星亮一 今日の一言

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2008年8月31日(日) おめでとうございます
おはようございます

下記、良かったですね!おめでとうございます!


雑誌、「一個人」、2008年上半期、人生最高に面白い本!

トップ『偽りの明治維新』が選ばれました。

関東、一読者

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これも驚き

月刊現代が休刊 講談社 部数減、11月号で
8月31日8時0分配信 産経新聞


 講談社発行の月刊誌「月刊現代」が休刊することが30日わかった。

読者が高齢化し、部数低迷が続いたことなどが理由という。

同社は1日にも発表する。

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書評

最後の幕臣 小栗上野介」 星亮一・著 ちくま文庫

幕末維新、惜しむべき人物が露と消えた。その偉業も忘れ去られている。

勝者は永遠だが、敗者は歴史の霞の中に見え隠れしている。

同時代に生きた傑物達、共に日本のために努力したのであれば、

あまりにも不平等である。小栗忠順、その人である。

彼の偉業は声を高らかにして数えもできる。

明治に生きながらえていれば、間違いなく勝者であった。

終焉の地を訪れる著者の紀行文から始まり、

その地での斬首までの六十五日間の

不可思議な出来事、推理小説を読むような緊迫感が広がる。

それが討幕軍の罠だと悟ったのは時すでに遅し、骨の髄まで幕臣であった

小栗の慢心か、最後の場面が詳しく説明され、

今さながら悔しい思いにかられた。

その後、家族のみ会津に逃れるが、その苦難の道筋は読みながらため息が出た。

時代背景である会津戦争も簡潔で的確に描かれている。

多くの関係書物からの適切な引用も参考になった。

遣米使節でのアメリカ体験があった。幕府の遺産として明治政府に

受け継がれ近代日本に重要な役割を果たす横須賀造船所の建設や商社の設立、

数多い小栗の偉業にはほれぼれする。フランス公使ロッシュや

横須賀造船所建設の責任者ヴェルニーとの交遊、なるほどと頷く勝海舟との確執、

緻密に構成された本書から、小栗がとても身近に感じられる。

惜しい人を亡くしたという簡単なことでは済まされない、小栗の残酷な死。

小栗が前面に立ちはだかれば薩長は危なかっただろう。

「薩長藩閥政治ではなく、日本列島をまんべんなく結集した政治体制が

できていたのではないか」、

著者の言葉が力強い。

盛り上がる後半、会津藩・秋月悌次郎との友情が光った。

会津へと小栗が身を寄せていたら人生はまた違う方向へと進んで
いたかもしれない。

読み終えて、清々しい思いが残るのは、著者が小栗終焉の地、

上州権田村を

訪れた紀行文が心を癒してくれたのだと思う。余韻が残りました。

倉敷市、高橋

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風雲急を告げるプロ野球界

中日社長「WBC星野監督」を拒絶!!
スポーツニッポン - 2008/8/31 7:01

中日・西川球団社長 中日・西川順之助社長(75)が30日、

来年3月に開催される第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)

での星野仙一氏(61)の監督就任に反対の意向を示した。

北京五輪で日本代表を率い4位に終わった星野氏は、

すでに日本プロ野球組織(NPB)側から非公式ながら

WBC監督の打診を受けているが、五輪での惨敗や、

公の場で議論がないことを疑問視。

9月1日の実行委員会で強く提言することを明言した
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2008年8月30日(土) 驚き、驚き、大人の読書案内、人に「偽りの明治維新」が登場
雑誌、「一個人」、2008年上半期、人生最高に面白い本!

2008年10月号の文庫時代歴史のコーナー

横浜・有隣堂書店、枝川優子さんが選んだ上半期オススメベスト10の

トップ『偽りの明治維新』が選ばれました。

定価680円 雑誌コード:11579-10

大変、名誉なことです。

これはもう、お祝いです。

友人を集めて乾杯です。
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2008年8月29日(金) 今日も一日終わりです。
早い、早い、早すぎます。

明日はしっかり書きます。
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2008年8月28日(木) 会津篭城戦の30日
最後の追い込み中です。

一言も時間不足で、なかなか書けません。

しばらくは一行が続きそうです。
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2008年8月27日(水) ノムさん“物言う日本代表ヘッド”に立候補
ノムさん“物言う日本代表ヘッド”に立候補
8月27日7時0分配信 スポーツニッポン

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面白いね

 73歳の知将が日本代表入りに名乗り!?楽天・野村監督が、

来年3月に開催される第2回WBCの日本代表監督について

北京五輪日本代表の星野監督の続投を支持し、

その上でヘッドコーチ役を買って出る構えを見せた。

 北京五輪の惨敗を受け、注目されるWBCの監督問題。

前夜は巨人・渡辺球団会長が「他にいるか?」と「星野監督」を“推薦”したが、

世間の風当たりが強いのも事実。そんな賛否が渦巻く中、

野村監督は「星野にリベンジさせてやったらええ」と持論を展開した。

さらに星野監督が25日夜のテレビ番組で首脳陣を

「仲良しトリオ」と批判され「(コーチが)

年下だとイエスマンになる可能性がある」と発言したことに対し、

入閣を立候補。「ヘッドコーチが必要?オレがおるやないか」

と年上の適任者として手を挙げた。

一時は「投手出身の監督は視野が狭い」と批判したが、

自らが参謀役としてサポートする仰天プランだ。

 選手選考については「もし、そうなったら4番は

松中(ソフトバンク)、キャッチャーは嶋(楽天)や」

と早くも構想を膨らませる気の入りよう。

裏を返せば野村監督なりの日本野球への誇りと、

世界大会での雪辱への熱い気持ちの表れだ。

最終更新:8月27日7時0分
△top
2008年8月25日(月) ノムさん「投手出身の監督は視野が狭い」
さすがわ野村さんです。

8月25日7時0分配信 スポーツニッポン

楽天・野村監督とソフトバンク・王監督が北京五輪の日本代表敗退についてしみじみ語り合う

 【北京五輪・野球】楽天・野村監督とソフトバンク王監督が試合が

雨天中止となったKスタ宮城の室内練習場で星野ジャパンの“緊急反省会”を開いた。

 王監督の登場前に野村監督は「仲良しグループはダメ。

ピッチャー出身の監督は視野が狭い。データも長いこと集めてたやん。

宝の持ち腐れじゃないの。オレなら使い切る」とバッサリ。

王監督が加わると、さらに「まず、3、4、5番がしっかりしないと。あとは枝葉。

故障者も多かった」とぼやいた。WBCで監督経験がある王監督は

「メンバー編成は難しい。24人しか選べないのは大変」とフォローした。

 最後は王監督が「まあ、見ていると“ああしておけば、

こうしておけば”が出てくるんですよ」と諭すようにポツリ。

これには野村監督も納得したようで

「さすが人格者。これが(通算本塁打)200本の差だな」と周囲を笑わせた。

ーーーーーーーーーーーーーーー

おしゃる通りですね。

星野ジャパンの慢心かなあ
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2008年8月24日(日) 会津藩vs 薩摩藩、福島でベストテン5位
今朝の福島民友新聞、福島市西沢書店調べ

1、O型自分の説明書、文芸社

2、ハリーポターと死の秘宝、静山社

3、悩む力、集英社

4、いっちばん、新潮社

5、会津藩vs薩摩藩、星亮一、ベスト新書

6、偽善エコロジー、幻冬舎

7、夢をかなえる象、飛鳥新社

8、上地雄輔物語、ワニブックス

9、別冊図書館戦争、アスキー・メデイアワークス

10、切羽へ、新潮社
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2008年8月23日(土) 日本のプロ野球は、この程度だったのか。
日本のプロ野球のレベルはこんなものか、

多くの野球フアンが失望した。

北京発時事通信は、こう伝えた

ーーーーーーーーーーーーーー

野球、男子サッカーとも、大会や合宿では多くのスタッフが付き、

高級ホテルに宿泊する。それで、この結果。

大きなファンの支持に支えられて厚遇を受けるプロである以上、

不成績の責めを負うのも当然。ソフトボールの金メダル獲得や、

厳しい環境を乗り越えて3位決定戦まで進んだ女子サッカーの

なでしこジャパンの気迫あふれる戦いを見た後では、

一層むなしさが募る。(北京時事)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

どの試合を見ても日本チームは、諸外国の野球を研究していなかったように

見えてしまった。

どうしてこの選手が出るの、どうして、ここで換えないの、

といったことが目立った。

毎試合エラーする外野手、

三振ばかりしている強打者、

粘りの選手が極めて少なかった。

これを見ると、若い人が大リーグを目指すのも当然と思えた。

すべてが星野さんの責任ではないが、

国民の税金を使って、この程度では、むなしいいオリンピック

だった。

女子のソフト、陸上のリレーがなければ、

日本人には、怒りのオリンピックだったに違いない。

でも逆説的に言えば教訓も一杯あった。

しかし野球はなくなるのだから

雪辱の機会はもうないのである。
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2008年8月22日(金) 野球、大敗、残念
女子のソフトが金だというのに

日本はメダルを取れない可能性すら出てきた。

どうにもならない惨敗である。

星野さん、最初からリズムがおかしかったし、

ひどい貧打だった。

今日はいささか憂鬱である。

もっと打てる打者はいなかったのか。

北京発の時事通信のニュースは厳しかった。

「強敵キューバに屈して波に乗れず、

苦戦が続いた。準決勝を前に、

「韓国やキューバに勝たないと、金メダルはない」

と全員が雪辱を誓ったはず。

だが、一度狂った歯車を元に戻すことはできなかった。
 
最強メンバーで臨んだにもかかわらず、銀メダルにも届かなかった結果は

屈辱的とも言える。国民的な期待も高かっただけに、

そのショックは日本球界に重くのし掛かりそうだ」

ううん、ああ、ため息が漏れる。

夜の楽しみは焼酎の水割りだが、

今日は、あまり飲みたくない心境である。

頭を切り替えよう。
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2008年8月20日(水) 投稿、奥羽越列藩同盟」読書感想文
「奥羽越列藩同盟」 星亮一・著 中公新書 


数年前のこと、関東大震災そして満州と、

命掛けで守っていたという一枚のパスポートの存在を知った。

会津藩士・横山主税へ幕府が発行したものであるという。

海外渡航までして将来を嘱望された会津藩のこの若き指導者が、

戊辰戦争のため、若干22歳で見守る妻子の前であっけなく銃弾に倒れるのだ。

その無念さが、パスポートが現在に伝わったということで理解できる。

複雑に絡み合った幕末史、理解し分かった事柄は、当時の人たちと

出会った様な、そんな感動すら覚える。

この書で、その横山主税の不運と出会う。その背景も分かった。

会津中心でなく、アメリカに行き共和党政治を見て、薩長軍参謀は

旧幕府高官と同じ、許せないと開眼した仙台藩の玉虫左太夫も知る。

河井継之助は、和平工作を蹴られたから開戦したのではない、

その戦いの巧さで、覚悟していたと分かる。そして、会津の梶原平馬を知った。

雲井龍雄も出てくる。一枚の絵巻物のようなスムーズな展開で、

同盟のほころびを丁寧に説明している。主立った人物の人生も紹介して

くれている。

幕末史は薩長が作り上げ、注意して見なければ真実は分からない。

それに対する北方政権の要である奥羽越列藩同盟の存在がある。

それらを組み合わせて、初めて真実の幕末史が完成する。

賊軍にさせ、遠く彼方に追いやった奥羽越を、今、私たちの前に

紹介してくれた。奥羽越列藩同盟を正しく理解できたと思う。

高橋美智子
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2008年8月19日(火) 今日は小山田公民館で講義
1時間半、会津藩や直江兼続のことを話しました。

少々、疲れました。
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2008年8月18日(月) 健康診断
先日、健康診断を行ったところ、肺が引っかかった。

何箇所かに影があるという。

この2年間、も同じことを言われた。

その時の診断は、過去に肋膜炎か肺炎を行い、自然に治った影だということだった。

今回は再調査、CT スキャンを行うべしと、但し書きがあった。

油断大敵、肺ガンに移行したか。

にわかに不安になった。

途端になんとなく胸が痛くなった。

背中も痛い。これは案外、やられているかも知れない。

どうしようか、どうにもなるまい。

ぜひもなし、ということか。あれこれ雑念がぐるぐる回った。

今日、CTスキャンの日だった。

もうまな板の鯉である。

ドクターは2年前から私の肺を見ている方だった。

「うううん、昨年と同じだね。変ってないということは大丈夫ということでしょう」

というご宣託だった。

よかった、よかったということである。

これで原稿も書けそうだ。野球も勝ったことだし、

今日は一杯、飲むことにしよう。
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2008年8月17日(日) 星野監督継投失敗、韓国に逆転負け
昨夜の野球はひどかった。

星野さんの傾倒ミスであることは明らかだった。

いささか腹が立った。

4番新井貴浩内野手の先制2ランも直後に

先発の和田毅投手が先頭打者の四球から李内野手に

同点2ランを浴びた。

9回には岩瀬投手が代打金賢洙に勝ち越し適時打を浴びるなど3失点。

だれが見ても投手交代の時期だった、

初戦以来、星野さんの指揮は

どこかおかしい。審判に退場を宣告され、

リズムが完全に狂ってしまった。

これで金は消えたかも知れない。

楽しみがなくなった。
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2008年8月16日(土) 今日は河井継之助墓前際
只見です。
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2008年8月15日(金) 北島康介の見事な決断
北島康介が引退を表明した。

見事な決断である。

柔道の無様な敗退、マラソン野口選手のコーチ陣の人間無視の

走りこみ、それに比べれば、周囲も立派というほかはない。

今後は海外に留学するとか、国際感覚を見につけ日本水泳会のために

後輩を育ててほしい。
 

◆北京五輪 競泳男子二百メートル平泳ぎ決勝(14日・国家水泳センター)

 史上初の五輪平泳ぎ2大会連続2冠を成し遂げた北島康介(25)

=日本コカ・コーラ=が、北京五輪限りで現役を引退することが14日、

明らかになった。今大会前、近い関係者に「五輪は今回が最後」などと話していた。

この日の男子二百メートル平泳ぎ決勝は2分7秒64の五輪新で、

1928年、32年の鶴田義行以来76年ぶり2人目の連覇を達成。

不世出のスイマーは、第一線でのラストレースとなる

スポーツ報知
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2008年8月14日(木) 星野さん、冷静に
昨夜の野球を見て、日本選手がすっかり萎縮しているの見て、

これはまずいと思った。

とにかく打てない。これでは負けるしかなかった。

一番びっくりしたのは、審判の強さである。

文句を言ったら即退場である。

これも研究の余地ありだった。

日本とはすべて違うのである。

今日からはがんがん、打ってほしい。

星野さんの持ち味は怒ることである。

それは外部には通用しないことも分かった。

今日は冷静に冷静に、笑顔で行きましょう。
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2008年8月13日(水) 偽りの日米開戦、岩手日日新聞、今日のコラム
▼郡山市在住の作家・星亮一さんが近著「偽りの日米開戦」(だいわ文庫)でこの疑問の解明に挑戦した。満州国建国に始まった日本の敗戦につながる崩壊は、明治維新の元勲たちがつくった統帥権にあった、と史実に迫っている

▼軍国化の道をたどるにはさまざまな事件があり、太平洋戦争に発展するまでに経済的対立などがあったことが歴史的視点で書かれている。青年将校の中には昭和維新を掲げる者もおり、その中の一人として一関中(現一関一高)卒の陸軍中佐相沢三郎による昭和十年の軍務局長暗殺事件にも触れている

▼翌年の二・二六事件で凶弾に倒れた斎藤實(奥州市出身)の当日の様子も赤裸々に証言でつづっている。軍国化の流れを止められなかったのが大戦、敗戦へとつながったと読める

▼不戦を誓い、非核化を呼び掛けているが、世界では紛争、テロ、内戦が絶えず、核兵器の廃絶も実現していない。唯一の被爆国だからこそ訴えられるものが日本にはある。
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2008年8月11日(月) 今日から北海道へ
日程表には歴史探訪とありますが、

中学生と小学生の身内を連れての家族旅行です。

動物園を見たり、富良野に行ったり、そんな旅です。

その途中、歴史的な施設も寄りたいと思います。

3日間、ワープロもパソコンも使いません。

皆さんもいい夏休みをお過ごしください。

13日に戻ります。

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野口選手、がんばってほしいですね

野口みずき、左太もも痛める 

出場に意欲「2、3日の間で判断」

8月10日14時36分配信 産経新聞
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2008年8月10日(日) 人間は機械ではない。

野口、欠場も検討(毎日新聞)

野口みずき欠場か!謎の精密検査で10日に緊急会見…陸上

北京五輪前、最後の海外での高地合宿を疲労蓄積を理由に途中で切り上げ、

4日に極秘帰国していた女子マラソンのアテネ五輪金メダリスト

・野口みずき(30)=シスメックス=が…(スポーツ報知)

という記事が出ました。

私は彼女のテレビを見ていて、疑問に感じていたことがありました。

人間ロボットのように日々、訓練をしている光景でした。

機械は部品を取り替えればいいわけですが、

人間はそうはいかない。

この問題の背景には、がむしゃらに走りこめば、それでいいという

訓練方法があっのではでないか。

そうおもえてなりません。

医者も付いていなかったようですし、

ただ走れ、走れの感じでした、

野口選手が気の毒です。
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2008年8月9日(土) 中国に友人羅 倍 さんからメール、オリンピックおめでとう。
 きのう私の家族(息子楚石を含めて)も最後まで開催式を見ました。

本当にすばらしかった.設計者は有名な映画監督、西安人張芸謀です。

彼は人生体験が豊富な方で、私の出身地興平県(楊貴妃のお墓があるところ)に

下郷(毛沢東の呼びかけに従って、学生は農村へ行って、

農民に学ぶ運動)したことがあります。そこで恋愛、結婚しました。

後北京映画大学撮影学部に合格して、撮影を勉強した。撮影は専攻で、

あとは監督になっても、映画の画面はとても美しいです。

だから彼の映画は内容より表面はきれいと評価されています。

でも「赤い高粱」は中身も表も素敵で、

おかげで彼も女優俐も国際的有名人になりました。


でもそのご俐と曖昧関係があって、離婚しました。

最後二人は結婚できず、しかたなく俐は外国人と結婚したそうです。

やっぱり西安人ですから、文化雰囲気の強い開催式を設計してくれて、

かけじくに中国四大発明、シルクロードを再現して、すばらしいです。
 
残念ですが、福原愛の顔は旗に隠されて、はっきり見えませんでした。

福田首相の奥さんは優雅の女性です。

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谷選手、お疲れさんでした。

立派です。全力尽くした結果=

谷、ママでは銅に「誇り」☆2〔五輪・柔道〕

8月9日22時45分配信 時事通信





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2008年8月8日(金) 福島汚職 前知事に有罪判決
福島汚職 前知事に有罪判決 

東京地裁 福島県発注工事を巡る汚職事件で収賄罪に問われた前知事、

佐藤栄佐久被告(69)に対し、東京地裁(山口雅高裁判長)は8日、

懲役3年、執行猶予5年(求刑・懲役3年6月)を言い渡した。

前知事は捜査段階では収賄を認めたが、公判で一貫して無罪主張していた。

(毎日新聞)

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書評

「白虎隊と会津武士道」、橋本左内

市川雷蔵の初主演作で「花の白虎隊」という映画があります。

初々しく頼りなげな表情の雷蔵が心に焼き付いて、

また会津の心に出会った映画でもあります。

人は人生の折々で、白虎隊と出会い、会津を知る。

日本人にとって、このことは、とても大切な事だと思うのです。

会津には失ってはならない日本人の心が、今もある。

維新後の会津の受けた仕打ち、理不尽さが冒頭に綴られています。

会津は窮地になぜ見舞われたのか、短いページで実に簡潔に説明されていて、

戊辰戦争から会津城篭城戦にかけて引き込まれてしまいます。

「その夜、薩長軍は、少年の首を皿に載せ酒をくみ交わし、歌った」

長州は、八・一八で朝廷に発砲する大罪を犯すが、さほどの

仕置きもなく明治維新を向かえ、栄華を手にする。

自分達の良い様に歴史を動かしていった薩長、戦の不慣れな

会津の哀愁が胸に迫ります。人肉まで食べるに及んだ青森でのこと、

満ち足りた生活をしている現代人には考えすら及ばない悲惨な生活。

会津の教えを貫いた武士道、山川健次郎のこと、歴史の辛酸を舐めざるを

得なかった会津が、その武士道を現在も脈々と伝えている、頼もしい会津。

本書を読み終えて、交響曲を聴き終えたようなそんな充実感・余韻が快く

広がっています。
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2008年8月7日(木) 今日は暑い、暑い
昼は何を食べようか。迷いました。

天ざるにしました。正解、おいしかった。

そばは東北がおいしいですね。

白河もおいしいですが、郡山も結構、おいしいです。

原稿も体力勝負なので、昼飯には気を使っています。

すし屋の定食、スパゲッテイ、マーボ豆腐定食、ランチセット、そんなメニューです。

うな重も時には食べますが。九割は中国産と聞いてやめています。

危険でしかも高い。

困ったものです。

そうそう、ざるウドンも食べますが、

それだけでは足りない、

その辺が問題です。
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2008年8月6日(水) 投稿、河井継之助
来週、只見で行なわれる河井継之助の墓前祭に参加する予定です。、

それで、「河井継之助」星亮一・著を読んでテンションを高めていました。

幕末維新、会ってみたいと思う人物は、やはり継之助です。鹿児島で西郷は神と

崇められ、高知で龍馬はシンボル、山口の松陰・晋作は住民を見守っているか

のような静けさの中にあります。

しかし、継之助は違います。

長岡を焼いたと百数十年経っても住民から非難され続けて、

今でも、人々の関心の的。

しかし、心の中では、もう既に許している。

継之助を身近に思っている証拠だと

思います。なんとドラマティックな人生であったろうと涙する場面や、

「けっしてめげることはない、その逞しさで、どこにいってもたちまち頭角を現
す」

人物が飛び出してきそうなほど、活動的で魅力的に描かれています。

本書を読んで、また、スケールの大きな継之助が現れてきました。


               高橋美智子


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michiko <michiko@patedison.co.jp>(^_^) 
   そうだったのね、日本史!
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   みちこの幕末日記!
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ありがとうございます。只見、いいところですよ。
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2008年8月5日(火) 昨日は失礼しました。それにしても中国は、対応が悪いなあ
4日の「今日の一言」が掲載されてなく、
心配しております。

夏バテですか?

北海道は流石に涼しいそうです。

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というメールをいただき,アアそうだと、反省しました。

会津籠城戦の30日、

追い込みに入っていて、気が付かなかったのです、

今日は午後に書きます。

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取材中の邦人記者2人に暴行=新疆テロ事件で武装警察−地元幹部、謝罪を約束
8月5日6時58分配信 時事通信


 【カシュガル(中国新疆ウイグル自治区)5日時事】

中国新疆ウイグル自治区カシュガル市で発生した武装警察襲撃事件を

現地で取材していた日本人の記者1人とカメラマン1人が4日夜、

武装警察に身柄を拘束され、暴行を受けた。8日からの北京五輪を控え、

日本をはじめ国際社会の批判が集まりそうだ。同市幹部は5日未明、

2人に対して武装警察幹部が謝罪することを約束した。
 
2人は、東京新聞カメラマンと民放テレビ記者。香港の記者2人も拘束された。

2人に目立ったけがはない。
 
警官16人が死亡した事件を取材するため、4日夜に多数の日本人記者らが現地に集結。

関係者によると、武装警察施設付近で取材していた2人は突然、

多数の武装警察官に持ち上げられたり、

羽交い締めにされたりして施設敷地内に連行された。
 
その後、頭を地面に押し付けられて顔などを殴られ、カメラの一部を壊された。

拘束は約2時間続き、その間、安否を心配した同僚が携帯電話に

かけてきた電話に出ることも許されなかった。 
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2008年8月3日(日) 今日、星亮一氏講演会&サイン会
岩瀬書店富久山店(郡山市)
オープン10周年
記念企画

■ 富久山店
プラスゲオ  ■
「富久山店プラスゲオ」オ−プン10周年記念


星亮一氏講演会&サイン会

日程
8月3日(日)
 午後2時より

場所
富久山店会議室

■ 岩瀬書店 富久山店プラスゲオ   ■ TEL 024-936-2220

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入場無料です。

偽りの日米開戦

について講演します。
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2008年8月2日(土) 野口英世と会津武士道3
 戊辰戦争に敗れた会津藩は青森県の下北半島を中心とする極寒の地に流され、

辛酸をなめた。

そこから多くの若者がたくましくはい上がった。

白虎隊から東大総長になった山川健次郎、陸軍大将になった柴五郎、

海軍大将の出羽重遠ら大勢の若者を輩出した。

英世もこうした人々と同じ範噂で青春時代を過ごし、

世界に飛躍せんとアメリカに渡った。

英世がトライした病原菌の探究は、人類を病から救うという崇高なものであり、

それゆえにこそ、こうして今日もなお英世は、

世界の人々に慕われているのである。

英世の評価についてこれまで、二つの山があった。

 一つは戦前の道徳教育の手本としての英世である。

左手の火傷、貧困にも負けず頑張った英世、

それを支えた小林栄、血脇守之助、母シカの愛である。

 戦後のある時期、英世の見直しが行われた。

 浪費癖は極端な形で記述され、黄熱病の病原体にも疑義が出た。

 端的にいえば英世は功名心に燃えた野心家とされた。

 私が見るに、この二つとも英世の側面に過ぎない。

 そうしたことをはるかに乗り越えたところに英世はいる。

考えてみれば、明治以降の日本人は大なり小なり、英世ではないか。

東洋の小国日本が世界の大国に仲間入りが出来たのも、

英世のように猪突猛進に頑張る精神があったからだった。

戦後、廃嘘のなかから立ち上がったのも何万、

何十万という英世がいたからではないだろうか。

私はそう思っている。日本人の心には英世がいたのである。

 今日、英世の青春時代のように銭湯に行く金もない人は少ないが、

戦後の混乱期を生きた日本人は大なり小なり、

英世の暮らしに近い時期もあった。

 私がいうまでもなく、今日、日本の若者は大勢、世界に飛び出し、

英世のスピリットを受け継いでいるように思う。

 英世の精神は永遠に不滅といってよい。

英世はまぎれもなく日本人であり、会津武士道の人だった。
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2008年8月1日(金) 野口英世と会津武士道2
会津は幕府の親藩であり、全国屈指の武装集団をもっていた。
 
 京都に赴任した会津藩の人々は日夜、都の治安維持に当たった。

多いときで二千人の兵を京都に送っていた。

それは会津若松在住の士族階級だけではなかった。

 会津全域から農兵や従者を集め、京都にのぼらせた。

英世はまだ生まれていなかったが、祖父善之助も元治元年(一八六四)、

会津藩土橋爪岩三郎の従者として京都に上った。

戦争となれば従者も兵士だった。槍を担ぎ、鉄砲をもって戦わねばならなかった。

京都の守備兵は原則として一年交代だった。

しかし慶応年間(一八六五〜六八)に入ると、

この原則はくずれ、長期滞陣になった。

祖父善之助は一度、猪苗代に戻ったが、今度は清太郎と名を改め、

会津藩士諏訪武之助の従者となってまた京都に上り、

一、二回あわせると足掛け三年ほど京都に滞在した。

もうれっきとした会津の兵士だった。

 英世の祖父は道中、各地を見聞し、京都では政争も体験した。

 これは並の体験ではない。従来の人生観を根本から変える体験だった。

そのうちに京都で政変があり、松平容保は京都守護職を解任され、

鳥羽伏見の戦争に敗れ、

部下は敗惨兵となって江戸に引き上げてきた。

 それからしばらくして多くの藩士と従者が会津に戻ってきたが、

清太郎の姿はどこにもなかった。

各地を転戦していたのである。

戦後、清太郎は満蒙、現在の内モンゴルに出かけたとされている。

広い世間を見た清太郎にとって猪苗代は狭すぎる社会だったろう。

 しかし猪苗代を見捨てることはなく、戻ってきて明治三十年に没している。

「おれは白虎隊の末裔だ」という英世の自負心は、決して放言ではなかった。

英世は紛れもなく会津のサムライの末裔だった。

ニューヨークでの英世は、日本人に会っても英語を使い、

滅多に日本語は喋らなかった。

唯一の例外は会津人と話すときだった。

「なに、君は会津か」となると英世は会津訛でとうとうと喋るのだった。

 少年時代の英世を支えたのは母のシカとされてきた。

シカは激しい気性の女性だった。

どこまでも食いついて離れない強さを持っていた。

その結果、祖父の存在は見逃されてきた。

英世は祖父から強い影響を受けたと私は見ている。

 英世は昭和三年(一九二八)に没したが、そのころから日米摩擦が起こっていた。

 あるとき「もし日本とアメリカが戦争になったらどうする」という話になった。

「おれは会津のサムライだ、日本に帰ってアメリカと戦うよ」

英世はこともなげにいった。

従来、英世は猪苗代の人として扱われてきたが、

現在では会津若松の人という印象も強くなっている。

それは英世が左手を手術し、医学の勉強を始めた会津若松の会陽医院の建物が、

幸運にも残っていたからである。

東京から観光旅行で会津に来た一人の青年が、この建物の前で腕を組んだ。

これを保存しなければならないとこの人は思った。

その青年の名前は照島敏明といった。

 照島は建物の所有者と談判して、これを借受け、「英世青春館」と名づけて、

二階を資料室、一階を喫茶室とし、やがてここの通りは「英世青春通り」となった。

英世は会津若松で勉強し、英語やフランス語が読めるようになり、

会津中学校の生徒たちとも交わり、

会津魂を身につけていった。多くの伝記では猪苗代の貧農の小倅という

表現で記述された英世だが、

英世の内面には会津武士の反骨の精神が満ちあふれていた。
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