星亮一 今日の一言

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2006年12月31日(日) 良いお年を、バーンズの詩
ロンドンの山田さんからメールをいただいた。

バーンズの詩も添付されていた。

皆さんにご紹介したい。

星 亮一先生

いかがお過ごしでしょうか?

ロンドンは比較的暖かい年の暮れを迎えております。

現在は小雨が降っていますが、それほど寒くはありません。

私は在英30年を超えましたが、

英国で大晦日に歌われる「蛍の光」の原曲を知りたいと思いながら、

今まで調べたことがありませんでした。今回、調べてみましたら、

スコットランド語で書かれ、発音がよくわからないのですが、

作詞はスコットランドの詩人ロバート・バーンズのものとわかりました。

確か、今でも「Barnes' Night」という日にはウィスキーを飲む

習慣があると思います。ご参考までに、

バーンズの詩を添付にてお送りいたします。


良いお年をお迎えください。

山田 直

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[編集] スコットランド民謡

「蛍の光」の原曲となったのは、スコットランド民謡の 'Auld Lang Syne' である。この曲は作曲者不詳であるが、古くからスコットランドに伝わっていたもので、現在に至るまで、特に知己の仲間内で宴会をした際に最後に再会を誓って歌われる曲である。

この民謡の歌詞を現在伝わる形にしたのは、スコットランドの詩人のロバート・バーンズであり、従来からの歌詞を下敷きにしつつ、事実上彼が一から書き直している。この歌詞は、旧友と再会し、思い出話をしつつ酒を酌み交わすといった内容である。

こうして採譜された 'Auld Lang Syne' には、ハイドンやベートーヴェン、シューマンといった著名な作曲家たちも伴奏を付けたり編曲を行ったりしている。

なお、'Auld Lang Syne' はスコットランド語で "old long since" を意味する。

[編集] Auld lang syne

多くの人が間違っているが、スコットランド語の Syne は「ザイン」ではなく英語の sign のように発音するのが正しい: [sajn]。

[編集] バーンズの詩

1

Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and auld lang syne ?

CHORUS

For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.

2

And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.

(CHORUS)

3

We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.

(CHORUS)

4

We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.

(CHORUS)

5

And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.

(CHORUS)

[編集] 大意

1

旧友は忘れていくものなのだろうか、
古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。

コーラス

友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

2

我らは互いに杯を手にし、いままさに、
古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。

(コーラス)

3

我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。
だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの距離を隔て彷徨っていた。

(コーラス)

4

我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。
だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。

(コーラス)

5

いまここに、我が親友の手がある。
いまここに、我らは手をとる。
いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。

(コーラス)

· バーンズの詩の出典: Songs from Robert Burns, published in Great Britain by Collins Clear-Type Press in 1947


山田さん、ありがとうございます。

よいお年をお迎えください。
△top
2006年12月30日(土) 龍馬暗殺の謎
戊辰戦争研究会の山田方谷さんから次のメールをいただいた。

山田方谷です。

「龍馬タイムズ」届きましたでしょうか? 

東京龍馬会の編集者のご好意で、奥会津文化フォーラムで発表した

「なぜ。只見で、河井継之助か!」の内容を記載してもらいました。

会員さんへ 部数に限りがあるので、次回イベントの時には、

コピーして持参したいと思います。ただし、年間4回の発行で、

最終回は、秋になります。

旧暦で命日のころで、ちょうどいいのですが!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もちろん拝見した。

立派な会報ですね。坂本竜馬の人気は凄い、改めて思った。

竜馬暗殺に関する論考も興味深く拝読した。

薩摩黒幕説に対する作家桐野作人氏の考察である。

やはり京都見廻組ということのようだった。

ご存知のように京都見廻組のリーダーは佐々木只三郎、会津生まれの

男である。兄は会津藩重臣の手代木直右衛門、公用方の実力者である。

只三郎と直右衛門は密接に連絡をとっていたはず。

会津藩は坂本竜馬をどう見ていたのか。これはひとつの

ポイントになるだろう。

ところが会津の史書には、まず坂本竜馬の記述はない。

これが不思議なことである。

なぜないのか、

見廻組が関係したので、わざと削除したとも考えられるが、

どうなのだろうか。

「幕末会津志士伝稿本」という本がある。

会津藩の公用人、広澤安任の書籍である。

甥の安宅の著述になっているが、

これは安任の書籍である。

ここに注目すべき記述がある。

陸軍大将となった柴五郎の実兄、柴多一郎の証言である。

太一郎も公用人だった。

犯人は新撰組ではない。見廻組の今井信郎だと言うのである。

これは今井は自供しているので、そうなのかもしれないが、

「只三郎も無関係ではない」

とも証言している。

やはり京都見廻組ということなのか。

竜馬がうるさくなったので薩摩が消したというのが

薩摩陰謀説である。

これだと会津には都合のいい話になるのだが、

はやり、只三郎、黒幕説なのだろうか。

しかし、私はまだ完全には納得してはいない。

殺す動機が会津にあったのか、

そこがポイントである。
△top
2006年12月29日(金) 今日は徳川慶喜の無念の再校
「徳川慶喜の無念」の再校である。

外は時おり小雪。

でも10時ごろには青空が見えてきた。

屋根は白い。

昼に東北書店にでかけて岩波新書の「幕末・維新」と雑誌「正論」を

買い、ラーメンを食べた。書店で「街こおりやま」というタウン誌を

もらった。

本の話題と言うのがあり、高嶋書房調べのベストテンがあった。

1、早川広中「新説・会津白虎隊]双葉社 

2、浅田次郎「中原の虹]講談社

とあり、私の「箱館戦争」三修社が、8位

玄侑宗久さんの「般若心経」筑摩書房が9位にはいっていた、

早川さんは会津若松、玄侑さんは三春である。

なるほどなと思った。ありがたいことである。

夕方になって雪はシャ−ベット状になり、ひどくすべる。

このまま帰った方が無難の気もしたが、かなり前から八重洲の店長と

ご苦労さんの一杯を飲む約束をしてあった。

「どうしようかな」

「仕事おさめだから、ちょっとやりましょうよ」

ということで、どこかの居酒屋に出かけることになった。

これも大事なことである。

こうして29日も終わってゆく。

肝心の校正は、7割ほど終了した。

正月4日には出版社に送らなければならない。

何とか間にあいそうである。
△top
2006年12月28日(木) もう28日
御用おさめである。

私の仕事場は、31日まで開いているが、

世間一般は今日あたりで、おしまいである。

今年はどうだったのだろうか。

すべてが順調とはいえなかった。

いくつか失敗もあったし、企画が宙ぶらりんになったのもある。

越年企画である。

点数をつければ60点ぐらいだろうか、

それでも6冊の本を出すことができた。

戊辰戦争研究会も軌道に乗り、だんだん、私の出る幕も少なくなってきた。

若い人たちで活動することが大事である。来年は若い人中心に

やってもらおうとおもっている。

いま決まっている大きなイベントは

5月下旬のラバウル、ポートモレスビー行きである。

ラバウルには日本海軍の航空基地があり、

山本五十六もここにいて、ここから飛び立って、戦死した。

今年はパラオに出かけたが、来年は足を伸ばして、遠征することになる。

どうも太平洋戦争に取り付かれた感じである。

ところで昨夜は飲みすぎてしまった。

結局、帰れずに東京に泊まった。

朝7時の電車に乗ったら8時25分についた。

宇都宮あたりから郡山にかよっているような人が大勢いた。

新幹線は人間の動きを多様化しているようだ。

ちなみに八重洲ブックセンターの店長は大宮からかよっている。

一緒の電車かと思い、探したが、違う電車のようだった。

郡山ー東京駅間は1時間半を切ったのだ。

新幹線は革命である。

スピード時代に合わせないと、人間がおいていかれそうだ。

とにかく後ろからせかされる時代である。
△top
2006年12月27日(水) 歴史の実相
午前11時の電車で東京にでます。

まっすぐ神田の古書店に行き、時間をかけてみて廻ります。

探すもの。特に決まってはいません。

越後に関するもの。何かあれば、求めたいなと思います。

よくよく考えて見ると、小説に歴史の分野が侵食されている部分が

多々みられます。

長岡で河井継之助のシンポジュームがあるようですが、

河井といえば司馬遼太郎の「峠」です。

薩長の横暴に怒った河井が、ついに堪忍袋の尾を切って、戦いに

踏み切る侍の美学を描いたものです。

ラストサムライといってもいいでしょう。

私も河井の美学を追い求めたことがあります。

しかし、昨今、考え方を少し変えています。

それは、歴史の実相を見るということです。

私は昨年、講談社選書メチエに「会津戦争全史」を書き、

複雑な当時の状況、戦争に実態を描き、

朝日新聞や産経新聞から過分の書評をいただきましたが、

白虎隊礼賛のみの史観のみでは、

会津戦争を捉えることはできません。

では長岡の戦争はどうだったのか。

私は、いくつかの要因が絡み合って、戦争になったと考えています。

ひとつは会津藩の強烈な圧力です。必死の会津藩は

長岡参戦を求めて、さまざまな工作を行います。

会津としては当然のことでした。

長岡が参戦したようにみせる偽装工作も行っています。

米沢藩の動向もからんできます。

米沢藩上杉家の故郷は越後です。

戊辰戦争に勝てば、越後に戻れる、

そう考えた人がかなりいたのです。しかし戦況が悪くなると

さっと手を引いてしまいます。

人の心は非情です。

三つ目は庄内藩の事情です。

反薩長をかかげる庄内藩にとって、長岡が防波堤になるかどうかは

きわめて重要でした。

庄内藩の運命に長岡は深くかかわっていたのです。

旧幕臣、桑名藩の動向もあります。

こうしたさまざまな背景を背負って河井は、どうすべきか

苦悩していたと、私は考えています。

これを想像ではなく具体的資料をもとに、歴史の実相に切り込みたい。

そう考えています。

古書店を巡る楽しみは、図書館にはない

えっつと驚く本で出会ったりすることです。

途中で編集者の方と、お茶を飲む。

これはたまらなく楽しいことである。
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2006年12月26日(火) 信長天下布武への道
吉川弘文館発行の「信長の天下布武へ」を読んだ。

著者の谷口克広氏は、信長研究では知られた人物である。

北海道の出身で横浜で中学校の先生の傍ら信長研究を続け、

実に多くの本を書いている。

大学の先生ではない。中学校の教師でも、信長研究の

第一人者になれるという意味で、この人の研究は凄い。

歴史が好きだという人は大勢いる。かなり詳しいと自称する人も多い。

でも大半の人は概説書を読んで、あるいは小説を読んで

信長の研究をしたつもりの人が多い。

根本資料には何も当たっていないのだ。

これではすぐに化けの皮がはがれてしまう。

きついことをいうようだが、資料に当たることが大事である。

谷口氏は徹底的に資料を読み込んだ。

これが最大の魅力である。

最大の山場は本能寺の変である。この時、本能寺にいたのは

小姓と厩番の武士、と中間衆百人余だったという。

門は開いており、明智勢は、一気になだれこんだ。

信長が切り結んだり、小姓が戦ったこともないと

谷口氏は言う。では一体、信長はどこに消えたのか。

この本では、それが明らかになっていない。

調べても調べても、そこはわからないということだろうか。

本能寺の変の原因はどこにあったか

光秀の怨恨、将来に対する不安、つまり単独犯行だと著者は主張する。

最後の部分は誰が書いても、やはり推理になるのだろうか。
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2006年12月25日(月) 几帳面な小心者
朝日新聞記者だった高宮太平の東條論は、

今にして思えば、凄く的を射たものであった。

昭和18年の1月ころである。

首相官邸で総理に会った。

石炭がなく首相官邸のストーブは、落ち葉を焚いていた。

東條が自分で落ち葉を集めたという。

ミッドウエー海戦で敗れ、ガダルカナルが苦戦していた。

撤退かどうか東條は決断に迫られていた。

東南アジアは予定どうりだったが、米軍の反攻は予想よりも早く

強力だった。

「この調子では、トコトン敗戦まで行くのでは」

「そうはせさせたくないが、もしかすると」

東條は悲痛な顔だった。

早くも自信を失っていたのである。

「総理大臣なんてちっともえらくはない。天子様のご信任があって、

はじめて輝くのだ」

どうも心もとない。天皇依存である。

「海軍とはうまく行かない。陸海軍が対立するようでは、戦ができない」

いうことが寂しい限りである。

これが東條かと思うとがっかりする。

「国民の厭戦気分も怖い」

「それは戦局が悪いからでしょう」

「馬鹿な、なにを言う、新聞やはすぐそういう、断じて負けぬ」

はじめて東條らしい表情になった。

高宮もそうだなと思ったが、会う度に感じることは、

この男は悪党ではない。小心者だということだった。

こう自信を失っては、日本はどうなるのか。

もともと戦時宰相の器ではなかったのだ。

小心者なるがゆえに憲兵隊に頼り、反対派をいじめ、

陰険で悪辣な男になってしまった。

肩書きの重さに逆上したのだ。

高宮はこう思った。

このもっとも大事な時の総理が東條というのは

あまりにも不幸なことであった。

誰が任命したのだ。

それは近衛前総理だった。

ひどく見込み違いの出来事だった。

ああ、つらい話である。

いま日本の総理は安倍さんである。

どこかパンチが弱い。小泉さんの方がよかった、

そう思う人は多い。安倍総理、しっかりしていただきたい。
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2006年12月24日(日) 近衛文麿と東條英機2
ある時期、日本は近衛文麿が日本の政治を左右した。

1941年(昭和16年)7月18日に、第三次近衛内閣を組織。

東條は陸軍大臣だった。

ドイツが、フランスのヴィシー政権からインドシナの権益を奪い、

日本軍は7月28日に南部仏印進駐を実行し、7月30日にサイゴンへ入城した。

その後、近衛はようやく決意して日米首脳会談による解決を目指し、

東条も日本の要求が通せないならば開戦する決意で交渉することを条件に

これを認めたが、アメリカの中国派の強い反対によって挫折した。

日米開戦に日本は追い込まれた。

9月6日の御前会議で、「帝国国策遂行要領」を決定。

アメリカ、イギリスに対する最低限の要求内容を定め、

交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、

アメリカ、オランダ、イギリスに対する開戦方針が定めらた。

御前会議の終わった9月6日の夜、

近衛は駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、

危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。

事態を重く見たグルーは、その夜、

直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、

国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。

しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、

10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。

日米会談決裂である。

近衛文麿はそれなりに努力したが、

アメリカにけられた。

東條はアメリカの回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断し、

参謀本部(陸軍管轄)は政府に対し、

外交期限を10月15日とするよう要求した。

外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衛は

政府の重要閣僚を自宅に呼び、対米戦争への対応を協議した

いわゆる荻外荘会談である。

そこで近衛は対中撤兵による交渉に道を求めたが

、これに反対する東条は総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求し、

両者は東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致し、

10月16日に内閣は投げ出され、10月18日に総辞職した。

近衛文麿は和平派だった、

しかし、面倒になると投げ出す癖があった。

この時もそうだった。

昭和16年10月、東條内閣が誕生した。

「東條は陸軍を束ねている。東條の力で、戦争を回避させたい」

近衛はそう考えたという、しかし、それはできない相談だった。

東條は戦争に突入する。
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2006年12月23日(土) 近衛文麿と東條英機
近衛文麿とは何もの、そこからはいろう。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近衛 文麿
(このえ ふみまろ)
生年月日 1891年(明治24年)10月12日

出生地 東京府東京市

出身校 京都帝国大学法学部卒業


華族で、五摂家筆頭である近衛家の当主であった。爵位は公爵。

1891年(明治24年)10月12日、公爵・近衛篤麿と前田慶寧娘・衍の間に、

長男として、東京市麹町区(現・千代田区)に生まれた。

しかし母は文麿が幼いときに病没、父の後妻・貞

(衍の妹。よって実の叔母でもある)との間は不仲であった

(貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが

近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由といわれる)。

父の篤麿はアジア主義を唱え、

東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行っていた。

ところが、1904年(明治37年)に、篤麿は41歳の若さで死去。

文麿は12歳にして近衛家の当主となり、

また父の残した多額の借金を背負うこととなった。

この苦境を救った者が、同じ公家出身の政治家・西園寺公望である。

西園寺は、生前の篤麿とは政敵と言える状況にあったが、

近衛家と文麿に物心両面で援助を惜しまなかった。

こうした結果、近衛は父のアジア主義よりも、

西園寺の欧米主義的思考を持つこととなった。

学習院中等科を修了後、

華族の師弟は学習院高等科にそのまま進学するのが通例だが、

当時旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され、

一高を受験して進学。

続いて東京帝国大学(戦後の東京大学)で哲学を学んだが飽き足らず、

高名な経済学者であり、

当時急速にマルクス経済学に傾倒しつつあった河上肇に学ぶため、

京都帝国大学(戦後の京都大学)法学部に転学した。

在学中の1914年(大正3年)には、

第三次『新思潮』に、オスカー・ワイルドの

『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」として発表。

[編集] 政界進出
1916年(大正5年)から貴族院議員(満25歳に達したことにより、

公爵議員として)に選出される。1918年(大正7年)に、

雑誌『日本及日本人』に論文「英米本位の平和主義を排す」を執筆。

1919年(大正8年)のパリ講和会議には全権西園寺公望に随行し、

見聞を広めた。その後、1922年には、

僅30歳で貴族院議長に就任。地盤を得るとともに、

次第に西園寺から離れ、貴族内の革新勢力の中心人物となっていった。

又、五摂家筆頭という血筋や、

貴公子然とした端正な風貌(当時の日本人にあっては長身であった)に加えて、

対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で、

大衆的な人気も獲得し、早くから首相待望論が聞かれた。

1936年(昭和11年)の二・二六事件直後には

岡田啓介首相の後継として初めての大命降下があったが、

この時は健康問題を理由に辞退している。

辞退の真因に関しては各説あるが、

近衛が親近感をもっていた陸軍皇道派の勢力が相沢事件とそれに続く

二・二六事件により失墜していたことから、

政権運営の困難を感じていたのではないかとの説がある。


[編集] 首相時代

[編集] 第一次近衛内閣
1937年(昭和12年)6月4日に、元老・西園寺の推薦の下で、

各界の期待を背に第一次近衛内閣を組織した。その直後には、

「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、

治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を

大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。

この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、

かれ独特の国体論に基づくものであったが、

二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、

真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衛は、

首相就任前からこれに共感を示していた。

しかし、西園寺は、荒木が唱えだした頃からこの論には反対であり、

結局、大赦はならなかった。

7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発。

7月9日には、不拡大方針を閣議で確認。

7月11日には現地の松井久太郎大佐(北平特務機関長)

と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で

停戦協定が締結されたにもかかわらず、

内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表。

しかし、その後の国会では「事件不拡大」を言い続けた。

7月17日には、1千万円余の予備費支出を閣議決定。

7月26日には、陸軍が要求していないにも拘らず、

9700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、

7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加。

8月2日には増税案を発表。

又、この間宋子文を通じての和平工作を行い、

近衛と蒋との合意が成り、

特使を神戸から船にのせ南京に送って欲しいとの電報が届くと、

杉山元陸相に確認を取り、

宮崎龍介を特使として上海に派遣することを決定した。しかし、

海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の一部の強硬論者が

これを快く思わず、憲兵を動かし、

8月4日に宮崎を神戸で拘束して東京へ送還したため、

この和平工作は立ち消えとなった。

これに関しては、杉山陸相の真意がどこにあったかが不明で、

宮崎派遣を了承したにもかかわらず部下には工作の妨碍を命じたとも、

確認のつもりで部下に言ったため一部の強硬論者が

勝手に動いたとも言われているが、

杉山はこれについて詰問せず事後了解を与えた形になったため、

近衛は杉山に強い不信感を抱くようになった。

8月8日には日支間の防共協定を目的する要綱を取り決めた。

8月9日に上海で、二人の日本人将兵が殺害され、それに応じて、

8月13日には、二個師団追加派遣を閣議決定。8月15日には、

海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、

同時に、「今や断乎たる措置をとる」の声明を発表。

8月17日には、不拡大方針を放棄すると閣議決定。

9月2日には「北支事変」という公式呼称を「支那事変」

と変更を閣議決定し、戦域を拡大した。

9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、

支那事変が日清戦争、日露戦争、

第一次世界大戦と同列の戦争と決定され、

不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚。12月13日に南京攻略。

以下、続

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2006年12月22日(金) 東條英機はメモ魔
内閣書記官長の星野直樹が、東條に出会ったのは満州国時代だった。

満州鉄道の車内で偶然に出会った。

奉天から新京までの3時間、東條はポケットからメモを取りだし

星野の話を丁寧にメモしていた。

話の内容は満州の鉱物資源だった。

東條は若者のように熱心に聞き入りメモしていた。

東條は満州の鉱物資源の通になった。メモは夜、ノートに書き写し

整理する。大変な努力家だった。

甥の山田玉哉は、陸軍の将校だった。

妹の子どもである。

昭和15年、山田は陸軍幼年学校の生徒監だった。

東條は陸軍大臣だった。

「オイ、大臣を呼んでくれ」

と校長が言った。あまり会いたくなかったが、仕方なく

伯父を呼んだ。

「あの階段の高さはどのぐらいある」

東條は聞いた。

「あれは7、8メートルでしょう」

「でしょうとはなんだ、何メートル何センチ何ミリだ」

と怒鳴った。冗談じゃない。そんなことまで知るものか。

山田はあきれ返った。この時も確かメモしていた。

しかし、この細かさが、役にたつこともあった。

軍需省で会議があった。

「いまマンガンはどのくらいあるか」

東條が言った。

「3万トンです」

局長が言った。

「そんなことはない、5万5千トンだ」

東條が怒鳴った。

「だれが、そんなことを言いましたか」

「何月何日、お前が言った、このばか者が」

東條はメモを取り出して怒鳴りつけた。

東京裁判でも克明のメモをとっていた。

一体、この人の正体は何もの?、

それは次回。
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2006年12月21日(木) 東條英機は長州が大嫌い
東條の強い執念のひとつは、

反長州だった、

反長州は会津だけかと思ったら、東條の方ははるかに強かった。

それは父親の怨念だった、

父親は陸軍大学校をトップで卒業した、

しかし陸軍の上層部はすべて長州だった。南部藩出身の父親は

賊軍の出である。

徹底的にいじめられ、中将でおしまいだった。

「長州閥ほど悪いものはない。徹底的につぶせ」

父親の遺言は、打倒長州だった。

「親の仇を討ってやる」

陸軍大学校の教官になった東條は、

山口県出身の志願者を全員、不合格にした。

賊軍出身者で周辺を固め、長州征伐を行なった。

「ウウン」

私はうなった。

ここまでやったとは知らなかった。

おかげで陸軍の中枢部は東北人が占めた。

東條クーデターである。

困った山口県人は広島県や、高知県などに寄留し、

本籍を隠して受験した。

「面白いですなあ」

秦先生はおしゃった。

しかし東條は

憲兵隊と懇意になり、たちどころに身元を見破った。

これには私も困った。

長州藩末裔が軍国主義に走り、日本を滅ぼしたという

構図は大きく崩れることになる。

「星さんの東北が日本を破滅に追いやったのではありませんか」

早速、萩生まれの友人から反撃を浴びた。

「ウウン、これは意外だ、ううん」

これにどう対応すべきか。

苦慮している。

東條の意外な一面である。
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2006年12月20日(水) 東條英機論
昨夜の講演テーマは東條英機論だった。

興味深い話が一杯あった。

夕方、ご紹介する予定だったが、急に出かけることになり、

明日に延期。今日は東條の予備知識だけである。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第40 代内閣総理大臣
東條 英機
(とうじょう ひでき)

[編集] 生い立ちと経歴
東條英機は1884年(明治17)7月30日 東京市麹町区に

東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)

と千歳の間の三男として生まれる。

本籍地は岩手県。長男・次男はすでに他界しており、

実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。

(誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に

亡くしていた英教は英機を里子に出したため、

戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている。)

東條家は江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として

盛岡藩に仕えた家系である。

英機の父英教は陸軍中将であったが、

長州閥が幅を利かせていた当時の陸軍での立場は弱く、

陸大を首席で卒業した俊才であったが、

陸軍中将で予備役となった。

近年では、山田風太郎の小説で有名である

(当時の陸軍は山県有朋を中心とする明治維新の立役者達が、

戊辰戦争で最後まで抵抗を続けた東北地方の諸藩に対して、

様々な差別を行っていたという)。

英機は番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、

青山小学校を経て1897年、東京府立城北尋常中学校(

現・都立戸山高等学校)に入学する。

1899年、東京陸軍幼年学校入学(3期生)。

1902年、陸軍中央幼年学校入学(17期生)。

1904年陸軍士官学校入学(17期生)。


[編集] 陸軍入隊

1905年に陸軍士官学校を卒業(クラス50人中42位)、

陸軍歩兵少尉に任官。1907年(明治40)には

陸軍歩兵中尉に昇進する。

1909年、伊藤かつ子と結婚。1911年に

長男の英隆(東條由布子の父)が誕生。

1912年(大正元)に陸軍大学校入学(27期生)。

1914年には二男の輝雄(元三菱自動車工業社長)誕生。

1915年に陸軍大学校を卒業し、陸軍歩兵大尉に昇進。

近衛歩兵第三連隊中隊長に就く。1918年には長女が誕生

、翌1919年、駐在武官としてスイスに赴任。

1920年に陸軍歩兵少佐に昇任、

1921年にはドイツに駐在。

1922年には陸軍大学校の教官に就任、

その翌年に二女が誕生している。

1924年には陸軍歩兵中佐に昇任。1925年に三男が誕生。

1926年には陸軍大学校の兵学教官に就任。

1928年、大佐に昇進し整備局動員課長に就任。

翌1929年には三女が誕生。1931年には参謀本部編制課長に就任し、

翌年四女が誕生している。

1933年に陸軍少将に昇任、陸軍省軍事調査部長に就く。

1935年には関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。

1936年に陸軍中将に昇進、翌1937年関東軍参謀長に就任する。

1938年には板垣征四郎陸軍大臣の下で、

陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍航空本部長に就く。

1940年から第2次、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた。


[編集] 首相就任

東條と閣僚。日米衝突を回避しようとする近衛首相に対して、

東條は強硬な主戦論を唱え、第3次近衛内閣を退陣に追い込んだ。

誰の説得にも応じない東條の強硬さに手を焼いた天皇の側近

木戸幸一らは、日米衝突を回避しようとする

昭和天皇の意向を踏まえ、

明治維新時に政府軍に蹂躙された東北出身ゆえか

「忠狂」と呼ばれるほど天皇を敬愛していた東條英機本人を

あえて首相にすえることによって、

陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、

天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないように

追い込むことができると考えた。
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2006年12月19日(火) 今日は検証・戦争責任
現代史家秦郁彦氏を招いて、6時から講演と討論がある。

秦さんは現代史研究の第一人者である。

出身は山口県、

「福島か、会津若松があるね、私は長州、ううん」

と最初はうなっていた。

「まあ、昔のことですから」

「そうもいかないね、一言ご挨拶しないとね」

「それは大変、いいことだと思います」

という会話を交わした。

本番でどう話されるのかまずは、興味津々である。

さて今日の演題は太平洋戦争の検証である。

秦さんは硬派である、平和の語り部を自称する大江健三郎に

疑義を呈し、筑紫哲也のニュース23も

問題ありと批判した。それは慰安婦問題の報道だった。

確かにその面はあった、

昨夜も筑紫キャスターはベトナムに対する日本の援助に

問題ありとコメントしていた。

発電所の建設で自然が破壊されたという。

経済発展には電力がいる、日本がそれを援助している。

自然破壊だというのだが、じゃ電力はどうすればいいのか、

そいは触れていない。

時にはずばり直言する討論会も必要である。

今夜の講演会、

楽しみである。
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2006年12月18日(月) さて、なにを書こうか、アンガウル戦記
今日はぺりリュー島、アンガウル島の戦記を書いていた。

昭和19年9月17日、パラオ諸島のひとつ、アンガウルに

山猫部隊の異名を持つ米陸軍第81歩兵師団2万2千人が

上陸作戦を敢行した。

守る日本軍は歩兵第59連隊第1大隊1400である。

20倍の敵が攻め寄せた。

空爆と艦砲射撃で、島の形が変った。

私の本の主人公倉田洋二は、陸軍二等兵、二十歳である。

現地召集で、アンガウルに派遣された。

所属は第1歩兵砲中隊である。

蛸つぼに入って空爆と艦砲射撃に耐えた。

中隊は少し後方にいた。港を守る中隊は、たちまち粉砕され、

敵はM4戦車を先頭に攻め込んできた。

「いまだ」

中隊長が叫んだ。

どがんと速射砲を撃ち込んだ。

砲弾はたった70発しかない。たちまち撃ち尽した。

砲弾が切れると大砲は鉄の塊に過ぎない。

十人ほどいた分隊員は、皆、やられてしまい、たったの3人である、

周囲には頭が半分、そがれた者、片腕を失った者、

バラばらに遺体が転がっている。

島の西北には無数の鍾乳洞がある。そこに逃げ込んだ。

逃げる途中で、ひとりが殺された。

逃げ込んだ鍾乳洞に、大勢のけが人が運ばれてきた、

手足は砕かれ、腹部から腸がはみ出ている、

夜、残った兵が夜襲に出た。刀で切り込んだが全滅だった。

工兵隊の生き残りは地雷を抱いて敵の戦車に突っ込んだ。

島にはひとつだけ真水の池があった。夜、水くみに出かけると

照明弾が打ち上げられ、機関銃で殺された。

そのうち倉田は迫撃砲弾の破片を足に受け、

吹き飛ばされて意識を失った。

以下続く
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2006年12月17日(日)  日曜日、晴れ
今日もいい天気である。

朝から事務所にこもり、「徳川慶喜の無念」の校正である。

これが本の良し悪しを決める重要な関門である。

誤字、脱字の訂正、事実の確認、人名、年齢、これがよく間違う。

リズム感も大事だ。

などなど、やることがいくつもある。

もう一度、調べなおすのである。間違いがいくつも出てくる。

そうなると、すべて疑わしくなる。それではきりがない、

決断も大事である。

昨日一日と今朝7時からはじめて、

今日、夜までかかりそうである。

いま7時、明日の午前中に持ち越しか、

本当は今日夜の宅急便で、東京に送る予定だったが

無理になってしまった。

私のほかに、私の仕事場の担当者も見る。

地味で、細かい作業である。原典にあたり、年号をチェックし、

それは大変である。

原稿を出版社に渡すときに、見てはいるのだが、活字になると

また違って見えて来る。

午後2時からは郡山自由大学の歴史講座があった。

南太平洋戦記を講義した。

今年の夏に取材したペリリュー、アンガウル戦記である。

パソコン、プロジェクターを使って講義した。

山本五十六も話した。
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2006年12月16日(土) 今日はNHK福島の講座、そして忘年会
今日の講座は南太平洋戦記。

ペリりュー、アンガウル戦記です。

終わって戊辰戦争研究会の忘年会です。

したがって、今日の一言は雑感です。

すみません。

久しぶりに絶好の快晴、

安達太良山がくっきり見えます。

福島には昼の新幹線で向います。

まもなく暮れ正月ですね。どのように過ごすかですが、

結局、原稿の日々です。

光人社の「徳川慶喜の無念」の校正、

PHP文庫「山本五十六と山口多聞」の補足、それから

「会津藩VS薩摩藩」の執筆、「関東戊辰戦争」の取材

などなどです。

春になったら旅行もしたいですね。

それから全国縦断講演会、

実は大半が未定です。旅費の都合がつけば、どこにでもいきます。

時にはすべて自己負担で出かけます。

そして各地の皆さんと幕末維新、歴史の楽しさ、

なんでも話し合いたいのです。

昨夜、岐阜の桜井さんからメールが入りました。

「名古屋はやらないのですか」

「やりたいけど、誰か呼んでくれないかなあ」

と返事しました。あれは私の願望なのです。

でも実現に向って、努力します。仙台は決まりました。

岩手県一関も進行中です。

高校の後輩作家の馬里邑れいさんと一緒の企画です。

なお沖田君の中島三郎助考を、後ろに入れましたので、

読んでください。着眼がいいですね。
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2006年12月15日(金) 硫黄島からの手紙3
この島は東京から1250キロ、サイパンから1400キロの

距離にある。

ここはれっきとした日本の国土である。ここを占領されれば次は沖縄、

そして日本本土である。

絶対死守が命令だった。

かなり前から日本軍の補給はとまっていた。

この直前に行なわれたペリリュー島の戦争も

補給は一切なかった。砲弾を打ち尽くしてしまえば、それで終わりだった。

そこでどう戦うか、栗林中将に課せられた責務は重大だった。

そこで地下にこもる戦法が取られた。

ここは至るところから硫黄ガスが噴出し、工事は3分間が限度だった。

兵隊は日々、穴掘りだった。

ここで日米あわせ手8万人が死闘を繰り広げた。

日本軍は2万129人が戦死し、米軍は6821人が死んだ、

けが人を加得ると米軍の死傷者は2万8886人、凄い数だった。

最後は占領されたが、実に見事な戦いだった。

これはもう映画を見るしかない。

映画を見て、戦争はなんだったのかを考えるしかない。

私も来週は映画を見よう。

昭和20年3月17日、この島の日本軍は玉砕した。

戦局ついに最後の関頭に直面せり

17日夜半を期して小官自ら陣頭に立ち

皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ

全員壮烈なる総攻撃を敢行す

これが栗林中将の最後の電報だった。
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2006年12月14日(木) 硫黄島からの手紙2
栗林は着任してからサイパン玉砕の教訓を元に、

擂鉢山を有力な拠点として、米軍をいったん上陸させ、それから叩く

作戦を策定した。

水際作戦の否定である。

地下に要塞を築き、徹底抗戦する手法をとった。

そのためにセメント12,000トン、鉄鋼3750トン、その他、

鉄線、鉄板、砕石機などを大本営に要求した。、

しかし実際に支給されたのはセメント3000トンだけだった。

このため石を採掘して補強した。

米軍の攻撃が始まったのは昭和19年2月19日である。

戦艦、駆逐艦が1キロまで接近し、艦砲射撃を加えた。空爆もものすごく

陸上の陣地は大半、初日に粉砕された。

そうした中で混成旅団は夜襲をかけ

2400人を殺傷し、戦車15両、水陸用装甲車20両、

上陸用舟艇百余を粉砕した。

以下続く
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2006年12月13日(水) 硫黄島からの手紙1 
仙台の玉虫君から投稿があった。

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硫黄島からの手紙 見てきました。

なかなか見応えがありました。

今月の歴史街道に載ってましたが、硫黄島は昔の表記で『いわうたう』  
岩唄う ということで火山活動による隆起が激しいのと硫黄をかけて名付け
たそうですね。

なんとも綺麗ですね岩唄うとは!

我が祖父は硫黄島で旅団長として戦った千田さんを見たことがあるとかで、
今回の映画には興奮していました。

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実は私、まだ見てないのである。

歴史街道は読んで見た。

今度は帰れないかもしれないよ

と家族に言い残し、陸軍中将栗林忠通が、硫黄島に向ったのは昭和十九年

六月八日のことだった。

この島は東京から1250キロ、サイパンから1400キロの距離にあった。

ここを奪われたら、東京は完全に爆撃圏である。

かつて駐米武官を務めた栗林は、陸軍の中ではい異色の存在だった。

むろん戦争には反対だった。海軍の山本五十六と同じように

国力の違いを痛感していた。

出征に当たって栗林は天皇に拝謁し、死守を誓っていた。

米軍の圧倒的な攻撃にどう耐えるのか、

栗林は考えた。

以下、数回の連載になる。
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2006年12月12日(火) 徳川慶喜の無念
今日から校正が始まった。

徳川慶喜は不可解な人物である。

フランス皇帝ナポレオン三世から贈られた

フランスの軍服に身を固めた姿は実に颯爽としていた。

頬づえをついた姿は理知的である。

お抱えの写真師がいたので、多くの写真を残している。

自己顕示欲の強い人物である。

ナポレオンのように日本国の皇帝になろうとしていた。

ただし日本には天皇がいたので、ねらいは大君だった。

大統領といったところである。

しかし土佐の甘言に乗って失脚した。大政奉還である。

土佐藩は王政復古を唱え、徳川将軍を辞退すれば、

大君として中央集権国家の

トップになると持ちかけた。

これに騙され将軍職を返上した。その瞬間、慶喜は只の人になり、

京都から追放された。

慶喜には冷徹さがなかった。西郷や大久保にしてやられ、

鳥羽伏見の戦争では、戦っている部下を見捨てて逃走した。

弱腰だったので、江戸は戦火に遭わず、殺される人もいなかった。

その部分の功績は認めるが、これほどの意気地なしも

珍しいだろう。

平和を愛したのだから、いいじゃないかという見方もあるが、

どうだろうか。私は否定的である。本のタイトルは無念としたが、

肝心の慶喜はどう考えていたのか、本当に無念に思っていたのか、

あるいは重責から離れ、ほっとしていたのか、その辺が

よくわからない。
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2006年12月11日(月) 検証・太平洋戦争
私が事務局を預かる郡山市の異業種交流団体、

MBA21はこの19日に、現代史家秦郁彦氏を招き、

「検証・太平洋戦争」

をテーマに太平洋戦争についての質疑を行なう。

一体、太平洋戦争とはなんだったのか。

昨今、連日、テレビで放映されている。

硫黄島の栗林中将の物語、あるいは郵便物を運んだ爆撃機の美談

いくつかを見ることができた。

なぜ戦争が起こり、なぜあれほどまでに敗れたのか。

その責任はどこにあるのか。もっといい選択しはなかったのか。

さまざまな角度からの検証が大事である。

19日は午後6時から郡山市のホテルプリシードで開く、

入場は無料、若干名の枠がある。

ただし直接、会場に行ってもはいれない。事前の申告が必要。

名前、年齢、職業、連絡先を書いてここにメールをください。

希望者が多い場合は抽選になります。

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栗林忠道
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栗林忠道大将栗林 忠道(くりばやし ただみち、

1891年(明治24年)7月7日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、

日本陸軍の軍人。長野県埴科郡旧西条村(現長野市松代町)出身。

旧制長野中学校(現長野県長野高等学校)出身。

米国とカナダの駐在経験があり、陸軍の中では珍しい米国通だった。

国際事情にも明るく対米開戦にも批判的だったとされる。

硫黄島の戦いで米軍との激戦を指揮し、

最後は自ら200名の兵士達の先頭に立ち突撃を行い戦死したと言われるが、

その最期についての正確な情報は未だ無い。

その生き様に対しては、敵国である米国でも賞賛の声が絶えない。


硫黄島の戦い
太平洋戦争(大東亜戦争)末期の激戦硫黄島の戦いがあった

硫黄島の守備隊総司令官を務めた。

合理主義者で、用意周到な大規模地下陣地を構築し、

将兵を爆撃・艦砲射撃に耐えさせ、万歳突撃による玉砕を禁じ、

徹底的な持久戦を行った。

結果、物資も豊富で兵力も三倍近いアメリカ軍に対して善戦し、

大戦時、異例の大打撃を与えた。


最も優秀とされた指揮官
戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、

「太平洋戦争に於ける日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか。」と質問した際、

「ジェネラル・クリバヤシ」と栗林の名前を挙げる人物が

多いと云われている[要出典]。

わずか22平方kmに過ぎない硫黄島を、

指揮下の兵員よりも遥かに上回る三倍の兵力

しかも物量・装備全てに於いて圧倒的に有利であった

アメリカ海兵隊の攻撃に対し、

最後まで兵の士気を低下させずに互角以上に渡り合い、

アメリカ側の予想を上回る一ヶ月半も防衛した事、

また当時の陸軍では数少ない親米派であり日米開戦に

最後まで反対していた事が理由であると思われる。

今日に於いても日米両方から名将として高く評価されている。

なお、2006年12月9日には、クリント・イーストウッド監督による

「硫黄島プロジェクト二部作」映画の第2弾として、

栗林中将を中心に日本軍側から硫黄島の戦いを描いた

『硫黄島からの手紙』(原案は、梯久美子による

『散るぞ悲しき』など)が公開されるが、この映画では、

渡辺謙が栗林中将役を演じている(第1弾として10月28日から公開された

『父親たちの星条旗』がある。これはアメリカ軍側から描いた作品であり、

アメリカ政府の意向に従いうわべだけの『戦争英雄』を

演じなければならなかった兵士の葛藤や苦悩を描いている)
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2006年12月10日(日) 八十里峠
週刊朝日、12月15日号の週刊司馬遼太郎は、八十里越だった。

越えたことはないが、2ヶ月ほど前、只見に出かけ、入り口付近を歩いた。

何年か前には新潟県側の入り口、下田村に出かけた。

熊が出るというので、歩くのは止めた。

週刊朝日は冒頭

「河井継之助のフアンは八十里越を歩きたい人が多い。

臨終の地、只見に向かう道です。

歩くと決まって悲しくなります」

という談話があった。

語った人は小名泰裕さん、本田技研工業のIT部に務める一方で、

師の山田方谷についての詳細なホームページを作っている。

戊辰戦争研究会会員、東京竜馬会会員である。

という記事であった。

戊辰戦争研究会、おおこれは凄いと思った。

私が主宰する形の戊辰戦争研究会は現在、会員数60人、

全国規模の研究会である。小名さんのように優秀な会員が

大勢おり、インターネットで意見の交換を行なっている。

われと思わん方はぜひご入会くだされ。

来年は小名さんのご案内で八十里を歩きたいと思っている。

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ただしヤフーを見ると「史道八十里峠踏破」について

と題する次の記事があり、簡単には通行できないようだ。

昨年来計画し実施できませんでした

「第9回『史道八十里越踏破』」については、

今年度も引き続き只見地区センター運営委員会

事業として決定しました。

しかし、吉ヶ平山荘までの道路は現道の災害復旧が断念され、

五十嵐川対岸への新道建設のため、

少なくとも今年度いっぱいは送迎バスの通行は

不能との見込みです。

また昨年・一昨年の大雪や地震の影響による

峠道の崩落なども予測されます。

すでに6月初旬を迎え梅雨前線も北上を始めており、

前回並みの八十里越全踏破については今年度も

断念せざるを得ないとの判断をしております。

今後は再度道路状況を見ながら、部分踏破を検討します。

@9号トンネル坑口付近から空堀、以降新道を只見大間平までのルート

A五味沢林道から田代平・鞍掛峠付近の散策を経て新道を只見大麻平に戻るルート

その際にはホームページ上でお知らせさせていただきますので、

お申し込みいただければと思います。

楽しみにしている皆様には大変申し訳ありませんが、ご了承ください。


■ その他、お問い合わせは
只見地区センター
TEL 0241-82-2141
FAX 0241-82-2142
E-mail tadatiku@town.tadami.lg.jp

とあった。来年はどうなのだろうか。



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2006年12月9日(土) 真珠湾攻撃
昨夜、友人と酒を飲んだ。

「今日は真珠湾だなあ」

と友人がいった。

「あ、そうだ、忘れていた、迂闊だった」

私が叫んだ。

私はPHP文庫から依頼を受け「山本五十六と山口多聞」を書き上げ、

送稿したばかりであった。

なぜ忘れていたのだろうか。

次の原稿を書いているので、そちらの方に頭が行ってしまったのかも

しれなかった。

真珠湾攻撃は軍事的に見れば、完璧だった。

緻密で大胆で、これほどの奇襲攻撃はないと思われる

見事なものだった。山本五十六はこれで英雄になった。

私はかねて北方4島の単冠湾を訪ね、そこから真珠湾攻撃を

考えたいと思ってきた。

渡航が自由に許されていないので、行けずにいるが、

なんとしても出かけたい。いい方法はないだろうか。

朝日新聞によると、開戦65年の集いがハワイであり、

何人かの日本人搭乗員が参加して、自分の体験を述べたという。

空母赤城から飛び立った爆撃隊の阿部善次さん90歳は

「長男を抱いた妻の写真を胸にいれて飛び立った」

と証言した。

爆撃機は戦闘機と違った速力も遅く、対空砲火の標的に

なりやすく、また戦闘機の餌食になる。

死を覚悟して飛んだに違いなかった。

当時、25歳だったことになる。

また空母加賀から雷撃機で飛び立った前田武さん85歳は、

「65年前に亡くなった2404人の方々に哀悼を申し上げます」

と挨拶した。当時20だった。

前田さんは戦艦ウエストバージニアを雷撃し、撃沈させた。

日本人の証言が終わると当時、ハワイにいた米退役軍人たちは、

壇上にかけ上り、次々と握手して和解したという。

なかには拒否した人もいたが、

妻と子の写真を胸にという証言は、特に強いインパクト

をあたえたであろう。

私自身、この証言を読んで涙が出た。

話し合ってみれば、お互いに同じ感情を持った人間だったのだ、

あの日、ハワイで攻撃を受けた米海軍の関係者も

一体、あの戦争はなんだったのか。

なぜ戦ったのか。

そんな必要はどこにあったのか。

そう思ったに違いない。

日米戦争は日本の一方的な思い込みで起こったものではなかった。

米国の対日強硬派が、戦争を仕掛けた部分もあった。

陸海軍とも双方の事情をしらなすぎた。

まさか日本の海軍航空隊が、

ハワイ攻撃をする能力を持っていたなど、

米海軍は知らなかった。

一方、日本陸軍は、米国の機械化部隊や、後方支援部隊の存在

を無視していた。陸海空軍の連携も凄かった。

突撃をすれば勝てると考えていた日本陸軍は玉砕に追い込まれた。

結論から言えば、無駄な戦争だったが、

しかし個々の兵士は全力を尽くして戦った。そのことは重い。

引き続き、私はパラオ諸島を舞台に太平洋戦争を描いている。

12月8日を、われわれは忘れてはならない。

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光人社、坂梨さんから

真珠湾攻撃に参加した零戦パイロット・藤田恰与蔵氏(兵学校66期)が

先日亡くなり、奇しくも今日8日に告別式が行われました。

これで、真珠湾攻撃に参加した零戦の士官パイロットの生存者は

いなくなったということです。

いよいよ「歴史」になってきたと言うことですね。

光人社
坂梨誠司  

そうでしたか。そうでしょうね。
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2006年12月8日(金) これはやりすぎだ
韓国が植民地統治に協力した「親日派」106人公表

という記事が読売新聞に出ていた。

韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の直属機関、

「親日反民族行為真相糾明委員会」が6日、

日本の植民地統治に協力した「親日派」に関する第1次結果をまとめ、

106人を「親日反民族行為者」と確定し、公表したというのである。

 盧政権は「親日派」が残した財産の没収に向けた調査にも着手しており、

委員会の調査結果が使われるとみられる。

 同委員会は、盧政権が進める歴史清算政策の一環として

制定・施行された「反民族行為真相糾明に関する特別法」

に基づき、

日露戦争から1945年の終戦までの対日協力者を調べている。

今回は、日露戦争が始まった1904年から日本統治への抵抗運動

「3・1独立運動」が起こった1919年までが対象。

1905年の日韓保護条約(乙巳条約)の韓国側代表の1人、

李完用(イ・ワンヨン)らが含まれている。

という記事である。

このようなことをする目的はなんなのか。

この人たちも、それぞれ事情や考えがあって日本に協力したのだと思う、

それをいまさらほじくりかえすのは

狭量ではないだろうか。

日韓友好の為にも残念である。
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2006年12月7日(木) 伊東に出かけてきた。意外に遠いね
パラオの倉田さんが静養している伊東の城ヶ崎に行ってきた。

遠いというのが第一印象。

東海道新幹線,熱海から東海道線でくべきだった。

東京駅から踊り子号に乗ったのは失敗のもと。

城ヶ崎駅には停車せず,伊豆高原に行ってしまった。

それから戻ったので、

ロスしてしまった。

帰りも失敗した。

伊東で踊り子号が来たので、のろうとしたら

全席指定で、車内販売はなし。仕方なく次の列車になってしまった。

調査不足によるミスである。

海辺はきれいだった。

伊東市の南、富戸から八幡野にかけて広がる城ヶ崎は、

天城火山の溶岩大地が荒波に削られてできた雄大なリアス式海岸である。

絶壁が垂直にそびえたつ豪快な断崖が連続している。

付近一帯には別荘やペンションがたくさんあった。

優雅な雰囲気だった。

倉田さんの宿泊所

みかみ旅館

岩風呂がよかった。

遅くまで、焼酎のお湯割を飲みながら

パラオ戦記を聞いた。

城ヶ崎ガイド

■城ヶ崎自然研究路
海岸づたいに観光スポットがたくさんある、

全長約9kmのトロピカル・ピクニカルコース。

原生林の続く台地には、日本一のヤマモモの群生やヒメユズリハの群落、

野鳥などの動植物が生息している。

■蓮着寺
日蓮上人ゆかりの寺院

■日蓮崎
岬の沖には、流罪になった日蓮上人が置去りにされた「俎岩」がある。

■伊豆シャボテン公園
世界のシャボテンや多肉植物が約3500種。

夜間は幻想的なムードが漂います。リスザルやクジャクなども見られます。

■大室山
お椀を伏せたようなシルエットは伊東のランドマーク。

リフトで頂上まで登れば、天城山、伊豆高原、相模湾、

伊豆七島を望む大パノラマが広がる。

■伊豆海洋公園
■ボヘミアンガラス美術館
■セキグチドールガーデン
■蝋人形美術館&メキシコ館

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2006年12月6日(水) 今日は伊東温泉に取材
パラオでお会いした元日本軍兵士、倉田洋二さんが、

腰痛の治療のために帰国し、伊東温泉に滞在されている。

そこで今日、お見舞いをかねて伊東におじゃまし、

パラオ戦記の補足取材を行なう。

帰ったら報告します。

電話ではお元気そうだった。

私も温泉に一泊、時間をかけて取材をする。
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2006年12月5日(火)  会津はふるさと
会津はふるさと

と題する下記のメールをいただいた。

会津の方は、全国におられますね

--- ここから -------------------------------------

会津藩の検索中に「今日の一言」に出会いました。

私は会津藩士の血を引く者で、3人の子供の母親です。

最近先祖のルーツをたどり、会津方面へ行ってまいりました。

驚いたことに、戊辰戦争で亡くなった先祖の

戸籍のあった場所に家が現存していたのです。

一緒に行った妹は、このことに深く感銘を受け、

これは何か大きな意味があるのではないかと考えたのです。

その後私もこのことを考え、戊辰戦争や明治維新のことを考え始めました。

今、教育の二極化が進んでいます。

公立中学校と私立中学校では授業時数が

まったく異なり(例えば英語は公立週3時間、私立週5から8時間)

お金のあるなしで教育を左右されるという状況なのです。

子供や学校をめぐるさまざまな問題が取りざたされていますが、

この基本的な人権にかかわるような教育政策については

触れられていません。学齢期に

かかる子供が身近にいない方々には、

いじめや自殺の問題が不可解なことと見えるのでしょう。

でも、三人の子供を育てている私には、

この教育政策が大きな原因と思われるのです。

フェアでない社会。これこそが一番の原因なのではないかと思います。

白虎隊の最期から学ばなければならないのは、

愛国心ではなく、命を大切にすること。

本当に平和な、幸せな社会のために必要なことは、

お金のあるなしにかかわらず等しく教育を授けること。

教育こそが社会を変える力になること。日新館が目指していたのは

そのことではないのかと考えます。

戊辰戦争で父親を失い、

北海道で弁護士となり同じように6歳の息子を残し

亡くなったという曽祖父。

生まれ育ったあの家が今日まで140年残されていた意味を

どう考えるべきなのか、、、。

明治維新を考えることとは先人たちが

どんな社会を目指していたのかを考え

ることと思います。

多くの命が失われた維新後に続いた歴史を振り返ること、

それが、今私たちに必要なことと思います。

こちらのページに出会えたこと、大変うれしく思います。

長々と失礼いたしました。

-------- ここまで -------------------------------------

戊辰戦争研究会の名前が!!! 山田方谷 04 Dec (Mon) 08:14

というメールが戊辰戦争研究会のホームページに掲載された。

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山田方谷です。
たいへんなことがおきました。週刊朝日12月15日号

(表氏 ホリエモン)の「週刊・司馬遼太郎」(101ページ)の

本文記事の冒頭と最後に「戊辰戦争研究会」の名称が2回も出ています。

首都圏は、月曜日の夕方発売していました。みなさん、ぜひ、ご購読を!!!

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戊辰戦争研究会は不肖、私が主宰者である。

全然、知らずにいた。

なにが起こったのだろうか

早速、書店で買い求め、報告したい。

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2006年12月4日(月) 山本五十六の失敗
太平洋戦争に山本は反対していた。

昭和16年1月、山本は第二艦隊司令長官古賀峯一に、

戦争を阻止するためには

米内光政を軍令部総長にし、海軍次官に井上を据え、

反対することが大事と説いた。

昭和16年10月24日には嶋田海軍大臣あてに

もはや天皇陛下の聖談を仰ぐしかないと述べた、

事態は切迫していた。

開戦に決まるや、

せい一杯持ち場の責任を果たすしかないと、

故郷の姉に手紙に書き送っている。

連合艦隊司令長官として、山本はつらい気持で、戦争に

臨んだことになる。

ハワイの奇襲攻撃は大成功だった。

だがミッドウエーで大惨敗する。

失敗した南雲長官を山本は許している。

人間は1回の失敗で、すべて否定してはならない。

そういう気持だったろう。

だが南雲長官は、ハワイ攻撃の直後から

不眠症に悩まされていた。

ミッドウエーでは疲労困憊に達していた。

南雲は汚名挽回の機会もなく、最期はサイパンで自決する。

山本と言う提督は、どこか温情主義の人だった。

それがミッドウエーで仇になり、ソロモン海戦も失敗した。

英雄ではあるが、どこか農夫のような素朴な人、

それが山本だった。

山本は決して信長ではなかった。

信長であったら、ミッドイウエーの失敗はなかったであろう。

信長は部下に厳しく、自ら兵を率いて戦った。

山本は戦艦大和に乗り、動かなかった。
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2006年12月3日(日) なぜ、いまアジア太平洋戦争か
岩波講座、アジア・太平洋戦争を読んでいる。

刊行の言葉にこうある。

日本の敗戦からb60年が経過した。

この敗戦、日本の社会に決定的な影響を与えた。

この戦争は太平洋戦争、あるいは大東亜戦争と呼ばれた。

満州事変、日中戦争、それに太平洋戦争をくわえて

15年戦争と呼ぶ言い方もある。

敗戦まで日本は朝鮮半島、台湾を植民地とし、

そのほかに満州国を持っていた。

日本帝国である。

それらのすべてを問い直すというのが、この本の企画意図である。

私に比べたら若い研究者の論考である。

それだけに切れ味鋭く、なかなか読ませる。

最初に戦記物の作品を紹介し、戦争像の変化を紹介している。

戦争体験者の手記から、戦争を知らない世代と幅広い文章である。

さまざまな問題提起が随所にある。

日をあらためて個別的な問題を取り上げたい。

さて今日は北東文芸協会の忘年会である。

戊辰戦争研究会の人も何人か加わる。

コイテージに泊り込んで、飲み勝つ食べ、温泉にも入る。

場所は須賀川市、料金は5000円前後。地元の人はもっと安い。

穴場のひとつだろう。

4時には出かけることにする。

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藤沼湖自然公園
水と緑のふれあいランド

須賀川市のPRコーナー

周囲5km、面積20haの人造湖で、

標高370mの高地にあるため 夏のキャンプ、ハイキングにと利用されています。

また、藤沼湖自然公園には、 オートキャンプ場やコテージ村などの施設があり、

豊かな自然のなかでレクリエーションや森林浴を楽しめます。

そして自然を十分に堪能したあとは、

「やまゆり荘」でゆっくりと温泉につかれます。

藤沼湖のほとりにある、ヨーロッパ調のコテージとオートキャンプ場。

澄み切った空気と景観の美しさ、

湖水をわたる風の心地よさを感じずにはいられません。

長沼の自然の魅力が満喫できる自然公園です。

 【お申し込み】
  藤沼湖自然公園管理センター
  場  所 〒962−0204 福島県須賀川市江花字石倉山22  
  連絡先 電話0248−67−3355
  E-mail  fujinuma@city.sukagawa.fukushima.jp

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楽しみです。
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2006年12月2日(土) 今日は榎本武揚の世界
今日はNHK講座、今年の最後だった。

榎本武揚の世界である。

幕臣という存在は実に情けなかった。

薩長の官軍が江戸にはいってきたとき、抵抗したのは

上野の彰義隊だった。しかし一日で壊滅した。

情けない存在だった。やがて大鳥圭介や古屋佐久左衛門、今井信郎らが脱走、

戦いをはじめたが、どうも弱い。

勝てない。

榎本の海軍に期待が寄せられた。

だが榎本は戦争する気はない。もっぱら北海道の開拓である。

開拓も戦争に勝たなければ、勝手にはできない。

やはり戦争になったが、策略に乏しい。

軍艦を失って負けてしまった。

しかし、それからが凄い、外務大臣、農商務大臣、逓信大臣と

何度も大臣を務めた。

実力があったのだ。

実力があれば、会社が倒産しても次のポストがまい込んでくる。

そういう人が榎本だった。

やはり実力を磨くことが大事である。

それを痛感した。

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ヤフーから

明治政府官僚となってからも、

その知識と探求心を遺憾なく発揮し、

民衆から「明治最良の官僚」と謳われたほどであったが、

藩閥政治の横行する明治政府内においては

肩身の狭い思いもしばしばであった。

義理・人情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で

明治天皇のお気に入りだった。

また海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、

園遊会ではあえて和装で参内するなど粋な行動に終始した。

これらの偉業に対し、福沢諭吉は榎本を嫌い、

彼を「無為無策の伴食大臣。二君に仕えるという武士に

あるまじき行動をとった典型的なオポチュニスト

挙句は、かつての敵から爵位を授けられて嬉々としている

「痩我慢」を知らぬ男」と罵倒している。(『痩我慢の説』)

また、孵卵器や石鹸などの発明・研究を行った。

余談だが、彼が初代逓信大臣を勤めたとき、

逓信省の「徽章」を決めることになった。

1887年(明治20年)2月8日、

「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示したものの、

これが万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と

紛らわしいことが判明した。そこで彼は

「Tに棒を一本加えて「〒」にしたらどうだ。」と提案し、

2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」ということにして

変更したといわれている。これは、

あくまでも郵便マーク誕生に関する諸説のうちのひとつであるが、

彼の聡明さを象徴するようなエピソードでもある。

著作に『渡蘭日記』『北海道巡回日記』

『西比利亜日記』『流星刀記事』など。

曾孫に、作家で東京農業大学客員教授の榎本隆充がいる。


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2006年12月1日(金) デスク日誌
河北新報のデスク日誌をよく読む。

今日は知人の生活文化部副部長の佐藤昌明さんが書いていた。

「司馬遼太郎の世界」である。

佐藤さんは関西に出かけた際、司馬遼太郎記念館を訪ねた。

司馬遼太郎の滑らかな文体、豊かな知識、

その魅力に惹かれて佐藤さんは

司馬作品を読んできた。

私も同じである。

展示館の地下はホールになっていて、司馬さんがスクリーンに登場し、

「明治維新でサムライ社会が崩壊した。

日本人は行動の規範を失ったが、

そこで明治の世の中をささえたのがサムライ精神だった」

と説いていた。

ここからが、佐藤さんの論理が展開する。

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司馬文学は高杉晋作や坂本竜馬ら維新の群像をきらびやかに描き、

読む分には楽しいが、歴史の舞台裏は、

物言わぬ大勢の人々が支えてきた。

サムライ精神は、行動は潔いが、時には戦いを好む。

行き突いた先が太平洋戦争ではなかったか。

没後十年、国民作家の検証も必要だろう。

長州閥出身の首相の、いまの時代だからこそ。

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とあった。

まったく同感である。

安倍首相は就任の演説で、

近代日本は長州の吉田松陰、高杉晋作、そして松下村塾の

門弟たち、伊藤博文、山県有朋らによって作られた

といった。その部分は確かにある。しかし、

私には少なからず異論がある。

近代日本をつくったのは、広く一般の庶民であり、

特に薩長藩閥政治の中で歯を食いしばって生き抜いた

東北、越後の人々を忘れてはならない。

安倍首相、在任中に一度、東北に足を運び、平民宰相原敬や、

会津白虎隊の墓前にも詣でてほしい。
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