活できるよう、通気管と扇風機が取り付けられていた。衛星携帯電話などの通信機器は一切なかった。

 さらなる捜索で、敷地内からカラシニコフ銃2丁、ピストル1丁、金属製のケースに入った75万米ドル(約8100万円)分の100ドル紙幣、白とオレンジ色のタクシー1台が押収された。

 ◆親族の情報が決め手◆

 元大統領は約1時間後の午後9時15分、ヘリコプターで南方の「安全な場所」に移送された。死傷者はなく、1発の弾丸も発射されなかった。元大統領は結局、親族のもたらした「決定的情報」(オディエルノ司令官)によって、拘束された。

 サンチェス・イラク駐留米軍司令官によれば、元大統領の健康状態は良好で、口数も多い。健康診断や移送では協力的だが、「疲れ、運命にあきらめの境地にいるようだ」という。袋に包まれたままの衣服から見て、「おそらく、短期間しかいなかったのではないか。(同様の潜伏先が)イラク全土に20―30か所あり、数か所を渡り歩いたのだろう」と述べた。

 アッドールは、元大統領の右腕と言われたイッザト・イブラヒム元革命指導評議会(RCC)副議長の故郷で、元大統領は旧フセイン政権残党の多い「スンニ派三角地帯」のうち、特に信頼できる人物のいる場所を渡り歩いていたとの見方が有力だ。同司令官は、元大統領の拘束時に護衛などがいなかったことについて「厳しい圧力にさらされていたため多くの取り巻きとともに移動することができず、警護する部隊もいなかった。彼には反撃する方法がなく、ただネズミのように捕まった」と話している。(読売新聞)
[12月15日14時20分更新]
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2003年12月14日(日) 朝日新聞、読売新聞読書欄
今朝の朝日新聞と読売新聞の読書欄に私の『山川健次郎伝』の書評が掲載されました。
快挙です。
朝日の書評は歌人の小高賢さん、読売新聞は今週の赤丸、片さんでした。


朝日新聞
戊辰戦争での会津藩の奮戦ぶりは、白虎隊などでよく知られている。しかし、維新後、賊軍の運命は悲惨であった。
下北半島に斗南藩三万石として再興された際の苦労は、石井真人編『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(中公新書)が伝えているが、白虎隊士であリながら身分、一命をとりとめ、東京帝国大学総長になった山川健次郎の存在はポピュラーではない。
田中館愛橘や長岡半太郎らを育て、日本物理学会を領導し、東京だけでなく、京都、九州の帝大
総長を歴任、多くの学校の創設や改革に携わる。しかし、そこに至るまでの敗者ゆえの苦難は想像を絶していた。
本書は会津の誇りと反骨精神を軸に、気骨ある明治人の足跡を辿る。
留学先でのエール大学での猛烈な勉強、研究者・教育者としての清廉潔白さ。いのちは自分だけのものでないことは、あの鶴ヶ城の戦闘から学んだのだろう。
維新をくぐり抜けた人間のスケールを感じさせた。
      小高賢(歌人)


読売新聞

日本の歴史のなかで最も劇的な場面は? と問われれば、迷わず会津戦争をあげる。
理由など述べる方がヤボと言うものだろう。
白虎隊士として篭城戦を戦い抜いた山川健次郎は戦後、宿敵・黒田清隆らの計らいで、米国に留学。物理学を修め、帰国後は田中館愛橘、長岡半太郎らの逸材を育てた。
晩年は東京帝大総長にまで上り詰めた教育界の重鎮だったが、その清廉潔白ぶりが随所につづられている。講演料は交通費以外、一切受けとらず、学生の健康管理には細心の注意を払った。
東宮御学問所評議員を拝命した場面は感動的だ。
「会津は朝敵ではないのだ」と言ってぼろぼろ涙を流す姿に胸が熱くなった。
山川を山川たらしめたのは、多くの同胞を失った会津戦争の悲しみであり、援助を受けた人々への恩義であった。
明治政府は薩長が作ったが、「近代日本」は会津がなければできなかった。本書を読んで、その思いを強くした。(平凡社、1800円)(片)

朝日と読売に同時に掲載され、もう感動です。
さらに意欲が湧いてきました。
この本を選んでくださった朝日新聞社と読売新聞社の読書欄担当の方、本を制作された平凡社に方々、最初に取り上げ、連載してくれた産経新聞東北総局の方々、多くの方のお世話の上に、この書評があります。ありがとうございます。
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2003年12月13日(土) ベストセラー
本日の朝日新聞福島県版
ベストセラ-
会津若松市宝文館調べ
1、二百年の子供(大江健三郎、中央公論新社)
2、バカの壁(養老孟司、新潮社)
3、山川健次郎伝(星亮一、平凡社)
4、電子の星、池袋ウエストゲートパーク4(石田衣良、文芸春秋)
5、間違いだらけの車選び 04年冬版(徳大寺有恒、草思社)
6、04本格ミステリ・ベスト10(探偵小説研究会編、原書房)
7、ユダヤ人大富豪の教え(本田健、大和書房)
8、ふくしまの文化財、会津編(笹川寿夫、歴史春秋社)
9、誰か(宮部みゆき、実業の日本社)
10、続続続続続伊藤家の食卓裏ワザ大全集、2004年版(日本テレビ放送網)

私の山川健次郎伝が
第三位に入っています。
嬉しいですね。
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2003年12月12日(金) 新選組と東北
1月から始まるNHK文化センター仙台のタイトルです。
東北といえば一つは会津藩でしょう。
傭兵部隊として会津藩の指令下にあったわけで、
京都時代、戊辰戦争に分けて
詳しく説明する必要があるでしょう。

昨日も書きましたが、2月下旬に「新選組と会津藩」の新書が出ますので、
グッドタイミングです。
これは目下、校正中、1日中、活字とにらめっこです。

二つ目は仙台との関連です。
土方歳三は仙台城にのぼり、仙台藩の幹部と協議しています。
これは成功しなかったのですが、
榎本軍の重臣としての土方の姿がありました。

三つめは岩手県の宮古湾の海戦です。
いかにも土方らしい戦いでした。

もちろん、
戊辰戦争の全体像もあわせてお話します。
まだ若干、教室に席の余裕があるようです。
仙台近郊の方は是非、お出かけください。


今朝の新聞

小学校6年生が暴走族に入っていたというのは、唖然呆然ですね。
富山県の話ですが、
そのうち各地に現れるかもしれません。
どう対応すべきか、
国民的議論が必要ですね、
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2003年12月11日(木) 新選組と会津藩
2月に出版します。
新書です。
出だしはこんな具合です。

「エッ、本当ですか」
会津若松の天寧寺を訪れた観光客は、近藤勇の墓前で、思わず顔を見合わせる。
「ここに新選組の近藤勇が眠っているの」
「どうして、どうして」
さまざまな声が飛び交う。
貫天院殿純忠誠義大居士
これが会津若松にある近藤勇の戒名である。
新撰組と会津藩の関係がいかに深いかは、この墓石が物語っている。

というわけなのです。
ただし私は新選組を決して礼賛はしておりません。
彼らにも思想心情はあったのですが、
それは結果として実りませんでした。
殺し屋といっては言い過ぎですが、
そうした面もありました。

傭兵部隊として新選組を抱えた会津藩の
メリット、デメリットはどうだったのでしょうか。

忌憚なく新選組を分析しました。

今朝の新聞
自衛隊のイラク派遣は、これといった記事は見当たりませんでした。
昨今の世相は、そのようなものです。
どんどんどんどん、
すべてが過去になってゆきます。
自衛隊があと記事になるのは、
出発の時でしょう。
今朝の記事にないことは、
派遣に関し、国民が暗黙の了解をしたということでしょうか。
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2003年12月10日(水) 自衛隊を声援します
自衛隊のイラク派遣が決まりました。
今朝の新聞各紙にさまざまな意見が掲載されていますが、
まるで自衛隊員が悪いような論調すらありました。
派遣が決まった以上、我々は派遣される自衛隊の皆さんに対し、
感謝の念をこめて送り出すべきだと思います。

テロリストは
日本の自衛隊を待ち伏せしているに違いありません。
いまの装備で本当にいいのか、

オランダ軍のように
特殊部隊を派遣する必要はないのか。
市街戦の訓練は十分に受けているのか。
偵察ヘリはどうなのか、

今回は明らかに戦場に派遣するのです。
あらゆる事態を想定した対策と装備が必要でしょう。

これもときの流れであり、
危険はありますが、日本もいつかは渡らなければならない
ルビコン川なのです。
自衛隊の方々には、
本当にご苦労さんと申しあげたいのです。
犠牲者が出るかもしれません。
それだけに
ただ反対だけ唱えていればいいという問題ではありません。

民主党の皆さんも
ただの無責任反対ではなく
派遣される自衛隊員の身になって討議してください。

昨日の訂正
ノモンハン事件
昭和14年は
いまから64年前でした。
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2003年12月9日(火) ノモンハン事件の真相
最近の週刊新潮にノモンハン事件の記事が出ていました。
決して日本軍が負けたわけではないという内容でした。
しかし最近、私がお会いした参戦者の酒井実さんの証言は異なっていました、
酒井さんは次ぎのように語っていました。

1、日本軍の小銃は38式歩兵銃で、1発しか弾がでない。
ロシア軍はマンドリンという機銃で、
接近戦では、まったく歯が立たなかった。
そこで兵士は敵から機銃を奪い、それで戦っていた。

2、日本の戦車は軽量ですぐ燃えた。敵の戦車は重戦車で、強力だった。
この戦車に日本軍は火炎瓶で立ち向かった。
おびただしい兵が死傷した。

3、とても勝ったとは思えない。
完全な負け戦だった。

4、死ぬとき多くの兵士は母親や妻、子供の名前を呼んで息を引き取っていった。
死者は葬りきれず、ただ砂を掛けるだけだった。

5、いま思い出してもザワザワする。
本当にこわかった。

酒井さんは衛生上等兵で、日々、戦傷死者と向き合った4ヶ月間でした。

ノモンハン事件は昭和14年に起こりました。
いまから72年前になります。
参戦者は高齢になり、ノモンハン事件を語る人は少なくなりました。
私はこの夏、ここを尋ねました。・
これからノモンハン事件の執筆に入ります。
事件を知る方は是非、ご一報ください。
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2003年12月8日(月) 宮城県丸森町
7、8日と宮城県丸森町に行って来ました。
7日午後、丸森町町民大学講座で、講演会があり、
夜は小学校の同級会、8日は丸森町の史蹟探訪をして来ました。
私は小学校3年生の時、丸森町の小斎小学校に転校し、ここを卒業しました。
ときどき同級会があり、
久しぶりというわけではないのですが、
あれこれ話題は尽きませんでした。

丸森町は伊達政宗の古戦場が多く、
非常に歴史の古い町です。
それらをどう観光に結びつけるか
そんなことも相談しました。
おいおい
丸森歴史探訪をお送りします。
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2003年12月6日(土) ノモンハン会
今日はノモンハン会
明日は宮城県丸森町での講演会です。
朝から出かけます。
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2003年12月5日(金) 無言の帰国
二人の外交官の無言の帰国、つらい光景でした。
小泉総理、空港に出るべきだったですね。
テレビ中継があるわけですから、迎えてあげるべきでした。
警察の儀杖隊もいいですが、ぎこちなかったですね、
自衛隊が出てもいいんじゃないでしょうか。
つまり日本国の代表として公務に向かい殉職したわけですから。
日本政府の段取りは下手だと思います。

さて話は変わって新撰組、
いろいろ間違った解釈も多いようですね。

私は新撰組を詳しく研究したことはありませんが、
もっとも肝心なことは
新撰組の果たした歴史的役割な何か
だと思っています。

彼らが京都で行ったことは
どういう意味があったのか。
会津藩にとって新撰組はどういう存在だったのか

あれこれ考えています。
皆さんのご意見をお待ちしております。
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2003年12月4日(木) 新選組の写真撮影
今日は会津方面に新撰組関係の写真撮影に行って来ました。
まず猪苗代湖畔の湖南、ここに駐留していました。
福良本陣跡、なかなかいい構図でした。

それから会津若松市の天寧寺,近藤勇の墓です。
山のてっぺんにあり、息が切れました。
会津鶴ヶ城で「会津藩と新撰組」の展覧会を開いていたので立ち寄りました。
これは期待はずれ、
展示品がすくないですね。

それから神指の如来堂、
ここは遠いですよ。
三回ぐらい聞かないと
たどり着けません。
ここの集落に新撰組が立て篭もって戦ったというのですが、
「どうなんだか分かりませんねえ」
と白菜の取り入れをしていたおばさんが言っていました。

最後は土方が泊まった
清水屋旅館跡、
石碑があり、
これは分かりやすく
合格点でした。

目下,書いている本に収録します。
終わったら真っ暗でした。
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2003年12月3日(水) 丸腰の日本
在外公館の警備は、各国とも軍や特殊警察が担当しているといいます。
日本だけは現地の警備会社だそうで、
これでは責任ある警備は難しいですね。
自衛隊が出て行うことが一番でしょう。
世界の常識に合わせて考えないと、
勤務する外交官は命が幾つあっても
足りないでしょう。

拉致事件の対応もそうですが、
一体、この国は本当に国民を守ってくれるのか疑問ですね。

野党第一党の民主党、
自民党が混乱しているときは
具体案を出したらどうですか
批判ばっかりでは
旧社会党と変わりません。

自衛隊のイラク派遣もただ反対では、
世界の孤児になるでしょう。
派遣しない場合、今後の日本はどうなるのか。
韓国も派遣しているのですよ。
菅さん、
そのことも説明してください.

今回の外交官の悲劇を繰り返さないためにも
世界の常識にそった考え方が必要ではないでしょうか。

共同通信発
4駆車含む3、4台並走 日本人外交官殺害事件
 【バグダッド3日共同】イラクの日本人外交官殺害事件で、奥克彦参事官(45)らの車両は、並走していた4輪駆動車など3、4台の車に分乗した武装グループに襲撃されたことが2日、新たな現場目撃者の話で分かった。
 武装グループの車両は参事官らの軽防弾4輪駆動車を取り囲み身動きできなくした上で、左側の追い越し車線から自動小銃を乱射したとみられ、奥参事官らの車を狙い撃ちにした犯行の可能性が強まった。

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2003年12月2日(火) 会津と長州、中国新聞の報道
今朝は新聞報道をお届けします。
中国新聞(広島)は11月29日付け朝刊1面で、「会津と長州を語る会」について次ぎのように報じました。

戊辰戦争での長州藩と会津藩以来の遺恨を解消しようと、民間レベルで初めて両地域の住民が意見交換する「萩と会津を語る会」が27日夜、萩市内のホテルで開かれた。

長州、薩摩両藩が主力の新政府軍と会津藩を含む旧幕府軍が戦った戊辰戦争で、白虎隊ら多数の会津藩士が命を落とした。

百年以上、関係修復は図られなかったが、1996年、萩市長がはじめて福島県会津若松市を訪問、翌年、当時の会津若松市長が萩市を訪れた。

「語る会」には会津若松市民ら14人、山口県はは萩市を中心に約百人が集合、友好の印として会場に長州、会津両藩の旗印を飾った。

企画した郡山市の作家星亮一さんは基調講演で、「会津出身ながら長州藩の有力者の支援を受け、後に東京帝大総長などを務めた山川健次郎もいる。水に流すところは流し、新たな関係を築くべきだ」と強調。

山口県菊川町在住の維新史研究家一坂太郎さんも基調講演で「吉田松陰は会津の士風をたたえ、高杉晋作が会津藩士と交流していた記録もある。憎しみあっていたばかりではない」と話した。

菅家一郎会津若松市長は「学びあうことは両地域の将来に意義がある」とコメント、会津若松市民からは「勇気を出して来たが、温会歓迎に感謝している」との声があがり、萩市民も素直に意見交換を喜んだ。

カラー写真入りの報道でした。
入場者は最終的に170人を超えました。




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2003年12月1日(月) 衝撃、日本大使館員殺害
ついに事件が起こりました。
現地に事情に詳しい外交官が銃撃されたことは、衝撃です、
心からお悔やみ申しあげます。

外交とか防衛という仕事は、
こうしたことが避けられない職業だと思います。
問題は自衛隊の派遣ですが、
ここで逃げ腰になっては、
世界から見捨てられるでしょう。

テロはあるという覚悟のもとに
出かけるしかありません。
装備も十分に行い、
ゲリラの攻撃には、即座に対応する姿勢が必要です。
イラクは戦場なのです。
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株式会社メディアハウス