星亮一 今日の一言

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2006年5月31日(水) 戊辰戦争研究会,会津集会,7月15、16日に開催
◎ 『会津集結!!』
 2006年 7月15,16日開催決定!

 ■7月15日
集合…13:00
記念講演―榎本総裁(作家星 亮一)
 演題、戊辰戦争研究の課題
  ・研究発表→ 発表予定者は、下に表記
 (発表の持ち時間 …1人15分)
   質疑応答 あり
  ・ 懇親会

■7月16日
 ・午前中―会津観光
 ・昼食後 15:00解散

■ 会費―15000円〜18000円(未定)
(会費については、できるだけ安くしたい と思います。)

◎ 猪苗代湖周辺の風光明媚な宿です。
宿の部屋数もありますので、お早めに申し込んでください。
申し込みは事務局 中村まで・・・
◎ 参加宿泊希望者名簿(5月29日現在)


星 亮一 榎本武揚
中 村 土方歳三
伊 藤 照 姫
酒 井 坂本龍馬
寒河江 玉虫左太夫 高 野 西郷頼母 2人、 岩 崎 前原一誠
藤 谷 芹沢 鴨

渡 辺 大村益次郎 工 藤 斎藤 一
中 山 林 忠崇 遠 藤 秋月悌次郎
小 名 山田方谷 石 塚
岩 瀬 鳥居三十郎 遠 藤 大鳥圭介
坂 内 梶原平馬 滝 浪 和泉之守兼定
菅 野 佐々木只三郎 佐久間 佐久間象山
安 司 勝 海舟 佐 藤 永倉新八
佐 藤 ※NHK講座郡山 落 合 輪王寺宮
宇 内 山本八重子 シークレットゲスト
青 木 ※スペシャルゲスト 佐 藤 神保雪子

■ 研究発表者
遠 藤  【伊藤博文と木戸孝允】
三 野 沖田総司  【検証―開国に携わった 幕臣たちの力量】
中 山 林 忠崇  【強い集団作りへの提言】
寒河江 玉虫左太夫
中 村 副長 土方  【世良修蔵】

■ スペシャルゲスト→「壬生 新選組記念館」の 青木繁男氏

事務局 nakamura-toh8@hotmail.co.jp

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2006年5月30日(火) 母校一関一12年ぶり栄冠 高野春季大会
岩手日報、今朝の朝刊より

 第53回春季東北地区高校野球岩手県大会最終日は29日、

野田村ライジングサンスタジアムで3位決定戦と決勝を行った。

決勝は一関一が専大北上に7−6で逆転勝ちし、12年ぶり5度目の優勝を飾った。

公立勢の優勝は、第49回大会の水沢以来4年ぶり。夏秋を通じた頂点も同大会以来。

 一関一は5回、岩渕大地主将(3年)の右翼ポール際に飛び込む2点本塁打で逆転した。

7回にも2点を追加。1点差に迫られたが、菅原淳から新沼悠太への2年生リレーで、

逃げ切った。


 東北大会は6月9−12日に青森県で開催される。一関一は2年ぶり7度目、

専大北上は7年連続13度目の出場。

 好投手2人必死の継投 一関一

 勝利の瞬間、前日は淡々とノーヒットノーラン(5回参考)をやり遂げた

新沼悠太(2年)が両手を派手に突き上げた。遊撃手の阿部寿樹(2年)

、捕手の岩渕大地主将(3年)らが駆け寄り、もみくちゃになった。

同校12年ぶり、公立勢4年ぶりの頂点に輝いた一関一ナインは人差し指を天に向け、

歓喜に浸った。

 勝敗を分けたのは3点差で迎えた8回だった。粘投の先発・菅原淳(2年)は

右手中指がすり切れて球が上ずり、二死満塁。甘く入った球を中前に運ばれ、

1点差に迫られた。新沼は「後は任せろ」と声を掛けマウンドへ。

最初の打者を振り逃げで許したが、次打者を三振に仕留め、最大のピンチを切り抜けた。

 新沼は「リリーフは経験がなかったので緊張した。勝てたことがうれしい」

と喜びを噛みしめた。マウンドを譲った菅原淳も「ベンチで見ていて安心できた」

とライバルの力を認めた。

 2人の活躍が目立った大会だった。1回戦は新沼が花北青雲から

8者連続を含む16奪三振、2回戦は菅原淳が第2シードの盛岡大附を9回一死まで

無安打無得点に封じた。

 打線も奮起した。1点差を追う5回は、大会通算5割6分3厘の岩渕主将が

今大会2本目となる逆転本塁打を右翼席に運んだ。7回にも犠飛2つで追加点を奪い、

流れを手放さなかった。

 小野寺弘行監督は木村正太(巨人)を擁し、センバツ甲子園に出場した2年前より

「総合力では上」と評価する。

 昨秋は県8強で敗戦。その悔しさを糧に冬場を乗り越えた。

岩渕主将は「優勝と準優勝は全然違う。東北大会はご褒美。

強豪と対戦して勉強してきたい」と視線の先は夏の甲子園をとらえている。(佐藤)

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これは凄いね。

問題は夏,甲子園目指して頑張れ。

私が住む福島県は日大東北と学法石川の決勝、

東北大会ではどちらかと当たるかもしれない。

今日は自慢話になってしまった。

母校なので仕方がないね。
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2006年5月29日(月) 新聞の書評
私の作品、

「会津藩斗南へ」

デーリー東北と東奥日報に大きくとりあげられた。

大きなスペースで、青森県の文化のレベルの高さを感じた。

出版物の扱いをどうするか、各社によって随分違う。

福島県の新聞社は記者が取材して書く場合が多い、

そのせいか、表面的な紹介にとどまってしまう傾向が強い。スペースも小さく、

著者としては、もっと書いてほしいのだがなあという思いがする。

私も新聞記者の出身なのでよく分かるが日々、書くことが多く、書評までは手が回らない。

だからつい簡単な紹介になってしまう。

ところが青森では、その分野にくわしい方に執筆を依頼し、専門家が記述するので、

なるほどなという文章になっている。

このスタイルの方がいいのではないかと思う。

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新聞の書評で思い出すのは

「会津戦争全史」(講談社選書メチエ)

が朝日新聞と産経新聞の読書欄にとりあげられたことである。

その翌日、店頭の本は品切れとなり、

書評の威力を知った。全国紙の本版の書評に取り上げられることは、

滅多にないことで、これも感激だった。

これからも書評にとりあげてもらえるように、問題意識をもった本を

書いていきたいものである。
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2006年5月28日(日) 一関市文学の蔵便り
文学の蔵作りに奔走された一関市在住の作家、

及川和男さんからメールをいただきました。

星亮一様

20日のつどいにお越し下さいましてまことにありがとうございました。

あたふたしていて十分なおもてなしも出来ず申し訳ありません。

それでも来会者からは、あの方が星さんか、と顔がさらに広がったと存じております。

これから総会の準備に入ります。

昨夜三役会議を持ち、いろいろとプランを練りました。

今後又お世話になることあると思います。何卒よろしく。

御著書の寄贈ありがとうございました。

ご健筆を祈ります。

及川和男

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こちらこそ大変お世話になりました。

目下、作家の馬里邑れいさんと、

何かご協力できることはなかとメールで交信中です。

馬里邑さんには、

7月に郡山自由大学の講座にきていただき、

講義をしてもらうことになっています。

何かありましたら、いつでも駆けつけます。

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及川さんの代表作

「村長ありき」(新潮社)

ホームページ「一関と文学」より

 
 豪雪と貧しさで乳児死亡率県内一の無医村、岩手県の沢内村、

そこが戦後中国大陸から命からがら帰ってきた晟雄の生まれ故郷であった。

村のために何ができるのか----戦前と少しも変わらぬ現実の厳しさの中で、

この地に骨を埋める人間としての覚悟を固める彼。ナメコ教育長、

ブルドーザー村長、陳情村長、説教村長、カマド返し村長、赤ちゃん村長、

そして生命尊重。村人たちが敬愛の念をこめて彼におくった数々のニックネームは、

深沢村長の卓越したリーダーシップのもとに達成された村長の一代記。

 沢内村は、昭和36年(1961年)に60歳以上の高齢者の無料診療を全国に先駆けて開始、

昭和37年(1962年)にわが国初の乳幼児死亡ゼロという金字塔を樹立した。

そして沢内村は、地方自治の自主権をつらぬき、政治とは何か、

政治とはどうあるべきかの規範を示している。

 幻の名著『村長ありき』10年ぶりの増刷
 
まぼろしの名著と、古書界で言われつづけてきた「村長ありき」が、

平成十年六月、およそ十年ぶりに十九刷として世にお目見えした。

十八刷まで増刷されつつ、又、新潮文庫の一冊としても出版された本書が、

書店から消えたと知ったときは驚きでした。地元ひいきと言われるかも知れませんが、

店頭から姿を消し、いくら注文しても無駄とわかったときから、

そのことを知る者同士が、ひそかにまわし読みをしていたのでした。そして、

どこへどのようにまわってしまったのか、行方知れずとなって、

ますます本書の需要が高まっていったのです。

 今、密かにほくそ笑みながら、著者は十九刷を保持しています。

そして、このことを知った者だけが、同じくほくそ笑みながら、本書を手にしております。

 沢内村の村長となった深沢晟雄は生命を大切にする行政を展開していきます。

あるときそれは県の施策と衝突をおこしたりもします。しかし、

生命を大切にする信念はビクッとも揺らぎません。

 昨今、特に青少年の不祥事をめぐって、

こころの教育の大切さがクローズアップされています。

戦後の価値観の崩壊と経済合理性の追求が今日の精神風土を形成し、

それが事件として随所に表れてきているのではないかと考えるのですが、

ひとえに生命を守ることに情熱を傾注した深沢晟雄の生涯は今、

一層光を放って輝いています。

 刷りまで版を重ね、89年には同社の文庫にもなったのですが、

長いこと絶版状態がつづき、新しい読者に大変ご不便をかけてきました。

ところが!このほど日本経済新聞社の「日経ビジネス人文庫」から復活しました。

同文庫編集長の小林さんのおかげです。新文庫本のタイトルは、

『「あきらめ」を「希望」に変えた男』です。9月3日から全国の書店で発売されています。

 今村さんには、このホームページで、

3年前の著者買い取りによる19刷り(1700部)について

働きかけやご紹介をいただきましたが、

これからは手軽に購入できるようになりましたので、よろしくお願いします。
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馬里邑れい(まりむら・れい)さんの横顔

日本放送作家協会シナリオ教室研修科卒業。

同教室在学中、集英社ヤングジャンプ原作大賞に入選。

講談社X文庫からデビューし、ジュニア小説やエッセーなど幅広い分野で

執筆活動を展開する。

漫画を小説化した「藍より青し」、エッセー「ちょっとだけ悪い女」、

小説「ドラゴンナイトI・II・III」など

藍より青し ノベルズ

漫画でおなじみ純情な葵(あおい)とウブな薫のハートフル・コメディが

小説になって大爆発!

文月晃/原作 馬里邑れい/小説 白泉社


ちょっとだけ悪い女

馬里邑れい の初エッセイ集。

新聞連載のフツーじゃない日常に大爆笑!

馬里邑れい/著 ワニマガジン社

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及川さんは星の一関第一高校の先輩、馬里邑さんは後輩です。
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2006年5月27日(土) 今日は郡山自由大学、歴史講座、太平洋戦争
うすいデパート10階、バンケットルームで午後2時開会、テーマは

太平洋戦争を考える1、玉砕の島、ペリリュー戦記

映像を使ってこの前、でかけてきた常夏の島、ミクロネシアのパラオ共和国の

太平洋戦争の話をします。

パラオは第一次大戦後、日本の信託統治領になった。以来、約30年、

日本が占領政策をとった。

小学校で日本語を教えたので、年配者は日本語を話す。

中心はコロール島である、

人口2万人の8割はここで暮らす。

船で1時間のペリリュー島で、日本軍と米軍の間で、激戦があり、

1万人の日本軍兵士が戦死した。

島は戦争の遺跡があちこちに残っていた。

戦車、ゼロ戦の残骸、米軍のシャーマン戦車、水陸両用の車両、トーチカ、塹壕の跡、

それらの遺跡や残骸をたどりながら

太平洋戦争の意味を考えた。

戦争は悪である。

ないに越したことはない。

しかし世界のどこかで戦争は起こっている、もともと人間社会は戦争の連続だった、

戦争はつき物だった、

だから必要悪ということではないが、いつどこから敵が攻めてくるか

不透明な時代である。

軍だけの判断で戦争をした太平洋戦争は失敗だった。

だから軍隊はいらないというのは、国際的には通用しない発言である。

防衛力は独立国家として必要なのだ。

さまざまなことが脳裏をよぎった旅だった。
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2006年5月26日(金) 今日は根本匠代議士を囲む討論会
MBA21主催で、午後6時半から郡山ビューホテルで行う。

テーマは

「どうなる日本の政治」

星が司会進行を務める。

出席は根本代議士、自民党のほかに郡山商工会議所副会頭、大槻順一氏、

郡山市議会議員勅使河原正之氏。

従来、国会議員を囲む討論会は、利益誘導型のものが多かった。

しかし国会議員は必ずしも利益誘導だけが仕事ではない。

日本国をどうするか、それが最大の責務であろう。

日米関係、中国、韓国との関係、北朝鮮問題、憲法改正、愛国心の問題、

白熱した論議が展開されるに違いない、

根本 匠(54)
ねもと たくみ、郡山市出身、
自民  当(5) 党広報本部長,衆院経産委員長・内閣府副大臣・建設省職員,東大卒。

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根本匠のホームページ

根本匠ってどんな人?「政策本位の政治」で日本を変える政治家・根本匠

○政治家は政策で勝負。あらゆる政策テーマに応えなければならない

私は初当選以来、政策本位の政治をモットーに、あらゆる政策テーマに取り組み、

政界のオールラウンドプレーヤーを目指してきました。

○新人議員の頃、政策集団「アクショングループ」を結成。

さらに安倍晋三、石原伸晃、塩崎恭久の、今をときめく3氏と「NAIS」を立ち上げ、

日頃有権者と接する中で発掘した最前線の政策テーマの実現に奔走しました。

*NAISは、私たち4人が自民党の中軸メンバーとなった今も活動を続け、

「ポスト小泉」の台風の目になりつつある。

○1期目は、些細なテーマでも大切に育て政策に仕上げていく政策請負人として

研鑽を積みました。国会では皆勤賞。

○2期目は厚生政務次官に就任、年金制度や医療制度の見直し、

介護保険の導入などに取り組みました。「議員立法の根本匠」の呼び名も生まれました。

少子化問題委員長、国対副委員長としても活躍させていただきました。

政策新人類と呼ばれたのもこの頃のことで、政策づくりにも磨きがかかりました。

*実績:不良債権処理、金融再生(「土地債権流動化トータルプラン」

「金融再生トータルプラン」)など、国家の命運がかかった重要政策の取りまとめ

中心市街地活性化法や田園居住法など議員立法。

聴覚言語士や理・美容師、保育士、管理栄養士等々の国家資格化など。

*国内だけでなく海外の新聞やテレビ、英紙「フィナンシャルタイムス」、

「CNN」等でも「政策新人類」根本匠の活躍が取り上げられ、

NAISの仲間とともに「報道2001」や「サンデープロジェクト」に頻繁に出演。

○3期目。02年10月に内閣府副大臣・総理大臣補佐官を拝命。

政策実行型の政治家としてダイナミックに政策を展開する機会を得、

4人の国務大臣を補佐しつつ小泉改革の先鋒を務めました。

私の担当分野は、経済財政や行政改革、食品安全など7分野※。

一人でこれだけの担当を任された副大臣・総理補佐官は後にも先にも私だけですが、

様々な政策を組み立て実行に移すことができ、閣僚以上の働きができたと思います。

※・経済財政・国民生活・行革・道路公団改革・構造改革特区・食品安全・産業再生

○4期目。03年11月、大臣を目指す政治家の登龍門である衆議院経済産業常任委員長に就任。

与野党の論戦の舵取り役を務め、中小企業支援を柱とする中小企業金融関連2法案の

成立などに尽力しました。

04年10月、自民党7役の一角を占め、本来なら閣僚経験者が就く党広報本部長に就任。

同時に党改革実行本部の副本部長にも就任、盟友・安倍本部長と二人三脚で

党改革を推進しています。

今年3月、党国際競争力調査会の事務局長に就任。技術革新を柱に強い産業・強い

日本の復活を目指す「我が国国際競争力強化に向けた提言」をとりまとめました。

○衆議院議員になって12年。日本経済の再生から消費者行政まで

あらゆる政策をまんべんなくこなす、政策実行型のオールラウンドプレーヤーに

なりたいという目標も達成でき、政治家冥利に尽きると思っています。

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とあった。

今日は国際関係、憲法問題などについて。

どう答えるか注目される。
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2006年5月25日(木) 松江豊寿と会津武士道 と エアフォース・ワン
ベストセラーズホームページ

松江豊寿(まつえとよひさ)と会津武士道 −板東俘虜収容所物語−


著  者 : 星 亮一
定価(税5%) : \788
( 本体価格 : \750 )
判  型 : 新書並

<会津人松江豊寿とドイツ人俘虜の物語>

 第一次世界大戦で、日本とドイツの両軍は中国の青島で激突、

ドイツ軍が降伏して日本に多数のドイツ兵俘虜が送られることになる。

会津出身の板東俘虜収容所所長・松江豊寿大佐は、

陸軍上層部からの批判にもめげずに俘虜たちを人道的に扱い

、彼らは自由に様々な活動を許された。その活動は、

ベートーベンの『第九交響曲』の演奏に始まり、

劇発表会やサッカーなどのスポーツ、

さらに近隣の人々にパンやチーズの作り方を教えたりと、

地元民との交流を重ねた。

「世界のどこに、マツエ大佐のようなラーゲル・コマンダー(

俘虜収容所所長)がいたでしょうか」と、

後にドイツ人俘虜たちに言わしめた会津の男・松江大佐とドイツ人俘虜たちの感動の物語。


星亮一(ほし りょういち)

一九三五年、仙台市生まれ。東北大学文学部卒。日本大学大学院総合社会情報研究科修了。

作家。著書に『会津藩はなぜ「朝敵」か』『会津藩VS長州藩』

『源義経と奥州平泉』(ベスト新書)

『奥羽越列藩同盟』『幕末の会津藩』『会津落城』(中公新書)

『白虎隊と会津武士道』(平凡社新書)『野口英世の生き方』(ちくま新書)

『会津戦争全史』(講談社選書メチエ)『会津藩斗南へ』(三修社)

『幕臣たちの誤算』(青春新書)ほか。



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発売一ヶ月は緊張です。

読者の反応はどうか。

凄く気になります。

地獄の日々ですね。

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夕方入ってきたビッグニュース

小泉首相>移動で米大統領専用機搭乗を検討 6月訪米時
 
小泉純一郎首相が6月末の訪米時、ワシントンからテネシー州メンフィスへの移動に際して、

米大統領専用機エアフォース・ワンにブッシュ大統領と乗り込む方向で

米側と調整していることが分かった。外務省によると、

エアフォース・ワンに外国首脳が乗るのは極めて異例。

9月退陣を控える首相を大統領が破格の歓待で迎えることで、

5年間に及んだ両首脳の蜜月を世界にアピールする。(毎日新聞)
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2006年5月24日(水) 今日は鶴岡です
朝から庄内鶴岡に出かけました。

NHKの星亮一と行く歴史講座です。

明日、ご報告します。
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2006年5月23日(火) バルトの楽園6月17日公開全国東映系ロードショー
「バルトの楽園」製作委員会 公式サイトより


2006年6月、総製作費15億円の超大作映画『バルトの楽園(がくえん)』が公開される。

この作品は第一次世界大戦中の徳島県鳴門市の板東俘虜収容所を舞台に、

軍人でありながら、生きる自由と平等の信念を貫き通した所長・松江豊寿(まつえとよひさ)

の指導によって、ドイツ人捕虜達が収容所員や地元民と文化的・技術的な交流を深め、

ベートーベン作曲の『交響曲第九番 歓喜の歌』を日本で初めて演奏したという

奇跡的な実話をベースに描く感動大作です。

主人公・松江豊寿を演じるのは、今や国民的スターとなった松平健。

収容所所員に阿部寛、松江の妻・歌子に高島礼子が扮する他、

國村隼、市原悦子、板東英二、さらにはハリウッド映画『SAYURI』に大抜擢された

大後寿々花が出演。一方のドイツ兵役では、カンヌ国際映画祭監督賞受賞作

『ベルリン・天使の詩』や『ヒトラー〜最期の12日間〜』で主役を務めた

名優ブルーノ・ガンツが、ドイツ軍少将に扮するのを始め、

ドイツのブラッド・ピットとも呼ばれる実力派俳優オリバー・ブーツ、

甘いマスクで圧倒的な支持を集めるコスティア・ウルマンらが出演する等、

世界に発信する大作映画に相応しい豪華な顔ぶれが揃っています。

監督は『きけ、わだつみの声』『天国の駅』等の大ヒット作を手掛けた

出目昌伸、脚本は『忠臣蔵外伝 四谷怪談』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受賞した

古田求が担当。

撮影はドイツロケの他、3億円を投じて徳島県鳴門市に忠実に再現された

板東俘虜収容所の巨大なオープンセットがメイン舞台となる。

約90年前の知られざる奇跡的な真実を、壮大なスケールで描く感動巨編が、

今誕生しようとしている。


ストーリー

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“ムスターラーゲル(模範収容所)”が地上に存在した2年10ヶ月間の奇跡。

1914年、第一次世界大戦で日本軍は3万人の大軍を送り込み、

ドイツの極東根拠地、中国・青島(チンタオ)を攻略した。

この戦いに敗れたドイツ兵4700人は捕虜として日本に送還され、

各地にある俘虜収容所に振り分けられた。

ドイツ人捕虜達は、環境が劣悪な久留米の収容所で過酷な2年の時を過ごす。

1917年、全国12ヵ所にあった収容所が6ヵ所に統合され、捕虜達は渦潮の海を越え、

徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所に移送された。

『この先、バンドーという地で、どんな地獄が待ち受けているのだろう…』しかし、

この板東俘虜収容所では、地元民と捕虜との融和を図ろうとする松江豊寿所長の指導の下、

捕虜たちに寛容な待遇をしていた。硬く心を閉ざしていた捕虜達は、

所員や地元民の暖かい心にほだされ、徐々に心を開く様になる。

パンを焼く事も、新聞を印刷する事も、楽器を演奏する事も、

そしてビールを飲む事さえ許された収容所生活の中で、

捕虜達は生きる喜びをみいだしてゆく。

ここは捕虜にとって、まさに「楽園」であった。
そんな中、松江所長の放任的な捕虜の扱いが軍上層部に糾弾され、

陸軍省から予算削減の通達を受ける。
『捕虜たちも、祖国の為に戦ったのです』朝敵の汚名を受けた

会津藩士に生まれた松江所長は、捕虜に対する差別を許せなかった。

予算の削減を強いられた松江所長は、捕虜達に伐採仕事をさせ、

削減された経費の補充に役立て危機を逃れる。伐採仕事で忙しくなった捕虜達の中に、

それが松江所長のせいだと不平を言う者は、一人もいなかった。

そして、1918年11月、休戦条約が締結され、第一次世界犬戦が集結する。

敗戦国となり意気消沈するドイツ人達…。
そんな中、捕虜の精神的支柱だったハインリッヒ少将が、拳銃自殺を図る。

危機一髪の所で日本兵に助けられ一命を取りとめたハインリッヒに、

『捕虜たちの誇りであり、心の支えとして生きて欲しい』と松江は懇願する。

開放され、自国に戻る事を許されたドイツ人達は、

松江所長や地元民に対する語り尽くせぬ感謝の思いを込めて日本で初めて

『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する。歓声と拍手の嵐が、

奇跡的なこの美しい人間讃歌が、祖国に届かんばかりに板東の大空に響き渡る。


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試写会を見ました。

なかなかの出来栄えでした。

私の「松江豊寿と会津武士道」もよろしくお願いします。
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2006年5月22日(月) タカさんの読書日記、会津落城
会津落城     星亮一      中公新書         

 
鳥羽伏見の戦いも局地における短期決戦であったこと、あるいは江戸城は無血開城され、

彰義隊の上野の山の戦いも、あっけなく終わってしまったこと、などから明治維新は、

今や比較的平穏に進行した市民革命であるかのようにも受け取られているが、

戊辰戦争における官軍と奥羽列藩同盟の凄まじい戦い、

あるいは戊辰戦争最後の悲劇会津落城がいかに悲惨なものであったかを知れば、

明治維新も、諸外国におけると同様に、血にまみれた革命だったということを

実感できるだろう。

既に瓦解した幕府軍だが、官軍は執拗にこの殲滅をはかる。

官軍に追われる側は、この時点では、戦う意義を見失っていたとも言えるのだが、

降伏すら容赦しないというほどの官軍の攻撃に対して、

防御の体制をとらざるを得なかったというのが、奥羽列藩同盟ではなかっただろうか。

勝算の無い戦いに会津は何故挑まざるを得なかったのか。

婦女子を含む多くの非戦闘員さえもが、自決の道を歩んだあの鶴岡城の篭城戦、

白虎隊の悲劇はなぜ起こってしまったのか。本書が解き明かそうとする会津落城の真実は、

圧倒的な迫力で迫ってくる。又、本書は会津の失敗は何が原因であったのかに迫った、

「失敗学」研究でもある。

会津降伏後も半年間に渡って会津側の死者の遺体は埋葬をゆるされず、

悪臭を放って放置され続けたという事実を知るだけでも、

明治維新が薩長の凄まじいまでの幕府側憎悪を一つの原動力にしていたことを表している。

又、新選組などのドラマでは会津の名君として描かれることの多い松平容保が、

鳥羽伏見の戦いでは会津藩士を残し、

徳川慶喜とともに京から逃げ帰り多くの藩士たちから反発を受けていたにも関わらず、

会津落城後も、再び藩士およびその家族の悲惨さとは別世界と言ってよい華族としての

後半生を過ごしたことなどを知ると、太平洋戦争然り、会社の不祥事などにおいても、

常に最高責任者が責任をとらず下の者のみが犠牲を強いられる日本的風土の原点を

見るような思いがする。

明治維新とは、わずか130年前に起きた、日本における未曾有の暴力革命であったこと、

そして今にも続く日本的社会秩序の原点であったことに、あらためて気付かされた。

(03年12月発行)

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中公新書の「会津落城」

随分、力をいれて書いた本です。

皆様の感想をお寄せください。
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2006年5月21日(日) 一関市文学の蔵、パート2
昨日、文学の蔵の披露パーテイが行なわれました。

島崎藤村と一関と題する記念講演もあり、なかなかのものでした。

以下は文学の蔵のホームページです。


一関に、ゆかりの文学者(大槻文彦・北村透谷・幸田露伴・島崎藤村・加藤楸邨・色川武大

井上ひさし)をしのびつつ、新たな文化活動拠点となる文学館「文学の蔵」を設立しようという

市民運動が起きたのです。

 火付け役は、「熊文」の跡地にある酒造会社「世嬉の一」の社長佐藤晄僖さんです。

都市計画事業でとりこわしの運命にあった明治初期の土蔵(左写真)を、

何かに活かそうと考え、解体資材を買い取ったのです。

そこから、「文学の蔵」の運動が生まれました。平成元年のことです。

 一関は、平泉のとなりということもあって、昔から文人の往来が多く、

また最近では地元の一関第一高校の卒業生から作家が輩出したり、

色川武大さんが移住したりと、文学風土豊かな土地であることが、

「文学の蔵」発想の素地となったのです。

 また一関には、全国に知られている「ベーシー」というジャズスポットがありますが、

これは味噌醤油の醸造蔵を改装したもので、この「音楽の蔵」につづいて「文学の蔵」も、

という連鎖も見逃せません。

 出身作家の顔触れは、直木賞作家の三好京三、S F作家の光瀬龍、売れっ子の内海隆一郎、

江戸川乱歩賞の中津文彦、歴史作家星亮一、動物文学の遠藤公男、青春小説の馬里邑れい、

そして一関に在住して活躍している及川和男といった人々です。

小説の小野寺公二、俳句の加藤鍬邨(故人)、詩人で画家 の矢野茫土(故人)

といった人々もいます。井上ひさしさんも中学三年のとき、

世嬉の一の蔵に住んでいたことがあります。

 このような一関ですので、「文学の蔵」づくりの運動は、市民に強く支えられ、

まだ文学館は出来ていませんが、さまざまの活動を積み上げ、資金づくりも進めてきました。

井上ひさしさんも強力助っ人となり、これまでに四回の「井上講座」をひらいています。

念願実現に向けて、行政を動かすにはもう一歩というところです。

 この文学の蔵設立委員会が、島崎藤村一関曽遊百年・没後五十年の節目の年、

1993年に藤村文学碑を建立したのです。木曽五木の植樹や、講座・講演会も展開されました。

また、これが契機となって、1995年には「島崎藤村学会」の全国大会が一関で開催され、

近年にない盛り上がりを見せました。

 さて、その文学碑は、『春』の終章から採られました。

   「あゝ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい」

 藤村文学をつらぬく主潮音ともいわれる有名な独白です。

この藤村文学の真髄をつかんだ文学碑は、かつて藤村が滞在した「熊文」の跡地に

立っています。同じ敷地内には、最近地ビール「いわて蔵ビール」が誕生しました。

 この敷地内に、ちいさな祠があるのですが、

いつとはなく「初恋神社」と呼ばれるようになりました。輔子と藤村の悲恋が、

その背景にあることは疑いありません。

 癒しの風光の中に、あなたも立ってみませんか。

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日本一小さな文学館というキャッチフレイズでしたが、

非常にコンパクトで、見事な出来栄えでした。

準備に当たられた三好さん、及川さん、佐藤さん、そして大勢の一関の方々、

ご苦労さまでした。
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2006年5月20日(土) 一関市文学の蔵、22日オープン
岩手県一関市で「文学の蔵」を建設しようと運動がはじまったのは平成元年の春。

それが完成し、一関市田村町、世嬉の一酒造,酒の民俗文化博物館内にオープンします。

写真パネルなど500点,一関ゆかりの文学者の作品約200点が展示されます。

文学の蔵のホームページによると、

その前年、市内にあった明治時代の三階建ての珍しい土蔵が都市計画によって

壊される運命になったとき、土蔵の持ち主の祖先が島崎藤村滞留先の豪商「熊文」

の親戚だったことなどから、貴重な文化財の消滅を憂えた有志が

「文学関係の記念館として活用できないものか」と提案したのが、

そもそものきっかけでした。

 一関には、島崎藤村が明治二十六年、熊文家の熊谷太三郎の家庭教師として

半月ほど滞在したほか、幸田露伴、北村透谷、田山花袋、井伏鱒二、舟橋聖一といった

高名な作家が訪れ、作品にも一関のことを触れています。

また、俳界の鬼才として知られる加藤鍬邨は中学生時代を一関ですごし、

井上ひさしさんも中学三年生の半年間を一関で送っています。

 文学の蔵運動がはじまったその年、『狂人日記』や

『麻雀放浪記』などで知られる色川武大氏(別名・阿佐田哲也)が、一関に転居し、

まもなくこの地で亡くなり、遺族のご好意でその遺品はそっくり一関市に寄贈されました。

 一関と文学とのかかわりは、それだけではありません。

一関生まれの蘭学者・大槻玄沢の孫・大槻文彦は日本の近代辞書の原点といわれる

『言海』『大言海』を編纂、のちの文学者の座右の典籍として活用されたことは、

知る人ぞ 知る歴史の大切な一ページです。

 さらに、一関ゆかりの現代作家の活躍は目を見張るものがあります。

三好京三、及川和男、光瀬龍、内海隆一郎、遠藤公男、中津文彦、

星亮一、志賀かう子、馬里邑れい、などなどで、それぞれジャンルが違い、

その数、個性の多彩さは、とても地方六万都市とは思えないほどです。

 こうした文学風土から必然の運動として「文学の蔵」建設運動が起こったといえます。

ハードの「蔵」づくりは、まだ民間レベルの構想段階ですが、

過去十年近い運動の中で、井上ひさしの日本語講座を四回開き、

ゆかりの作家連続講演会、言海刊行百周年記念シンポジウム、

芭蕉行脚三百年記念事業、島崎藤村一関曽遊百年・没後五十年記念事業、

詩の朗読会、文学の旅などさまざまなイベントを開催し、

全国に広くその名を知られるようになってきました。

 地域文化を他との交流によって現代感覚で醸成し、

それを送り出していこうというのが「文学の蔵」のねらいで、

絶えず企画発信できる「動く文学館」を目標にしています。

 井上ひさしさんからのエール

 昭和24年、家の事情で山形県の南部の小さな町から、生まれて初めて奥羽山脈を越え、

一関中学に転校しました。丁度、一関は水害の堤防工事で大変なとき、

西部劇の舞台みたいに賑やかでした。一関中学の3年に編入しましたが、

みなさんが本当に親切にしてくれまして、たった半年でしたけれども、

当時の半年のつき合いで、親友が未だに4、5人おります。

 その時に、堤防沿いに飯場があって、そこにお袋と兄と弟が住んで、

お袋が大建設会社の下請けの、さらにその下の土建屋の親方で、

兄がそれを手伝っていました。その飯場が、実は世嬉の一さんの蔵だったんですね。

すぐ、世嬉の一さんに新星映画劇場という映画観ができまして、

時々モギリの手伝いをしたりして、そこに入り浸って、沢山いい映画を観ました。

そういう意味で一関は、新しい友達が出来たり、映画を毎日のように観たり、

大きな本屋があったりして、初めて大都会へ来たという感じがしました。

初めて世の中の陽が当たる所へ出たという気がしました。

 今、一関では「文学の蔵」を設立しようというボランティア運動が盛んで、

世嬉の一さんをはじめ、多くの方が参集していますが、

私も家が困っていた時期にお世話になって親切にしていただいた、

その時の御恩の万分の一でもお返ししようと、

自分に出来ることをやらせていただいております。

 「文学の蔵」の運動がしっかり進んで行けば、

一関市が全国の文学フアンのメッカにきっとなると思いますし、

なるようにしなきゃいけませんが、そういう日の来ることを祈りながら、

その日が来るまでみなさんと一緒にコツコツと頑張ろうと思います。

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というわけで,私もこの文学の蔵に参加させていただきました。

私は中学3年生の時に、一関市千厩町に父親の転勤で移り住み、

なぜか文学を志す人が多かった一関第一高校に進学し

その雰囲気を味わいました。

今日午後3時から文学の蔵で開館記念の集いがあり、

これから一関に出かけます。

準備に当たられた三好京三さん,及川和男さん,中津文彦さんらに

お会いするのが楽しみです。

私の写真,原稿,作品も何点か展示していただいており、

どんな感じなのかドキドキです。

オープンは22日午前10時、入館料無料なそうです。

平泉にお出かけの節はお立ち寄りください。

中尊寺まではタクシーで20分ぐらいです。
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2006年5月19日(金) 山川健次郎と大学の自治
山川健次郎がなぜ名総長だったのか。

それは大学の自治を尊重し、教授会の信頼を集めた面もありました。

『大学の自治』(1) 朝日新聞社 昭和38年

に,そのことが記述されています。

田中耕太郎、末川 博、 吾妻 栄、 大内兵衛、宮沢俊義氏の座談

末川 そう。 東大の山川健次郎総長が支持されたとうのも、そこだと思うな。

 山川さんというのは、ひじょうに信念の堅い人だったらしいね。

その山川さんの個人的なナニかが人をひきつけて、強く支持されたんだろうと思うな。

宮沢 山川さんは、たしかにひじょうに強く支持されてるんです。

東京はもちろん、京都からもね。それはつまり、山川さんの信望が高かったんでしょう。

末川 そうでしょう。だから、あとでまた東京大学の総長になられたんでしょう。

田中 ぼくが助教授のときだ。

末川 ぼくが大学にはいったときは、東京大学と京都大学を兼ねておられたんです。

それは公選になる前です。まだ公選にならないで、山川さんがちょっとの間、兼任されて、

それから公選になった。つまり、後で出てくる大正3年の沢柳事件で沢柳総長が辞任し、

その後、荒木寅三郎さんが最初の互選総長となるまでの間、

山川さんが兼任されていたわけで、ぼくは山川さんの訓示を、

入学式のときに聞いとるんです。

宮沢 東大で初めての選挙の総長が山川さんですね。

末川 そういう意味で、山川さんちゅう人は信望があるとともに、

大学自治確立のための大恩人ですね。

田中 昭和13年の荒木文相事件のときにね、その山川さんのむすこさんが

文部省の専門学務局長で、 ぼくはそのときに、

あなたはおとうさんのやられたことを尊重し、理解をもたなきゃいけないじゃないか、

といったことがある。(笑)

[山川総長の人間像]

大内 山川さんは国家主義の人でした。大学も国家のためにあるという考えが強かった。

純粋の意味では、彼は自由主義者ではない。しかし、山川さんは清廉無比であり、

その国家主義を彼の大学にささげてだれにもまげなかった。

彼は国家にとって学問が大切で、学問にとって自由が大切であるとしました。

そう考えることを彼の生命としました。そしてその職責のためには、

いつでも自らをすてる用意がありました。それによって、

彼は全教授の信頼を得ていました。

 そういう彼であったからこそ、七博士事件のときは−方では戸水教授をなだめ、

一方では久保田文相に対峠し得たのです。どちらも山川の真剣さを敬して、

両者の間に多少の緩衝地帯となったのです。

それがこの事件をうまい結末にまで運んだ秘密であると私は思っています。

しかし一方からいえば、山川さんが自ら辞職せねばならなかっのもこのためです。

さらまた、その辞職(それ自体でなく辞職を許した文相の処置)が大学の自由の

擁護の契機となったのもこのためです。どこか論理が合わぬところがありますが、

そこが山川さんのいいところです。あの戸水事件は全体としていえば、

勃興しつつある帝国主義の色彩をもっているが、その色彩のもとにさえ、

論点が自由であるのがおもしろい。帝国主義者が大学の自由を守ったのだからおもしろい。

 そこで、教授の団結の形にも、各人の辞職の理由にも、

いたるところ矛盾があります。それは忠臣蔵的な矛盾です。

山川さんはまさに大石内蔵助であった。人も知るように山川さんは会津藩の武士。

いったん白虎隊に加わったが、あまりに若い15の少年であったために帰宅を命ぜられたので、

その時、彼は腹を切りそこねたのです。

 その人が、若くしてアメリカに留学して物理学を学んだ。

空間的合理主義、フロンティア的な自由主義を学びました。

その純枠自由主義をもって彼は日本の教育家となりました。

「和魂洋才」の理想型人物です。この物理学の古武士が、

日露戦争にさいして東大という学問の城の守将として天命を感じていたのであります。

その城の若武者どものうちには、当然にも血気の勇者が多く、

むしろあまりにも戦いを好みすぎ、それは城を守るのには不利であった。

 しかし山川は将たる才であった。そして、

いつでも城を枕にして先ず自らが死ぬ覚悟をもっていました。

血気の人々をおさえつつ、よく彼らの団結を守ったのは彼の豪気です。

のおかげで東大の城はついに落ちなかったのです。それどころか、この戦いによって、

東大は学問の殿堂としての権威をかえって高めたのでした。

 ただ、このため山川さんが自刃したのは惜しかったが、

これは白虎隊員の運命であったともいえます。

しかし真理に殉じた彼は実は死ななかった。

その証拠には数年後浜尾総長が枢密院に去ったとき、

その後任として東大に迎えられたものは文部大臣の命令しうる人ではなくて、

文部大臣に勝った歴史をもつ山川さんその人であったからです。

この人以外に東大が迎える人はなかったのです。それで、事実上、

東大総長は東大が選んだことになったのです。

山川さんは不死鳥であったのです。山川さんを通じて、

大学の自由もまた不死であったといえます。

 山川さんはその後二つの大事件をもちました。

大正8年の大学制度の大改革、大正9年の森戸事件。

このそれぞれにおいて、彼は総長として立派な業績を示しました。

(以上 『大学の自治』よリ)

大変,参考になる座談会です。
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2006年5月18日(木) インド洋で頑張る女性自衛官
小泉総理のメールマガジンより

あらゆる分野で女性は活躍しています。

インド洋にも大勢の女性自衛官が出かけています。

頑張ってください。

インド洋からの寄稿

● 協力支援活動に従事して(補給艦おうみ通信士 3等海尉 池田由香子)


私は現在、補給艦「おうみ」乗組員としてインド洋で外国の艦艇などへの

給油等の協力支援活動を行っています。

3月に日本を出国し、本格的な活動に従事して約2ヶ月になりますが、

補給回数は20回以上7カ国に及び、多忙ながらも充実感のある毎日を送って

います。

 私の任務は、洋上補給中の外国艦艇との無線交話や電報の作成ですが、通

信がうまく設定されなかったり、直前になって開始時刻や給油量の変更要求

があったりと、迅速な対応に苦労することもあります。
 
 また気温40度、甲板上は70度以上になることもある過酷な環境に加え、

周辺海域には密輸船と疑われる船舶やそれを取り締まる各国海軍の艦艇が存

在する常に緊張感のある中での勤務は、決して楽なものではありません。し

かし、そのような状況下にあっても、乗員一人一人が自分の持ち場をしっか

りと守り、淡々と作業にあたっています。

 こうした補給活動の中にもギフトやメッセージの交換といった小さな国際

交流があります。盾などの記念品を相互に送るのですが、本艦の女性自衛官

がパンを焼いて送り、お礼のカードが届いたこともありました。

 また、手旗信号や電光掲示板を使ったメッセージの交換もしています。こ

うした小さな交流の蓄積が相互理解を深め、4年を越える日本の協力支援活

動に対する信頼を培ってきたのだろうと思います。
 
 さて、本派遣部隊には海上自衛隊の女性自衛官が初めて派遣されています。

私は防衛大学校で国際関係論を専攻し国際協力の重要性を学び、将来実任務

に就いて国防に貢献したいと思っていたので、今回参加する機会に恵まれた

ことを非常に嬉しく思うと同時に、女性自衛官としての責任も感じています。

 「おうみ」には16名の女性自衛官が乗っていますが、インド洋で活動す

る各国海軍の艦艇にはより多くの女性軍人が乗っており、彼女たちに負けじ

と総員が高い士気をもって勤務に励んでいます。私たちの後に実任務に就く

女性自衛官が続くことを心から願っています。
 
 本活動に参加し、改めて日本の活動が必要とされていることを実感し、自

分も微力ながら世界の平和と安定に寄与できるという大きな自信を得ること

ができました。協力支援活動を終了し無事帰国するまでが我々の任務です。

今後ともご支援をよろしくお願いいたします。

※ 海上自衛隊ホームページ(協力活動の状況)
http://www.jda.go.jp/JMSDF/about/haken/hakenkyouryoku/zyoukyouphot/index.html
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2006年5月17日(水) 真珠湾攻撃1,ブッシュ大統領略歴
ペリリュー島戦記、

冒頭は真珠湾攻撃からはいることにした。

太平洋戦争の緒戦は劇的だった。

見事な戦争だった。

古今東西,戦争の歴史をみても,これほど劇的な戦争はなかった。

日本海軍のレベルの高さは抜群だった。

アメリカ国民は茫然自失,顔色を失った。真珠湾攻撃

以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による真珠湾攻撃


真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)は、日本時間1941年12月8日


(ハワイ現地時間12月7日)に大日本帝国海軍が

アメリカ合衆国ハワイの真珠湾のアメリカ海軍のアメリカ太平洋艦隊と

航空基地に対して行った奇襲攻撃のこと。

世界史的にはこの攻撃によって太平洋戦争が始まり、

日本とアメリカが第二次世界大戦に参戦した。

軍事上では従来海軍の主力と見なされてきた戦艦部隊を航空機攻撃によって壊滅させ、

現在に至る空母を主力とする海軍戦略の嚆矢となった。

この呼称は、アメリカ側の呼称 (Attack on Pearl Harbor) で、

当時の日本側呼称は、ハワイ海戦(布哇海戦)。

尚、現地時間の12月7日は日曜日であった。

大日本帝国海軍とアメリカ軍の交戦は真珠湾よりも先にされたものがあるが、

この攻撃により大日本帝国とアメリカ合衆国・イギリス間の戦争であるアメリカ合衆国の

呼称太平洋戦争(大日本帝国の呼称大東亜戦争)が始まったといってよい。

また第二次世界大戦は、ヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・

太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。

海戦の経過

大日本帝国海軍艦隊の航跡図

11月26日、大日本帝国海軍機動部隊、択捉島の単冠(ヒトカップ)湾を出港。

11月29日、重臣会議。

12月1日、 御前会議。宣戦布告は攻撃の30分以上前にすべきことが決定される。

12月2日、 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号文が送られる。

一二〇八とは12月8日のことで、

「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」を意味する

※(ニイタカヤマノボレ)自体が暗号文では無い。「ニイタカヤマノボレ」は

一種の隠語で、実際に送信(打電)された暗号電報は、

それを暗号規則に基づき数字に変換、乱数を加える等の処理をした電報のはずである。

ニイタカヤマ(新高山)当時大日本帝国海軍領であった台湾に存在する山の名で

当時の大日本帝国最高峰

12月7日、 伊号潜水艦隊から特殊潜航艇(甲標的)、発進。

午後11時12分(45分説あり)駆逐艦ワードが特殊潜航艇を発見し、

これを撃沈する。「ワード号事件」

12月8日
午前3時15分、フォード島に爆撃開始。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ということになる。

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ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領略歴

見ると大学は紛れもなくエールでした。

山川健次郎の後輩です。

1.氏 名 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ

2.生年月日 1946年7月6日生

3.出身地 コネティカット州ニューヘイブン

4.学 歴 1968年  エール大学(B.A.)

1975年  ハーバード大学経営学大学院(M.B.A.)

5.職歴 1968〜73年  テキサス州軍空軍の戦闘機パイロットとして操縦訓練を受ける傍ら、

ヒューストンで農機具セールス等の仕事に従事。

」1975〜87年 アルブスト・エネルギー社創立、最高経営責任者

1978年 連邦下院議員共和党候補(落選)

1988年 ブッシュ大統領選挙本部上席顧問

1989〜94年 テキサス・レンジャーズ野球チーム運営
ゼネラル・パートナー

1995〜2000年 テキサス州第46代知事
(98年再選。2000年12月21日辞任)

2000年12月13日  第43代米国大統領に当選

2001年1月20日  大統領就任

2004年11月  大統領選挙において再選

6.家 族 ローラ(Laura)夫人、2女(双子:ジェナ、バーバラ)

7.趣 味 野球、ジョギング、釣り

8.訪日歴 父親(ブッシュ元大統領)が北京連絡事務所長(フォード政権、1974−75年)

をしていた際に、北京の両親を訪ねる途次、東京立ち寄り経験あり(75年6月下旬)。

大統領としては、2002年2月中旬及び2003年10月中旬に訪日。
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2006年5月16日(火) エール大学のホームページに山川健次郎,ブッシュ大統領は後輩
ロンドンの山田さんから下記のメールをいただいた。

やはり山川健次郎はすごいですね。ブッシュ大統領が後輩だったとは驚きです。

「山川健次郎伝」平凡社

を大統領にお贈りしよう。

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星先生のホームページを拝見していましたら、ブッシュ大統領と山川健次郎が

エール大学の出身との記事を拝見しました。これで思い出したのですが、

昨年末、エール大学のリチャード・レビン学長が東大にて講演しました。

この時の講演録は、以下の東大のホームページにも載っています。
http://www.adm.u-tokyo.ac.jp/res/res2/lecture_j.pdf

山川健次郎は日本では一部の人たちを除きあまり知られていませんが、

米国のエール大学ではそのホームページに写真入で紹介されているのには、感心しました。
http://www.yale.edu/opa/intl/japan/docs/history.html

又、エール大学卒業生として、初めて日本を訪れたのは、

1853年の黒船に乗ったペリー提督だったことも紹介されています。

近々お会いするのを楽しみにしております。

山田 直

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ペリー提督もエール大学ですか、

ますますすごい。

山田さんありがとうございます。
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2006年5月15日(月) ブッシュ元大統領、ペリリュー島を空爆
1 太平洋を泳がされた大統領
◎ブッシュ元大統領

http://alecaoyama.hp.infoseek.co.jp/asiaryokouki.html より

 太平洋戦争中の大統領の中で、 一番劇的な戦いをしたと日本で考えられているのは、

日本の駆逐艦にソロモン海で撃沈された魚雷艇艇長のケネディ海軍中尉であるが、

戦争中に最も劇的な活躍をし生死の間を往復し、

太平洋を2回も泳いだのは現ブッシュ大統領の父親、第41代大統領の

ジョージ・ブッシュ(George H.W.Bush)海軍中尉であった。

また、 ブッシュ大統領は18才という最年少の戦士でもあった。

ブッシュ少年(当時17才)は日本軍の真珠湾攻撃のニュースや、

「1隻たりとも多くの艦艇を必要とし、1門たりともより多くの大砲を必要とし、

1人たりとも多くの人手を必要とする。今や猶予すべき1秒の時間なし。

海軍よ奮起せよ」と海軍長官ノックスが全海軍に電報を発したとのニュースを聞くと、

家族に無断で海軍航空隊への入隊を決意し登録してしまった。

ブッシュ家は裕福な名門であり、時の国務長官スチムソンとも親しい間柄であったため、

父や家族はスチムソン国務長官とともに、ブッシュ少年にとにかく大学を卒業してから

入隊することを勧めた。
 
 しかし、 ブッシュ少年は18才の誕生日を迎えた1942年6月12日に

海軍に入隊してしまった。そして、 10カ月の基本飛行訓練を受け、

19才の誕生日直前の5月28日にパイロットの資格を得て海軍少尉に任命された。

次いで、 パイロットとして空母搭載機か陸上航空機か、

戦闘機か爆撃機か雷撃機かなどの選択をすることになったが、

ブッシュ少尉は当時一番大きくて操縦が難しいが、 開発されたばかりの最新鋭で、

一番期待されていた雷撃機グラマン・アベンジャーを選んだ。

上級飛行講習中の1943年11月1日に車輪が出なくて胴体着陸をして機体を破損したが、

ブッシュ中尉は1943年には講習を終えて第51雷撃隊に補職され、

エンタープライズ型空母サン・ジャシントに配属された。ブツシュ少尉は

空母に配属されてからも着陸に失敗して1機を破損させたが、

アベンジャー雷爆撃機のバーバラ号(ブッシュ少尉のフィアンセの名前、

後の大統領夫人)に搭乗し、マリアナ沖海戦、ペリリュー島、 父島、

フィリピン空襲など中部太平洋の諸作戦に58回出撃した。

この間、 マリアナ沖海戦と父島空襲時に墜落し2回も太平洋を泳いだ。

第1回は1944年6月19日のマリアナ沖海戦中で、

このときは上空直衛機として警戒に当たっていたが、

日本機の空襲が始まる直前にエンジンが故障し不時着、駆逐艦のブロンソンに救助された。

 その後、 中尉に進級しパラオやペリリュウー島の爆撃に参加したが、

20才の誕生日を迎えた2カ月後の9月2日、父島の日本海軍の通信所の爆撃を命じられ、

爆撃行動に入ったところを振分山に配備されていた海軍特別根拠地隊第4分隊の

25ミリ連装機銃により撃墜された。被弾し火災が起きると、

ブッシュ中尉は航法士兼務射撃手のホワイト中尉と通信員のデラニー2等下士官に

脱出を命じた。しかし、 1人はパラシュートが開かず、

他の1人はパラシュートは開いたが行方不明となってしまった。

一方、 ブッシュ中尉は2人の脱出後にパラシュート降下し、 尾翼で頭を打撲したが、

パラシュートが開き無事着水し、救助のために父島東方に配備されていた

潜水艦フィバック号に救助された。救助されたブッシュ中尉は1ケ月を潜水艦で過ごし

母艦に帰艦したが、 帰艦したブッシュ中尉を迎えたのは「さあ、また出掛けよう。

ジョージ」と書かれた生還を祝うデコレイション・ケーキであった。

 そして、 ブッシュ中尉は再び操縦桿を握り、 11月にはマニラ湾の爆撃に参加した後に、

母艦に修理の必要が生じたため帰国した。

修理を終えた空母サン・ジャシントと第51雷撃隊は、計画によれば1945年8月には

再び日本本土空襲を行う予定であった。

しかし、日本が降伏したため出撃は取りやめられた。

復員するとブッシュ中尉はフィアンセであったバーバラ嬢と結婚し、

エール大学に入学した。 なお、 被弾しても爆撃を続行した「英雄的行為」により、

ローズヴエルト大統領から航空殊勲賞(Flying Cross賞)を、

海軍からは黄金の翼(Navy Gold Wing)の称号と

航空殊勲章(Air Medal with three oak leaf clusters)を受領した。

なお、 ブッシュ中尉が大統領に就任すると潜水艦フィバックの乗員30数名を

ホワイトハウスに招待し、「今日あるのは諸君のお陰である」との謝辞を述べたという。

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そうか、ブッシュ元大統領はペリリュー島を空爆していたのだ、

またブッシュ大統領の親子は山川健次郎のエール大学の後輩なんだ。

これは驚きである。

全然知らなかった。

ビッグニュースである。
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2006年5月14日(日) 『会津藩 斗南へ』 5/9東奥日報にて書評掲載
『会津藩 斗南へ』 5/9東奥日報

運命切り開く姿に感動

『著者は斗南藩の成立を「挙藩流刑」といい、薩長藩閥政府がとった処置を厳しく批判する。

そのような重い内容にもかかわらず、読後の印象がさわやかなのは、

藩士とその家族が過酷な現実にめげず、それぞれの運命を切り開いていく姿に

感動を覚えるからである。(中略)

文章もまたテンポよく、時には詩的ですらある。

冬から目覚めた三沢の広沢牧場の描写は文中の圧巻である。』

(5/9東奥日報書評より抜粋。評者・富岡一郎氏)

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『会津藩は戊辰戦争の責めを負って断絶した。ところが翌年、青森県南部地方に再興が許され、

田名部に藩庁を置いて三万石で復活した。藩の名を斗南(となみ)藩と名付けた。

「北斗以南、皆帝州」から命名された。

そこには、薩長が君臨する南の維新政府を北から凌駕しようという

会津人の気概が込められている。しかし、新しい国づくりは困難を極めた。著者は、

戊辰戦争から会津藩が断絶して新生・斗南藩が誕生し、

やがて消滅する苦闘に満ちた斗南藩の歴史を綴った。』

(4/16デーリー東北書評より抜粋。評者・三浦忠司氏)

また、同日付け同紙「週間ベストセラー」欄にて、第4位にランクインしました!

(八戸市伊吉書院西店調べ)

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『戊辰戦争に敗れ、遠く下北の地に移り住んだ会津藩の人々。

飢えや病、豪雪と闘いながら新生会津を目指した斗南藩の苦難の歴史は「失敗」とみなされ、

ある時期まで会津にとって「触れてほしくない」タブーであった(中略)

著者は綿密な現地取材を重ね、激しい気迫ではい上がった会津人の生きざまと、

見事に歴史的使命を果たした斗南藩の歩みを浮き彫りにする。』

(4/13福島民報書評より)

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『戊辰戦争で敗れ、下北半島に移住した旧会津藩士や家族たち。

彼らは斗南藩を興して開拓に新たな道を切り開き、藩の消滅、

青森県の誕生という歴史の波に翻弄されながらも、

やがては同県の教育や近代日本発展の大きな礎となった。

著者は下北半島を何度か訪れ、会津藩士の誇りを胸に辺境の地で生きた人々の足跡を

たんねんにたどる。(中略)著者の「永年の夢だった」という斗南藩についての集大成。

巻末の斗南藩庁の機構・職員録、斗南の会津人も貴重な資料だ

4/2福島民友書評より)

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4/9(日)福島民友、福島民報、朝日新聞掲載、
最新ベストセラーランキングにて第9位にランクインしました!(郡山市東北書店調べ)


東奥日報も大きく書評を掲載してくれました。

深く感謝申し上げます。
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2006年5月13日(土) 今日はNHKの講座
江戸時代の女性についてしゃべった。

江戸と会津では、随分、女性の気質が違った。

江戸詰めの女性は華やかで、武術の心得もあった。

戦争の時に編制された婦女隊は江戸詰めの女性である。

薙刀をふるって敵陣に切り込んだ。

江戸育ちは勝気だった。

風呂場をのぞき見た会津の若者は、薙刀を突きつけられ、謝った。

環境によって人は変わるものである。

そんなことをはなしたら、アッという間に1時間半が経過した。

時間管理をしっかりしなければならない。
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2006年5月12日(金) 街はひとつのメデイア
マガジンハウスの雑誌「ハナコ」は、街づくりをリードする雑誌である。

MBA21では編集者をお招きして東京の街、郡山の街を比較していただき、

街づくりの提案を行なうことになった。

「ハナコ」は東京では働く女性に大変人気のある雑誌です。

食べ物、フアッション、ショッピング、さまざまなニュースが掲載されています。

地方の街は郡山にしろ福島市にしろ、どこか活気がない、

なぜだろう、

情報発信が足りないのではないか、

そうしたことを考えようというわけです。

期日は6月26日、詳細がきまったらお知らせします。
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2006年5月11日(木) 小泉総理メールマガジン、野口英世賞、賞金1億5000万円
野口英世賞

 小泉純一郎です。

 先週一週間、アフリカのエチオピアとガーナ、北欧のスウェーデンを訪問
しました。

 エチオピアでは、メレス首相、そしてアフリカ連合(AU)のコナレ委員
長と、ガーナでは、クフォー大統領とそれぞれ会談し、アフリカ支援や国連
安保理改革などについて話し合いました。

 アフリカには、全部で53の国があります。その面積は、コナレ委員長に
聞かされて私も驚きましたが、アメリカ、中国とインド、そしてヨーロッパ
を合わせたより広いそうです。

 60年ほど前、国連ができたとき、加盟国は全部で51カ国、そのうちア
フリカは4カ国に過ぎませんでした。現在、加盟国は191カ国に増加し、
アフリカはいまやその4分の1以上を占めるまでになりました。

 日本は、戦後の貧困から国際社会の支援を受けて発展を遂げることができ
ました。この経験を活かして、紛争や感染症などの問題に直面するアフリカ
の国々が自らの力で立ち上がっていくことができるように、日本としてでき
る限り支援をしていきたいと思います。

 いまから約80年前、野口英世博士は遠くガーナの地にわたり、黄熱病の
研究に身を捧げ、その途上、病に倒れ、51歳で亡くなりました。ガーナの
首都アクラには、野口博士が黄熱病研究にあたった研究室があり、当時の顕
微鏡も残されていました。

 野口博士のお母さまから、そしてアメリカ人の夫人からの手紙などゆかり
の品々を拝見し、既に日本やアメリカで名声を博していた野口博士が、遙か
かなたのガーナで研究をしようとしたその探求心、勇気に改めて感銘を受け
ました。

 エチオピアに向かう飛行機の中で、野口英世賞を創設するというアイデア
がひらめきました。アフリカの医学や医療に貢献した人に、アフリカの人に
限らず、アジアの人でもヨーロッパの人でもよい、そういう功績のある人に
野口英世博士の名前を冠した賞を授与するというものです。

 クフォー大統領とともに臨んだガーナでの共同記者会見の場でこの考えを
披露したところ、現地でも大変な反響をよびました。

 アフリカ53カ国が参加するアフリカ連合(AU)のコナレ委員長が近々
来日する予定なので、その際に、コナレ委員長の考えもよく聞いて、ノーベ
ル賞に匹敵するような立派な賞にしたいと考えています。

 今回のアフリカ訪問は、野口英世博士が私を呼んだような気がします。日
本は、ノーベル賞をとろうとするばかりでなく、野口英世賞を創設して、少
しでもアフリカの医学や医療のためになるように、野口英世博士の志を活か
していきたいと思います。

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これはぜひ実現してほしい。

ノーベル賞級のビッグな賞ということです。賞金は1億5000万円とか

私も「野口英世の生きかた」ちくま新書

を書いています。


アマゾン、英世関連図書ベスト10

ランキング タイトル 著者

1位 野口英世―伝染病に命をかけた医学の戦士

2位 こちら葛飾区亀有公園前派出所両さんの野口英世

3位 野口英世―見えない人類の敵にいどむ 滑川 道夫

4位 Dr.Noguchi―新解釈の野口英世物語 (7) むつ 利之

5位 Dr.Noguchi―新解釈の野口英世物語 (8) むつ 利之

6位 野口英世

7位 正伝 野口英世 北 篤

8位 野口英世の生きかた 星 亮一

9位 野口英世 こわせ たまみ

10位 野口英世 馬場 正男
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2006年5月10日(水) 東映映画「バルトの楽園」試写会
今日、郡山市であり、みてきました。

会津のことがよく描かれており、

感動でした。

私もバルトの楽園にちなんで

「松江豊寿と会津武士道」

をベスト新書から月末に全国一斉発売します。

「ならぬものはならぬ」

会津武士道、ブームが続きそうです。

松平健の演技も光リました。
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2006年5月9日(火) 太平洋戦争5
太平洋戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戦争への経緯

真珠湾攻撃に向かう日本海軍機1937年に勃発した盧溝橋事件(日中戦争)の後、

日本と、アメリカ、イギリス、オランダ等との間で、対立が深まっていた。

双方は以前から中華民国における利権を巡り対立していた。

日本は中華民国領へ侵出していた。これに対し、

アメリカ、イギリス、オランダ等は日本に対して

中華民国領への侵出を停止することを求めた。

その中でアメリカ、イギリス、オランダは中華民国とともに

石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとる様になる(ABCD包囲網)。

これを自国に対する挑戦であると反発した日本はドイツ、イタリアと

日独伊三国軍事同盟を締結し、発言力を強めようとしたが、

かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。

1941年4月から日本の近衛文麿内閣は関係改善を目指してワシントンで

アメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍がフランス領インドシナへ侵出すると、

両者の関係は決定的に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結、

日本への石油輸出の全面禁止などを通告した。

10月に近衛内閣から代わった東條英機内閣は、

11月20日アメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、

野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、

蒋介石、ウィンストン・チャーチル(イギリス首相)の働きかけもある中11月26日朝、

アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた

(実際は輸送船でアメリカ海軍が故意に過大な報告をした。)

警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、

いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。

これを日本に対する最後通牒と受け取った東条内閣は12月1日の御前会議において、

日本時間12月8日の開戦を決定した。

外部リンク日米開戦を回避せよ〜新資料が明かす最後の和平交渉〜

最後通牒交付
最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、

ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定であった。

12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに

14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」

(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、

指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになった。

書記官室の寺崎英成書記官(敗戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後

(タイプの一等書記官奥村勝蔵は友人とトランプをした)、

井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、

日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、

ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、

野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。

(平成6年(1994年)11月20日公開された1946年調査の外務省の公文書

『「対米覚書」伝達遅延事情に関する記録』による。)

参考書:斎藤充功 『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 』新潮新書 新潮社 

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これはよくまとまった記述である。

日本は多分に戦争を仕掛けれれたのである。

それをしたたかに我慢し、耐える力がなかった、

単純すぎたと思う。
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2006年5月8日(月) 一関市文学の蔵、
 「一関に、半径二百キロくらいの文化の波をせきとめ、

そこから東京や他都市に押し流すような、そんな文学拠点があってもいいのではないか。

東北の一小都市であってもなんの不思議もない。その位置、規模から、

かえって面白いことができるかも知れない」

とはじまった一関の文学の蔵は、この連休、連日、賑わいを見せているそうです。

以下は文学の蔵のホームページです。


 一関に「文学の蔵」を建設しようと運動がはじまったのは平成元年の春。

その前年、市内にあった明治時代の三階建ての珍しい土蔵が都市計画によって

壊される運命になったとき、土蔵の持ち主の祖先が島崎藤村滞留先の豪商「熊文」

の親戚だったことなどから、貴重な文化財の消滅を憂えた有志が

「文学関係の記念館として活用できないものか」と提案した

のが、そもそものきっかけでした。

 一関には、島崎藤村が明治二十六年、熊文家の熊谷太三郎の家庭教師として

半月ほど滞在したほか、幸田露伴、北村透谷、田山花袋、井伏鱒二、舟橋聖一といった

高名な作家が訪れ、作品にも一関のことを触れています。

また、俳界の鬼才として知られる加藤鍬邨は中学生時代を

一関ですごし、冒頭に紹介した井上ひさしさんも中学三年生の半年間を一関で送っています。

 文学の蔵運動がはじまったその年、『狂人日記』や『麻雀放浪記』

などで知られる色川武大氏(別名・阿佐田哲也)が、一関に転居し、

まもなくこの地で亡くなり、

遺族のご好意でその遺品はそっくり一関市に寄贈されました。

 一関と文学とのかかわりは、それだけではありません。

一関生まれの蘭学者・大槻玄沢の孫・

大槻文彦は日本の近代辞書の原点といわれる『言海』『大言海』を編纂、

のちの文学者の座右の典籍として活用されたことは、

知る人ぞ 知る歴史の大切な一ページです。

 さらに、一関ゆかりの現代作家の活躍は目を見張るものがあります。

三好京三、及川和男、光瀬龍、内海隆一郎、遠藤公男、中津文彦、星亮一、志賀かう子、

馬里邑れい、などなどで、それぞれジャンルが違い、その数、個性の多彩さは、

とても地方六万都市とは思えないほどです。

 こうした文学風土から必然の運動として「文学の蔵」建設運動が起こったといえます。

ハードの「蔵」づくりは、まだ民間レベルの構想段階ですが、過去十年近い運動の中で、

井上ひさしの日本語講座を四回開き、ゆかりの作家連続講演会、

言海刊行百周年記念シンポジウム、芭蕉行脚三百年記念事業、

島崎藤村一関曽遊百年・没後五十年記念事業、詩の朗読会、

文学の旅などさまざまなイベントを開催し、

全国に広くその名を知られるようになってきました。

 地域文化を他との交流によって現代感覚で醸成し、

それを送り出していこうというのが「文学の蔵」のねらいで、

絶えず企画発信できる「動く文学館」を目標にしています。

とりあえず、大成功、本当におめでとうございます。


 井上ひさしさんからのエール

 昭和24年、家の事情で山形県の南部の小さな町から、

生まれて初めて奥羽山脈を越え、一関中学に転校しました。

丁度、一関は水害の堤防工事で大変なとき、

西部劇の舞台みたいに賑やかでした。一関中学の3年に編入しましたが、

みなさんが本当に親切にしてくれまして、たった半年でしたけれども、

当時の半年のつき合いで、親友が未だに4、5人おります。

 その時に、堤防沿いに飯場があって、そこにお袋と兄と弟が住んで、

お袋が大建設会社の下請けの、さらにその下の土建屋の親方で、

兄がそれを手伝っていました。その飯場が、実は世嬉の一さんの蔵だったんですね。

すぐ、世嬉の一さんに新星映画劇場という映画観ができまして、

時々モギリの手伝いをしたりして、そこに入り浸って、沢山いい映画を観ました。

そういう意味で一関は、新しい友達が出来たり、映画を毎日のように観たり、

大きな本屋があったりして、初めて大都会へ来たという感じがしました。

めて世の中の陽が当たる所へ出たという気がしました。

 今、一関では「文学の蔵」を設立しようというボランティア運動が盛んで、

世嬉の一さんをはじめ、多くの方が参集していますが、私も家が困っていた時期に

お世話になって親切にしていただいた、その時の御恩の万分の一でもお返ししようと、

自分に出来ることをやらせていただいております。

 「文学の蔵」の運動がしっかり進んで行けば、

一関市が全国の文学フアンのメッカにきっとなると思いますし、

なるようにしなきゃいけませんが、そういう日の来ることを祈りながら、

その日が来るまでみなさんと一緒にコツコツと頑張ろうと思います。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
不肖、私のコーナーもあります。
平泉にお越しの際は、ぜひおたちより下さい。
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2006年5月7日(日) アメリカ軍、ペリリュー島上陸
アメリカ軍、ペリリュー島上陸
クックス20世紀より

非常にコンパクトにまとまっている。

1943/02/01   ガダルカナル島撤退開始 (02/07 撤退完了)

1944/02/17   アメリカ機動部隊、トラック島空襲

1944/03/08   インパール作戦開始 (〜07/09)

1944/03/31   海軍乙事件 (連合艦隊司令長官古賀峯一「殉職」/04/05 発表)

1944/06/15   アメリカ軍、サイパン島上陸

1944/06/19   マリアナ沖海戦 (〜06/20)

1944/07/07   サイパン陥落 (守備隊玉砕)

1944/07/21   アメリカ軍、グアム島上陸 (08/10 守備隊玉砕)

1944/07/24   アメリカ軍、テニヤン島上陸 (08/03 守備隊玉砕)

1944/09/15   アメリカ軍、ペリリュー島上陸

1944/10/12   台湾沖航空戦 (大本営、大戦果を発表)

1944/10/20   アメリカ軍、レイテ島(フィリピン)上陸

1944/10/24   レイテ沖海戦

1945/03/17   硫黄島守備隊玉砕

1945/04/01   沖縄戦開始 (アメリカ軍、沖縄本島上陸)


海軍はまだ率直に戦況の非を悟っていったが、

陸軍は一個師団対四十三個師団のサイパンの作戦にも、

なお望みを繋いで勝利を期待していた。

そして太平洋上至るところで玉砕に次ぐ玉砕を続けた。

その中で一きわ勇戦奮闘して、米軍の心胆を寒からしめ、

世界戦史に「驚嘆」の賛辞を残したのが、

昭和十九年九月十五日米軍が上陸したペリリュー島の守備隊中川州男大佐

(戦死後二階級特進、中将となる)の歩兵第二連隊(水戸)の戦闘であった。

幸い米軍の上陸までに、短いとはいえ四ヶ月の準備期間があった。

そのため数線の陣地を孤島の中に準備し、

第二線陣地には厚さ二・五メートルのセメントの掩蓋を作って大砲や機関砲を入れ、

水際での早まった突撃はやめて、徹底した奥行の深い戦法で、

米軍が奥に入ってくれば入るほど損害が多くなる戦闘を行った。

その結果、九月十五日以降、十一月二十四日の中川州男大佐の自決に至るまでの

二ヶ月以上を一個連隊を基幹とする部隊(約五千名)で、

米軍二個師団と押しつ押されつの戦闘を繰り返して、

文字通り米軍に悲鳴をあげさせただけでなく、

山口永少尉以下三十四名は、連隊があらかじめ作った最後の砦である

地下壕や洞窟を利用して、ゲリラ戦に転じて昭和二十二年四月二十一日まで

戦闘を続けていたのである。

堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」  P.143

玉砕続きの日本軍の中で、中川大佐と水戸連隊 大健闘。

 物量に勝るアメリカ軍と死闘を展開したのである。


クリック20世紀 トップ > 1944年 > アメリカ軍、ペリリュー島上陸  
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2006年5月6日(土) 新書マップ風、平泉
平泉 発掘調査によってさらに明らかになった都市平泉と奥州藤原氏像、

平安末期の東北地方に君臨した奥州藤原氏三代の歴史、

藤原秀衡の名がつけられた奥州平泉に通じる秀衡古道についてなど。

以下の本は新書マップ風、お薦めのものです。

私の1冊も入っています。

嬉しいですね。


悲劇の英雄源義経と奥州平泉
星亮一著 -- ベストセラーズ, 2005.10 , 245p. -- (ベスト新書 ; 98)

 平泉 : よみがえる中世都市
斉藤利男著 -- 岩波書店 , 1992 , iv, 243, 3p. -- (岩波新書 ; 新赤版 214)

奥州藤原氏 : 平泉の栄華百年
高橋崇著 -- 中央公論新社 , 2002 , 264p. -- (中公新書 ; 1622)

奥州・秀衡古道を歩く
相澤史郎著 -- 光文社 , 2002 , 195p. -- (光文社新書 ; 055)

平泉の世紀 : 古代と中世の間
高橋富雄著 -- 日本放送出版協会 , 1999 , 270p. -- (NHKブックス ; 860)


ゴールデンウイーク最後の土日

奥州平泉に出かけるのもいいですよ、

ペリリュー島から一転、

今日はNHK福島文化教室、

皆さんからどんなところに出かけたか、

話を聞きます。
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2006年5月5日(金) ペリリュー島戦記
東 出 陽 子記、ペリリュー島戦記 
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これはすごいリポートである。
察するに中央大学探検部の一員として探検されたのだろうか。
ぜひ、お話を伺いたいものです。
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第2次世界大戦では、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国などの連合国に対して、日本・ドイツ・イタリアの枢軸軍が戦闘した。第1次世界大戦がヨーロッパ中心であったのに対し、第2次世界大戦はヨーロッパ、アフリカ、アジア、太平洋全域など地球上のほとんどの地域で戦闘が行われた。

日中戦争の敗北によって米英に対する不満が募っていた日本は、資源と領地確保のための戦闘をアジア全体に広げていく。1941年、フランス領インドシナを戦略したところ、アメリカ政府は日本の在米資本を凍結。そしてアメリカ・イギリス・オランダ・中国によるABCD包囲網を形成した。この事態に日本は連合艦隊による真珠湾攻撃を敢行(1941年12月8日)、太平洋戦争が勃発した。

日本は開戦当初は破竹の勢いで連戦連勝し各国を占領。開戦後4ヶ月でマニラ、シンガポール、ビルマ等を占領し、それぞれのアジアの国家に政権を作る大東亜共栄圏構想を宣言した。しかし日本軍は圧倒的な資源の乏しさから徐々に連合国に優位に立たれる。開戦から半年後の1942年6月、ミッドウエー海戦で大敗し、機動艦隊の大半を失う。以降、海上での組織的抵抗能力を失っていく。

その後米軍は予想を上回る速さで進撃を続け、日本軍が中部太平洋最大の4万人の兵力を持っていたサイパンでさえ1944年7月7日に22日間で玉砕、8月11日、20000人の守備隊がいたグアムも20日間で陥落した。

小さな島国パラオは第1次世界大戦後日本に統治され、ペリリュー島の空軍基地は昭和15年5月に完成した。1800m×80mで、当時南洋諸島随一の規模を誇っていた。

ペリリュー島は日本軍にとっては、フィリピン拠点の防波堤として、一方米軍にとってはフィリピン攻略のための航空機基地確保および沖縄攻略の直接の足がかりとして、極めて重要な位置を占めていた。(米軍による日本本土空襲の拠点となるのはグアム、サイパンであり、また、フィリピンは南方戦線上、重要な拠点であった。)

日米両軍ともに、パラオを奪取することが事実上南洋諸国の制海・制空権を握るために重要であった。

サイパンの1/3、グアムの1/2の兵力しか持たない南北8kmの小さい島ペリリューを、米軍は3日で陥落できると予想した。米軍はこの小島に42000人の兵力を注ぎ、迎え撃つ中川州男大佐を隊長とするペリリュー地区隊の日本軍守備兵力は10000人であった。


グアム玉砕のち、次第にペリリュー・アンガウルを包囲する米機動部隊の動きは活発となり、1944年8月から米軍のペリリュー島への空襲が始まる。

9月12日には大型空母11隻、戦艦3隻、巡洋艦25隻、駆逐艦30隻、水雷艇、掃海艇数百隻あまりが海岸約1kmまで近づいた。それから3日間、戦艦からのペリリュー島への17万発の艦砲射撃で、噴煙のため日中も夜のように真っ暗になった。

9月15日、6:15AM、米軍は強烈な艦砲射撃の援護とともに日本兵が見たこともない水陸両用戦車でペリリュー島西海岸へ上陸を開始。

しかし日本軍が仕掛けておいた機雷に触れ、数艇は粉々に飛び散る。

日本軍の海岸陣地は水際からわずか30mしか離れておらず、ぎりぎりまで敵をひきつけたのち、激しく撃ちまくる水際作戦で応戦。海岸には敵味方の死体で一杯になり、オレンジビーチは文字通り人間の血で真っ赤になった。死体の数は明らかに米軍の迷彩服の方が多く、

米軍の初回上陸は失敗。2時間で1000人の米兵が死傷、上陸用舟艇60隻、シャーマン戦車3輌、水陸両用戦車26輌を失った。この上陸予定の西の浜は浅いリーフが300m続き、

米軍は6時間たっても上陸できなかったので、米軍は西海岸からの上陸作戦を変更、多大な兵力と武器を行使し、水際の日本軍陣地を迂回して続々上陸。初日の夕方には日本軍の飛行場まで進出した。

当時の日本軍には対戦車砲も少なく、人間が地雷を抱いて戦車に突っ込む方法で応戦。また、陣地を米軍に包囲され、負傷者を連れて戻ることができず、負傷者でいっぱいのトーチカを日本軍自ら手榴弾で爆破、自決した。当時の日本軍の教えは「負傷者はそのままいても米軍に殺される。それなら友軍の手で」というものであった。

ペリリュー島は隆起珊瑚でできた硬い島で、懸命に掘っても1日20cmしか進まない。

それでも日本軍は戦闘開始までに大小あわせて500にもおよぶ洞窟陣地を縦横無尽に作り、縦に深い守備を取って応戦した。米軍はこれらサンゴの洞窟陣地内の野砲陣地を発見、攻撃するのに手こずった。上陸1週間が過ぎた頃には海兵隊の死傷者は4000名近くになり戦闘員は6割以下に減った。

パラオ本島の集団司令部は新たにコロールからペリリューへ貴重な兵力を送る「逆上陸作戦」を開始した。しかし司令部は、ペリリューを包囲する米軍のおびただしい数の船を避けてペリリューに渡れる可能性は少なく、逆転するのは不可能に近いと認識していた。

そしてペリリュー島の中川大佐は「この島に兵力を注ぎ込んでも無駄である」との強い反対電報を打ち返している。それでも、友軍が苦しんでいるのを本部は目視できず作戦は敢行された。



9月22日10:30PM、逆上陸先発隊250名が6隻の上陸用舟艇でコロールから50kmのペリリュー島北端の波止場を目指し出発。23日5:00AM、波止場手前で米軍に発見されるが警戒網を突っ走り14名の死傷者のみで奇跡的に逆上陸を達成した。

9月23日8:30PM、飯田義栄大隊長率いる1200名の後発隊がコロールを出て、先発隊と同じコースを進んだ。もちろん米軍の警戒態勢は昨夜の逆上陸で今までの比ではない。

三ツ子島(オモカン島:海上輸送隊の中継地点であった)近辺から米国の照明弾により海上は真昼のように照らされていた。その後、ペリリュー島まであと2kmという地点でなんと舟艇が全艇座礁、そこからペリリューまで徒歩で上陸となった。

米軍からは砲撃と機関砲が絶え間なく襲いかかり、その中2隻のみが離礁して上陸した。結局、逆上陸作戦は、夜の斬りこみで米軍を威嚇したものの、大半は食料、武器、弾薬を失っており裸同然であった。結果的には完全なる失敗であった。

9月23日、米軍は飛行場を完全に占領、ここから1kmしか離れていない日本軍陣地を最至近距離で攻撃してきた。次第に追い詰められた日本軍は北側の水戸山の洞窟陣地にたてこもる。この人工洞窟は広大な迷路のようで収容人員は数千名におよび、火炎放射器の直射攻撃をも遮断できるようになっていた

。ここから何度も斬りこみを敢行、しかし洞窟は負傷者で充満していった。

9月27日、ペリリューの日本人守備隊は700名となる。戦闘経過を綴った報告書を本部に届けるため、奈良少尉以下17名が伝令として50km離れたコロールを目指して泳ぎ、4日後、山川二等兵以下4名がたどり着いた。


10月3日、米軍は海陸から4万発を越す砲撃を浴びせ総攻撃を開始した。日本軍の守備隊の陣地はほんのわずかになった。

10月13日、1万名いた日本軍はわずか1150名となった。90%、9000名の兵隊が亡くなったわけである。一方、米軍は10月5日までに戦死者1027名、戦傷4300名、行方不明250名と伝えられている。

10月19日、ペリリューから10km先のアンガウル島の日本軍は玉砕。米軍は占領したばかりのアンガウルに飛行場の建設を始めた。

11月にはいると日本軍守備隊は350名、重傷者が130名の500名弱となる。

山の頂上付近の洞窟にたてこもり、上がってくる米軍に山頂洞窟から残り少ない武器で反撃。米軍は戦車、火炎放射器でじりじりと前進してくる。

11月8日、日本軍守備隊は計350名となる。中川大佐は本島の司令官に集団斬り込みによる玉砕(特攻)の許可を申請するが司令部はこれを認めず、玉砕でなく最後まで持久しろと返答。勝つ望みのない守備隊の生存者には死の選択も許されなかった。戦う以外道はない。しかし戦うにも、もう武器も弾丸もなかった。
   

11月18日、戦闘開始以来2ヶ月を経過して守備隊はわずか150名となった。最期が近いのは中川大佐にも一般将兵にもわかっていた。

11月22日7:00AM、米軍の総攻撃が開始された。山頂から20m下の斜面に掘られた日本軍の戦闘指揮所めがけての戦車と火炎放射器による一斉攻撃である。本島へ戦況を報告する無線の電池も尽きようとしていた。7:40AM、中川大佐は本島司令部に玉砕報告の手順を知らせる電文を送った。

一.通信断絶の顧慮大となるを以って最期の電文は左の如く致したく承知相成りたし。

一.軍旗を完全に処置したてまつれり。

一.機密書類は異常なく処理せり

右の場合「サクラ」を連送するにつき報告相成りたし。

だが22日も23日も「サクラ」の連送は発せられなかった。

洞窟陣地の日本軍は抵抗を続けていたのである。

11月24日。米軍の掃討戦は熾烈を極めていた。守備隊に武器は残っておらず、もはや抵抗する術はない。4:00PM、中川大佐は「サクラ サクラ」という電文を送った。

日本の散りゆく桜を意味していた。

その夜中川大佐と村井少将の両指揮官は洞窟陣地で自決。中川大佐は「自分の屍は司令部に置かなくてよい。毛布にくるんで村井少将の横に置け。」と言った。60名前後の重傷兵も後を追って自決した。

11月27日、米軍はペリリュー上陸作戦終了を宣言。しかし米軍はペリリュー上陸で40%の損害を出した。これは日米大戦史上、最悪の損害率であった。当初3日で占領するはずのペリリュー攻略に、73日を費やすこととなった。徹底的に訓練された現役兵による日本軍守備隊の抵抗は頑強そのものであった。

11月末、ペリリューにはまだ80名の日本兵が潜んでいた。ペリリューの司令部との通信連絡はすでに9月末から途絶えていた。

12月末、米軍は日本軍の生存兵の大掃討戦を開始した。武器を少ししか持たない日本兵は5〜8名の小グループでゲリラ戦に出た。

20年1月以降、ペリリュー島の組織的戦闘が途絶えた。ペリリュー島は米軍のフィリピン、沖縄攻撃のための重要で安全な前線攻撃基地となり、物資は山ほど積まれていた。日本軍の生存兵はその物資を盗んで飢餓状態を逃れていた。

8月、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国軍に無条件降伏をしたことを、洞窟に潜む日本兵たちは知る由もなかった。

22年4月、GUAMから派遣された澄川少将の説得により、山口少尉ほか34名の日本軍生存兵はついに投降した。

太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥はその著「太平洋海戦史」の中で次のように記した。

「ペリリューの複雑きわまる防備に打ち勝つには、米軍の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。すでに制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者併せて1万人を越える犠牲者を出してこの島を占領したことは、今もって疑問である。」

1994年9月、パラオは日米両国を招いてペリリュー島戦闘50周年記念式典を開催。

その年、ペリリュー神社にはニミッツ元帥による以下の言葉を刻んだ碑文が、日本の有志により建立された。

「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island」

(諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍が いかに勇敢なる愛国心を持って戦い そして玉砕したかを伝えられよ)

東 出 陽 子 



<参考>

・「ペリリュー島戦跡踏査活動報告書」 2004.6 中央大学探検部

 (中央大学探検部の5名が2004.1.29〜2.27まで行った調査の報告書)



・アンガウル島玉砕兵士生存者(現パラオ在住)
アニメンタリー決断大事典
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2006年5月4日(木)  太平洋戦争4
なぜ太平洋戦争がおこったのか。

直接の引き金はアメリカの対日経済封鎖だった。

中国進出はけしからというのがアメリカの言い分で、

日米通商航海条約の破棄、特殊工作機械の規制、くず鉄の全面禁輸、

など、じわじわと日本を痛めつけた。

北朝鮮への経済封鎖が話題になっているが、実施すれば、

北朝鮮が日本に対して武力攻撃に出ることもありえる。経済封鎖とはそういうものだ。

やるほうにも覚悟がいる。

アメリカは中国に権益を所持している。しかし日本はだめだというのが、納得できず

日本のナショナリズムをいたく刺激した。

ただ日本の場合は、とめどなく中国に武力侵攻した。

これはまずかった。

満州だけにとどめるべきだったという説が強い。

事実、中国には満州だけなら譲歩できるという声があった。

そういうビラを中国東北部で見たことがある。

中国は他国である。当然、限度があるはずだった。

この辺の日本人の感覚は理解しにくい。

それならばと日本はインドオネシアに進駐した。

石油資源を確保するためである。

アメリカ大統領は報復措置にでた、

在米日本資産の凍結と、石油の全面禁輸である。

日本がとるべき道は二つにひとつだった。

中国から撤退するか、アメリカと戦争するかである。

アメリカは日本の721倍の石油を保持していた。

鉄鋼は17倍である。

しかし日本には神風がある。

決して負けることはない。

ヨーロッパではドイツが勝利し、イギリスは敗戦国となり、アメリカは孤立する。

こうした読みだった。

日米決戦にきまった。

イギリスの首相チャーチルはこの知らせに

「これで日本は自滅だ」

とほくそえんだ。

緒戦、日本は勝った、破竹の勢いだった。これにはアメリカも仰天した、

以下、続く。
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2006年5月3日(水) 太平洋戦争3
パラオから東京に舞台は移る。

戦争は情報と作戦が重要である、

開戦後の陸軍には大本営陸軍部というのがあった。

ここに世界の情報が集められ、作戦を練るのである。

最優秀の人間はドイツ課やソ連課に配属された。

できのわるい者が米英課だった、

逆ではないかと思うのだが、これが大本営陸軍部の実態だった、

ドイツには大島という大物武官がいた。

大島が送ってくる情報は、ドイツが勝利することばかりだった。

スターリングラードで、ソ連軍が勝利したにもかかわらず、

ドイツが覆すと電報をうち続けた。

ドイツの電撃作戦で、イギリスもいずれ敗れる。こうも打ってきた。

こんな誤った電報を陸軍部は信じた。

日本が必ず勝つといった背景にはドイツ頼みもあった、

人頼みは、結局期待はずれに終わるものなのだ。

周囲の島はことごとく占領されているにもかかわらず、

パラオの兵士たちは、日本が勝つと信じていた。
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2006年5月2日(火) 太平洋戦争2
パラオは日本から南に3000キロの距離にある。

大小の島が300、紺碧のパラダイスと「地球の歩き方」にある。

美人も多い。

かつてスペインの植民地だったので、情熱的なスペインの血が混じっている。

若い男性はたちまち魅了されるに違いない。

私は到着の夜、首都コロールのホテルのバーで、何時間か物思いにふけった。

サマーセット・モームの短編小説でてくるような屋外のバーである。

バーテンダーはフィリピン人で、流暢に英語を話した。

「ダイビングですか」

「ノウ、私はそんなに若くはない。もうたそがれの人生だね」

「じゃ、シーサイト、観光ですか」

「ノウ、戦争だよ」

「戦争?」

かれはびっくりした顔をした。

「太平洋戦争の激戦地、プレリュー島に行くんだ」

「じゃ、兵士だったのか」

「いやいや、それほど年ではない」

こんな言葉をブロークンで交わした。

太平洋戦争は遠い過去になっていた。

一体、あの戦争で何人の日本人が死んだのか、

2300万人という膨大な人が死んだ。

あの強大なアメリカと戦争をして勝てると思ったのか。

それが不思議だった。

真珠湾攻撃は大成功だった、

あれは完璧な奇襲攻撃だった。

シンガポール攻略も大成功だった、しかしマッカーサーは取り逃がした。

その後は連戦連敗だった、

ミッドウェーで敗れ、ガダルカナルで餓死した。

潜水艦で日本の輸送船は次々に沈められ、武器も食料も補給できなくなった。

昭和19年6月にはサイパン島玉砕、テニアン、グアムも玉砕した。

パラオの周囲は敵だらけであった。

パラオは孤立無援の状態にあった。

パラオでの戦闘開始は昭和19年9月15日だった。

以下続く
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2006年5月1日(月) 太平洋戦争1
私の場合、戦争といえば戊辰戦争だが、太平洋戦争も何冊か書いている。

山口多聞とか淵田美津雄、伊藤整一である。

すべてPHPから出版した。

山口多聞はミッドウエー海戦の勇将である。

淵田は真珠湾攻撃の飛行隊長、伊藤は戦艦大和特攻の提督である。

淵田は生き残ったが、山口と伊藤は戦死した。

考えてみたら、皆海軍である。

今度、取り組む玉砕の島は陸軍である。そういう意味でははじめてのことである。

この時期、日本軍は連敗だった。

ミッドウエイ海戦で敗れ、ガダルカナルが落ちた。

補給につまずき、将兵は餓死した。

日本は南太平洋にどんどん進出した。

問題は武器弾薬、食料、兵員の補給だった。

輸送船がアメリカの潜水艦に沈められ、石油の運搬もできなくなった。

私はペリリュー島で

「飯を食わせてくれ、弾丸があれば、アメリカには負けなかったね」

という声を聞いた。

食うものも弾丸もない。

はじまって1年後にはそういう戦争になってしまった。

戦争開始が昭和16年12月7日である。

昭和18年1月には、餓死に追い込まれた。

それから1年9ヵ月後の昭和19年9月15日、

ペリリュー島に敵の大艦隊が押し寄せた。

以下続く、
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