星亮一 今日の一言

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2007年2月28日(水)  二本松藩江戸上屋敷
つくしんぼう

首相官邸近くで発掘調査されている二本松藩の上屋敷跡
を保存する運動を先生主導で立ち上げて下さい。
二本松藩は賊軍だったので政府は保存に興味が
ないのでしょうか?このまま取り壊されるなんて
とても残念です。よろしくお願いします。

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という投稿がありました。

昨年暮れ、12月16日の福島民報の報道によると、

以下のような状況だった。今後どうなるのか、予断は許されないようである。

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二本松藩の上屋敷跡保存を/新衆院議員会館建設予定地で発見

 東京・永田町の新衆院議員会館の建設予定地から見つかった

二本松藩主・丹羽家の上屋敷跡を保存しようと15日、

福島県の三保恵一二本松市長、国会議員らによる

「江戸期、二本松丹羽家上屋敷文化財を生かす会」が発足した。

現地を初めて視察した三保市長は

「保存と継承、活用を国に訴えたい」と語った。

市が近く保存案をつくり、生かす会として国に要望活動を行うことを決めた。

 丹羽家が尾張(現愛知県)出身のことから、

尾張藩士末裔(まつえい)という民主党の河村たかし衆院議員(愛知1区)、

二本松中卒業の自民党の平沢勝栄衆院議員(東京17区)らが

呼び掛け人となった。

本県から自民党の佐藤剛男(比例東北)、

民主党の吉田泉(同)両衆院議員も入り、会員は計7人。
 
この日は三保市長、丹羽家第18代当主の丹羽長聰(ながとし)氏らが

現地で発掘調査現場を視察、遺物を確認した。
 
衆院第1議員会館で開いた生かす会の会合では、

江戸の都市空間の復元研究の専門家である日本工業大の

波多野純教授がカナダなどの事例を紹介し、

「建物を建てても地下の遺構を保存してそのまま見学させることは可能」

などと説明。上屋敷跡について

「上下水道の保存状態が良く、江戸の都市問題を研究する上で興味深い。

都心でこれだけの遺構が見つかるのは貴重」と話し、

積極的に保存すべきとした。

 三保市長、丹羽氏は遺跡の保存、活用を積極的に進めるよう

河村、佐藤両議員に要望書を手渡した。
 
発掘調査は都埋蔵文化財センターが担当し来年3月まで予定している。

担当者は「遺構がしっかりと残っているのは珍しい」としたが、

「保存すべきかどうかは、さらに調査が必要」と語った。
 
現地には地上12階、地下5階の衆院議員会館2棟、

参院議員会館1棟が建設される予定。総事業費は約1100億円。

整備を担当する衆院事務局広報課の担当者は

発掘調査の結果が出ないと今後のことは分からないとしている。

[丹羽家上屋敷]
 遺跡名は溜池遺跡。1633年に白河藩主時代の丹羽長重が中屋敷として拝領、

1668年にはその後移った二本松藩の上屋敷となり幕末まで続いた。

遺構は建物跡、地下室、土杭(どこう)、井戸など。

陶磁器、土器、荷札、げた、漆器などが出土した。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

と報道されていた。

しかしどうなるか、楽観は許されないでしょう、

わたくしも注目してゆきます。

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夕方、戊辰戦争研究会、西郷頼母さんから最新情報

東京・永田町の新衆院議員会館の建設予定地、見ています。

 工事は着工の動きをし、機材重機などが 入って

 調査共々の工程が 隙間から垣間見れましたが…。

あれだけの超一等地、遺跡として保存するだけの

 場所的価値が有るかどうか。

 二本松藩邸跡、と聴けば個人的には「とっておけ」と思うのですが
 
議員会館としての立地、地場の価値

簡単には 保存の動きには向かわないと思います。
 
日本の中枢が近代の遺跡に場所を割けるほど、この国今余裕無いですね。

 思い切って仏国 パリの「クリュニ−美術館」のように
 
地下部分公開遺跡にして一般に開放し 
 
 議員会館も地上1階までが

 藩邸跡地・衆議院博物館、それ以上の階が 議員会館としては?(苦笑)

 まあ、セキュリティ上無茶とはわかっています。
 
ある程度ユ−モアもある、立体的な議員会館、見てみたいですね。

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貴重なご意見です。
△top
2007年2月27日(火) 丸森町クラインガルデンの反応
戊辰戦争研究会、千葉の西郷さん

宮城県丸森町クラインガルデンですね。

のんびり滞在して、農作業に精を出す…。 これはいいですね。
 
広さと料金も丁度だし、

何より 街中で 仕事や時間に追われガヤガヤ暮らしていますと

音もなく、時計も無い 

降り積もるような時だけを過ごしてみたくなります。

 土に触ると言うのが一番ですね、身体にも心にもいい。

自分で丹精込めた作物を食せば、

食べる事の本当の有り難味に納得できるか

もしれません。

「食育」なんて口先だけで言っても 

目の当たりにしなきゃ わからないで

すもの。

千葉からはちょっと遠いですが 機会を作って是非訪れてみようと思います

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まるもり水と緑の百貨店設立準備室、

もんぺしつちょう

星せんせい

創造センターにお寄りくださりありがとうございました。

百貨店は4月に仮の事務所でオープンして、秋ごろに中心市街地に

総合案内所をかまえるべく準備しています。

新しいものを生みだすのにはエネルギーが必要ですが、いま費やした

時間やエネルギーがいい流れを生み出せばと、熱も入ります。

これからもどうぞ応援していてください。

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もんぺしつちょうこと早川真理さんのメールです。

丸森に行ったら必ず寄らせていただきます。

丸森は歴史の宝庫でもあります。

わたくしが主宰する戊辰戦争研究会、

旗巻峠の古戦場もあるし、武家屋敷もある。

丸森で仙台支部の集会を開くのもいいなあと思います、

そのときは皆さんと共同で、水とみどりと歴史の

討論会を開きましょう。

仙台の寒河江支部長に相談しなければ。

彼は行動力抜群です。何か考えてくれるでしょう。

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寒河江支部長からの返信

丸森は先生のルーツでもありますし、相馬の押さえもありますから

仙台支部としては重要な地として認識しております。

有志を募り参りましょう。

玉虫復権運動、各地で講演していくというのは大事ですね。

やりましょう。
△top
2007年2月26日(月) 丸森、水と緑のクラインガルデン
昨日、今日と宮城県丸森町に出かけていた。

ここはわが家のルーツの場所である。

先祖が何代にもわたって、ここで暮らしてきた。

今回、出かけてびっくり、クラインガルデンという

滞在型の休憩小屋付き市民農園が出来ていた。

クラインガルデンとは一体何か。

これはドイツ語である。直訳すると小さな庭、

という市民農園である。

丸森町の場合、ここに管理小屋がついていて、

週末にここに滞在しながら

ゆっくり、のんびりと、農作業を楽しむのである。

東北初の試みとして、2000年春に、

不動尊クラインガルデンが誕生、

あっという間に一杯になり、さらに筆甫地区に8棟の

コテージが誕生、管理棟までつけ、これも希望者が殺到した。

1区画あたり300平方メートルの土地に

51平方メートルのコテージと150平方メートルの

はたけがついている。

聞き間違いでなければ、利用料は月3万円、1年単位の使用で、

最長3年までりここに住める。

地域のひととの交流もあり、定住希望者には、また別の対応もあるらしい。

とにかく大変なものである。

丸森町ではグリーンツーリズムの綜合案内所

まるもり水と緑の百貨店の設立も準備している。

これは何か、

しつちょうの早川真理さんの説明だと、

いい農村風景、見ごたえのある観光地、おいしい食べ物、

あたたかくもてなしてくれる地域の住民、

購買よくをかき立てるお店、

それがバランスよく存在し、まさに人間性にあふれた

生活空間を創造するというのである。

とにかく丸森町を訪ねてみてください。見たならば、住みたくなること

間違いない。わたくしも考えたいものである。

詳しくは、

丸森町産業観光課

0224−72−3026

あるいは

まるもり水と緑の百貨店設立準備室、

電話0224−72−3028ヘ
△top
2007年2月25日(日) 現政権は薩長政府か
昨夜、首相補佐官の根本匠代議士と懇談した。

これは一般論としてのとらえ方だが、

小泉前総理は、幕府を倒した薩長の志士、

安倍政権は伊藤博文や山県有朋の明治新政府に匹敵する

といいう認識が自民党内にあると根本補佐官はおしゃった。

ええええ、

ちょっと待って下さいよ、

という声が当然、起こった。

東北、越後は、幕府と一緒のような印象を与えてしまう。

奥羽越後が結集した奥羽越列藩同盟は、何も旧幕府を

復活させるためのものではない、

東日本政権の樹立をねらったものだった。

日本初の平民宰相、盛岡出身の原敬は、

列藩同盟の思想は、薩長政権の思想に、

決して劣るものではなく、

日本国の将来を見通した場合、

むしろまさっていた部分があったと看破した、

小泉薩長志士論には、全面賛成をしかねるのである。

原敬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原 敬(はら たかし、生い立ち

原敬は、1856(安政3)年2月9日、盛岡藩盛岡城外「本宮村」

(現在の盛岡市本宮)で盛岡藩士 原直治の次男として生まれた。

後に「平民宰相」と呼ばれた原は、

実は祖父・直記が家老職にあったほどの上級士族の家柄だが、

20歳のときに分家して戸主となり、平民籍に編入された。

彼は家柄についての誇りが強くいつの場合も

みずからを卑しくするような言動をとったことがなかった。

また、後年、号を「一山」あるいは「逸山」と称したが、

それは原の薩長藩閥への根深い対抗心を窺わせる。

戊辰戦争で「朝敵」となった東北諸藩の出身者が、

「白河以北一山百文」と薩長出身者から嘲笑、

侮蔑されたことへの反発に基づいているからである。

(白河とは福島県白河市のことで、

古来より「白河関」がみちのくへの入り口であった)
△top
2007年2月24日(土) テレビ放送も決まる、反応ありました。
毎日、一言を書いているが、あまり反応がない。

無言がつらい。どんどん、主張をしてほしい。

と思っていたらテレビ局からインタビューを受けた。

反応があったのだ。

この日、昼に仕事場で福島放送の記者とカメラマンがお出でになった。

鳥羽伏見の戦争についての取材である。

来週の火曜日、夕方のニュ-スだという。

福島県内に鳥羽伏見の戦争の絵巻があり、それを解説した。

「鳥羽伏見の戦争とはなんですか」

「なぜ、会津藩は敗れたのか」

「白虎隊のことも取材したい」

などいろいろ質問を受けた。

夜、安倍内閣の根本補佐官を囲んで懇談した。

安倍内閣、学級崩壊が話題になっている。

朝の閣議の風景はバラバラだと言うのである。

首相補佐官の根本匠代議士は、わたくしが住む郡山の選出である。

そこで根本さんを招いて、わたくしが事務局を預かる

MBA21で「首相補佐官の日々」を聞いた。

「根本さん、どうなっているの、安倍総理、求心力がないんじゃない」

「美しい日本てなんですか」

「小泉さんが懐かしいという声もあるよ」

いろんな声がでた。

「安倍総理は戦後生まれの総理、なかなかの人物ですよ。大丈夫、

安倍内閣、頑張りますよ]

ということだった。

期待しましょう。
△top
2007年2月23日(金) 中公新書、会津落城4刷の意味
わたくしの執筆活動の原点は中公新書である。

17年前に「敗者の維新史」を出し、以後「奥羽越列藩同盟」

「幕末の会津藩」「会津落城」を出版することが出来た。

「敗者の維新史」は、確か6刷になり、現在は三修社の

「戊辰の内乱」に収録されている。会津藩士荒川類右衛門の明治日誌

を解説したもので、斗南での悲惨な生活を余すところなく描いた

大変な資料である。

「奥羽越列藩同盟」は7刷、4万部を越えている。

「幕末の会津藩」も重版である。

最新作が「会津落城」である。

4刷り2万5千部は大きい。中公新書だけで10万部を越える部数を

出させていただいた。

これが星亮一の作品のベースになっている。

小説も書いたことはあり、小説手法を取り入れた作品もあるが、

わたくしの専門はノンフイクションである。

これからも、新資料の発掘や新解釈を軸に

こうした流れの作品を書いてゆきたい。
△top
2007年2月22日(木) 白虎隊か奇兵隊か
人生、どちらを選ぼうかな。

先日、現代史家の秦郁彦さんを郡山にお迎えして、

仲間内で講演会を開いた。

秦さんは山口県の三田尻のご出身である。

いわゆる長州である。

「福島県に出かけるとなると白虎隊か、ううん」

とおっしゃった。

「ここは郡山ですから」

「そうはいってもね。会津の方もいるでしょう」

といった会話が事前にあった。長州も会津も相手を凄く意識する。

例の戊辰戦争のせいである。

講演のテーマは「検証戦争責任」である。

太平洋戦争がテーマであり、戊辰戦争ではない。

しかし冒頭、秦さんはおっしゃった。

「長州と会津が戦争したら、やっぱり長州が勝ちますよ」

最初からガーンと来た。

「そうでしょう、戦争は喧嘩ですよ。会津のサムライはインテリです。

日新舘で日々、勉強し、最高の道徳を身に付けていた。ところがですよ。

わが方は、勉強などまるでしていない。日々、喧嘩ばかりですよ。

勉強できる奴が負けるに決まっています」

これには、全員、納得というか、最初からガンとやられてしまった。

秦さんはうまい具合に会津を誉めたのである。

それはそれとして、わたくしも実は秦さんの説、もっともだと思う。

確かに会津のサムライは、「ならぬことはならぬ」で

戦争などトンでもないと教えられてきた。

戦争になれば相手を斬らなければならない。

これはひどい矛盾だった。

現代の社会はどちらかといえば

長州型であろう。一途な会津型は、融通がきかないと、

格差をつけられてしまうかもしれない。

しかしいま最も大事なのは、一途な真面目さである。

長い目でみれば、白虎隊ではないかと

わたくしは思っている。白虎隊も酒井峰治のように

冷静な判断で城に戻った少年もいる。

わたくしは、いまあらたに

「白虎隊と二本松少年隊」

を書いている。多彩な少年がそこに登場する。

白虎隊か奇兵隊かー

これは意見の分かれるところだが、大事な問題である。

皆さんのご意見も伺いたい。
△top
2007年2月21日(水) 今朝の朝日新聞、民意は読めぬ
福島県を舞台に、選挙の様変わり、自民党の喪失感が描かれている。

なぜか。ご承知のように福島県政の大失政である。

前知事が逮捕され、自民党の県会議員も同じ穴のむじなだった。

だれも政党、特に自民党を信じない。

どうなるのか福島県の政冶、それが論じられていた。

朝日の報道にあるように、福島県に自民党は崩壊してしまった。

原因は前知事の収賄容疑にからむ談合事件である。

一体、県議会はなにを監視していたのか、ただ前知事に

迎合していただけではないのか、

県民の政治不信は頂点に達し、選挙があっても投票には行かず、

自民党と聞いただけで、身震いしている。

参議院の補選にも自民党は候補者もおらず、

だれに頼んでも今回は遠慮すると逃げられている。

郡山選出の衆院議員は首相補佐官の根本匠氏である。

新年会に2500人を集めたが、参議院の候補者はおらず、

中川幹事長が福島県の自民党関係者を怒鳴りつけたとも

朝日新聞は書いている。

福島県の政治意識はいま最悪である。

原子力行政に噛み付いていた前知事の

政冶が、問題多々あり、専制君主と化し、

県議会は、何らの機能も失い

その結果が談合、収賄容疑、あるいは公選法違反だった。

郡山市民は「選挙難民だ」と嘆いていると、朝日は報じた。

あああ、宮崎県がうらやましい。昨今の福島県民の

偽らざる声である。

現知事は、あの渡部恒三代議士の一族である。

庶民的で面倒見のいい人で、

秘書時代、「ユーヘイさん」あるいは、「ユーヘイくん」と

市町村長から可愛がられた人物である。

わたくしも「ユーヘイさん」からご指導をいただいた時期がある。

腰を低くして実に頑張っているが、そのまんま東にはかなわない。

福島県民の虚脱感は何時まで続くのか、

何か妙案はないものだろうか。

もはや神だのみの心境である。

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時事通信

宮崎県政

「闊達な議論を」と余裕も=初の議会代表質問に−東国原宮崎知事
 
宮崎県の東国原英夫知事にとって、

初めて議員から質疑の洗礼を浴びる代表質問が21日、

同県議会で始まった。知事は

「議会では闊達(かったつ)な議論がなされるべきだ」

として、これまでの「一括質問」から「一問一答」

への変更を提案するなど、「オール野党」の議会運営に

余裕の表情を見せた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
うらやましいですね
△top
2007年2月20日(火) もう二十日か
早い、早い

毎日が早すぎる。2月も20日と聞いて、改めて愕然とする。

なぜ早く感じてしまうのか。

それは多分、日々、追いまくられているせいではないかとい思う。

いま「白虎隊と二本松少年隊」の校正を行なっている。

そこに今日、ドンと「山本五十六と山口多聞」の校正が送られてきた。

結構なボリュームである。仕事はこれだけではない。

北越戦争の原稿も書いている。

北越戦争をもう一度、見直そうと考え、新たな視点から分析している。

長岡藩の河井継之助の本音はどこにあったのか。

会津藩は長岡藩をどう見ていたか。

どんな働きかけを行なっていたのか。

見直す問題が多々ある。河井の美学の再検討である。

こうした日々を過ごしていると、あああ、時間が足りない、

もう20日かとなるわけである。

いまの社会は複雑多岐な時代である。二つ、三つの仕事を

うまく乗り切ることが出来ないと、適応できない部分がある。

これを乗り切るコツは睡眠と気力である。

睡眠さえ十分にとり、やるんだという気力さえあれば、

この程度の仕事はこなせるものである。

3月にはいれば、少しは楽になるかな。

そんな思いで日々、過ごしている。

今週は24日が勉強会、25日が宮城県丸森町で集まりがある。

仙台から父の生家に疎開したとき、学んだ小学校の同級会である。

ここには両親の墓があるので、墓参りもしてきたい。

父親一族の墓地の背後には、かつての主人、

戊辰戦争を戦った仙台藩大隊長、佐藤宮内の墓もある。

そこにも焼香しなければなるまい。

気分一新、また頑張るためである。

追伸

今日あさかの大学で講演し、

4月から郡山自由大学で、

星亮一の文章講座を開くと発表したら

1人、希望者があった。

15人前後、ゼミ形式で講座を開きたい。
△top
2007年2月19日(月) あさかの大学
いま各地で、高齢者や子育てを終わった主婦を対象に、

生きがいを模索する講座が花盛りである。

わたくし自身、郡山自由大学を立ち上げ、

年間4回、28回の講座を開いている。

歴史、文学、絵画、音楽、ライフデザインと

講師の顔ぶれも講座の中身も多彩である。

4月からは郡山自由大学の並木キャンパスで、

星亮一の文章講座を立ち上げる。

定員は10人ぐらい、文章の作り方を徹底的にコーチする。

そのほかに、郡山市の中心部で、40代以上の男女を対象に

ライフクリエート講座を開設する。

男女共同参画、地域貢献、定年後の人生設計、

さまざまな講座である、目下、講師募集中である。

さて、あさかの大学というのは

郡山市がたちあげた老人大学である。

わたくしは明日、そこではじめて講義する。

演題が戊辰戦争あれこれ

時間は2時間である。30分は質疑にあてたいと思う、

明日のレジメ

1、幕末の日本 尊王攘夷

2、幕府・会津対薩摩・長州の対立構造

3、戊辰戦争の勃発

4、官軍、賊軍の論理

5、白河以北一山百文
△top
2007年2月18日(日) 東北書店今週のベストセラー
18日付け福島民友新聞

1、刀語第二話 西尾維新 講談社

2、がばいばあちゃん 島田洋七 集英社

3、千の風になって 新井満 講談社

4、夜は短し歩けよ乙女 森見澄見 角川グループ

5、鈍感力 渡辺淳一 集英社

6、夢を与える 綿矢りさ 河出書房新社

7、図書館危機 有川浩 角川グル−プ

8、QED 高田崇史 講談社

9、最後の将軍徳川慶喜の無念 星亮一、遠藤由起子 光人社

10、きらきら研修医 織田うさこ 幻冬舎

徳川慶喜の無念、

9位は大善戦です。感謝申し上げます。
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2007年2月17日(土) 週刊誌を読む
書店で週刊新潮と文芸春秋を買ってきた。

たまには、読もうと思ったのである。

週刊新潮のトップ記事は、皇族接遇マニュアル。

お絞りから便器カバー、お茶の温度、迎える方は大変らしい。

そんなことが書いてあった。記事不足の印象も受けた。

「まさにお笑いである。タチの悪いヤクザに脅された側が、要求

された金額をどこまで払えばいいのか、当のヤクザもいれて

話し合っている」

という6カ国協議の記事は、歯切れがいい。新聞には出てこない

言葉使いである。本当にこれはどうなっているのか。さっぱり分からない。

あとは目を引いた記事はなんだろうなあ。

週刊文春

長島茂雄一家の悲しきタブー

へええと思った。昨夜のテレビかな、

長島茂雄が巨人のキャンプを訪ねていた。

片方の手は動かない。足も引きずっている。

本当に気の毒である。本人は元気そうだったが、

往年のスーパースターの面影はうすい。

その長島がひとりぐらしだというのである。

何かと事情があるのだろうが、寂しい話である。

この雑誌は読書欄が充実している。

文春図書館、著者は語るに熊谷達也「氷結の森」があった。

極寒のサハリンからシベリアに取材した長編である。

マタギを追いかけてゆくと、やはりここまで

出かけることになるのだろう。

うらやましいなあという思いながら読んだ。

季節は夏だったが、近くまで出かけたことがあり、

懐かしかった。

安倍総理、どうも評判が悪い。どこかにそんな記事も出ていた。
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2007年2月16日(金) 玉虫左太夫の傑作「航米日録」
これは玉虫左太夫の著書です。凄い記録です。

玉虫左太夫は、日本最初の国際的なジャーナリストだったのです。

 
まずは玉虫左太夫の略伝。

文政3年生まれ,24歳で脱藩,江戸に出る。

林大学頭の門に入り,外国奉行堀織部正に仕え,

東西蝦夷地を旅行,記録係りとして

「入北記」を記述、文才が認められ、

万延元年,外国奉行新見豊前守の従者,記録掛として訪米,

アメリカをつぶさに見聞、「航米日録」を執筆した。

玉虫が訪米したのは万延元(1860)年 正月18日である。

 安政5(1858)年日米両国間で締結された

修好通商条約の批准書交換のため、

正使として外国奉行新見豊前守正興等一行76人が渡米した。

本書はその際、外国奉行の随員として渡航した

玉虫左太夫の日記で、全7冊の写本である。

 内容は1月18日の江戸品川における米船ポーハタン(Powhatan)号

への乗船に始まり、サンフランシスコ、パナマを経由して

ワシントンに至り批准書を交換して以後大西洋、

アフリカ南端、インド洋をへてバタビヤ、香港に寄港し、

9月28日江戸築地に上陸するまでの日記体の紀行文である。

旅先の様子や航海中の経緯度、温度や気候状態、

動物、物価、貨幣、山川草木等々眼にふれた

珍しい事柄を細かく記録している。
 
万延元年の遣米使節記は、この他に大勢の人々によって記述され、

これまでに、数多く出版されているが、

それらの中でも本書は内容的にもっともすぐれたものである。

記述は豊かな感受性と,敏感な反応で,詳細に描かれ,同時代の

西洋見聞録ではずば抜けた分析力を持ち、そのこまやかな表現は,

読む人を驚かせる。例えば,

1,米国軍艦の艦長,水兵を観察し、

もっとも責任を持って業務を推進するのは艦長であると、

リーダーの資質の日米比較を行なっている。

2,礼儀作法もしっかりしており、夷人は劣等だとする

日本の概念の誤りを指摘する。

3、死者への尊敬崇拝、水兵の水葬を見学、

全員涙を流して死者を海に流す風景に感動する。

4、上下関係に人間的な愛情がある。日本は上下関係が冷酷である。

5、アメリカの文化、経済、政冶、防衛、

それらに対する分析は実に的確で鋭い。

6、日本人使節の品位のなさも指摘、

国際社会と日本人のあるべき姿も提案する。

7、留学生の派遣の提案も行なっている。

帰国後、仙台藩校養賢堂の副学頭として、

学生の教育に当たっていたとき、

戊辰戦争が起こり、奥羽越列藩同盟の参謀として活躍、

北方政権の樹立を夢見たが、敗れ、斬首された。

無念の生涯だった。

日本初のジャーナリストこそ玉虫であり、彼の記録は

時代を超えて永遠の輝きを持つものである。


今年後半、玉虫に取り組んで見たい。
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7位 昔夢会筆記?徳川慶喜公回想談 渋沢 栄一 平凡社

8位 徳川慶喜のすべて 新人物往来社

9位 徳川慶喜と血族 志茂田 景樹 KIBA BOOKS

10位 徳川慶喜〈5〉 山岡 荘八 講談社

「将軍徳川慶喜の無念」

4位は大健闘です。ありがとうございます。
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2007年2月14日(水) ぶらり散歩
今日は月東京である。

一日、古書店周りである。

なにを発掘できるか、

楽しみである。

この日、購入したもの

「連合艦隊の栄光と挫折」草鹿龍之介,行政通信社,昭和47年

「悲劇の南雲中将」松島慶三、徳間書店,昭和42年

「木戸孝允遺文集」続日本史籍協会叢書、昭和57年復刻

その他、2冊ほど
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2007年2月13日(火) 玉蟲左太夫の裔
戊辰戦争研究会は奥羽越列藩同盟参謀の仙台藩士、玉虫左太夫の復権と

銅像建設運動の展開を白石集会で提言しました。

これに関して左太夫の末裔の方から本日夕方、

下記のメールが入りました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

星様。はじめまして、玉蟲左太夫の一人娘虎婦の系統です。

貴サイトを見ますれば、左太夫の復権と銅像の建設運動を起こすとか。

大変に有難く感謝申し上げます。

ご存じの通り、仙台藩の戦後処理のまずさから、

家老二人の切腹で済んだところが、

鷲尾某と氏家某の讒訴により、

左太夫以下7人が揚屋前で斬首されてしまいました。

これは他の藩にはないことでした。

このようなことから、遺族の一部は仙台を離れ、

関東方面に暮すようになりました。それから…139年が経へ、

このような運動が東北で起こされようとは驚きでした。

私は現在老妻と年金暮らしのため、

皆さまにのお力にはなかなかなれないと

は思いますが、この運動には何らかの方法で、

かかわりたく存知ます。

この書き込みは娘夫婦のパソコンからでして、

自宅にはありません。

この打ち方も孫に教えてもらって打っています。

また娘夫婦の所にきました時にも、

貴サイトを見せて頂きたく思っています。

とりあえず、書き込みをしてみました。感謝いたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
驚きました。

このメールを見て絶対に復権運動を

しなければならないと、痛感しました。

しばらく時間をお貸しください。ともあれ最大の努力を

してみます。それから連絡先を教えていただけませんか。

娘さんのアドレスも教えていただけるとありがたい

のですが。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

午前中の書き込み

新聞がないと寂しい。

こういうときは雑誌を読むことにしている。

別冊正論、大東亜戦争、日本の主張

を読んでいる。注目すべき論考がいくつもあるが、

東条首相の孫、東条由布子さんの激白7時間に吸い込まれた。

東条と聞くと、戦争犯罪者というイメージである。

しかし、1度ここでも触れたが、東条は、

スターリン、ヒトラーなどの比べたら

律儀者の雇われ首相であった。近衛文麿という黒幕が後ろにいたが、

これも小心翼々であった。太平洋戦争の開戦時、

日本には実力者がいなかった。

すべてを天皇に頼る依頼心の強い国家だった。

孫の由布子は、東条英機宣誓供述書をとりあげ、

「天皇に責任なし、責任はわれにあり」

という祖父東条英機の勇気をたたえ、

日本は安全保障のいために戦ったと強調した。

つまりあの戦争は自衛のための戦争であり、

決して侵略戦争ではないというものだった。

この見解、基本的にはわたくしも賛成だが、

太平洋戦争のきっかけとなった日中戦争については

これは明らかに侵略戦争だった、

この辺が分けて考える必要がある。

先日、NHKが日中戦争、当時日本がシナ事変と呼んだ

南京周辺の戦争を取材して放送した。

日本陸軍は一気に攻めまくるといって、南京に向った、

ところが蒋介石がドイツ陸軍の指導を受け、近代装備の軍隊を編制、

不用意に攻め込んだ日本軍は、一部で壊滅的打撃を受けた。

ドイツは日本の同盟国である。商売は別と蒋介石に

顧問団を派遣、作戦指導を行い、日本軍の前に立ちはだかった。

ドイツはやることが汚かった、日本はドイツに裏切られ、

泥沼の日中戦争となった。中国となぜ和解をしなかったのか

これを進めておけば、日米戦争も回避できたかもしれない。

中国と戦いながら米国とも戦う。いくら自衛の戦争でも

はじめからボタンの掛け違いがあった。

東条英機はその辺をどう見たのか。負けた以上は、責任は免れない。

自衛という気持はわかるが、状況判断の悪さは指摘せざるを得ない。

東条は真面目な男だった。

ごみ箱をのぞいて歩いたぐらいである。

その真面目さが、日本に失敗をもたらした。

のらりくらりと、アメリカをじらせばよかった。

中国からいずれ撤退はするが時間がかかると、

結論を引き延ばす手はなかったものか。
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2007年2月12日(月) 感動と嵐の白石集会が終わり、パラオ戦記と白虎隊の校正である。
凄い二日間だった。

久しぶりに感動した。

それは白石市民の皆さんとの一体感である。

感動の嵐は本日の河北新報の宮城版と戊辰戦争研究会の

ホームページをご覧下さい。

さて、午後からは、パラオ戦記のまとめである。

硫黄島の前に玉砕したアンガウルとペリリューの決戦は、

特異な戦争だった。

ペリリューでは三十四人は戦後二年半も地下の洞窟にこもり

戦いを継続した。

日本は負けてはいない。そう信じて生き続けた。

グアム島の横井さんと同じである。

この原稿はあと二、三日で終わり、あとは

「白虎隊と二本松少年隊」

の校正である。この本には白虎隊記念館の協力により

白虎2番士中隊の酒井峰治の手記を収録する。

先月、久しぶりに白虎隊記念館の早川館長にお会いする機会があり、

白虎隊談義をした。

早川さんの『真説会津白虎隊』は大変、売れており、県内では

ベストセラーである。

東京で白虎隊について早川さんと対談か鼎談の企画も

進行している。会場は八重洲ブックセンターを予定している。

酒井峰治の手記は公表されおり、白虎隊記念館に行くと

だれでももらえる。テレビ朝日で紹介され、今回、一躍有名になった。

14日は東京にでかけ、

編集者の方々と今後の原稿について打ち合わせをする。

わたくしとしては、もう少し戊辰戦争を続けたいと考えている。

関東、北奥羽がテーマになろうか。

その意味で夏には三斗小屋とか秋田方面に取材旅行をするつもりである。

いい資料があったらご教示ください。
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2007年2月11日(日) 戊辰戦争研究会,白石集会終了
河北新報に掲載されたことで、大変な反響を呼び,

一般の方が100人も会場においでくださいました。

びっくり仰天,至急,発表の中身も切りかえて

対応させていただきました。

発表者が多かったこともあり、

質問の時間が取れないことがとても残念でした。

わたくしは東北の無念を訴えたのですが、

時間も足りず,こころ残りのことが多々ありました、

この集会の席上、当戊辰戦争研究会は

奥羽越列藩同盟の参謀を務めた

仙台藩士玉虫左太夫の復権を活動の大きな目標のひとつに

することを宣言しました。

玉虫は万延元年,日米修好通商条約の批准のために訪米した

日本国正使,新見豊前守の隋員として,

サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン

を歴訪,つぶさに米国を視察,今後の社会は

議会制をとりいれた共和政治だと看破したのです。

玉虫は東北に対する武力侵攻という薩長の横暴を怒り,

東北,越後初の政冶軍事結社,列藩同盟の設立に

尽力、薩長との戦いに突入したのです。

しかし,戦力の差はいかんともしがたく,列藩同盟は敗れ、

玉虫は自刃するのです。

その無念の思いを深く受け止め、銅像建設運動を展開することに

したのです。

この運動を今後,どのように進めるか

今後,つめる問題多々ありですが、

全力をあげて取り組んでいきたいと考えています。
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2007年2月10日(土) 戊辰戦争研究会、白石集会の朝
朝、少し雨が降った。

車で仕事場に向かうと、青空が見えた。まずまずの天気である。

午前中,原稿の整理をして、11時半の電車で白石に向かう。

わずか30分の距離である。12時過ぎにはついてしまう。

会場を見て、皆さんの到着を待つ。

発表会が始まれば、とんとんと進むだろう。

われわれの会は研究者の集まりではない。

研究者もいる。福島の庄司さんは奈良大学大学院卒の博士である。

専門はシリアの考古学、東京から参加の遠藤君、

昭和女子大大学院の博士課程、遠藤君も間もまく博士である。

しかし大半の方は歴史が好きで,好きでたまらないという,一般の人である。

わたくしもそのひとりである。

歴史とは自分たちの先祖の歩みである。

時には自分の歩みでもある。

特に戊辰戦争は曽祖父,あるいは4代前の話である。

わたくしの家は、両親ともに代々,宮城県の県南で暮らしてきた、

父親の生家は,宮城県丸森町、かつては小斎村といい,仙台藩重臣のひとり

戊辰戦争時の仙台藩大隊長、佐藤宮内の領地だった。

佐藤家は,戦国時代は現在の福島県いわき地方を治めた岩城氏の家臣で、

政宗の時代に伊達家に仕えた。

わたくしの先祖は、佐藤氏の家中としてついて歩いた。

戊辰戦争では主人に従い、白河口と相馬との国境

旗巻峠の戦いに参戦した。

母の実家は亘理である。亘理は白石の片倉小十郎と並ぶ、

政宗の腹臣、伊達藤五郎の領地である。

母の祖父は主人に従って旗巻峠に参戦した。わたくしにとって戊辰戦争は

先祖たちの戦争でもあった。

それぞれの人が,それぞれの地域の中で生活している。そして歴史と

つながっている。

今日はそうしたことを原点とした発表が行なわれるはずである。

午後2時開会である。

近隣の方,時間がありましたら、ぜひお出かけください。
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2007年2月9日(金) 明日、戊辰戦争研究会白石集会
今朝の河北新報に掲載され、メールや電話がかなりあった。

宮城県における河北新報の媒体力は抜群である。

おかげで明日は一般の方の参加がかなり見込めそうである。

取材してくださった河北新報白石支局に御礼申し上げたい。

明日の日程は下記の通り。

 2月10日(土) 14:00 開会
 会場、東北新幹線白石蔵王駅前、『ホテルパレスリゾート白石蔵王』

14:00       開場受付開始
14:10-14:20(10分)開会挨拶 星亮一
14:20-14:25( 5分)総合司会 寒河江昌英(事務局からのガイダンス)
14:30-14:45(15分)遠藤由紀子 ルポライター 戊辰戦争研究会会員
         「徳川慶喜と勝海舟」
14:50-15:10(20分)記念講演 清野俊太郎 白石市企画情報課長補佐 
         「奥羽越列藩同盟と白石城」
15:15-15:30(15分)庄司雅子      
         「世良修蔵と福島藩」
15:30-15:40(10分)休憩
15:40-15:55(15分)油井宏昭
         「南北戦争と戊辰戦争」 
16:00-16:15(15分)西郷頼母(ハンドルネーム) 戊辰戦争研究会会員
         「検証・戊辰市川船橋戦」 
16:20-16:35(15分)小名泰裕 戊辰戦争研究会会員、東京龍馬会会員
         「河井継之助の見果てぬ夢」 
16:35-16:45(10分)休憩
16:45-17:00(15分)寒河江 昌英 戊辰戦争研究会会員 事務局
         「仙台藩士の墓」    
17:05-17:25(20分)伊藤哲也 歴史研究家  
         「会津戦争と埋葬問題」 
17:30-18:00(30分)星亮一 作家 戊辰戦争研究会代表 
         「戊辰戦争研究の課題」、「研究発表講評」

参加費は無料です。
宿泊は懇親会費用含めて1万2千円前後
懇親会費は4、000円

11日(日)は白石史跡探訪
   
参考
東京11:08発 郡山12:32発 白石蔵王13:04着 JR新幹線Maxやまびこ113号
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2007年2月8日(木) 戊辰戦争研究会白石集会、明後日開催
イベントは準備が大変である。

翌日の観光に、関宿が入った。

山形と白石を結ぶ七ヶ宿街道の宿場である。

ここで会津藩と仙台藩の重要会談が行なわれ、

会津は恭順の意を表し、仙台藩に下駄を預けた。

これで東北の戦乱はさせられるはずだった、

ところが世良修蔵が拒否し、仙台藩士が世良を斬り、ついに

戦争になった。

そういう歴史的な宿場である。

福島の油井さんは、アメリカ留学の経験を踏まえて、

南北戦争と戊辰戦争を対比して発表する。

米国は南北戦争で大量の新兵器を登場させた。

T、M1855ライフル 撃鉄が雷管を強打して発射する。風雨でも発射できる。

2、後装銃用金属弾、

3、ヘンリーライフル、コルトM1885ライフル、

4、10ポンド施線前装砲、24ポンド臼砲、12ポンドナポレオン砲

5、ガトリング機関砲

日本に輸出

スネル兄弟、新潟に武器商会開設

1、オランダライフル銃

2、七連発式スペンサー騎銃、12連発スペンサー銃

3、先込めミニエー銃、アメリカ製シャープス銃

4、庄内の豪商本間家が大量購入、

5、米沢藩は生糸で決済

6、武器の優劣で決まる。

こうしたことを発表する。

明日も研究発表を紹介する。

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ゆう方、一般の方から電話があった。

「入場できますか」

「大歓迎です」

「懇親会にも出たいのですが」

「もちろん、いいですよ」

「泊まることも可能ですか」

「大丈夫です」

という会話を交わしました。

興味と関心を持つ方はぜひ会場にいらして下さい。
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2007年2月7日(水) 戊辰戦争研究会白石集会、3日後に迫る
研究発表のレジメがどんどん届いています。

福島市ふれあい歴史館の庄司さんのテーマは「世良修蔵と福島藩」です。

レジメは下記の通りです。


1.「鳥羽・伏見の戦い」ころ 慶応4年(1868)1月3日)
   *福島藩に、この戦いの知らせが届いたのは、1月9日朝だった。


2.仙台藩主だて伊達慶邦にあいづはん会津藩攻撃が命ぜられたころ (慶応4年1月15日)
   *福島藩は、幕府軍あるいは官軍、どちらにつくべきか決められないまま、流れにまかせ、どちらかというと官軍側にあった。


3.官軍が仙台藩領深谷宮古浜(塩釜)に上陸したころ (慶応4年3月)
 *福島藩は、奥羽ちんぶ鎮撫総督軍から会津藩討伐のための出兵を
命ぜられる。
   *奥羽鎮撫使たちを城内にてもてなすため、殿中の整備を行う。
   *仙台藩兵などが福島藩内に宿陣したため、市中は混雑する。
   *福島の農民や町民1500人余りが、生活困窮などから、
奥羽鎮撫総督軍に訴状を提出する。


4.世良修蔵、福島城下に突如、現れる!!  (慶応4年4月14日)
   *城内では、世良たちをもてなす席が用意される。このとき、
福島藩主・板倉氏の先祖が後水尾院から拝領した掛軸
「ご後水尾院宸筆わか和歌えいそう詠草」が飾られる。


*ちょうらくじ長楽寺(福島市舟場町)に「奥羽軍事局」が設置され、会津藩討伐に参加する仙台
藩や福島藩などの諸藩が詰める。
   *仙台、米沢、二本松、山形などの奥羽諸藩の重臣たちが白石城に参集し、会津藩の謝罪嘆願書を作成する。福島藩も参加。しかし、これは却下され、戦闘続行を命ぜられる。

5.世良修蔵、襲撃へ (慶応4年閏4月19日)
   *世良は、信頼する福島藩士・すずき鈴木六太郎、すぎさわ杉沢かく覚右衛門、   *この様子を見ていた仙台藩士・姉歯武之進は、杉沢・遠藤両人に世良暗殺の立会を説得する。
   *ついに、閏4月20日午前2時頃、仙台藩士6人、福島藩士2人は金沢屋にて世良を襲撃する。
   *夜明け近く、世良はあぶ阿武くまがわ隈川ほとり腰浜村あざ字下河原(現県教育会館近く)にて斬殺。その首は白石城にて仙台藩主伊達慶邦の首実検をうけた後、白石城外に埋められた。34歳の生涯だった。
*世良が暗殺された理由とは…

6.「奥羽越列藩同盟」成立! (慶応4年5月3日)
*閏4月23日、世良暗殺事件をきっかけに、奥羽越列藩の重臣たちが再び白石城に集まり、列藩同盟の結成を協議する。

<参考・引用文献>
『福島市史』近世U 第3巻(福島市教育委員会)1973年
『ふくしまの歴史3近世』(福島市教育委員会)2003年
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2007年2月6日(火) 戊辰戦争研究会、白石集会日程決まる
一般の方の参加も歓迎します。

集合場所 2月10日(土) 14:00 『ホテルパレスリゾート白石蔵王』

 現地のホテルです。時間厳守でお願いします。 

14:00       開場受付開始
14:10-14:20(10分)開会挨拶 星亮一氏
14:20-14:25( 5分)総合司会 寒河江さん(事務局からのガイダンス)
14:30-14:45(15分)遠藤由紀子氏 ルポライター 戊辰戦争研究会会員
         「徳川慶喜と勝海舟」
14:50-15:10(20分)記念講演 清野俊太郎氏 白石市企画情報課長補佐 
         「奥羽越列藩同盟と白石城」
15:15-15:30(15分)庄司雅子氏        
         「世良修蔵と福島藩」
15:30-15:40(10分)休憩
15:40-15:55(15分)油井宏昭氏
         「白石で戊辰戦争」 
16:00-16:15(15分)西郷頼母(ハンドルネーム)氏 戊辰戦争研究会会員
         「検証・戊辰市川船橋戦」 
16:20-16:35(15分)小名泰裕 戊辰戦争研究会会員、東京龍馬会会員
         「河井継之助の見果てぬ夢」 
16:35-16:45(10分)休憩
16:45-17:00(15分)寒河江 昌英氏 戊辰戦争研究会会員 事務局
         「仙台藩士の墓」    
17:05-17:25(20分)伊藤哲也氏 歴史研究家  
         「会津戦争と埋葬問題」 
17:30-18:00(30分)星亮一氏 作家 戊辰戦争研究会代表 
         「戊辰戦争研究の課題」、「研究発表講評」

 当日の開催場所と開催時間を記載しておきます。
戊辰戦争研究会新年会 予定
日程 2007年 2月10日(土)〜2月11日(日)
集合 14:00(時間厳守)『ホテルパレスリゾート白石蔵王』
宿泊 白石蔵王駅前『ホテルパレスリゾート白石蔵王』
費用 \10,000円から12、000程度(若干の変動はご容赦ください)
   内訳 宿泊代、11日史跡探訪バス代
予定 10日(土)発表会、11日(日)白石史跡探訪
   解散時間は未定

参考
東京11:08発 郡山12:32発 白石蔵王13:04着 JR新幹線Maxやまびこ113号
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2007年2月5日(月) 柳沢大臣、会津武士道で対処すべし
2月5日8時0分配信 産経新聞

 任期満了に伴う愛知県知事選と北九州市長選は4日投開票され、

愛知は無所属現職の神田真秋氏(55)=自民、公明推薦=が

接戦を制して3選を果たし、

北九州では無所属新人で元民主党衆院議員の北橋健治氏(53)=

民主、社民、国民新党推薦=が初当選した。

柳沢伯夫厚生労働相が女性を「産む機械」と発言した影響が

注目された両選挙で、野党側が予想以上に善戦したことは

今後の国会運営をはじめ4月の統一地方選、

夏の参院選に大きな影響を与えそうだ。

 柳沢厚労相は4日夜、辞任する意思はないと重ねて強調した。

しかし、与党が推薦する現職優勢の見方が強かった

愛知県知事選で野党に激しく追い上げられたことで、

参院を中心に与党内では更迭論が再燃しており、

安倍晋三首相は厳しい判断を迫られそうだ。

毎日新聞

柳沢厚労相>「クビつながった」政府・与党は続投の方針

2月5日11時9分配信 毎日新聞


 4日投開票の愛知県知事選、北九州市長選で与党推薦候補が

1勝1敗となった結果を受け、政府・与党は

「クビはつながった」(自民党幹部)として

柳沢伯夫厚生労働相を続投させる方針だ。

ただ、圧勝を期した愛知で与党推薦候補が

接戦に持ち込まれるなど「女性は産む機械」

言が投票結果に影響したとみられるだけに、

野党側は対決姿勢を崩していない。

展開次第で辞任論が再燃する可能性もある。
 
自民党国対幹部は5日朝、毎日新聞の取材に

「このまま突っ走るしかない。

ここで厚労相を辞めさせると内閣改造論に火がつき、

党内が混乱する」と擁護論を展開した。

政府筋も「責任論は出ない。(辞任論も)ない」と語った

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

これが今朝の新聞論調である。

しかし、わたくしは申し訳ないが、

柳沢さんの謝罪する姿はもう見たくはない。

一国の大臣がこうもペコペコ頭を下げる姿は

恥ずかしい限りである。もうだれも柳沢さんには

期待はしていない。

これをかばう安倍総理も

一国の総理としては見苦しい。

日本のために、柳沢さんは辞表を出すことではあるまいか、

柳沢さんもお疲れのご様子である、

休養されるのもいいのではなかろうか、

わたくしはそう思う。

これ以上、大臣の椅子にこだわると、

自民党は次期参院戦で、相当の票を減らすだろう。

柳沢さん、決断のときです。

ならぬことはならぬのです、

ここは会津武士道で対処してほしい。そうすれば

柳沢さんの大臣へのカムバックもありえるのです。

          
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2007年2月4日(日) 今日は日曜日、いろいろい考えています
『白虎隊と二本松少年隊』の原稿を書き上げ、今日夕方、

宅急便で東京の出版社に送る。

原稿が自分の手を離れるとほっとする。

午後は郡山自由大学に出かける。

これは社会人の教養講座である。

友人と八重洲の店長とわたくしの3人で開発した勉強の場である。

わたくしの担当は一昨日で、演題は「徳川慶喜の無念]だった。

今日は加藤貞仁さんの「幕末、戊辰さまざまな生き方」である。

加藤さんは前職が読売新聞記者、秋田の無明舎から多くの

本を出している。

夜は八重洲の店長と3人で一杯、飲むことにしている。

秋田にも戊辰戦争の研究者は多い。

今夜は加藤さんと相談し、秋田で戊辰戦争の研究会を

開くことを話し合うつもりである。

さて昨今、考えることは、

人間、いかに生きるかである。

そこで、ライフプランニングの講座を開こうと

考えている。

対象者は40代以上の人々である。もちろん若い人でもいい。

サラリーマンには定年がある。

定年を迎えた時、どう生きるかである。

それをみんなで討議しようという講座である。

郡山自由大学ライフプランニング講座、というわけである。

目下、講師募集中。一芸を持つ方、ぜひご応募ください。

ただし近隣の方ですね。

生徒も募集開始です。

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無明舎出版プロフィール
 無明舎出版の成り立ちは1972年(昭和47年)、秋田市にある秋田大学教育学部の前にできた十坪に満たない古本屋がスタートでした。大正時代に建ったという白い洋館風の一軒家を借り(家賃2万5千円)、一階が古本屋と喫茶室と四畳半の事務所、二階が子供たちに勉強を教える塾という布陣で、「古書・企画・出版・無明舎」という看板をかかげて産声を上げました。名前の中に企画とうたってあるのは舎主の安倍甲(あんばいこう)が学生当時からアンダーグランドの演劇や映画、市民運動の講演会などのプロデュースのまね事をしていたことからです。出版というのはタウン誌に毛の生えた程度のミニコミ誌を発行していたという理由からです。
 舎主の安倍は1949年秋田県湯沢市生まれで、秋田大学教育学部を中退後、無資本でボランテアの仲間たちの力を借り、無明舎を立ち上げました。
 1976年(昭和51年)、安倍が仕事の合間に取材執筆した『中島のてっちゃ』(秋田市の名物放浪芸人の半生をルポ)を自舎で出版、これを機会に出版専業の有限会社『無明舎出版』に改組しました。  1980年(昭和55年)、秋田大学医学部前に舎屋を建築、移転しました。
 この四半世紀の間、年間30〜40点の本を発行しつづけ、これまで600点の出版物を世に出してきました。 舎員は舎主を入れて男性のみ4人で、このメンバーは30年前に無明舎を立ち上げた時に関わった人間がそのまま残っているという骨とう品のような会社でもあります。 社是は「いばらず、卑屈にならず、ボチボチいこう」という情けないもので、舎名の由来もよく聞かれるのですが、舎主のいうことには「若気の至り。難しそうな名前だとエラくみえそうだったから」とのことです。ちなみに舎の平均年齢が五十になってしまった今、あらたに舎名を付けるとすれば「なかよし書房」か「こばと書院」といったあたりがいいそうです。
 新入社員を一切採らず、年々、年をとるばかりのローカル、ロートル、時代遅れの会社ですがどうぞよろしくお願いします。

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すばらしい出版社ですね。
応援します。
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2007年2月3日(土) 仙台対秋田
大人の社会の話である。

秋田市長も先人に敬意を表し、そういわねばならなかったのだろう、

大学時代、同級生に会津の男がいて、さんざん、いじめられた、

「それで随分、頭を下げました」

と秋田市長は懺悔した。

裏切というのは、日本の社会では実に厳しい。

二本松の人々は、三春に対して複雑な感情を抱いている。

裏切って攻めてきたからである。

長岡の人は新発田に、すっきりしない思いを抱いている。

ここも裏切って敵を新潟港に誘導した。

もう過去の話だ、いいではないか、

と思うのだが、「けしからん」といきまく人は結構、多い。

だから、三春の人は二本松を敬遠する。

日本は狭いので、引きずることになるのである。

その最大のものが会津と長州である。どうなるのか、

わたくしにも、まったく分からない。当分、

対立ムードは続きそうである。
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2007年2月2日(金) 白石集会記念講演
講師 清野俊太朗氏
白石市企画情報課長補佐

演題 奥羽越列藩同盟と白石城

これに関連した諸問題を論じます。
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白石というとわたくしには、強烈な思い出があります。

平成10年のことです。

秋田県の角館で戊辰戦争130年イン角館

というイベントがありました。わたくしも講師のひとりに選ばれ、

奥羽越列藩同盟のこころを語りました。

第2部で関係市長村長の討論会がありました。

司会が白石市長でした。なぜ司会か、列藩同盟の集まりが開かれたのは

白石であり、しばらく事務局がおかれたのです。

市長は冒頭、こういいました。

「戊辰戦争は本来、東北が勝つはずでした。なぜ負けたのか」

市長がそういって出席者を見渡したのです。

長州萩の市長、会津若松市長、秋田市長、などがおりました。

なにをいうのか、みな、かたずをのんで、白石市長を見つめたのです。

緊張の瞬間でした。

「それは秋田が裏切ったからです」

白石市長は厳しい顔で秋田市長を睨んだのです。

会場は一瞬、シーンと静まり返りました。冒頭で秋田は裏切を指摘され、

満座の中で糾弾されたからです。

秋田市長は顔色を変えました。

確かに秋田の裏切は、仙台人を激怒させるものでした。

仙台藩の使節団を全員、斬殺したのです。これはあるまじき

行為でした。

理由はともあれ、使節団を斬るというのは前代未聞のことでした。

その背後には薩摩の策略があったのです。

「使節など斬れ」

と若手の過激派をたき付け、彼らは宿舎に乱入して

仙台人を斬殺したのです。

仙台を引きずり出す工作でした。

仙台は白河に兵を出していました。秋田にも出すことに

なれば、兵力が分断され、薩長には好都合でした。

怒った仙台は秋田にも兵を送り、盛岡藩も秋田に宣戦を布告したのです。

薩長の思うつぼでした。

しばらく沈黙のあと秋田市長は反論したのです。

「秋田はどちらが勝つか冷静に分析したのです。

その結果、官軍についた方がいいと判断したわけです。

領民の幸せを考えれば当然でしょう」

それを聞いて会場は険悪な空気となりました。

仁義とか約束とか、そういうものはまったく関係ないのか。

秋田人はそういう種族だったのか。

みな、顔を見合わせたのです。

白石市長はワナワナと身を震わせ、あわや乱闘かと

思うほどでした。

さてどうなったと思いますか。

続きは明日です。
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2007年2月1日(木) 柳沢厚生労働大臣、おやめなさい
衆院予算委、厚労相問題で野党欠席のまま審議入り
2月1日13時50分配信 読売新聞

というわけで国会は大混乱している。

読売新聞の配信によると、

 衆院予算委員会は1日午前、民主党など全野党が欠席する中、

与党単独で2006年度補正予算案の実質審議に入ったという。

 民主党などは、女性を「子供を産む機械」に例えた

柳沢厚生労働相が辞任しない限り、審議に応じない方針だが、

与党は2日に補正予算案の衆院通過を図る構えだ。

与党内での辞任論は収まっておらず、

柳沢発言を巡る攻防は激しさを増している。

 与党側は委員会開会を遅らせ、民主党などに出席を呼びかけた。

共産党は委員会前の理事会には出席したが、

「不正常な状態で開会すべきではない」として、委員会を欠席した。

 自民党の二階俊博国会対策委員長は1日、河野衆院議長に会い、

「与党は厚労相の辞任を求めない方針で臨みたい」と伝えた。

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ということだが

この発言は弁解の余地がない。

あまりにもレベルが低すぎて論じるまでも なく最悪である。

国会議員の品性のなさ、教養のなさが

暴露してしまった発言だった。

柳沢さん、さっさとおやめになるべきです。そうしないと

自民党は参議院選挙で敗れてしまう。何時までも引きずらない

ことが大事だと思う。
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