星亮一 今日の一言

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2005年3月31日(木) 数千人暴徒化 平壌の競技場と三春藩の戊辰戦争2

判定めぐり数千人暴徒化 平壌の競技場

 【平壌30日共同】サッカーワールドカップ(W杯)アジア最終予選北朝鮮−イラン戦が行われた平壌の金日成競技場で30日、試合中の判定をめぐって観客が暴徒化し、審判にビール瓶を投げ付けたり、競技場出入り口でイラン選手につかみかかろうとしたりして騒然となった。
 競技場前には一時数千人が集まり、出動した警察官ともみ合う場面もあったが、群衆は競技場から遠ざけられ、1時間余りでほぼ沈静化した。けが人の有無は不明。イランチームと審判団、外国報道陣は競技場内の部屋に一時避難した。
 約5万人収容の競技場は超満員。ビールや焼酎を飲みながら観戦する客が目立った。
 試合終了間際、攻め込んだ北朝鮮選手がゴール前で倒れ、複数の同国選手が「イラン選手が足を掛けた」と審判に激しく抗議し、1人が退場処分に。これをきっかけにスタンドから瓶や缶、取り外した座席などがピッチに投げ込まれ、試合は約10分間中断した。
 北朝鮮は0−2で敗戦


日本戦怖いなあ
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三春の戊辰戦争
いよいよ佳境に入ります。
三春藩の研究者からの投稿。いよいよ佳境に入ります

三春狐は
いわれなき汚名だと主張しています。
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 「会津猪 仙台狢 三春狐に騙された 二本松まるで了見違
い棒」

 戊辰戦争の後期から歌われたこの戯れ歌に、どれだけ多くの
歳月、そして多くの三春の人々の心が痛めつけられたか? そ
れが今に至るまで続き、さらに今後も歴史的事実として継承さ
れて行くとすれば、これほど悲しいことはない。そんなことを
考えているうちに、この戦いの本質と思えることが、「二〇〇
一年 ドナルド・キーン著 明治天皇・上巻 二四九ページ」
に記載されているのを見つけた。

     4:三春戊辰戦争始末記・資料 264ページ
        C 仙台藩の対応
 *この仙台藩の態度が、奥羽越諸藩の行動を規制したと推測
できる。

            宮城県史 二〇二ページ 
 “二面両舌”まことによく仙台藩の立場を浮き彫りにしてい
る。幕末維新にあたり、公武のあいだに立って去就を決しかね
、ついにもっとも恐れた朝敵として崩壊していった仙台藩の中
間外交は、こうしてもう矛盾をあらわしはじめていた。”あれ
かこれか”の選択がせまられた最後の段階でも、この藩は”あ
れでもない、これでもない”といった。それを”あれもこれも
”という形式に表現したのが奥羽越列藩同盟であった。それが
、本来幕府党ではないはずのこの組織を、幕府党として機能さ
せ崩壊させていく理由にもなる。そして仙台藩のこの道がその
まま北日本一円の諸藩の進路ともなった。その点で、幕末維新
の政治史においてこれ以上に罪の深い両面外交はなかった。
 解説・私には、これまた随分厳しい表現と思えるが、これが
戊辰戦争の本当の姿であったのかも知れない。

     5:三春戊辰戦争始末記・資料 265ページ
         D 外部から見た三春藩の動静
 *三春藩の新政府寄りの姿勢は、早くから二本松藩や仙台藩
に知られていた。

            二本松市史 第六巻 七三六ページ
(閏四月)廿四日白坂ニ相たゝかい候趣扨奥羽の内ニも表ハど
ふめいと見せ内ニハ官軍方なるハ秋田津軽天童三春なと之申事
ニて至而むつかしき事共也此事壬四月十四日頃也

            仙台戊辰史 七三〇ページ
六月廿三日、矢吹陣中ナル軍議所ニ於テ・・・軍議ニ日ヲ送リ
兵ヲ野ニ曝シ国論ニ統一ナク軍略定マラズ守山、三春反盟ノ色
アルモ之ガ為なり。
 解説・二本松市史に記載されている情報が、二本松藩から仙
台藩や会津藩に流れたか、また逆に仙台藩や会津藩から二本松
藩へ知らされたか? いずれにしても閏四月二十四日の段階で
、二本松藩は三春藩の本意をすでに知っていたということにな
るのではあるまいか。またこれらの文書により、同盟側はその
後長期に渡って三春藩の反盟を疑っていたことが分かる。

     6:三春戊辰戦争始末記・資料 266ページ
         E 浅川の戦い
 *新政府軍と浅川で対峙していた会津・仙台・二本松勢を、
背後から三春勢がだまし討ち的に攻撃したとされる事件。

            仙台戊辰史 六一五ページ
 七月十六日仙藩塩森主税ハ棚倉城ヲ恢復セントシ三春、二本
松、会津、棚倉ノ兵ヲ併セ石川郡浅川古舘山ヨリ兵ヲ進メ浅川
ノ渡ヲ隔テヽ射撃ス西軍釜ノ子ヨリ出テ会津ノ兵ヲ破リテ浅川
ノ後方ニ出ヅ 然ルニ三春ノ兵中途ヨリ離反シテ西軍ニ投ジ反
撃ス 為ニ列藩ハ非常ノ苦戦トナリ辛ジテ兵ヲ収メ帰ル・・・
之ヨリ列藩ハ三春ノ不信不義ヲ怒リ、三春狐ニ誑カサレタルハ
不覚モ亦甚ダシ必ズ彼ヲ屠ラズンバ己マジト切歯セリキ。
 解説・この仙台戊辰史では、三春兵が新政府軍とともに同盟
軍を攻撃した、と伝えている。

            
以下続く
△top
2005年3月30日(水) 三春の戊辰戦争1
戊辰戦争においける三春藩の動きについて
問題定期がありました。投稿者は地元の研究者です。
ーーーーーーーーーーーーー
上記につきまして僭越ながら、若干の愚見を申し上げます。
 まず三春が狐と呼ばれた理由は、浅川の戦いにあったようで
す。その状況を慨見すれば、一般的に次のような状況であった
とされています。

白河から棚倉を落とした新政府軍は、浅川の町を確保した。浅
川の北の城山に橋頭堡を築いた仙台、会津、二本松の兵は、浅
川を奪還しようとした。三春藩にこの奪還作戦の応援令が出た
のは、この時である。しかるにこの応援令に基づいて南下した
三春藩は、前面の新政府軍と戦っている三藩の背後から攻撃し
、これを撃ち取ってしまった。云々。

これに対し拙著「三春戊辰戦争始末記」を参照して頂ければ、
三春のような小藩、しかもこのような局地戦で仙台という大藩
の政策を動かしたとは非常に考え難いと思われます。もし10
0歩譲ってそうだと考えれば、三春藩には、大変な力量があっ
たということになるのではないでしょうか?

 一応関係すると思われる部分を、「三春戊辰戦争始末記」よ
り抜粋してみます。
 一寸長くなりますが、どうぞよろしく、お願い申し上げます


                  記
     1:三春戊辰戦争始末記 204ページ
 七月十七日、激論と不安の内に眠れぬ夜を明かした三春藩は
、[弊藩危急ナリ、請フ、救援セラレヨ]との仙台への使者を
、藩士・琴田半兵衛に託した。
 しかし、直ぐの返事はなかった。
 嘉膳は、憮然として考えていた。
 ――もしかして、仙台藩はわが藩(三春藩)を潰す気であっ
たのではあるまいか。只、汚名を着せれば事足れり、つまり三
春のような不埒者がいたからやむを得ず(仙台藩は)恭順する
、との論法であったかも知れぬ。さすればあの使者は、余計な
ことであったか!
 嘉膳の頭の中では、強気と後悔とが交錯していた。

     2:三春戊辰戦争始末記 248ページ
 嘉膳は歩きながら、あの困ったときの癖が出て思わず腕を組
んだ。
 ――どうも違う、何かが違う……。今までわしは、無我夢中
で戦いを避けてきたが、そう考えてみれば、会津藩や庄内藩の
ような大藩でさえ、新生日本のためという口実で攻め滅ぼされ
てしまった。今後の日本は、国家の保全のためとあれば、個々
人をも圧殺するようになるのかも知れぬ。あの戦いは、その前
例となるのではあるまいか。日本という国の新しい出発にこう
いう戦いという形をとったことは、よくない方への方向づけに
なるのではあるまいか。そうだとすれば、単純に「新しい日本
はいい国になる」とばかりは考えられあのかも知れぬ……。

     3:三春戊辰戦争始末記 251ページ
 私の会社は家庭用品の卸売業を営んでいた。それもあって、
二本松市のお得意先の小売店の結婚式に招かれたことがあった
。そこでたまたま隣に座った二本松商工会議所の方と雑談をし
ていたが、私が三春出身であることを知ると、「二本松藩は馬
鹿だった。もし三春藩と一緒に帰順していたら、あんなひどい
ことにならなかったろうに……」と言われた。
 ──二本松なのにそう考える人もいるんだ。
 そう思うと私は返事に詰まり、黙っていた。

 またこれに関連することで、神山潤氏著 「歴史〜みちのく
二本松落城〜」の「田舎武士の目」に、次のような記述がある

[いまはどうか知らないが、(第二次)大戦までは、二本松の
人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用
できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよ
く聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しな
いのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾をひき消えずに
いるということも、辺鄙な土地に住む人間感情の微妙な点であ
ろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭
った]

 次にもう一つ、中島欣也氏著 「裏切り〜戊辰、新潟港陥落
す〜」の「あとがき」から引用させて頂く。
[しかし裏切りとは何なのか。戊辰戦争の新発田藩は、それに
該当するものだったのか。それは、「けしからぬこと」で一刀
両断できるものなのか。
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2005年3月29日(火) 日テレ氏家会長 楽天はハルウララ?
 日本テレビの氏家斉一郎会長が28日、東京・汐留の同局本社で定例会見を行い、27日に0―26の大敗を喫した楽天を高知競馬で113連敗中のハルウララに例えた。

 負けてもなお大きな話題を呼ぶ姿に「(楽天は)ハルウララだね。でもまあ、負け続けることはないだろう。それが野球の野球たるゆえんなんだけど」。同局では26日のロッテ―楽天(千葉マリン)の開幕戦を生中継。視聴率は7・0%と、続けて中継した巨人―横浜(甲府)のオープン戦の5・7%を上回った。

 昨年の巨人戦のシーズン平均視聴率は史上最低の12・2%と低迷したが、氏家会長は「今季はいいと思うよ。目新しいのが出てきたのはいいこと」と楽天など、パ・リーグとの交流戦効果に期待していた。

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なるほどね
でも国民には愛されますね
△top
2005年3月28日(月) フジ緊急生特番で「面白くなる
ライブドアによる買収騒動の渦中にあるフジテレビが27日午後4時から特番「ザ・リサーチャー2」で「ライブドアVSフジテレビ メディアはどうなる?」をテーマに生放送した。昨年10月の『新潟県中越地震』に続く第2弾。関東ローカルにもかかわらず、携帯、パソコンを通じた視聴者アンケートへの参加は2万1900件。それとは別に放送中だけでも電話やFAX、メールで1000件を超える声が寄せられるなど視聴者の関心の高さがくっきり表れた。(デイリースポーツ
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予想どうりの結果ですね。

「貸し株は予測していた」 堀江社長、対抗策を示唆

 ライブドアの堀江貴文社長は28日朝、TBSの情報番組に生出演し、ニッポン放送がソフトバンク系の投資会社ソフトバンク・インベストメント(SBI)に行ったフジテレビジョン株の貸し株について「誰かに貸し株をするのではという予測はしていた」と話し、想定の範囲内との見方を示した。
 また「限られているが、対抗策はある」と述べ、今後ニッポン放送が行った貸し株に対し、対抗策を検討していることを明らかにした。
 ニッポン放送の株主総会には「大株主として出席する」と明言したが、役員の構成など具体的にどうしていくかは「株主提案を見てください」と言及を避けた。

kyoudou 通信ニュースです。
△top
2005年3月27日(日) 日本に学べ」と社説掲載=ライブドア問題、変化象徴−仏紙
 【パリ26日時事】26日付のフランスの保守系フィガロ紙は、シラク大統領の訪日に合わせ、「日本の教訓」と題する社説を掲げ、日本経済がバブル崩壊から脱して一定の成長軌道に乗ったことに学ぶべきだと述べた。仏紙が日本経済を手放しで評価するのは珍しい。
 この中で同紙は、ライブドアのニッポン放送買収問題を、硬直的だった民間経済の変化の象徴として取り上げるとともに、日本の完全失業率が4.5%にとどまっていることや終身雇用制の崩壊などを高く評価。「日本の労働市場は仏独よりずっと柔軟だ」としている。 
(時事通信) -

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そうなんでしょうかね
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悪夢
でも1勝1負

楽天2戦目は一転、投手乱れて大敗

 ロッテ26―0楽天(パ・リーグ27日)――楽天は前日のエース岩隈の1失点完投の力投から一転、投手陣が乱れに乱れた。
△top
2005年3月26日(土) ナイナイ オレたちは出る!
 人気お笑いコンビ「ナインティナイン」が連日のニッポン放送騒動について、25日までに独自の見解を示した。同局のレギュラー番組「オールナイトニッポン」の公式HPで、ライブドアへ経営が移った場合に降板を示唆するタレントに対してクギを刺した。「“リスナーを大事にしている”のであれば、リスナーを無視して、経営が変わったらパーソナリティーを降りるということを発表するのはよくないと思う。それでなくてもリスナーは不安やろうに…。ナインティナインは今のところその意向はないので、皆さん毎週ラジオ聴いて下さいね」としている。(デイリースポーツ)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

電波は大事です。出演しない人がいても、代わりはいくらでもいると思いますが、
ここはタレントの皆さんも冷静なご判断を

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楽天勝利
すばらしいですね

今度応援に行きます。

ロ1−3楽(26日) 岩隈が好投
 楽天が岩隈の好投で球団初勝利。岩隈は低めへの制球が良く、5安打1失点で完投した。援護は3回に3長短打で2点。9回にも酒井の左越え適時二塁打で加点した。ロッテの清水も好投したが、打線が岩隈を崩せなかった。

 ◇パ・リーグ
 ロッテ−楽天1回戦(楽天1勝、13時、千葉、28、353人)
 楽 天 002 000 001−3
 ロッテ 000 000 100−1
 ▽勝 岩隈1試合1勝
 ▽敗 清水1試合1敗
△top
2005年3月24日(木) 千葉卓三郎の武士道3
卓三郎と五日市憲法
新政府は、明治5(1873)年に国民皆学をめざした学制令を制定している。
多摩地域は、その学校設置のための学識者が必要となっていた。林業の街であったため、もともと知識を持つ武士の数が少なかったためである。
五日市の旧村16ケ所には、五学舎が設置された。そこに旧仙台藩士の永沼織之丞が招かれ、多くの仙台藩士が永沼を頼って入り込んだ。
五日市の秋川谷は旧天領地であった。新政府にまだ違和感をもったこの土地は、戊辰戦争で敗残者というレッテルを貼られた仙台藩士にとって過ごしやすかったのであろう。
永沼を頼った仙台藩士のひとりが卓三郎であった。
正確な年は定かではないが、明治10年前後に五日市付近に現れた。はじめは、五日市周辺の学校を短期間転々としていた。
この頃すでに、新政府の藩閥政治に不満を持つかつての武士層は増加していた。
明治10(1877)年、西南戦争がおこった。結局、新政府軍の勝利に終わったが、明治7(1874)年にはすでに土佐で立志社が結成され、明治11(1878)年には民権派の全国組織である愛国社が設立された。
世は自由民権論を展開しはじめていたのである。
そして、卓三郎はここで運命的な出会いをする。
五日市深沢村の名主深沢権八である。深沢家は、材木などの商用で買い求めたと思われる大量の書籍を蔵していた。
卓三郎より10歳も年下の権八は教養あふれる卓三郎に惚れ込み、その父なお名まる正は卓三郎を認めた。
卓三郎もまた、深沢家のその蔵書数から分かる開明的な思想に一目おいた。
明治13(1880)年には五日市に定住し、下宿をしながら五日市勧能学校(現五日市小学校)に勤務するようになる。
28歳の卓三郎は、ここに今まで一心不乱に学んできた知識を生かす光をみつけた。
それは、自由民権運動に取り組むことであった。
パトロン的な役割を果たした深沢家との出会いは、卓三郎の武士として明治の世を生きる慟哭を払拭させた。
同年4月に学芸講談会が結成された。会員は卓三郎を中心として五日市に居住しているもので、じつに20代の若者が4分の3を占める構成であった。
当時東日本には、嚶鳴社という民権運動の結社があった。これが八王子支社を設置したことが学芸講談会結成の動機といわれているが、その動向はもとより多摩地域の山村にも自由と平等を求める結社が生まれたのである。
五日市の開明性もまた卓三郎に自由民権運動に取り組む勇気を与えた。
若者たちは深沢家に集い、ここで「五日市憲法」を草案した。誰もが法律の専門家ではないこの結社で、幾度にわたり論議がなされた。
そして、ベーコンやモンテスキューの翻訳書から急激に知識を摂取し、主権在民思想を基本原理とした204条に及ぶ憲法が起草されたのである。
現在、日本各地に残る私擬憲法は、だいたい100条前後であるので、その超大作には目を見張るものがある。
卓三郎は、これまで抑圧されていた忠誠を誓う矛先をみつけた。
新政府から向けられた圧力を跳ね返すエネルギーを爆発させた瞬間である。
五日市憲法の第45条には「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ」とある。
「国民は基本的権利の享有を妨げられず、国はこれを守る」、という意味であるが、これは、現行の日本国憲法に符合している。
近代民主主義の基本原理は、すでに明治初期の若者の論議によって辿り着いた明文として存在していたのである。
これは、戊辰戦争によって賊軍の汚名を貼られ敗残者となった運命に翻弄され青春期を生きた卓三郎の行き着いた結論であろう。
忠誠とは誰に捧げるべきなのか卓三郎は思念した。
その忠誠は、武士であった誇りを維持するために勉学に投じられた。
そして、人間が生きていくうえですべての人が平等の世をつくるという思想に転換したのである。
卓三郎と武士道
五日市憲法は、明治14(1881)年の5〜6月頃に仕上がった。卓三郎はその後、6月に北多摩郡奈良橋村(現東京都東大和市)に滞在した。このときの生活の様子は記録に残っていないが、草案を世に出す機会を狙っていたと思われる。
しかし、卓三郎に二重の苦難が圧し掛かる。
同年10月に、新政府は欽定憲法の制定の基本方針を決定し、国会開設の勅諭を出した。また、10年後の明治24(1890)年までに国会を開設すると公約し、自由民権運動の気勢をそらす方針をとったのである。
それに伴い、君主制の強い立憲君主政の樹立にむけての準備が薩長藩閥政権によってはじめられた。そのため10月に予定されていた第3回の国会既成同盟は混乱し、各地域代表の憲法草案の審議はなされなかった。
つまり、卓三郎たちの想いが籠められた五日市憲法は世にでるチャンスを失ってしまった。
なんということだ。
卓三郎の中にみえた光に陰が差しはじめる。
この衝撃と時を同じくして、卓三郎は自分の体の変化に気付く。
結核にかかっていたのである。
憲法草案中にすでに発病していたといわれているが、症状がひどくなっていた。翌年には療養のため草津へ滞在し、明治16(1882)年には東京大学医学部附属病院に入院した。
この年に、卓三郎は自著『読書無益論』の裏表紙にこんな句を残している。
「めくらけんりをさらりとやめて、目あき開化となるがよい」
めくらは盲目ということであるが、そのような権利、つまり「他から盲目的に授与されるだけという消極的な態度をやめて、人間の本当の姿を見出すため、すべての人が平等になる世を目指し、変革を求めて行動しなければならない」という意味であろう。
この言葉に卓三郎が貫いた忠義への集大成が込められているのではなかろうか。彼は、人がよりよく生きる世の創造に忠誠を誓ったのである。
この句を書いた年の11月、卓三郎は31歳でこの世を去った。
卓三郎が「生きた証」は五日市憲法の発見まで知られることがなかった。
それからの日本は、昭和21(1946)年に日本国憲法が制定されるまで、長い間卓三郎が目指した世になることはなかった。
また、卓三郎が悩み学んだ足跡と五日市における自由民権運動も歴史のなかに埋没してしまっていた。
昭和43(1968)年に五日市憲法を発見した東京経済大学の色川大吉氏を中心としたメンバーのひとりである新井勝紘氏は、五日市で開明的な私擬憲法案が起草されたのは、卓三郎のなかにあった「孤心」が起因しているといっている。
孤心、それは卓三郎が一心不乱に勉学に励んだように非常に冷静に自己と向かい合い、明治という現実をみつめることであった。
それを持続していた時に卓三郎は五日市に土着している地域の精神共同体と絶妙なタイミングで出会い、五日市憲法が生まれたのである。
新井氏は、卓三郎の生きた証から、現代には「強い意志を堅持すること、そのための自己変革や自己鍛錬が不断に要求されている。」といっている。
現代は、あまりにも敷かれたレールのうえを歩く人生に慣れすぎてはいないか。
ひとつの大きな信念を胸に自分の運命に真正面に向き合い、光をみつけるために模索しなければならない。そして信念は変えずに自分の「思想」を変革させ、それを鍛え上げより強いものにさせて生きていくべきである。
卓三郎からの伝言のようにも思える。
千葉卓三郎という武士が生きていたことが浮き彫りになった今、卓三郎は現代において決して敗残者ではない。
彼の武士道は、東北に生まれその思想を信じることからはじまった。
そしてたったひとつではあるが、しかし国を二分した大きな戦いで賊軍となったことで彼が藩というものに尽くしていた思想は迷宮入りしてしまった。
この自分自身を否定されるという非業ともいえる運命をどうするか果敢に立ち向かい、それを回避することに努めた。
迷宮は、幾度となく迷い道があり決して楽には脱出できなかった。
卓三郎はそれを、五日市憲法を起草することで、武士という信念を貫いたといえる。形は変化したとはいえ、その根底にある忠誠を誓うという志は変質していなかった。
世を創造することに忠誠を誓うという武士道を貫いた千葉卓三郎。
彼の意志は現代日本に脈々と受け継がれていくだろう。


終わり
△top
2005年3月23日(水) ニッポン放新株差し止め ライブドア買収成功へ
) ニッポン放送のフジテレビジョンに対する新株予約権発行を差し止めた東京地裁の仮処分決定について、東京高裁(鬼頭季郎裁判長)は23日、「経営支配権確保が主要目的で著しく不公正な発行」とライブドアの申請を認めた地裁決定を支持、ニッポン放送の抗告を棄却する決定をした。(共同通信)

当然の決定だと思います。
ホリエモン
がんばってください。
△top
2005年3月22日(火) 首脳同士の率直な会談、必要=フジ・ライブドア問題で―奥田会長
奥田会長のおっしゃる通りですね。

なぜ話し合わないのか不思議です。

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*奥田碩日本経団連会長は22日の記者会見で、ニッポン放送 <4660> をめぐる争いでライブドア <4753> がフジテレビ <4676> に業務提携を呼び掛けていることについて「当事者同士が胸襟を開いて話し合えば、新たな展開にもつながる」と述べ、日枝久フジ会長と堀江貴文ライブドア社長のトップ会談が必要との考えを示した。 
(時事通信)
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独立派が海賊ビジネス 身代金は銀行口座に
やはりそうでしょうね
これから日本人はどんどんねらわれる。
どうするのでしょうか。

 【フタンマリンタン(マレーシア)18日共同】マラッカ海峡で頻発する海賊事件は近年、インドネシア・アチェ州の独立派が、拉致した人質を州内のジャングルに監禁。身代金をジャカルタの銀行口座に振り込ませた後、解放する手口で、海賊がビジネス化していることが18日、分かった。同州ランサが海賊の拠点になっているという。
 マラッカ海賊事件で犯行グループに乗っ取られ、タグボート「韋駄天(いだてん)」の襲撃に使われた漁船が所属するマレーシア・ペラ州フタンマリンタンの漁業組合のキー・クイープー組合長が証言した。
 組合長は、同村の漁船を襲っているのはアチェの独立派武装組織、自由アチェ運動(GAM)の構成員と支持者たちで、韋駄天を襲ったのもランサのグループの可能性が極めて高いと語った。
(共同通信)
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2005年3月21日(月) 武士道列伝、千葉卓三郎2
深沢家は、学芸講談会の集会所であった。
現在の武蔵五日市駅から徒歩で1時間もかかる深沢家は、駅から緑の深い一本道を漕ぎ、穴沢神社、深沢川を越え、真光院という寺の隣にある。
駅前の喧騒からは一変するこの場所は、明治初期には国の行く末を考える若者たちの情熱がみなぎっていた。
深沢家の土蔵に集う学芸講談会の若者33名。その中心的人物が卓三郎なのである。
なぜ、仙台出身の卓三郎が五日市の地を踏むこととなったのか。
それは、挫折を何度も経験し、その末路としてこの地と巡りあったからである。
まず、彼の軌跡を辿っていこう。
少年期の卓三郎
千葉卓三郎は、嘉永5(1852)年に陸前国(現宮城県)栗原郡白幡村という岩手県との県境にある村の下級武士の子として生まれた。
卓三郎の受難は、その生誕からはじまっていた。
仙台藩士である父千葉宅之丞は後妻さだ(先妻とは死別か定かではない)との間に子が生まれず、家督相続のためにちかのという女性が代理出産をすることなった。
ちかのは懐妊した。しかし、出産前に宅之丞は病に倒れた。そこで、生まれた子が女であった可能性を考え、千葉家存続のために50歳を目前にした宅之丞は末期養子をむかえることとなった。
それは先妻の連れ子である利八を養子に迎え入れ、女が産まれたら娶わせて家督を継がせるという方法であった。
しかし、ちかのは6月に男の子を出産した。
宅之丞の早計は皮肉な結果を生み、家督相続の決着をつける間もなく8月に死去した。
この時生まれた子が卓三郎なのである。
つまり、千葉家の直系である卓三郎が血縁のない養子利八の弟となり、武士の嫡男として千葉家を相続することができなくなったのである。
卓三郎は、実母であるちかのとは代理出産であったため3歳で生別し、さだに育てられることとなる。
さだは、卓三郎の行く末を案じていた。せめて千葉家の分家を創設するために、学問や技術を身につけさせることを決意する。
文久3(1863)年、11歳の卓三郎は仙台の藩校養賢堂の門を叩く。そして、大槻盤渓に直接師事し、儒学を学びはじめた。
さて、時代は明治維新の激動期であった。
慶應4(1868)年、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んだ。むろん、62万石を有する仙台藩も例外ではなく、幕府軍の中心的役割を担い、薩長を中心とする新政府軍と敵対する。
この擾乱のなかで、16歳になっていた卓三郎は同年3月に志願兵として戊辰戦争を体験する。
4月の白河城の争奪戦ではじまった両軍の激突は、はじめは会津藩の奮戦で白河城を死守した。幕府軍2000人余りであった。新政府軍はこの敗北で陣容を立て直し、1700余人の軍勢と砲七門を投入して再び戦いを挑んできた。
卓三郎は白河城の再攻防戦に参戦した。5月と8月の二度の激戦に参加したことが分かっている。
必死の攻防戦であったが、白河城はついに新政府軍の手に堕ちる。
たった一日の戦いで仙台藩だけでも88名の戦死者を出している。
少年である卓三郎はこの戦いで、殺戮を目の当たりにし世の不条理を知ったであろう。
戦いは大敗北した。9月には仙台藩が降伏し、師である大槻盤渓も投獄され、失意のなか卓三郎の戊辰戦争は幕を閉じた。
志願兵として自ら戊辰戦争に参加したことからも分かるように、藩に忠義を尽くし忠誠を誓うという志を持つ武士として成長してきた卓三郎であった。戊辰戦争の敗北は、それまで信じていた思想が壊滅した瞬間でもあった。
今まで自分の中に基軸となっていたものはなんであったのだろう。
藩に忠義を尽くすという思想は行き場所を失った。卓三郎は、理想と現実の隔たりに直面し、その崖から突き落とされた。
まだ若干17歳の卓三郎であったが、千葉家の分家としての家名創設は絶望的となり、次男である卓三郎は戸籍上「平民・農」となり、武士の身分を喪失した。
「士族」という呼称も名乗れなくなった。卓三郎は、自分の生きていく道を暗中模索しはじめる。
新時代を生きていかねばならないのである。
徳川幕府は崩壊し明治と改元され、時移り事去った。
戊辰戦争の戦いからまだ数ヵ月後であり、仙台に厳しい寒さが到来する11月に卓三郎は、宮城県松島の石川桜所のもとで医学修行をはじめる。
しかし、8ヶ月がたった頃、石川は幕府の侍医であったため新政府から将軍の補佐による罪により入牢を命じられる。
卓三郎は石川のもとを離れなければならない事態となり、この再出発ももろくも崩れ、千辛万苦の道をまたもや歩むことになった。
医学につづき、福田理軒に洋算を学んでいたが、次第に浄土真宗・ロシア正教・カトリック等の宗教的な信仰の世界に身を投じていく。
卓三郎自らの履歴書によると、明治4(1872)年頃に故郷を離れ上京している。
その後、ロシアのニコライにつきロシア正教とロシア語を学びはじめ、4年近くキリスト教修学をする。熱心な布教活動も行った。布教活動に関連して獄舎にもつながれることもあった。
明治10〜12(1877〜79)年の2年間は、アメリカのマグレーにプロテスタントも学んでいる。
キリスト教の魅力として、西洋的知識と近代的教養を摂取できる利点があった。キリスト教からハングリーなまでに新たな知識を学ぶことで、現実世界への欲求不満をぶつけたのであろう。
一体、自分には何ができるのだろう。
自分の生きる道の光を求めていたこの時期の卓三郎は、武士という身分を戸籍上では失ってしまってもその矜持を確かに持っていた。
人間が生きるうえで持つべきである「誠」の志とはなにか、それを生かす「智」として何を身につければよいかを思惟した。
そして、それを世に貢献させる「勇」を蓄積させている姿がみえる。
意識せずも、卓三郎の行動は江戸時代から連綿としてきた武士道を明治の世ではどのように生かしていけばよいのかという行為とまったく同じであった。
卓三郎と五日市憲法
新政府は、明治5(1873)年に国民皆学をめざした学制令を制定している。
多摩地域は、その学校設置のための学識者が必要となっていた。林業の街であったため、もともと知識を持つ武士の数が少なかったためである。
五日市の旧村16ケ所には、五学舎が設置された。そこに旧仙台藩士の永沼織之丞が招かれ、多くの仙台藩士が永沼を頼って入り込んだ。
五日市の秋川谷は旧天領地であった。新政府にまだ違和感をもったこの土地は、戊辰戦争で敗残者というレッテルを貼られた仙台藩士にとって過ごしやすかったのであろう。
永沼を頼った仙台藩士のひとりが卓三郎であった。
正確な年は定かではないが、明治10年前後に五日市付近に現れた。はじめは、五日市周辺の学校を短期間転々としていた。
この頃すでに、新政府の藩閥政治に不満を持つかつての武士層は増加していた。
明治10(1877)年、西南戦争がおこった。結局、新政府軍の勝利に終わったが、明治7(1874)年にはすでに土佐で立志社が結成され、明治11(1878)年には民権派の全国組織である愛国社が設立された。
世は自由民権論を展開しはじめていたのである。
そして、卓三郎はここで運命的な出会いをする。
五日市深沢村の名主深沢権八である。深沢家は、材木などの商用で買い求めたと思われる大量の書籍を蔵していた。
卓三郎より10歳も年下の権八は教養あふれる卓三郎に惚れ込み、その父なお名まる正は卓三郎を認めた。
卓三郎もまた、深沢家のその蔵書数から分かる開明的な思想に一目おいた。
明治13(1880)年には五日市に定住し、下宿をしながら五日市勧能学校(現五日市小学校)に勤務するようになる。
28歳の卓三郎は、ここに今まで一心不乱に学んできた知識を生かす光をみつけた。
それは、自由民権運動に取り組むことであった。
パトロン的な役割を果たした深沢家との出会いは、卓三郎の武士として明治の世を生きる慟哭を払拭させた。
同年4月に学芸講談会が結成された。会員は卓三郎を中心として五日市に居住しているもので、じつに20代の若者が4分の3を占める構成であった。
当時東日本には、嚶鳴社という民権運動の結社があった。これが八王子支社を設置したことが学芸講談会結成の動機といわれているが、その動向はもとより多摩地域の山村にも自由と平等を求める結社が生まれたのである。
五日市の開明性もまた卓三郎に自由民権運動に取り組む勇気を与えた。
若者たちは深沢家に集い、ここで「五日市憲法」を草案した。誰もが法律の専門家ではないこの結社で、幾度にわたり論議がなされた。
そして、ベーコンやモンテスキューの翻訳書から急激に知識を摂取し、主権在民思想を基本原理とした204条に及ぶ憲法が起草されたのである。
現在、日本各地に残る私擬憲法は、だいたい100条前後であるので、その超大作には目を見張るものがある。
卓三郎は、これまで抑圧されていた忠誠を誓う矛先をみつけた。
新政府から向けられた圧力を跳ね返すエネルギーを爆発させた瞬間である。
五日市憲法の第45条には「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ」とある。
「国民は基本的権利の享有を妨げられず、国はこれを守る」、という意味であるが、これは、現行の日本国憲法に符合している。
近代民主主義の基本原理は、すでに明治初期の若者の論議によって辿り着いた明文として存在していたのである。
これは、戊辰戦争によって賊軍の汚名を貼られ敗残者となった運命に翻弄され青春期を生きた卓三郎の行き着いた結論であろう。
忠誠とは誰に捧げるべきなのか卓三郎は思念した。
その忠誠は、武士であった誇りを維持するために勉学に投じられた。
そして、人間が生きていくうえですべての人が平等の世をつくるという思想に転換したのである。

以下続く
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2005年3月20日(日) 新企画、武士道列伝1
幕末維新に生きた15人ほどに武士を取り上げます。
これはスタッフを組み共同執筆になります。
幕臣、会津藩士、仙台藩士など敗れた人々だけではありません。
勝者の生きかたも追いかけます。
感想をお寄せ下さい。

 千葉卓三郎と武士道

千葉卓三郎という武士
東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)の山奥に一軒の土蔵がある。ここにはかつて、五日市の名主で財を成していた深沢家の屋敷があった。
昭和43(1968)年に、この土蔵から明治初期に書かれた私擬憲法案が発見された。
これは、仙台藩士として戊辰戦争に参加し、敗北したのち、明治の世をどう生きていくか模索していた一人の青年が中心となり作成したものであった。
青年の名は千葉卓三郎という。
この「五日市憲法」と命名された私擬憲法案が発見されるまで、卓三郎という仙台藩士の存在と五日市で行なわれた自由民権運動の活気は歴史のなかに眠っていた。
彼の意志が現代に覚醒されたいま、彼のなかに流れる明治の世における武士道とは如何なるものだったのか。
五日市は、新宿から中央線に乗り、立川で青梅線、拝島で五日市線と乗り継ぐと到着する武蔵五日市駅付近である。都心から電車で1時間半くらいに位置するここは、長閑な田園風景と地方都市らしい商店街が立ち並んでいる。
五日市の歴史を概観してみる。
現在は落ち着いているこの付近であるが、16世紀末期頃にはその名の通り5の日の定期市が開かれており、人々の出会いの場として繁栄していた。
江戸時代に入ると、五日市の背後にある秋川谷で林業が盛んとなり、とくに炭が多く生産され、五日市は江戸市中に運ぶ炭の取引市として機能していた。杉や檜は秋川から多摩川を経て江戸へ運ばれていた。
多摩川は川崎方面とも結ばれており、開港場横浜は手近な場所でもあった。
この地理的状況からか、深沢家の土蔵から五日市憲法と一緒に幕末から明治にかけて発刊された翻訳書籍類が多数発見されている。当時、五日市には海外の知識と文明開化という近代化の波が流入していたのである。
明治13(1880)年、板垣退助による愛国社が中心となって国会既成同盟が結成された。人民の権利と自由の拡大を目指したこの政治運動は全国的に広がり、五日市にも自由民権運動の学習結社である「学芸講談会」が結成された。
しかし、五日市に関する史料には、学芸講談会が国会開設請願、建白運動に参加した記録がない。多摩地域ではかなり厳しく集会条例が適用され、演説会・討論会が規制されていたことが所以であろう。
学芸講談会の活動は、会の盟約が残されていることから知ることができる。
学芸講談会盟約第1条には、「凡ソ人ハ公平無私ニシテ人ヲ愛ス己ノ如ク」と明記され、天賦人権説に基づき、人は生まれながらにして自由・平等を享受する権利があることをうたっている。
また、会員は「自由ヲ開拓シ社会ヲ改良スルノ重キニ任シ、百折不撓、千挫不屈ノ精神ヲ同ク」、「互ニ愛敬親和スル事一家親族ノ如ク」とある。村落共同体を生かした組織であり、この盟約のとおりに、運営の回状にはあらゆる階層の人々が名を連ねている。
深沢家は、学芸講談会の集会所であった。
現在の武蔵五日市駅から徒歩で1時間もかかる深沢家は、駅から緑の深い一本道を漕ぎ、穴沢神社、深沢川を越え、真光院という寺の隣にある。
駅前の喧騒からは一変するこの場所は、明治初期には国の行く末を考える若者たちの情熱がみなぎっていた。
深沢家の土蔵に集う学芸講談会の若者33名。その中心的人物が卓三郎なのである。
なぜ、仙台出身の卓三郎が五日市の地を踏むこととなったのか。
それは、挫折を何度も経験し、その末路としてこの地と巡りあったからである。
まず、彼の軌跡を辿っていこう。

以下続く。
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2005年3月19日(土) 小学校の同級会
今日は宮城県丸森町で
小学校の同級会です。
これから出かけます。
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2005年3月18日(金) すごい、見当がつきません、
ライブドア、フジ買収検討=LBO2千億円調達―発行済み株30%取得へ
*ニッポン放送 <4660> の経営権取得を目指すライブドア <4753> がフジテレビ <4676> の買収を検討していることが17日明らかになった。買収先資産を担保とするレバレッジド・バイアウト(LBO)と呼ばれる手法を活用して2000億円の資金を調達。フジ株の発行済み株式の30%程度の取得を目指す。ライブドアは同放送株争奪戦でフジをリードしているが、フジサンケイグループの中核であるフジ自体の経営権掌握を狙う。(時事通信)
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2005年3月17日(木)  孫オーナー世界一構想失速
スポーツ報知ニュース
孫オーナー世界一構想失速 オーナー会議、他球団反論の嵐
 ソフトバンク・孫正義オーナー(47)の「世界一構想」が失速した。今年1回目のプロ野球オーナー会議が16日、東京・高輪の新高輪プリンスホテルで行われ、孫オーナーは予告通り米大リーグのワールドシリーズ覇者とアジア王者が戦う「クラブチーム世界一決定戦」の開催を提唱。だが、他球団から次々と問題点を指摘され、「これからは実行委員会で議論してもらう」とトーンダウンした。また、永久失格選手の処分解除に関する協約改正が承認されたほか、プロ野球有識者会議のメンバー9人が発表された。(スポーツ報知)

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またもいじめ
この国は出る杭は打たれる。
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2005年3月16日(水) 山川健次郎のこと
岩波書店『世界』2005年2月号 脳力のレッスン 34
寺島実郎さんの文章です。

私の作品「山川健次郎伝」
をとりあげてくれました。
感謝申し上げます。
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 三沢空港からむつ小川原の六ヶ所村に向かう途中、斗南藩を記念する史跡を見た。白虎隊の悲劇を生んだ会津藩が明治三年に移封され、この下北半島の付け根に位置する不毛の辺境の地で斗南藩となった。戊辰戦争で「逆賊」とされた会津は過酷な運命を強いられた。
 会津藩の藩祖は徳川家康の孫、三代将軍家光の異母弟保科正之であった。徳川発祥の松平姓を賜り、家訓として将軍への忠勤を受け継いだ。幕末の藩主松平容保も謹厳実直な性格で、藩祖の家訓を守り京都守護職という役割を引き受け騒乱の京都に向かった。新撰組の後ろ盾となり、薩摩・長州の恨みを一身に受け、それが会津の悲劇の導線となった。
 歴史の中に気になる人物がいる。私にとって会津が生んだ二人の明治人、山川健次郎と柴五郎が心に引っ掛かってきた。それはこの二人の存在感が「御当地の英傑」の域を超えて世界における日本人の価値を高めたという思いがあるからである。何故、逆境の会津からこのようなスケールの人物がでたのか、それは今日にも光を投げかけている。

山川健次郎の重み
 明治の教育界の重鎮となった山川健次郎は1854年(嘉永七年)、会津藩の郡奉行山川重固(しげかた)の次男として生まれた。12人兄弟であったが、5人は夭折し、上に3人の姉と長兄の大蔵、下に2人の妹がいた。下の妹は津田梅子と一緒に米国留学した山川捨松であり、後に薩摩出身の大山巌陸軍元帥の妻となった。
 藩校日新館に学び、15歳の時、白虎隊の隊士として戊辰戦争を体験した。会津落城の後、猪苗代に謹慎中に越後に脱走、長州藩士奥平謙輔の書生となり、その縁に支えられて、明治4年に18歳の時、北海道開拓使の枠で米国に留学、名門エール大学に入学し、物理学を専攻して日本人として初めて学位を取得した。
 「寝食を忘れて勉学に励む」という言葉があるが、文字通り山川健次郎の留学生活も不眠不休の研鑚であった。「会津の敗北は理学が足りなかったからだ」と反省した健次郎は「理学(科学技術)」の専攻を決意し、語学の壁を超え、孤独と貧窮に耐えて勉学に励み、4年間の留学生活で学位取得までやり遂げたのである。今日でも時に政治家の海外留学の学歴詐称問題が話題となるが、山川健次郎が見せた集中力は驚嘆すべきものである。
 帰国後は、23歳で東京開成学校教授補、26歳で開成学校が改編された東京大学理学部教授、明治34年には48歳で東京帝国大学総長となった。60歳の時、再び東京帝国大学総長となり、この間に京都帝国大学、九州帝国大学の総長を努め、東京物理学校(現東京理科大学)や東北帝国大学の創設にも尽力した。およそ日本の理科系大学教育の原点に立ち、大きな役割を果した。武蔵高校(現武蔵大学)、明治専門学校(現九州工業大学)の校長、総裁なども努め、生涯を通じ教育に情熱を注いだ。
 山川健次郎の足跡において特筆すべきことは「人を育てた」ということである。直弟子からは、日本の物理学を支えた田中館愛橘、長岡半太郎がでた。星亮一は「山川健次郎伝-白虎隊士から帝大総長へ」(平凡社、2003年)において、「一つのことを成し遂げると、それを弟子たちに譲った。弟子の方がいつの間にか有名になった。それでいいのだと健次郎は考えた」と述べているが、正にそうした人物であった。清廉潔白、質素で謙虚な生き方を貫き、小石川初音町の破れ借家に住み続け、家には常に会津の青年が書生として居候していたという。帝大総長としてはあまりに不釣合いな貧弱な家で、弟子たちが心配しても、斗南で苦闘した会津の人達の境遇を思い、決して生き方を変えず部屋には会津藩祖保科正之による家訓を書いた額を掲げていた。会津武士であることを彼は終生片時も忘れることはなかった。会津出身者の結束は固く、五年後輩の柴五郎などを招いて常に中国情勢などに耳を傾けていたという。
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2005年3月15日(火) 福島で会合
今日は福島市で会合です。
一言はお休みです。
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2005年3月14日(月) NHK東北ふるさと賞
皆様がたのご支援のおかげでNHK東北ふるさと賞をいただきました。
ありがたいことだと感謝しております。

原稿の方ですが、
平凡社 後藤新平伝
講談社選書メチエ 会津戦争全史

は書き上げを5月ごろから夏にかけて出版となる予定です。

目下は
三修社 仙台戊辰戦史
光人社 武士道列伝
ベスト新書 義経と奥州平泉
を執筆中です。

気力
体力
充実させてがんばります。

星亮一

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お昼のNHKニュースでやっておりましたが、
ニッポン放送>ポニーキャニオン株、フジに売却も
だそうです。

 フジテレビジョンの日枝久会長は14日朝、ニッポン放送がライブドアの傘下に入った場合、同放送が保有する子会社のポニーキャニオン株をフジに売却することを、フジサンケイグループとして検討していることを明らかにした。同放送の亀渕昭信社長も「ポニーの価値がなくなってしまうのなら、今のうちにフジに買ってもらえないか検討している」と述べた。同放送の企業価値を引き下げることで、買収メリットを失わせる「焦土作戦」の一環だが、ライブドア側の反発は必至だ。
 日枝会長は記者団に「グループとしてクラウンジュエルなどの対抗策をしなければいけないのかなあ、と話し合っている」と語った。
 クラウンジュエルとは「王冠についている宝石」の意味で、企業にとって大きな価値がある資産を指すM&A(企業の合併・買収)の用語。これを売却して買収者に対抗する防衛策が焦土作戦の一つとされる。
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全面戦争ですね。
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2005年3月13日(日) 松井秀が3戦連発、今度は満塁弾
【タンパ(米フロリダ州)12日時事】米大リーグのオープン戦は12日、各地で行われ、当地ではヤンキースの松井秀喜外野手がフィリーズ戦の第1打席で右越え満塁本塁打を放った。6番左翼で先発し、出場3試合連続となる3号アーチ。3打数2安打4打点だった。(時事通信)

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すごい、すごい、
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2005年3月12日(土) 入間田氏が「源義経と平泉」と題して講演した。

岩手日日新聞ニュース

東北大教授の入間田氏が講演〜江刺で平泉文化フォーラム
 県教委が主催する第五回「平泉文化フォーラム」(岩手日日新聞社など後援)が十九日、江刺市岩谷堂の市総合コミュニティセンターで開かれた。東北大学教授の入間田宣夫氏による基調講演、平泉文化などに関する四氏の研究発表、十六年度の平泉遺跡群や江刺市内関連遺跡の調査報告などが行われ、聴衆は平泉文化に関する理解を深めていた。

 フォーラムは午前十時から開会。基調講演では中世史(日本中世史、日本北方史)を専門とし、平泉藤原氏の研究、中世奥羽の政治・社会・経済史、中世奥羽の自己認識を主要な研究テーマとしている入間田氏が「源義経と平泉」と題して講演した。

 入間田氏は、「吾妻鏡」などに記された資料を交えながら、奥州藤原氏と義経のかかわりなどを解説。「藤原秀衡がなぜ義経を大事に扱ったか。奥州に独立政権(幕府)をつくるときのシンボルとする非常に政治的な計算があった。ただの人のいいおじさんではなく、計算し、判断し、平泉の運命の決断をしていた」などと語る入間田氏の説明に、来場の市民や歴史愛好者らも感心しながら聞き入っていた。

 また、午後からは野中奈津子氏(東北大学大学院)、岡陽一郎氏(青山学院大学非常勤講師)、冨島義幸氏(滋賀県立大学助教授)、羽柴直人氏(県文化振興事業団埋蔵文化財センター文化財調査員)の四氏が、それぞれの分野での研究成果を発表。このほか、埋蔵文化財センターによる江刺市内の発掘調査、県教委による平泉遺跡群発掘調査の今年度の調査内容についても報告され、ともに聴衆の関心を集めていた。

 フォーラムは、県が外部研究者に対し依頼している平泉文化についての研究成果を公開するとともに、県民の平泉文化に対する理解・関心の醸成などにつなげていこうと開催した。

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入間田説は面白い。
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2005年3月11日(金) 新株」差し止め仮処分、ライブドアの申請認める放送新株発行で
当然の結果でしょう。


読売新聞ニュース
 インターネット関連会社ライブドアが、ニッポン放送株のフジテレビジョンへの新株予約券発行を差し止めるよう求めた仮処分申請に対し、東京地裁は11日、差し止めを命じる仮処分決定をした。

 鹿子木康裁判長は「新株予約権の発行は、現経営陣の支配権を維持することを目的としており、著しく不公正な発行に当たる」と述べた。ニッポン放送は即日異議を申し立て、同地裁が改めて差し止めの是非を判断することになった。

 決定は、ライブドアが5日以内に5億円を担保として供託すると効力が生じ、異議審や高裁、最高裁で取り消されない限り、ニッポン放送はフジテレビに新株予約権を与えることができない。ニッポン放送側は厳しい状況に追い込まれた。、

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ホリエモンはがんばりました。
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2005年3月10日(木) 中西議員が強制わいせつ 東京・六本木の路上で
これは破廉恥な出来事です。

共同通信ニュースです。

 警視庁麻布署は10日、路上で女性の体を触ったとして、強制わいせつの現行犯で自民党衆院議員中西一善容疑者(40)=東京都大田区南千束=を逮捕した。
 中西容疑者は「酒に酔っており、覚えていない」と供述しているという。
 調べでは、中西容疑者は10日午前2時すぎ、港区六本木の路上で自営業の女性(22)にいきなり抱きつき、体を触った疑い。
 現場近くでは9日未明に外国人男性が射殺される事件があり、女性は警戒中の警察官に被害を訴えたという。
 憲法50条は「国会会期中は国会議員は逮捕されない」とする不逮捕特権を定めているが、議院の許諾があった場合や院外の現行犯の場合は会期中でも逮捕できる。
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何たることか
地元の人々の
ショックたるや
なんとも言いようがありません。
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2005年3月9日(水) 義経ゆかりの地 平泉 イベント情報
幼少時代と晩年までの数年、計8年あまりをすごした平泉。
京都以北で最大の都と言われていた平泉で、義経はどのように過ごし、どのような最期だったのか・・・。

選択してください放送記念 イベント情報├奥州藤原祭り├イベント情報義経と主要人物義経の足跡├毛越寺├北の方と亀鶴姫の墓├弁慶の墓(中尊寺坂下)├中尊寺├高館義経堂├無量光院跡 などなどいろいろあります。


私も4月、5月に出かけます。

奥州藤原祭り

ゆかりの地ならではの臨場感あふれるお祭り
5月1日〜5月5日に平泉町で開催される「奥州藤原祭り」。
「源吉常公東下り絵巻」を再現した、義経一行に扮した本行列や、弁慶力餅競技大会など、義経ゆかりの地ならではのお祭りです!

今年の義経行列は、大河ドラマの義経
行列には、大河ドラマでおなじみの滝沢秀明扮する義経が参加します!ドラマさながらの義経を、ゆかりの地平泉でお楽しみ下さい。


平泉町のイベント情報
基衡公御月忌 (3月19日)
【中尊寺・毛越寺】基衡公の命日にあたる毎月の日として法要いたします。

観光コースを見る

FMウォークin平泉〜義経の史跡を訪ねて〜(4月17日)
【平泉町内】ラジオで義経の史跡案内を聞きながら、平泉の町を散策するイベントです。

平泉郷土館特別展「源の義経」〜史実と伝説の英雄〜
(4月15日〜11月10日)
【平泉郷土館】義経にまつわる、よりすぐった資料が、特別展示されます。

観光コースを見る

春の藤原祭り (5月1日〜5月5日)
【平泉町内】義経一行に扮した行列が、平泉を回ります。

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義経サミットin平泉 (5月21日・5月22日)
【平泉町内】大河ドラマ義経の放送を記念した、交流会です。

毛越寺曲水の宴 (5月22日)
【毛越寺】

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あやめ祭り (6月20日〜7月10日)
【毛越寺】あやめ園にある数万株のあやめが見事です!
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2005年3月8日(火) ライブドア対フジ
<ライブドア>47%強を取得 ニッポン放送株

 ライブドアの保有するニッポン放送株が議決権ベースで47%強に達したことが4日、分かった。現状でも3%弱の委任状を集めれば、株主総会で過半数に達することになる。ライブドアが公表している株式等の大量保有の変更報告書などによると、議決権ベースで42.59%(2月23日現在)だった。
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フジが36・47%取得、TOB成立を発表
 フジテレビジョンが実施していたニッポン放送の株式公開買い付け(TOB)で、フジテレビは8日朝、ニッポン放送の発行済み株式総数(3280万株)のうち、36・47%を取得し、TOBが成立したと発表した。(読売新聞 )
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一体どうなるの

でもニッポン放送はもはや
ライブドアでしょう。
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2005年3月6日(日) 岩手日報で勉強

今夜の義経は平泉行です。

平泉とは、
岩手日報の連載で勉強しましょう。
空から見た平泉です。

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清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)。11ー12世紀、奥州藤原四代は、政庁から、あるいは居館から平泉の街を100年間見つめた。


 平泉町上空から北西を望む。毛越寺、観自在王院跡の大池と庭園で構成された景観。王城の地を意識した園池こそ平泉の文化遺産を特徴づけるものだ=高度約600メートル、本社チャーター機から
 往時の面影を残す街並みを、815年後の私たちも目にしている。

 平泉を鳥瞰(ちょうかん)した。

 高度600メートル付近から北西を望む。遠く残雪の焼石連峰がかすんでいた。南西へ延びる現代の大動脈東北自動車道が、収斂(しゅうれん)するかのような平泉トンネルの右に、基衡建立という毛越寺庭園・大泉が池が眺望できる。

 並んで見える幾何学模様の園池は、基衡妻建立の観自在王院跡・舞鶴が池。

 青緑に光る浄土庭園の園池は、平泉文化の象徴だ。

 ◇奇跡の発掘

 高度を下げ東に目を転じる。岩手町を源流に、宮城県の河口まで注ぐ北上川が南北を分断するかのように横たわる。豊かな水は蛇行し、豊饒(ほうじょう)と水害をもたらしてきた。

 高館橋の上流手前側には、主に三代秀衡の政庁・平泉館(ひらいずみのたち)跡、いわゆる柳之御所遺跡が見えた。水害で消滅したと考えられてきたのが、1988年からの発掘でこつぜんとよみがえった。

 奇跡に県民は感動した。


 早朝、中尊寺金色堂へと向かう一山の僧侶。杉木立が天にそびえ、厳かな空間となっている
 1051年に戦端を開いた前9年、続く後3年の両合戦は奥羽に荒廃をもたらした。一方で戦いのなかから、蝦夷(えみし)の血を引く清衡の登場をうながし、奥羽の統一を可能にした。

 中尊寺、金色堂、平泉館、毛越寺、無量光院と伽藍(がらん)・政庁・居館が一世紀の間、槌(つち)音とともに姿を現した。

 すべての根本になったのは鎮護国家と浄土建設、冤霊(えんれい)の救済を目指す清衡の「平和の思想」だった。

 今も2種類の写本が残る「中尊寺供養願文(がんもん)」(1126年)に、その精神は、あますところなく記されている。

 四代続いた平泉の世紀は、源平争乱にうながされるように1189年、落日を迎えた。北方の王者・三代秀衡が擁護した源義経が災厄を招いたかに見える。

 だが、本当のところは武者の世の道筋をつけ、幕府を開いて日本統一を果たそうとした義経の異母兄・頼朝と、彼が抱いていた東北経営に対する源氏の宿意(望みながら果たされぬ恨み)によるものだった。

 1192年鎌倉幕府が成立する。歴史の必然だったのだろうか。


 藤原秀衡の政庁・平泉館とされる柳之御所遺跡の一本桜。「聞きもせずたはしね山の桜ばな吉野の外にかかるべしとは」と西行法師が詠んだ束稲山は、右手の北上川を挟んで対岸にある
 平泉にとって幸いだったのは、清衡の平和の思想が頼朝に、そして後の支配者、たとえば仙台藩・伊達家にも敬意を持って迎えられたことにある。

 手厚く守られながらも堂塔・僧坊は焼亡した。が、金色堂は残った。

 同時に、奥羽の中心地が他の地域に移ったことによって平泉の遺構・遺物は、かき乱されることなく地中に残され、文化遺産となった。

 ◇壮大な実験

 平泉の文化遺産、なかでも毛越寺跡、無量光院跡、中尊寺境内、柳之御所遺跡、金鶏山を核心地域とした史跡が2008年度、世界遺産への本登録を目指している。

 史跡を基にした申請は、既に登録された「沖縄・琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」に続く。

 考古学的発掘成果を基にした史跡で−というのは平泉が初めてのことだ。

 東北学の第一人者・高橋富雄東北大名誉教授は盛岡大学長当時、平泉の歴史を「蝦夷といわれた東北人の浄土づくりという壮大な歴史の実験」と評した。

 考古学に軸足をおき、世界遺産を目指すことは、今また例のない「壮大な歴史の実験」に挑んでいるともいえる。

 1689年、松尾芭蕉は「おくの細道」の旅をした。5月13日晴れた日、平泉にたどり着く。

 「三代の栄耀(えよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり」と印象を記し、<夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡>との名吟を残した。

 われわれもまた、「栄耀(えいよう)の記憶」をたどりながら平泉、岩手、東北はもちろんのこと、全国に残る奥州藤原氏関連の歴史・史跡・遺物・伝承を訪ねていこう。

 そこから世界遺産へと向かう道筋が確かなものになり、清衡の平和思想が明らかになることを信じながら…。

文・学芸部 中村紀顕記者  




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2005年3月5日(土) インボイス 西武球団買収も
野球界はまたまた変わります。

スポーツニッポンニュースです。

西武球団を「買います」と注目発言したインボイス社・木村社長


 西武王国の崩壊で球界を新たな激震が襲った。東京地検特捜部は3日、前コクド会長の堤義明容疑者(70)を証券取引法違反(虚偽記載、インサイダー取引)の疑いで逮捕した。折しもこの日、イースタン教育リーグ、ロッテ―インボイス(前西武2軍)戦(ロッテ浦和)を観戦したインボイスの木村育生社長(46)は西武球団買収に前向きな発言。同社が売却先の有力候補となるのは確実で、球界再編に発展する公算は大きくなった。

 西武グループの顔としてカリスマ的存在感を示してきた堤容疑者が逮捕された日に「世代交代」を予感させる発言が飛び出した。

 「西武さんから言われたら買います」

 西武2軍と球場のネーミング・ライツ(命名権)を総額4億5000万円で買収したインボイス。この日は同チームのユニホームのお披露目とあって、木村社長はロッテ浦和球場に足を運んだ。命名権契約について「(効果は)予想以上。実際の取引でも相手企業が安心してくれる」とした上で1軍も含めた球団全体の買収に前向きな姿勢を示したのだ。

 さらに木村社長は先週に楽天・三木谷浩史オーナー(39)と会食した際に、球団経営についての情報を収集したことも披露。「新しい方法で、まだまだファンを見つけられるんですね。私なりのビジネスアイデアもあります」とプロ野球ビジネスの新たな可能性にも言及した。

 堤容疑者は78年にクラウンライター・ライオンズを買収してから一貫として球団経営に情熱を燃やしてきた。しかし、グループ内部の権力をすべて失い、事実上の「追放」。抜本的な経営立て直しを目指す西武グループ経営改革委員会(諸井虔委員長=太平洋セメント相談役)を中心としたグループ内部からの売却圧力は強まる一方だ。事実、諸井委員長は1月28日に「来季に向けて有力な買い手があれば売却もあり得る」と発言。また「毎年20億円の赤字は小さな数字ではない」とも語っている。
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2005年3月4日(金) 私も車は日産スカイラインです。
All About「憧れる経営者」ランキングで1位はゴーン氏、2位は堀江氏
専門ガイドサイトの 株式会社オールアバウト は2005年3月3日、情報サイト「All About」で、「 キャリアプランニング 」ガイド角田正隆氏主催の、ユーザー投票「憧れる経営者」ランキングを 発表 した。
 発表によると、1位は日産自動車のカルロスゴーン氏、2位はライブドアの堀江貴文氏、3位は楽天の三木谷浩史氏だった。(japan.internet.com)

そうでしょうね。

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2005年3月3日(木) 楽天に苦言
楽天の地域密着疑う声あり」 地元の不満を仙台市議代弁

 「楽天の地域密着を疑う声が出ている」。1日の仙台市議会2月定例会本会議で、プロ野球の新球団、東北楽天ゴールデンイーグルスの「地域密着」について、市議が市民の不信感を代弁した。高額な球場内の看板広告料金やマスコット・キャラクターの使用制限などを例に、地元企業や市民に不満があるとして危機感を示した。

 指摘したのは、超党派の市議で組織する「スポーツ市議の会」の柳橋邦彦会長。楽天が地域密着担当を設け、地元ファンとの交流に取り組む姿勢を評価しつつ、「楽天の地域密着はこういうことだったのか」との落胆が地元にあると述べた。

 地元の不満には(1)各種料金が高額で地元企業が利用できない(2)大手企業を多用していて、地元資源が生かされていない(3)観客に地元の物産を売り込む機会を与えてもらえない―の3パターンあると分析。

 「企業として採算性の確保は当然だが、プロ野球界に新しいビジネスモデルを構築できるかが、楽天に問われている。新球団のあるべき姿は地元も模索すべきであり、市はこの状況を静観しないでほしい」と求めた。
 市は「球団は創設間もないため、地元への説明が不十分だった。今後は球団と地元との意思疎通を図り、地域に根ざした取り組みを広げたい」(経済局)と答えた。

(河北新報) -

これは真剣に受け止めてください。
私が知る範囲でも
この傾向ありです。

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<ニッポン放送>ライブドアの経営参画反対、社員一同が表明
ニッポン放送の経営権をめぐるフジテレビとライブドアの争奪戦に関し、ニッポン放送は3日、「社員一同」との署名で「フジサンケイグループに残るという現経営陣の意思に賛同し、ライブドアの経営参画に反対する」との異例の声明を発表した。ライブドアによる同放送株の大量取得以降、同放送社員が意思を表明したのは初めて。(毎日新聞)

これもやらせですね。
こういう事は止めた方ガいいですよ。



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2005年3月2日(水) どういうことですかねえ
サンケイスポーツ 2005年3月2日(水)
仰天!清原がピアス姿で登場…日本人選手では史上初
 巨人・清原和博内野手(37)が日本ハムとのオープン戦を翌日に控えた1日、仰天の両耳ピアス姿で札幌ドームに参上した。助っ人では珍しくないピアスも日本人に限れば史上初。五厘刈りの頭に次いで今度は耳。球界の“ファッション・リーダー”に君臨する日も近い?

 今や中学生どころか小学生も耳に穴を開ける時代。だが、今年38歳を迎える大男が“ファースト・ピアス”とくれば、ビッグニュースだ。清原がこの2日間で“穴”を開けた。両耳たぶに5ミリ大の銀色ピアスを施し、北の大地・札幌に降り立った。

 「キヨさん、よく似合っているよね」。同じ五厘刈り。“ゴリンジャー”の一員、小田も番長の変身ぶりに注目した。

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子どもたちはどう見ますかね。
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2005年3月1日(火) 佐々木只三郎の墓碑
以前、HPの掲示板で佐々木只三郎のことを書き込みさせて
いただいた「鬼の官兵衛」こと京都の宇治田です。

只三郎の墓碑写真を添付いたします。
どうぞ、ご利用ください。

私ごとですが、今、鳥羽伏見の戦いを追っています。
いつか、関連のHPを立ち上げる予定です。
今後とも宜しくお願いいたします。

以下は、私のHPアドレスです。幕末とは少し離れた時代を
扱っています。お目通しいただければ幸いです。

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というメールをいただきました。
佐々木只三郎
すばらし剣士でした。
武士道列伝
で書くことにしています。
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株式会社メディアハウス