星亮一 今日の一言

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2006年7月31日(月) 奥会津文化フオーラム、アンド雲井龍雄評伝4、岩淵恵
奥会津文化フオーラム
のお知らせ。

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北東文芸協会と戊辰戦争研究会の共催、福島県西会津町の協賛を得て10月21(土)、22

日(日)の両日、福島県西会津町の「ロータスイン」で奥会津文化フオーラムを開催します。

今年のメインテーマは、「士道」

集英社のヤングジャンプの協力をえて、ビッグ特別座談会、SIDOOH、士道を企画しています。

特別ゲストのほかに戊辰戦争研究会の有力メンバーが集い、士道とは何かを討論します。

いまの日本にもっとも必要なもの、それが、士道、つまり武士道です。

士道に生きた会津藩佐川官兵衛、長岡藩河井継之助、郡上藩朝比奈茂吉、

仙台藩細谷十太夫、村上藩鳥居三十郎らについて論じます。

また北東文芸協会企画の奥会津に生きる若者たち、

東北、越後の文学などの討論会もあります。

周辺の町村から大勢の人々が訪れるだろうと思います。

会場のロータスインは国道49号線の福島県と新潟県の県境近くの

豊かな自然の中にある保養施設です。

午前11時開会予定。

北東文芸賞の授賞式、受賞者の記念公演もあります。研究発表、一般公募もあります。

夜は、劇団鴉座による時代劇も在ります。

宿泊は北東文芸協会、戊辰戦争研究会の会員に限り双方の事務局で受け付けます。

一般の方は直接、下記のロータスインに申し込んでください。

土曜日ですので会員、一般ともに、はやめに申し込むようお願いします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
温泉健康保養センター・ロータスイン
〒969-4495 福島県耶麻郡西会津町登世島字下小島187
TEL 0241-45-2900
お問い合せ lotos@nct.ne.jp


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雲井龍雄評伝4、岩淵恵

凄い迫力、力作です。

四、三計塾

翌慶応元年(一八六六)、龍三郎二十二歳のとき、念願の江戸勤めとなる。

ともに江戸につかわされたのは千坂高雅等上級武士の子弟だった。

というより、龍三郎が千坂高雅の随員だったのである。

同じこの年、後に龍三郎、ひいては奥羽列藩同盟が相対することになる

「薩長同盟」が成立している。

龍三郎は江戸で、安井息件の「三計塾」に入る。

息件はその前年から幕府の学問所(しょうへいこう)に招かれているから、

三計塾というのは夜学のようなものであろうか。

今で言うならば、東京出張所に派遣された市の若手職員が

、日中の勤務の傍早稲田か慶応の二部に通うようなものである。

しかしはたして今、そのようなやる気のある市職員などいるのだろうか。

ところで、安井息件は鷹山公の実家秋月家が治める日向の出であるが、

鷹山が学んだ折衝学派ではなく古学派に属する人だった、

古学派とは仏教や老荘の影響を受ける前の純粋な儒教に立ち返ろうという学派で、

朱子学に近かったがややもすると原理主義的なものであった。

龍三郎のかたくななまでの潔癖さに、

いささかこの学派を学んだ影響があるのかもしれない。

共に学んだ仲かどうかははっきりしないが、安井息件の弟子に、

二人注目すべき人物がいる。一人は後の啓蒙思想家、中村敬宇(正直)である。

中村は慶応二年六月に英国に留学するとき、

息軒から著書を餞別に贈られたくらいの愛弟子である。

在塾時期が龍三郎と二ヶ月だけ重なっているが、もし会っていたら、

さぞや龍三郎と切磋琢磨したことであろう。

ところで中村はこの時龍三郎から米沢の上杉鷹山のことを聞き、

『代表的日本人』の内村鑑三と『武士道』の新渡戸稲造に伝えたのではないだろうか。

もう一人は後の外務大臣陸奥宗光である。仙台伊達藩出身の宗光は、

龍三郎と同じ年でもあり奥羽出身であるということで、

友人になりやすい状況にあったのではないだろうか。

しかし結果として宗光は坂本龍馬の海援隊に入り、

龍三郎とは道を異にするようになる。

慶応二年四月、二四歳の時、藩命により米沢に帰る。

一緒に江戸に出た千坂高雅は帰国するとすぐ家老であるが、

これより後数年間龍三郎についての公式な記録はない。

探索方といういわば諜報機関に入ったためであろうか。

にもかかわらず生涯の最後までわかるのは、

義経伝説のような悲劇の英雄伝説として、

^おおっぴらに語ることははばかられるけれども、

やはり忘れないでおきたいという、水面下の物語として残っているのではないだろうか。 


五、霧の中

最初の箱根駅伝になぞらえていうならば、

小田原からゆるやかな上りになる三区は三計塾にあたり、

四区からだんだんと山道となり急峻な峠越えとなる。

米沢に帰ってから約一年龍三郎は何をしていたかといえば、

探索方として出羽庄内藩に派遣されていた、と、

最新の郷土史家の研究でわかってきた。探索方というのは戦国時代の遺風で、

いわゆる隠密である。戦国乱世には他藩をさぐる役目であったが、

平時においては他国を見たい若者にはいい役職だったのだろう。

三計塾で天下を論じてきている龍三郎に庄内ではうずうずしたことだろう。

しかしここは新撰組誕生にかかわったとされる清河八郎の出身地である。

ここで書いた報告書が藩上層部の目に留まり、

ついに上洛できることになった。
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2006年7月30日(日) 雲井龍雄評伝3、岩淵恵
今日はがんがん暑い、

雲井龍雄、いよいよ佳境にはいる。

 三、勉強棒

 上泉先生を失った猪吉の嘆きは深かったといわれている。

その後のエピソードはしばらくないが。一二歳の時、

ななめ向いの山田鍔堂(かくどう)塾にはいる。

鍔堂は創成期の藩校興譲舘を知っている人だったらしい。

鷹山の隠居後家督を継いだ治広は藩校の名を「友干堂」と改めていたが、

興譲舘と同様に。幕府の朱子学に対して

陽明学もとりいれるという折衝学の立場をとっていた。

幕府は警戒を強めることになる。それがちょうど龍雄が在学していた頃にあった。

一八五八年、一四歳になった龍雄は藩校に入学する。ここで猛勉強したらしい。

こんなエピソードが残っている。

ある日、龍雄の学友が,この頃の名は「熊蔵」だろうか、熊蔵の貧しい家を訪問した。

すると文机に棒がおいてある。友人がこれは何だと聞くと熊蔵は勉強棒というのだと答えた。

夜更け本を読んでいて眠気がさすと、

自分の棒で自分をたたいいて目をさまし、本を読むのだという。

このエピソードは少々眉唾ものだが、熊蔵に関する数少ない伝説である。

あるいは、後の登校拒否中に藩校にある本を全て読んだとも。

とにかく大変な勉強家であったことは間違いない。
 
鷹山が再興した藩校「興譲館」は、次代藩主治広の時名を変えてはいたが、

やはり興譲館を継承していた。,官学朱子学にたいして陽明学をも講じていたことの他、

当時としては画期的な制度があった。

一つは成績優秀の者に栄誉を与えるだけでなく、

一六歳、一七歳と毎年賞を受けた。

しかしここで、熊蔵の身に最初の変事がおこった。

熊蔵は一八歳の時生家から出され、米沢藩士小島家の養子となった。

一説によると養父小島才助は奉行職にあり、

諸普請頭取(建築奉行)や郡割所頭取(土地区画奉行)などを歴任しているという。

生家中島家よりは身分が高いが、サラリーは七石一〇俵三人扶持と大きな違いはない。

鷹山の改革は人員陣整理ではなく、賃金の均一化であったのかもしれない。

かくして中島熊蔵は小島龍三郎となる。少年の心に人生の荒波をもたらした事件であった。

この時藩校にも変事があったらしい。

鷹山の師細井平州以来の折衝学派から朱子学に変わったのである。

ちょうど鷹山ブレーンであった神保蘭室が逝去したときだった。

学門の根本となる思想を変えたことは大変な混乱を生徒たちにもたらしたことだろう。

龍雄,すなわち小島龍三郎はこれに抗議して藩校をやめる。ただやめるだけでなく、

この間藩校にある本を読み尽くしたという。漢詩の詩作もこのころはじめたと想像できる。

感性の鋭い青年の鬱積した思いは数々の詩を生んだに違いない。
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2006年7月29日(土) パラオと交信の日々、そして雲井龍雄評伝2、
今日は久しぶりに晴れである。

本当は東京で会合があったのだが、

原稿の締め切りがあって、電車に乗ることができなかった。残念である。

いまパラオの松永さんと頻繁にメールの交換をしている。

いま書いている「太平洋戦争」 南の島で暮らす元日本軍兵士の証言

の補足取材をお願いしている関係である。

主人公の倉田さんは、パラオ在住の方である。20歳の時、パラオ諸島の

アンガウル島の戦闘に加わり、玉砕戦を体験した。幸運にも米軍に保護され、

アメリカの捕虜収容所で暮らし、戦後、帰国した。

しかし、パラオ諸島で戦死した1万人以上の戦友を慰霊するために、ここに住んでいる。

松永さんはここで働くツアーコンダクターである。

日本航空が最近、直行運を飛ばして以来、多忙を極めており、

その合間を縫って取材をして下さるのである。

ありがたい、本当にありがたいことである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて岩淵恵さんの雲井龍雄評伝は第2回である。

二.
「いのち生命の幼き日に」

誰の言葉だったか忘れてしまったが、素敵に聞こえたのでかきとどめておいた。
ただの少女趣味である。しかし今、龍雄の生涯を語るに於いて、
ひょいと思い出したのである。

俗に「三つ子の魂」というごとく「いのち生命の幼い日」、つまり幼年時代のことは、
その後の人生を物語るということだろうか。

弘化元年(一八四四年) 三月二五日、後に雲居龍雄となる男子が、
米沢城にほど近い袋町に、米沢藩士の次男として誕生したとある。
一説にとよると父中島総右衛門は「平御勘定(会計)」
や「御貸物倉役(倉庫管理)などを勤めた六石三人扶持の藩士であったという。
しかし旧町名と現在の住所を照らし合わせてみると、

こんな下級藩士が、こんなにお城に近い土地にいていいものかと思う。
現に上杉鷹山のまちづくりでは、下級武士は郊外で半農半士の生活をしている。

さて子どもの母は天領(幕府直轄地)屋代郷より嫁いだとされる。
成人した龍雄が一時勤める屋代郷で、文久三年におきた騒動は、
のちに「憂国の志士」と呼ばれる龍雄に大きな影響を与えることとなるから、
記憶にとどめていただきたい。

また龍雄は、後に同時期京の町を駆け回ることになる坂本龍馬の約十才年下である。
さて、男子の幼名は猪吉といい、他に権六、熊蔵という名もあった。
いかにも、後に多くの変名を使って暮らす龍雄らしいといえる。
三つ子の魂というべきか。
猪吉という名は猪突猛進の性格をおもわせる。

一八六二年八歳の時、近所の上泉清次郎という人から読み書きを学ぶことになる。
龍雄がやっと手習いをする年、龍馬は土佐藩を脱藩している。

ところで、この上泉先生との師弟の交わりは、実の親子のようで、
先生がなくなったときの猪吉の悲しみぶりは
まるで親をなくしたようだったというエピソードが残っている。

十二歳でやはり近所の山田鍔堂(かくどう)の元に通う。
山田塾はななめむかい、上泉先生は一軒おいて南隣、
といずれも近くで初等教育をすませた。
現代欧米では子どもを事故や誘拐から守る意味で、
自宅近くに学校があるようなまちづくりを進めているという。

それをはるかに先取った話である。
しかしその反面、猪吉は歩きながら考えた経験が少ないということは、
龍雄の後の性急さを生んだのではないだろうか。

結局死を招くことになる直情的な言動は、
この幼児体験からきているのかもしれない。


 
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2006年7月28日(金) 雲居龍雄評伝エッセイ1,岩淵恵
私の日本大学大学院総合情報研究科の後輩、岩淵恵さんから

雲井龍雄評伝エッセイが送られきました。

ご披露します。岩淵さんは米沢興譲館高校、国際基督教大出身、

児童文学の作家です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1、タブーのひと男

雲居龍雄二十七年の生涯は、箱根駅伝のコースに似ている。

すなわち最初は平坦な道とゆるやかな上りが続くが、後半いきなり急峻な上りとなり、

極みに達すると、すとんと下りゴールとなる。多くの若者がこのレースに青春をかけて走り、

見るものにとっては、その姿はかぎりなく魅力的だ。

もちろん箱根駅伝は龍雄の時代にはなかったが、龍雄も何かに向けて駆けた。

そして死んだ。ゴールしてそのまま芦ノ湖に飛び込んだというわけだろうか。

私事だが、以前こんなことを経験したことがある。感じたまま、聞いたままを言ったら

、総すかんを食ってしまい、それがかなりの心の傷となった。

少々自分の考えに固執したと反省はしているが、

私欲に走っていることを鋭くついた。一回きりでやめればよかったものを、

追及しつづけたらしい。ために国事犯(国家の大事を犯す者)となり、処刑された。

衆議員議員に上り詰めた直後に逮捕され、

罪人として米沢に幽閉されたのち東京で斬首された龍雄の姿も、

伝記を初めて読んだ子どもの頃、かっこいいと思った。

どうして世間では同時代の坂本龍馬ばかりもてはやすのか、不満に思った。

日本人の判官びいき、詩人という点からいっても、龍雄のほうが「絵になる」と思うのだが・・・。
「よし、わたしが書いてあげるからね」と思ったわけではないが、

まず自宅のパソコンで図書館の本を検索した。このごろ覚えた裏技である。

いい本があるとメモしておき、それがたまると図書館にいき、書庫からだしてもらう。

そんなふうにして楽しむ。米沢図書館は意外と豊かな本の海なのである。

さて、龍雄は? 鷹山公(米沢ではいまだに、この方に「公」をつけないと人格を疑われる)

からみると知名度が低いが、全国レベルの人である。それにしては、伝記、

研究書などが少ない。鷹山公については米沢出身の文士、

大橋乙羽をはじめ有名小説家や地元の人たちの書がうなるほどある。

しかるに龍雄は・・・なぜ? 歴史の恥部なのか? それにしたら、

市役所脇の公園にレリーフがあるのはおかしい。

しかもそのレリーフの寄贈者は米沢出身の代議士で建設大臣までになった木村武雄氏だ。

なぜだろう?

以前、こんな話を聞いたことがある。図書館の第二代館長のI氏が

雲居龍雄をたいへん嫌っていたので、龍雄に関する本がないのである、と。

それを思い出し、ちょっと調べてみた。I氏は藩校併設の洋学舎最初の卒業生だそうである。

とすると藩校に学んだ最後の世代だろう。ちょうど龍雄が明治二年六月からしばらく、

そこで教鞭をとっていた。よほど」雲居先生についていやな思い出があり、

それが雲居龍雄嫌いに結びついたのだろうか。

I氏は中央の学者が研究書に謝辞を書くほどの人である。

その人が何かの私怨で図書を抹殺するとは思えない。 このように、

龍雄については何か「ある」

現在「米沢をなんとかしよう」という若手改革派の政治家や経済人は、

市内の寺院にある龍雄の墓に参るという。慕う人は多いらしい。

タブーでありながら英雄・・・。よくわからないが、だんだん興味がでてきた。

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明日に続く
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2006年7月27日(木) 今日は朝から出かけます
宮城県丸森町で午後2時まで私用があり、午後4時からは福島県伊達市で講演会です。

丸森町と伊達市は丸森線でつながっており、時間にして20分ぐらいです。

講演の演題は戊辰の内乱

朝早いので、予定稿で書きました。

夜に補足します。
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2006年7月26日(水) 奥会津文化フオーラム1報
北東文芸協会と戊辰戦争研究会の共催、福島県西会津町の協賛を得て

10月21(土)、22日(日)の両日、福島県西会津町の「ロータスイン」

で奥会津文化フオーラムを開催します。

今年のメインテーマは、「士道」

集英社のヤングジャンプの協力をえて、ビッグ特別座談会、

SIDOOH、士道を企画しています。

特別ゲストのほかに戊辰戦争研究会の有力メンバーが集い、士道とは何かを討論します。

いまの日本にもっとも必要なもの、それが、士道、つまり武士道です。

士道に生きた会津藩佐川官兵衛、長岡藩河井継之助、郡上藩朝比奈茂吉、

仙台藩細谷十太夫、村上藩鳥居三十郎らについて論じます。

また北東文芸協会企画の奥会津に生きる若者たち、

東北、越後の文学などの討論会もあります。

周辺の町村から大勢の人々が訪れるだろうと思います。

会場のロータスインは国道49号線の福島県と新潟県の県境近くの

豊かな自然の中にある保養施設です。

午前11時開会予定。

北東文芸賞の授賞式、受賞者の記念公演もあります。

研究発表、一般公募もあります。

夜は、劇団鴉座による時代劇も在ります。

宿泊は北東文芸協会、戊辰戦争研究会の会員に限り

双方の事務局で受け付けます。

一般の方は直接、下記のロータスインに申し込んでください。

土曜日ですので会員、一般ともに、はやめに申し込むようお願いします。

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温泉健康保養センター・ロータスイン
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2006年7月25日(火) 山川健次郎伝
今日、平凡社から山川健次郎伝の4刷りが届いた。

感無量である。

長く読まれているわけで、読者の皆さんに感謝、感謝である。

健次郎を主人公にした

「会津武士道」ーならぬことはならぬの教え(青春出版社新書)

の発刊は8月早々である。

渡部恒三代議士が帯びを飾ってくれた。

渡部さんとは、ともに20代のころからのお付き合いである。

今回、大変、お世話になった。

渡部さんは笑顔が凄くいい人である。

渡部さんの笑顔で、より身近な本になるだろうと思う。

本の完成が待ちどうしい。

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山川健次郎に関する朝日新聞窓の記事

昨年、武蔵大学で第1回山川記念シンポジュームが開かれた。

朝日新聞夕刊「窓」論説委員室から、「正座の人」と題して山川を紹介した。
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朝日新聞「窓」

星座の人 山川健次郎の名を知る人は、多くはないかも知れない。

明治から大正にかけて、東京帝大総長を2回、12年近く務め、

一時期は京都帝大総長も兼務した。

九州帝大の初代総長でもあり、教育界では「星座の人」と呼ばれた人物だ。

社会を導く人、という意味だそうだ。

東大で日本人初の物理学教授となり、原子模型で知られる長岡半太郎を見出して育てた。

偉大な教育者として、日本の物理学の育ての親として、その功績は語り継ぐべきだ。

そんな声が「世界物理年」の今年、強まっている。

アインシュタインが特殊相対論など三つの革命的な論文を発表してから

100年を記念する年だ。

幕末、会津藩の白虎隊員だった。幼少組だったため生き残り、

才能を見込んだ黒田清隆のはからいで、米エール大学に国費留学した。

太平洋を渡る船上で「これからは理学に時代」と気づき、物理学を選んだ。

73歳で東京の私立武蔵高校校長に就任。私費を投じ、

生徒の外遊制度を作り、寮を訪れては生徒の悩みに耳を傾けた。

山川健次郎伝」を著した作家の星亮一さんは

「今こそ、山川のような真の教育者、指導者が必要なとき」という。

「本物教育が出る杭を伸ばす」

と題した第1回山川記念シンポジュームが

黒川清日本学術会議会長、有馬朗人元東大学長らの呼びかけで、

ゆかりの武蔵学園の大講堂で開かれる。「辻篤子」


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2006年7月24日(月) 雨の月曜日
雨、雨、雨である。

若いころ読んだモームの「レイン」(雨)をおもぃだした。

南の島、どこだったのだろうか。


タヒチあたりかも知れなかった。

よく雨が降った。

若い牧師は気が滅入った。

そこへ若い女性が懺悔にきた。純粋でつぶらな瞳の女性だった。

牧師は恋をした。それはタブーだった。牧師は戒律を破り、自責の念にかられて自殺した。

その日も雨だった。

そんなことを思い出しながら、山本長官の死を書いている。


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ヤフーから検索

サマーセット=モーム

 1874〜1965 幼くして孤児となり,不遇の時代にロンドンで医学を勉強したが,

中途で作家になり,第一次世界大戦のころからしだいに知られるようになった。

作家としてのモームの地位を確立したのは,1918年(大正7)発表の

ゴーギャンをモデルにしたという『月と六ペンス』である。

代表作には『人間の絆(きずな)』『かみそりの刃』『雨』などがあり,

多くの作品がハリウッドで映画化されているのも,通俗作家といわれるモームらしい。

ームの,いわゆる南海ものと呼ばれる短編は,

メルヴィル・ロティ・スティヴンソンの作品を読んで触発されたものである。

ただし,彼は上記の『雨』などのように,破滅型の白人の悲劇を描いた作品が多い。

この点では,海と海の男が紙面から迫って躍動するメルヴィル・コンラッドの

男性的タッチの作品とは対照的である。

モームの邦訳は文学全集・文庫など多数ある。

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2006年7月23日(日) 福島民友新聞で、女たちの会津戦争を紹介

本日の福島民友新聞、情報欄に次の記事が掲載された。

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郡山市の歴史作家・星亮一さんは、幕末の会津戦争で犠牲になった女性や戦争を

乗り越えて明治時代に活躍した会津藩の女性にスポットを当てた

「女たちの会津戦争」と「戊辰の内乱」を出版した。

「女たちの会津戦争」は、篭城して最後まで戦った女性、自刃した女性、郊外に

逃れた女性などの姿を通じて、戦争の悲惨さを改めて指摘した。

また壮絶な戦場体験を乗り越え、明治時代を懸命に生きた山川捨松、山本八重子、

若松賎子ら会津を代表する女性の生涯を紹介している。

星さんは女性にスポットを当てたことで「改めて会津戦争の悲惨さを知った。

女性たちがいたからこそ会津藩は戦え、戦争を体験したからこそ明治時代に

羽ばたく人材を輩出したのだと思う」と話している。

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という記事でした。

ありがとうございます。

今日はガダルカナル島の戦争を書いている。

これもひどい戦争だった。

飢えの戦争で、日本兵はジャングルの中で餓死していった。

なぜこんな戦争をしたのか。

それを書いている。

「太平洋戦争」
  南の島に住む元日本兵の証言

といった本である。
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2006年7月22日(土) 馬里邑さんと高橋さんからメール
20日、郡山自由大学の講演、「ちょっと悪い女」で受講生を魅了した

作家の馬里邑れいさんからメールが来ました。

馬里邑さんは足利市在住

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
20日はありがとうございます。

つたない話を面白がって聞いてくださり、自由大学のみなさまに感謝です。

いろいろと、とても意義ある2時から9時でした。

あっというまに時が過ぎて、帰りは後ろ髪ひかれました。切ないのもいいですね、、

またきっと呼んでくださいね、ねたいっぱいありますから(笑)

足利にもぶらりいらしてください。なかなかいい町ですよ。

            ほんと、楽しかった!馬里邑でした。

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SIDO0H、士道、ヤングジャンプ掲載の取材で、20日、郡山に立ち寄った

いまをときめくカリスマ作家、高橋ツトムさんからのメールです。

夜、郡山の「くし膳」というお酒がいろいろある酒場で馬里邑さんや

集英社の編集の方々、八重洲ブックセンターの店長らと一緒に飲み、かつ食べました。

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楽しい話・・・美味しい酒・・・キレイなママ

最高の夜でした。。。

心して 会津藩を描きますので ヨロシクお願いたします。。。

また わからないことなどあれば 頼ります・・・(笑)

お力を お貸しください。。。


高橋ツトム

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高橋さんの会津の侍、期待されます。爆発的人気になると思います。

くし膳は郡山市大町1丁目、増子ビル4階

誰でも気軽に行ける飲み食いどころ。、料理がうまいし、日本酒、焼酎、

全国の銘柄があります。

女将やマスターが親切、従業員の方もサービス満点

おすすめの店です。

高橋さん、また飲みましょう。東京を5時に出れば。6時半につきます。

お待ちしています。

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郡山自由大学の日程、

本日は私の講義です。

19日(水)
小林清治、福島大学名誉教授
「伊達政宗と郡山」

20日(木)
馬里邑れい、作家
「ちょっとだけ悪い女」

21日(金)
高久達英、北東文芸協会副会長
「新しい伝記に挑む」

22日(土)
星亮一、作家
「戊辰の内乱、再考幕末維新史」

24日(月)
ちょん・ひょるしる、エッセイスト
「暮らしにこそ文化がある」

25日(火)
庄司雅子、ふれあい歴史館
「中近東の衣食住ーシリア滞在日記から」

26日(水)
星貴子、画家
「美術技法講座ーわたしのパステル教室
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2006年7月21日(金) ヤングジャンプ、SIDOOH、士道
集英社のヤングジャンプは、もっとも売れている週刊誌である。

発行部数100万部といわれている。

若い人に圧倒的に支持されている週刊誌である。

その中の目玉の作品が、

高橋ツトムさんの作品「SIDO0H、士道」である。

ベリークールなサムライが登場する革命的な侍コミックである。

そこに会津の侍が登場する。

会津武士がはじめてメジャーに変身するのだ。

その主人公は佐川官兵衛。

会津切って猛将である。

高橋さんは全身からオーラが発散しているカリスマ作家だった。

昨夜、郡山で、お会いし、一緒に焼酎を飲んだ。

会津武士道の取材の途中で、下車されたのである。

「会津藩が大好きです、たまらないね」

といいながら談論風発、実に楽しい夜だった。

私は10月21日、西会津町で

奥会津文化フオ−ラムを開き、歴史や文学を地域の方々と

討論することにしている。

「いかがでしょうか、そこで士道について、論じていただけませんか」

私は単刀直入にお願いしてみた。

「ううん、おもしろそうだねえ」

と前向きな感触をえた。

超多忙な方である。

実現は五分五分かもしれないが、

ひとつトライしてみようと思っている。

そのために今日からヤングジャンプの続者になった。

皆さんも応援してください。その声を高橋さんに届けよう。
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2006年7月20日(木) 速報、奥会津文化フオーラム、西会津町で開催
北東文芸協会は、戊辰戦争研究会と共催し、西会津町の協力をえて、

10月21、22日の両日、福島県西会津町で、今年度の奥会津文化フオーラム

を開くことを決めた。

会場は西会津町の温泉保養センター、「ロータスイン」

場所は国道49号線の福島県と新潟県の県境近くの豊かな自然の中にある。

午前11時開会予定。

第5回北東文芸賞の受賞式、

ビッグ特別座談会、SIDOOH、士道、ここに超有名作家が来るかも

座談会1、奥会津の未来、地域の若者と都市部の若者の討論

座談会2、文学と地域社会、北東文芸書受賞者を囲む座談会。



研究発表、一般公募する。

など多彩なイベントが行なわれる予定です。

夜は、時代劇も披露し、地域の人々と交流する。

詳細は決まり次第、発表する。

宿泊費は1人、12000円、ほかに資料代1000円

大会事務局は、当面、星亮一事務所(電話024−933−5020)におき、8月には西会津

町に現地事務局を置く、

メールはinfo@mh-c,co,jp
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2006年7月19日(水) 今日から郡山自由大学、7月講座
会場は郡山市うすいデパート10階、バンケットルームです。

午後2時ー3時半、一般聴講生の枠もあります。

問い合わせは024−927−1524

八重洲ブックセンター郡山店

19日(水)
小林清治、福島大学名誉教授
「伊達政宗と郡山」

20日(木)
馬里邑れい、作家
「ちょっとだけ悪い女」

21日(金)
高久達英、北東文芸協会副会長
「新しい伝記に挑む」

22日(土)
星亮一、作家
「戊辰の内乱、再考幕末維新史」

24日(月)
ちょん・ひょるしる、エッセイスト
「暮らしにこそ文化がある」

25日(火)
庄司雅子、ふれあい歴史館
「中近東の衣食住ーシリア滞在日記から」

26日(水)
星貴子、画家
「美術技法講座ーわたしのパステル教室

私は22日です。

太平洋戦争は後日に掲載します。
△top
2006年7月18日(火) 二本立ての執筆
今日は午前中は函館戦争を書き、午後は太平洋戦争を考えた。

A・C・ウエデマイヤーという米陸軍の軍人がいた。

陸軍士官学校、陸軍大学校卒の幕僚である。

中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付き参謀長というポストも歴任した。

中国事情にもっとも詳しい人物である。

彼bの作品「第二次大戦に勝者なし」を読んで、一日がおわってしまった。

時間が足りない。

いささか焦る。

中身は明日紹介しよう。、
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2006年7月17日(月) 今日は箱館戦争を書いています。
二日間、休んだので、挽回すべく、箱館戦争に邁進しています。

榎本艦隊は江戸湾を出て仙台に入るまでの

遭難記が第一章です。

榎本艦隊は大暴風雨に見舞われ、二隻の輸送船を失ったのです。

気象に関する学問が発達しておらず、大風のまっただなかに突っ込んでしまったのです。

このあたりに関して資料をお持ちの方はご一報ください。

ともかくひどい航海でした。

どうもはじめから榎本につきがなかったようです。
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遭難した美加保(丸) MIKAHO(MARU)、ヤフーから


木造帆船パーク(輸送船)/推進:帆走/トン数:800t/

長さ:29間/幅:5間半/1865年プロシア(のちのドイツ)船を

徳川幕府が長崎で購入/プロシア名:ブランデンブルグ


1865年(慶応元年)徳川幕府が長崎へ回航されていた

プロシアの帆船「ブランデンブルク」を35,000ドルで購入。

美加保(丸)と命名された。国内最大クラスの輸送船。

徳川幕府艦隊・輸送船の中核となる。

 大政奉還・江戸城開城後の慶応4年(1868年)8月19日。

榎本武揚率いる旧徳川艦隊は、抗戦派旧幕臣らをのせ、江戸湾を脱出。
 
帆走の美加保丸は機帆船の軍艦に曳航され(開陽か回天と思われる)艦隊に同行。

北上したが、8月21日館山沖で暴風雨に遭い、黒生(くりはえ)海岸で座礁沈没。

 箱根の戦いで片腕を失った旧幕府遊撃隊士・伊庭八郎は、

美加保丸に乗船していたが、座礁後、一時江戸で潜伏ののち、

北上して抗戦派と合流している。

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2006年7月16日(日) 朝日新聞と週間朝日に書評
今朝の朝日新聞、読書欄に「女たちの戊辰戦争」(平凡社新書)が紹介されました。

今週発売なのに、掲載され、びっくりしました。

まら週間朝日7月21日号の「新書の穴」に

「松江豊寿と会津武士道」(ベスト新書)

の書評が大きく掲載されました。

「映画をみても本を読んでも本当に奇跡のような収容所だ。こんな場所が

第一次大戦後の、日本の、四国の、徳島の片田舎にあったとは、

もしかして陰惨なT事件とか、あったんじゃないか

と邪推してしまいたくなるぐらいだ」(青木るえか)

とありました。

それはありませんでした。

ご安心ください。

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戊辰戦争研究会会津集会のご報告

15、16日、猪苗代町、会津若松市で行い、無事に終わりました。

以下は戊辰戦争研究会のホームページからの転載です。



会津集会にご参加の皆さん、本当にありがとうございます。

長崎、京都、岐阜、東京、千葉、埼玉、栃木、新潟、山形、仙台、

もう全国規模の集まりで、三十四人の参加でした。

会場の会津キャンプ村、すばらしいところでした。研究発表も抜群の出来栄え、

来賓の祥伝社加藤編集長、青春出版社、手島編集長もびっくりでした。

特別公演の大どん返し、「福島宿・世良修蔵捕り物帖」も爆笑でした。

主役の玉虫君、坂本君、遠藤君、そして土方副長、沖田総司君らの演技は

衣装も含めて大変なものでした。

詳しくは副長から全般にわたる報告があると思います。

土方副長はじめ地元福島の役員の方々、ご苦労さんでした。

取り急ぎ御礼まで。
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2006年7月15日(土) 今日は戊辰戦争研究会全国集会
10時半の電車で、猪苗代に向います。

午後2寺開会、

私の講演、「戊辰戦争研究の課題」のあと、6人の方の研究発表があります。

夜は演劇「異聞福島宿・世良修蔵捕り物帖」の公演があります。

明日は会津観光です。

では出かけてきます。
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2006年7月14日(金) 戊辰戦争研究の課題
さて明日は猪苗代で戊辰戦争研究会の全国集会です。

私の基調講演

「戊辰戦争研究の課題」

のあと6人の方が研究発表します。

夜は、大どんでん返し

「福島宿、世良修蔵捕り物帖」

の公演を行います。

その準備で今日はてんてこ舞いです。

ところで「松江豊寿と会津武士道」

映画の上映によって売れ出しているようです。

高知や会津若松では、ベスト10の上位に入っており、

これから伸びが期待できそうです。
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2006年7月13日(木) 榎本武揚という男6
第六話「黒田清孝と会津藩」

箱館戦争には会津からは数十人の人々が参戦しました。

大半が戦死しています。そのなかに安部井という青年がいました。

ここで詠んだ彼の詩は、幕末の会津を代表する作品として有名です。

海潮枕にいたり、天明けんと欲す

感慨胸をなで独リ眠れず

一剣いまだ酬いず亡国の恨み

北辰星下残年を送る

函館の海鳴りが聞こえて、なかなか眠れずにいる

この剣で会津の恨みをまだ返してはいない。

しかし北極星の下で残る年月を過ごすのも悪くはないか私は函館で、

海のそばに泊ったとき、いつもこの詩を口ずさんできました。

彼もここで戦死しています。書くことはいっぱいあるのですが、

最後に敵将黒田清隆についてふれましょう。

若い頃の名前は了介でした。薩摩の貧乏士族のせがれで、

いつしか西郷、大久保に認められ、越後口の参謀を務め、

選ばれて函館戦争の指揮を執ったのです。三十歳でした。

戦闘のことは省きましょう。黒田はいつしか敵将榎本に惚れ込みました。

聞けば聞くほど勇気も在るし、自分にはない学識がありました。

黒田は戦をやめる方法はないかと、部下たちに命じたといわれています。

会津に諏訪という男がいました。

負傷して函館病院のベットによこたわっている諏訪のもとに、

薩摩の使者が訪ねてきたのです。その使者と諏訪は京都時代、友人でした。

そこから和平交渉が進むのです。黒田は坊主になって榎本の弁護に当り、

榎本は明治政府の閣僚として、活躍することになります。

黒田は北海道開拓に力を注ぎ、、黒田が死んだとき葬儀委員長は榎本でした。

黒田は酒乱で、妻女殺害のうわさもあり、

その生涯をどうまとめるかは難しい面もあリますが、

榎本にとっては大恩人でした。

もしもの話ですが、幕府が政権を握った場合、

榎本は間違いなく総理総裁を務めたと思います。

これで終わります
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2006年7月12日(水) 榎本武揚という男5
第五話「土方歳三」

何年か前に函館に行ったとき、函館市史編纂委員の紺野哲也さんにお会いし、

貴重な資料をいただいて帰リました。『蝦夷事情乗風日誌』という日記でした。

榎本と一緒に参戦した神速丸の一等蒸気士官内藤清孝の日記でした。

米国のハーバード大学の付属燕京研究所にあったもので、その写しを手に入れ、

「地域史研究はこだて」に収録したものでした。

なぜ米国にあったのか、多分、神田の古書店あたりから流れたのでしょうが、

今回、これを探したのですが、どこにどうしまったのか、見つかりません。

仕方がないので函館の友人、落合さんにメールを送り

函館の図書館からコピーをとってもらいました。

落合さんには私の内情は言いませんでしたが、そのようなことでした。

すみませんでした。この日誌には乗組員の名簿がついてあり、

記述も実に的確なものでした。一等蒸気士官というのは、

旧海軍で言うと大尉クラスの幹部です。蒸気機関をどこで学んだかは分かりませんが、

有能な士官であったことは、間違いありません。

内藤は開陽の遭難をこう記していました。この夜十時ごろ、

風荒く蒸氣缶点火、ホールオイトをなしたが、三頭の鎖を切り、

巨涛のためにスクルーフのスビーを折りたり。とありました。

使っている言葉はオランダ語で、ホールオイトは前進で、

クルーフはスクリュー、スビーは楔です。つまり前進しようとしたが、

スクリュ―に欠陥があったのか、計算外の巨涛だったのか。

事故調査委員会の時に、よく問題になるような原因があったのでした。

資料がいかに大事か、お分かりいただけると思います。さて土方歳三です。

私は土方が大好きで、土方の跡を追いかけて歩いたこともありました。

彼はとにかく強い。泣き言は言わない。責任はとる。

そうした男でした。榎本は実力のある男が好きでした。

旗本とか、会津藩とか、肩書きにはとらわれませんでした。

周囲には新撰組に対する蔑視もありました。しかし頭がよく、

戦闘経験の豊富な土方は榎本にぴったりの男でした。

土方は期待に応え、連戦連勝でした。

大鳥圭介の日記にも土方を賞賛する記述があります。

しかし、軍艦開陽を失った榎本軍に勝ち目はありませんでした。

五稜郭に敵が迫ったとき、土方はわずかの手勢を率いて敵陣に突入したのでした。

新撰組は薩長から怨嗟の的でした。ここは死すべきときと判断したのだと思います。

土方の死は自殺であったと私は思っています。そこがまた土方フアンには、

たまらないところなのです。次回は、会津藩のこと、

敵将黒田清隆のことなどに触れたいと思います。、
△top
2006年7月11日(火) 榎本武揚という男4
第四話「軍艦開陽丸」

私は榎本を取材するために、これまで数回、函館、松前、江差を訪ねています。

現場に立って考えないと、歴史は見えてこないのです。

以前、夏の間は私が住む郡山からも函館に飛行機が飛んでいました。

よくそれを使いました。

冬は運休でしたので、その間は列車の旅でした。

いまは八戸まで新幹線ですが、は盛岡までの時期が結構、長かった。

いやなのは、青森からの海底トンネルです。

高所恐怖症というのがありますが、私はトンネル恐怖症で、

確か三、四十分の距離なのですが、その間は落ち着きません。

さて榎本が乗っていた軍艦開揚丸は、当時の技術水準から言うと、

世界のトップレベルのものでした。

オランダのドルドレヒトにあるヒップス・エン・ゾーネン造船所が

精魂を込めて造ったもので、開揚と言う名前の由来は、

オランダ語の「フォーリフテル」朝ぼらけ、曙という意味でした。

夜明け前と解釈する人もいます。

この言葉に当時の人々が寄せた期待の大きさが痛いほど感じられます。

船の概要は三本マスト、補助エンジン付きの軍艦で、排水量は2、590トン、

最大長72,8メートル、最大幅13、04メートル、氣走時の速力は10ノットでした。

現在の護衛艦の速力は30ノットぐらいなので、結構、早かったといっていいでしょう。

帆走時の速力は正確な記録は見当たらないのですが、日本に回航するとき、

一日平均65マイルを走ったというから、どうなんでしょうか。

帆船の速力は風によってまるで違うので、算定は結構難しいのです。

どなたか算定して見てください。建造費は190万ギルダーでした。

これも換算は困難です。現在の貨幣価値に換算すると、どうなるでしょうか。

日銀福島支店によると、今日のレイトは1ギルダーは約53円なそうで、

単純に言えば1億円ほどになりますが

江戸時代と現代では貨幣価値がまるで違うわけですからさあ、いくらになるのでしょうか。

海上自衛隊の最新鋭のイージス艦は確か、何千億円ではなかったでしょうか。


何千億かの大変な金額だったと思います。

この辺のことも日本銀行に聞いたのですが、福島支店では、

オランダ大使館に聞いてくれということでした。

日本銀行もたいしたことはないという印象でした。

榎本の蝦夷島政権はこの開揚丸によって支えられていました。

この軍艦にはクルップ社の鋼鉄砲が18門搭載されており、

これが津軽海峡に浮かんでいる限り、

明治政府の軍隊は北海道に近寄れないという構図でした。

核ミサイルを持っているようなものでした。

ところが榎本は江差の海に開揚を沈めてしまったのです。

操艦技術の問題があったというほかはないのですが、

さほど重要でもない江差の海に出かけ、入り江にある鴎島の陰に停泊しました。

岸からの距離は数百メートルでした。夜半に暴風雪が襲い、

開揚は走錨して座礁してしまったのです。またも気象判断のミスでした。

私の推理ではどうも榎本はこの夜、上陸していて開陽にはいなかったようなのですが、

乗組員が氣ずいたときは、もうそう走錨を止めることがませんでした。

普通こうした軍艦がはじめての場所に停泊するときは、

地元の漁師を水先案内人として十分に安全を確かめるのですが、

その辺にも手抜かりがあったとしか思えません。

江差の海をなめたということでしょう。風涛怒狂して、ついに暗礁に乗り、

離るることあたわず衆、暗に灯火を失うに等し榎本は茫然自失、

浜辺に触り込んで号泣したと伝えられています。

『箱館戦争と気象』という日本気象協会のリポートがあります。

ブロッキング現象という予測が困難な暴風雪が襲ったということらしいのですが、

沖合いに船を出すタイミングの遅れが、座礁を招いたのです。

開陽丸は発掘調査が行われ、何百発という砲弾が引き上げられましたが、

ほとんど使うことなく水没した最新式軍艦を前にして、私も言葉がありませんでした。

次回は土方歳三に触れましょう。

第五話「土方歳三」
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2006年7月10日(月) 榎本武揚という男3
第三話「蝦夷島政権」

榎本がなぜ北海道をめざしたのか。

榎本は薩長との戦争で勝利する自信を持っていました。

幕府海軍は当時、東洋一の艦隊でした。薩摩は海軍を持っていましたが、

榎本の目から見れば、その装備は貧弱で問題にはなりませんでした。

しかし、戦う前に慶喜が恭順してしまい、榎本は無念の涙をのんだのです。

榎本にはもって生まれた器量がありました。留学時代も榎本はリーダーでしたし、

帰国後も海軍士官は榎本の下に結集していました。幕府が崩壊し、

多くの幕臣が職を失い、また東北、越後に戦乱が広がり、日本の混迷は続いていました。

榎本はこれらの人々を率いて北海道、当時は蝦夷島でしたが、そこに渡り、

開拓を進めながら、北の大地の防衛に当ろうとしたのでした。

榎本はその旨の文書を薩長首脳、諸外国の外交官に送りました。

薩長にもっと高度なレベルの政治家がいれば、

これも面白いと考えたに違いないのですが、榎本の真の意味を理解する人はなく、

徳川脱走軍と呼び、対決姿勢をあらわにしたのです。

かくなる上は北海道を占領し、独自の政権、蝦夷島共和国を建設せんと

榎本は決意したのです。しかし榎本の北海道行きは最初から厳しいものでした。

犬吠埼で台風に巻き込まれ、開揚は舵を折って漂流、美賀保と咸臨丸が遭難し

、多くの兵と武器弾薬を失う苦しい船出でした。

気象に関する知識がない時代でした。やっと仙台にたどり着くと、

肝心の会津が危機に瀕していました。会津を中心として東北、越後の諸藩が頑張り、

東日本を支えていること、それが榎本にとって大事なことでしたが、

これも誤算でした。仙台で艦隊を建て直し、

七隻の軍艦と約二千の兵が蝦夷地に向かったのでは、

寒風吹きすさぶ冬の時期になっていました。

明治元年十月二十日、西暦十二月三日、榎本の艦隊がようやく

蝦夷地の鷲の木に姿を現わしました。

一寸の虫にも五分の魂榎本はこの言葉が好きでした。

榎本の眼前の広大な北海道の山野が広がっていました。

この大地を拓かん、榎本はじっと雪原に見入ったのです。

榎本の親友大鳥圭介の日記にそのときの模様が記されています。

「積雪一尺ほどあり、蝦夷地は寒卿なれば、人家とてもなく、土人穴居し、

我ら上陸なすとも宿所もあるまじ、函館にまで行く間は食糧もとぼしきことの覚悟し,

舟より上陸せしに、あにはからん鷲の木宿は開けたる地にはあらざるが、

人家百五十軒もあり」と記していた。榎本が函館五稜郭に入り、

蝦夷島政権の樹立を高らかに宣言したのは、明治元年十二月でした。

首脳人事は選挙で選び、榎本は満票に近い百五十五票をを獲得して

総裁に選出されたのです。この政権を幻と見る人が多いのですが、

私は時間的には短かったが、

確実にここに榎本の政権が存在したという立場をとっています。

いち早く蝦夷政府を認めたのが米国でした。

米国領事ライスが米国の軍艦に乗って榎本の艦隊を訪問すると

榎本は国際法の慣例に従って、米国国旗に九発の礼砲を発射したのでした。

次回は開陽沈没の謎に迫ります。
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2006年7月9日(日) 榎本武揚という男2
第二話「長崎海軍伝習所」

榎本が樺太探検で、航海にも興味を抱き、安政三年、長崎海軍伝習所に入学しました。

教官はオランダ人、授業はすべてオランダ語という高度な学校でした。

私は以前、角川文庫から『長崎海軍伝習所』を出しましたが、

榎本のような優れた学生にとっては実に愉快な学校でした。榎本はここの二期生で、

一期生に勝海舟がいました。勝は遊び人で、

榎本は勝から丸山で遊ぶことも教わったようです。

勝に頭が上がらないのは、そのせいかも知れません。

幕府は開国後の日本の防衛は海軍にあると考えていました。

そこでオランダに依頼し、この学校を作り、同時に軍艦も発注し、

留学生を派遣することも決めていました。留学先は当初、アメリカでしたが、

南北戦争の影響で、オランダに変更になったのです。幕府が保守的で、

薩長が開明的という単純な図式だけでは、幕末維新史をとらえることはできません。

榎本がオランダに向け出帆したのは文久二年六月でした。

留学生は多くが長崎海軍伝習所の卒業生でしたが、

ほかに津田真一郎、西周助という二人の俊英が入っていました。

幕府外国方の若手です。彼らの使命は、

日本の近代化に向けての国家のあり方の研究でした。

幕府の官僚はそのことも考えていたのです。

榎本はこのときの航海日記を残していますが、

オランダ語は勿論のこと英語、ドイツ語などもふんだんに使って書いていました。

彼は語学の天才でした。このとき二十七歳です。榎本はハーグの海軍兵学校に入り、

航海術、砲術、機関学などのほか物理、化学など理科系全般を学び、

幕府がオランダに発注した軍艦開陽丸に乗って帰国したのが,慶応三年三月でした。

五年にも及ぶ留学でした。三十二歳になっていました。

私は二十年ほど前にアムステルダムに取材に行きました。

私が住む郡山市は明治以降の開拓で生まれた都市ですが、

その開拓にオランダ人技師が関係していました。その番組を作るためでした。

時間の関係でハーグを訪ねることができず、今でも残念に思っているのですが、

ヨーロッパでトップレベルの知識を身に付けて帰国した榎本の目に映ったのは、

瓦解寸前の幕府の姿でした。幕府海軍を率い、

何とか幕府を立て直そうと努力した榎本ですが、

将軍慶喜には日本を率いる覇気と責任がなく、幕府倒壊を迎えたのです。

どうするか。榎本は考えました。

若い十代の青年のとき、見た北海道の大地、

そこに新しい国家を作ろうということでした。

蝦夷島共和国です。彼のもとに多くの人が結集しました。

榎本が艦隊を率いて北海道に向かったのは、慶応四年八月です。三十三歳、

すごい男だと思います。少し学問的なことを加えておきましょう。

文献資料の目録は、私が知る限り

『日本北辺関係旧記目録』(北海道大学付属図書館編)がお勧めです。

入門書としては加茂儀一著『榎本武揚』(中公文庫)がいいでしょう。

次回は蝦夷島共和国です。
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2006年7月8日(土) 会津若松市ベストテン、会津藩斗南へ、2位,松江は6位
本日の福島民報、会津若松市宝文堂書店調べ

1、小林よしのり、ゴー宣A級戦犯、幻冬舎

2、星亮一、会津藩斗南へ、三修社

3、リリー・フランキー、東京タワー、扶桑社

4、佐藤正午、小説の読み方、岩波書店

5、藤原正彦、国家の品格、新潮社

6、星亮一、松江豊寿と会津武士道、ベスト新書

7、あさのあつこ、バッテリーv、角川書店

8、ダン・ブラウン、ダビンチコード、角川書店、

9、竹内一郎、人は見た目が9割、新潮社

10、小熊英二、日本という国、理論社

私の作品が2点入り、感謝いたします。

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八戸通信

星亮一様
 
「神田重雄傳」確かに受け取りました。ご多忙のところ恐縮しました。

ありがとうございます。
 神田重雄の生誕地にお住まいになっている方が自費で

「神田重雄の生誕地」という碑を建てられましたことにつきましては前報しましたが、

この神田が取り組んだものの一つに「種差海岸」の国立公園指定への運動があります。

名勝地の指定にとどまりましたが、これに力を尽くした人物が

鳥瞰図作者の吉田初三郎です。初三郎は種差に別荘と画室をもち

家族やお弟子さんたちと生活しつつ、鳥瞰図などをつぎつぎと描いています。

戦後直ちに広島の原爆図と被爆前の広島を描きましたが、そのため被爆されたようです。

八戸では、15日から「吉田初三郎展」が開催されます。

郡山にもかれの鳥瞰図がありましょうか。お元気で。メールにて失礼します。
                                   
本田敏雄

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種差海岸、まだ行ったことがありません。

今度、ぜひ、うかがいます。

神田重雄伝、

長い間、ありがとうございました。
△top
2006年7月7日(金) 榎本武揚という男1
年内に箱館戦争を刊行すべく、執筆にはいった。

主人公はもちろん榎本武揚である。

蝦夷島政権総裁を務めた人物である。戊辰戦争研究会のハンドルネーム榎本武揚

を名乗る私としては、絶対に書かなければならないテーマだった。

毎日、原稿10枚を目標に書き進めている。

以下は以前、函館市で開いた日本大学大学院の歴史研究会で発表したものを、

加筆修正したものである。


第一話「樺太探検」

榎本を考えた場合、第一に親父が偉いということを申し上げたい。

貧乏な旗本にとって、もっとも気を使ったのは子供の教育だった。

貧乏といっても榎本の家は学者の家系で、父円兵衛は、

かの有名な伊能忠敬に師事した天文や暦学の専門家だった。

榎本が科学に強いのは父親譲りだった。

旗本の子弟は幕府の学問所、昌平校に入るわけだが、漢学中心の校風にはなじめず、

漢学の限界を知っている円兵衛は、さっさと息子を中浜万次郎の塾に入れ、

生きた英語を学ばせた。これが転機となった。

このとき、塾で一緒だったのが大鳥圭介で、箱館では陸軍奉行として榎本を助ける。

青春時代の榎本は外国事情に目覚め、十代の後半に、幕府外国方の重臣の従者として、

樺太探検を行っている。北海道と榎本の結びつきはこの時にはじまる。

私はこのとき、榎本が詠んだ詩に感動を覚え、榎本に引かれた。

胡馬嘶く時風怒号す

短褐早天暁霧を衝き

孤帆残月秋涛に乱る

扶桑南に望む三千里

頭上驚き見る北斗の高きを

榎本の感性の高さを見事に表している詩である。

これが、十代の作品というから驚きである。

後年、榎本が北海道に渡り蝦夷島政権を樹立したのは、

このときみた北の大地や海に未来への可能性を感じとったからだと思う。

漢文というと古臭いイメージだが、

ロマンを学ぶには漢文は最高である。

そういう私も不得手なのだが、漢文、特に漢詩は日本人の情操教育に

欠かせないと思う。

榎本は江戸の昌平校学問所で漢学を学んだ。

それがすべての基礎だった。
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2006年7月6日(木) 北の開きなおり
ならずもの国家、北朝鮮の開きなおりは凄い。

朝鮮中央通信は、「今回の成功的なミサイル発射は、自衛的国防力の強化のため、

我々の軍隊が通常行っている軍事訓練の一環だ」と述べた。

さらに、「日朝平壌宣言や核問題をめぐる6か国協議の共同声明のような

合意には拘束されない」と主張した。

何でもやり放題である。

もしも飛行中の旅客機に当たれば、たちまちこなごなになって撃墜である。

新聞、テレビによって報道はマチマチである。

米軍や日本のイージス艦がミサイルをすべてキャッチしたと言う人もいれば

全然、わからなかったという人もいる。

電子偵察機は沖縄にいたので、

知らなかったはずだという説もあった。

疑心暗鬼、さっぱりわからない。

防衛庁はすべて把握しているとは思うが、政府の発表がはっきりしない。

この調子では彼らは半ば面白がって発射を続けるだろう。

日本は何もできず、傍観するしかないのか。

相変わらず危機管理はお粗末というほかはない。

せめてどこにどう落ちたのか、正確に知らせてほしいものである。。
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2006年7月5日(水) 北のミサイル
朝から大騒ぎである。

6発とは凄いもんだと、あきれ、かつ驚いた。

日本は何もできず、ただ見守るしかない。

今度の場合、どこに落ちるのかさっぱりわからず、

ミサイルが落下した日本海などを航行する船舶や日本の空域を飛行する航空機に対し、

警報や注意情報を出すのが遅れたという。

警報が1発目の発射から5時間以上たっていたというから話のほかである。

これで北朝鮮は、いつでも日本に対してミサイルを打つことができるようになった。

その後、北朝鮮は6発でも足りず、7発目も発射したという。

どこか、やけのやんぱちである。

故意か間違って日本列島に落ち時には、米軍が出動し、また航空自衛隊も出動し

戦争になるかもしれない。

われわれはその覚悟をしなければならない。

意外なところから日本も戦争に巻き込まれることになるかもしれない。

60年、続いた平和も瞬時にして消えてしまうのだ。

そいう恐怖をわれわれは今日味わった。

どうするのか、

どうすべきか。

今日が戦争の歴史の幕開けにならないことを祈るしかない。

と同時にナチスにも似た北の政治体制を一笑に付すわけには行かない。

これは深刻な問題なのだ。
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2006年7月4日(火) 八戸を築いた神田重雄
八戸市の2代市長神田重雄は、会津人である。

会津の戦争に敗れ、重雄の祖父小市右衛門は、斗南藩に移住し、

現在の八戸に落ち着いた。当時は湊村といった。

祖父には娘がいた。ツネである。ツネは婿をもらい、その息子が重雄だった。

八戸には会津のサムライが開いた義習学館があり、重雄はそこで勉強した。

重雄はどこに行っても餓鬼大将で、小学校の先生になり、さらには役場の書記、

県会議員に成り、ついには八戸の市長になった。

そして港を開発し、今日の八戸の基礎を築いた。

青森に根づいた会津人を代表するひとりである、

私はこの4月に、「会津藩斗南へ」という本を書き、この中で神田重雄を紹介した。

三修社から3冊目の本である。

東奧日報、デーリー東北、陸奥新報が、大きく書評でとりあげてくれた。

ありがたいことである。

この本を書くとき、私は八戸の歴史研究家本田敏雄さんから「神田重雄伝」を

お借りした。ところが返却が遅れてしまい、お詫びのメールをお送りしたところ、

今日、折り返し本田さんから次のメールをいただきました。


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「神田重雄」の「大八戸構想」資料は八戸市史の特別資料編「都市構想」の

中のメインとしますので、中里進先生著「神田重雄傳」は解体して、

原資料から構築いたします。中里先生もそれをのぞまれています。

個人で、神田重雄の生誕地に記念碑を建てた方が出現しました。

教育委員会などをあてにしていたら、「できない」というものです。

 先生のぶれないテーマの追跡に敬意を表しています。

湊や小中野に定住した会津系の人々の「野性的行動力と教養」と、

八戸の人々の生活の組み合わせ、組み替えが今日の八戸のベースとなっていると

、わたしは仮説をたてています。

 たとえば、知られざるところでは、小中野の遊郭街があります。

ここはやくざの入りこまない場所として有名で安全なところであったのです。

それは会津武士団の偉名がガード役だったからです。
 
ここで神田重雄、山浦、戸狩など会津武士団の系を引くひとびとが

八戸の有力筋と構想を練りました。会津の方々は遠洋漁業に乗り出し、

反面かつての京都の島原を再現するということでした。

 風俗業は今日低俗視されていますが、

それはセックスを強調しすぎる人々の評価でしょう。

「風俗」は庶民の生活そのもので、情報集積の場として、

文化の発信と受信基地であったのです。

 低俗な偏見によって「遊郭文化」は歪曲されてしまっていますが、

歌舞伎のように見直しが必要でしょう。ちなみに小中野遊郭=「浦町」の

「浦」は会津藩士の「山浦」の「浦」であることはむかしは

誰でも知っていて尊敬していたものです。

 話がそれてしまいました。お元気で。

またおこしください。先生のご著作のファンです。
 
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というものだった。

本当にありがとうございます。

庶民の暮らしに会津藩がかかわっていたことを知り、

これも大変、勉強になりました。

あつく御礼を申しあげます。
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2006年7月3日(月) 一週間が始まった
月曜日はすこし緊張する。

まず予定の確認だ。

金曜日に大学の同窓会がある。郡山青葉会といって東北大学卒業生の

集まりである。なぜか若い人が少ない。いつも顔を合わせるのが、50代以上、

最高年齢は80台である。

若い人もいるのだが、同窓会などという集まりには関心を示さない。

これはどこもそうらしい。

ロートルが集まって、世間話をする会である。医者、公務員、銀行のOB、

弁護士、自営業、マスコミも何人かはいる。

土曜日はNHKの福島教室である。

太平洋戦争がテーマである。

いま「太平洋戦争はなんだったのか」を書いているので、

私にはぴったりのテーマである。

原稿の締め切りがひとつある。

月間、「地図中心」に「会津戦争母成峠の戦い」を寄稿する。

400字12枚である。

今日中に仕上げないといけない。
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2006年7月2日(日) パラオ通信
星 先生

おはようございます

昨日は、台風で停電・電話回線不通・道路には木が倒れ、、、と

大変でした。

今日はまだ風が残っていますが良い天気です。

またメールお待ちしております

松永

今朝、メールを開くとパラオの松永さんから、このようなメッセージが入っていた。

来週、第4回目の質問を送りますという、私の問にメールを下さったのである。

私の太平洋戦争を考えるは、いまサイパンを書いている。

当時の東條首相はサイパンは絶対に大丈夫と公言していた。

根拠は何か、誰かいいかげんなことをレクチャーした参謀がいたようだった。

大丈夫どころではなかった。

頼みの「あ」号作戦で海軍が完敗した段階で、誰もサイパンを守るものはおらず、

参謀本部は撤退を決断した。

島の将兵は捨石にされた。

補給がないのだから最後はバンザイ突撃しかなかった。

海軍、陸軍とも参謀たちは、もはや負けたと実感していた。

何人もの参謀が東條に、これは負けだと降伏を進言した。

東條は翌日には、この参謀を南方に飛ばして、大半は戦死した。

毎日、前線からは、玉砕の電報が山のように届いた。

われ突撃す。

攻撃機のパイロットの最後の言葉も瞬時にはいってきた。

だが、神風が吹くなどとたわいもない発言で、誰も真剣に終戦工作を

かんがえようとはしなかった。

松永さん、

倉田さんへの今回の質問は以下のとうりです。

1、サイパン玉砕はいつ知りましたか、どう思いましたか、

2、倉田さんはほどなく召集されます。

その時の感想をお聞かせください。

3、パラオの軍隊はどのようなものでしたか、

兵の士気、装備、上官の気質

4、どんな訓練を行いましたか。

5、アンガウルに派遣されるわけですが、

どんな気持でしたか。

敵をたっつけてやる。もう勝てない。

いや勝てる。どうでしたか。

6、アンガウル島の日々はどのようなものでしたか。

楽しかった、緊張だった。

7、敵が上陸したときの模様をお聞かせください。

今回は以上です。

よろしくおねが致します。

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という形で、パラオ在住の旅のコンダクター、松永さんに

大変、お世話になっている。

この「太平洋戦争を考える」(仮題)

いわば倉田さん、松永さんとの共同制作であり、内容は多彩である。
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2006年7月1日(土) 鹿角兵士末裔の貴重な証言、幸野か今野屋か
今日、きわめて注目されるメールをいただきました。

まずはお読みください。

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はじめまして秋田市在住の者です

 星先生著の「奥羽越列藩同盟」に接しいままでまったく無関心でいた

「戊辰の役」に興味を持ちはじめました

それなりの理由があるのでしょうが秋田では戊辰戦争についてあまり語られ

ません。
 
私は鹿角市出身なのですがいまでも鹿角の人間は秋田より盛岡市に生活圏

を軸足を置いていると思います(やはり南部藩だったからでしょうか)

 前置きが長くなりましたが、

自分の足で県内の戊辰の役に関係するところを廻ってみることにし手始めに

秋田市内からと思い、

 秋田藩説得に仙台藩志茂文左衛門一行が秋田藩に来て止宿した「幸野冶右

衛門」なる場所を(茶町扇の丁)探し求めました。

それと思った場所は現在「洋品の○○店」(ここでは正式店名を略します)

でして、そこのおばあさんが対応してくれました。

お聞きした概要は以下のとおりです。

@仙台藩士が止宿したのは私の店の(○○店の)隣であった。

A宿の名前は「こうの屋」でなくて「今野(こんの)屋」であった

B仙台藩士が襲われたときその中の数人が私の屋根伝いに逃げたがそのうち

の一人が屋根の上で斬り殺された。

C屋根伝いに逃げた仙台藩士は近くの寺で捕らえられこれも首を刎ねられた

Dそういうこともあって私の母が健在であった昭和の終わりごろまで毎年、

神主に来てもらい 祓っていた。

E私の店は(○○店)開業2百年以上になるしかもその時からこの場所に在

った(開業時は綿店) 

F今野屋さんは確か昭和の終わり頃まで隣に住んでいて旅館をやっていて私

達とも親しく付き合 っていたがここを離れてから今、何処に住んでいるの

かは分からない
 
仙台藩士が止宿した話は祖父母から語り継がれている
 
間違いなく「今野屋」である
 .................................................................
...
以上が話の内容です

 このおばあさんは年齢80歳位で大変しっかりした方でした

ただ私との話が1時間位になったので疲れた様子だったのでその日はお暇し

てまいりました

 「今野屋」でも「幸野屋」でも良いのですが私にとっては大変気になりま

した

その後秋田市の歴史編纂担当に行って確認しましたが「幸野屋」と言って譲

りませんでした

 どなたかこの事について詳しい方がおいでになりましたら真相を教えてい

ただけませんでしょうか

勢い込んで「戊辰の役」をこの足で......と思ったのがもうスタートでモタ

モタしています

 初めての者がながながと申し訳ございませんでした

どうぞよろしくお願いします

 (「洋品の○○店」の隣は現在「ホテル」になっています)

-------- ここまで -------------------------------------


なるほど、これは貴重な証言です。

注目されるのは

仙台藩使節が泊まった宿は、

幸野治右衛門方ではなく

今野屋だったというご指摘です。

「仙台戊辰史」にある幸野治右衛門方が定着しており、

私もそう書いてきました。

どうなのでしょうか、

屋号が「今野屋」だったのでしょうか。


どなたか感想があればどうぞ。

ところで、鹿角は南部藩でした。

秋田藩領の大館に攻め入り、戦いました。

これは戊辰戦争の模範的な取材です。自分の足で歩いて、聞き当たる、

これが基本です。

これからも頑張ってください。
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