星亮一 今日の一言

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2007年10月31日(水) おけいの墓、来年、墓参りを企画
アメリカのカリフォルニア州サクラメントに、会津の娘

おけいの墓があります。今日の福島民報によると

菅家会津若松市長が訪米し、昨日、おけいの墓に詣でたとありました。

以前 財団法人会津若松文化振興財団で

おけいを、會津風雅堂で発表したことがあります。

「おけいの譜が聴こえる」です。

おけいは二つの墓があります。

カリフォ ルニア州ゴールドヒルの丘に立つ墓と、会津若松市の

背あぶり山にある墓です。

おけいは、会津戦争で会津が敗れたあと、軍事顧問のスネル家の子守

としてアメリカにわたり、わずか19歳の短い生涯を終えました娘です。

明治2年2月、会津藩の軍事顧問だったヘンリー・スネル邸で子守りをしている

「けい」はスネルに従って新天地アメリカについていったのです。

家族は反対だったでしょう。しかしスネルの2人の子どもはまだ幼く、

妻お葉も体が弱い。子守りが必要だと説き伏せられての渡米でした。

しかし開拓は失敗、おけいは置き去りにされたのです。

異郷でさびしく命を落としたおけいを葬ってくれたのは、

おけいとともに渡米し、

ワカマツコロニー崩壊後もビーアカンプ家で働いた桜井松之助でした。

 開拓の失敗の原因はいろいろあるようです。

 明治2年9月地元の新聞に取り上げられておりますが、

コロニーの土地の登記をめぐり、地主とスネルの間で裁判になっていたようです。

実際は入植した土地がやせていて、

雑草まで枯れてしまうほど過酷な土地だったようです。

資金も底をついてしまいました。

スネルは金の工面をすることいって日本に帰国し、

二度ともどらなかったようです。 ついにコロニーは解散となります。

スネルにだまされたと悟った桜井。スネルが帰ってくるのを信じて疑わないおけい。

移民たちも一人、また一人とコロニーを去って行き、

おけいと桜井だけが残され、おけいは病死するのです。

これも会津藩の悲話のひとつです。

複雑な思いですね。

私も来年、おけいの墓参りを計画しております。

成案が出来たら発表します。
△top
2007年10月30日(火) 今朝の新聞は憂鬱
憂鬱な朝である。

日本の世相が憂鬱である。

どこがどのように

これはいわなくても、誰しもがわかる話である。

人間は基本的に弱いものである。ついつい流されてしまう。

偽造をし、ゴルフをたかってしまう。

私はゴルフは一切やらない。

昔はすこしやったが、やめてしまった。

理由はストレスがたまるからである。

スコアがひどく悪い。だからイライラがつのり、

さっぱり面白くない。池があれば、必ずポチャンと落ちてしまう。

バンカーがあると必ず入る。

狭いところでは、オービー連発である。

時には空振りもある。

恥ずかしいやら、悲しいやら、とてもやってはいられない。

だからやめてしまった。

その費用で本を買っている。その方がよほどいい。

同じ理由でカラオケもやらない。

音程がくるっていて、ろくに歌えない。

だから基本的に二次会は行かない。

そう決めるとすっきりしていいものである。

じゃ、ストレスをどのようにして解消するか。

そうですね、

指圧、風呂に一日、3回はいる。テレビを見る。

東京に行って古本屋を歩く。

講演のとき、そのマチを散策する。

そなところですか。

来年は青森県八戸で年四回、講座を持つので、これは楽しみである。

仙台でも連続講座がありそうなので。牛タンでも食べて、英気を養いたい。

そんなものです。

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乗っ取られた日本船追跡=海賊の小船撃沈、ソマリア沖−米駆逐艦

10月30日13時3分配信 時事通信

 【ワシントン29日時事】アフリカのソマリア北部沖のアデン湾で

日本企業所有のケミカルタンカー(パナマ船籍)が

海賊の襲撃を受けて乗っ取られた事件で、米CNNテレビ(電子版)は29日、

米海軍の駆逐艦「アーレイバーク」が乗っ取られたタンカーを

ソマリア領海内で追跡中だと報じた。

 CNNは米軍関係者の話として、アーレイバークが追跡をする前に、

別の米駆逐艦がタンカーにつながれていた海賊の小船を射撃し、沈めたと伝えた。 
△top
2007年10月29日(月) 赤福、比内地鳥,、ならぬことはならぬのです。
このところ食品の偽造だらけである。

とどのつまりは日本人のモラルの低下である。

金さえ儲かれば、それでよいという

公徳心、道徳心、倫理観の欠如である。

経営者の質が落ちている今日,頼りは内部告発というのは、

あまりにも情けない現象である。

現在の教育にも問題がある。

大学の経済学部、あるいは商学部の講義は

いかに利益を上げるかだけである。

その基本となる経営者の倫理観は

まったくといって良いほど教えていない。そういう分野の教員もいない。

手前味噌ではあるが、私が書いた

「山川健次郎の生涯」(ちくま文庫)

をお読みいただければ、と思う。

山川は会津藩の出身で、白虎隊として篭城戦を戦い、

戦後、アメリカに留学、エール大学で物理学を学び、

東京大学に奉職、日本人初の物理学科の教授になり、

晩年、東大総長を二回、京大総長、九州大学総長を務めた

教育界の大御所である。

この方のすばらしさは、退職後の生き方にあった。

高校の教師になり無報酬で、子供たちの教育に当たった。

その学校は武蔵高校、中高一貫教育の学校だった。

清貧で、まじめ一徹、その精神は武蔵学園に脈みゃくと受け継がれている。

そのあたりを武蔵学園の現園長・元文部大臣・

東大総長の有馬朗人先生が解説してくださった。

11月18日ごろ店頭に並ぶ。

人生は金銭だけではない。

人のために奉仕する、山川先生の生涯は

「ならぬことはならぬ」

という会津魂に貫かれたものだった。

ーーーーーーーーーー
守屋氏証人喚問詳報

ヤフーから
 
29日の衆院テロ防止特別委員会の守屋武昌前防衛事務次官の証人喚問での

質疑詳報は次の通り。
 【冒頭】
 深谷隆司委員長 どんな責任を感じているか。
 
守屋氏 国民の皆様と防衛省の職員に対して大変申し訳ない。

新テロ対策特別措置法案という大変重要な法律の審議をする上で、

大きな障害となっていることに痛切に責任を感じている。
 
【ゴルフ接待】
 
深谷氏 「山田洋行」の宮崎元伸元専務とは5年間で何回ゴルフに行き、

何回飲食したのか。場所、支払い方法は。
 
守屋氏 多いときで月4回、都合が付かないときは月1回だった。

トータルすると年に20回以上、30回というところだが、

5年間に限れば100回を超えていたのではないか。
 
深谷氏 そのうちの半分は夫婦一緒に行ったのか。
 
守屋氏 半分以上は夫婦で行っていたと思う。
 
深谷氏 偽名を使った事実はあるか。
 
守屋氏 事実だ。官房長就任後のあるときに宮崎氏からタグを渡され、

これからはご夫婦でこの名前でやっていただけませんか、ということで始めた。

配慮に欠けた不適切な行為だった。
 
【便宜供与】
 
深谷氏 山田洋行に装備品調達で便宜を図ったことはあるか。
 
守屋氏 一切ない。
 
深谷氏 山田洋行への防衛省OBの天下りに関与したことは。

 守屋氏 一度もない。(了)




丸森通信

http://marumorigt.exblog.jp/d2007-10-28
△top
2007年10月28日(日) テレビ余韻2
上島幸三

(遅ればせながら)

番組を視聴させていただきました。

当初「先生の出番が少なすぎる。思いは伝わるのだろうか?」

との感が強かったのですが、ビデオで二度三度と見てみると、

抑制の効いた淡々とした語り口の中に、肝所はきっちり押えられていました。

維新の激動期に、かくのごとき史実があったことを多くの人に知ってもらう

ための、先生が垂範されている活動が、全国版になった「その時」であった

と思いました。

実は容保を輩出した高須藩松平家のあった海津市は、

拙宅から車で小一時間の所、近日中に訪れてみようと思っています。

(上島)

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そういっていただけると、ありがたいです。

松平容保の伝記を書きたいと昨今、思っています。

ところで今日はいい天気です。

東京では富士山はがはっきり見えました。

帰りの電車、

那須の茶臼岳、これも目の前にはっきり見えました。

おお、あそこに登ったのだ、

感慨無量でした。

正午過ぎに戻り、

少し原稿を書いて、そのあと郡山自由大学の聴講です。
△top
2007年10月27日(土) 今日は東京です。
今日は東京です。

朝から雨ですね、東京も雨なのかな。

9時の電車で東京に向かい、

市谷の日本大学本部で開かれる日本国際情報学会に出席します。

これは日大大学院が立ち上げた学会で、私も理事の一人です。

現代のさまざまな政治、経済、あるいは経営、社会問題に

取り組んでいる学会ですが、歴史もその仲にはいっております。

日本の近現代は、幕末維新と深い連動があり、その考察は重要です。

地域の文化、あるいは済んでいる人々の感情の背景には、

必ず歴史が深く関連しています。

今日は午後2時過ぎから

「彰義隊始末」

を話しますが、江戸っ子の感情を理解する上で、彰義隊は欠かせません。

これは入場無料、一般の方も入れます。

次の土曜日は仙台で講義します。

東北芸術工科大学が行っている東北ルネッサンス運動に

お招きをいただき、11月2日午後7時から

仙台市のエルパーク仙台で、

「後藤新平を語る」

と題して、1時間講演し、東北芸術工科大学の赤坂憲雄教授と討論します。

受講料は一般1000円、学生500円だそうです。

水沢で話したばかりのテーマです。

後藤は岩手県水沢出身、きわめてユニークな国際政治家です。

大勢の方のご来場をお待ちします。

東北芸術工科大学は、ユニークな活動を多彩に行っています、

ホームページに次のようにありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東北芸術工科大学のホームページ

東北ルネサンス・プロジェクトとは

東北芸術工科大学は、東北の大地から発して「日本の藝術立国」

とする本学の理想を具現化するための運動を、「東北ルネサンス」

として掲げています。そして大学創設から15年を迎え、

この東北の大地には豊饒な英智や文化資源、精神、哲学が埋もれていることを

解き明かしてきました。

その、東北の埋もれた人と思想をひとつ一つ掘り起こしながら、

22世紀に向けての東北ルネサンスの大きな流れを作り出すことを目指す

一連の新たな展開、第二章を、「東北ルネサンス・プロジェクト」としています。

すなわち、「東北から、芸術的創造で本当の意味での豊かな日本を

取り戻していくための運動」と言えます。


東北ルネサンス・プロジェクトの概要

東北ルネサンス・プロジェクトは、山形と仙台、二つの拠点をもって展開します。

まず、山形/東北芸術工科大学を拠点として、

東北ルネサンスをめぐる理念的な展開をはかるための活動を繰り広げます。

「東北ルネサンス会議」「東北ルネサンス・セミナー」

「東北ルネサンス夏の学校」などを開催し、

あらたな人と思想をめぐる地域のネットワークの生成を目指します。

そして、仙台/仙台市文学館および東北芸術工科大学仙台スクールにおいて、

東北文芸復興をテーマとする公開講座や、東北に在住の著名な

評論家、作家、小説家などを招いた「小説家養成講座」「編集者養成講座」

を開講するほか、イベントを展開しながら、

文化交流の開かれた拠点へと育てることを目指します。


◎プロジェクトin 山形/東北芸術工科大学
 1. 東北ルネサンス会議の開催
 2. 東北ルネサンス・セミナーの開催
◎プロジェクトin仙台/仙台文学館、ほか仙台市内の施設
 1. 公開講座「東北文芸復興」の開講 コーディネータ:赤坂憲雄
 2. 「小説家養成講座」の開講 コーディネータ:池上冬樹
 3. 「編集者養成講座」の開講 コーディネータ:土方正志
◎プロジェクトin肘折/山形県大蔵村肘折温泉
 タイトル:「肘折温泉街まるごと美術館」
 1. 温泉街の調査・検討会の実施
 2. 多彩な展示空間の演出
 3. ギャラリー肘折の開設

東北ルネサンス・プロジェクト組織

◎プロジェクト推進委員会
 藤井黎 前仙台市長
 一力雅彦 河北新報社社長
 黒澤洋介 山形新聞社社長
 大久保義彦 東北芸術工科大学理事
 赤坂憲雄 東北文化研究センター所長
◎プロジェクト運営委員会
 赤坂憲雄 東北文化研究センター所長
 土方正志 有限会社荒蝦夷取締役
 森繁哉 こども芸術大学副校長
 芳賀幹代東北文化研究センター事務長
 ほか東北芸術工科大学内にオブザーバー3名、学外に3名


お問合せ先

 東北芸術工科大学 東北文化研究センター
 990-9530 山形市上桜田3-4-5
 TEL:023-627-2168/FAX:023-627-2155
 ーーーーーーーーーーーーーーーーー

なかなか凄いですね
△top
2007年10月26日(金) ミッドウエー海戦の悲劇
痛恨の海戦である。

ここで日本海軍の連合艦隊は壊滅した。

日本海軍と米海軍の激突、それがこの海戦だった。

南雲機動部隊は、これでもかこれでもか、というミスを犯した。

1つは索敵の失敗である。

故障で2機の偵察機が時間どうり飛ばず、敵空母の発見が遅れた。

この間に、敵空母なしと勝手に判断し、ミッドウエー基地の爆撃に踏みきり、

ご丁寧に対空母攻撃用に待機させていた爆撃機の兵装を魚雷から爆弾に積み替えた。

ところが空母発見の知らせに、今度は爆弾を魚雷に積み替えた。

二度の兵装転換で、時間を大きくロスした。

この間に敵の急降下爆撃機に爆弾を落とされ、

3隻の空母が被弾し、撃沈した。

残る1隻も被弾し、南雲機動部隊は壊滅した。

日本海軍はこれで決定的な敗北を喫し、2度と立ち上がれなかった。

戦争は一瞬の判断ミスですべてが、違ってくる。

偵察の失敗は、大きくつまずく要因になった。

この惨敗の責任者は一体、誰なのか

従来、南雲長官に帰せられていたが、

私は山本長官の指導性に大きな問題があったと考えている。

いま書いている南雲忠一伝に

それを明記したい。
△top
2007年10月25日(木) 「偽りの明治維新」
連日、講演会や司会業で原稿が書けず、フラストレーションがたまっていました。

やはり私の正業は執筆です。

昨夜は

大和書房文庫から出す

「偽りの明治維新」
  会津戊辰戦争の真実

の前書きを次のように書きました。


はじめに
 
昨年十月、NHKのテレビ番組「その時歴史が動いた」に

初めて会津藩主松平容保が登場した。

「義に死すとも不義に生きず」
 会津戦争 松平容保 悲運の決断
 
である。この番組は三回にわたって再放送された。

「会津戦争、その時、歴史はどう動きましたか」

 という松平アナウンサーの質問に、この番組に出演した私は

「会津は自らの正義を訴えるために、全員死を賭けて戦った。

百年後の審判をあおぐ。そのような気持ちだった」

と解説した。
 
これが全国の方々の共感を呼んだ。

 福島県知事、会津若松市長から電話をいただいたのをはじめ、

全国書各地からメールが殺到した。

 会津に対する同情の声が圧倒的に多かった。

 あのとき、日本人の多くは薩摩や長州の官軍に荷担した。

 国民には長いものにまかれろという風潮が蔓延し、会津は孤立した。

いまは見捨てられてもいつか、会津の気持ちを国民が理解してれる、

そういう思いで、会津藩兵は戦場に向かい、

白虎隊の少年たちも自刃して果てた。
 
会津の人々は長い間、朝敵の汚名に泣き、一世紀以上にわたり、

その怨念を胸に秘め、耐えてきた。会津若松を追われ、

下北半島や北海道に移住させられた人々の末裔には、特にその思いが強かった。
 
昨今、会津と長州について新しいう動きがいくつかでている。
 
長州山口県出身の安倍晋三氏が総理在任中に会津若松を訪れ、

戊辰戦争に関して「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」

と謝罪したことがあった。
 
このとき、会津若松の反応は様々だった。

 会津若松市長も会津若松商工会議所の幹部も

「遊説でちょっと喋っただけですからね、安倍さんは軽い、軽すぎますよ」

 とこの発言を肯定的に受け止めることはなかった。

戦死者が眠る飯盛山や天寧寺にお参りし、焼香すれば別だったが、

遊説の付け足しでは許せないということだった。
 
青森県に移住させられた会津人の末裔は完全否定だった。
 
若者や高校生は、「現代の山口県人に怒りをぶつけても仕方がない」

とやや覚めた感じだったが、

会津と長州の間に横たわる溝を埋めるものではなかった。
 
昨今、二つの記事が新聞を賑わした。
 
ひとつは「わだかまり氷解間近?」と題した朝日新聞福島県版の記事である。

それは会津戦争のとき、飯盛山で自刃し、奇跡的に助かった飯沼貞吉が、

実は長州藩士楢崎頼三の庇護を受け、山口県美祢市で暮らし、

その後、逓信官吏になったという記事だった。
 
もうひとつは、会津若松で開かれた鶴ヶ城健康マラソンに

下関市の江島寄潔市長が参加、会津若松市長と一緒に歴史交流シンポジュームに出席、

「お互いの歴史を見つめ市民レベルのこ交流」

を呼びかけたと福島民報が大きく報じた。

「下関市長、快走、わだかまり超え交流」という異例の大きさだった。
 
萩の野村興兒市長も何度も会津若松を訪ね、地ならしをしており、

その上にたっての交流だった。こうしたことで、

会津が長州に抱く怨念は、じょじょに薄れつつあるという見方もあるが、

「これも一過性の問題、決定的なことではない」

という空気も根強く存在する。

 それはなぜか、会津戦争の真実は表面的な交流だけでは、

とても埋めることにできない、深い溝があるからである。

 明治維新に、どこまで正当性があったのか。

戊辰戦争は日本にとって必要で正しい戦争だったのか。

会津と長州の本当の和解のためには、会津戊辰戦争の真実を検証し、

その上にたって溝を埋める作業が必要なのである。
 
その作業は、これからといってよい。

ーーーーーーーーーーーーーー
あとは本をお読みください。

来春1月発刊です。
△top
2007年10月24日(水) 北東文芸賞授与式
北東文芸賞授与式、

昨日、宮城県丸森町小斎小学校体育館で行いました。

このあと阿武隈荘で祝賀会が開かれ。

大いに盛り上がりました。

北東文芸賞は郡山市内の文芸愛好家らでつくる北東文芸協会

(事務局・郡山市、星亮一会長、会員35人)が

行っているもので、今回はは

東京・台東区を中心とした地域誌

「谷中。根津・千駄木」(通称・谷根千)など発行してきた

作家の森まゆみさん(53)に贈られ、

会員が一人3000円以上を出し合った賞金10万円と、

会員手作りの会津本郷焼きの絵皿が贈られました。

受賞作は戊辰戦争で新政府軍に抵抗した彰義隊に参加した若い旗本たちの姿を描き、

来春文庫化される森さんの小説「彰義隊遺文」です。

 同賞はは東北地方と新潟県出身、またはかかわりがある優れた中堅作家を

表彰しており、今回で6回目。

 森さんは東京都出身ですが、

定期的に祖父母の出身地である宮城県丸森町を訪れ、

農業をしながら地元の人たちとの交流を続ていまます 。

森さんは

「賞をいただき、大変光栄に思う。自分のルーツを改めて東北にあると感じた」

とおしゃっていました。


祝賀会には

渡辺丸森町長、寺島県会議員、秋葉商工会長、八巻教育長、

森社会福祉協議会長、星公民館長、

小野寺丸森東中校長、高橋小斎小校長ら多数は出席しました。

小学校体育館では

星と森さんの対談、

小斎、歴史、文学があり、小学6年生も熱心に聞いておりました。


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宮城でトヨタ車生産 子会社、本社・工場移転

凄いですね。

以下,今朝の河北新報

 トヨタ自動車グループの生産子会社「セントラル自動車」(神奈川県相模原市)は

23日、仙台市近郊の第二仙台北部中核工業団地(宮城県大衡村)に、

新たに車体組立工場を建設すると発表した。新工場完成に合わせて、

相模原市の本社と本社工場を移す。移転時期は2010年の予定で、

投資額は500億円前後とみられる。(10/23 23:44)≫
△top
2007年10月23日(火) 会津若松市謹教小学校の子供たち
その時、歴史が動いた。

「会津藩主松平容保の決断」

義に死すとも不義に生きず

を見た会津若松市謹教小学校の子供た力感想が寄せられました。


松平容保が意地をつらぬいて、戦争をしてみんなを守ろうとしたことが分かりました。(U.Y)

会津はぼろぼろになっても、正義をつらぬきたかったことが分かった。
(K.N)

自分たちの思いをつらぬいて戦った会津武士はすごいと思った。
(I.S)

会津藩は正義をつらぬき、家族などを守るために戦ったことが分かりました。
(Y.T)

会津戦争に反対だったけど、今はちょっぴり賛成です。

負けてたけど戦って良かったと少し感じています。
(S.K)

会津人として義をつらぬいた人たちはすごいと思う。
(Y.M)

会津藩は誇り高き人がたくさんいた藩だったんだと思いました。
(I.R)

会津人として会津魂をつらぬくことに感動しました。
(S.R)

あの状況で戦わないのは、くやしいと思いました。

だから会津人はえらいと思いました。(M.H)

逆賊などといわれても、会津人として意地をつらぬき通したからすごいと思った。(Y.E)

会津藩は最後まで戦い通すことで、正義をつらぬきたかったんだと思いました。
(S.A)


ビデオを見て、子供たちの意見を集約したものです。

担当の伊藤 治先生からは

「全く同じものとは言えませんが、
授業との相乗効果で子どもたちなりの感想を持てたようです。
今後とも、会津との関連を図った授業を実践していきたいと思います。
先生も、今後も会津の歴史の伝道師としてご活躍下さい」

とのコメントが寄せられました。

これは大変、参考になる発言です。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

今日も忙しいです。


10/23(火)
10:00〜

NTT郡山OB会講演

 『戊辰戦争と東北のこころ』


10/23(火)
15:00〜

宮城県丸森町小斎小学校にて

 『作家森まゆみ先生と歴史討論会』

がはいっています。

丸森では小斎小学校の子供たちを前に森さんと一緒に

ふるさとの歴史を話します。
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2007年10月22日(月) 今朝の岩手日日新聞
昨日、私も出席した後藤新平シンポジュウム、

会場の奥州市水沢の市民会館には、600人の市民の方々が集まり、盛況でした。


以下は岩手日日新聞のニュースです。


1面トップでした。

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後藤新平の人物像に迫る〜奥州で生誕150周年シンポ 
 
近代日本の骨格を作り出すなど、時代の先駆者とされる

後藤新平(一八五七−一九二九年)の生誕百五十年を記念したシンポジウムが、

二十一日午後一時半から奥州市文化会館で開かれた。

公開討論では、さまざまな分野から新平を研究している五人のパネリストが登壇。

「先見の政治家」とも評される新平の魅力や発想力の根幹と、

その素地を生み出した奥州・水沢の風土などについて意見を交換した。

 シンポジウムでは、最初に話題提供を兼ねる形で、

JR東日本相談役の松田昌士氏が、

「私にとっての後藤新平」と題して基調講演を行った。

 続いて行われた公開討論には、

御厨貴さん(東京大学教授)、星亮一さん(作家)、

東山京子さん(中京大学社会科学研究所)、

相楽新平さん(福島県須賀川市長)に加え、

主催者である生誕百五十年記念事業実行委員会会長の相原正明さん(奥州市長)が

登場。安彦公一さん(胆江日日新聞社編集長)をコーディネーター役とした上で、

新平の人となりに迫った。

 医師から行政官を経て政治家へと転身した新平の足跡は、

公衆衛生に始まり鉄道や都市計画、放送、青少年の健全育成、

政治の倫理化など多岐にわたる。このうち今回は人物像から思考回路、

さらには、終始一貫して力点を置いた人材育成などに焦点を当てた。

 まず新平の人となりについて星さんは、生まれつきの天才−と批評。

「出会いの面で運も良かったが、この人間(新平)は、

どうも自分のそばに置いておきたい、と思わせる“魔力”を持っていた」と語り、

明治以降の日本政治史を専門とする御厨さんも「ある意味で“すごい人たらし”。

常に使う側の予想を超えた仕事をこなすので、

『こいつを使いたい』と思わせる」と同調した。

 また、各分野に及ぶ仕事ぶりについて東山さんは、

台湾時代の実績を例に挙げ質の高さを紹介。その素地として御厨さんは、

思い込みを排除し、まずは科学的な関心から調査事業に着手する新平の手法を述べ、

相楽さんも「統計を最も理解した人間。科学的な根拠を持った仕事師であり、

政治家だった」と語った。

 さらに、その先見性について御厨さんは、医学を学んでいた当初から、

その視点は個人の先にある社会や国家へと向けられ、

やがて国境を越えた発想を持つなど、射程距離の長い人物だった−と述べた。

 一方、人材の育成にも力を入れた背景には、

「戊辰戦争で賊軍だった苦しみや悲しみを秘めていたゆえ、

平等に対する意識が高かった」と星さんは解説。御厨さんも

「人材を育てれば薩長藩閥を追い越せる、と東北の人は思っていた。

現代日本で一番足りないのは、開かれた教育体制だ」と語った。
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2007年10月21日(日) 今日は水沢です。
8 時過ぎの電車で水沢に向かいます。

仕事場によって新聞を持ち、メールを点検して、駅に走りました。

仕事場と駅は5分ぐらい、近いのがとりえです。

天気は上々、今日の後藤新平シンポジウム、

大勢の方が見えるのではないかと思います。

私は高校時代を岩手県一関市で過ごしたので、

水沢は身近なところです。旧藩時代、水沢や岩谷堂までは、仙台藩でした。

黒沢尻、現在の北上からは南部藩でした。

言葉も気質も若干違います。

水沢に生まれた後藤新平は、その意味で言うと仙台人でした。

大臣になったとき、最初の祝賀会は仙台でした。

決して盛岡ではありませんでした。

同時代に生きた盛岡の原敬はれっきとした南部藩の末裔です。

隣同士は仲が悪いもので,原敬と後藤新平は、どこかしっくりいかないところが

あったようです。

今日はそんなことも話す予定です。

今夜は水沢とまり。

朝早く戻り、午後から郡山自由大学です。
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2007年10月20日(土) 明日は岩手県奥州市水沢に出かけます。
後藤新平生誕150年記念のシンポジュウムがあり、

出かけます。

私は「後藤新平伝」平凡社を書いた関係で、

お招きを頂き、御厨貴東大教授や相原正明奥州市長らと、

後藤新平について語ります。

シンポジュウムは、水沢区の市民会館で、午後1時半開会、

事前に整理券が必要、連絡先は

奥州市教育委員会水沢支所

電話0197−24−2111内線551

です。

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テレビ

作家、馬里邑れい

星様


17日最後までテレビみました。
とても素敵に映ってました。ハンサムでした。アナウンサーよりずっと。

義に死すとも、不義に生きず、いい言葉ですね。
現代人もそういえるぐらい幸せにならないと思います。
昔の人は、哲学にいきることができたのですね。


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馬里邑れいさんは高校の後輩、

母校の一関一高に電話して、生徒に見るように伝えてくれました。

感謝、感激です。

馬里邑れい(まりむら・れい)の公式ホームページ。

馬里邑 さんのブログ

塾の生徒たちが誕生会
塾の生徒たちが誕生会を開いてくれた。飾りつけするまで部屋に入らないで、
と言われた。ゴーサインがでて入ってみるとクラッカーが鳴り響き、あららケーキまで。でもって写真のくす玉までわれたのでした。私は幼稚園の先生気分でごじゃりました。 [続きを読む]

お花の先生
今日はお花の稽古。もう五年も習っているのに少しも上達しない。私には花を活けるセンスがない。けれど毎月すごく楽しい。先生が素晴らしい感性の持ち主なので、魅了されっぱなしだ。やさしさ、人に対する平等な接し方、美しいものに対する感応。男なみの心の広さ。考えの深さ。一緒にいて一度もいやな思いをしたことがない。女性であれだけの頭脳と幅広い知識をもちながら高慢な態度にならない女性はなかなかいない。出会えたこと [続きを読む]

友人
友人に仙台一高出身の人がいて、神田でクラス会があるという。行きたいです、と言ってみた。東北一の学力優秀校だから卒業生がどんな将来を歩んでいるのか知りたい。八人のクラス会に紅一点の参加。やはり凄かった。八人中三人が東大卒業で、社長や医者。でもとても気さくな方ばかり。「おれらはバカでさ、クラスでびり争い。東大さんたちとは月とスッポン。」そういって笑ってた人も早稲田だし、さすが。お話も楽しかった。

花火
花火の審査員(いちおう)で2時間夜空の饗宴を。花火を見るたびに、本が売れに売れたならば、天にいるおじいちゃんに 、すごい仕掛け花火をプレゼントしてあげるよーと強く思う。バックミュージックはおじいちゃんの大好きなマリリンモンローの映画主題歌で。おじいちゃん、待っててねー 。

大脱走
ピコちゃんが逃げた ! 暇さえあれば網戸にしがみついていたから、外の景色見てるのかなあ、と思っていたら、クチバシでコツコツ網戸を破り、脱走の機会を狙っていたのだ。破った部分は、綺麗な円になっていて、器用だねえ、と感心。残ってるキコちゃんよりずっとなついてたのになあ。自然の中を飛びまわるほうが、やはり魅力か。残念。キコちゃんに逃げられないようにガムテープを貼った。

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2007年10月19日(金) テレビの余韻
星亮一出演のNHK番組

その時、歴史が動いた

義に死すとも不義に生きず

「会津戦争、松平容保の決断」

次の日程で再放送があります。

本放送の翌週《月》曜 16:05〜16:48 総合 全国
本放送の翌週《金》曜 午前 0:10〜0:53 (木曜深夜) 総合 近畿地方のみ
本放送の翌週《金》曜 午前 1:05〜1:48 (木曜深夜) 総合 全国 (近畿のぞく)
本放送の翌週《火》曜 17:15〜17:58 BS-2 (※BS-2の放送は不定期です)

いずれも編成の都合で休止または時間がずれることもありますので、当日の新聞等でご確認ください。

これだと22日、26日に再放送があります。

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新たなる旗揚げ 、戊辰戦争研究会、渋沢平九朗

 サイトを開く度に続々と入っている昨夜の反響。

先生の「会津藩 燃ゆ」で会津にはまって20年、

こんなに嬉しく思った日は有りません。

私の身上は、会津とは何の関わりも有りませんし東北出身でもありません。

しかし、正直なところ私が想い描く明治維新・戊辰戦争等が

世間一般では常識的なものなのか、

それとも会津や徳川幕府から見ただけの偏った者なのか、

よく分からなくなっていました。
 
そして、NHKでの全国放送。

先生の最初の一言「ならぬことは ならぬこと」

そう、これです。これがあるから、私はずっと会津が好きで会津を信用し、

先生の本を愛読しているのです。
 
放送内容に関していえば、物足りなく思うところも確かにありました。

しかし、それを裏がえせば“放送された内容に関しては

決して会津よりのうがった見方では無い“という事なのではないでしょうか。

まさに今、戊辰戦争の見解に新たなる一線を引かれたのだと私は思います。

西郷殿の尽力により、戊辰戦争研究会の素晴らしい会旗もお披露目され、

戊辰戦争研究会の“新たなる旗揚げ”

そう私は、受け止めています。


秋月です、ご無沙汰しております。

昨夜のNHK、拝見しました。

会津よりの私からすると、ちょっと物足りない気もしますが、

会津人の想いが伝わってきて良かったと思います。

「100年後の審判を仰ぐ」との先生のコメント、痺れました。

改めてルーツを東北に持つ者として、真っ正直に生きた会津藩を誇りに思います。



東京、遠藤

反響が大きいのは嬉しいですね。

お疲れ様でした!!

明治維新研究に一石を投じたいい番組でしたね。


編集者、東京、坂梨

昨日、NHK「その時歴史が動いた」拝見しました。

なかなか映りが良かったですよ。

番組は分かりやすくまとめられていましたね。

女房と一緒に見ていたのですが、

彼女も一生懸命見てました。

やはり心惹かれるところがあるんでしょう。

斗南藩の話も聞きたかったですが.


編集者、盛岡、佐藤竜一

こんにちは。NHKのテレビ番組よかったですよ。

もう少し長い時間の番組なら、もっとよかったと思いました。

星さんの発言もずいぶんカットされたことでしょう。

でも、会津魂は十分、全国に伝わったと思います。

今、宮沢賢治の本にかかりきりですが、もう少ししたらまた、

戊辰戦争について学習してみようと思います。

このサイト、岩手県人にはあまり見られていないようなので、

私が主に運営している、岩手を楽しむポータルサイト「ずっぱり岩手」で

紹介させていただきました(「ずっぱりマップ)。

「ずっぱり」ということばを私は使いませんが、

岩手の主に北の地方で使われる方言で、たくさんという意味だそう

です。このポータルサイトに岩手関連の情報を満載しようと思っています。

そういうわけで、少しですが、アクセスが増えると思います。ではまた。


自称・前世が会津藩士

はじめまして。
先生の「会津藩燃ゆ」「王城の守護職」「箱館戦争」を読んで以来ファンです。

ちょうどそれを読んだ頃に年末時代劇スペシャル「五稜郭」を見ましたので、

余計に会津びいきといいますか、薩長のやり方に憤りを感じ今にいたってい

ます。

また、私の母の実家が南茅部(現在は函館市)なため函館には小さい頃より縁

があり、榎本武揚も尊敬する人物の一人になっています。

先日、NHKのその時歴史は動いたも見ました。

もっともっと多くの人になぜ会津が朝敵にならなければならなかったのを知

ってもらい、

戊辰戦争の意義や薩長の理不尽さも知ってもらいと感じています。

戊辰戦争研究会には入会しようか迷っているところですが、

まだまだ勉強不足な私ですので、これからも先生の本などを読んで、

勉強したいと思います。

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ぜひ、ご入会ください。
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2007年10月18日(木) その時、歴史は動いた、テレビの反響
その一

会津若松市、小野木

おはようございます。

昨日はテレビを拝見いたしました。

感動いたしました。

会津若松市、坂内

凄い反響です。

水戸からも電話があり、てんてこ舞いです。

白河市、深谷

語り告ぐことの大事さが、心に残りました。


仙台市、寒河江

最高じゃないですか、堂々としていてすばらしかった。

郡山市 やぎ内

昨日の「その時歴史は動いた」見ました。

何故、会津の人は長州の人を毛嫌いするのかがよく解りました。

先生、ハンサムに映ってましたよ


埼玉県、小名

テレビ見ました!良かったです。


その二

会津若松を愛される
 星 亮一 先生

昨夜(10/17(水))のNHKテレビで放映された

「その時歴史が動いたー会津戦争・松平容保の悲劇ー」を拝見いたしました。

星先生も特別出演し、会津戦争に対するコメントを述べられていましたが、少しばかり

残念だった印象を持ちましたので失礼を顧みずこのメールを書かせていただきました。

このメールを書く経緯を少しばかりまず記しておきます。

私は横須賀(神奈川県)に住んでいる69歳の男性です。

ご存じの通り現在は横須賀市の一部である浦賀に黒船がやってきて

日本の近代化のターニングポイントとなりました。

そんな場所が存在することを横須賀市も誇りとし、

黒船来航150周年を記念して「横須賀開国史研究会」

(会長・山本詔一(郷土史家))を市民に呼び掛けて

立ち上げ日本の近代史を学んでいます。

江戸湾の沿岸警備には会津藩も大きく貢献し浦賀にも

多数の会津藩士が赴任していたことはご存じの通りです。

そんな事もあって横須賀市と会津若松市は今も交流があり(友好都市)、

この夏も会津若松から高校生が訪れたと聞いています。

そして今月末には「横須賀開国史研究会」のメンバーが

会津若松市を訪ねあちらの歴史研究団体と交流することが企画されています。

私もその訪問団メンバーの一人です。

そんな事もあって「戊辰戦争とは何だったのか」を学び直していますが、

星先生の著書も何冊かもちろん読みました。

その中で「ほとんどの歴史書は会津戦争を

「新政府軍対会津藩軍」の戦争と言っているけど、それは間違いである、

「薩長連合軍対会津藩軍」の戦争というのが正しい、と主張されています。

前置きが長くなりましたが本題です。

昨夜のTVで番組のキャスターの松平定知さんは

「新政府軍対会津藩軍」とアナウンスされていました。

そして星先生との対談の折も同じ表現をされていましたが、

その表現の間違いに星先生が一言もコメントされなかったことに

「あれ?」と思った次第です。

星先生の主張はもっともだと思っていたので残念でした。

番組そのものは会津戦争の意義を伝えるには中途半端な番組だったなあ

との印象を持ちました。

田平憲一郎

その三

東京から

こんにちは、NHK見ました。懐かしくなりメールしました。

もう30年以上も前の星さんのイメージが浮かんできました。

今は作家として地元の研究に勤しんでいらっしゃるとの事ですね。

東京で星さんの講演会があったらぜひ聞きに行きたいと

思いました。

その四

山形県新庄から

見ました!NHK.星先生ステキに写っていました。

会津戦争、容保は43分では語りつ尽くせませんが、

それでも感動しながら拝見させていただきました。

容保の晩年をもっと知りたいと思いました。


その五

岐阜県、桜井

会津藩の心をしっかりアピールできて、よい番組でした。

その六

沖縄、松永

テレビ見ました。短い時間でよくまとまっていましたね。

やはり会津魂は正しい、

伝えて行きたいですね。私は母が会津若松、父が薩摩、ちょっと複雑ですが、

会津は大好きです。もう感動でした。

その七

長州、萩市から

涙が出て仕方がありませんでした。

会津の方々は立派に戦ったと思います。

その八

在パリ、大江

たまたま日本に戻っていました。

会津の方々は苦労されたと思いますが、

星さんがおっしゃったように、100年後、間違いなく復権しましたね。

時代に流されず,信念を持って生きる。それが大事です。外国で暮らしていますと

特にそう思います。

いい番組でした。


その九

新潟県、長谷川孝治

星亮一さま

ご無沙汰しております。

昨晩、「その時、歴史が動いた」会津戦争・松平容保公の思いと決断、

会津の心情…、そして、星さんのご活躍のお姿を拝見しました。

これまでにも幕末・維新の放送は多く取上げられましたが、

敗者の視点で放送されることは少なかったように思います。

「勝てば官軍…」のとうり、勝者が正義と流布・啓蒙されることは

歴史に刻まれていますが、敗者の視点で検証することの大切さを改めて認識しました。

多分、多くの会津の方々は感激し、溜飲を下げ、

一矢報いた気持ちで喜んでおられるのではないか思います。

現在、蔓延している「いじめ問題」と同じく、いじめた方は忘れても、

いじめられた方の遺恨は深く、長く続きます。

このことは、関ヶ原の遺恨を265年後に維新の美名のもとで、

更に敗れた會津・東北は140年近くを経ても

心に陰を持ち続けているように感じています。渾沌とした時勢にあり、

最も必要な教育は「ならぬことはならぬものです」

という躾けなのかもしれません。

向後、寒冷の候となりますが、ご自愛くだされて、

益々、ご活躍されますことを祈念し、期待しております。

お疲れ様でした。

その十

水戸市、古川

とてもよい番組でした。

会津の人は皆正直で、まじめすぎたのかも知れません。

でも会津に生まれ育ったことに改めて誇りを感じました。

星先生の最後のコメントに胸が熱くなりました。

会津藩のドキュメンタリー番組がほしいですね。


その十一

荒川トシエ

ホームページのプロフィールを拝見してびっくりしました。

千厩高校は私が高校生の時、バスケ部の練習試合で訪れました。

千厩から車で30分の所に住んでいたので、里帰りの度に通ります。

先生と特別な縁を感じました。

現在、白虎隊をよく知り、何かで後生に伝えたいと思い、

福島に永住の決意をし、宮城から越してきました。

郡山自由大学の白虎隊の講演に申し込んだのですが、

越してきたばかりで体調を崩し、先生にお会いすることができませんでした。

その後、会津に何度か訪ね、白虎隊士中二番隊に同姓の方がいたのでびっく

りしました。祖母は那須高原の出身で、

祖父の家系は村の村長をしていたの

で、会津に縁があるかどうか調べています。

小学校の遠足ではあまり関心がなかったのですが、

テレビ番組や先生の著書でどんどん関心を持ち、

両親の戦争体験も含めて、福島の子供たちに伝えたいと思っております。

昨日のNHK番組「松平容保」は物足りなかったです。

あまりにも時間が足りず、伝えたいことがわずかだった気がしました。

太平洋戦争もですが、「もう少し時が緩やかに過ぎたなら〜」

の堀内孝雄さんの歌詞のように、また

「早く降伏していたら」、と口惜しい思いでした。

東北に生まれ、一度は東京で暮らしましたが、

東北がとっても大好きで、東北で暮らす人生を誇りに思っています。
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2007年10月17日(水) 今日は「その時歴史が動いた」
星亮一がNHK番組に出演

タイトル
義に死すとも不義に生きず
〜会津戦争 松平容保、悲運の決断〜


平成19年10月17日 (水) 22:00〜22:43

総合テレビ

戊辰戦争最大の悲劇、会津戦争。東北地方の制圧を目指す明治新政府に対し、

最後まで抵抗した会津藩では、

女性や子供なども含め2500人以上の命が失われた。

この戦いを指揮したのは会津の元藩主・松平容保。

「精忠天地を貫く」とたたえられた若き指導者である。

幕末、容保は徳川幕府への一途な忠義心から、幕政の立て直しに奔走する。

しかしその行動は、誕生したばかりの明治新政府にうとまれ、鳥羽伏見の戦い以後、

会津は逆賊の汚名を着せられた。多くの人々が新政府になびく中、

容保ら会津藩は「義をもって死すとも不義をもって生きず」の精神で、

新政府軍との全面戦争を決意する。

自分たちは逆賊ではないということを天下に示そうとしたのである。

しかし圧倒的な戦力で攻めこむ新政府軍を前に会津藩は苦戦を強いられ、

ついに本拠地・若松城での籠城戦にまで追いこまれた。

最新鋭の大砲で天守閣を狙い撃ちする新政府軍。

城内では数多くの会津藩士やその家族が次々に倒れていく。

1ヶ月にわたる悲惨な戦闘の末、容保はついに家臣に最後の決意を語り始めた…。

時代の激流のなかで己の正義を貫こうとした会津藩主・松平容保、

その非運の決断を描く。

さて、今日はどうなるのか、いささか心配ですが。

もうまな板の鯉、ごらんいただくしかありません。

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その時… 戊辰戦争研究会 ちよ
録画準備 OK!!

この日の為に取ってあった、磐梯山の地酒あけます。

新選組流山隊の方も先生がゲストと聞いて楽しみにしているようです。

なぜか私が、今からドキドキしております。

会旗は、やはり大きい会場用と手で持てる物と

少なくとも二つあったほうが良いように思います。
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2007年10月16日(火) 北東文芸賞に森まゆみさん
私は戊辰戦争研究会のほかに、北東文芸協会を主宰している。

郡山を中心に公称35人の会員がいて、時折集まって、あれこれだべっている。

それだけではしょうがないと、

年1回、奥会津文化フオーラムを開き、地域の皆さんと、歴史や文化を論じ、

その界隈を探索し、そのほかに北東文芸賞を設け、

新潟を含めた東北7県の出身者、あるいは東北を舞台に

文学作品を書いている作家の方を

ささやかに表彰している。

今年は東京にお住まいの

森まゆみさんを選んだ。

福島民報、福島民友、河北新報で報道されたが、今朝は読売新聞福島県版に

次のように掲載された。


 郡山市内の文芸愛好家らでつくる北東文芸協会

(事務局・郡山市、星亮一会長、会員35人)は12日、

今年度の「北東文芸賞」を東京・台東区を中心とした地域誌

「谷中。根津・千駄木」(通称・谷根千)など発行してきた

作家の森まゆみさん(53)に贈ると発表した。

戊辰戦争で新政府軍に抵抗した彰義隊に参加した若い旗本たちの姿を描き、

来春文庫化される森さんの小説「彰義隊遺文」が受賞作となった。

 同賞は2002年に創設。

東北地方と新潟県出身、またはかかわりがある優れた中堅作家を表彰しており、

今回で6回目。

森さんには、会員が一人3000円以上を出し合って工面した賞金10万円と、

会員手作りの会津本郷焼きの絵皿が贈られる。

 森さんは東京都出身だが、

定期的に祖父母の出身地である宮城県丸森町を訪れ、

農業をしながら地元の人たちとの交流を続けている。

 森さんは

「賞をいただき、大変光栄に思う。自分のルーツを改めて東北にあると感じた」

と喜んでいる。

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という過分の記事だった。

われわれは、そんな立派なことをしているわけではない。

自分たちに出来る範囲のことをしているだけである。

会員も公称35人で、実際に集まってくる人は、そう多くはない。

全員すべてが3000円、出してくれるわけでもない。内情はそういうところだが、

北東文芸賞は6年、続いている。これからも続けるつもりである。

賛同する方はぜひ、会に入ってほしい。

なお授賞式はこの23日、午後3時から

宮城県丸森町小斎小学校体育館で行う。小斎が森さんのルーツの村落である。

私が司会役を兼ね森さんと対談する。

観客は小斎小学校の5年生以上、町民の方々である。

森さんも私も小学生に話すのは初めて、どうなるのかなあ。

入場無料、お出かけください。

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森まゆみ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詩人・小説家

東京都文京区動坂出身。早稲田大学政治経済学部卒、東京大学新聞研究所修了。

出版社で企画・編集の仕事に携わった後、フリーとなり、

地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊し、編集人となる。

その傍ら、作家・エッセイストとしても活躍し、多数の著書がある。

1997年に『鴎外の坂』で芸術選奨文部大臣賞、

2003年に『「即興詩人」のイタリア』でJTB紀行文学賞をそれぞれ受賞。

2004年より東京国際大学教授。


[編集] 著書
谷中スケッチブック 心やさしい都市空間 エルコ, 1985 のちちくま文庫
谷中墓地掃苔録 1-2 谷根千工房, 1989-91
トポス・上野ステェション 谷根千工房, 1990
とり戻そう東京の水と池 岩波ブックレット, 1990
小さな雑誌で町づくり 晶文社, 1991 のち「「谷根千」の冒険」と改題、ちくま文庫
不思議の町・根津 ひっそりした都市空間 山手書房新社, 1992 のちちくま文庫
抱きしめる、東京 講談社, 1993 のち文庫
長生きも芸のうち 岡本文弥百歳 毎日新聞社, 1993 のちちくま文庫
読書休日 晶文社, 1994
ひとり親走る 講談社, 1994 「走るひとり親」学陽文庫
かしこ一葉 『通俗書簡文』を読む 筑摩書房, 1996 のち「樋口一葉の手紙教室」と改題、ちくま文庫
東京たてもの伝説 藤森照信共著 岩波書店, 1996
明治東京畸人伝 新潮社, 1996 のち文庫
明治快女伝 わたしはわたしよ 労働旬報社, 1996 のち文春文庫
寺暮らし みすず書房, 1997 のち集英社文庫
鴎外の坂 新潮社, 1997 のち文庫
路地の匂い町の音 旬報社, 1998
深夜快読 筑摩書房, 1998
人町 荒木経惟共著 旬報社, 1999
恋は決断力 明治生れの13人の女たち 講談社, 1999 「昭和快女伝」と改題、文春文庫
のほほん親本舗 学陽書房, 1999
大正美人伝 林きむ子の生涯 文藝春秋, 2000 のち文庫
その日暮らし みすず書房, 2000
一葉の四季 岩波新書, 2001
アジア四十雀 平凡社, 2001
森の人四手井綱英の九十年 晶文社, 2001
にんげんは夢を盛るうつわ みすず書房, 2002
海はあなたの道 越境のKorean/Japanese PHPエディターズ・グループ, 2003
昭和ジュークボックス 旬報社, 2003
「即興詩人」のイタリア 講談社, 2003
東京遺産 保存から再生・活用へ 岩波新書, 2003
森まゆみの大阪不案内 筑摩書房, 2003
こんにちは一葉さん 日本放送出版協会, 2003 (NHK人間講座)
こんにちは一葉さん 明治・東京に生きた女性作家 日本放送出版協会(NHKライブラリー) 2004
彰義隊遺聞 新潮社, 2004
とびはねて町を行く 「谷根千」10人の子育て 集英社文庫, 2004
明治・大正を食べ歩く PHP新書, 2004
プライド・オブ・プレイス みすず書房, 2005
円朝ざんまい よみがえる江戸・明治のことば 平凡社, 2006
『婦人公論』にみる昭和文芸史 中公新書ラクレ, 2007

[編集] 社会的活動
文化庁文化審議会委員
同 文化財分科会委員





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2007年10月15日(月) ミッドウエー海戦
今日は新聞休刊日、南雲忠一の執筆に没頭します。

場面は痛恨のミッドウエー海戦、

情報がすべて筒抜けでした。

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以下はヤフーから、なかなかいい記述です。

ミッドウエー海戦は短期間であったが連戦連勝を続けてきた日本軍側が

初めて経験した挫折であり、太平洋をめぐる日米両軍の戦いにおける

ターニング・ポイントとなった。

まさにミッドウエー海戦は「太平洋の戦局はこの一戦に決した」

というべき戦いであり、「戦史上特筆大書さるべき」海空戦であったが、

それは日本側にとってではなく戦果絶大なものがあったのは米軍側であった。

この作戦は山本五十六司令長官のシナリオ通り進行。

ミッドウエーを攻略することによって米空母部隊の誘出を図り、

これを捕捉撃滅することは現在の戦力からみて容易であると判断 

ミッドウエー上陸予定日は月齢や気象を踏まえて6月7日(昭和17年)と計画され、

同じにアリューシャン攻撃も行われることとなっており

本作戦には日本連合艦隊の決戦兵力のほとんど動員されていた。

(350隻の艦隊、飛行機1000機、将兵10万以上の大出動)

 山本五十六司令長官に「日本海軍暗号の解読は絶対にありえない」

と言はした暗号であったが、

守勢の立場にあった劣勢の米国海軍の強い力となったのがこの暗号解読であった。

日本海軍主力が太平洋のどこかで遠からず積極的な作戦に出てくることは

確実であったが、その時期や目的地について判断がつきかねていた。

その時期、日本海軍の最も広く用いられた戦略常務用(海軍暗号書D)

の解読に取り組んでいた米軍海軍情報部は5月26日までにほぼその解読に成功。

ミッドウエー作戦の計画に関して、

日本側の作戦参加艦長、部隊長とほぼ同程度の知識を得ていた。

日本海軍の損失→空母4、重巡洋艦1、飛行機322、兵員3500の大敗。

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暗号が解読されていたのです。

これでは子供と大人の喧嘩でした。

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「愛知県警の初動にミス」力士急死で解剖医が批判
10月14日19時55分配信 産経新聞


 大相撲・時津風部屋の序ノ口力士、時太山=当時(17)、

本名斉藤俊(たかし)さん=が愛知県犬山市でけいこ後に急死した問題で、

遺体を解剖した新潟大大学院の出羽厚二准教授(法医学)が14日、

産経新聞の取材に対し、「検視官に見せないで遺体を病死として処理し、

被疑者になる可能性のある元時津風親方に返してしまった。

初動捜査さえしていない可能性がある」と愛知県警の初動捜査を批判した。
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2007年10月14日(日) 今日は日曜日
新聞を読んでいます。

私のもっとも楽しい時間です。

読売新聞の調査だと92パーセントの人が新聞は必要と答えていた。

そうだと思う。

国立ガンセンター、垣添名誉総長が書いていたが、

いまや男性の2人に1人、女性の3人に1人がガンになる時代だという。

しかし発見が早ければ、理不尽な死を迎える事態を避けることが出来るという。

ガン検診が大事です。

これも新聞記事の効用かな。

こちらは10月13日9時54分配信の 日刊スポーツ

松浪文科省副大臣が大毅に「期待しない」

と発言した。

11日の試合を会場で観戦した同副大臣は12日、

大相撲秋巡業成田場所を視察後

「彼にはもっと勉強してほしい。世界一の技術を見せる場が世界戦なのに、

論評にも値せずショックだった」と話した。

大毅は一夜明けてコメントで再出発を表明したが、

「人を人とも思わない言動はダメ。今後も期待しません」

と突き放した。

当然のコメントですね。

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おしらせ

 10月21日(日) 後藤新平生誕150年記念シンポジウム

          会場:奥州市文化会館(大ホール)

          開場:午後1時 開会:午後1時30分

          基調講演:JR東日本松田昌士相談役

                演題:「私にとっての後藤新平」

          シンポジウム:パネラー5名

                御厨  貴 東京大学教授

                星  亮一 作家

                東山 京子 中京大学社会科学研究所

                相楽 新平 福島県須賀川市長

                相原 正明 岩手県奥州市長

          聴講希望の場合、入場整理券が必要となります。

          主な入場整理券配置場所は、次のとおりとなっております。

          奥州市内:市役所(総合案内)・各支所・各公民館・
         
          文化会館等

          岩手県内:県内全市町村(市町村民窓口)

          東北6県:全市役所(仙台市は各区役所)

          問合せ先:0197−24−2111(内線)551      

 10月21日(日)〜11月18日(日) 後藤新平展

          会場:奥州市文化会館(展示室)「休館:火曜日」

          時間:午前9時30分〜午後5時30分(初日は午後7時まで)

          「大東京復興模型(復興記念館所蔵)」・

          「永代橋模型・蔵前橋模型(東京大学

          所蔵)」を含めて、110点の資料を展示します。

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すべてをインターネットで行うYahoo! JAPAN文学賞

こういうのがあったのだ。

本文学賞は、この特集ページで応募いただいた作品のなかから、

ノミネート作品5本(予定)を選び、この特集上で公開し、

みなさんの投票で「Yahoo! JAPAN賞」を、

今回の選考委員である作家のあさのあつこさんが「選考委員特別賞」を決定します。

受賞作品は、Yahoo! JAPAN特集上、小学館の文芸誌「きらら」※1で掲載、

Timebook Town※2で電子書籍化し公開されます。

とのことです。
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2007年10月13日(土) 今日はNHK講座、勝海舟伝説
午後1時、NHK郡山文化教室での文化講座、「勝海舟伝説」、第1回です。

朝、NHKから電話があり生徒が10人に満たないと連絡がありました。

私の講座はゼミ形式なので、逆にありがたいのですが、

でももう少し、増えてほしいね。

宣伝が行き届かなかったかも知れません。

さて勝海舟の素顔とは。

3回にわたり話します。いずれ本にするつもりです。

とにかく、凄い人物でした。

当時の日本の社会では、トップレベルの国際人でした。

半面、かなりの皮肉屋で、将軍であろうが、老中であろうが、こき下ろし

ました。女性に目はなく、ずいぶん、もてたようです。

魅力たっぷりの男でした。

続きは午後、

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朝、新聞を見ると腹が立つことが多い。

あのボクシングは何か、ハチャメチャ、あれはボクシングではない。

赤福、経営者の認識が甘すぎる。

出直しですね。
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2007年10月12日(金) 義に死すとも不義に生きず,NHKの番宣
その時、歴史が動いた

NHK の番組宣伝に下記のように記載されました。

第302回
義に死すとも不義に生きず
〜会津戦争 松平容保、悲運の決断〜

平成19年10月17日 (水) 22:00〜22:43 総合

ゲスト、星 亮一さん(作家)

戊辰戦争最大の悲劇、会津戦争。東北地方の制圧を目指す明治新政府に対し、

最後まで抵抗した会津藩では、女性や子供なども含め2500人以上の命が失われた。

この戦いを指揮したのは会津の元藩主・松平容保。

「精忠天地を貫く」とたたえられた若き指導者である。

幕末、容保は徳川幕府への一途な忠義心から、幕政の立て直しに奔走する。

しかしその行動は、誕生したばかりの明治新政府にうとまれ、

鳥羽伏見の戦い以後、会津は逆賊の汚名を着せられた。

多くの人々が新政府になびく中、容保ら会津藩は

「義をもって死すとも不義をもって生きず」の精神で、

新政府軍との全面戦争を決意する。

自分たちは逆賊ではないということを天下に示そうとしたのである。

しかし圧倒的な戦力で攻めこむ新政府軍を前に会津藩は苦戦を強いられ、

ついに本拠地・若松城での籠城戦にまで追いこまれた。

最新鋭の大砲で天守閣を狙い撃ちする新政府軍。

城内では数多くの会津藩士やその家族が次々に倒れていく。

1ヶ月にわたる悲惨な戦闘の末、容保はついに家臣に最後の決意を語り始めた…。

時代の激流のなかで己の正義を貫こうとした会津藩主・松平容保、

その非運の決断を描く。

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ううん、責任重大です。

ところで私の今日の動き

午後から郡山市政記者クラブで行います。

テーマは北東文芸賞の発表です。

内容は近々、告知します。

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えええ、

赤福もですか。この前、NHKの録画の帰り、大阪で買ってきたばかりです。

伊勢名物「赤福餅」、製造年月日を偽装表示の疑い

 もち菓子の老舗「赤福」(本社・三重県伊勢市)が、製造年月日を偽って表示、

販売していた疑いがあるとして、

農林水産省と地元保健所が関係先の立ち入り調査に入っていることがわかった。

 同省などは事実関係の解明を進めており、

不正行為が判明すれば同社を処分するとみられる。

(読売新聞)
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2007年10月11日(木) 今日は原稿執筆
出歩いてばかりいて、原稿、かけませんでした。

今日は南雲忠一にかかりっきりです。

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新発田藩の反響

米沢のおけいどんから

親分、

きのうの夜まで「ことわろう」と思っていたけど

きょうの新発田のことみて「面白い!」と思ったよ。

童話のドン、小川未明は新発田だろ。労組の祖、大杉栄も新発田。

戦後教育に根をはった労組のおかげで、童話転じた未明の流れの児童文学は大繁盛。

未明にたてついた米沢の(厳密に言えば米沢じゃないけど) 

浜田広介の流れほそぼそと続いてきた。

歴史小説と童話、なにか接点ありそうだ。

戊辰研って何するの。あたしゃ何もできないよ。

左翼にもjapanese consavativeみたいな人たちに利用されるのはやだよ。

雲井龍雄っていうのもやめとくれ

米沢じゃまたタブー復活なんだ。

小野小町が愛(めご)のほうがいいよ。

おけい

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japanese consavative=日本の保守主義者のこと。

戊辰戦争研究会に、おけいどんも入るという返答です。

米沢のことをあれこれ知らせてくれれば、ありがたいです。

我輩はリベラル派だからね、時々、保守にもなるがね。

これで米沢に強力メンバー誕生です。

ハンドルネームは、愛めご。

可愛い名前です。年間会費3000円だよ。

研究会の投稿欄にいつでも書き込めるよ。事務局は仙台の玉虫君、いい男だよ。

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おしらせ

日大大学院総合社会情報研究科内
日本国際情報学会
第4回大会

テーマ「国際情報の必要な時代」

 ■日程
 10月27日(土)
  総会(11:30〜)                
  13:00〜
  基調講演  五十嵐雅郎「経済環境の変化と産業界の対応」
 特別講演  階戸照雄「フランスのファミリービジネス」  
  
  特別発表  星亮一「彰義隊始末−彼らはなぜ戦ったのか」
  
  研究発表  村上恒夫「文字と数字の情報伝達−防災情報の視点から」
        高橋健太郎「沖縄密約とジャーナリズム」
 
 10月28日(日)
  研究発表会(11:00〜)
        木村栄宏「大学生のキャリア形成」
        坊農豊彦「企業における個人情報保護の生成」
        長谷川昌昭「連続する英国標的のテロへの対応からの訓えを踏まえ空        前の渡航者増加傾向への留意事項の提言など」
        安保克也「情報社会における表現の自由」
        青山周 「環境を制する者が中国を制する」
  特別発表  寺井融 「日本政治の現状と問題点――『裏方物語』に書けなかった        こと」
■場所
  27日:日本大学市ヶ谷会館601A号室
  28日:日本大学市ヶ谷会館203号室
   
  一般参加歓迎
  
 

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2007年10月10日(水) NHK星亮一と行く歴史街道
今日は戊辰戦争と幕末の新発田藩です。

いろいろあったところです。

午前8時、これから出かけます。

午後7時帰りました。

いささか疲れました。

各所にボランテイアガイドがいて、説明してくれました。

藩の下屋敷、清水園のガイドさん。

「新発田藩が官軍についたのは、鳥羽伏見の戦争を見て、

幕府、会津はだめだと思ったからです。要するに先見の明ガあったからです」


会津の人が聞いたら、カチンとくる表現でした。

新発田城のガイドさん。

「ううん、新発田は、列藩同盟に入るといったり、やめたといったり、

右往左往しました。京都の情勢に詳しい家老がいて、そう判断したのです」

「なるほど、では子供たちにはどう教えていますか」

「ううん、それが難しい」

この人は言葉につまっていました。

長岡や会津では、新発田を裏切りと非難し、

新発田は時代の趨勢を読んだと語ります。

ともあれ、どなたも戊辰戦争には、頭を痛めていました。

官軍に変身したところは、したことで、悩んでいました。

そんな印象を受けました。

これをどう考えるべきか。

整理は難しいですね。

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新発田藩の内応と津川口陥落

ヤフーから

 戊辰北越戦争で越後方面の同盟軍は、ある時期まで新政府軍に善戦していた。

しかし慶応4年(1868)7月25日の新発田藩の新政府軍への内応により、

同盟軍が補給基地として頼みとしていた新潟港が封鎖され、

このあと同盟軍は坂道を転げ落ちるように敗戦へ向ってしまった。

越後では高田藩(榊原家)15万石につぐ大藩である新発田藩(溝口家)

10万石の奥羽越列藩同盟からの離脱は、

北越会津戦争で衝撃的なできごとであった。

いまでも新発田藩の裏切さえなければと考える人は多い。

新発田藩 しばたはん
≪場所≫ 新発田市


 新発田藩では、早くから海防の危機を募らせており、10代藩主・溝口直諒

(みぞぐちなおあき)は、海防の急務を幕府に訴え、

1808年(文化5年)に幕府より佐渡への警備軍派遣を命ぜられている。

 約半年間に渡って、佐渡を守備した新発田藩では、

次第に対外政策への議論が盛んとなっていった。

藩主・直諒は、「報国説」を著し、これが藩の方針の

基本とされた。「報国説」では積極的な開国を唱え、

 そのため、藩論は尊皇開国という形を取り、同じ尊皇

思想を持つ水戸藩とは違って、欧米列強と交易を持って接するという

開国派に立っていた。

 1868年(慶応4年)5月に、戊辰戦争は北越戦争へと

突入し、長岡藩が官軍と激戦を張ると隣藩である新発田藩へ援軍要請が出された。

 しかし、新発田藩は長岡藩・米沢藩に半ば強引に列藩同盟に参加するよう

勧められて列していただけにあまり積極的に官軍と戦おうとはしなかった。
 
そのため、兵団もなかなか出さない。焦った米沢藩は、使者を飛ばして、

新発田藩に出兵を催促した。

ついには、農民が反乱を起こして、藩主が佐幕派の

軍を動かすことを押し止めようとする運動が起き、新発

田藩は軍勢を出兵できなくなってしまった。

 これに業を煮やした米沢藩は、米沢藩軍を新発田藩

へ派兵すると新発田藩に強引に軍勢300と兵器の提供

を約束させてしまう。

 だが、新発田藩ではもうこの時には、列藩同盟に参加

協力するつもりはなくなっており、勤王に藩論は傾いて

いた。そして、江戸家老に新政府へ接触させて、官軍へ

全面的に協力する旨を伝えている。
 
こうして、官軍は、なかなか落ちない長岡藩とその周

辺の北越諸藩を黙らせるべく、新発田藩へ海路上陸す

る作戦を立て、見事成功する。
 
こうして、新発田藩は官軍上陸とともに列藩同盟を

脱し、米沢藩や長岡藩に対して攻撃を開始したのであった。
 
その後、新発田藩は官軍に北越・奥羽の道案内を成し、

積極的に新政府へ勤王忠誠の姿勢を見せたのであった。

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二つの見方があるわけです。

私の見解は、別の機会にいたします。
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2007年10月9日(火) 三斗小屋続報
玉虫左太夫

参加した皆様 御疲れ様でした。

私は余りの疲労にしばらくうごけませんでした! 

しかし、本当に行ってよかったです。

登山初心者の私には苦しい道のりでしたが、あの絶景を目の当たりにして、

苦労が報われた気持ちになりました。 

また行きたいです!!  ・・・ 

さて、あんな山の中を通って戦場に赴くとは、想像しただけで壮絶です。 

インパールを連想しました。 

とにかく、全員無事でなによりでした。

仙台支部の参加者全員、満足だったようです! 

本当にありがとうございました!!


那須・茶臼岳山頂 村田蔵六

那須という名峰もさることながら、あの三斗小屋に泊まれるという思いと

白河支部行事ということで参加した村田蔵六です。

いままで知らなかった那須を知ることができ感謝・感激でした。

あの道が春夏秋は街道であり、三斗小屋に

5件の宿がある宿(しゅく)であったことがよくわかりました。

あと何回か訪ねることになりそうです。

登山者としての三斗小屋は大変暗い小屋でしたが、

旅人としての三斗小屋はなかなかのものでした。なんといっても温泉が最高。

また、多士済々のパートナーにも恵まれました。

総裁と地元の磯先生(顧問になっていただきました)・

総裁を支える玉虫事務局長と方谷殿。

それに白河の郷土史研究家植村先生(会友?)・

我等が白河支部の勝支部長と月井殿とクマ殿。

そして玉虫殿の同級生のギャル3人組が盛り立て役。なんとも贅沢な布陣でした。

戊辰戦争研究では、「館林藩の話」「会津藩の参謀不在論」などがありましたが、

戦争とはなんとむごいものかを改めて感じたものでした。

例によって武士階級のエゴに巻き込まれた十数軒の宿人たちの悲哀に

思いがいきました。

那須の主峰「茶臼岳山頂」では、総裁の17日の「松平容保」放映に合わせ、

星亮一コミュニティをミクシィ上に立てようという話も進みました。

戊辰戦争研究会の皆様の絶大なる協力をお願いする次第です。

帰宅 方谷

いろいろハプニングもありましたが、全員、怪我もなく良かったです。

私は、未だ筋肉痛が発症したいませんが皆さんいかがでしょうか?

またお会いしましょう。

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玉虫君が動けなくなったのは、私のせいでした。

何せリュックを背負ってもらったわけですから。

次は小さなリュックにします。

しかし、頂上から見た下界のすばらしさは格別でした。

温泉も最高でした。こうなると、

来年もどこか登山をしたいものです。

喉もと過ぎれば熱さを忘れる

です。
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2007年10月8日(月) 三斗小屋の感想
月井源右門

白河支部主催三斗小屋登山お疲れ様でした。

20年以上前に三斗小屋に行ったのですが体力の衰えは遺憾ともしがたく、

飛んだつもりが川の中九死に一生???を得た月井源右門です、

三斗小屋温泉大黒屋のご主人に月井源右門の悲惨な最期を聞き

改めて戦争の狂気を感じました。しかし昔の人の体力には脱帽です、

あの場所で戦争をしたなんて信じられません。


勝海舟

実は想像以上に大変なコースでした。

昔、別のコースで三斗小屋温泉まで行ったことがあり、

軽登山の印象を持っていました。

ところが、ところが・・・アクシデント・ハプニング続出!!

ともあれ2日間晴天に恵まれ、目的が達成できたことを嬉しく思います。

いろいろな顔を持つ那須の山容はとても素晴らしく、

「へとへとふらふら」になった方達も、きっと良い思いでとなることでしょう。

戊辰戦争「三斗小屋の戦い」については、登るだけでも大変な山の中で、

よくもまあ戦争が行われたものだと皆で話が盛り上がりました。

参加者の皆さん、本当にお疲れ様でした。貴重な体験と良い思い出、

そしてご協力をありがとうございました。心から感謝申し上げます。


榎本武揚

ものすごい登山でした。

私は下りで何度もこけて、玉虫事務局長に

リュックを背負ってもらう事態となりました。

ああ、何たることか。歳のせいか、リュックが重すぎたせいか。

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以上、戊辰戦争研究会、投稿欄から

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三斗小屋とは何か、

三斗小屋宿は、会津若松から大峠を越えて那須野ヶ原に抜け、

氏家に至る会津中街道に面した宿場だった。

ここに会津軍は陣地を作っていた。

詳しい規模はわからない。

とにかく山また山の凄い峠の中腹にあった。

車が止まっているところを見ると、どこかに車が入れる道があるらしい。

われわれは板室から徒歩で入った。

細くて急な峠道を延々、4時間もかけて歩き、やっとたどりついた宿場は、

なんと標高(1,460m)の大峠にあり、宿場の跡は広場になっていた、

当時の戦争をしのぶものは、碑文をのぞいて何も

なかった、

ここに攻め込んだのは、館林藩や黒羽藩だった。

8月23日(新暦10月8日)会津軍との間で、激しい戦闘を繰り広げられ、

会津に協力した周辺の農民が多数、虐殺された。

薩長軍と会津軍が、会津戦争の前哨戦となる激しい戦闘を繰り広げた。

どんな戦争だったのか。

 三斗小屋の住民田代音吉が明治44年に著した「三斗小屋誌」の中にあった。

惨殺し、その肉を食べた。

三斗小屋温泉大黒屋の主人は

「残虐行為を行ったのは官軍だった」

と語った。

高根澤文五郎
 
氏ハ三斗小屋大黒屋ノ人 初メ幕軍ノ当地ニ至ルヤ厳命ノ下二

幕兵ノタメ軍夫二使役セラル

 後チ官軍當地ニ着クヤ其事発覚シ黒羽藩士ノタメニ捕ハレ

畑中ニ於テ一斉射撃ノ的撃チトセラレ無慙ノ死ヲ果ゲタリ

月井源左ェ門

 氏ハ百村ノ人 共ニ幕兵ニ服従セシモノトナシ

百村ヨリ三斗小屋マデ縛シ牽キ連レ 

民家ノ柱ニ繋ギ炉ニ火ヲ焚キ黒羽藩士等各串ヲ拵ヒ源左ェ門ノ皮ヲ剥キ

股ノ肉ヲ削リ取リ串ニ挿シ炙リテ食シ 

又一片ヲ源左ェ門ノ口ニ押込ミ我ガ肉食ヒトイヒタリキ 

源左ェ門ノ痛激悲泣ノ声山谷ニ響キ渡リ当時逃ケ後レノ老人等

之レヲ見テ恐怖悄然極リナカリシト嘆ク 無慙トイウモ愚ナリ


 鳥羽伏見に始まった戊辰戦争は、北関東の奥地、

那須山麓にも深い傷跡を残していた。

塩原、板室、三斗小屋宿、関谷宿等々、両軍によって多くのところが、

焼かれた。
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2007年10月7日(日) 三斗小屋集会
二日間の行程が終わり、午後7時、郡山に戻ってきました。

茶臼岳山頂も征服、大変な集会でした。

三斗小屋の宿場跡に向かう途中、橋が洪水で流され、

急流を靴を脱いで渡る場面もありました。

「あっっ」

皆が叫んだとき、一人が足をすべらせて急流に転落するアクシデントが起こり、

皆、顔面蒼白、あわや大事件と思われましたが、

何人かが川に入って、手を差し伸べ、助けあげることが出来ました。

まあ、大変な集会でした、

明日からシリーズで報告します。
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2007年10月6日(土) 6、7日の日程
三斗小屋登山

日程はごらんの通り。

今朝はすばらしい天気です。

参加者は12人、ガイド付き、9時の電車で黒磯に向かいます。

10月6日(土)
   10:00黒磯駅前市営駐車場集合
   10:50沼原湿原 麦飯坂 
   12:00那珂川河原で昼食
   13:20三斗小屋宿跡
   15:30三斗小屋温泉
   17:00夕食懇親会
        懇親会の折り大黒屋のご主人に戊辰戦争の話を聞く。       

10月7日(日)
    8:30三斗小屋温泉出発
    9:50峰の茶屋
   11:00茶臼岳山頂 昼食
   12:20ロープウエイ 山麓駅
   13:00那須湯本温泉
   14:00那須温泉神社参拝           殺生石見学
   16:00JR黒磯駅

後日、三斗小屋紀行を書きます。

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郡山自由大学 教養講座 

日時:10/22(月)〜10/30(火)
いずれも午後2時から

会場:うすい百貨店10階バンケットルーム

10/22(月) 星 亮一先生(作家)
「彰義隊始末」

10/23(火) トーマ 菜美先生(通訳士)
「英語でしゃべってみよう 〜眠った知識を引っ張り出す〜」

10/24(水) 立岩 寧先生(著者)
「安積開拓 〜郡山、発展の基礎を作った開成社の人々〜」

10/25(木) 佐藤 伝先生(夢実現ナビゲーター)
「幸運を呼び寄せる朝の習慣、夜の習慣 〜1日3分で人生が決まる!〜」

10/28(日) 高橋 充さん(福島県立博物館 学芸員)
「蒲生氏郷の遠征」

10/29(月) 浅田志津子先生(画家松本忠先生 夫人)
「(仮)今すぐできる ママが子どもを地震から守るための本」

10/30(火) 松本 忠先生(画家)
「(仮)のんびり行く 只見線の旅」
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2007年10月5日(金) 尊敬する政治家、伊東正義先生
伊東さんは会津若松生まれの国会議員で、大平内閣の官房長官や総理大臣臨時代理、

鈴木内閣の外務大臣などを務めた人物である。

「いやあ、伊東さんは、それはれっきとした会津武士でした」

と語る方に、つい最近、お会いした。

元読売新聞記者で、

伊藤さんが外務大臣時代、番記者だった。

担当記者という意味である。

「オフレコの記者懇談になると、ここに山口県出身の記者はおるか」

とよくおっしゃった。一人ぐらいはいるのもで、

「私は山口、長州です」

というものなら大変だった。

「おれは長州が大嫌いだ。長州は会津で散々、悪事を働いた」

とおっしゃる。外務大臣がですよ。

びっくりしたものです。骨のある人だったなあ。

その方は懐かしそうにおっしゃった。

これを聞いて私は仰天した。私は一度も会津藩や会津戦争のことを

聞いたことがなかった。

これは取材不足もいいところだった。

伊東さんから会津藩の話がでないので、伊東さんは歴史認識の希薄な人だ

という印象すら持っていた。

「いやあとんでもない。長州が会津でいかに悪いことをしたか、

埋葬も許さなかった。青森県の下北に追いやり、ひどい生活をさせた、

それをよくおっしゃっていた」

というのであった。

総理にぜひという話があったとき、伊東さんは断った。

いろいろ事情もあったのだろうが、ここは受けてほしかった。

受けて先祖の無念を晴らしてほしかった。

残念無念というほかはない。

このことは、いずれ私の本で紹介したい。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に

伊東さんの人物像が次のようにある。

来歴・人物

旧制福島県立会津中学校(現・福島県立会津高等学校)

から旧制浦和高校(現・埼玉大学)を経て東京帝国大学法学部を卒業。

農林省に入省したが、興亜院に出向し、大平正芳(のちの首相)、

佐々木義武らと机を並べる。

戦後、中国大陸から引き揚げるが、空襲で焼け出され、

大平宅に仮寓しその生活がしばらく続く。局長時代には、

河野一郎農相と丁々発止のやり取りをして、河野から政治家向きと評価された。

事務次官まで進む。

1963年、衆院議員に初当選。当選回数9回。河野派入りを拒否し、

無二の親友・大平と同じ池田派(宏池会)に属した。池田勇人首相からは

「君は大平派だな。」と言われる。第1次大平内閣で自民党財務委員長

、第2次大平内閣で内閣官房長官を務め、親友を補佐した。

1980年に大平が急死した際には、首相臨時代理となる。

続く鈴木善幸内閣では外相を務めるが、日米首脳会談での共同声明の解釈を巡り、

日米同盟は軍事同盟ではないと発言した鈴木善幸首相、

宮沢喜一官房長官と見解が対立して辞任。

宏池会内で反鈴木・宮沢ラインの重鎮として重きをなす。

第3次中曽根内閣では党政務調査会長、竹下内閣では党総務会長として

党三役の一角を占める。

1989年のリクルート事件による竹下登首相退陣後、後継党総裁に推されたが、

「本の表紙を変えても、中身を変えなければだめだ」と固辞した。

その後は、党政治改革本部長を務めたが、

徐々に体調が悪化したため1993年に政界引退。1994年5月20日

、肺炎のため東京都内の自宅で死去。享年80。

元秘書に元衆議院議員の斉藤文昭や、元会津若松市長の山内日出夫などがいる。


エピソード

首相臨時代理期間中、周りからいくら勧められても首相執務室に入らず

官房長官室で執務し続け、閣議等の際でも決して首相の席に座らなかった。

大平の死の遠因となったハプニング解散を引き起こすきっかけを作った

福田赳夫・三木武夫に強い怨念を持っていた。

「ポスト竹下」を固辞したことで「政治家にとって首相の地位は

その経綸を実行しうる最大のポストなのに、

首相になりたくないという政治家とは一体なんなのか」

と批判されたこともあるが、

首相を固辞した理由には持病の悪化もあったという。

また、竹下らが本当に自分に「経綸を実行」させてくれるかどうか信用できない、

という面もあったとされる。

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日本相撲協会、時津風親方を解雇
 
大相撲・時津風部屋の序ノ口、時太山(ときたいざん)=当時(17)、

本名・斉藤俊さん=が6月に急死した問題で、日本相撲協会は5日、

東京・両国国技館で臨時理事会を開き、協会の信用を失墜したなどとして、

斉藤さんへの暴行を認めている師匠の時津風親方(元小結双津竜)

の解雇処分などを決めた。

(産経新聞)
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2007年10月4日(木) 後藤新平西端50年記念シンポジューム
今月21日、岩手県奥州市水沢で開かれ、私も出席します。

その要綱が決まりました。

主催、後藤新平・斎藤実生誕150年記念実行委員会

後援、岩手県、

日時、平成19年10月21日、日曜日

会場、奥州市文化会館、大ホール、1500人収容

時間、午後1時、入場開始

   午後1時45分、基調講演、松田昌士、JR東日本相談役

   午後3時、シンポジューム開始

パネラー
   東京大学教授 御厨貴
    
   作家     星亮一

   中京大学   東山京子
   
   福島県須賀川市長 相楽新平
  
   岩手県奥州市長  相原正明

   コーデネーター 胆江日日新聞社編集長 安彦公一

   私は後藤新平を生んだ水沢の風土、仙台藩の学問

   水沢の気質、賊軍の負けじ魂を話します。

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小泉元首相>「民主党は自民反主流派だ」町村派総会で
10月4日19時39分配信 毎日新聞

 「民主党は(自民党)反主流派で、協力政党だ」−−。

約6年半ぶりに出身派閥の町村派総会に出席した小泉純一郎元首相が

マイクを握り、出席者の爆笑を誘った。

 民主党の小沢一郎代表や鳩山由紀夫幹事長らを

「みんな元自民党だ」と指摘したうえで

「かつては小沢さんのグループ(旧竹下派)が主流派で、

我々は反主流。今は民主党が反主流だ」とたたみかけた。

4代続けて首相を生んだ町村派の“わが世の春”を謳歌(おうか)

するかのような「小泉節」に、場内はわいた。

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小沢さん、典型的な保守ですね。
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2007年10月3日(水) ミッドウェー海戦
今日からミッドウエェー海戦の執筆です。

南雲忠一伝のクライマックスです。

負け戦なので、ううんという感じもありますが、

なぜ負けたのか。

厳しく検証するつもりです。

この海戦について、実に多くの人が無謀だったと論じています。

南雲機動部隊の草鹿参謀長もその一人です。

山本長官が功をあせりすぎ失敗したといっています。

しかし、この意見にはどうかという思いがあります。

山本がミッドウエー海戦を決めた時、九割の人は賛成しているのです。

反対者はごくごく少なかったのです。

戦後になって、私は反対だったという意見は、

いささか眉唾というほかはないのです。

すべての責任を山本に押し付けているのです。

その辺のまやかしをまず明らかにしたいと考えています。




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おしらせ

第4回日本国際情報学会

テーマ「国際情報の必要な時代」

 ■日程
 10月27日(土)
  総会(11:30〜)                
  13:00〜
  基調講演  五十嵐雅郎「経済環境の変化と産業界の対応」
 特別講演  階戸照雄「フランスのファミリービジネス」  
  特別発表  星亮一「彰義隊始末−彼らはなぜ戦ったのか」
  研究発表  村上恒夫「文字と数字の情報伝達−防災情報の視点から」
        高橋健太郎「沖縄密約とジャーナリズム」
 
10月28日(日)
  研究発表会(11:00〜)
        木村栄宏「大学生のキャリア形成」
        坊農豊彦「企業における個人情報保護の生成」
        長谷川昌昭「連続する英国標的のテロへの対応からの訓えを踏まえ空前    
              の渡航者増加傾向への留意事項の提言など」
        安保克也「情報社会における表現の自由」
        青山周 「環境を制する者が中国を制する」
  特別発表  寺井融 「日本政治の現状と問題点――『裏方物語』に書けなかったこと」
■場所
  27日:日大市ヶ谷会館601A号室
  28日:日大市ヶ谷会館203号室

私も初日に発表します。
  
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2007年10月2日(火) 日本人ってなんですか
戊辰戦争研究会に新しく入会された関西の方から以下のメールをいただきました。

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この度、入会させて頂きました。

少し長くなりそうですが、自己紹介代わりに、

私と戊辰戦争、このサイトに興味を持ったきっかけなどを

お話させて頂こうかと思います。

私は父親が転勤族だった関係で、子供の頃に合計で10年間、

3カ国の海外生活を送っていました。いわゆる帰国子女です。

今にして思うと、いつも「日本人とは?」を意識させられてきたように思います。

記憶に残る最初の出来事はまだ母に手を引かれて歩いていた4歳くらいの頃、

イギリスはロンドンにいました。信号で杖をついたお婆さんに

母がいっしょに渡りましょうと声をかけた時、怖いを目で母をにらみつけながら

「あなたは日本人でしょう?私の息子は日本人に殺されたのよ」

と言いながらその杖で母を何度も殴りました。

何も出来ずに見ているだけの私は子供なりに傷ついたのでしょう、

それ以降、幼稚園で「私は日本人じゃない」と訴えていたそうです。

そして中学生のときはマレーシアにいました。

当時のマレーシア、シンガポールでも日本人に対する戦争の記憶の憎しみが

消えておらず、父が車で帰宅する途中で、暴漢に襲われ、

滅多打ちの血だらけで帰宅したことがありました。

私自身もタクシーの乗車拒否などは日常茶飯事でした。

18歳ではオランダです。

当時ゴッホのひまわりが日本の企業に買われたというニュースが記憶に

新しい頃でした。美術館に行くたびに

「売り物じゃないよ」とささやかれました。

中略

なぜだかこんな経験ばかりしていて

「日本人って何なの?」

という問いがいつも自分の中でくすぶっていました。

ひょんなことから、白虎隊を知り、新選組を知り、

そして会津藩を知り、救いのようなものを感じたように思います。

そして戊辰戦争、会津藩をもっと知りたいとのめりこんでいきました、

少し前までは戊辰戦争当時の頃のことに夢中でした。

今は、戊辰戦争を行きぬいた人達はその後、どうしたのだろう?

何を考えて明治を生きたのだろう?ということに興味を持ち始めました。

そしてそこから学んで「誇りある日本人」の1人に自分がなりたいと思っています。

つたない文章で長々と失礼しました。

まだまだ勉強中の私ですが、どうぞご指導頂ければ幸いです。

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ううん、私は絶句しました。

最近、体験したことのない、強烈なメールです。

まさに会津人の明治維新は、照姫さんが体験したものと同じでした。

明治以降の日本は、会津戦争で見せた悪しき体質、謀略や略奪、分捕り、

拉致を引きずり次々に戦争を起こして行きました。それが世界の人々の

憎しみを買ったのです。

京都集会、流山集会などで、お会いするのが楽しみです。

貴殿の入会を心から歓迎いたします。

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会員の方もすぐ反応しました。


 はじめまして、
 
貴殿の入会を心から歓迎いたします。

帰国子女と言う事、御尊父様の海外赴任で、

幼少時から思春期を経てとてもお辛い経験をなされましたね。
 
けれどその事が貴殿の核となる信念を作り上げた事もまた事実…、

複雑な思いですが、とても身に染み入るお話を聞かせていただきました。

 ありがとうございます。
 
私の考えですが、「明治維新」と呼ばれるこの革命が

現在のこの腐敗した日本を作り上げ、
 
そしてまた遡れば明治から続く隠蔽体質の国家にしてしまったと思っています。
 
東西両軍の事実を解き明かすと共に、陰惨たる戊辰の役の史実の中で、

現代の指針とも成り得る会津藩の教え、

また西軍の真意そしてその後を知りえて行きたいと思っています。
 
私共もまだまだ不勉強な所もあります。

御一緒に末永く 誇りある日本人として邁進していけたらと思っています。
 
どうぞ宜しくお願い致します。

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関東の方でした。

明日、私の続きを書きます。
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2007年10月1日(月) 福田康夫内閣 ,インパクト欠ける
福田康夫内閣

所信表明演説、安倍カラー払拭、対話重視だが新味なし
 
小泉・安倍路線からの決別−。福田康夫首相は就任後初の所信表明演説で、

前任の2政権の政治手法や方向性の「違い」を鮮明にした。

小泉純一郎元首相のスタイルともいえた路線とは「劇場型政治」であり、

安倍晋三前首相が目指したのは「保守政治」であったが、

福田首相はそのいずれもとらない姿勢を示した。

また、国会運営などで強力なリーダーシップを発揮しようとした小泉、

安倍両氏とは一線を画し、野党との対話を重視するなど

「協調路線」を前面に掲げた。

それだけにインパクトや新鮮味に欠ける内容となったともいえる。

(産経新聞)
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