星亮一 今日の一言

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2007年12月31日(月) 大晦日
私の事務所のパリ通信員、本田マサヨのリポートを最初にご紹介します。

語学研修でパリに私費留学中ですが、

パリのど真ん中のラーメン屋でアルバイトをして学資を稼ぎ、奮闘中です。

たくましいですね。脱帽です。今年のアルバイト、無事終わって何よりです。

みんな、それぞれの立場で懸命に頑張っている、

そう思います。

来年は仕上げの年、健康に気をつけてパリを満喫してください。

新春パリ通信、待ってます。


 12月29日(土)

 仕事納め

 私はパリのオペラのど真ん中にあるラーメン屋で働いています。
 
今日の夜、ねぎみそラーメンをつくって仕事納めでした。
 
ここ何日かは、ねぎラーメンが大量に出ました。

冬はやっぱりねぎラーメンが人気です。

ごま油とラー油でしんなりさせた千切りねぎをひとつかみほど盛り付けたものです。
 
ごまの風味とねぎのしゃっきり感が食をそそります。

それから、フランス人もカゼには「ねぎがいい!」と注文する人もいるようです。
 
一杯のねぎラーメンに大量のねぎを使います。

それがつぎつぎに注文が入ると惜しげもなくねぎがなくなっていきます。
切っても切ってもまだ足りない!? 

というくらいねぎが足りなくなり私は毎日ねぎ切りに追われていました。

 今日は25本のねぎを切りました。

 私の手はねぎのにおいがしみついていて、

家に帰ってきてもお店のにおいがします・・・。

今年最後のまかないは、そんなに人気のねぎラーメンってどんなですか?

と思いねぎみそラーメンを食べ納めました。

味うんぬんではなく「このねぎ私が切ったんだよなぁ〜」

などと感慨深くなるもので、そうなると文句なく

「おいしい!」となるワケです。

店長の佐藤氏は今年最後のまかないではありませんが、

この日は醤油チャーシューラーメンをご所望でした。

年末の慌しさはここにもあって、この日は商売繁盛。

おかげさまで大入りです。

こんな日は、わずかながらお小遣いをいただくことができます。

ありがたいことです。

つぎの日、そのお小遣いを握りしめ近所のショコラティエに駆け込み、

八粒のチョコを買いました。

子供のお使いのような買い物ですが、

私にとっては一世一代の買い物です。

一つは私。もう一つはかおちゃん。もう一つはえいすけくん。

あとの五粒は、今一番ありがとうをいいたいいとしの君へ。

私の生活に深みが増して少しいい色になったように思うよ。

今年、君に出会えて本当に本当によかった。

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戊辰戦争研究会 渋沢平九朗 さんからのメール

 2007年は私にとりまして、

生涯忘るることの無い出会いの1年となりました。

 想えば初めて私が“会津”を意識しましたのは、

川越の中学剣道部での会津夏合宿。

地元会津の中学生と竹刀を交え、語らい、ニジマスを釣って食べ、

その時初めて“白虎隊”を知りました。
 
そして、星先生の『会津藩 燃ゆ』との出会い。

」その後、会津・戊辰・幕末をキーワードに、

目についたあらゆる物を読み漁りましたが、

中でも先生のお書きになられたものは大変読みやすく、

『よみなおし戊辰戦争』などでは先生ご自身の事も書かれていますので、

私にとりましては容保公・梶原平馬らと同じように先生も主人公でした。
 
んな私はいつの間にか、休みが取れれば家族旅行といえども

会津に行くのが当たり前となり、先生とお会い出来るのではと、

会津に行く度に滝沢街道などの旧道を使ったりしていました。

そして、先生のサイト公開に続き、戊辰戦争研究会の立ち上げでした。

そんな先生の“戊辰戦争研究会”入会こそしたものの

きちっと歴史を学んだわけでもない私は、

メールなども投稿する事も無く1年が過ぎようとしていた時の“彰義隊”でした。
 
江戸集会で先生にお逢い出来、研究会の皆様や龍馬会の皆様にも良くして頂き、

少しでもお役に立てた事に感極まり、

見っとも無くも泣き崩れてしまいましたのはお恥ずかしい限りです。

そして、『彰義隊』の発刊。

先生の本に私の名が載ることなど、どう思っても無かった事が現実となりました。

本当にありがとうございました。

心から、星先生そして戊辰戦争研究会の皆様に感謝しお礼を申し上げます。

是非ともみなさま良いお年をお迎え下さい。

来年もよろしくお願いいたします。

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恐縮の至りです。

来年6月、千葉県流山で戊辰戦争研究会の集会を行います、

渋沢さんが担当です。

流山の皆さん、よろしくお願いいたします。
△top
2007年12月30日(日) 桐野の嘘泣き
九州久留米の作家林洋海さんから、次のメールが寄せられました。

私が昨日、ここに書いた会津戦争の降伏の式典で、薩摩の中村半次郎こと

桐野利秋が、涙を流したことに関連する貴重なご意見です。

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会津降伏式で桐野が西郷の命令で嘘泣きしたというのは、驚きです。

いかにも悪辣な西郷のやり方ですね。

西南戦争の最後の日、桐野が、官軍に降ろうとして

城山を下る西郷を撃ったという話があります。

「久留米藩難事件から新撰組まで」という松本茂(海鳥社刊・福岡)さんが

書いた本に在ったんですが、これは司馬さんは「翔ぶが如く」で否定しています。

この話を残した城川という郷士は、城川という姓が

鹿児島に無いという事で否定したようです。

へーとおもって、鹿児島の電話帳を繰ると城川姓はあるじゃありませんか。

司馬さんは何故単純な調査ミスをしたのでしょうか。

松本さんは史家で、奥さんが鹿児島の人で、その実家に行った際、

古い手紙の中に城川さんからの手紙を見つけ、

桐野の西郷射殺説を信じたようです。

城川さんと一緒に輿を担いでいた相棒も同じ事を残しています。

西南戦争の後、鹿児島では神と崇められ、批判が許されなかった時代に

二人はこの話を生涯語ったといいますから、これは真相だと思いますね。

私も桐野を始め40人も居たという諸兵が、西郷自刃を見取らず、

別府晋介一人が残って介錯したなどおかしいと思います。

一説に拠ると、西郷自刃を円座を組んで見取ったという話もありますが、

このとき、別府晋介は負傷していて歩けず、輿に担がれていた身で、

介錯できたのか、元気な桐野や村田が何故、代わって介錯しなかったのか。

40人もいて、何故、西郷の遺体を捨て置いたのか、おかしい事だらけです。

桐野や別府など幹部の西郷に対する不信は以前からあって、

最後に爆発したというのが真相ではないでしょうか。

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これは凄い話です。

最後の場面というのは想像を絶する修羅場です。

何があってもおかしくはない、

そう思います。

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これは高松だけではない。

年賀状131枚、輪ゴムで束ね29日に早々配達…高松
 
高松市内の会社員(59)宅に29日、年賀状131枚が誤って

配達されたことがわかった。(読売新聞)

実は私の年賀状、東京で配達されてしまった。

「年賀状、ついてるよ」

「えええ、」

という電話があった。

どうしてくれるのか。
△top
2007年12月29日(土) 阿川大老
阿川弘之大老は、偉大なる皮肉屋である。

本を読んでつくずくそう思った。

「よしの髄から」

という作品がある。よしは漢字だが、すぐには出てこない、それでひらがなにした、

そこに宰相私論という文章があった。

福田総理の父親福田赳夫元総理のことが書いてあった。

「つまらん人だと思っていた」

という書き出しだった。

それはダッカ日航ハイジャック事件のときだった。

「人の命は地球より重い」

という迷文句をはいて、犯人の言うことを丸呑みした。

巨額な金は出す、

服役中の過激派は釈放する。

とんでもない総理だと阿川大老は激怒した。

その結果、地球のあちこちでテロが頻発し、多くの命が失われた。

無責任総理だが、いいこともひとつあったという話だった。

大老は決定的に人をけなすのではなく

最後のところで救うやり方のようだった。

なるほどねえ、これはいいなと思った。

いま「会津藩VS薩摩藩」

を書いている。薩摩の陰謀をけちょんけちょんにけなす。

しかし、人情も結構、厚い。

会津の降伏の式典のとき、薩摩の中村半次郎は

オイオイ泣いた。

松平容保はかわいそうじゃないか、

というわけだ。半次郎は泣き上戸だった。

「おい、お前、ないて来い」

命令したのは西郷隆盛だった。

散々大砲を放っておいて、最後に同情してみせる。

実にしたたかである。これで会津はやられてしまった。

まじめ一徹だけでは、なかなか勝てないのかも知れない。

阿川大老、いかがでござろうか。

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話題一変

大連立構想、民主には「一石三鳥だった」…小沢代表

 民主党の小沢代表は28日、衛星放送「BS11」の番組収録で、

自民党との連立政権構想について、「民主党の人に『政権とはこういうものだ』

『政治とはこういうものだ』という(実体験を積ませる)訓練の場になる。

『一石三鳥』で、(次期衆院選後は)民主党の本格政権は間違いないと思った」

と振り返った。(読売新聞)

そう思いますね。

いまのままではガキっぽい集団で、

とても世界をリードすることはできません。
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2007年12月28日(金) 衝撃ブット元首相暗殺, 戊辰戦争研究会10大ニュース
月28日8時1分配信 産経新聞

 爆発で投げ出された血まみれの遺体と逃げまどう支持者、燃えさかる炎…。

ブット元首相が暗殺された集会所は惨状と混乱を極め、

救急車のサイレンと怒号がけたたましく鳴り響いた。

 ロイター通信は現場の警察官の話として、

「自爆テロ犯はブット元首相の車に向かって拳銃を発射し、

ブット元首相がしゃがんでのけぞると自爆した」と犯行の状況を伝えた。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーー

これはひどい事件だ、

こんなことがあるのか。世界はまだまだ野蛮だ。

何が起こるかわからない。

不安と恐怖の時代ですね。

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仲間の楽しいニュースです。

戊辰戦争研究会10大ニュース

玉虫左太夫(事務局長)作成

10位 美人会員続々入会!! 

9位 龍馬会さんとの交流盛んに!! 

8位 東京集会大成功!!渋沢殿、とよ様、西郷頼母殿、

大鳥圭介様などの活躍の賜物です!

7位 勝海舟様の活躍!! イベントごとに手作りの御料理を

作って来てくださいました!!  凄く美味しいです!!

6位 山田方谷殿の活躍!!そして幹事長就任!!

 長岡集会を筆頭に方谷殿の活躍は目覚ましいものがありました!

5位 梶原平馬殿顧問就任!! 頼りになる大御所であります!!

4位 足立仁十郎殿、感動の研究発表!! 長岡での足立殿の発表は、感動しました! 

亡くなった伊藤一長長崎市長のご冥福をお祈り致します。

3位 トラブル続出那須登山!! 川に流された距離は恐らく

30Mは行っていたでしょう! そして、三斗小屋温泉最高でした!!

 総裁のバックは私が持ちましたあああああ!!!

2位 本年のメインイベント長岡集会の大成功! 

個人的には誕生日のお祝いをしていただいて、一生忘れられない日になりました。 

1位 総裁 大病もせずに健在! NHK『その時歴史が動いた』出演を筆頭に、

精力的に動き回った総裁の活躍は、とても○○歳には見えません!!

 これからも総裁を中心にみんなで仲良く楽しく、

そして時には勉強して(ア 違うか)活動していきましょう!

以上 

ーーーーーーーーーーーーー
小生の1位はほめすぎ、

でもありがとうございます。皆さん、良いお正月をお迎えください。







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2007年12月27日(木)  大人の見識
新潮新書からおそらくベストセラーになるだろう本が発刊され

店頭に並んだ。

阿川弘之/著

「大人の見識」

である。

阿川といえば名著「山本五十六」の作者で知られる。

山本五十六を人間山本として捉えた名作である。今年86歳になったという。

若々しい文体に仰天である。

阿川さんを目標に、ガンバルしかないかな、

でも無理だろうな、複雑な想いで読んだ。

最初から逆説である。

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僕は子供のころから大変せっかちで、この年になってもそれが改まらず、

いつもイライラせかせかしていてね、もう少しどっしり、泰然自若

としていたらと自分自身そう思うのですが、気がっつくと

頭に血が上っている。

女房に対してもすぐ癇癪起こすし、瞬間湯沸し器といおう綽名を

もらっているぐらいで、いまだに大人の風格にはほど遠いのです。

ーーーーーーーーーーーーー
とある。こうなると、一体何が書いてあるのか、読んでみたくなる。

新潮新書マジックである。

帯には

軽躁なる日本人へ。急ぎの用はゆっくりと、理詰めで人を責めるな、

静かに過ごすことを習え……。

とあり、さらに

軽躁なるものを勇豪とみるなかれ、かつて戦国の名将はそう戒めた。

国を誤る指導者の愚があり、滅亡の淵から救い出した見識もあった。

英国流の智恵とユーモア、フレキシビリティを何より重んじた海軍の想い出……、

歴史の中へ喪われゆく日本人の美徳と倫理をあらためて問うとともに、

作家生活六十年の見聞を温め、いかなる時代にも持すべき人間の叡智を語る。

とあった。

正月にはいい読み物かも知れない。

ボケ老人が多い中で阿川さんは

なぜ頭脳明晰なのか。

その観点から読むことをお勧めしたい。

ただし普通の老人が女房を怒鳴ると夕飯も出なくなること確実である。

そこはまねをしないことだ。
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2007年12月26日(水) 福島民報10大ニュース
(1) 尾瀬が単独で国立公園に(8月) 1,842

(2) 「フラガール」が日本アカデミー賞で最多4部門受賞(2月) 1,795

(3) 会津若松市の高校3年男子生徒が母親を殺害(5月) 1,724

(4) 世界フリースタイルスキー猪苗代大会運営費で大揺れ(8月〜) 1,694

(5) 前知事らの裁判続く(通年) 1,626

(6) 陸上の福島大関係選手、今年も大活躍(6月〜) 1,478

(7) 東京電力などの発電施設で偽装やデータ改ざん発覚(1月〜6月) 1,255

(8) 葵高、郡山二中が合唱日本一(10、11月) 1,203

(9) 聖光学院高が甲子園春夏連続出場(3月〜) 1,111

(10) 参院補選で民主、参院選で民主と自民が議席獲得(4、7月)


福島県はこれといったニュースはありませんでした。

平凡な1年でした。フラワーガールというのは

常磐ハワイアンセンターの 踊り子です。

映画になり大ヒットしました。

近々、戊辰戦争研究会の10大ニュースも発表します。

なんでしょうかねえ、

東京上野集会大成功とか

三斗小屋集会、茶臼岳を征服、一人川に転落、20メートル流される

とか私がNHK テレビ、その時歴史が動いた

に出演も何位かに入るかも知れません。

目下、事務局で集計中です。

流された距離20メートルは、皆あわてたため計測してませんでした。

少し、オーバーかも知れません。
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2007年12月25日(火) 時事通信10大ニュース
【国内】

1、安倍首相突然の辞任、福田内閣発足

2、参院選で自民、歴史的敗北

3、年金記録未統合5000万件が判明

4、防衛汚職で守屋前次官と妻逮捕

5、各地で食品偽装発覚

6、中越沖地震で死者11人、柏崎刈羽原発でトラブル多発

7、「大連立」頓挫、小沢民主代表が辞意

8、海自、インド洋から撤収

9、国民投票法が成立

10、日本列島74年ぶり猛暑、熊谷・多治見で40.9度

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これが10大ニュースですか。

ううん、安倍さんは、さほど驚かなかったが、

ひどいには防衛汚職と、食品偽装ですね。

防衛事務次官、がっくりです。

東北大学学生新聞を見たら、東北大学10大ニュース、2位だった。

彼は法学部の卒業生、学生全員、愕然としてこの事件に見入り、

東北大学の恥と不名誉きわまりない2位になった。

その紙面の暗いこと、守屋さん、後輩の学生にも謝罪すべきです。

食品もひどいね、

吉兆は何ですか。弱いパート職員に罪をなすりつけ、平然としている経営者、

これは人間失格、

重い罰則を加えないと、なくなりませんね。

品格の本が売れているというのが不思議である。

日本社会はどうも末期症状じゃないかなあ。

誰がどう悪いのか、戦後の付けが一気に噴出した感じです。

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武士の品格 渋沢平九朗
 
先生の今日の一言がお昼を過ぎても入らない日は、

「うんっ 何かあったのかな?」

などといらぬ心配をしてしまう今日この頃ですが、

昨日のお話は、思わず笑ってしまいました。

ところで、先生は武士の品格をお考えになられました時、

最初に誰を思い浮かべたのでしょう?

“品格のある武士”色々と考えましたが、

私は、神保修理を挙げようかと…

皆さんはどうですか?

ーーーーーーーーーーー
ううん、

私は松平容保をあげようかなと思いました。

義に死すとも不義に生きず

ですね。


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2007年12月24日(月) 武士の品格
品格ばやりである。

品格とつけば、凄くもてはやされる。私のかつての上司、

今泉正顕さんが、「上司の品格」PHP文庫

を書いたところ、たちまち2刷りになった。

「星君、君の本は売れてますか」

「それがなかなか2刷りになりません」

「そう、上司の品格、増刷だよ」

「ええ、そうですか。お目でとうございます」

といったものの、腹のなかは、クククである。

私の「会津戦争全史」は8刷りなので、負けてはいないが、

刷り部数が違う、品格はドカンと増刷する。

そこで武蔵は考えた。

「武士の品格」

はどうだろうか。今日は午前中かかって中身を考えた。

いささか遅い感じもするが、当たって砕けろである。

企画書を書いてみようとかと思う。

その前に様子を見なければならない。

今日は休日、某編集者の自宅に電話したら

「やめたほうがいいですよ。もう品格は終わりです」

と冷たい返事だった。

お金に目がくらんではだめなのだ。

山川健次郎先生にしかられるぞ。

そんな声も聞こえてきた。

「武士の品格」

これは没ですね。

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これは品格に反する。当分、謹慎

いじめ

明大・元応援団員自殺、下半身裸にし暴行 ビデオ発見で再調査へ
 
明治大学(本部・東京都千代田区)の応援団リーダー部に所属していた

理工学部3年の男子学生(21)が今年7月に自殺した問題で、

同部の複数の元幹部が男子学生を裸にして熱湯をかけるなどの暴行を

加えていたことが23日、分かった。

部室から暴行の様子を撮影したビデオが見つかった。

大学側は自殺の原因にいじめなどがなかったかを調査し、

いったん「いじめはなかった」との結論を出したが、

ビデオの存在が明らかになったことで再調査を進めている。

(産経新聞)
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2007年12月23日(日) 今日は日曜日
先日、ある全国紙の記者と3時間ほど懇談する機会があった。

「新聞は発行部数も広告収入も頭うちです」

と記者は語った。

「なぜですか」

「若い人は新聞を読みません」

「インターネットですかね」

「それもありますが、とにかく活字離れです」

私はいささか憂鬱になった。

新聞の熱心な読者である私にとって新聞が,読まれなくなるのは

実にさびしい限りである。

原因はインターネットだけではないだろう。

テレビを見れば、世界の動きも日本の動きも瞬時にわかる。

あえて新聞を読む必要はないからである。

じゃ、新聞の魅力は何か。

安心してゆっくり読める奥の深さである。

文化欄、芸術、あるいはスポーツ、世界の動き、

じっくりと読むことができる。問題はその時間ガないことである。

遠距離通勤、蓄積される疲労、多忙な仕事、

とてもじゃないが新聞を読む時間ガない、

それが実態なのである。

だからせめて日曜日、ゆっくり新聞を読むことをお勧めしたい。

「でも一週間分の新聞、膨大だよ」

となるだろう。

私はこれはと思う記事は、切り取って、保存しておき、それを読むのである。

切取るというと、はさみで切取ると思いがちだが、

そうではない。

ぱっと破いて重ねておくのである。

これだと手間がかからない。

星式新聞読書法である。
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2007年12月22日(土) 今日は忘年会
戊辰戦争研究会の郡山、白河、会津、福島、仙台の会員が集まり、

5時半から郡山市のだいこんの花で行います。

和気あいあい、内輪の忘年会ですが、幕末維新史に興味と関心を

抱く年齢マチマチ、地域もマチマチ、でも楽しい集団の集まりです。

よく集会を開くのが、この会の特徴で、2月には鳥羽伏見街道トレッキング

と京都の旅、会津下郷温泉での新年集会、

それから東京で研究集会、5月には宮城県の七ヶ宿集会、

6月は千葉県の流山集会、これは新撰組と戊辰戦争がテーマ、

多分、夏、秋も何かあるでしょう。

そうそう、ありました。11月の長崎集会です。長崎は幕末維新胎動の地です。

1年後の新春、2009年新春は土佐の高知に

集まるといった具合です。土佐の海を見つめ坂本龍馬の心境に浸るのです。

人生、普段は仕事に精を出し、休日には

趣味の世界に仲間と一緒に生きる、これが健康の秘訣です。

今日の酒は会津の銘酒『飛露喜』ひろきです。

『飛露喜』 ひろき
福島県会津坂下町:(資)廣木酒造本店
蔵元・杜氏:廣木健司

― 次世代空間の酔い心地 ―
会津若松からバスに揺られ30分。喜多方街道沿いの小さな酒蔵から

『飛露喜』が産声を上げたのが1999年のこと。

定番の特別純米生詰は冷やで飲むなら日本一コストパフォーマンスの良い酒だと

思います。限定入荷の純米吟醸は酒米によるキャラクターを楽しむことが出来ます。
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2007年12月21日(金) 不思議な証言
北越戊辰戦争に新証言である。

正確に言うと新証言発見である。

長州藩兵本田友一の証言によると、

長州軍参謀の時山直八と長岡藩家老河井継之助が小千谷で会談し、

時山が「官軍につくべし」というと河井が

「会津に強制されて兵を挙げたが、兵を引き上げるのに4、5日かかる」

と官軍に味方すると、いったというのである。

河井が会談したのは、時山ではなく、土佐の岩村精一郎だった。

山県有朋の回顧録にも長岡側の記録にも

これは一切なく、誤報だと思われるのだが、

本当にあったらば、また違った展開もあったかも知れなかった。

この日、岩村のほかに出席したのは、長州の杉山荘一、白井小助

薩摩の淵辺直衛門である。

ここでミステリー、

杉山荘一、白井小助のどちらかが時山直八だったのか。

こうなると推理小説である。

本田がどこで誰から聞いたのかは不明である。

しかし、この話

維新戦役実歴談に出ており、

特に訂正された跡もない。不可思議である。
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2007年12月20日(木) 山県有朋と黒田清隆、松平さんフリーに、
今日も「会津藩vs 薩摩藩」の執筆です。 

この二、三日、薩摩と長州のあからさまな対立を書いています。

薩摩の黒田、長州の山県、二人は戊辰戦争、越後の戦いに、

参謀として参戦していました。

これが仲が悪く、共同作戦になると、どうも薩摩は腰が引け

逃げ出そうとする始末でした。

なぜか。

私の推理ですが、

会津攻めに深い関係があり、薩摩は奥州街道から会津に向かう

伊知地政治の軍勢を支援し、一番乗りを果たさせようと考えていた

ふしがあるのです。

越後の山県がとんとん拍子に会津に攻め込んでは、長州の手柄になる、

それを阻止せんと、薩摩の黒田は

のらりくらりと戦っていたのではないか。

不思議と思うでしょうが、会津をどちらが倒すかは

重要な問題だったのです。発言力も違ってくるでしょう。

同床異夢というか、双方、激しく争っていたのです。

戊辰戦争にはまだまだ謎ありです。

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これはニュースです

NHK松平定知アナ、フリーに

12月20日12時4分配信 オリコン

『その時 歴史が動いた』の司会などで知られるNHKの松平定知アナウンサーが、

11月末でNHKを退社しフリーになっていたことが20日(木)、

一部スポーツ紙で報じられている。

 報道によると松平アナは、NHK退職アナでつくるLLP(有限責任事業組合)

「ことばの杜」に12月から参加しているそうで、来年2月16日(土)に

都内で開催される定期朗読会のイベントに出演、

『その時 歴史が動いた』などのNHKのレギュラー番組は

当面出演を続ける予定という。

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それででしょうか、

来年7月、白河で行われる戊辰戦争140年記念行事に

松平さんの出席が、つい2日前に決まったばかりでした。

これから引っ張りだこだと思います。

松平さん、おめでとうございます。
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2007年12月19日(水) NHK 鶴瓶さんの家族に乾杯。丸森町
出演、菊川怜,笑福亭鶴瓶,小野文恵,【語り】久米明

女優の菊川怜をゲストに迎え、宮城県丸森町を旅する後編。

「農業にふれてみたい」という菊川は、初めて訪れた棚田で脱穀作業をお手伝い。

棚田を守る85歳の農家の「毎日、田んぼに感謝している」という言葉に感動。

一方の鶴瓶は、町を旅しているうちに太極拳教室に参加することに。

そこで出会ったこだわりの味噌づくりを行う家族を訪ねるが、

なぜか子どもから目の敵にされてしまい…。はたして2人の出会い旅の結末はいかに?

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という番組でした。

とにかく、びっくりでした。

藍染の方の一家、奥さんがミュージシャンでギターと歌が抜群にうまかったこと、

天然味噌を作っている一家、奥さんの太極拳のうまいこと、

坊やが手製の弓で鶴瓶さんを襲ったこと、

理由はせっかく町に出かけるはずだったのに、鶴瓶さんきて、ダメになり

大いに怒り襲撃したようでした。

山の中に住んでおり、町に出かけるのは、楽しみだったようです。

いろいろ、これが丸森町かと仰天でした。

また私の小学校の同級生、イワオちゃんが、じゅねんじょつくりの会長として出演

奥さんは美人で、活発、大変な番組でした。

私の先祖は戦国時代から

この丸森町小斎に住んできました。

伊達政宗の初陣の時代からです。

丸森町は福島県相馬市と梁川町に隣接する伊達藩の国境でした。

ですから町内に三つの砦があり、ここに兵を抱えていたのです。

伊達政宗は天下に乗り出す野望を秘めていました。

そのため秀吉や家康との決戦の場合、どうするかを考えていました。

国境に兵を常駐させていたのはそのためでした。

私どもの主人は佐藤宮内を名乗り、江戸留守居役や軍団の大隊長を務める

伊達藩の有力な家臣でした。

その丸森町もご他聞にもれず

過疎に悩んできたのですが、

いつのころからか東京や横浜などから移り住み、無農薬の農業や

染色、あるいは子供の野外宿などを行う人が増え、

あたらしい住民の方々が、丸森町の顔になってきたのです。

その家族の方々が今回、テレビに出演したのでした。

話には聞いており、民宿を開いている人もいて、

泊まったこともあるのですが、

これほど多彩な方々がいるとは知りませんでした。

東京にお住まいで、作家の森まゆみさん

この方のルーツも丸森町です。

私と同じ旧小斎村がルーツで、私とは縁戚の関係にあります。

曽祖父は森さんの家から婿さんにきたので、

割合、近い関係にありました。

今度、ご一緒に

ふるさと塾

といったものを夏休みの期間中、

丸森町で開く計画も町の人が練っています。

文学、歴史、四方山話をする塾です。

森さんはすでにここにコテージをもたれており、

家庭菜園のようなものもされており、かなり長期間、

滞在されております。

それだけ、ここはいいところということでしょうか。

私は戦時中、ここに疎開し、小斎小学校を卒業しました。

父親がここで生まれ、育ったのですが、

鉄道に憧れ、上野の岩倉鉄道学校に進み、

国鉄に務め、私は仙台で生まれました。

しかし、祖父、曽祖父、そのまえ何十代にもわたって、

ここで暮らしてきたわけで、私にとっても大事なふるさとです。

じゅねんじょのイワオちゃんから

「ちょっと、来てくんねがい」

とまた電話がかかってくるでしょう。

そのときは、いそいそと出かけるのです。
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2007年12月18日(火) 流山と戊辰戦争
戊辰戦争研究会は流山市の新選組の愛好者の皆さんと共同で、

来年6月28、29日に流山市で

研究集会および、歴史探索の旅を行うべく作業中です。

北関東戊辰戦争研究の第一弾です。

ここはなんといっても新選組です。流山市でもずいぶん力を入れており、

「新撰組サミットin流山」も過去に行われております。

楽しく、かつ有意義なイベントにしたいと、

戊辰戦争研究会関東支部の面々が、流山の方々と

協議を進めております。

流山市の広報には次のガイドがありました。

新選組流山へ

 慶応4年(1868年)4月2日大久保大和と名乗る近藤勇を隊長とした

幕府公認の治安隊(実態は新選組の生書残り)が流山に駐留してきた。

 この流山駐留について、従来の研究では、

会津入りを果すための中継地点として、

約2週間ほどの駐留が行われたものと考えられてきた。

しかし、昭和50年に足立区西綾瀬(当時の五兵衛新田)の金子家から、

慶応4年3月から4月にかけての動向を示す貴重な文書が発見され、

歴史の空白を埋めることになった。
 
金子家史料によれば、慶応4年3月6日に甲州勝沼で板垣退助の率いる官軍に敗れた

甲陽鎮撫隊150名は江戸に敗走。13日夜には浅草から五兵衛新田の金子家へ入った。

この夜、大久保大和を先頭に48名、2日後には約50名の第2陣が

内藤隼人(土方歳三)に率いられて金子家に入った。
 
これ以降、4月1日まで隊士の徴募を行った後、4月2日未明から午前中にかけ、

総勢200余名が流山へ移動したのである。流山での駐留は、本隊が酒造家長岡屋へ、

分隊は光明院、流山寺等に宿をとったとみられている。

翌3日、流山に賊徒が屯集しているとの情報を得た新政府軍の先峰隊(香川敬三隊)

は流山を包囲した。
 
しかし戦闘体制が整っていなかったため、大久保大和は総督府へ出頭して

幕府公認の治安隊を主張したが、近藤勇であることが露見。

捕らえられて4月25日、板橋宿で処刑された。
 
一方、流山に残っていた隊士たちは4月6日会津へ移動を始めるが、

奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、

布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、

潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった。

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新選組はなぜ流山に集合したのか。

なぜ近藤はあっさりとここで出頭したのか。

きわめて興味ある問題です。
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2007年12月17日(月) 山川健次郎と九州大学
九州大学の前身、九州帝国大学の初代総長は、会津藩出身の山川健次郎です。

九州大学の広報に下記の記述がありました。

ご紹介します。

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明治44年(1911年)福岡に医科大学(明治36年設立の福岡医科大学を前身とする)

と工科大学から成る九州帝国大学が創設され,

その隆盛を担うべく選ばれ説得されて初代総長に就任したのが,

元の東京帝国大学総長,理学博士山川健次郎だった。

この山川健次郎の若年時のエピソードが,

西南戦争を題材にした司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」にある。

 最強を謳われた薩摩武士団が,維新後もその強さを維持したまま

西郷隆盛を戴いて北上を始めた。熊本城を囲み,

乃木少佐の率いる先鋒部隊を敗走せしめ,現在の玉名市付近で,

兵の数と武器弾薬量において圧倒的に優位な明治政府軍と死闘を繰り広げた。

明治10年2月のことである。

 山川健次郎(のちの東京帝国大学総長)という米国帰りの若い物理学者がいて,

開成学校(この年の4月に東京大学と改称)の教授補をつとめていた。

山川は旧会津藩士で,白虎隊に年齢が足りなかったこともあって入隊せず,

のちに北海道開拓使からえらばれて米国エール大学に留学した。

この明治10年で,かぞえて24歳である。

 「山川という若い学者は,会津人に人望がある」

ということを岩倉(具視)がきき,開成学校に使者を出して会うことを求めた。

山川は会津藩をいじめぬいたこの時代の政治家を好まず,理由を構え,

上しなかった。しかし相手が再度使いをよこして要請が執拗だったため

やむなく岩倉の屋敷を訪ねたところ,岩倉がいったことは,

「山川君にとくに要請するのだが,陸軍少佐になって会津で兵を募り,

薩摩征伐に行ってもらいたい」ということだった。山川はあきれてしまい,

言下に断わって門を出た。東京が孤立しつつあるという恐怖と戦慄がなければ,

岩倉もこういうことをいわなかったであろう。


(司馬遼太郎著「翔ぶが如く」文春文庫版第九巻「警視隊」)
 
花見朔巳編「男爵山川先生伝」によれば,

山川健次郎は安政元年7月に会津藩の家老となる家の三男として生まれた。

年齢が一つ足りないのと学問に専念させるという藩の意向で白虎隊に入らず,

会津落城後,重臣評議の結果,長州人奥平謙輔を頼って密かに越後口に逃がされた。

明治2年8月奥平謙輔とともに東京に移り,前原一誠(参議・兵部大輔)

の書生となるなど貧窮の中で苦学を続けた。

明治4年に選ばれてアメリカ合衆国に渡り,

明治5年夏エール大学のシェフィールド理学校に入学し,

学位を得て明治8年5月に帰国した。

翌9年には23歳で東京開成学校教授補となっているが,

この年萩の乱が起こり,健次郎をかわいがった奥平謙輔は

前原一誠とともに斬罪に処せられている。

西南戦争が起こるのはその翌年であり,

頑強な薩摩軍に対抗するため健次郎の兄など多くの旧会津士族が

集められ戦いに投入された。

 健次郎は,明治22年に日本で最初の理学博士となり,

明治34年6月から38年12月まで東京帝国大学総長を務めた。

明治44年4月8日九州帝国大学初代総長として単身博多駅に降り立ったとき,

予告をしなかったので出迎えはなかった。同22日に400名の学生を前に演説し,

「試験のためでなく学問のために学問すること」「自ら研究する精神を尊ぶ」

「多方面に趣味と知識を有する人格養成」など現在も生きる建学の精神を説いた。

 同年11月に門司駅構内で天皇のお召し列車が脱線し,

責任者が自殺するという事件が起こった。

自殺によって非難が同情と賞賛に一変したことを健次郎は良しとせず,

福岡日日新聞で命を大事にすべきことを説いた。

大問題となったが「卑見修正すべき必要認め申さず」と態度を変えなかった。

 九州帝国大学総長を大正2年5月まで務めた後,

同年同月から大正9年9月まで再び東京帝国大学総長の任に就いた。

大正3年8月から4年6月までは京都帝国大学総長も兼任している。

学者,教育者として栄達を極めたといえるだろうが,

白虎隊の同胞,会津の人々,奥平謙輔や米国での恩人など,

若年時の尋常ならざる経験と苦労のなかで出会った人々は,

健次郎の胸の底に生き続けていたのではないか。

その晩年の風貌は質実剛健,古武士の風がある一方温情漂い,

接する者に感銘を与えたとある。

 健次郎は大正4年男爵を授けられ,昭和6年6月に78歳で没した。

苦労のなかで出会った人々は,健次郎の胸の底に生き続けていたのではないか。

 九州大学は,かつて健次郎が留学し世に出る契機となったエール大学と

学生交流の話し合いを進め,今秋から学生の受け入れを始める。

初代総長が120年以上前に留学した米国の名門大学との交流が,

双方にとって実りあるものに発展することを願いたい。
--------------------------------------------------------------------------------「翔ぶが如く」からの抜粋については,司馬遼太郎記念財団並びに文芸春秋社から掲載の御許可をいただいた。謝意を表したい。
----------------------


福田さんはすべて煮え切らない。これではだめですね。

ヘッドライン
<福田首相>佐世保乱射事件で「銃取り締まり非常に難しい」

 福田康夫首相は17日午前、首相官邸で記者団に対し、

長崎県佐世保市の散弾銃乱射事件を受け、

「散弾銃は許可を受ければ持てる。その(正規の)目的のために使う人もいる。

どう取り締まるか、非常に難しい話だ」と述べた。

そのうえで「使用基準や管理などいろいろな問題があるが、

よく検討しなければいけない」と述べ、

政府として再発防止策を慎重に検討する考えを示した。

【坂口裕彦】(毎日新聞)
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2007年12月16日(日) 山川健次郎と産経新聞
今朝の産経新聞、読書欄に、私の「山川健次郎の生涯」ちくま文庫

が文庫紹介のところに掲載されました。

日曜日は駅で産経新聞を買うことにしており、

「ありがたいなあ」

と豊かな気持ちになりました。

この本はもともと産経新聞の東北版に連載されたものでした。

それが平凡社から単行本になり、4刷を重ね、今回、文庫になったのです。

ですから産経新聞は生みの親だったのです。

今日の新聞は写真付きで、ひときわ目立つ扱いでした。

そこには

「15歳で白虎隊士となった山川は、後に米エール大学で学び、東京帝大総長を

務めた教育界の大御所。しかし会津時代の悲惨な体験を終生忘れず、清廉潔白

を貫き、後進たちを温かく見守った。

いま日本に求められるのは、山川健次郎のような人物、という著者に同感だ」

とありました。

感謝です。
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2007年12月15日(土) 今日は本の整理
朝から本の整理。

岩波書店発行の高野長運著「高野長英伝」と松本健一の

「秋月悌次郎」作品社がどうしても見当たらない。

あちこちひっくり返して、やっと見つけた。一時はもうだめだと思って

古書店も調べた。買うしかないかなと思ったのである。秋月悌次郎は

古書店になかった。

其のうち2冊とも本の下から見つかった。背表紙が反対になっていたので

みつからないのも当然だった。

昨日から探していたのでこれ1日費やした。

なぜこの2冊を探したのか、

高野長英を考えてみたかったのと、

秋月と薩摩藩の関係を考えていたからである。

これも原稿がらみである。秋月は会津藩の公用人、

薩摩・会津同盟に尽力した人物である。

文庫本、新書は

よく見つからなくなり、

書店に買にに行ったこともしばしばである。

いま午後2時、ようやく原稿である。

昨日から

「会津藩vs 薩摩藩」の「はじめに」を書いている。

これが不思議と仲がいい。
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2007年12月14日(金) 今日は赤穂浪士討ち入り
実は忘れていました。

昨日、「赤穂浪士の実像」吉川弘文館、歴史文化ライブラリー

を購入したのも今日、討ち入りとは思わず、偶然に手にしたものでした。

今朝、九州福岡の古屋さんから下記のメールを頂き、ええと思った次第です。

なんとはなしの予感があったのかも知れません。

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星先生

赤穂浪士の続きです。

四十七士の一人で、討ち入り後姿を消した寺吉右衛門は、大石の命で、

幕府にもみ消されないように、この義挙を後世に残す語りべとなること、

討ち入りの次第と主家から預かったし資金の残金を京都にいた主君の奥方に

返還すること、同志の家族・親戚に討ち入りの次第を報告し、

其の後は同士の菩提を弔う事を命じられ、

全国に散った家族や親戚を回ります。

最後に六部姿の寺坂は久留米藩士柘植六郎左衛門(200石)に

嫁いだ吉田忠左衛門の叔母を訪れ報告します。

寺坂は吉田家の陪臣だったので、使命を終えた寺坂に、

柘植が久留米に留まる事を勧めたのでしょう。

寺坂は久留米の隣、八女郡忠見村の立山に庵を営み、

同志の供養をしながら享保14年(1729)9月26日66歳で没します。

この庵は同郡長嶺村の1念寺の末寺だったので、墓は一念寺にあるそうです。

寺坂は江戸で没したという説もありますが、

久留米市史には当地で没したとありました。

それにしても討ち入りの是非を後世に訴えようとした大石に比べ、

西軍に抗する事を義挙としたにもかかわらず、

敗れた事を恥としたのか一切口をつぐんで語らず歴史に埋もれた戊辰戦争の二本松、

いろいろ考えさせられる12月14日です。古屋

ーーーーーーーーーーーーーーー

なるほど、そうですか。

さて「赤穂浪士の実像」

著者の谷口真子さんは、大阪生まれの若い研究者です。

現在、早稲田大学非常勤講師、

この本で、谷口さんは

「内蔵助や安兵衛は家、一族の名誉を重んじ、武士としての矜持を強くもっていた。

討ち入りは武士道にもとずく忠死であり、本人のみならず家、一族の名誉となる行為、

死を怖れない武士としての、姿を衆目にさらす行為である」

と述べていました。これは確かに注目すべき、あたらしい解釈です。

実は会津武士にもこのような傾向があったのです。

我が家の名誉にかけて立派に戦って死ぬ、

会津の兵士、とくに上級武士には、この傾向が強かったのです。

赤穂浪士と会津武士には共通点があったのです。

さて今日、どこかのテレビで赤穂浪士の放送、ないのかなあ、

見当たらないようである。

地球温暖化で暖かくなり、雪を踏みしめて討ち入りに向かう姿が

消えてしまったのか。



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2007年12月13日(木) 今日は寒い
仙台は雪、郡山は冷たい雨、ぶるぶるです。

ここでストップしたら久留米の古屋さんからメールが入りました。

星先生

さすがの先生も寒さが厳しいと、言葉がなくなるようですね。

今朝、事務所にでたらストーブの灯油が切れていました。こちらも寒い。

今日は11度から日中わずか1度しか上がらないといっていました。寒いはずだ。

今朝のラジオで赤穂の赤穂浪士のイベントのニュースがあっていましたが、

歴史ものというのは人気のある事柄が決まっていて、

戦国なら信長、秀吉、家康、人情ものや捕り物は江戸中期、

幕末は新撰組という具合で、戊辰戦争で

「一に衝峰、二に桑名、三に佐川の朱雀隊」といわれた人気の衝峰隊が、

今では誰も知る人も無いとは・・・残念です。

それにしてもお寒い世の中です。ハックション・・古屋

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ということでした。

私は昼から書店に出かけました。

昨日、PHP文庫に「南雲忠一」の原稿を送ったので、今日は

休日といったところ、開放された感じの一日です。

人間にはショッピング志向というのがあって、

むしょうに本が買いたくなり、

数冊、購入してしまいました。

ドナルドキーン、渡辺崋山、新潮社

岡本太郎の東北、毎日新聞社

谷口真子 赤穂浪士の実像 吉川弘文館

津本陽 本能寺の変はなぜ起こったのか 角川oneテーマ21

徳川宗英 徳川300年ホントの内幕話 だいわ文庫

といった本です。

渡辺崋山は読みみたいと思っていたのですが、入手していませんでした。

いま謎解きばやりです。

赤穂浪士もどうやら何かあるらしい。

津本さんの本とあわせて読むことにしたわけです。

歴史の研究者による本能寺の変は数多いのですが、

作家、津本陽がどう見るか、眺めてみたいと思いました。

だいわ文庫は来年1月、私の本

「偽りの明治維新」が出るので、敬意を表して求めたわけです。

わかりやすく書いてあり、なかなかいいですよ。

それらの本をめくりながら、お茶を飲んでいるところです。

渡辺崋山は、カラー写真もはいっていて豪華です。

高野長英伝もあるなあと思いながら、眺めています。


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さてプロ野球、大リーグは凄い。日本は太刀打ちできませんね。

報酬がまったく違います。若くて自信のある人は大りーグに挑戦、

当然でしょうね。

楽天マー君も大奮戦、6000万円でサイン

凄いですね。

 楽天田中将大投手(19)が13日、

仙台市内の球団事務所で契約更改交渉を行い、

4500万円アップの6000万円(タイトル料含む)で1発サインした。

球団初の2ケタ勝利(11勝)、リーグトップの奪三振率(9・47)で

新人王に輝くなど、数々の記録を引っ提げて臨んだ初体験の交渉を終え

「納得してサインしました」と笑顔で話した。

(金額は推定)(日刊スポーツ)
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2007年12月12日(水) ワカマツコロニー最新情報
海を渡った会津人 おけいさん

戊辰戦争研究会の村田蔵六 さんから、サンフランシスコ、ワカマツコロニ

の最新情報が寄せられました。

来年の夏、私もNHKの「星亮一と行く歴史街道」で出かける予定です。

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一昨日米国より帰国しました。

この間もますます活発な意見交換とイベント案内が掲示され楽しみな村田蔵六です。

アトランタでの南北戦争のドラマ、ボストンでの独立戦争の足跡なども

見てくることができましたが、初めての通訳なし旅行と

東海岸の寒さのため必ずしも思い通りの旅行にはなりませんでしたが、

またまたアメリカを好きになって帰ってまいりました。

アメリカンのハート(本当に親切)とクリスマスイルミネーションは見事でした。

郡山集会の時「おけいの墓」のあるカリフォルニアには意志を持っていなかった

私が調べてみるとゴールドヒルは時間的に無理かなと思っていましたが、

サンフランシスコの知人に聞いてみるとなんと本人も行ってみたいとのこと。

知人のナビでなんとか、若松コロニーにたどり着きました。

運よく最後に道を尋ねたところがワイナリーで静かにパーティーをやっておりました。

そこのご主人が若松コロニーの跡地復活にかかわったようで、

その入口のスケッチ絵を販売していたのです。

「おけいの墓」はそのそばの小学校と隣接している丘の上にありました。

フェンスを乗り越え牧草地と思われる丘の頂にある桜の木の下に

その墓はありました。

あまりにシンプルな米国の墓にしては普通以上の立派な墓でした。

(日本語の表現も)

知人の用意した線香を焚き冥福を祈りました。

ヘンリー・シュネルさんの旧宅は見つけることはできませんでした。

会津藩のお抱え武器商人であったヘンリー・シュネルが

1869年約40人の会津藩士などを引き連れ

「お茶と絹」のコロニー建設を目指したが、1年余りで崩壊したようです。

そのシュネル家の子守として最初に渡米した女性移民第一号 おけい さんは 

その短い生涯を悲嘆のうちにこの丘でとじました。

寒さに震える東海岸からくるとサクラメント近郊はは水仙など

春の花の咲く楽園の趣でした。

でも夕方になるとかなり冷えました。

古の時代苦労も多かったオケイさんもこの気候に救われた面も

あったのではと思いました。

その後最初に金を発掘した川や 古き時代を再現するイベントで

日本を知っている愉快なモルモン教の神父などにあい異国での心を

温められました。

ある人がアメリカンは 食べ物 トイレ 風呂 には

頭を使わない民族だから自分はアメリカンには成れないと言っていましたが

けだし名言とまたまた思いました。

ところでニューヨークからサンフランシスコへのケネディ空港で

時差ボケ防止にアルコールを補給しようと思ったがどうにも手に入らないで

しょげていましたが、6時間余りの飛行機の中では

5$で350ccビールOKでした。(国際線は無料)へんなところで真面目な

アメリカです。

アトランタでは日曜日スーパーでも酒売場は封印です。

(なんと売場がそのままテープでシャットダウン 

NO BEER IN SUNDAY なのです。)

キリスト教国の安息日は意外に真面目なのです。

家内は喜んでいましたが。

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すばらしい旅でしたね、

こちらも負けないようにでかけます。
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2007年12月11日(火) 高村光太郎に興味津津
岩手日日新聞の論説委員那須照市さんと話す機会があり

高村光太郎のことが話題がなった。

最近、私は三修社から『彰義隊』を出したが、

光太郎の父、光雲は上野の界隈で育った人で、

上野の戦争を師匠の家の2階から眺めていた。

私は導入部で、そのことを書いた。

光雲の上野戦争見聞記は『高村光雲回顧談』に残されている。

その息子が光太郎である。

私が仕事場から毎日、安達太良山を眺めているが、

光太郎の妻、千恵子の生家は、そのふもとにあり、

光太郎は、

あれが安多多羅山

あの光るのは阿武隈川

という有名な詩を詠んでいた。

「光太郎ねえ、おもしろいなあ」

私は自分の心の中にフレッシュな興味を覚えた。

光太郎は岩手県の花巻にも住んでおり、

そこには記念館もあった。

「まだ見てないんですよ」

「それはもう、ご案内しますよ」

ということになった。なにせ岩手は那須さんのフィールドである。

「春になったら、行きましょう」

私は那須さんに約束し、

早速、光太郎の関連文献を書店に注文した。

人生は夢、それを追いかけることかも知れない。

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たかむら こうたろう
高村 光太郎 略年譜
(1883〜1956)
ヤフーから

明治16 1歳 3月13日、木彫家高村光雲の長男として、東京下谷西町に生まれる。 本名光太郎(みつたろう)。 後年、自ら、光太郎(こうたろう)と称する。
明治30 15歳 9月、東京美術学校予科に入学。翌年本科彫刻科に進む。
明治35 20歳 7月、東京美術学校彫刻科(木彫)を卒業、研究科に残る。
明治36 21歳 はじめてロダンの彫刻写真を見、強く心をひかれる。
明治37 22歳 雑誌「スチュディオ」でロダンの「考える人」の写真を見て衝撃をうける。 この頃、白馬会曙町研究所に通い素描等を学ぶ。
明治39 24歳 2月、ニューヨークにわたり、アカデミー・オブ・デザインに入る。10月、アート・スチューデンツ・リーグの夜学生として彫刻を学ぶ。荻原守衛・柳敬助を知る。
明治40 25歳 7月、農商務省海外実習生の資格を得てロンドンに渡り、パリから来た荻原守衛と再会する。11月、パリに荻原を訪ねる。この時、荻原と2人でロダンをムードンに訪ねるが会えなかった。
明治41 26歳 6月、ロンドンを発ち、パリに移る。
明治42 27歳 イタリア旅行をし、6月帰国。荻原守衛と再会する。駒込の実家ではなれをアトリエに改造し、絵や彫刻の制作をする。
明治43 28歳 荻原守衛の死に遭い、強い衝撃を受ける。画廊琅かん洞をひらく。
明治45 30歳 6月、本郷区駒込林町25番地にアトリエが完成する。
ヒュウザン会結成に参加する。
大正3 32歳 10月、詩集「道程」を自費出版する。
12月、長沼智恵子と結婚。
大正3年頃から大正5年にかけて「荻原守衛の首」を制作するが完成しなかった。
大正4 33歳 「園田孝吉胸像」を制作する。
大正5 34歳 11月、訳編「ロダンの言葉」を刊行。
以後大正9年「続ロダンの言葉」昭和2年評伝「ロダン」を刊行する。
大正6 35歳 「手」「裸婦座像」を制作する。
大正7 36歳 「腕」を制作する。
大正13 42歳 木彫「蝉」「石榴」等を制作する。
大正14 43歳 「老人の首」を制作する。
昭和2 45歳 第1回大調和美術展に出品する。第2回展まで出品。
昭和3 46歳 国画会彫刻部会員になるが出品せず数年でやめる。
昭和7 50歳 「黒田清輝胸像」制作。
昭和10 53歳 「光雲一周忌記念胸像」を制作する。
昭和13 56歳 智恵子52歳で病没。
昭和16 59歳 詩集、「智恵子抄」を刊行。
昭和20 63歳 4月、空襲によりアトリエ炎上。原形、木彫、素描等焼失。10月、岩手県稗貫郡太田村山口に移住する。農耕自炊。
昭和22 65歳 10月、帝国芸術院会員に推されたが辞退する。
昭和27 70歳 十和田湖国立公園功労者顕彰記念碑のために裸婦像制作を決意。
昭和28 71歳 10月、記念碑十和田湖畔休屋に除幕。
12月、日本芸術院第二部会員に推されたが辞退する。
昭和31 74歳 3月なかばから度々喀血、絶対安静を続ける。4月2日早暁中野のアトリエに没する。東京染井の高村家墓地に埋葬される。
     
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2007年12月10日(月) 会津藩士の墓、続報
会津藩士の墓が荒れていることに関して、次の投稿がありました。

照姫殿の憂鬱 伊達藤五郎

照姫の伴百悦、日向内規のお墓についての思い入れは、私も同感です。

会津藩士達の義に生きた偉業をこれから先の世代に残すのは、墓地か銅像でしょう。

そこでという訳では在りませんが、会津藩士とは逆に、

今だに線香の煙の耐えない墓地の事を紹介しましょう。

12月8日(土)は真珠湾攻撃の日でしたが、それとはまったく関係なく

東京・高輪にある泉岳寺に行ってきました、

泉岳寺といえば当然赤穂義士の墓地ですね、

泉岳寺山門前には大石内之助良男の銅像が立っていました、

あまりにも銅像が大きいのでちょんまげが見えないくらいでした。

さて、四十七士の墓は線香の煙が絶えないといわれますが、

その理由がわかりました。

なんと言う事はありません、墓地の直ぐ前に売店があり、

そこで線香を売っていたのです、1把100円で、

火を点けてくれて更にやけどをしないように竹製のお皿に乗せて渡してくれるのです、

ですから参拝者は、その竹製のお皿を持って各人の墓石に

線香を手向けるのです。泉岳寺を訪れる人は赤穂義士に

畏敬を持ってくるわけですから、1把100円の線香はは渡りに船ですね。

赤穂義士の墓地の線香の煙が絶えないというのは、

実は泉岳寺を支えている人たちの苦労の賜物なんです。

こういうシステムが何百年も続いて行ける事が望ましいですね、

そして切腹した大石内之助の銅像が立派にあるのですから、

だったら義を守り会津藩と共に官賊と戦った仙台藩玉虫左大夫の銅像も

あってしかるべきでしょう。

泉岳寺の参道のお土産屋さんには何故か、

相馬焼きの湯のみとかぐい飲みが売られていました、走り駒の大堀相馬焼きです、

赤穂藩は備前(岡山)の隣なんですから備前焼を置いておけばいいでしょう、

なんで相馬焼きなんでしょうね。

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12月8日、真珠湾でしたね、

会津でも飯盛山は焼香が絶えません。

私は会津戦争でなくなった人々の名前を刻んだモニュメント

を建てるべきだと考えています。

九州の古屋さん

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会津の戦死者への手向けについて、郡山自由大学の講演のあとで、二本松に行き、

大隣寺の少年隊の墓、大壇口、三浦義景の墓を回りましたが、

いずれも手入れされていませんでしたね。

三浦義景の墓に至っては河川工事で移転していましたが

(これがタクシーのドライバーも三浦義景の事を知らなかった)

草ぼうぼうで、

一緒に行った友人と汗を拭き拭き、草むしりをしたら、

タクシーのドライバーから子孫の方ですかと言われたのには苦笑しました。

今では、歴史的観光地でもあるのにと、考えさせられましたね。

仙台でも、殿様の墓の復元と其の豪壮さに比べ、

戊辰戦争戦死者を祀る塔の後ろはトイレで、

賊軍となった戊辰戦争の戦死者の悲哀が感じられ情けなくなりました。

古屋

ーーーーーーーーーーーー
ううん、

頭が痛いです。


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2007年12月9日(日) 日曜日ですね
にもかかわらず

だいわ文庫、「偽りの明治維新」

校正です。編集者からいろいろ注文がある。

下北に流された会津の柴五郎が、犬の肉を食べる場面がある。

食べるものが何もない。猟師が犬を撃ち殺した。

犬は池の上で射殺されたのだが、氷が薄くて取りに行けない。

猟師は犬を放置したまま帰ってしまった。

五郎の家では、猟師の家に行ってその犬をもらいうけ、

五郎が薄い氷を渡って犬を運び、隣人にも分けて

塩の味付けで食べるのだが、

編集者から

なぜ犬を撃つのかという質問があった。

この場面は中公新書からでた「ある明治人の記録」で

紹介され、有名になった場面である。

中公新書にもなぜ猟師は犬を撃ったのかの説明はなかった。

私もこれについては論及しなかったのだが、

中国では今日でも犬料理の店があるし、

日本人もかつては、食べていたのだろうという

程度の認識でいるのだが、これはどう説明したらいいのだろうか。

また説明が必要なのかどうか。

こうしたことも含めて校正作業は、

意外に大変なのである。

昼飯はラーメンにするか、それともカレーウドンか、

はたまたとんかつ定食か、今日の楽しみはその程度、

後は、原稿を読み続けるだけなのである。

昨年までは

有能な校正者が仕事場にいたのだが、

パリ留学中とあって、どうににもならない。

目下、英語の得意なTさんを特訓中だが、

日本語はあまり得意ではなく、もう少し、かかりりそうである。

校正作業は一人ではだめである。

私は間違いはないと思ってみているので、

それが誤りの元なのだ。出版社にも校正者はいるのだが、

最終責任は私になる。

つらい日が続く。

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犬についてすぐ投稿がありました。

九州の古屋さんです。

星先生

柴五郎の犬を喰う話がありましたが、東北では食べなかったのですかね。

九州で言えば、赤犬がうまいと言う事で、最近は聞きませんが昭和30年代までは、

よく喰っていたと思います。台湾、韓国では今でも食っています。

こちらは白犬だそうです。

戦後食糧難の時代は、ごく普通に犬や兎鶏、

など家庭で料理して食べていたと思います。

猪や鹿は今でも食べるでしょう。

ヨーロッパでは今でも肉屋に兎や野鳥が毛つきのまま売っていますが、

あれも家庭で料理するんでしょうかね。

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まさにそうですね、ありがとうございます。

今朝の福島民友新聞の書評欄に

私の「山川健次郎の生涯」(ちくま文庫)が掲載されました。

これについて戊辰戦争研究会顧問梶原 平馬 さんから投稿がありました。

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 本日総裁の本「山川健次郎の生涯」が民友新聞読書欄へ、

写真入四段の内容で掲載されました。最後の文章が心に残ります・・・

「本書では辛酸をなめ尽くした会津人へ著者の視線が温かい。

あとがきにある長州との和解に関する話は衝撃的だ・・」
 
会員の皆様この本をお互いに宣伝し当研究会を普及・PRしましょう!
 
12月22日「だいこんの花」忘年会参加表明いたします。

よろしくお願いします。

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22日は内輪の忘年会です。

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戊辰戦争140年、古屋さんの続報

今日はやけに発信しますが、東北では来年の戊辰戦争140周年のイベントが

各地で催されると言うことですが、九州、ま、福岡で言いますと

「戊辰戦争ちゃ、なんな。太平洋戦争ね」と言うくらいの反応ですね。

そういうわけで、来年のイベントの参加者募集に各団体に

動員をお願いしているところです。

侵略したほうと侵略されたほうではこうも違うんですね。

福岡では唯一、小倉藩の恨みが深いです。長州の高杉晋作にやられ、

城を焼いて撤退していますので、藩の歴史を辿る資料もありません。

明治以降、小倉藩の歴史は「賊藩」として抹殺され、

其の空白を埋めようとしても明治政府が許しませんでした。
」北九州市図書館は其の役目を担っているそうですが、

全国からの幕末の歴史に応えられないのが残念ですといっています。

小倉を責めた巨魁・高杉晋作に関する著書が480冊刊行されているのに比べ、

小倉藩に関する著作は1冊しかないそうです。

それも地元の作家劉寒吉が自費出版した{炎上}のみで、

劉は小説として書いたこの作品を刊行するとき、改めて手をいれ、

小説的な虚構を徹底的に排除し、歴史書として残そうとしたといいます。

家が使命とする「作品」より、慶応3年8月1日で幻となった

小倉藩の歴史を後世に残そうとしたといいます。

負けた側の歴史は埋もれる・・・とはこういうことでしょうか。

古屋

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負ければ賊軍ですから、本も少ないですね。会津藩が多いのは、例外です。
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2007年12月8日(土) 戊辰戦争140年、二つの投稿
来年は戊辰戦争140年です、

東北各地でさまざまなイベントがあります。

それに関連して東北、越後を回る方も増えています。

今朝の戊辰戦争研究会のホームページに大阪の会員の方が、次のような

投稿を寄せてくれました。


先日、新潟→会津を廻ってきました。

伴百悦、日向内記のお墓参りをしてきましたが、

どちらもあまりお参りされていない様子に心が傷みました。

日の当たるべきところに当たっていないように思います。

(日向内記はそこに納骨されているのかは不明とも言われているようですが・・)

勉強不足で今まで知りませんでしたが、

最近大麻問題が起きた関東学院は日向内記の孫が創立した大学だそうですね。

「教育の会津」由来の大学でそんな事件が起こるとは、

草葉の陰で泣いているのではないでしょうか・・

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ここに二つのご指摘があり、私もハッと胸を打たれました。

ひとつは会津藩士の墓は、荒れたままになっているという問題です。

これをどうしたらいいのか、

考えなければならない問題だと思いました。

もうひとつは日向内記と関東学院の関連です。

これは特筆すべきことですね。

明治学院、同志社、武蔵学園、九州工大、

会津人が関係した学校は実に多いのです。

これは会津人の優れた品格だと思います。

これに関して喜多方の麻生さんからも次のコメントが

寄せられました。

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関東学院の創立者は日向内記のお孫さんですか。

何かの本で読んだような気はしますね。

大阪の方は善龍寺、小田山に行かれたのでしょうね。

会津藩士の子孫で会津に住んでいる人は少ないですし、

会津は風習としてお盆以外は墓参りをしません。

お盆が近付くまで草苅りや墓掃除もしないのが風習なのです。

一年の大半が雪に埋もれている為です。

他地方の方から見れば墓が荒れていると見えるのでしょうね。

まぁ確かに善龍寺、小田山墓地群は本当に荒れている墓も少なくはないです。

戊辰で血族が絶えた家も多いですしね。

自分の家が会津藩士の家系だとか興味ない人も多いですし。

そういう墓は荒れてますね。

でも定期的にシルバー人材センターの人たちが掃除したり

草苅りしたりしてるんですよ。

お墓の話ですが、お墓参りに行かない変わり、

会津では絵ロウソクや彼岸花で仏壇を賑やかに飾ります。

彼岸花は紙製の造花で赤やピンク、オレンジなどの鮮やかな色彩で

おおぶりな菊の形をしています。古い時代からの伝統です。

郡山ではこぶりで鮮やかな造花がお墓に飾ってあるのを目にしますね。

あれも似た仲間なのでしょうね。

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なるほどね、そうですか。

戊辰戦争研究会としても

時には清掃に取り組む必要があるかも知れませんね。

玉虫事務局長、研究をお願いします。

麻生さんのコメントも大変、示唆にとんだ内容でした。

大阪の方のハンドルネームは照姫です。

照姫さん、また投稿してください。麻生さんも時折、意見を寄せてください。
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2007年12月7日(金) 盛岡はいいなあ2
昼飯は、カルビ定食を食べた。

千円でおつりがきた、やわらかくておいしかった。

「郡山には、焼肉に店が少ないですよ。私は好きなんですが、ざんねんです」

石塚さんがいった。

盛岡自由大学の講座は午後1時半である。

あまりゆっくりはできない。急いで駅に戻り、反対側之西口に向かった。

そこにいわて県民情報交流センター(アイーナ)があり、その中に

岩手県立大学のアイーナキャンパスがあった。

そこで講義だった。

昨今、どこの大学でも市民との交流が盛んである。

盛岡県立大学も積極的に行っており、盛岡駅西口に社会人のための講座を

開いていた。それが盛岡自由大学だった。

■開設の目的
 アイーナキャンパスは、岩手県立大学が、

県民と直接交流しながら社会人の教育や県民の生涯学習に対する支援などを

一層充実するため、大学院の授業や公開講座といった様々な活動を行う

新たな拠点として盛岡駅西口の「いわて県民情報交流センター(アイーナ)」

内に開設するサテライトキャンパスです。


■社会人教育機能
 大学院の授業やリカレント講座を通じて、社会人のキャリアアップをサポートし、

社会の変化に対応できる人材づくりを進めます。

■生涯学習支援機能
 岩手県立大学が持つ教育資源を活用して、多彩な公開講座や講演会などを行い、

多様な生涯学習ニーズに対応します。

■ソーシャルサービス機能
 保健医療や社会福祉に関して県民の相談に対応するとともに、

現場へのサポートなどを行い、県民福祉の向上に貢献します。

■地域協働・産学連携活動支援機能
 研究活動や教育活動の一環として行われる様々な活動や

プロジェクトの場として活用し、地域との協働や企業との連携を推進します。

■情報発信機能
 教育と研究の両面にわたる成果や学術情報をはじめ、

入試情報や就職情報など本学の活用に関する各種の情報を発信します。

このようなことがパンフレットに書いてあった。

すばらしいことである。

私のテーマは楢山佐渡と原敬

だった。

楢山は南部藩の筆頭家老だった。京都で政変が起こるや、京都に向かい、

幕府崩壊の実情をつぶさに視察した。

「西郷に会ってみよう」

薩摩屋敷に西郷隆盛をたずねた。

「何、南部藩だと、それはどこにあるんだ」

玄関番からあしらわれ、玄関脇で延々待たされた。

西郷にとって南部藩の家老など目になかった。

なべをつついて食べ続けた。やっとあったが、お互い言葉が通じない。

何の収穫もなく楢山は追い返された。

金と人を出せというのが、このときの西郷に言い分だった。

「無礼ものめ」

楢山はいかったが、ほうり出されたといってよかった。

盛岡に帰った楢山は抗戦を決意し、薩長に宣戦を布告した。

この時期、仙台も抗戦に決していた。

東北は薩長に反旗を翻したのである。会津津だけが戦ったわけではなかった。

東北戊辰戦争の勃発だった。

これを皆さんに話した。

続きは日をあらためて記述したい。
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2007年12月6日(木) 盛岡はいいなあ
盛岡印象記

東北を旅すると、仙台をのぞいてはさびしいなあという印象を免れない。

仙台一極集中である。

私は住む郡山もそうである。駅前は閑散としていて、

「これでは書店がなくなるはずだ」

とついぼやきたくなる。

山形、秋田、青森、皆同じような感じである。

活気がないのである。

ところが盛岡は違う。ホテルが林立し、人の出入りは多く、仙台に次ぐ

都市の印象を受ける。南部美人というが、きれいな人が多く、

私がおじゃまするいわてNPOセンターのオフィスなどは、

きれいな人ばかりである。

独身の新聞記者は盛岡に赴任すると大体、盛岡の女性と結婚するという。

むべなるかなである。

食べ物もおいしい。

わんこそば、冷麺、焼肉、カツどん、海の幸、どれもおいしい。

昨日は八重洲ブックセンターの石塚さんと出かけた。

駅の地下に食堂街がある。

「どれもおいしそうだなあ」

目を皿のようにしてみて回る。

「うにどん、刺身定食、これは東京で食べたら3千円はしますよ」

この人はどこにいっても東京と比較する、

「だけど、今日は寒いから、あったかいものがいいなあ」

「そうですかあ」

不服そうである。

「じゃ、焼き肉ですか」

「うん、それがいいね」

二人は外に出た。

駅を出て、道を横切ると、

「ここですよ」

と石塚さんがいった。

重そうな扉を押して店に入った。

そこは、ぴょんぴょん舎 駅前店 だった。

名前がユニークだった。この人は凄い食通で、どこに行っても

それなりの店を探してしまう。盛岡で会合があって、そこで発見した店だった。

盛岡の街は少し雪が残っていて、郡山にくいらべれば寒い。

中には薪スト−ブがあり、ガンガン燃えている。

「へえ、いいじゃないですか」

「でしょう」

2階に案内されてテーブルに座った。かなり混んでいる。

主婦やサラリーマンが多い。

「何にしようかなあ」

「これですよ」

石塚さんが、メニューを指さした。

明日に続く

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ヤフー

盛岡の明治維新

盛岡城で南部氏による統治が第14代を数えた時、明治維新を迎える。

奥羽越列藩同盟(徳川幕府軍)として薩長(新政府軍)に抗った盛岡藩は、

薩摩藩・長州藩に寝返った秋田藩(秋田県)・弘前藩(青森県)に対し、

会津藩や仙台藩とともに最後まで対戦したが抗しきれず、

事実上「最後の幕府軍」となって朝敵の汚名を付される。

藩主利剛の従兄弟に当たる主席家老楢山佐渡は戦の責を負って切腹、

城郭は明治元年(1868年)に国の直轄地となりことごとく破却、

民間に払い下げられた。現在、盛岡城が残されていないのはこのためである。

明治政府に責を問われ隠居を命ぜられた父に代わり、

南部家第41代当主南部利恭が盛岡藩第15代藩主として家督を相続、

盛岡藩は、この代で藩政に幕を閉じることとなる。

幕末に表高20万石であった盛岡藩は、

明治政府が仙台藩から没収した白石城(宮城県白石市)に

13万石で減転封されるなど、徹底した制裁処分に苦しめられた。

戊辰戦争で国替えを命じられたのは、会津藩と盛岡藩のみである。

その後、領民は明治政府に対し、藩主南部利恭の盛岡復帰請願を行なったが、

これにもさらに上納金を課せられるなど、薩長による締め付けは極限を極めた。

以後、薩長に敵対する盛岡には文武で身を立てる風土が生まれ、

明治以降に多くの軍人・政治家を輩出する契機となる。
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2007年12月5日(水) 今日は盛岡です。
9時の電車で盛岡に向かいます。

夕方には仕事場に戻ります。

だいわ文庫の再校が入ることになっており、どうしても戻らなければ

なりません。

盛岡の銘酒はお預けです。ざんねんです。

現在、7時半、仕事場に来ましたが、天気は上々ですね、

盛岡での講座は午後1時半、盛岡には11時過ぎに到着し、

昼ごはんを食べて、岩手県立大学駅前キャンパスの

会場に向かいます。

来年は

平民宰相原敬の生涯

を書くことにしています。

大人物だけに緊張です。

盛岡は大勢の方が来てくださり、熱気むんむんでした。

皆さん、最後まで聞いてくださり、ありがとうございました。

午後6時過ぎに仕事場に戻ってきました。

パソコンを開くと担当の安藤さんから、早速、下記のメールが届いていました。
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本日は大変ありがとうございました。 アンケートを少し見ましたが

自由記述に感想をびっしりと書いていただいている方が多くて・・・

先生のお話を聞いての皆さんの想いがたくさん伝わってきました。

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本当ですか、うれしいですね。
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2007年12月4日(火) 星野が泣いた。自衛隊員も泣いた、怒った
声にならない叫びだった。潘武雄の打球をキャッチした川崎が

二塁を踏み、一塁へ。併殺が決まると、

星野監督が我を忘れたかのように雄たけびを上げた。

田淵ヘッド、山本、大野両コーチと固い握手を交わすと、一塁ベンチを出た。

目が潤み、選手の姿がぼやけてきた。歓喜の輪に加わると、

24人の日の丸戦士に押し出されるように台湾の夜空に3度舞った。

「日本の野球の底力を選手が見せてくれた。選手が頼もしかった。本当に…」

泣いた。闘将が泣いた。一気の3連勝。

五輪出場権を手にした感激で声が震えた。

(スポーツ報知)

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守屋前次官の収賄事件

<防衛汚職>便宜供与は103億円
 
前防衛事務次官、守屋武昌容疑者(63)による収賄事件で、

東京地検特捜部が逮捕容疑を裏付ける便宜供与を、

ミサイル誤誘導装置、生物剤検知装置、

次世代護衛艦エンジンの三つに絞り込んでいたことが分かった。

防衛専門商社「山田洋行」元専務、宮崎元伸容疑者(69)側の利得は3ルートで

約64億円、他に便宜供与の疑いがある次期輸送機(CX)エンジンを加えると

約103億円に達する。(毎日新聞)

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なんという破廉恥な行為であろうか、

日夜、頑張っている一般の自衛隊員は、悔し涙を流しているに違いない。

こうした事実をなぜ見抜けなかったのか。

制服組の意見をもっと聞くべきではないだろうか。

背広組だけに任せては置けないと思う。

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星野ジャパンに感動、

二日間、野球の醍醐味に感動、感激、手に汗にぎり、テレビを見ました。

星野監督、すばらしかった。

これがあったから、救われました。なければ暗い日本でした。


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2007年12月3日(月) 会津三絶
千葉の丸山さんから下記のご質問を頂きました。

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こんにちは、千葉市の丸山です。早いもので今年も師走になりました。

実は「會津三絶」について今調べております。ご多忙の所を恐縮ですが、

ご教授いただけませんか。

(1)「會津三絶」の一つは秋月悌次郎の「北越潜行の詩」です。
   故有つて北越に潜行して帰途得る所

 行くに輿無く 帰るに家無し

 国破れ 孤城雀鴉乱る

 治は功を奏せず 戦は略無し 

 微臣罪有り 復た何をか嗟(なげ)かん

 聞くならく 天皇元より聖明

 我公貫日 至誠に発す

 恩賜の赦書 応に遠きに非ざるべし

 幾度か手を額にして 京城を望む

 之を思ひ之を思ふて 夕晨に達す

 愁ひ胸臆に満ちて涙巾を沾(うるほ)す

 風は浙瀝(せきれき)として 雲惨澹たり

 何れの地にか君を置き 又親を置かん


(2)第二は永岡敬次郎の下記の漢詩だと思います。
     
  独木誰か支えん大厦の傾くを

    三州兵馬乱れて縦横たり

    羈臣空しく包胥の涙をながし  

    日は落ち秋風白石城





(3)「會津三絶」の三番目の作者と内容、及び出典などについて、

   ご存じでしたらご教授お願い申し上げます。

もうひとつ安部井政治の詩です。

箱館戦争に参戦した安部井は蝦夷地でこう詠みました。

    交友回頭半委塵
    豈図此地獨迎春
    燈前暗麗幽懐涙
    不是尋常惜歳人
    濤声到枕欲明天
    感慨撫胸獨不眠
    一剣未酬亡国恨
    北晨星下送残年


  是も三絶のひとつです。資料によって若干、異なるようです。

  是は幕末会津志士傳稿本からの引用です。

  読みかたはいろいろあると思います。

  ご研究ください。

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<新語・流行語大賞>ハニカミ王子と東国原知事に 

「そんなの関係ねぇ〜」大賞ならず
12月3日17時2分配信 毎日新聞

「そんなの関係ねぇ〜」

これは好きになれませんでした。順当でしょうね








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2007年12月2日(日) 日本列島は不義だらけ
午後から磐梯山のふもと、磐梯町で講演です。

五十嵐町長から電話があり、

「義に死すとも不義に生きず」、

という会津藩の精神について話してほしいというので、

午後の電車で向かいます。

昨今の新聞を見ていると、日本列島は不義まみれです。

ミートホープに始まって赤福の不正表示、吉兆のいんちき表示、マクドナルド、

さらには防衛とどまるところをを知りません。

日本人の道義心は喪失し、このまま行けば

無責任国家になりかねません。

ならぬものはならぬ

の精神がなければ、どこまでも落ちて行くでしょう。

戦後の日本人の精神的堕落は

ひとえに戦後の履き違えた自由主義にあると思います。

教育からは徳育が消え、何でも勝手にふるまえば良いという

風潮になってしまいました。

そんなの関係ねえ

それが今日の腐敗堕落の根源的現象に思えてなりません。

東国原知事が徴兵制を容認する発言をしたが、

それもひとつの方法だろうとさえ思えてきます。

国防なんて関係ねえ

老人なんて関係ねえ

タバコのポイ捨て関係ねえ

世界の平和、関係ねえ

このクレージイな日本の風潮、

これが存在する限り、日本はどこまでも堕落すると思います。

磐梯町でそのことを話すことにしています。

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講演会を終え、午後6時半、仕事場に戻ってきました。

渋沢ちよさんから「彰義隊」の感想がはいっていました。


星先生はじめ会員のみなさま、龍馬とゆかいな仲間たちのみなさま

今回のことは、ほんとうに色々とありがとうございました。

来年もたくさんのイベントが用意されていますが、

今後ともよろしくお願いいたします。

『彰義隊』拝読させていただきました。

私は今まで、会津の戦争、長岡の戦争、上野の戦争、etcと個別に本を読んだり、

話を聞く(聞かされる?)などしてきましたが、

それは少しずつ知っているというだけで戊辰戦争の時の日本全体が

どうなっていたかなどまったく解っていなかったのです。

しかし、今回の『彰義隊』を(今までになく、真剣に…)読むことによって、

はじめて戦争の流れがつかめた感じです。

そうした中で私が一番感じたことは、

徳川慶喜という人は、江戸に戻ってきた時から本当に信じきれる人、

本当に守りたい人(もの)があったのでしょうか?

慶喜の生い立ちは、聞かされてはいましたが

本当は、孤独で不器用な人なのだとおもい泣けてしまいました。

今回先生のお書きになられた文章で、特にそう思ってしまいました。

的外れでしょうか?

また、尾高惇忠や平九朗は出てきても“ちよ”が

出てくるとは思ってもいませんでしたので大感激です。

あっ、“火吹き達磨”も…。

これを機会に、私ももう少し真面目に勉強させて頂きます。

変な感想で、ごめんなさい。

ーーーーーー

適確なご感想です。ありがとうございます。
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2007年12月1日(土) 盛岡自由大学
盛岡にも自由大学が発足、下記の日程で始まりました。

私の担当は12月5日です。

大学の理念

「地域の魅力を掘り起こす」をテーマに、

岩手・盛岡にまつわる活躍をされている講師を迎えて開催します。 

もちろんどなたでも、1回だけでも、何回でも、自由に参加していただけます。

問い合わせ先

岩手県立大学アイーナキャンパス 事務室

電話: 019-606-1770

FAX: 019-606-1771

Email: aiina@ipu-office.iwate-pu.ac.jp


日程は下記の通りです。

僕が遠野を選んだ理由 〜なんで遠野なの?〜」
講師: 本田 健氏 (画家 遠野在住)
日時: 11月28日(水) 13:30〜15:00

「南部藩家老 楢山佐渡と平民宰相 原敬」
講師: 星 亮一氏  (歴史作家、郡山在住)
日時: 12月5日(水) 13:30〜15:00

講師: 工藤 雅樹氏 (前東北歴史博物館館長、福島大学名誉教授)
日時: 12月19日(水) 13:30〜15:00「盛岡町屋の現在」       ※2回セットでお申込下さい

講師: 渡辺 敏男氏  (盛岡まち並み塾)
日時: 1月23日(水) 13:30〜15:00(座学)
3月12日(水) 13:30〜15:00(まち歩き)「盛岡学」 〜地域資源の掘り起こし〜 (仮)

講師: 滝沢 真喜子氏  (「盛岡学」編集長)
日時: 2月20日(水) 13:30〜15:00い 

主催:岩手県立大学アイーナキャンパス事務室(管理者 いわてNPOセンター)

協力:奥州街道会議

もちろんどなたでも、1回だけでも、何回でも、自由参加。
問い合わせ先

岩手県立大学アイーナキャンパス 事務室

電話: 019-606-1770

FAX: 019-606-1771

Email: aiina@ipu-office.iwate-pu.ac.jp

場所いわて県民情報交流センターアイーナ 7F

 岩手県立大学アイーナキャンパス 学習室 1
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