星亮一 今日の一言

2014年11月
2014年10月
2014年9月
2014年8月
2014年7月
2014年6月
2014年5月
2014年4月
2014年3月
2014年2月
2014年1月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年9月
2013年8月
2013年7月
2013年6月
2013年5月
2013年4月
2013年3月
2013年2月
2013年1月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年9月
2012年8月
2012年7月
2012年6月
2012年5月
2012年4月
2012年3月
2012年2月
2012年1月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年9月
2011年8月
2011年7月
2011年6月
2011年5月
2011年4月
2011年3月
2011年2月
2011年1月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年9月
2010年8月
2010年7月
2010年6月
2010年5月
2010年4月
2010年3月
2010年2月
2010年1月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年9月
2009年8月
2009年7月
2009年6月
2009年5月
2009年4月
2009年3月
2009年2月
2009年1月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年9月
2008年8月
2008年7月
2008年6月
2008年5月
2008年4月
2008年3月
2008年2月
2008年1月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年9月
2007年8月
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2007年2月
2007年1月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年9月
2006年8月
2006年7月
2006年6月
2006年5月
2006年4月
2006年3月
2006年2月
2006年1月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年9月
2005年8月
2005年7月
2005年6月
2005年5月
2005年4月
2005年3月
2005年2月
2005年1月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年9月
2004年8月
2004年7月
2004年6月
2004年5月
2004年4月
2004年3月
2004年2月
2004年1月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年9月
2003年8月
2003年7月
2003年6月
2003年5月
2003年4月
2003年3月
2003年2月
2003年1月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年9月
2006年3月31日(金) 日本はひとつ
会津藩主松平容保の末裔の方が

「個人的意見として和解反対」を語ったことに対して、私は、

「対立からなにがどう見えてくるのか、私は重箱のすみをつつくような、

感情的史観は、やめるべきだと思った」

と感想を述べた。

これにオ対して、各方面から感想がよせられている。

海外在住の方。

「星先生のご意見に、まったく賛成です。私は日本を離れて以来、30年が経ちました。

外から、日本を眺める習慣がついておりますので、日本はまったくひとつと思っています。

日本の中で、仲たがいをしていても何も建設的なことは始まりません。

こちらでは「憎しみは、その人を食い尽くす。」という意味合いのことわざがあります。

常に世界の中の日本を自覚し、小異を捨て大同につくのたとえのように、

皆まとまって、品格のある日本人および国家をつっていく心構えが大切だと思います」

山口県の方。

「非常に残念です。松平容保の子息は乃木将軍の副官でした。ともに戦ったのです。

奥平謙輔は山川健次郎先生を懸命に支えました。

戊辰戦争は政見の違いです。勝敗はときの運、ともにたたえあうべきです」

会津の人。

「末裔の方の話、討論会で直接、聞きました。はっきりそういっておりました。

しかし市民は必ずしも末裔の意見に賛成ではありません。

末裔の方の父は、和解派でした。世代が変わって今度は反対、

その理由をもっと聞かせてください」

「反対の人は声が大きいいので、気を使われたのかもしれません」

反響は大きい。
△top
2006年3月30日(木) ロンドンの山田さんからの便り
山川健次郎の親族の山田直さんは、ロンドン在住で、大学関係の仕事、

文部科学省国際客員研究官をされている。

昨年、東京の武蔵大学で「第1回山川記念シンポジューム」があり、大変尽力された。

引き続き、今年は九州工業大学で、「第2回山川記念シンポジューム」を開催すべく

努力されている。私はいま、

「ならぬものはならぬ」−会津武士道が日本を救う

を執筆しており、むろん、この本の主人公は白虎隊士から東大総長になった

山川健次郎先生である。

とにかく健次郎はすごい、東大、京大、九州大の総長をやった。

当時、これらの大学は帝国大学といった。

これはもちろんすごいことだが、私が感動したのは、明治専門学校、現在の九州工大の

総裁時代と、旧制武蔵高校の校長時代である。

学生と一緒に寮に寝泊りし、自ら教壇に立って英語を教え、

毎月のように演説し、「諸君は武士であれ」と文武両道を修めたジェントルマンの育成に

努めた。

日本人はもっと山川先生に学ぶべきである。私はいつもそう思っている。特に政治家、

高級官僚、大企業の経営者、大学教授、晩年は山川先生に見習って、

教育の場に自分をおき、青少年の育成に取り組むべし。

そう思うのである。

山田さんのメールは次のようなものだった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ご無沙汰しておりますが、お元気でご活躍のことと思います。

私は、昨日、日本への一時帰国よりロンドンに帰ってきました。今回の帰国時には、

有馬朗人先生や黒川清先生ともお会いしてきました。

私は星先生のホームページの「今日の一言」欄を、ロンドンより

しょっちゅう拝見しています。

本日久しぶりに先生のホームページを拝見していましたら、

偶然にも3月25日および26日付けの山川健次郎についての記載に出会いました。

黒川先生も私も、「第2回山川シンポジウム」には星先生に

講演していただきたいと思っており、その旨、九工大には伝えてあります。

今年の秋の開催になると思いますが、日程等か固まっていましたら、

ご連絡を差し上げたいと思っております

又5月末から6月初めにかけて、九州大学の用事で一時帰国を予定しておりますので、

又、郡山にて星先生にお会いできればと願っております。

最近、山川健次郎の孫の三木教子より、アインシュタインが1922年に来日した折、

東京駅のプラットフォームにて、健次郎の長男の洵が撮影した1等車両より

顔を出しているアインシュタインの写真、およびアインシュタインと

数人の人が写っている写真(アインシュタインの右2人目が山川洵)を入手しました。

またアインシュタインと最初に会った日本人である、

桑木あや雄博士(あやの字は現在では使われていない字です)が

明治42年(1909年)ベルリン留学時代に本多光太郎博士(右となり)

および寺田寅彦博士(左となり)と共に撮った写真を、葉書に貼って絵葉書にして、

恩師である山川健次郎に当てた葉書も入手しました。

アインシュタインの写真にはガラスの乾版もついており、

山川家が個人的に撮った写真で、今まで、世間に知られていない写真のようです。

従いまして、ご参考までに、何人かの物理関係者の方々にもお送りしました。

桑木博士は、東大物理の出身で、山川健次郎に明治専門学校開校と同時に、

明専に物理の教授として招聘され、山川が九州帝大初代総長就任に伴って、

九州帝大に移りました。

本多博士は、星先生の母校、東北大学の総長を勤めた方ですので、

ご興味がおありと思い、お送りいたします。

何かのご参考になれば幸いです。


--------------------------------------------------------------------------------

有馬先生は元東大学長、黒川先生は日本学術会議会長である。

本当に嬉しいメールでした。

九州でのシンポジューム、私も及ばずながら

盛り上げたい。
△top
2006年3月29日(水) 星亮一と行くパラオ、ペリリュー島の旅
4月25日から出かける。今日、正式に決定した。

ペリリュー島には1万人の守備隊がいて、玉砕した。同行者は11人、

出かける以上は「南太平洋の激戦」ペリリュー島玉砕ーを書くため

万全の取材をするつもりである。

4月25日、成田午後4時、コンチネンタル航空でグアムへ、コロール島に宿泊

4月26日、高速船でペリりュー島へ、日本人慰霊碑、ゼロ戦残骸、
     
 日本軍戦車残骸、高射砲残骸、平和記念公園など見学

4月27日、島内観光、戦跡博物館、残留兵洞窟跡見学

4月28日、コロール島観光、旧南洋神社跡、日本人墓地、国立博物館

4月29日、グアム経由成田、午後9時10分着

という日程である。

島には戦車、ゼロ戦の残骸がごろごろしているそうだ。

いい写真が撮れそうだ。

参加者は福島県内と東京の人である

なにか情報があれば、御教授ください。



△top
2006年3月28日(火) 中学生に戊辰戦争をどう教えるか
昨日の一言に関連して、新潟の塾の先生、戊辰戦争研究会の

鳥居三十郎さんから下記の投稿があった。
-------------------------------------

中学生に戊辰戦争をどう教えるか。

新潟で学習塾の教室長をしている私にとっては興味深いテーマです。

「…十五代将軍徳川慶喜が大政奉還をしたことで江戸幕府は消滅しました。

朝廷は王政復古の大号令を出して、政権が天皇に移ったことを宣言します。

これを聞いて徳川家に味方する武士達は京都に進軍しますが、

薩摩・長州を中心とする官軍に鳥羽伏見の戦いで負けてしまいます。

官軍はさらに京都から東に進んで江戸を無血占領します。

東北地方にはまだまだ徳川家に味方する武士達がいたんですが、

官軍はそれらをすべて撃破して、国内を統一しました…。」

ひとつひとつ突き詰めれば間違った考え方ばかりなんですけど、

皆様怒らないでください。

私自身がこういう見方を本気で信じているわけではありません。

ですが中学校の教科書やテスト、今の中学生の様子から察するに、

こんな教え方が一般的なのではないでしょうか。

(今の日本人にとっての戊辰戦争ってこんな感じなのかも?)

ま、私も塾の教室ではこんな教え方をしているんですけど。

本当はもっと詳しく歴史的な事実ってやつをいろいろ教えたいんですが、

なにせ中学生に難しいこといってもわからないだろうし、ゆっくり考える時

間も無いんですよ。

ならばわかりやすく説明だけして、かんたんに流してしまおう、というわけ

です。

「教育現場での戊辰戦争」については、また後日ご報告したいと思います。

-------------------------------------
日本の教科書の記述がひどい。

私は以前からそう感じている。

これではじめから賊軍である。なぜ戦ったのか。

それも教科書に盛り込む必要があると痛感している。

この問題、もっと論議を深めたい。

鳥居さん、ありがとう。次の機会に、中学生の反応など教えてください。
△top
2006年3月27日(月) 歴史認識の地域差
最近、会津若松の中学校の先生から、歴史認識について、

貴重な意見を聞くことができた。

中学生に戊辰戦争をどう教えるか。

その先生は研究を進めていた。

その結果、いろいろな見方がある。

それを子どもたちの教え、考えてもらう。

そうしたことをおっしゃった。

たとえば長州萩に行って戊辰戦争を聞いても、あまり関心がない。

幕府との長州戦争の方が有名である。

鹿児島で聞いても反応はうすい。

関心事は西南戦争である。

盛岡に行くと戊辰戦争の怨念はない。

責任をとって家老の楢山佐渡が切腹している。

しかし原敬が薩長閥を打倒して内閣総理大臣になったことで、

われわれは勝ったという誇りをもっている。

地域によって歴史認識はさまざまであった。

そこから、どうまとめ上げてゆくのか。

大変だが注目される研究である。
△top
2006年3月26日(日) 第2回山川記念シンポジューム
山川健次郎先生を記念する「第2回山川記念シンポジューム」の計画が

九州工業大学で進められている。

昨年、東京の武蔵大学で第1回山川記念シンポジューム が行なわれ

星も参加、会津藩と山川健次郎についてスピーチした。

このとき朝日新聞夕刊「窓」論説委員室の辻篤子記者が、朝日新聞に「正座の人」

と題して山川を紹介した。
--------------------------------------------------------------------------------

朝日新聞「窓」

星座の人 山川健次郎の名を知る人は、多くはないかも知れない。

明治から大正にかけて、東京帝大総長を2回、12年近く務め、

一時期は京都帝大総長も兼務した。

九州帝大の初代総長でもあり、教育界では「星座の人」と呼ばれた人物だ。

社会を導く人、という意味だそうだ。

東大で日本人初の物理学教授となり、原子模型で知られる長岡半太郎を見出して育てた。

偉大な教育者として、日本の物理学の育ての親として、その功績は語り継ぐべきだ。

そんな声が「世界物理年」の今年、強まっている。

アインシュタインが特殊相対論など三つの革命的な論文を発表してから

100年を記念する年だ。

幕末、会津藩の白虎隊員だった。幼少組だったため生き残り、

才能を見込んだ黒田清隆のはからいで、米エール大学に国費留学した。

太平洋を渡る船上で「これからは理学に時代」と気づき、物理学を選んだ。

73歳で東京の私立武蔵高校校長に就任。私費を投じ、

生徒の外遊制度を作り、寮を訪れては生徒の悩みに耳を傾けた。

「山川健次郎伝」を著した作家の星亮一さんは

「今こそ、山川のような真の教育者、指導者が必要なとき」という。

「本物教育が出る杭を伸ばす」

と題した第1回山川記念シンポジュームが24日、黒川清日本学術会議会長、

有馬朗人元東大学長らの呼びかけで、ゆかりの武蔵学園の大講堂で開かれる。

「辻篤子」

九州で開かれる第2回シンポジューム

私もぜひ参加したい。


△top
2006年3月25日(土) 会津武士道の人、山川健次郎
朝から多忙で、この欄をかけずにいる。

安達太良はすごくきれいだ。

それをあとで書いて見たい。ここまでで白紙、

そのまま夕方になってしまった。

安達太良の白雪も見えなくなった。

時おり、パソコンで野球の結果を見た。楽天はどうか。

金村好投、開幕戦飾る 日−楽評

 日本ハムは、金村の好投で3季ぶり開幕戦勝利。緩い球を効果的に使い、

7回を4安打1失点。打線は1回に小笠原が先制ソロ。同点の4回には稲葉、

高橋の適時打で2点を奪った。楽天の一場は6回3失点ながら援護がなかった。

とあった。あああ、

楽天応援団の一人としては残念である。

今日は、山川健次郎の東大総長時代の演説集を読んだ。

山川は帝国大学公布記念式ではこう述べた。

人間は品位、品格、信用が大事である。

品格のない男が、権力者の中にいるが、その男は、幕末維新のドサクサの中で

権力を握ったものである。

と痛烈に薩長藩閥政治を批判した。

山川は会津武士道の人、決して自説を曲げなかった。
                      
△top
2006年3月24日(金) 武士道2
神保修理の自刃
 
神保修理、諱は長輝。資性活達にして膽気あり。

家老神保内蔵之助の嫡男にして、一藩に重望あり。

と「幕末会津志士伝稿本]にある。

慶應二年、会津藩は時勢に鑑み藩政改革、人才登庸のため、

修理を西洋文明輸入の門戸たる長崎港に派遣し、内外の大勢を観察させた。

長州人が京都を去り、討幕の過激論者が一時屏息して小康を得た時期だった。

修理は広く内外人に接し深く伊藤博文・大隈重信等に交り、

大に得る所があった。

修理は常に、国内の小争を排して拳国一致以て外国に当たるべきと考えた。

当時長州藩士の藩外に旅行する者は皆変名していた。

伊藤俊助君、なぜ変名するのかといって、博文を驚かせた。

会津にも修理のような男がいた。

慶應三年十二月、王政復古の命出るや、修理は長崎より大阪に馳け戻り、

君側に仕えた。

四年正月、鳥羽伏見の戦争が起こった。

修理は戦争に反対だった。話し合いによって解決したいと考えた。

将軍慶喜に江戸に戻るべきだと進言した。

慶喜は会津藩主、松平容保をつれて突然、逃亡、江戸に戻った。

部下を見捨てて敵前逃亡したのである。

このため幕府、会津軍は敗北、ほうほうの体で江戸に逃れた。、

修理は逃亡を知らなかった。

しかし江戸に戻ることは間違いなく進言した、

腰抜けを糾弾された慶喜はすべての責任を修理になすリ付けた。

容保も同じ態度だった。

修理は主君容保の不始末、敵前逃亡の罪をかぶって切腹した。


「修理は君意の在る所を察し、感泣して曰く、予罪なし雖ども、

苟も脱檻して死を免がるゝが如きは君に優桑不断の誹を負はしむるなりと、

従容剣に伏して死す。」

時に二月十三日。享年28歳とこの本にある。

主君の身代わりになって腹を切るのも武士の務めだった。

それにしても容保の冷たさは一体、なんだろうか。疑問が残る。
△top
2006年3月23日(木) 武士道とは
民主党の渡部恒三さん、

永田議員の煮え切らない態度には、さすがに立腹、

会津のサムライならば、とうに腹を斬ったと憮然とした。

サムライの掟は実に厳しかった。たとえば斬りあいになって、

負傷して逃げ帰ったとき、武士の面目が立たないと切腹することもあった。

池田屋事件の後である。

新撰組の屯所に不審者ありの通報があった。

たまたまいた会津のサムライ柴司が飛び出した。

ある料亭を囲むと、一人のサムライが飛び出し、逃走をはかった。

柴はとっさに槍で相手を突いた、

ところがこの男は土佐のサムライだった。なぜ名前を名乗らず逃げたのか。

問題はそこにあった。土佐のサムライはその間の事情を

土佐藩の当局に問い詰められた。そして逃げことを恥じ切腹してしまった。

この通報を受けた会津藩は、苦しい立場に追い込まれた。

結局、柴司にも切腹を求める結果になってしまった。

柴には誠に不運な出来事だった。

会津藩と土佐藩の事情によって、まだ二十歳そこそこに柴が命を落とした。

サムライとはそういうものだった。

実に過酷な身分だった。

映画で見るサムライと現実のサムライにはおおきな開きがあるのだ。

明日はもう一人の切腹を見つめたい。
△top
2006年3月22日(水) 考えるべきは日本
今朝の新聞は野球一色だった。日本だけではない。

日本は一流の中の一流−。21日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、

胴上げされる日本の王貞治監督のカラー写真を大きく掲載し、

「米国は自らを世界最高のチームだと思っていたが、真実は違っていた。

日本は大リーガーが2人しかいないにもかかわらず優勝した」

と報道した。

私も今回は燃えた。なぜこんなに燃えたのか。それは日本が戦っているということだった。

日の丸アレルギーはもうどこにもない。日の丸が実にすばらしく見えた。

日本もそういう時代になったのだ。

私が取り組んでいる日本近代史も会津VS長州の対立構造から

融和の時代に転換させたい、そう感じた。

最近、松平容保の末裔が個人的意見として和解反対を語ったが、どうだろうか。

対立からなにがどう見えてくるのか、

私は重箱のすみをつつくような、感情的史観は、やめるべきだと思った。

それは2年前から抱き続けてきたことで、いつ、どこでどう発表しようかと

考えてきた。

日本はひとつなのだ。

今回の野球は歴史観を変えるインパクトだった。
 
△top
2006年3月21日(火) 会津に映画村誕生
まずは野球、優勝、おめでとう、バンバンザイである。

ここからは会津のニュース。

会津藩校日新館が映画村として再スタートすることになった。

この学校は藩祖保科正之は、学問奨励のため、諸国から学者を招くとともに、

自らは四代将軍家綱の補佐役として講義をした「稽古堂」にはじまる。

 五代藩主松平容頌の時、「教育は百年の計にして会津藩の興隆は人材の育成にあり」

とした家老田中玄宰の進言によって、藩校日新館が完成した。

5年の歳月を費やしました学校で、孔子を祀る大成殿を中心に文武の教場が並び、

医学や天文学までも教えた学問の殿堂だった。

 藩士の子弟は、10才になると「素読書」(小学)に入り、試験で進級すると

「講釈所」(大学)で学びました。教科は多岐にわたり、

当時全国三百藩中随一と自認するほどだった。

戊辰戦争で散った白虎隊の少年たちもまた、この日新館で学んだ。

会津戦争で失われ、野外歴史博物館として復元されたが、

経営は困難だった。

今回、映画俳優の千葉真一らの協力で、映画村に生まれ変わる。

映画村は9月オープン、

大いに期待される。



--------------------------------------------------------------------------------
△top
2006年3月20日(月) 今日は月曜日、
昨夜、テレビを見すぎて頭が重い。

大河ドラマ、ニュース、ナチドイツの宣伝相ゲッペルスの記録映画、

随分、見てしまった。

これから朝のコーヒーを飲んで、気分一新である。

午後から会津藩の教育について原稿を書いた。

ならぬものはならぬ

という教え、

藩校日新館の教え、

なかなか難しい。何度か書き直した。現代人にわかりやすくどう表現するか、

まだリズムがつかめない。
△top
2006年3月19日(日) イチロー「3敗は許されない」自身の美学で快勝!
もう負けない!! 

イチローは試合の前に「魅せて勝つ」という自身のプライド、美学を捨てて、

勝利をもぎ取りにいくことを宣言した。

確かにその通リの戦いだった。

打ち、はしり、全員を引っ張った。

ラストサムライのような姿だった。

これぞ大リーガー、

イチローは日本国民に大リーガーと日本人のプライドを見せてくれた、

イチロー、頼む、私は原稿を中断、パソコンにかじりついた。

仕事場にはテレビがない、パソコンが頼りだった。


息詰まる熱戦

7回、やった

イチローの適時打で日本、5−0とリード広げる.
 
福留2号で突破口を開いたのだ。

これを知って狂喜乱舞!!

あと3回だ,

そして日本は6対0で奇跡的に快勝した。

最高の日曜日だった。

早めに帰宅してテレビを見よう。

イチローはすごい、感動した。

やはりサムライだ。

彼はサムライだった。




△top
2006年3月18日(土) 今日はNHK福島そして研究会
昨夜は東京駅8時半の電車で、かえってきた。

奇跡が起こって野球はもう一度、韓国と試合ができる。

力まないで気楽にやれば、案外楽勝かもしれない。

今日のテーマは「会津戦争全史」、

会津戦争後の斗南藩を話そうかと思う。

引き続き、福島で戊辰戦争研究会の打ち合わせである。

土方副長、坂本竜馬、照姫らが集まり、仙台の日帰り研修などを話しあう。

さて私は急に多忙になった。4月下旬まで

「ならぬものはならぬ」

原稿を仕上げねばならない。

焦る、焦る、落ち着け、落ち着けである。

-------------------------------


ところで民主 永田氏は辞職を強く否定、渡部黄門様も苦い顔だ。

党内では永田氏について衆院懲罰委員会の結論を受けた段階で自発的に

議員辞職すべきとの意見が強まっているが、

永田氏は「今の時点で(辞職は)全く考えていない」

と明確に否定している。

往生際が悪いね。
△top
2006年3月17日(金) イチローの気持ちがわかる
イチローは韓国に敗れて、歯軋りして悔しがった。

非常に立派だった。

誰かが言っていたが、今回のコーチ陣、国際試合の経験が極めて少なかった。

この前のオリンピックと同じで、日本のマスコミもコーチ陣も、

油断があり、韓国チームの強さは、まったく報道されていなかった。


それから何度もいうようだが、松井の不参加は、やっぱり引っかかる。

自分の都合を優先して断った態度は反省すべきだ。

そういう意識が、すでに韓国に負けていたのである。

来年は城島も出るだろう。松井、井口も出るだろう。

そこに期待したい。

イチローの悔しさを日本の野球フアンはかみ締めるべきだ。

ーーーーーーーーーーーーーーー

今日はこれから東京である。

神田の古書店を回り、本を探して歩く。

出版社の編集者にも会い、次の企画も打ち合わせ、東京駅周辺で

生ビールを飲み、9時ごろの電車で帰る。
△top
2006年3月16日(木) 朝日新聞天声人語
今朝の朝日新聞、天声人語にわれらが渡部恒三さんが出ていた。

ここにででれば、もう押しも押されぬ黄門様である。

以下はその内容である。


 衆院の副議長を長く務め、民主党の国会対策委員長に今月就任した渡部恒三氏は、

党内では「黄門さま」とも呼ばれているそうだ。

その渡部氏が役員会で取り出したのは、印籠(いんろう)ならぬ

「起きあがり小法師」だった。地元会津の民芸品で、倒れても起きあがる縁起物だが、

前原代表の手元の小法師は倒れたままだった。 

「転び方が悪かったのかなあ」と渡部氏。

小道具を操りながら、とぼけた感じを漂わせる。


苦境に沈む党を何とか持ち上げようと、ひなびた芝居を演じているようにも見える。

 きのう、民主党と永田寿康議員の連名の「『偽メール』に関する謝罪文」

という広告が新聞に載った。「メールは全くの偽物」とし、

「事実無根」を2度繰り返す。白旗を掲げて早々に幕を引きたいのかも知れないが、

れで反転攻勢に回れるのだろうか。

 若い日の渡部氏は、後に自民党の総裁になる石橋湛山氏に傾倒していたという。

石橋氏は1956年、昭和31年12月に首相に就任したが、

翌1月に病に倒れ、2月には党幹部らに辞意表明の書簡を書いた。

「友人諸君や国民多数の方々からはそう早まる必要はないという御同情ある

御考えもあるかもしれませんが、私は決意いたしました」
(『石橋湛山全集』東洋経済新報社)。

 国会の審議に出席できない以上、辞任すべきだとも記した。

国会は常にその機能を十分に果たさなければならない、

という国民への義務感が読み取れる。

 このところ国会では、国民の暮らしとは関係のない騒ぎが続いた。

そろそろ、こちらを向いてもらいたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

恒三さん、頑張って下さい。

これから何かとお願いもあります。

会津と長州の予備折衝です。

近々、議員会館におじゃまします。

------------------------------

野球は負けた。

0対0で中盤へ

2回裏、8番の里崎智也捕手(千葉ロッテ)がライト前ヒットを放ったが、

二塁走者の岩村明憲三塁手(東京ヤクルトスワローズ)はホームでタッチアウト。

惜しくも先制機を逃した。

ああ、残念

もう9回裏だ、

1 点返した。

でも遅い。結局、負けた。

いつの間にか、日本は韓国に突き放されていた。

松井、なぜでなかったのだ。井口もしかりだ。

ここに日本人の問題がある。

日本という意識がない。

個人主義の敗北だった。

すべての面で完敗といえた。
△top
2006年3月15日(水) NHKラジオ第一放送の収録
今日は4月6日、7日の両日午前4時5分から45分まで放送する上記ラジオ放送

「こころの時代」の収録日。

担当の中野さんが、東京から私の仕事場に見えて、収録した。

話す内容は6日放送分が、

「師の恩に報いるために、私と会津戦争」

7日分も同じタイトルだが、北東文芸協会を中心に私と文学を話する。

全国放送なので、北海道から沖縄までどこでも聞ける。

午前10時から収録開始、

これがなかなか大変な作業だった。

途中で同じNHK文化教室の仕事が入リ、収録場所をNHK郡山文化センターに

移して午後4時頃までかかってしまった。

内容はあれこれ、全部で80分なので、随分しゃべった。

大学時代の恩師、豊田武先生、石井孝先生のこと、

先輩のこと、奥羽越列藩同盟のこと、会津と長州のこと、仙台藩の玉虫左太夫のこと

北東文芸協会のこと、戊辰戦争研究会のこと、延々と続いた。

皆さん、時には早起きして聞いてください。


--------------------------------

野球

明日勝て!

負けるな日本、気合をにれて応援
△top
2006年3月14日(火) アメリカの審判はひどすぎる
戊辰戦争研究会流にいえば、

とんでもないやろうだ、張り倒せ!

である。

今朝、テレビで見たが、完全にセーフだ。

三塁審判はなにをやっているのだ。

大体、松井がでないからこうなるのだ。と八つ当たりしたくなる。

日本人メジャーリーがーは全員、出るべきだった。

愛国心の欠如である。

だから日本はだめなんだ。

残りはメキシコと韓国

死ぬ気でやるしかない。

救いはアメリカのマスコミ論調だ。

USAトゥデーは「テレビのリプレーを見る限り、西岡の判定を変えたのは間違いである」

と主張。ニューヨーク・タイムズ紙は「野球を通じて友好を深めるはずの大会で、

最初の事件が起きた」と批判した。

同情はされたくない。勝利してほしい。
△top
2006年3月13日(月) 月曜日、ドラマの一日
肌寒い朝である。

お茶を飲んでパソコンを開いて、アメリカとの野球が大接戦だ。

どうなるのか。

9回裏である。1点はいればサヨナラ負け、しっかり守ってくれ。

それから5分後にメールを見たらサヨナラ負け、

残念無念、判定に微妙な問題があったらしい。

松井が出ればなあ、という思いもした。

夕方、友人のライターから電話があった。

「ならぬものはならぬ」

のことである。私が書こうとしていることを、相手は知っている。

「渡部恒三さん、すごいですね」

ジャブがはいる。

「まあね」

「ならぬものはならぬ、進んでますか」

「結構、難しいね」

「出版社は決まりましたか」

「いま、微妙な段階」

「というと」

「もうちょっと」

言葉を濁した。A出版社の企画会議が今日なのだ。

時間が大分、経過している。もう6B時だ、だめなのかなあ。となれば他社になる。

そのときである。A社からメールがはいった。

「企画通リました」

短い文章である。

入試の発表のような日だった。

20日からこの原稿執筆にはいる。

責任重大、頑張ろう。
△top
2006年3月12日(日) 国家の品格
今朝のテレビに、国家の品格の藤原さんと中曽根元総理がでていた。

藤原さんの硬派の意見、インパクトがあった。

日本崩壊を論じ、経済至上主義を批判した、

中曽根さんは教育改革を論じ、道徳教育、修身の復活を叫んだ。

昨今の異常犯罪をみていると、教育や家庭が崩壊していることは、

間違いなかった。

二人の意見を私がどう感じたか、

テレビは白熱したものだった。

藤原さんは女系天皇などおろかだ。

小学校での英語教育など意味がない。

経済第一種はだめだ。

小泉内閣は完全否定だった。

中曽根さんもこれにのり、老人も使えと国民総参加の日本改造を強調した。

渡部恒三さんに刺激されたらしい。

さて藤原理論、明快である。ずばずばと切り捨てる。

大変な人が現われたという感じである。

さて私の意見、

英語教育、やっぱりすべきだ。問題は国語や日本の歴史も

しっかり勉強せいということだ。これは大賛成。

天皇は男系でなければならない。

ううん、どうだろうか。天皇は国家の元首なのか、単なる象徴なのか、

今日の天皇家は、どうも混迷の部分もあり、いまいち、盛り上がらない。

もう少し様子を見よう。

その他、もろもろあった。

皆さんの意見も聞きたいな。
△top
2006年3月11日(土) 政治家はサムライ
民主党の渡部国対委員長、

大変な活躍である。

老人パワー炸裂である。渡部さんもおわりかなあと思っていたので、

嬉しい限りである。

「政治家はサムライ、腹を切らねばならぬときがある」

会津人らしい明快な論理である。

これまで誰も言及しなかったことが、おかしかった。

会津藩には「ならぬものはならぬ」というおしえがあり、

理不尽な行為があったときは、切腹せよと6歳の時から

教えられてきたv。

母親が仏壇の前につれてゆき、

「切腹ですぞ」

と切腹の作法を教えた。

厳しい戒律だった、最初、これを知ったとき、重すぎると思った。

しかし、男たるもの、責任をとらねばならぬときは、切腹する、

その気構えは大事だった。

会津武士道は厳然と存在することになる。
△top
2006年3月10日(金) むつで会津藩と斗南藩の討論会を
むつでの討論会

斗南会津会から賛成の意見が寄せられた。

大間の木村さんのご意見だが、

三沢、八戸、五戸、十和田などの会津会の

関係者に呼びかければ、賛同する方はもっと増えるのではないかと思う。

以下は木村さんのメール。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

大変素晴らしい企画だと思います、早速斗南会津
会の主なメンバーへ星先生からのメールをファックスにて送信致しました。私達末裔
にとっても先祖の歴史を一人でも多くの人々に知ってもらう事は有り難い事ですし、
又下北の観光の一助にも成り、みなさん大賛成かと思いますが、丁度今月20日にむ
つ市のグリーンホテルで会の有志主催で蕎麦会を行う予定になっておりますので
先生の企画に話が弾む事でしょう。蕎麦は前回大間まで同行された太田さんが先祖達が辛酸をな
めた斗南ヶ丘に種を蒔いて栽培されたもので、本物ズバリです、さぞかし感慨深い物にな
る事でしょう。その結果は後程又           大間 木村


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

提案理由


小生、

昨年から今年にかけて2回ほど御地を訪ね、斗南藩の跡を取材してきた。

斗南での暮らしがよく保存されており、会津武士の魂を見ることができた。

そこで、秋に会津、斗南の討論会が考えられないものか。

時間的にあまりおおきなものは難しいと思うが、

200人規模のイベントなら間にあうのではないかと、思った次第です。

可能であれば双方の市長、

私も出ますし、青森の斗南藩研究家の葛西さん、三沢、八戸、十和田、野辺地、

五戸などからも関係者に出席を依頼し、

さらに、青年会議所関係者も出て、自由闊達に討論する。多分、全国からも人が来るので

翌日は観光で、恐山、柴五郎の家の跡、それから大間の会津斗南資料館などを見る。

全国に呼びかければ、そこそこ人は来る。出演者はボランティアで協力する

となれば、そんなに金もかからないのではないか。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー^

ということである。
△top
2006年3月9日(木) 今夜、ジャズピアニスト安井さち子の演奏会
私が一度、聞いてほれ込んだジャズピアニスト安井さち子の演奏会が

今夜、郡山市のジャズ喫茶「モンクス」である。

友人の氷室君がベースを弾くので、それもあって出かける。

午後8時開演である。よければ皆さんもお出かけください。

この人、安井さち子のピアノはニューヨーク仕込み、日本ナンバーワンだが、

文章もまた、歯切れがよくて、パンチがあって、

しかも涙、笑い、怒り、メリハリがはっきりしている。

これは3月3日の日記である。


さち子の独り言

 2006/03/03  大成功!!!!
安井さち子、幸せ者です、ウルウル(嬉涙)
1ヶ月ほど前、ホールから「まだ14人しか予約がないんですが…」と宣告された日にゃ、マンションから飛び降りようと思ったくらいです(→ちょっと大袈裟か、ははは)
それが、当日、満席となりました!!!
これも皆様のおかげです!!!!
以前の日記にも記しましたが、もう一度、お礼を言います!
来て下さった皆様、どうもありがとうございました!

3月3日、美容院でヘアメイクして、バッチリ決めたつもりの私。
な・な・な〜んと、美容室を出ると雨が…。
慌てて近くのコンビニで傘を買い…。
私は、「晴れ女」。
だいたい、大きなイベントでは、晴れるのだ。
うーーん、なんか嫌な予感??忘れ物でもしたかな?いや、していないはず…。
いやいや、そんなこと、思っちゃいかん!
もう、コンサートは始まるし、引き下がれんのだ!

4時に会場入り。
M&Iの横田さん、山下さんは既に会場に入っておられた。

山下さん、開口一番「あら、どこのお姫様かって思った!」と、いつも褒め上手なんだからぁぁぁ!
さすが、私のプロデューサー、私は褒められて大きく育っていくのを知っているのねぇ…。

内幸町ホールのスタッフも、ニコニコ顔!
「今日、千代田区長もお見えになりますよ!」と。
うーん、すばらしい!ワンダフォーな一日だ!

次々とミュージシャンも会場入り。

サウンドチェックを始める。

前回のゆめりあホールの時は、全くPAなしだった。
今回は、軽く、モニターでベースの音を返してもらったが、ほとんど生音に近い状態でのライブ。

ピアノの調律師さんが私に、「前も京王プラザホテルのパーティーでお会いしましたね」と。
私は、数秒沈黙のうちに思い出した。そっかぁ、先々月の京王プラザホテルのパーティーの時も、同じ調律師さんだったんだ!
うーむ、世間は狭い!

さてさて、リハも終わり、後は、本番を待つのみ。

NHK奈良のKさんもわざわざ奈良から来てくださった。
3月20日にNHK奈良に出演するのだが、その前資料として、コンサートの撮影に…。とてもありがたい。

お弁当を食べ、ドレスに着替えてと…。
今日は、コンサートなので、1セットごとに衣装を変える。
1ステージは赤のドレス、2ステージは新調したクリーム色の上と黒のパンツ。アクセサリーも靴も2ステージ分を用意!


メンバーに曲順の相談やら世間話。

開演時間が迫ってきた。

さて、深呼吸して、いざ本番。

ホールでのコンサート、研ぎ澄まされてすごく一音一音が粒立つ。
この経験は、私のピアノを成長させてくれるのだ!
1ステージ、楽しく終了。

さて、2ステージの前に、衣装変え。
ドレスを脱いで、2ステージに着る上のクリーム色の上着を着た。
さて、黒のパンツをはいて…。
えっと、えっと、パンツは…、えっと。
えぇぇぇぇ〜〜〜〜〜〜!
忘れた。ガーン!
昨日寝る前に持ってく衣装をクローゼットから出して、後、衣装ケースに入れるだけの状態にして表のハンガーに掛けておいたんだけど、それから、黒のパンツだけ、衣装ケースに入れるの忘れた!!!!!!!!

慌てて、もう一度、赤のドレスに着替えなおす。

しっかし、私って本当に、おっちょこちょい!!!
ステージ始める前に、ベースの井上さんに「ステージ上でつまずいてこけない様に!」と注意されていたのに、今回ステージ上でこけはしなかったけど、忘れ物して大いに精神的にこけてしまった!!!

でも、殺されたわけでないんで、気を取り直して、2ステージ。

2ステージも、うまく力が抜けて、いい演奏だったと思う。
「ひな祭り」らしいフレーズを取り入れてみたり、遊び心あふれるいい内容だったと思う。

そしてアンコールをいただいた。

「The Sandstorm」
会場から、拍手が起こる。
私のオリジナルに拍手が送られるとは本当に作曲者冥利に尽きるものだ!!!嬉しい!この息子(曲)を生んで(作曲して)よかった!!

大盛況に終わり、CD販売とサイン会。

なんと長蛇の列。ありがたや、ありがたや。

確か、私が4才の時以来会っていない父方の川崎に住む叔母に再会。
顔みてすぐわかった。だって私と似てたから(笑)
私の音楽活動にはじめは反対していた父も、今じゃ、陰で、私の東京のコンサートの案内を配ったり、CDショップで私のCDを買ったり。実家には、なんと10枚以上、大阪、京都、奈良で両親が買ったCDが山積みだ。そんな父は、痛風で、東京に来れなかった。
母は祖母の介護。安井家は、まるで老人の館と化している(笑)
私の東京の活躍が、一番の明るい話題だと母が言っていた。

コンサートも無事終わり、花束やら、衣装やら、CDやらで、とても一人で持って帰れない様子をみて、横田さんが、家まで送ってくれることに。

家について荷物を置いて一息。

ほっとして玄関で顔を上げると、今日2ステージではく予定だった黒のパンツが、私の帰りを、首を長くして(?)待っていた。

あぁ、やっとこれで3月3日のコンサートは終わったんだ!

お疲れさま!安井さち子!!!!
△top
2006年3月8日(水) ついに戊辰戦争研究会ホームページ完成
会員募集のところをクリックすると、すばらしい世界が現われる。

中村副長の努力はすごい。

衝撃のページである。

白虎隊士のマスコットも可愛い。これでいよいよスタートだ。

ただし、まだ交信はできない。

見るだけ、でも十分に価値あり。


---------------------------------------------
ホームページ関連

過日、青森県のむつ青年会議所に私個人名で、下記の提案を行なった。


むつ青年会議所御中

企画のご提案     

仮題

「下北半島 風と海と光」
 第1回討論会
 ー斗南藩と会津藩、その高潔の魂ー

主催、むつ青年会議所
後援、会津青年会議所、
むつ市、
会津若松市
協賛、戊辰戦争研究会
(いずれも案)

企画趣旨

小生、

昨年から今年にかけて2回ほど御地を訪ね、斗南藩の跡を取材してきた。

そこでかんがえたのですが、秋に上記のイベントが考えられないものか。

時間的にあまりおおきなものは難しいと思うが、

200人規模のイベントなら間にあうのではないかと、思った次第です。

可能であれば双方の市長、

私も出ますし、青森の斗南藩研究家の葛西さん、

あるいは、タレント性のある人

さらに、青年会議所関係者も出て、自由闊達に討論する。

翌日は観光で、恐山、柴五郎の家の跡、それから大間の会津斗南資料館などを見る。

全国に呼びかければ、そこそこ人は来る。出演者はボランティアで協力する

となれば、そんなに金もかからないのではないか。

目玉のひとつは大間の資料館である。

あれはなかなかのものだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー^

ということを書き連ねた。

場合によっては、むつではなく、小規模のものを大間で行なう手もあるだろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
追伸

以上は私の提案に過ぎない。

打ち上げた以上、

最小限、何かはしなければならない。

それは別の機会に。
△top
2006年3月7日(火) パラオ、ペリリュー島に行きませんか
星亮一と行くパラオ、ペリリュー島の旅

4月25日から出かけます。

「南太平洋の激戦」ペリリュー島玉砕ー

を書きます。

日程は下記の通リです。

4月25日、成田午後4時、コンチネンタル航空でグアムへ、コロール島に宿泊

4月26日、高速船でペリりュー島へ、日本人慰霊碑、ゼロ戦残骸、日本軍戦車残骸
      高射砲残骸、平和記念公園など見学

4月27日、島内観光、戦跡博物館、残留兵洞窟跡見学

4月28日、コロール島観光、旧南洋神社跡、日本人墓地、国立博物館

4月29日、グアム経由成田、午後9時10分着

料金、成田発着、238、000円

主催、NHK郡山文化教室、

郡山ー成田はバス運行

問い合わせ、024−933−0022、NHK郡山文化教室

ここはすごい、戦車、ゼロ戦の残骸がごろごろしている。

いい写真が撮れそうだ。
△top
2006年3月6日(月) 週の始まり
朝一番で奥羽大学歯学部附属病院にいった。

歯の定期検診である。歯はめためたに悪い。

10時に仕事場に戻った。すぐ会津若松市の観光課に電話して、

板東俘虜収容寿所長、松江豊寿の出生地の問題を問い合わせた。

会津若松か、

青森県の斗南か、

二説あって分からない。

多分、2、3日中にはっきりするだろう。

そこへプレりュー島の取材旅行の問い合わせがあり、

昼になった。

午後は原稿を書いた。

第一次世界大戦は4年に及ぶ長期の戦いだった。

大正八年6月、パリで講和条約が調印されたが、ドイツに対する処分は

あまりにも過酷だった、

賠償金1320億マルク、日本円に換算すると40億兆円から80億兆円、

植民地は全部奪われ、板東俘虜収容所にいた俘虜約1000人の中から

153人がオランダ領インドシナの警官になった。

ナチが台頭し、第二次世界大戦が起こる。あまり痛めつけてもだめなのだ。

午後3時、そんな状況である。

夜、も原稿。

某社の敏腕編集者からメールが入った。

「どうして会津のサムライは純粋なのですか」

この方は昨今、イナバウアーに凝って、鏡の前で練習しているとか。

「そうですね、なぜかな、会津の水がよかった、女性の力が強かった」

「ちょっと、ずれてませんか、水が悪いと人間、不純になるのですか」

「それは免疫が落ちて、いらついてくる」

「まだ説得力に欠けますね」

「そうか、決め手は女性です。しつけが厳しい、なにせ毎日、切腹の稽古

です。6歳からですよ」

「それですね」

メールでこのようなことを交換した。
△top
2006年3月5日(日) 朝の電話
朝、電話で打ち合わせをした。

いま「坂東俘虜収容所」を書いている。

何気なく毎日新聞が以前出した「一億人の昭和史」をみていたら

板東俘虜収容所の写真が出ていた。

ドイツ人俘虜が撮影した板東の風景である。

若い女性や子どもたちの表情が、生き生きととらえてあった。

すごくいい写真である。

これを使おうと思い、鳴門のドイツ館に電話した。

担当の方が大変親切で、すぐ対応してくれた。

送ってくれるという。

いい写真を掲載できそうだ。

その後、八重洲ブックセンターの石塚店長に電話し、

「敗者の維新史」の対応を話し合った。

残部は八重洲ブックセンター郡山店にいれてもらい、

4月の郡山自由大学の小生の講義で

「敗者の維新史のお別れ講座」を開くことにした。

本はその時のテキストである。

それやこれやで昼になった。

なにを食べようかな。

午後、古書店に出かけた。

てんとうふ

郡山駅前店である。本店に頼んでおいた戦史叢書「中部太平洋作戦2」が入った

というので出かけた。

最近、新店舗に移り、なかなかきれいな店になった。

店員だった人が独立してオーナーになった。

1冊100円コーナーがあり、戦史叢書とあわせて4冊求めてきた。

戦史叢書はペリリュー島の戦闘を見るためである。

実は4月25日からペリリュー島に取材に出かける予定である。

かなりの激戦で、日本軍1万人、米軍2千人が戦死、傷者は日本4百人、米軍7千人

だった。日本軍の傷者が少ないのは自決したためである。

若干枠があるので、同行を希望する方は、メールでどうぞ。

滅多にいけないし、ゼロ戦の残骸もある。

加えてすばらしい海だそうだ。

昼飯は結局、古書店に行く途中のたち食いそばになった。

てんぷらそば350円である。
△top
2006年3月4日(土) 別れのとき
午後、中央公論新社から手紙が届いた。

私が中公新書から最初に出した本「敗者の維新史」が絶版になるという

知らせであった。

夏頃からその予感はあった。店頭から姿が消えていたからである。

書店に聞いても「品切れです」という返事だった。もう刷らないのだなあ

という感触はあった。1990年に初版を出し、確か8刷りぐらいまで出た

はずだった、

その後、「奥羽越列藩同盟」「幕末の会津藩」「会津落城」と出していただき、

4冊はきわめて多い方だった

「敗者の維新史」は私が世に出るキッカケとなった本だけに、

感慨無量というほかはない。

残り120部とのことである。

30ぐらいは買い求めて、大事にしまっておこうと思う、

この本は16年間、店頭に並んできた。

そして読者の皆さんに買い求めていただいた。ただただ感謝、感謝である。

出し続けて下さった中公新書の皆さんにも感謝である。

正直に言えば、どこかさびしい、

そんな気持ちではあるが、あたらな気持ちで、いい本を書くしかない。

今後は「奥羽越列藩同盟」「幕末の会津藩」「会津落城」

よろしくお願いしたい。

月並みな言葉だが、頑張ろう。

-----------------------------

午前中の一言
 
日本スケート連盟が荒川さんに贈る報奨金が200万円をと聞いて、あきれた。

98年長野五輪で、清水選手がスピードスケート男子500メートルで金メダルを取り、

その報奨金が200万円だったというのが、理由である

過去がどうしたというのか。

トリノ五輪はたったの1個のメダルなのだ。

1千万円ぐらいは出してもおかしくはない。

まったく夢のない話である。
△top
2006年3月3日(金) 西安のガイド、羅さんからの返信
「読者の声、メール通信」に西安のガイド、羅さんからのメールを掲載した。

折り返し返信すると、以下のメールが寄せられた。

インターネットはすごい。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
星さんに連絡を取って、うれしくてたまらないです。

中国に興味がある友人は図書館でこの本を読んで、私に関する文字を発見しました。

あの友人は私の大学のクラスメートの友達で、西安を旅行したとき、

西安が好きになり、定年して二年間西安で留学しました。そのとき、クラスメー

トはもうカナダに行っててしまったので、クラスメートに頼まれて、

いっかいお伺いしました。

一回だけあったのに、今年の二月、彼は西安に来て、ほかの人からくることを知って、

私をおぼえているかなと心配しながら、訪れました。

私は本に出たことを知りました。星さんと連絡でき、縁ですね。

 昨日あの本を手に入れて、西安に関する部分を面白く拝読しました。

文字だけではなく、撮った写真もきれいです。特に私の笑顔。

太ってから私がカメラの前で体を隠したいほど恥ずかしい

私をそんなに美しく取って。『きれいですよ』と主人もほめてくれました。

今の私は前よりやせました。体も心も別人になったみたい。

元気いっぱい。運動のおかげです。

ではまた 
△top
2006年3月2日(木) 野村市長、やりますねえ
今朝、読売新聞をみて、アッと驚いた。

萩市長の野村さんが、首相官邸に小泉総理を訪ね、

吉田松陰のブロンズ像を贈った。

写真も出ていた。

ブロンズ像は高さ60センチ、萩市役所に飾られていたものだという。

小泉総理いわく。

「吉田松陰も高杉晋作も、現代のわれわれが学ばなければならない教訓、

生きかたを示している。あの維新にかける志を学んでほしい」

記者団にこう語っていた。

次期総理候補の安倍さんも長州である。

野村市長、にんまりといったところである。

問題は会津。

会津若松市長の菅家さん、白虎隊の像あるいは絵でも持参して総理官邸に乗り込み、

「ならぬものはならぬ」

と会津武士道を強調すべきだと思うが、いかがであろうか。

積極的行動が大事、偽メール事件もあったおり、会津武士の魂をPRすべきである。

夕方、ニュースが飛び込んできた。

民主国対委員長に渡部恒三・元衆院副議長

という文字である。

会津出身、ずうずう弁が抜けず、会津では人気の高い政治家である。

民主党の混乱も、これで何とか一件落着するだろう。

渡部さんに、会津のイメージアップも期待したい。

何かをする方である。

長州には強敵かもしれないなあ。
△top
2006年3月1日(水) 武士道の欠如
今回に民主党の問題、民主党の議員には士道がまったくないことが明らかになった。

永田議員はまず辞職すべきだった。

問題を引き起こした以上、辞職して出直すべきだった。

身柄を国体委員長や幹事長に一任したというのは、

自己責任からの逃避であった。

いまの混迷の時代を救うのは、自己責任である。


「ならぬものはならぬ」という精神がなければ、国会議員の資格はない。

前原さんも鳩山さんも、それを甘やかしている。

びしっと引導を渡すべきなのに、半年の党員停止では、国民を納得

させらることはできない。

民主党は国家の品格を大きく傷つけた。

午後は腰痛のため整骨院に出かけ、書店を周り、週刊誌を買い、


それを読んで、6時から郡山駅近くの「だいこんの花」で

新聞記者と一杯飲んだ。

原稿はすこししか書けなかった。

明日、挽回しよう。
△top

株式会社メディアハウス