星亮一 今日の一言

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2007年7月31日(火)  安倍さんは辞任すべきである
自民総務会で首相退陣論が噴出「政権選択迫ってしまった」

7月31日14時59分配信 読売新聞

 自民党は31日午前、党本部で総務会を開き、参院選の結果について協議し、

出席者からは続投を決めた安倍首相の退陣を促す意見も出た。

 この中で、石破茂・元防衛長官が

「首相は『私か(民主党代表の)小沢さんかの選択だ』と訴えた。

これを私どもはどう説明するのか。挙党一致はこの答えにならない。

次の選挙で振り子現象を期待するのは難しい」と述べた。

野田毅・元自治相も、「首相自ら政権選択を迫ってしまったので、

道は一つしかない。決断されたほうがよろしいのではないか」と語った。

 深谷隆司・元通産相は、

「赤城農相は辞めるべきだ。年金記録漏れ問題や『政治とカネ』の問題では、

泥縄式の対応が多すぎた」と述べ、政府や党執行部の対応を厳しく批判した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まったく同感である。早く辞任すべきではないだろうか。

ヘッドライン
小沢民主党代表が役員会出席 安倍首相続投を批判
 
参院選の「遊説疲れと風邪」を理由に選挙後の記者会見などを見送り、

静養していた民主党の小沢一郎代表は31日午前、

党本部で開かれた役員会と常任幹事会に出席した。小沢氏は常任幹事会で、

「過半数を失っても内閣が存続する非常識がまかり通ろうとしているようだが、

そんな手前勝手なことは、国民の理解を到底得られない」と述べ、

参院選で大敗したにもかかわらず続投した安倍晋三首相を痛烈に批判した。

(産経新聞)

△top
2007年7月30日(月) 安倍総理退陣の声、強まる。
各紙の論調は安倍総理の退陣を求めるものが目だった。

私も同感である。日本の混乱をすくには

新たな総理の下で、国政をたて直すしかなさそうである。

じゃ、誰が総理かと言うと、いそうもない。

しばらくは安倍さんという声もある。

予断は許さないが、私は早期に退陣すべきだと考える。

安倍さんではもう持たない。
<参院選>有権者は厳しい目 「退陣を」「誰でも同じ」

7月30日13時25分配信 毎日新聞

退陣すべきなのか、続投すべきか。自民党の参院選大敗から一夜明けた30日、

「これからも責任を果たしていく」と続投宣言した安倍晋三首相の対応に、

有権者や落選候補者からは厳しい声が起きた。
 
札幌市のタクシー運転手、古山繁さん(62)は「この結果は国民の怒りの表れ。

大敗は安倍首相の責任であり、退陣すべきだ。総理大臣になるのが早かった」

と冷ややかに語った。「小泉純一郎前首相が進めた構造改革が一番良くない」

とも指摘し、タクシー業界などで進んだ規制緩和を強く批判した。
 
大阪市天王寺区の会社員、三井嘉代子さん(36)も

「安倍さんが事務所費とか政治とカネの問題で身内をかばい過ぎた。

国民に分かりやすい明確な対応をしなかったのが、あかんかった」。

続投宣言には「もう辞めるしかないでしょう。きっぱりと責任を取るべきです」と語った。
 
大分市の男性会社員(48)も「ここで辞任しないのは『責任を取らなくていい』

ということで、それが通るなら、今後も政治家が言いっぱなし、

やりっぱなしになりかねない」と批判する。
 
一方、東京都豊島区の無職、杉山佐知子さん(75)は

「安倍さん自身はそんなに悪くなく、大臣が足を引っ張っている感じ。

安倍さんが辞めないのは、代わりの人がいないから仕方がないでしょ。

今度は大臣の選び方に気を付けてほしい」と話した。
 
名古屋市西区、パート従業員、本谷富子さん(57)は

「年金も重要だが、それ以外にも介護や教育など問題が山積している。

これらを解決してほしい。誰が首相になっても同じでは。

まず安倍さんがどうするかしばらく様子を見たい」と話した。


首相居座り「民意無視」 九州・有権者の声
7月30日10時8分配信 西日本新聞


 安倍政権に対する初の本格審判となった29日の参院選で、有権者は事実上、

不信任の判断を下した。にもかかわらず、安倍首相は続投を表明した。

年金問題、政治とカネ、閣僚の相次ぐ不祥事から広がった政権与党への不信感。

主役交代を求めた有権者の思いはやり場のない怒りになった。

 福岡市中央区天神で、仕事帰りのバスを待っていた

同市南区の会社員柴田晃さん(63)は首相の続投表明を聞き、しばらく沈黙。

「今回の結果は安倍内閣への完全な不信任。辞めないのであれば、

何を民意と考えているのか分からない」と、あらためて首相の辞任を求めた。

佐賀市の主婦中原玲子さん(51)も

「数の力に任せ暴走する安倍政権に国民は歯止めをかけた。

過去の首相と同じように潔く辞めてけじめをつけるべきだ」。

 福岡県大牟田市の自営業城戸利子さん(55)は

「ここまで大敗すると内閣改造で乗り切られるか疑問。民意はもっと厳しい」と語り、

有権者の怒りを読み違えていないかと指摘した。

安倍首相の続投に賛成、早期に内閣改造を=経団連会長
7月30日17時39分配信 ロイター

[東京 30日 ロイター] 日本経団連の御手洗冨士夫会長(キヤノン<7751.T>会長)

は30日の記者会見で、参院選で自民党が惨敗を喫したものの

安倍晋三首相が続投の意向を表明していることについて

「安倍内閣の政策そのものは間違っていない」とし、続投に賛成の考えを示した。

そのうえで、首相に対しては、早期に内閣改造に着手して信頼を回復すべき、と述べた。
△top
2007年7月29日(日) 参議院選挙、即日開票
私は秋田取材のため不在者投票を済ませました。

秋田取材は無事、終了、かえってきました。

今夜は選挙報道です。
△top
2007年7月28日(土) 戊辰戦争研究会、鹿角集会、秋田の戊辰戦争
午前7時、いま仕事場である。

新聞を読み、今日の一言を少し書き、8時23分の新幹線で盛岡に向かう。」

鹿角市は盛岡から高速バスで1時間20分ぐらいと聞いている。

1時前には鹿角の花輪につくはずである。

秋田の皆さんとお会いできるのは、すごく楽しみである。

もう一つの戊辰戦争、それが秋田戊辰戦争である。

同じ東北の諸藩が秋田に攻め込んだ。

なぜか、そしてどうなったのか。

実に興味あるテーマである。

戊辰戦争研究会、秋田集会は今日午後2時、花輪図書館会議室で開く。

興味のある方はお出かけください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

内田誠一「秋田の戊辰戦争」ヤフー記載

はすぐれた論考である。これを読むと、その特異性がよく分かる。

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はじめに私は小学校高学年の頃から歴史の漫画や大河ドラマ

に興味を持ち暇さえあればこれらに興じていた記憶がある。

歴史といっても人によりさまざまなジャンルや時代によって興味の範囲、

内容は異なる訳で、私の場合は幕末の時代に関して多大な関心を寄せている。

その幕末の歴史といってもさまざまである訳だが、

生まれ故郷が秋田であるせいか東北を舞台に繰り広げられた戊辰戦争が

私にとって一番興味深いものである。

この戦争は歴史に興味を示している人であれば大抵記憶にあると思うが、

おおまかにいうと、明治維新軍(官軍)対鳥羽伏見の戦い(*1)に

敗れた会津藩(*2)を救済する為に構成された

奥羽越列藩同盟軍(*3)との戦いである。

この戦争の内容は過去に幾度かテレビで放送されてきたが、

率直な私の感想として維新軍側の行動などを主とした作品が多いという事や、

会津藩の編制部隊である白虎隊(*4)の悲劇を綴った作品や、

函館戦争(*5)などが主流であるといったことから、

その戦いの本質を私を含めあまり世間一般の人は詳しく理解

していないのではないかと考える。つまり、

一言でいうならばかなり複雑な戦争であったといえよう。

人間誰しも正義の側の視点から物事を考え、

そこから導き出した答えを肯定することのほ

うが利に適い、自らをも納得させ得ると考える。

しかし、この戊辰戦争に関しては敗者の側や脱退藩からの考察こそ

極めて重要であると考える。それはなぜなのか。つまり、この

戦争は、ひとえに会津救済といった理念をもって一枚岩となって

結成されたかにみえる同盟軍ではあるが、戦局が新政府軍優位となるや

内部から脆くも崩れていったと言う事実がある。三一藩からなる同盟軍が、

一藩や二藩の少数藩の脱退により、崩れていくという事

はまず考えられない。すなわち、かなりの藩の脱退があったのだ。

(*6)この事実を冷静に分析すると、

三一藩のうちの大半は積極的な意思によって同盟に参加したのではなく、

特に小藩においては、仙台、米沢などの大藩の意向に逆らえず、

また、戦局が混沌としていたのも後押しして

やむを得ず同盟に参加したのではないかという考えも生じる訳である。

このような状況を踏まえるとやはり東北諸藩の内情は複雑かつ、

戦争中の向背は大きく違うので、敗者の側からの考察は大変重要であると考えるわけである。

特に私が研究しよう
とする秋田の戊辰戦争は秋田久保田藩を筆頭として一八六八年七月、

奥羽越列藩同盟が結

成されてから二ヶ月後には秋田の諸藩は全て脱退しているので

この考察は不可欠なのである。それでは、

「なぜ脱退したのか」という事が私の研究する最大の論点であり、

そこからどういった道を秋田は進み現代に繋がっていったのかというのが

一番の焦点であると考えている。私は自らの県に対し深い愛着の念があり、

プラスの思考であるかもしれないが、

戊辰戦争に関しては無益で、かつ、筋が通ってないと思われる戦争に

終止符を打った最大の功労藩である考えている。

しかしながら、東北内では当たり前と言っていいのかもしれ

ないが裏切り者のレッテルを貼られ、その内容を示す逸話(*7)も残っている。

この脱退の問題に関してはやはり当時の秋田久保田藩主である

佐竹氏について徹底的に調べる必

要があると考える。もともと秋田の人間ではない佐竹氏が何を考え、

どうしたかったのか。或いは、

秋田をどういう方向へと導きたかったのか私の中ではこのことが重要なポイントである。
△top
2007年7月27日(金) 明日から秋田
鹿角の戊辰戦争の取材です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では秋田県大館市の「大館城」について記述しています。

大館城(おおだてじょう)は、秋田県大館市にある城。桂城(かつらじょう)とも呼ばれる。

跡地は現在、桂城公園として整備されている。


[編集] 歴史
源頼朝の奥州征伐の後、この地には御家人浅利氏が配され地頭職となった。

天文19年(1550年)に浅利勝頼により築城されたとされている。

戦国時代は、この地は浅利氏、南部氏、秋田氏(安東氏)、津軽氏の係争の地となる。

太閤検地により、この地は秋田氏のものとなった。

関ヶ原の戦いの後、秋田氏は常陸に移封され、

かわりにこの地は佐竹氏が支配することになる。

一国一城令の例外としてこの城は横手城同様に存続を認められる。

戊辰戦争の際に南部氏が大軍で攻めてきたため、城は大館城代の佐竹大和が自ら火を放ち、

堀などの遺構を残して全焼することになる。

この際焼け残った城門を移築したものと伝わる門が一棟市内新町の民家に現存するが、

どこの門を移築したものかわかっていない。

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東北選挙区 民主、6議席も視野 自民、巻き返しに懸命
 
河北新報社の取材網による分析では、東北6選挙区(改選8議席)は、

民主が宮城、福島(改選数2)の各1議席と岩手(改選数1)、山形(同)を固め、

秋田(同)で推薦する無所属新人が優勢で5議席をうかがう。

青森(同)も新人が自民現職と競り合い、6議席も視野に入った。

自民党は宮城、福島で各1議席を固めたものの、1人区でいずれも苦戦。

青森、秋田で現職が議席を守れなければ、東北の1人区で議席ゼロの可能性もある。

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自民党崩壊の危機

△top
2007年7月26日(木) 風雪斗南藩、25年前の撮影風景
下北半島で苦難の生活を強いられた会津人を追って私は、

25年前、テレビ番組を制作した。

今日のカメラルポは、その時のスナップである。

「会津藩斗南へ」三修社を是非、お読みください。

作家の早乙女さんも若かったなあ、むろん私も若かった。

これらの経験が私の作家活動を支えている。

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タリバンが韓国人質男性1人を殺害、現地消息筋

ついに大変な事態になった、

殺害されたのは 、団体のリーダーとの情報もある。

【ドバイ25日聯合】アフガニスタンで韓国人23人を拉致した

武装勢力タリバンが人質の男性1人を殺害したと、

現地事情に精通した消息筋が25日に明らかにした。

この消息筋は聯合ニュースの電話取材に対し、

「タリバン報道官(とされる人物)と電話で話したところ、

韓国人男性の人質1人を殺害したということは確実だ」と伝えたという。

交渉は完全に中断され、韓国人の人質と収監されているタリバン兵の交換案は、

アフガニスタン政府が受け入れなかったため人質を殺害したと、

タリバン側は説明しているという。

また、今後数時間内にさらに人質を殺害すると警告した。(YONHAP NEWS)

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イラク支援 空自機狙い砲撃か 昨秋、熱センサー作動
 
イラク復興支援特別措置法に基づいてクウェートを拠点に

イラクで輸送支援活動を展開している航空自衛隊輸送航空隊のC130輸送機が昨秋、

バグダッド空港付近を低空飛行中に、地上からミサイル攻撃を受けていた可能性が浮上した。

現地ではミサイルなどの脅威情報による運航中止や、

輸送機の機体のセンサーによる警報作動が日常化しているという。(産経新聞)

重大事体である。
△top
2007年7月25日(水) さすらう常長 建立34年、2度移転 アカプルコ
今朝の河北新報に下記の記事があった。

これはひどい話である。

15年ほど前、私が行ったときは、浜辺にあった。

なぜだろうか。

さすらう常長 建立34年、2度移転 アカプルコ

慶長遣欧使節の足跡をたどり、日本とメキシコの友好を願って

仙台市の姉妹都市・アカプルコに寄贈された支倉常長の銅像が、

太平洋を望む州立公園から2度移動され、現在は海から遠い大通りの

緑地帯にあることが分かった。

里帰り中の鈴木さんは「常長の偉業を知る宮城県出身者として悲しい。

本来の趣旨に添い、海が見える場所に移して」と訴えている。

 銅像は宮城県大和町出身の彫刻家佐藤忠良氏の作。

17世紀に伊達政宗の命を受けて出帆した支倉常長らの上陸第一歩の地として、

1973年に県や仙台市、河北新報社が寄贈した。

同じ銅像は仙台市の仙台城跡のほか、遣欧使節が立ち寄ったスペイン、イタリアにもある。

 最初は故郷の仙台の方角を見つめるように、海に面して建立された。

90年代初めに西側に約300メートル移動した後、

97年に暴風被害の影響などで、数キロ離れた現在地に移ったらしい。

 鈴木さんはメキシコ在住の宮城県出身者でつくる「メキシコ宮城青葉会」の会長を務める。

今年3月、常長の像が置かれた現状を見て驚いた。台座も一部が破損するなどしていた。

 建立してしばらくは「サムライモニュメント」と呼ばれ、

有名な観光スポットだったが、

場所を転々とするうちに「ツネナガ」の名前や由来を知らない人も増えているという。

鈴木さんは「再び太平洋が見える場所に設置するよう、

県人会として当局に働き掛けたい。

宮城の関係者も支援していただければありがたい」と訴える。

 仙台市交流政策課の遠藤俊行課長は「現状がそうだとすれば残念だ。

支倉常長の偉業を現地の人にあらためて認識してほしい」、

慶長使節船協会の跡部進一専務理事は

「破損などがあれば何とかしたいが、まず鈴木さんから状況をよく聞きたい」

と話している。


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トップ > 政治記事読みくらべ > メディア・レボリューション > 柔道家プーチン大統領の野望
政治記事読みくらべ
2007年7月24日

柔道家プーチン大統領の野望

 「私のスポーツは柔道であり、娯楽競技でない」。

これは、プーチン大統領の2008年のロシアの大統領選挙の行方をほのめかす言葉である。
 
ロシア憲法では、大統領の2期以上の継続は認められていなく、

プーチン大統領の継続は技術的に不可能である。

しかし、プーチン大統領は、一度は地に落ちたロシアの威厳を回復させ、

ロシアの興隆をもたらした立役者であり、プーチン大統領の身の振り方が注目されている。

 KGB出身であり、東洋の格闘技を修めたプーチン大統領の奥に潜む戦略を、

解読するのは米国にとって容易でない。多くの憶測が飛び交うミステリアスな状況である。

 ワシントンのウッドローウイルソンセンターで、ロシア戦略のシンポジウムが開催され、

冷戦終焉時の米国のモスクワ大使や

レニングラードの総領事などロシアの専門家などが集まり興味深い議論が展開された。
 
今日のロシアの急速な回復は予測をはるかに超えるものであり、

とりわけ、米国の対ロシア外交戦略の失敗は、

クーデターによるゴルバチョフ大統領の失脚と

プーチン大統領による権力の集中を事前に防御できなかったことに

あるとの意見が聞かれた。
 
なるほど、ロシアの対米外交戦略は、エンルギー価格の高騰に伴う

ロシアの経済発展とともに反米色を際立たせている。

新たなる冷戦やコールドピースの再開であるとの見方もある。
 
中国、インドなどの新興勢力が台頭し、新たな国際秩序の構築が、

予測できない速度で進展する中、

ロシア陣営にとってプーチン大統領の存在感は不可欠である。

そのような状況の中で、世界大戦という異常事態において

米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が特例として4期にわたり

大統領の地位を占めた例を挙げ、プーチン大統領の続投との野望も聞かれる。
 
しかし、現実的選択として、2008年の大統領選挙では、

プーチン大統領に最も忠実な部下に大統領のポストを暖めさせ、

2012年の大統領選挙にプーチン大統領が返り咲くとの見方が有力である。
 
経済担当のイバノフ第一副首相と社会問題担当のメドベデブ第一副首相の二人が、

次期大統領のフロントランナーとして脚光を浴びている。

二人ともプーチン大統領への忠誠心は高い。

しかし、大統領という権力を掌握することにより、

将来への予測は不確実なものとなるのは世の常である。
 
柔道家プーチン大統領の戦略は、如何なるものか。

来年の米国の大統領選と共に動向をモニターする必要があろう。(中野 有)

メディア・レボリューション(Yahoo!ブログ)
6月29日掲載分を転載


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どっちがマシか 安倍vs小沢「党首力」(読売ウイークリー) 2007年7月24日

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安倍首相出演要請の裏(AERA) 2007年7月23日

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いろいろ考えることがおおいなあ、
△top
2007年7月24日(火) 今日はMBA21例会
日本一の風力発電基地、郡山布引き高原と題して

風力発電を勉強しました。

yahu-から引用

布引山の風力発電所を見に行く

33機の風車が回る布引山の風力発電施設を見に行く。発電量は国内でも有数。

郡山市湖南町赤津から10q程南へ。昨日オープンしたばかりのせいか来場者も多く

、駐車場の手前から長蛇の列。             

 コンクリート製の展望台からは360度見渡せる。北には猪苗代湖や磐梯山。

西に飯豊山や大戸岳。南に二岐山など。

見学用の施設は整備途上。駐車場や仮設トイレ、展望台は設置されていた。

交通誘導員を2名配置したり、一方通行の案内板を設置したりして

交通の安全に配慮していた。

展望台を登っていくと頭上注意の注意書きがあったり(実際危険)、

施設内の通路が巨大な風車の足下を通るなど、スリル満点。

風力発電に関するパンフレットやパネル等の説明はなく

、水力発電施設に比べると見学者には不親切。

いずれ農産物の直売所や休憩施設ができるのだろうが、

利用者本位の設置を望みたい。  

これを勉強した。びっくりです。                        

ーーーーーーーーーーーーー

こちらはどうなるのだろうか

韓国人23人誘拐、アフガン国軍が監禁場所一帯を包囲
7月24日0時16分配信 読売新聞


 【イスラマバード=佐藤昌宏】アフガニスタンで韓国人23人が

アフガン国軍などは23日、監禁場所とグループの人数をほぼ特定し、一帯を包囲した。

 ロイター通信によると、監禁場所となっているのは、


人質23人が19日に襲撃された南部ガズニ州カラバグ地区の一角で、

武装グループは七十数人にのぼると見られている。

 韓国とアフガニスタン両政府は、武装グループが人質殺害の予告期限を24時間延長し、

23日午後7時(日本時間同日午後11時半)としたことを受け、

カラバグ地区内の部族長らを通じてぎりぎりの交渉を続けている。

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防衛
ヘッドライン
「第5世代」ステルス実験機開発へ…防衛省方針
 
防衛省は23日、ステルス性能などを持つ「第5世代」の戦闘機技術を検証する

有人実験機の開発に向け、来年度予算の概算要求に費用を計上する方針を固めた。

(読売新聞)

これは当然である、国産がないのがおかしい。
△top
2007年7月23日(月) 彰義隊
彰義隊結成の動きハ、一橋系の家臣たちによる慶喜の名誉回復運動だった。

中心人物、渋沢成一郎は、慶喜の首席秘書官である。

一橋系の家来のい檄文を回した。


■ 戊辰戦争百話・会津 、ヤフーより

■ ■ ■ ■
■慶応四年(一八六八)二月十一日、

橋府随従之有志の名をもって旧幕府陸軍諸隊

に檄文を発したのは渋沢と陸軍調役並本多敏三郎、

同じく伴門五郎 同勤方須永於菟之輔だった。

■慶喜は明けて十二日払暁、僅かの供を従えて江戸城を出駕し東叡山に入った。

このとき集まった者は十四人に過ぎなかったが、

二月二十三日に浅草東本願寺で発会 式をあげたときに集まった者は百三十余名。

その出で立ちは槍を提げてくる者、鎧 を着て乗馬で来る者などさまざまで、

じつに珍しい眺めであったという。この日、

東本願寺の表門には「尊王恭順有志会」の看板が掲げられた。

■東本願寺に集まる幕下の有志は、三日のうちに三百名を超えた。

このため一隊を 起こす事になり、衆議によって彰義隊と命名され

本多敏三郎を選出、さらに同盟哀訴状と いうものを作成し、

閣老松平三河守(硝堂)に差し出し、征討軍に伝えてくれるよ

うに言上した。彰義隊の存在を「征討軍に備える」

ものと解されることを恐れた幕
閣は、翌日、西の丸大広間において改めて隊名を「彰義」と賜り、

江戸市中取締ま りを命じたのであった。

■彰義隊の威望を慕って入隊を請う者はあとを絶たず、

まもなく五百名を超すにい たった。彰義隊はもともと規律厳正を欠く嫌いがあったが、

規模が大きくなるに従 ってますます過激な言動が目立つようになった。

奥羽諸藩と結び、法親王を奉戴し て義挙を起こそうという説も、

隊士の間で盛んになってきた。勝海舟は彰義隊に対 し解散を勧告したが、

もとより聞き入れる彼らではなかった。

■五月一日、大総督府は彰義隊に委ねられていた江戸市中取締まりの任を解き、

自 らこれに当たることを布告した。

彰義隊はいよいよ市中各所において新政府の兵と 衝突事件をおこした。

大総督府は軍務局判事大村益次郎の意見を容れて、十四日、

市中に高札を出して彰義隊討伐の布告を出した。

■征討軍の上野攻撃の部署は、まず湯島を経て黒門口に向かうのが

薩摩・因州・肥 後の各藩兵。団子坂から背面を突くのが

長州・大村・佐土原の各藩兵。砲隊を主力 とする

肥前・筑後・尾張・津・佐土原の各隊は本郷台に陣をとり、側面から攻撃す

る手筈であった。総勢およそ二千といわれている。

これに対し彰義隊は一説に三千 ともいわれるが、

「戦争近し」と聞いて臆病風に吹かれて脱走する者も多く、

実数 僅か千人ほどに減少していたという。

■五月十五日未明、征討軍は夜来の霖雨いまだ降りやまぬ中、

今の二重橋外に集合 し、各部署に向かって行動を開始した。

黒門口を攻める薩摩兵は西郷吉之助、因州 兵は河田佐久馬、

肥後兵は津田山三郎が指揮した。正午ころまでは勝敗いずれとも

決しなかったが、本郷台に据えられた肥前藩のアームストロング砲が威力を発揮し

薩摩兵は突撃の合図によって黒門に突入した。

■「黒門口敗れる」の報を聞いて彰義隊は壊乱し、

征討軍は寛永寺の堂塔伽藍に火

を放って残敵を掃討、彰義隊は完全に壊滅した。

この戦争による戦死者は征討軍側 の四十余名に対し、

彰義隊側は二百余名に達したが、戦死者のなかには彰義隊発起

の一人伴門五郎も含まれていた。

残余の隊士らで、品川沖に停泊する榎本武揚の艦 隊に投じた者も多かった。

■ ■ ■
■ 【会津藩】、参考文献
野口信一/著
現代書館
1,680円

【松平容保】
非運の会津藩主
星亮一/著
学陽書房
819円

【新選組と会津藩】
彼らは幕末・維新を
どう戦い抜いたか
星亮一/著
平凡社
756円

【松平容保の生涯】
写真集
小檜山六郎/著
新人物往来社
2,940円

【会津藩はなぜ
「朝敵」か】
幕末維新史最大の謎
星亮一/著
ベストセラーズ
714円

【会津戦争全史】
星亮一/著
講談社
1,680円

【会津戦争】
歴史群像編集部/編
学習研究社
1,223円

【会津藩戊辰戦争
日誌】上・下
菊地明/編
新人物往来社
各10,290円

【戊辰戦争は今】
読売新聞社
福島支局/編
歴史春秋出版
1,890円

【会津戊辰戦争
写真集】
菊地明/編著
横田淳/編著
新人物往来社
2,940円
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片や日本の政治

安倍さんは黄昏か

世論調査 首相、人柄への評価も下降線
 
今回の調査では、安倍政権を支える役目を果たしてきた

安倍晋三首相個人の人柄への評価が、

徐々に下降線をたどっていることが浮き彫りになった。

政権寿命の見通しも短くなりつつある。「選挙の顔」として

自民党総裁に選出された安倍首相にとって、

参院選を前に厳しい数字ばかりがならぶ結果となった。(産経新聞)
△top
2007年7月22日(日) 日曜日、新撰組流山始末を書いている。
なぜ流山だったのか。

参考書を発見した。、

新編・新撰組流山始末 
幕末の下総と近藤勇一件
山形 紘著
1575円(税込)
全書判/184頁

◆−戊辰戦争から百三十六年、新撰組をテーマとする大河ドラマが放映される時代となった。

しかし「朝敵」とされ斬首された者と、明治の世を謳歌した者とが、

何をもって和解できるのか。挙国一致・体制翼賛のために新撰組が利用されるのであろうか。

ドラマとは異なる史実に、関係者のみならず、

歴史とは何かを私たちに問う機会を改めて与えている昨今である。

−(著者「はじめに」より)ふるさと文庫「新撰組流山始末」を改訂、

新たに発見された地元史料を紹介しています。
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著者と電話で話したが

流山に来る前、五兵衛新田にいた。そこには会津藩士の姿もあった。

人物は特定できないが、

近藤土方に支援を求めるためだと思われる。

その直後に近藤は流山で捕縛されてしまった。

油断していて、包囲されるまで気ずかなかったという。

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この時期、旧幕府、会津軍はいたるところ緊張感がなかった。

古屋佐久左衛門は梁田で、館林藩にだまされ、兵と武器弾薬を失った。

会津は白河で大敗した。いまの自民党に似ている。


2007年参院選
ヘッドライン

<参院選情勢調査>与党、過半数厳しく 自民は1人区で苦戦

自民党は大苦戦。

幕府崩壊に似ているね。

安倍将軍、しっかりしないと徳川慶喜になるよ、

毎日新聞は29日投開票の参院選について19〜21日、

電話による全国特別世論調査を実施し、取材情報を加味して中盤情勢を探った。

自民党は29ある1人区を中心とした選挙区と比例代表で苦戦、

惨敗した98年参院選の44議席を下回る可能性が強まっている。

公明党は01年参院選で獲得した13議席の維持が微妙で、

与党が非改選組を合わせた参院の過半数を維持するのは厳しい情勢だ。

民主党は過去最高だった04年の50議席を超える勢いで、

非改選を合わせて参院第1党への躍進が有力。

ただ、投票先を決めていないと回答した人や無回答が選挙区で33%、

比例代表で31%おり、終盤情勢は流動的だ。(毎日新聞)
△top
2007年7月21日(土) 赤城農相>政治団体、退去後も事務所費計上 
自民党は惨敗かもしれない

<赤城農相>政治団体、退去後も事務所費計上 実在と記載
 
赤城徳彦農相(衆院茨城1区)の関連政治団体「つくば政策研究会」(04年に解散)が

97〜03年の7年間、すでに東京都港区新橋のオフィスビルから

退去していたにもかかわらず、政治資金収支報告書には、

この場所に事務所が実在するように記載し、

事務所費など経常経費を計1215万円計上していたことが、毎日新聞の調べで分かった。

赤城事務所は「事務所の異動届を怠っていた」と釈明している。

一方、研究会の元代表は「移転した事実も、

活動実態も全く知らなかった」とも証言している。

【日下部聡、苅田伸宏】(毎日新聞)

もうどうにもなりません。

こちらもわけがわからない

ダンボール箱入りの肉まんはやらせだった、というが、その発表もやらせではないか。

という見方も広がっている。

これを報じた産経新聞は興味深い。

「段ボール肉まん」やらせ 北京市民「疑心暗鬼」 

7月20日8時0分配信 産経新聞

 ■ニセモノ氾濫…捜査結果もウソ?

【北京=福島香織】中国の北京テレビが特ダネとして報道した

「段ボール入り肉まん」事件が実はテレビ局のアルバイトスタッフによる

「やらせ」報道であったことが北京市当局の捜査で19日までに判明し、

メディア界や市民に衝撃が走っている。

ニセ飲料水などニセモノ食品が氾濫(はんらん)するうえ、

報道もニセモノという状況に、市民の間には

「北京市当局の捜査結果もウソではないか?」といった疑心暗鬼が広がっている。

 18日夜、北京テレビが説明した経緯によると、

同テレビ報道番組「透明度」(8日)で最初に放送した、

水酸化ナトリウム水溶液漬けの段ボールをまぜた肉まんの製造過程の映像は、

番組制作チームのアルバイトスタッフが、出稼ぎ者4人に作り方を教え、

家庭用ビデオで撮影、編集したやらせ映像だった。放送後、北京市工商当局、

公安当局が合同で捜査した結果、報道を虚偽だとしてアルバイトスタッフを拘束した。

京華時報(19日付)によれば、加担した4人の出稼ぎ者も拘束されているという。

 「透明度」はタレコミ情報をもとにした盗撮で構成される暴露番組。

このアルバイトスタッフはこれまでもしばしば高視聴率を稼ぐネタを持ち込み、

特に問題はなかったという。

 一方、市民の間にはメディアへの不信と同時に

、新型肺炎が蔓延(まんえん)した2003年に報道統制により

事実を隠蔽(いんぺい)した“前科”がある北京市 だけに疑心暗鬼だというのである。

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メイドイン中国は危なくて食べられないことは

事実である、ゆゆしき事態だ。
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2007年7月20日(金) 情夫にもつなら彰義隊
という言葉が流行った。

粋で、金離れのいい男、それが彰義隊だった。

彰義隊は勝海舟の承諾をえて江戸市中警備の任にあった。

だが乱暴の限りを尽くし、長州の大村益次郎が、掃討作戦に乗り出した。

それは後日。

会津戦争の実態4

会津藩士荒川類右衛門の手記

強賊の振る舞い
 
九月十八日、伊佐住社内に敵、女を裸躰になし、斬り殺してあり。

その振る舞いは強賊というほかはない。
 
佐川陣将より使者があり、大内村に集合すべしの命令なり。

寒威はなはだしく、民家に薪をこい求め、暖を取る。大内の山にのぼり、

人は皆、悽愴(いたましい)せざるはなし。
 
九月二十四日、大芦村に打ち入ば。敵は朝餉するところへ不意に打ち入ったので、

敵は箸を投げ、狼狽して奔走した。味方、得たりと刀ゐ抜いて切って入り、

ここかしこで戦いをは始めた。
 蔵のかたわらから一人現れでた。自分を見るや刀を抜いて、

真っ向に振り上げ、進んできた。これはいき相手と類右衛門は槍をひねって進み、

ひと突きに倒してくれんと槍を突き入れた。敵はこれを払った。残念、逃さずと突進した。

類右衛門は素早く太刀の下にくぐり、岩をも通さんと臍の下に突き当てた。
 
蹣跚逡巡(よろめき、あとずさり)するをすかさず胸板を突いて斃したり。
 この日、分捕りの品物は弾薬、千両箱、長持、両掛、天幕、駕籠、食物なり、

弾薬十固、金箱は村民に運搬せしめたり。
 
しかして分捕りの酒を十分に飲食し、しばらく時を過ごすと、

敵ははやくも野尻村に屯集せり。

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自民党、選挙は最悪

<麻生外相>「発言は不適切だった」と撤回、謝罪
 
麻生太郎外相は20日午後、外務省で記者団に対し、

前日の講演で農産物の内外価格差について「アルツハイマーの人でも分かる」

などと発言した問題で「(発言は)不適切なものだった。撤回する。

不快の念を持たれた方にはおわびを申し上げる」と謝罪し、

発言を撤回する考えを示した。(毎日新聞)

これで自民の負けは決定的、
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2007年7月19日(木) 今日は終日、原稿執筆、彰義隊
江戸の彰義隊はだんだん膨れ上がり、三千人にも達した。

結構、かねまわりがいい。

「お宅は徳川家の世話になったであろう。資金を出してもらいたい」

店を回ると、千両箱が集まった。

若い隊員はそれをもって吉原に出かけ、ドンちゃん騒ぎである。

情夫にもつなら彰義隊ともてはやされた。

薩摩の西郷、たまりかねて

「大村先生、始末してもらえますか」

というと

「お安いごようで」

と長州の大村益次郎が言った。

明日に続く。


会津戦争の実態3

会津兵の証言、
 
会津藩士荒川類右衛門は家禄百三十石、会津藩重臣北原采女の家臣で、

会津戦争のときは三十五歳だった。八月二十三日、類右衛門は城中に詰めていた。
 
戸の口が敗れたと聞き、主君た主人とともに滝沢村に出陣した。
 
類右衛門は後に『明治日誌』をまとめ戦争の実態をあますところなく描いた。

 目も当てられぬ
 朝六時、主君が御出馬になった。主人も出馬になり、類右衛門もこれに付き添った。
 
昨夜、戸の口が破れ、山手より大銃、小銃を乱発して来た。もとよりご近従は小勢、

そのうえ鉄砲はなく、槍びみ携えての人数だったので、防ぎがたく、大いに瓦解した。
 
桑名公は滝沢町下で主君と別れ、米沢へ落ちられたという。主君は甲賀町郭門まで引き揚げになり、御門に胸壁を築くよう命令があった。
 よって屋敷屋敷より畳を防戦の道を砕身尽力した。主君は一騎で駆けてきて、入城された。

はや敵は五の丁より小銃を撃ち掛けたので、三宅の長屋に飛び込んだ。

そこから土屋一庵の屋敷に出ると、田中土佐(家老)が一庵とともに自殺したことを聞いた。
 
それから甲賀町通りをうかがうと、老人、婦女子、地に塗れ、血に染み、泣き叫ぶ声、

哀れだった。

 あるいは婦人、風呂敷堤を背負って出てきて、逃げるにさまたげとなり、

途中に捨てるもあり、または老人を背負って出て来た人もあった。

まことに目も当てられぬ有様だった。 私はは杉田の屋敷へ飛び入り、裏を通り、

西郷頼母の屋敷に出ると、婦人方が自殺しているところに出会い、

見るも哀れなことだった。
 
それより城中に飛び入ったが、城中は閑散としていて人なきがごとしだった。
 
黒金御門に至れば、主君は床几に召せさられ、西郷頼母大夫、梁瀬大夫、山崎大夫、

北原大夫らがお側の面々、お小姓、お坊主、お手傘差し掛け奉っていた。

御守衛の面々は、雨に浴して並んでいた。

  わめき叫んで出撃
 
敵は追い追い城に迫り、弾丸をのごとく撃ち出し来た。

城中よりもありあわせの鉄砲で防戦に務めたが、敵の弾丸は壁を貫き、

けが人が大勢でた。天神口が危なくなり、早く進撃すべしとの命令がしきりにでた。
 
そこで類右衛門と富田三郎、桜田勇二の三人が、御前に出ると、三人は直臣に召し出され、

主君からお流れの杯を頂戴、総勢三十人ほどで勢揃いした。内二十人は鉄砲組、

ほかは槍組であある。類右衛門は槍組で、廊下橋に勢揃いした。
  かはねを野山によしやさらすとも おくれはとらし武士の道
 と一首詠んだ。
 一同、閧を作って天神口より討って出た。もとより討ち死に覚悟である。

無二、無三と突き掛り、屍を越えて喚き叫んで進んだ。敵はその勢いの押されて敗走した。

しかし湯川川原で二十人余が討ち死に、敵の足溜まりの延寿寺に火を放ち、

諏訪通りから廓内に入り、一の丁に出て堀半兵衛に裏門を打ち破り、

槍組は閧をつくって突進した。
 
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2007年7月18日(水) 今日は霞ヶ浦です。
NHKの旅で午前7時に出発、一路、土浦へ

旧日本海軍の予科練の跡を尋ねた。

七つボタンの予科練の若者の生き様を見て涙が流れた。

特攻機に乗って出撃した若者の純粋な魂、

それに我々はどう応えることができるのか。

重い物を感じた。

ミッドウエー海戦の提督「南雲忠一伝」のなかで表現したいと思う。

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会津戦争の実態2

薩摩藩隊長伊藤四郎左衛門(祐徳)の手記
 
伊藤は文政元年、鹿児島出水郡出水郷生まれ、

慶応三年八月番兵一番隊の小隊長として上京を命ぜられ、会津戦争に参戦した。

 母成峠攻撃
 八月二十日未明、諸藩官軍、二本松を発軍、母成口進撃の隊、玉の井村宿陣、

土佐一小隊熱海村近くの会津の関門に迫ったところ賊兵発砲、薩摩私領二番隊、

長州兵一小隊、大垣一小隊が進撃し、会津兵を敗走させた。
 
夜、長州、大村、大垣、佐土原に各藩隊長が会合、二十一日の母成転陣を会議、

う回路から石莚を攻撃することで一決した。

 二十一日夜、石莚に進軍、各軍石莚より母成までの砲台乗っ取り、

暫時、石莚で休憩、兵粮の準備をして同夜十二時、石莚を発軍、母成に四時に着陣した。

大風雨で、露営は困難だった。母成は二本松と会津の国境で、会津軍は陣屋を建築、

木材などを多数集めていた。この戦闘で薩摩兵二人負傷、長州、大垣兵の死傷は十四、

五人に及んだ。

 戦闘で会津の四斤半野戦砲六挺を分捕った。
 
二十二日、官軍各隊は母成発、大田村木地小屋で暫時休兵した。

会津兵は猪苗代亀城及び士津明神を自焼、各隊、猪苗代より二里余、十六橋を越え、

戸の口まで進軍した。
 
会津進撃は明朝三時揃、四時発軍と決まり、

土佐、大垣、大村、長州、薩摩の順で攻め入ることに決まった。

番兵一番隊は私領二番隊、土佐三小隊と猪苗代警備となった。

 後方からの攻撃を警戒してのことである。(『薩藩出軍戦状』)

 
 
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2007年7月17日(火) 会津戦争の実態1
先ず新潟の皆さんに心からお見舞い申し上げます。

余震が続いており、ご心痛をお察し申し上げます。

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 さて、これから何日か、会津戦争の実態を多角的に紹介したい。

 戊辰戦争を考えるためである。

 長州兵河村楳治の証言
 
 私は元長州藩第四大隊一番中隊の一兵卒である。
 
慶応三年野時は十六歳でした。慶応三年十一月二十五日朝、長州を出発して、

その日野夕方山口に着いた。二十七日には山口を出て、三田尻に着き、

二十八日の晩には船にに乗り込んで、十二月の四日か五日には、

備後尾道(広島県尾道市)に到着した。
 
正月八日に尾道から船で靹(広島県福山市)に上陸した。

九日には備後の福山城を整部隊が攻撃した。私どもは城の南の方に進んだがが、

間もなく福山藩は降伏した。
 
その後、三月になっててから東海道の先鋒を命ぜられて長州の鋭武隊一中隊と薩州、

大村、佐土原の兵と一緒に京都を立った。毎日の行軍は五、六里ぐらいで、

川崎まで行った。ここで先込め銃を元込めの鉄砲と取り替えてもらった。
 
それから三月の十二日に高輪の大木戸まで行くと、

印半纏を着た鳶人足のような者が金棒を持ち先頭にたって案内してくれ、

芝の青松寺に着いた。
 
青松寺の隣の増上寺には、薩州の西郷隆盛が、おられた様に思う。
 
それからしばらくここで日を送ったが、

閏四月に上総の方に幕府の兵がたって官軍が負けたというので、

私どの隊は鋭部隊と薩兵と一緒に上総に出かけた。私どもの隊が着いた時は、

賊軍は木更津の方へ逃げたところで、鉄砲を撃つような事もなく

、今度の丸の内の旧上杉邸におった。それからいよいよ上野の戦争が始まり、

五月十五日に私どもは、団子坂の方から攻めたが、

上野の寛永寺の坊主がなかなか強くて引かない。
 
私どもが戦いの最中、他藩の兵と代わり、食事をしていると、

私どの方に走って来る兵がいた。なんだろうと見ると、

他藩兵が負けて逃げて来るから食事をやめてまた戦いに出て、勝ち戦になった。

 私どもの服装は呉呂服に筒袖で、握り飯を背負って

腰には弾丸をおよそ五十発ぐらいつけて、鉄砲を持ち、刀を差しいた。
 
上野が落ちた翌日、山内を巡邏すると、坊主の死体が転がっていた。
 
ちうど今の東照宮の右手の辺で大小を差した立派な武士が来掛ったので、

兵の一人が、貴様はなんだと聞いた。決して幕府方ではないといったが、

こ奴は怪しいと後ろから誰かが切り倒した。

 六月の十五日には江戸を立って白河に方に行った。

六月の二十四日には棚倉の城を落とし、七月の二十六日には三春の城を落とし、

二十八日には二本松の城を落とした。
 
二本松の城に入った時、私どもの隊の小林某が奥の間に入って見ると

、敵が一人おり刀を抜いて斬りあいになった。向こうが強くて段々、追い詰められた。

これを見て、味方がすぐに行って斬り倒した。

 それから会津に向った。母成峠という非常な要害があり、敵が大分抵抗したそうだが、

私どのが参った時は、もはや敵はいなかった。(『維新戦役実歴談』マツノ書店)
 
 これは原文の要旨だが、萩を出てから各地で転戦し九ヵ月後に、やっとの最大の戦場、

会津若松に到着している。長州兵にとっても戊辰戦争は、

永くつらい戦争だったことが分かる。
 
途中で上野の戦争は結構、激しかった事、棚倉、三春、二本松ともに、

たった一日で落城させ、ようやく会津の関門、母成峠に攻め込んだ事になる。
 
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2007年7月16日(月) 安倍総理の謝罪発言
なんとなく憂鬱な朝でした。

最近、書いた原稿、です。

 長州山口県出身の安倍晋三総理が、さきほど会津若松を訪れ、戊辰戦争に関して

「長州の先輩が会津の人々にご迷惑をかけた」と謝罪した。

 会津若松の反応は様々である。会津若松市長も商工会議所の幹部も

「遊説でちょっと喋っただけですからね」

「安倍さんは軽い、とにかく軽い」と否定的である。
 
戦死者が眠る飯盛山や天寧寺にお参りし、焼香すれば別だったが、

選挙の付け足しでは許せないというわけである。
 
青森県に移住させられた会津人の末裔は慎重に対応を検討中である。

 これに対して若者や高校生は、

「現代の山口県人に怒りをぶつけても仕方がない」
 
とやや覚めた感じで、とらえている人が多い。

 会津人は戊辰戦争以来、百四十年間、長州藩に恨みを抱き続けてきた。
 
これはもう周知の事実である。
 
会津人にとって戊辰戦争、明治維新をどのようなものだったのか。
 
そこには明治、大正、昭和にわたる会津人の屈辱と怒りの歴史があった。

それは、中国や韓国と日本の歴史の間に横たわる従軍慰安婦や、

南京虐殺など様々な問題に似ていた。
 
一つは会津戦争における官軍という名の薩長軍の残虐行為である。
 
錦旗、天皇の旗を掲げて会津に攻め込んだ官軍の実態は官賊だった。

 分捕り部隊が存在し、薩摩、長州が競って土蔵に封印し、略奪の限りを尽くした。

女性も分捕りの対象になった。
 
どこに財宝が隠してあるか、探し出すテクニックをもっていた。
 
庭に水をまくと、水が染み込んだところに、刀や壺が隠されていた。

 ほどなく市場が開かれ、江戸の古物商が来て買い取った。

 二つは過酷な戦後処理である。

 戦死者の埋葬を許さなかった。

 戦死者の遺体は犬に食われ、烏につつかれた。

 すべての財産は没収され、会津藩士とその家族一万数千人は、

下北半島を中心とする青森県の北端に流罪となった。
 
そこでの悲惨な暮らしは枚挙にいとまがない。
 
それにもまして会津人を苦しめたのは、朝敵、逆賊という汚名だった。
 
幕末、会津藩は京都守護職として京都にいた。
 
孝明天皇から絶大な信頼を受け、御所に攻め込んだ長州勢を撃退、

孝明天皇からご宸翰をいただいた。このとき攻め込んだ長州は朝敵である。

 それがいつの間にか逆転した。

 歴史のからくりである。

 会津藩を信頼した孝明天皇が奇怪な死を遂げてから、幕末政治は逆転した。

薩長同盟が京都を制圧し、会津は京都から追われた。

 そして会津戦争が起こり、会津藩は玉砕した。
 
 今回の安倍総理の発言は、幕末維新史を塗りかえる

一つのきっかけになることは確実である。

現在の山口県民になにか問題があるわけではない。

「まだ足りない」という声が一部にはあるものの、

会津・長州問題は新しい時代に向(か)って一歩、踏み出したことは間違いない。

 皆さんのご意見をお聞かせください。
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2007年7月15日(日) 農村部、自民離れ 支持3割に大幅減 東北アンケート
今朝の河北新報を読んでびっくりした。

今度の選挙関連での調査である。

東北の場合、農村部の自民離れは急激に拡大し、 支持はたった3割に大幅減したという。

自民党の崩壊が始まった感じである。

安倍さんでは無理だったようである。

閣僚のレベルがひどすぎた。 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

参院選(29日投開票)で農業政策が主要争点に浮上する中、

強固な保守地盤とされてきた東北の農村部で政党支持が流動化していることが、

河北新報社が行った農業者アンケートで分かった。

自民党への支持が5割強から3割に大幅に下がる一方、民主党は1割から2割に伸びた。

農業の将来に、6割を超す農業者が悲観的な見方をしており、

農政への不満が「自民離れ」に直結したとみられる。

 これまでの支持政党と、今回の参院選で支持する政党を尋ねたところ、

自民党は55.6%から30.0%へと、25.6ポイントの大幅な低下。一方、

民主党は10.6%から21.2%に上昇した。

参院選での支持を与野党別で見ると、与党が30.9%、野党が24.5%だった。

 「支持政党なし」は27.9%から16.5%に低下したが、

参院選での支持を「未定」と答えたのは26.5%に上った。

他の政党に大きな変動がないことから「自民離れ」の層は、民主党に移るか、

支持政党を決められないでいるとみられる。

 日本の農業の将来に関する見方は、約半数が「やや悲観的」(48.2%)と答え、

「絶望的」(18.2%)という回答と合わせると、

66.4%が将来に明るい展望を描けずにいる実態が浮き彫りになった。

「希望がある」は11.8%、「やや楽観的」は10.3%にとどまった。

 農業の将来について、年代別で見ると、

「やや楽観的」「希望がある」という前向きな答えは60代以上で13.2%だったが、

20―50代の合計は28.6%と倍以上に上った。「担い手」の30―40代に限ると、

前向きな見方がともに3割を超えた。年代が上がるほど、

農業の将来に悲観的な見方が強まる傾向がうかがえた。

 参院選への関心は「非常にある」が40.9%で最も多く、

「少しはある」(34.7%)と合わせると75.6%が関心を示した。

 参院選での支持政党との関係で関心度を見ると、

「非常にある」「少しはある」を足した割合は自民党支持層が71.6%、

民主党支持層は93.1%に上った。

記者による面接方式で実施した。340人から回答を得た。

県別内訳は青森30人、岩手35人、宮城151人、秋田52人、山形35人、

福島37人。男性268人、女性72人。

2007年07月15日日曜日

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皆さんの周辺ではどうなのだろうか。
△top
2007年7月14日(土) 慶喜の小心翼々
連休の初日である。

原稿の締め切りに追われ、連休は仕事場である。電話もこないし、

仕事をする環境としては最高である。

いま書いているのは、江戸無血開城の辺りである。

大阪から逃げ帰った慶喜はおろおろするばかりである。

戦争をする勇気はない。勝てはしないと思っている。

薩摩から来た篤姫と皇女和宮に泣き付いて助命を嘆願した。

朝敵なので和宮が慶喜に会わない。みっともないぐらい、頭を下げる。

とにかく女々しい。

一戦を交えて死ぬなどという覚悟は毛頭ない。

幕臣も気の毒だった。そんなことを書いている。

気になるのは高校野球、母校の一関一高は今日、登場、一回戦を突破した。

朝日新聞

母校は本命である。

13年ぶりの公立校優勝に期待が集まる。今春県大会、東北大会を制したのは県立の一関一。

盛岡大付、盛岡中央、花巻東、専大北上など私立強豪校が加わり、混戦が予想される。
 
一関一は春の県大会5試合3失点と投手力が光る。

140キロ近い速球と鋭いスライダーが武器の県内屈指の右腕・新沼を擁し、

2番手の菅原も成長。打線は小野寺勇、阿部を軸に力強い。
 
盛岡大付は昨秋、東北大会で8強。右下手の三浦は春の県大会こそ調子を落として打たれたが、

緩急をつけた投球が特徴。そつがない守り、下位まで穴のない打線など総合力は高い。
 
盛岡中央は春の県大会で、主力選手の大半を欠きつつも準優勝。

右腕品川と左腕畠山の継投が鍵を握る。昨夏の代表校・専大北上は今月1日、

不祥事から再スタートを切った。昨夏とメンバーが大幅に替わるが、優勝も十分狙える。
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2007年7月13日(金) 書評、白虎隊と二本松少年隊
戊辰戦争研究会、渋沢平九朗

遅ればせながら『白虎隊と二本松少年隊』拝読させて頂きました。

以前、「百姓の身なりをしてまで落ち延びるなど武士の恥」と記されている

ものを多く読んだ記憶があります。

確か、白虎隊自刃の十九士の一人にこの様なせりふを吐かせた物も有ったか

に思えます。

その時は私も「うん、うん、そうだな」などと想っていました。

そして、2002年に先生は、『白虎隊と会津武士道』の中で、自刃を免れ三日

三晩さまよい続けた白虎隊士が、山川大蔵に叱責された事や、塩川まで逃れ

田島で戦った“坂井峰次”などを挙げ、

〜ちょっとした判断の違いで生死を分けた部分があった。〜

〜伝えられている自刃の光景は多分に人の想像が含まれている。〜

とだけありました。

それは、長い間“忠義の自刃”のみが大きく取り上げられ、時には軍事教育、

時には観光・商業的に利用された白虎隊の歴史に対しての憤りなのだと勝

手に受け止めていました。

今回の『白虎隊と二本松少年隊』にて

生きる為に戦い、一矢報いる為に逃げ、走り抜く少年の姿と

〜(酒井)峰治の沈着冷静な態度は賞賛に値するものだった。〜

とのくだりが、先生の戦争に巻き込まれた少年たちに対する想いであり、前

作の答えなのだと痛切に感じました。

またこの本一冊で、なんの予備知識無くともかなりの部分、会津と戊辰戦

争の状況が把握出来るのではないかと思い、さっそく若い新選組ファンの友

人らに薦めます。

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ありがとうございます。

もいう一度、白虎隊を考える必要があると思います。
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2007年7月12日(木) Yahoo!みんなの政治
トップ > 政治記事読みくらべ > 週刊文春 > いまや「最後の安倍側近」 井上秘書官の痛々しい感じ

2007年7月12日

 今や「最後の安倍側近」と呼ばれる井上義行首相秘書官が、また失敗した。

赤城徳彦農水相の不明朗な事務所経費問題で、

入閣前にスキャンダルの有無を調べる井上氏の「身体検査」が、

まったく役に立っていないことが露呈したからだ。
 
安倍政権のつまずき始めは、本間正明・前政府税調会長が

公務員宿舎に愛人と入居していたスキャンダルだったが、

これも井上氏の「身体検査」ミス。いつも最悪のタイミングで

安倍晋三首相の足を引っ張っている。どちらも事実関係は公的書類でも分かるのに、

それも調べられないのだから絶望的だ。
 
高卒で旧国鉄入りし、機関士をしながら日大経済学部の通信課程を終えた苦労人。

国鉄民営化の人員整理に伴い、政府が引き取った再就職枠で旧総理府へ。

七年前、安倍官房副長官の知遇を得た。

「国家公務員の規則を破って密かに北朝鮮へ渡るなど、

安倍さんに絶対忠誠を尽くして信頼され、首相秘書官に抜擢された。

安倍夫妻が山梨県・河口湖の別荘にこもる時も同行し、

完全に『安倍家の使用人』状態」(全国紙官邸担当記者)

「命を賭けて安倍を守る」が口癖だが、いかんせん必要な知識、経験、人脈が皆無。

小泉政権を支えた飯島勲・前首相秘書官を見よう見まねでなぞるのだが、

永田町生活三十五年の飯島氏には及ぶべくもない。

「仕方なく、安倍首相が自分で飯島氏の携帯電話に相談や頼みごとをしている」

(同前)有り様だ。
 
飯島氏は政権の支持率維持のメディア対策として、テレビ記者を巧みに競わせた。

井上氏はこれを「メディアは選別して利用するもの」と思い込んだらしい。

大きな政策決定のたびに担当記者を集めて「総理の決断だ」と吹聴し、

そのまま書かない新聞記者には、個別に「どうして言った通り書かないんだ」

と執拗にすごむ。

 中途入閣した赤城農水相や渡辺喜美・行革担当相の人事は、本人たちより先に

「言うことを聞く」一部メディアにスクープさせ、「貸し」を作った気でいる。

浅はかなやり方が、結局はメディア全体の反感を買っているのに気付かないのだ。
 
口を開けば「安倍首相はすばらしい人」と褒めちぎる井上氏――。
 
底なしの勘違いぶりは、もはや痛々しい。

週刊文春(外部サイト)
7月19日号 THIS WEEK より

お前らはプロなんだぞ!5連敗で原監督決断、李承ヨプら二軍へ
7月12日8時1分配信 サンケイスポーツ

なるほどね。

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脅迫メールで元教諭逮捕=自民幹事長に「拳銃で襲撃」−織田信長ら名乗る・警視庁
7月12日15時31分配信 時事通信


 自民党の中川秀直幹事長あてに脅迫する電子メールが送り付けられた事件で、

警視庁捜査1課と麹町署は12日、脅迫の疑いで、茨城県城里町徳蔵、

元公立小学校教諭山口栄容疑者(64)を逮捕した。
 
同容疑者は「安倍(晋三)首相や中川幹事長が日本の政治を悪くしていると思い込んで、

頭にきて送った。自分一人で考えてやった」と供述しているという。

 調べによると、山口容疑者は6月29日から7月8日の間、

自宅のパソコンから中川幹事長のホームページに、織田信長らを名乗ったメールを5回送り、

「選挙期間中、身辺に気を付けろ。必ず刺されるぞ。拳銃で襲撃する」と脅迫した疑い。 

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分かるのがすごいですね、


△top
2007年7月11日(水) イチローがMVP,
ヤフーMLBオールスターゲーム2007 試合速報

イチロー

イチローがMVP、史上初のランニング本塁打 米大リーグ・オールスター
 
日本人選手3人が参加した米大リーグの第78回オールスター戦は

10日(日本時間11日)、サンフランシスコジャイアンツの本拠地

AT&Tパークで行われ、7年連続出場のイチロー(マリナーズ)は

ア・リーグの1番・中堅で先発出場。球宴史上初のランニング本塁打を放つなど

3打数3安打の活躍で日本人初のMVPに輝いた。(産経新聞)

スーパースタ-だね。

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中央公論8月号も本で知る戦争のすべてだった。

三笠宮、終戦秘話を語る
阿南惟幾の最期の姿、昭和天皇の孤独、母宮貞明皇后の思い出……。
昭和天皇の弟宮による初めての歴史的証言
工藤美代子

特集●
老後破綻社会
消えた年金、失われる介護
データ管理もできない年金。利潤追求企業の参入を許した介護。
この国の老後保障はまったくの幻想だった……


日本をニヒリズムに陥らせた
社会保険庁スキャンダル
松原隆一郎

〈宙に浮いた五〇〇〇万件より深刻な制度疲労〉
この改革案では年金は維持できない
西沢和彦
〈“コムスン追放”では何も解決しない〉
介護はすでに死んでいる
久坂部 羊
〈浮かび上がる介護制度のひずみ〉
高齢者に差す格差の影
服部万里子


特集●
本で知る戦争のすべて
平和を謳歌した戦後日本。だが、今後も戦禍を避けるには
戦争についてもっと知ることが必要だ。
複雑な国際関係を生き抜くための必読書110冊がここに


昭和の戦争を考える
加藤陽子

戦争責任論の筋道
小菅信子
開戦に至るプロセス
戸部良一

戦争終結という困難
村田晃嗣

兵士・庶民の記録 一ノ瀬俊也

小説が証言する真実 川村 湊
戦略の本質とは 野中郁次郎
核とその論理 佐瀬昌盛
「新しい戦争」のすがた 加藤 朗
経済が世界を動かす 阿部重夫
報道の限界と可能性 武田 徹


『世界の戦争ジョーク集』
悲劇と喜劇は同じ場所にある
早坂 隆
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2007年7月10日(火) 昭和の海軍
文芸春秋8月号の特集である。

これは非常に面白い、

8月号 / 7月10日発売 / 定価710円(本体676円)

私が注目したのは

昭和の海軍

エリート集団の栄光と失墜
半藤一利/秦 郁彦/戸高一成
福田和也/平間洋一

1 成功体験の驕りと呪縛
――東郷平八郎と加藤友三郎

2 人事を牛耳る皇族総長
――伏見宮博恭王

3 良識派は孤立する
――米内光政と井上成美

4 必敗の日米開戦をなぜ?
――永野修身と嶋田繁太郎

5 真珠湾とミッドウェーの錯誤
――山本五十六

6 戦艦大和とゼロ戦
――ソニー、松下への遺産

7 敵は米国よりも陸軍
――貴族主義とムラの論理

である、

文芸春秋8月号に「総力特集」として「昭和の海軍―エリート集団の栄光と失墜―」

が掲載されている。

「必敗の日米開戦をなぜ?」が私の目に留まった。

これは開戦当時の軍司令部総長永野修身と海軍大臣嶋繁太郎をめぐる対談である。

この二人があまりにも決断力に欠けたため、

なぜ開戦という大事な時期にこのような人物がトップに立ったのか

ということが話題になっている。

戸高さんの発言

“永野は国家の命運がかかった場面で、何かを決断したためしがありません。

南部仏印進駐に先立って、昭和十六年の七月、

御前会議で「南方進出のため対英米戦を辞せず」という帝国国策要綱が決まったとき、

周りに意見を求められても

「政府がそう決めたんだから仕方ないだろう」

とまるで他人事ですから。”

という記述からも解るように、当事者意識がまるでない。

また、嶋田繁太郎についても、

半藤さんの発言

“・・・嶋田も、開戦の二ヶ月前に海軍大臣に抜擢されるまで、

対米戦争にはかなり消極的でした。・・・ところが伏見宮に呼ばれて、

「お前を海軍大臣にする」と言われたら、

開戦論者である伏見宮にコロリとなびいて

「戦機を失うのは最もいかん」と豹変する。

宮様の言葉にはつねに従順だったといいます。”

とある。

結局、事なかれ主義者ばかりが裸の王様の下に集められ、

大多数が認識していた必敗の状況を主張できなかったのであろう。

嶋田の前任の及川海相も軍内部で暴走する開戦派「第一委員会」に

歯止めをかける強さがなかった。

開戦当時の日本軍は仮に意思があったとしても

指導力、カリスマ性のない名目トップを備えた集団だったのだろか。

明日に続く
△top
2007年7月9日(月) 東北ルネサンス計画/共生型の文明を提示したい
少し前だが、河北新報に次ぎのような社説が載っていました、

私も若干、関係することになりそうですので、東北芸術工科大(山形市)のすばらしい

取り組みをご紹介します。

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東北芸術工科大(山形市)は本年度から山形、仙台両市を拠点に

東北の埋もれた人や思想を掘り起こす「東北ルネサンス・プロジェクト」を始動させる。
 
芸術的創造活動によって、豊かな日本を取り戻す「芸術立国」を目指すという。

単なる「復興」にとどまらない、大胆で野心的な取り組みを期待したい。
 
1992年、公設民営方式で開学した芸工大は、

東北に根差した芸術とデザインの創造を追究してきた。

 とりわけ、99年に設立された東北文化研究センター(赤坂憲雄所長)は、

大自然との共生を特徴とする縄文文化を東北の基層文化と位置付け、

ユニークな研究活動を繰り広げてきた。

 今回、プロジェクトの名称を古典古代の文化復興を意味する

「ルネサンス」としたのは復古主義からではない。

危機にひんする現代文明を救う原理を縄文の知恵の中に求め、

「原東北」にもう一度光を当てることで新たな世界観を構築する―

との戦略が込められている。

 山形側では、東北ルネサンス会議やセミナーなどを開催。

運動を理念面で支えるとともに、地域遺産を掘り起こす雑誌

「東北遺産―あるく・みる・きく」の刊行などを予定している。

 仙台では同大仙台スクールを舞台にした「文芸復興」が主テーマ。

東北ゆかりの思想家、文学者を紹介する公開講座や、作家の熊谷達也氏らを講師に迎え

「小説家養成講座」「編集者養成講座」などを開く。

雑誌「東北文学」の刊行や「東北文学賞」の創設などを通して、若い才能も発掘する。

 今年、開湯1200年を迎えた山形県大蔵村肘折温泉でのプロジェクトは、

温泉街を丸ごと美術館にする。学生や卒業生、教官らの作品が至る所に展示され、

作家向けに滞在型の制作環境も整えていく。いわば湯治場を舞台にした「芸術村構想」だ。

 わたしたちは県庁所在地同士が隣接する全国的にも珍しい地勢条件を生かし

仙台、山形両市があらゆる回路で交流を拡大していくことが、

東北全体の底上げにつながると主張してきた。

 東北ルネサンス・プロジェクトは文化・学術面での仙山圏交流といえるが、

計画で仙台を「文化交流拠点」とした意味を真剣に考えてみる必要がある。
 
現状では東北学を究めようとしても、人文系の情報や人材のネットワークは

県ごとに寸断されてしまっている。

 仙台が山形を含めた東北全体を意識し、つなぐ役割を担っていくのでなければ、

ルネサンスの試みは早晩、水泡に帰すことになるだろう。

この点、プロジェクト推進委員会

(座長・藤井黎・前仙台市長)のコーディネート力が問われる。

 大和による征服史観で描かれ、自らの言葉で歴史を語り継ぐことを

許されてこなかった東北。だが、1万年のかなた、

縄文文化の豊(ほう)穣(じょう)さの中に、

東北発の新しい文明誕生につながるヒントが隠されている。
 
目指すべき方向は「汝(なんじ)の足元を深く掘れ、

そこに泉あり」とする赤坂所長の呼び掛けに、端的に表されている。

2007年06月28日木曜日 河北新報社説
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2007年7月8日(日) 戊辰戦争研究会に岐阜、長崎支部発足
戊辰戦争研究会では、新たに岐阜支部、長崎支部を設置、

岐阜支部長に朝比奈茂吉さん、

長崎支部長に斎藤一さんを発令しました。

来年は岐阜と長崎で集会が開かれると思います。

これで支部は関東、仙台、会津若松、白河とあわせ6支部になりました。

引き続き、新潟、栃木、千葉などの支部設置の検討を進めております。

だんだん全国ネットに近づいてきました。

支部長拝命 斉藤 一

支部長拝命あいがとうございます。

「長崎集結」めざし、会員の増強と地域とのふれあいを中心に活動していきたいと思います。

「長崎集結」でしかできないものを考えていきたいと思います。

皆さんのご協力をお願いいたします。

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戊辰戦争研究会、星 亮一の覚書

私はこの40年ほど戊辰戦争に向き合ってきた。

本の中で何度か述べたが、20代に会津若松で記者として過ごしたこと

自分の先祖が仙台藩の兵士として、この戦争に参戦していたの二つが動機だった。

会津若松で最初に白虎隊を聞いたとき、正直、疑問視する部分の方が多かった。

もっと違う選択肢はなかったのか、ということだった。

しかし徳川幕藩体制下におけるもっとも優秀であった会津藩の少年としては、

それは肯定されるべき行為であった。

私の戊辰戦争史観の根底には、悲惨な会津戦争があるが、そこから浮かびあがってくる

人間の残酷さ、集団的ないじめ、作り上げられた朝敵というレッテル、

国民すべてが、犯罪者として会津人をみて行く、虚構のシナリオが、

許しがたいということだった。

すくなくとも会津のサムライたちが京都で朝廷を守護してきたことは事実だった。

それが政治的カラクリによって朝敵になり、おかしいではないかと会津を支援した

仙台までもが、朝敵にされ、

「白河以北一山百文」と東北はある時期、差別された。

冗談じゃない。勝てば官軍の歴史に風穴を開けたい。

そう考えて戊辰戦争に取り組んできた。

ただし、私は会津と長州の対立をあおる立場ではない。

薩摩、長州の若者たちの爆発的なエネルギーには敬意を表しているし、

山口県には多くの友人もいる。

萩生まれの転勤族の人とは週1回はあっている。彼と話すと違う部分も見えてくる。

ではなにが問題なのか。

その時代の大人たちのいい加減さである。

ホリエモンはある時期、よってたかって時代の寵児ともてはやした。

警鐘を鳴らす人間は皆無に近かった。

ところが一転、極悪人である。この間の落差は何か。

依然として日本は成熟していない。国家の品格がないということだろう。

そのはしりが戊辰戦争であった。それが私の持論である。

では日本の近代国家の誕生をどう考えるか。それを否定するのか、いやそうではない。

これについてはいま「会津人が見た明治維新」を執筆し、問題を整理している。

最近、強く思うのは明治時代、賊軍といわれた人々の中から多くの改革者が現れ、

近代国家の建設に貢献した事実である。

ここから新明治国家論が生まれてくる。

そう考えている。

戊辰戦争研究会の会員は60人を超えた。

楽しく語りあいながら、大げさに言えば、日本、日本人を論じていきたいと、

会員の多くは考えている。

藤原正彦さんの「国家の品格」は昨年のベストセラーだった。

われわれの研究会も時代にあっているのではないかと思う。

自画自賛かも知れないが、

何もしないよりは、遥かにいい。

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今日のニュース

日本、敵地で初優勝=大場2失点完投、2年ぶり15度目V−日米大学野球

7月8日11時0分配信 時事通信

<赤城農相>事務所費 首相は問題ないとの認識、野党反発
 
赤城徳彦農相の事務所費問題について、安倍晋三首相は7日、

「農相はしっかり説明した」と述べ、問題はないとの認識を示した。

一方、野党各党は「自らの犯したことをしっかり反省するならば職を辞するべきだ」

(鳩山由紀夫民主党幹事長)などと一斉に辞任を要求。

野党側は、赤城農相が不明朗な事務所費問題を指摘された

(毎日新聞)

一方でこんなニュースも

日本の「富裕層」、147万人に…金融資産100万ドル超

7月7日20時10分配信 読売新聞


 100万ドル(約1億2300万円)以上の金融資産を持つ日本国内の「富裕層」が、

昨年1年間で5・1%増加し、147万人となったことが、

米証券大手のメリルリンチなどが実施した調査でわかった。

 増加率は、前年(4・7%)を上回った。富裕層は企業経営者が多いとみられ、

同社は「戦後最大の景気拡大が続き、ビジネス環境が好転したことが要因ではないか」

と分析している。

 世界全体の富裕層は、新興国の急成長を背景に8・3%増えて950万人に達した。

日本の富裕層はこのうち15・5%を占め、米国に次いで世界2位となっている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
実感がまったくないですね。
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2007年7月7日(土) 秋田県鹿角の民話
戊辰戦争研究会は今月28,29日、資料収集に鹿角に出かけます。

戊辰戦争研究会の目標は何か。

いろいろありますが、地域社会とのふれあいも大事だと思います。

鹿角は十人ぐらいの集会ですが、地元の研究者との意見の交換が楽しみです。

民話は鹿角市のホームページから拾ったものです。

「八郎太郎物語」

竜となる
 
昔、草木(くさぎ)の村の保田(ぼった)というところに、

八郎太郎と言う若者がいました。
 
17歳になった時には、身の丈6尺(1.8メートル)あまりで、鬼にも負けないくらい、

力の強い、りっぱな若者でした。
 
八郎太郎は、毎日毎日、遠くの岳やまを走りまわり、

級(まだ)の皮をはいだり鳥や獣をとって歩き、それを売って年をとった父母を養い、

村の人たちから、「ああ良い若者だなあ」とほめられていました。
 
ある時、八郎太郎は、三治(さんじ)と喜藤(きとう)という仲間の若者と3人で、

来満峠(らいまんとうげ)からずうっと奥山を越えて、奥入瀬(おいらせ)のあたりまで来て、

流れのそばに小屋をつくり、交代で炊事当番をやりながら、一生懸命、

級の皮はぎの仕事をしていました。
 
何日かたって、八郎太郎が炊事当番になりました。
 
水でも汲んでおこうかなと思い、川に行ってみると、

流れの中に岩魚(いわな)が3匹泳いでいるのが見えました。
 
八郎太郎は、3人で1匹づつ食べようと岩魚をとってきて、串に刺して焼きました。

 すると、その焼けるかおりの良いこと。がまん出来なくなって、

2人の仲間の戻ってくるのを待たないで、少しつまんで食べてみました。
 
すると、そのうまいこと。自分の分の1匹、ぺろっと食べてしまいました。
 
「おらぁ、今までこんなうまいもの食ったことねぇ。」て、

ひとり言しゃべりながら、知らず知らずに残った2匹も食べてしまいました。
 
すると、間もなく八郎太郎の喉が焼けるように渇いてきました。

 そばに汲んでおいた桶の水を一口飲んだけど渇きは止まりません。

桶の水を空にしてもますます喉は渇くばかり。
 
「あぁ、どうしたもんだ。死んでしまう。」て、川ぶちに行って、

川の流れに口をつけたまま飲みました。

飲みに飲んで日の暮れるまで休まず飲み続けました。
 
そして、ふっと顔を上げて、流れの水面を眺めた八郎太郎は、

「あっ」とびっくりしました。なんと八郎太郎は、大きな火の玉のような

真っ赤な目をした竜になっていたのです。
 
山から帰ってきた三治と喜藤もこのありさまを見て、

肝がつぶれるくらいびっくりしました。

「八郎太郎、どうした。まんつ小屋に行くべ。」と口々に言いましたが、

八郎太郎は、
 「もう俺はどこにも行けねえ体になってしまった。

魔性(ばけもの)になった俺は水から離れられないことになった。

これから、ここさ湖を作って主になるから、申し訳ねえども、

俺の笠とケラを家に届けてけろ。親たちさ、よろしくしゃべってけろ。」

 2人の仲間も、どうすることもできなくて、しかたなく、

「八郎太郎さらばだ。」と草木の村に帰って行きました。

 八郎太郎はとうとう、30余丈(約90メートル余)もある大きな竜になって、

十方の沢から流れる水をせきとめて十和田湖を作り、深い湖の底にすむ主となりました。

 今から何千年も前の昔のことです。

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民話にひたっていたら、すごいニュースが流れた。


北の新型ミサイル、実戦配備段階へ=「韓国標的」と懸念−米国防当局

7月7日12時1分配信 時事通信

【ワシントン6日時事】北朝鮮が新型短距離ミサイルの実戦配備を進めつつあると

米国防当局が判断していることが6日、明らかになった。国防総省によると、

同省のローレス特別顧問(前アジア・太平洋担当国防副次官)が記者団に語った。
 
ローレス顧問は、北朝鮮が最近、立て続けに実施した

、実戦段階に入ろうとしていると指摘。現在、大量に配備されつつあり、

120〜140キロの射程から判断すれば、

「韓国を標的にしている」との懸念を持っていると言明した。 

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日本はどうなるのか。-

現実論を展開しないと、いずれ日本はなくなるかもしれない。
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2007年7月6日(金) Yahoo!みんなの政治 新潟県知事の発言
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「地方分権で魅力的なエリアづくり−地域経営は自立できるのか」

2007年7月5日

「金の卵を産む鶏を育てたい」、私は就任以来そう思ってきました。

地方の自立を考えた時、一番肌身で感じるのは地方は働く場、

中でも本社機能を持つ企業が少ないことです。意思決定は大都市の本社でなされ、

また、官庁の中央集権的構造が続く限り、地方に本社を持てません。

アメリカを見てください。マイクロソフトの本社はシアトル、

ボーイングの本社もシアトルです。ハリウッドもロサンゼルスにあるわけだし、

その周辺でさまざまなベンチャー企業が生まれています。

それは国の規制が日本のように強くないから、それぞれの地域で本社機能を持てるわけです。

そうなると、働く場が地方にできる可能性が出てきます。
 
例えば、サンフランシスコで生まれた人が、大学を出た後に

東海岸目指してニューヨークへ行きたいとみんな思っているかというと、

そんなことはありません。ところが、残念ながら、日本では、

地方で生まれ育って教育を受けた多くの人は東京を目指しています。

そこで、2LDKぐらいのマンションしか持てず、

子供も合計特殊出生率が1を割るということになってしまっています。

それでは日本全体が不幸だと思います。
 
親子3代、笑顔で過ごせるような地域づくりを目指して、

教育、医療、福祉など多方面にわたる施策をやろうと思えば、

税収を自分で稼がなければなりません。それができるような魅力的な地域にするために、

分権を進めた上で企業から選んでもらえるような環境をつくっていく必要があります。

多少、国からいろいろな制約がかかっていても、

自治体で直せるものは直せるように努力すべきだと思います。

条例と政省令では、政省令の方が上と言われると、もうどうしようもないのですが、

なるべく規制緩和を進める特区を使っていくなどして、

地域の中で働く場をつくっていくことが重要ではないかと思います。
 
経営にはビジョンやそれを実現するための戦略が必要です。

これからの新潟について考えたとき、私が注目しているのは健康サービス産業です。

アメリカのミネソタ州にメイヨークリニックがありますが、

最高の医療を受けるため人口9万人の町で40万人ぐらい人がやって来ます。

ここに行くと命が助かるからです。夜になれば氷点下20度、30度になる町ですが、

そこには医療関連の機能が集積し、地域経営の一つの成功例だと思います。
 
「日本列島改造論」の中に、魚沼地域の浦佐駅の辺りに新幹線で

首都圏と1時間でつながるという前提で学園都市構想がありました。

いま、ここには、メディカル系の北里大学保健衛生専門学院があり、

世界とつながる国際大学があります。私はこの構想にもう一度光を当てたいと考えています。

首都圏と1時間でつながっていて、都会で同様のサービスを受けるよりコストが低く、

病院機能と直結して、温泉も日本で3番目に多い。

最先端と最素朴が融合できる場所はそんなにありません。
 
一方で、日本海の広さは、ちょうどアメリカの五大湖と同じぐらいですから、

新潟を基点に産業集積が起きても全然不思議ではないのです。

新潟は日本海に面した最大の港で極東ロシア圏とつながり、

らにシベリアランドブリッジを使えば船で一か月かかるものが十数日で

ヨーロッパと結びつきます。また、これからの重要地域としての

中国東北部から最短距離にあります。したがって、

潟が日本海のゲートウエーを目指していくというのは重要な基本戦略です。

ちなみに今、毎年10%前後伸びている新潟港のコンテナ貨物取扱量は

日本海側の港ではトップですし、韓国の束草とロシアのザルビノと

新潟を結ぶ定期航路も開設される予定です。
 
マクロでとらえれば、極東ロシア、中国、それからシベリア鉄道を通じて

ヨーロッパとの交易が想定されます。時間距離も含めて、

経済発展をしている地域との距離感で新潟は比較優位にあるという認識の下で、

その途中に新潟の奥座敷、かつ首都圏の奥座敷の学園都市、

医療メディカルタウンなどが同時に出てくるということになると、

新潟の位置付けは相当変わってくるのではないかと思っています。
 
地方分権というのは結局は、

一番身近なところでものごとが決められるようにしていくことであり、

そうした中で地域が競い、日本全体が良くなっていくのではないかと私は思うわけです。
 
私は庁内との関係では、基本的には方向を出した後のやり方は任すというタイプです。

一方、県民との関係では、21世紀型の行政は情報の交差点になれるのかどうか

ということが勝負だと思います。権限とお金で縛る情報は、質の悪いものしか来ません。

正規の情報のやりとりのほかに、ダイレクトで来る情報があります。

オープンディスカッションでは気恥ずかしいという人もDMで提案があり、

また、その中からさらに議論を進めていくというような情報の結節点に

頼られる行政、愛される新潟県庁をつくっていくと言っていますが、

それは情報の結節点になれということです。
 
権限とか予算で縛りつけた情報で行政をやる時代は20世紀のものでした。

そうではなく、いかに県民、市民、住民の皆さんが、

新潟県庁に相談するといいことがあるねという形で、ポストを離れても相談され、

追っかけられるような情報の交差点になるような行政を実現したいと思っています。

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すばらしいですね、

戊辰戦争研究会では8月、25,26 日、新潟県長岡市で、研究集会を開きます。

新潟のよさを満喫したいと思います。
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2007年7月5日(木) 「戊辰戦争研究」を発刊
私の私的なページ、「戊辰戦争研究」を近々、星亮一オフイシャルサイト内に発刊します。

私の作品の掲載、全国の戊辰戦争研究の動向、研究者の声などを収録します。

書評も行います。

本をなかなか読んでもらえない。そこで、このページに掲載する。それが基本です。

更新は週1回ぐらいでしょうか、

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ネット事典の記述を不適切引用、静岡新聞社がおわび記事

7月5日13時1分配信 読売新聞


 静岡新聞社(本社・静岡市駿河区)の論説委員が執筆した朝刊1面コラムで、

出典を明示しないままインターネットの百科事典「ウィキペディア」

の記述を引用していたことが5日、わかった。

 同社は、同日付の朝刊におわび記事を掲載した。

 同社によると、問題の記事は6月29日に掲載されたコラム「大自在」で、

28日に亡くなった宮沢喜一元首相を悼む内容。2か所の記述で、

ウィキペディアを参考にしたが、引用の出典を明示しなかった。

読者から文章が酷似しているという指摘があり、

論説委員は「このエピソードが広く知られていると思い込んだ」と引用の事実を認めた。

 同社は、論説委員をコラムの担当から外した。

過去の記事についても不適切な引用がないかを調査した上で、

「適正に処分する」としている。

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引用は気を付ける必要ありですね。
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2007年7月4日(水) 久間防衛相辞任>世論読み違え、傷口広げた首相
安倍晋三内閣

<久間防衛相辞任>世論読み違え、傷口広げた首相
 
久間章生防衛相が原爆投下を「しょうがない」と発言した問題は3日、

安倍晋三首相による擁護から一転、久間氏の辞任という参院選公示(12日)

を目前にした安倍政権にとって最悪の事態となった。首相は発言直後から

辞任の必要性はないとの立場だったが世論の反発は強く、年金記録漏れ問題に続き、

再び世論を読み違えた格好だ。対応が後手に回り、傷口を広げた首相。

任命責任が問われることで選挙戦のみならず、投票後の責任論議にも影響しそうだ。

(毎日新聞)

毎日新聞の記事は鋭い、

私にとっても大変、勉強になる問題だった。

原爆問題に関する日本国の取り組み方の弱点が露呈した。

現代史の研究者も曖昧にしてきた問題である。

ただし日本近現代史を専攻する私の立場は

少し異なる、

当時の日本国首脳が愚劣な本土決戦計画を止め、

沖縄敗退の段階で降伏していれば、

原爆の投下はなかったという事実がある。

太平洋戦争における日本政府の数々の失敗の一つが

原爆投下を招いたことだった。

その問題も考える必要がある。

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原爆投下の正当性、米核不拡散担当特使が強調
 
【ワシントン=大塚隆一】米国のロバート・ジョゼフ核不拡散担当特使

(前国務次官)は3日、国務省で行った記者会見で、広島、長崎への原爆投下について、

「さらに何百万人もの日本人が命を落としたであろう戦争を終わらせたという点に

大半の歴史家は同意すると思う」と述べ、改めて正当性を強調した。

(読売新聞)
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2007年7月3日(火) 久間防衛相辞任,後任は小池百合子補佐官
広島・長崎原爆

<久間防衛相辞任>原爆投下「しょうがない」発言で引責
 
久間章生防衛相は3日、首相官邸を訪ね、安倍晋三首相に対し、

閣僚を辞任する考えを伝えた。さきの原爆投下を「しょうがない」

とした発言に対する批判が与野党が広がっているため引責したとみられる。

(毎日新聞)

安倍総理もピンチですね。大体、久間さんはデリカシーがなかった。

野党の動き、世論の受けとり方を読めない政治家は

失格である。

安倍内閣、閣僚二人を失い、大変な事態である。

ところがである。

安倍総理も早い。

後任に小池百合子首相補佐官を任命した。

電撃人事である。
 
小池百合子首相補佐官は(54)、4日午後、認証式を行う。

これに国民はどう反応するかである。

ううん、小池さんの行動如何ですね。案外、いいかもしれない。

すぐ訪米することですね。
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今朝の河北新報の社説

東北大創立100年/重要度増す地域戦略

 国内で3番目の帝国大学として1907年に開学した東北大が6月、100周年を迎えた。

研究第一主義を標榜(ひょうぼう)し、世に送り出してきた人材と研究業績は

枚挙にいとまがない。時代を背負い、世界を視野に、学び究めてきた知の蓄積。

今後、大学を取り巻く環境は厳しさを増すだろうが、地域ニーズにも応え、

拠点性を高めていってもらいたい。

 2世紀目に入り、難題は数多い。まず、少子高齢化に伴う18歳人口の減少の下で、

いかに将来性のある学生を確保し、質の高い研究教育環境を提供していくかは

大学経営の根幹にかかわる最重要課題だろう。

 とりわけ東北地方は、若年層の大都市圏への流出が予想され、

「大学のM&A(合併・買収)」や「大学の倒産」が現実味を増している

数年前まで大学案内すら作っていなかった東大でさえ、地方の進学校を回り、

PRに力を入れている。東北大も各地で大学説明会を開き、対抗姿勢を強めているが、

並行して、東北の人材を流失させないという域内戦略も重要だろう。

 東北大の求心力が低下すれば、東北の他大学への影響も深刻化する。

これまで以上に学術研究機能を高めるとともに、東北での足場固めの観点から、

域内大学との連携強化なども促したい。

 産業経済のグロバール化に伴う課題も山積している。

日本は資源が乏しいゆえに、技術力によって世界の先端を走り続けてきた。

技術開発のテンポが狂えば、すぐに他国に追いつかれ、海外への技術移転、

すなわち空洞化が進んでしまう。そうした意味で

国内企業の競争力を下支えする大学の技術開発力が生命線だ。

 古くは「KS磁石鋼」という鉄鋼材料を発明し、

「世界の金研」の礎を築いた本多光太郎に始まり、

「八木・宇田アンテナ」によって電気通信分野に革命をもたらした八木秀次、

電子レンジなどで実用化されたマグネトロンを開発した岡部金治郎も東北大にいた。

 その独創の系譜は、光通信生みの親で首都大学学長の西澤潤一元総長や、

タンパク質の質量分析でノーベル化学賞を受賞した

現在も、材料科学、電気通信などの分野で先頭に立っているのは世界が認めている。

過去と現在に甘んじることなく、次世代を見据えた東北大発の技術開発に挑み続けてほしい。

 「世界リーディング・ユニバーシティー」。井上明久総長は今年4月、

東北大の将来像をこう表現し、進むべき針路を具体化させた

「井上プラン2007」を発表した。この中で特に、地域への貢献という要素から

(1)グローバルネットワークの構築による国際共同研究の推進

(2)産学官連携の共同研究開発の拠点となるサイエンスパークの整備(

 3)東北の高等教育研究機関のコンソーシアム化―などに注目したい。

 独立した法人になっても国立大の使命は不変。一層の門戸開放を進め、

地域社会に対する還元力を強めてもらいたい。

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東北大学は理科系が有名である。

でも文化もあるぞ、それも示さなければならない。

文学部OBとしてがんばらねばならない。




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2007年7月2日(月) 空虚な答弁目立つ安倍総理
安倍晋三内閣
ヘッドライン
<毎日世論調査>内閣不支持52% 森政権以来の5割超え
 
毎日新聞は6月30日〜7月1日、電話による全国世論調査を実施した。

安倍晋三内閣の支持率は前回5月調査と同じ32%だったが、

不支持率は8ポイント増の52%で昨年9月の発足以降最悪となった。

不支持が5割を超えたのは森喜朗内閣の01年2月以来。年金記録漏れ問題については、

74%が「参院選の投票の判断材料にする」と答え、主要争点となっていることを裏付けた。

問題に対する政府・与党の取り組みに対しては「評価しない」との回答が63%にのぼった。

(毎日新聞)

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なぜ人気ないのか。

安倍内閣には明るさがない。

官房長官、もんきり型で、個性がない。

久間さん、政治家としのセンスがない。

女性閣僚、印象が薄い。

スターが誰もいない。

これでは人気がた落ちである。

安倍さん、やはり軽い。内閣改造、必要だね。

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食べ物は国産がいいね。中国は恐すぎる

アンビリバボー!」醤油の材料に頭髪?食品加工の驚くべき実態―中国
7月2日8時39分配信 Record China

2007年6月30日、中国で悪質な食品加工工場180か所が摘発されたと海外メディアが報じた。

使用禁止の化学薬品や添加物が菓子、粉ミルク、海産物、調味料などから検出されたという。

2007年6月30日、中国の食品監督部門が行なった一斉調査で、

180か所の食品加工工場に重大な違法行為があったとして、

工場閉鎖命令が出された、と海外メディアが報道した。

これらの工場では、中国では使用が禁止されている添加物や化学薬品を使用しており、

菓子や粉ミルク、海産物、調味料などから有害物質が検出されている。

とてもにわかには信じられないことだが、香港の食品分析機関によると、

ある工場では大豆の代わりに人間の頭髪を使って醤油を生産していたという。

この頭髪醤油、味は大豆醤油と変わらないそうだが、

人間の頭髪には鉛をはじめとする有害な重金属が含まれており、

これを摂取することは人体に重大な危険を及ぼすと警告している。
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2007年7月1日(日) 久間防衛相発言をどう考えるか
久間防衛相発言を一斉批判=野党、原爆投下容認に罷免要求も

6月30日21時1分配信 時事通信


 久間章生防衛相が米国による広島、長崎への原子爆弾投下を「しょうがない」

と発言したことに対し、民主、共産、社民、国民新の野党4党幹部は30日、

「防衛相としてふさわしくない発言だ」(菅直人民主党代表代行)などと一斉に批判した。

社民党の福島瑞穂党首は談話を発表し、安倍晋三首相に防衛相の罷免を要求した。

 野党側は7月5日までの今国会会期中に与野党が合意した衆院決算委員会を開き、

首相や防衛相の見解をただす考え。参院選に向け、防衛相発言や首相の任命責任も追及し、

攻勢を強める構えだ。 

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これは単純には論じきれない問題を含んでいる。

日本の軍部は本土決戦をもくろんでいた。

米軍は本土決戦になった場合、何百万かの兵の死を覚悟しなければならなかった。

ソ連が日本に参戦し、北海道侵攻作戦が進行中だった。

そのさなかに原爆が投下された。

もし日本が原爆を所有していたらどうだったのか。

戦争とは何でもありで、人道主義など基本的にありえないという現実もある、

戦争で苦しむのは国民である。

広島、長崎の人々は黒焦げになって殺された。

どこから見ても米軍の勝利は間違いない。それなのに、なぜ原爆を使ったのか

これは日本人の感情であり、私もそう思う。

妖怪のような日本人をやっつけるには原爆しかない。

アメリカ人はそう考えた。

妖怪とは特攻機jのパイロットでる。それはもう人間ではなく妖怪と思われていた。

我々が考える以上に特攻機の威力はあった。米軍は恐怖だった。

戦争は際限なく人間を異常にしていった。

戦争を廃絶するしか方法はない。



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久間大臣、発言を修正

 [東京 1日 ロイター] 久間章生防衛相は1日、フジテレビの報道番組で、

第二次世界大戦での米国の原爆投下に関し

「原爆投下そのものは許せない」との認識を示した。
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