星亮一 今日の一言

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2006年11月30日(木) 佐川官兵衛の魅力2
鳥羽伏見で敗れた会津藩は帰国する。

程なく戊辰戦争が始まった。

官兵衛は越後口防禦の任につき、朱雀四番隊長として越後に向かった。

官兵衛は河井等長岡藩兵と共に戦い、軍事奉行頭取に命じられた。

しかし善戦空しく長岡は落城、官兵衛は会津に戻った。

やがて家老に昇格、、軍事を委任された。

薩長軍が侵攻したとき、官兵衛は城内にいた。

何か手立てはなかったものか。

「なあに、薩長のへなちょこ侍などひとりもいれぬ」

と豪語していたが、いともあっさり国境を破られてしまった。

策略が苦手で、自ら飛び出す武勇の士だった。

そこが官兵衛の人気の秘密だった、

籠城戰中、決死隊を組織し奇襲を掛ける策を立てるが

寝過ごし大敗北を喫し、

その後は城外に出て、

敵軍を撃破、兵糧を城中に運び、そのまま城外でゲリラ戦を続けた。

 鶴ヶ城が降伏した後も、南方に連戦、

秋月や手代木の説得にも応じず、抵抗を続け、

容保の命によって、ようやく降伏した。

降伏を拒んだ理由は

「あいつらは官賊だ」

ということだった。

正論である。

庶民感覚の武将だった。

戊辰戦争後 青森県に移住、苦しい生活を体験した。

明治7年征韓論が起るや、川路大警視は巡査を旧会津藩に募り、

、官兵衛逡は藩士三百人を引き連れ東京へ出て巡査となった。
 
西南戦争が起ると巡査隊を率いて出征し、

豊後口より進み二重嶺の賊塁を攻めんと、

正宗の名刀を携え、参戦した。そして阿蘇で戦死した。

父、直道も戊辰の乱で会津で戦死し、

弟主殿も京都で戦死している。

嫡男直亮は陸軍大尉となり日露の役満州孟家房に戦死した。


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2006年11月29日(水) 佐川官兵衛の魅力1、
明治43年に編纂された「佐川官兵衛君之伝」という本がある。

そこから人となりを紹介しよう。

会津藩家老。佐川幸右衛門直道の長男。初め勝と称する。

天保2年9月若松に生まれる。

先祖勘兵衛は信州高遠の人で、藩祖保科正之に従い、

会津若松に赴任した。

禄千石、末裔の官兵衛は幼時より武術をよくした。

江戸在勤時代、本郷に大火があり、そのとき、

幕府方の火消と刃傷に及び、数人を斬り、さらに

馬上の武士を斬った。

官兵衛の祖父も同じようなことを起こしていた、

気性の荒い血が流れていたのである。

官兵衛は帰国して謹慎したが、主君の京都守護職拝命で、京都に上った。

藩士子弟を選んで「別撰隊」が組織されるや、その隊長に任じられ、

また「書生組」の統率を兼ねた。

京都でもたちまち有名となった。

なにせ武勇伝の持ち主である。

「鬼官兵衛」と呼ばれて、恐れられた。
 
大政奉還となるや、これに反発、新撰組の近藤勇とともに、

京都で薩長との即決戦を叫び、慶喜にとめられて、

しぶしぶ、大阪に下った。

以下、続
 
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2006年11月28日(火) 吉林師範大学のYさんから
日本大学大学院の学友ともいうべきYさんからメールがはいった、

Yさんは団塊の世代である。

仕事をしながら日本大学大学院で博士号を取得して、

中国の大学の先生になった。

すばらしい第2の人生である。

来年はぜひ、出かけてお会いたいと思っている。

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 ご無沙汰しています。お元気でしょうか。

先日、零下30度まで計れる寒暖計を購入しました。

当地の本日の気温は、9時現在で零下8度でした。

先日の日曜日、久しぶりに5度とあたたかいと思ったらすごい霧が

出ました。家内が日本へ帰るので、朝4時おきして長春の飛行

場まで送ったのですが、これが南の瀋陽空港だったら、アウトでし

た。高速道路が通行禁止でしたから。やれやれです。

 髪の毛が伸びてしまい、仕方なく床屋に行きました。こぎれいな

30過ぎの奥さんが、手早く7.8分でカットにてくれて、なんと3元

'45円)でした。上手でした。これでは、日本の床屋にいけなくなり

ます。もちろん洗髪なしです。旦那さんが弁当屋もやっており、2元

で昼弁当を売っています。量は少ないようですが。

 昨日は、サンクスギビングデーで、日本語学科1年の学生たちが、

一夜「謝恩会」なるものを開いてくれました。二人の若い女性教師と

私の3人が招かれました。会場は、教室で歌あり、踊りあり、ゲーム

ありといった内容で、楽しい一夜でした。土産にみんなからマフラーを

をもらいました。首に巻いて帰りましたが、そのあたかかかったこと!

少し感激しました。ほんとに可愛い学生たちです。

 帰りに「狗肉」を食べました。つまり、犬の肉です。家内がいるときは、

嫌っていましたので食べませんでしたが、ごく当然のように料理が出て

きます。味は、まあ、普通のお肉でした。その辺を飛び回っている犬を

想像しますが、学生たちにいわせれば、食用に飼育されている大型

犬であるようです。私もそのうちなれて、当然のごとくに食べるでしょう!
 
 それでは本日これにて! 

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Yさん、頑張っているなあ、

刺激にとんだメールだった。 
 
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2006年11月27日(月) 佐川官兵衛の顕彰碑がなんと18も
西南戦争で佐川官兵衛が戦死した阿蘇を訪ねて、驚いた。

この地に、なんと18もの顕彰碑があった。

これほど顕彰されている会津武士は、官兵衛をおいてほかにいない。

阿蘇の鬼官兵衛記念館館長  興梠二雄さんにそのわけを聞いた。

姓の読み方は、こうろぎである。

館長は会津人以上に会津のことに精通していた。

官兵衛のことなら、すべて熟知していた。

佐川官兵衛の幼名は勝(すぐれ)。

天保二年(一八三一)、会津藩二十三万石の城下町に生まれた。

父は幸右衛門直道、母は俊子。

佐川の家は代々家禄三百石を受け、上級武士の家柄だった。

幕末の混乱期、京都守護職を引き受けた

藩主松平容保(かたもり)に従って、

官兵衛は、鳥羽・伏見の開戦後、京都、大阪、越後口、会津と転戦した。

伏見街道で薩長勢を迎え撃った時、その壮絶な抜刀切込みと、

血まみれた阿修羅のごとき形相から「鬼官兵衛」と呼ばれ、

薩長の志士を震え上がらせた。

鳥羽伏見の戦いに破れ、ついに会津藩も降伏。

官兵衛は会津藩氏とともに、下北半島へ追放された。

私は青森県五戸の、すまいの跡を訪ねたことがある。

峠を二つも越えた山中にあった。

茫然自失、無言で暮らした。

廃藩置県が行われると、会津に帰郷。

その後、官兵衛は、旧藩士三百人をつれて、東京の警視局に奉職。

一等大警部の職を得た。大藩の家老としては低い待遇で、

部下たちは怒ッたが、月給五十円のうちから

一部を藩主に送るなど忠臣ぶりをみせた。

明治十年(一八七七)の西南の役が起きた時、官兵衛は、

西南の役に参戦するよう政府から命ぜられた。

当時の官軍は、農民を中心に組織されており、西郷軍に押さ、

士族の警察隊が必要だった。

檜垣直枝を指揮長に、官兵衛を副指揮長とした警視隊は、

東京から船で小倉に上陸し、大分〜久住〜竹田を経て、

阿蘇へ入った。戊辰戦争の時の恨みを晴らさんと燃えた。

「薩軍が北外輪山の一角、二重の峠で陣を構えている」

と聞いた佐川は、即座に攻撃をかけようとしたが、

上司の檜垣軽視が無謀な軽挙だとして、許可しない。

三月十四日、官兵衛は阿蘇の白水村に進み、

蛭子(えびす)屋という商家に陣を構え、

はやる心を押さえながら、阿蘇南郷谷の有志を集め、

南郷有志隊を組織した。

南郷有志隊も蛭子屋のはす向かいの屋に拠を構えたので、

官兵衛はそこへ出向き、

南郷有志隊長の長野一誠とたびたび軍議を交わした。

その座敷は、今も残ってる。

地元の人々は、官軍も略奪を働くのではないかと恐れたが、

官兵衛は不正の行為がないよう巡査を戒め、

物資を買うための資金も充分に渡したので、

不祥事は起きなかった。

村人達は兵衛のことを親しみをこめて込めて

「鬼さま」

と呼んだ。

やっと、攻撃の許可がおりたのは三月十七日、

時すでに遅く、薩軍は二重の峠の兵力を増強し、戦機を逸していたが、

彼は会津藩の維持と面目をかけて決死の覚悟で出発した。

出発の朝、官兵衛は真新しい肌着に身を包み、

明神ヶ池の水を飲み、辞世の句を読んだ。

 君が為都の空を打ちいでて

     阿蘇山麓に身は露となる


出発に際して、長門屋の五才の子の頭をなでながら、

「敵の首をみやげに持って帰るよ」

といって、地元の竹原新八氏の道案内で二重の峠へ出かけて行った。

官兵衛の一行が、現在の長陽村黒川(湯の谷温泉昇り口付近の窪道)に

さしかかった時、有志隊員が薩軍の呼子の縄を踏んでしまい、

薩軍との最後の戦いがはじまった。

戦闘のさ中、薩軍一揆勢の小隊長、鎌田雄一郎が官兵衛に対して、

一騎討ちを挑んできた。

会津藩随一の使い手であった佐川の剣はするどく、

鎌田危うしとみた薩軍の長野さばくは、

卑怯にも鉄砲で官兵衛を狙い討ちし、

ここに官兵衛は非業の最期を遂げた。

享年四十五才。強い意志を持ちながらも

歴史のうねりに翻弄された生涯だった。

白水村では官兵衛の遺徳が代々語り継がれ、

明神ヶ池の周辺には佐川官兵衛の記念碑が四カ所も建てられた。

阿蘇郡内にも官兵衛の慰霊碑が十数カ所も建っており、

阿蘇の人々がどれほど官兵衛に、尊敬の念を抱いていたかが分かる。

白水村には全国名水百選に選ばれた白川水源や、

官兵衛も顔を洗った明神ヶ池水源、寺坂水源など七つの有名な水源があり、

オオルリシジミの棲息地としても知られている。

「佐川官兵衛ゆかりの白水村へぜひお越しください」

と館長は語った。

佐川官兵衛の魅力とは何か、

次回に述べたい。



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2006年11月26日(日) 今夜、かえってきました。
鹿児島空港を午後5時20分にでて、羽田経由、東北新幹線で午後10時、

事務所に戻ってきました。

明日から九州リポートです。
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2006年11月25日(土) 今日は鹿児島に宿泊
今日は阿蘇から鹿児島ヘ行きます。

西郷隆盛や幕末維新に関する場所を訪ね歩きます。
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2006年11月24日(金) 阿蘇の鬼官兵衛記念館
今日は鬼官兵衛記念館の見学。

明神池 鬼官兵衛記念館

ヤフーより

鬼官兵衛記念館

(佐川官兵衛記念館)

場所 熊本県阿蘇郡白水村吉田1394

電話 09676-2-9191       

  館長 興梠二雄      

訪ねた方の寄稿

官兵衛に関する書籍、愛用した刀等や

当時民衆が使っていた生活用具などなど、

興味の尽きないものばかりでした。

駐車場もありますのでゆっくり見ることができました。

同地には明神池があります。

小生が訪ねてきたときも多くの人達が

湧水をバケツやペットボトルに注いでいました。

同地にあった説明文には、官兵衛もこの地で身を清め

当軍塚神社に必勝祈願をした史実が残っていると・・・

う〜む、このような話があたっとは・・・

小生、まだまだ勉強するところが多々あります。

それにしてもきれいな湧水ですね。

誰もいなくなったので小生も手酌で一杯・・・

冷たくておいしい。やはり肥後の水は日本一ですな。

阿蘇周辺の史跡
西南の役公園
鉢ノ久保・西南役慰霊碑
二重峠
俵山・西南役慰霊碑
西南の役砲台跡
明神池・鬼官兵衛記念館
佐川官兵衛足址碑
南郷有志隊魂留碑
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2006年11月23日(木) 今日は小倉に宿泊
山川記念シンポジューム終了後、懇親会があり、

夜は小倉に宿泊、24日朝、熊本に向います。
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2006年11月22日(水) 九州工業大学
明日、九州工業大学で開かれる

山川健次郎シンポジューム2出席、「会津と山川健次郎」について

発表する。

九州工業大学の沿革は、次のようになっている。

(九州工業大学のホームページより)

九州工業大学は、昭和24年法律第150号国立学校設置法により

昭和24年5月31日、明治工業専門学校を包括して設置されたのであるが、

その起源は遠く明治40年私立明治専門学校の設立にはじまる。

 私立明治専門学校は明治40年、当時は稼いだお金を酒食のみに

浪費する石炭成金が多い中で、安川 敬一郎、松本 健次郎の父子は、

「国家によって得た利益は国家のために使うべきである」という信念から、

わが国工業教育の向上と北九州工業地帯発展のため

巨額の私財を投じて設立認可され、明治42年4月1日、

4年制の工業専門学校として開校した。

 創立経営を託された理学博士 山川 健次郎氏の高い理想のもとに、

「本校は単なる技術を授くるの場所に非ずして、

人間形成の道場であらねばならぬ」とされ、

すなわち「技術に堪能なる士君子」を養成するという

指導精神がここに確立したのである。
 
その後、官立明治専門学校、明治工業専門学校を経て、

現在に至ったのであるが、

創立の精神は脈々として継承され今日に及んでいる。
 
かくして私立明治専門学校創立以来、

今日までに多数の卒業生を実社会に送り出している。

 これらの人材は、全国各地においてわが国工業の発展に寄与し、

伝統にはぐくまれたその着実な精神は

産業界に高く評価されているところである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
九州工大の理念

下村輝夫学長のメッセージ


高等教育機関である大学の使命は、

教育・研究・社会貢献です。これらの使命のなかでも、

九州工業大学は、開学以来の理念である

「技術に堪能なる士君子」の養成に基づき、

世界をリードする高度技術者の養成、

すなわちグローバル・エンジニアの養成を基本的目標としています。
 
九州工業大学は、平成15年度に

21世紀COE(Center of Excellence:卓越した研究拠点)

プログラムの一つに採択されました。研究課題は、

「生物とロボットが織りなす脳情報工学の世界」であり、

特色として大学院博士前期課程の2年間において、

設計からデバイスのもの創りまでを6ケ月毎に

各研究室で横断的教育を受け、修了または博士後期課程に進学する

というCOEスチューデントの養成があります。

このような着実な教育・研究の高度化を図り、

今後も「知と文化の情報発信拠点」であり続けることを目指しています。
 
このホームページの「大学紹介」、「学部/大学院紹介」に

掲載しておりますように、本学は、歴史的経緯と機能分担に伴って、

3つのキャンパスを擁しています。工学部キャンパスは、

本学発祥の北九州市戸畑地区に位置し、

情報工学部キャンパスは産炭地振興政策により飯塚市川津地区に位置し

、生命体工学研究科(独立研究科)は

北九州学術研究都市の中核として北九州市若松地区に位置しています。

工学部はもの創りを主眼とした基盤工学を、

情報工学部は高度情報技術を主眼とした情報工学を、

生命体工学研究科は国公私大学連携と

オール・ジャパンのリエゾン・オフィス(Liaison Office)を

主眼とした生命原理の学際的工学を目指しています。
 
また、「知の源泉」として地域社会の要請に応え、

教育と研究を通して次世代産業の創出・育成に貢献する、

個性豊かな工学系大学を目指しています。






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2006年11月21日(火) 九州の準備で、大忙し
九州工大の講演のテーマは

会津と山川健次郎

である。

映像も必要だと考え、会津鶴ヶ城や戊辰戦争の場面を

CDromu に保存した。

昨今、学会や研究会の発表は映像を取り入れる傾向が強い、

私も積極的に活用している。

前回の日大大学院の発表でも使い、

好評だった。

あさってからは、日曜日まで、このコーナーは休みとなる。
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2006年11月20日(月) 星亮一の九州の旅
23日に九州工大で山川健次郎のシンポジュームがあり、

私は「会津藩と山川健次郎」を発表する。

健次郎は九州工大の前身である明治専門学校の創設に加わり、

そこの総裁を務めた。

このとき、健次郎は東京帝大総長を退任したばかりであった。

健次郎は青年が好きだった。

「いいでしょう」

と二つ返事で引き受けた。

全寮制の人間教育を重視した学校をつくった。

健次郎は全身全霊を傾けて教育に当たった。

健次郎は学生から大いに慕われ、数々の伝説を残した。

私の日程は23日は小倉泊、24日、会津の猛将、佐川官兵衛の

戦いの跡を探るべく熊本に出かける。

阿蘇郡白水村に、鬼官兵衛記念館がある。

熊本からは、結構遠そうである。

「福島の星といいますが、記念館、どのように行ったらいいでしょうか」

ここに電話をしてみた。すると、どうだろうか。

「九州工大でお話される星さんですか」

「はい、そうです」

「お迎えにいきますよ」

とびっくり仰天の返事がかえってきた。

「それは、ご迷惑をかけることになります」

「いや、大丈夫です。熊本の駅まで向います」

なんとありがたいことか、私は感激した。

熊本城、田原坂も案内していただけることになった。

24日は阿蘇に泊まり、25日は鹿児島に向い、

26日、鹿児島空港から羽田に帰ろうかなと思っている。
△top
2006年11月19日(日) 山本五十六、戦後の評価
ヤフーに見る山本五十六の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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プラスの面

連合艦隊司令部で作戦検討中の山本五十六長官明るく冗談好きで、

部下・同僚からの信頼が非常に高かったこと。

当時の欧米事情に詳しく、

日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していたこと。

航空機戦力に早期から着目し、海軍航空隊設立に尽力したこと。

日米開戦が開始されると「短期決戦・早期和平」

という日米間に於ける国力の差を冷静に分析した

現実的な作戦計画を実施しようとしたこと等、

旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く

、敵であったアメリカ側からも山本五十六を賞賛する意見が多い。

山本五十六自身一貫して軍政畑を歩いてきた人物であり、

連合艦隊司令長官就任も采配・指揮能力を買われたものでは無く、

三国同盟に強硬に反対する山本が、

当時の軍部内に少なからず存在した三国同盟賛成派勢力や

右翼勢力により

暗殺される可能性を当時の海軍大臣米内光政が危惧し、

一時的に海軍中央から遠ざける為の人事を行ったと云う事情もあり、

以上の点により実戦指揮能力の低さを批判するのは

酷であるとする意見も少なくはない。

実際、開戦の際には米内を連合艦隊司令長官にして

自身は海軍中央に入ろうと目論んでいたように、

自分でも実戦指揮能力に疑問を抱いていたふしは多少ある。

山本が日米開戦時に連合艦隊司令長官ではなく、

海軍大臣或いは海軍次官等の政治に

意見を述べられる立場にいたのであるなら、

その先見性と政治力をいかんなく発揮できたのではないかとする、

山本五十六の軍政家としての能力を惜しむ意見も多い

(例えば、秦郁彦なども戦略家としての山本には否定的であるが、

軍政家としてはそれなりの評価をしている)。

艦隊勤務の経験が浅かった故に、

海戦術のドグマに捉われず航空機の有効性に気が付き、

航空戦を重視する主張を行い得たとする意見もある。

ーーーーーーーーーーーーーー
否定的意見

一方、山本に対する否定的な意見としては

下記の事項が中心となっている。

軍令部の作戦計画を無視した独断専行型の作戦を立案し実施した

真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に見られる様に

全ての作戦計画が非常に投機的・博打的なものであった

麾下の各艦隊司令官に対して適材人事改革を行わなかった

情に流されやすく信賞必罰を行わなかった

戦況推移に沿った指揮を行わなかった

これらの理由により、平均点以下の「凡将」あるいは

「愚将」であったとする辛辣な評価を下している意見もある。

これに関しては、1948年の段階で

サミュエル・エリオット・モリソンが

真珠湾攻撃を「愚手」と斬って捨てているように、

比較的早くから出てきた見方でもある。

但し、真珠湾攻撃の投機性については、

もともと徹頭徹尾米国との開戦に反対しており、

それでも強いて米国と戦うならばこの作戦以外ないとの

ギリギリの判断から出たもので

山本自身の判断力の限界から出たものではないとする反論もある。

3番目から5番目の理由に関して、

一番槍玉に挙げられているのは黒島亀人に関する事項である。

山本は黒島を自身の戦死の寸前の頃まで長く手元に置いた。

「同じ参謀が作戦を練っていたのでは、手の内が見破られる」

との忠告に山本は「黒島は独創的なアイデアを出すので

手放せない」と断り、

あるいは「黒島のような人物がいないと天下の大事は成し遂げられない」

とかばった事がある。山本の人の好き嫌いが極端に現れた例として、

山本を戦略家としては否定する理由に挙げている一方で、

人材面で黒島に代わる適当で有能な人物がいたのかどうか

という反対意見もある。

国葬が行われたことに関しても、否定的な見方をする人物がいる。

佐藤賢了がその一人であり、ミッドウェー海戦の失敗を引き合いに出して

「『国葬にするのは適当ではない』と東條首相に進言したが、

東條は陸海軍の協調を優先して進言を退けた」という回顧をしている。

「敗戦に導いた山本を国葬で葬ったのは不適当」

という意見も相当あるが、

敗戦は結果論として擁護する意見もある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて私はどうまとめるか、

これからが正念場である。
△top
2006年11月18日(土) 山本五十六は英雄か凡将か
いまミッドウエー海戦を書いている。

勝てるはずの海戦が、大惨敗で終わり、日本海軍は、

奈落の底に落ち込んだ、

ハワイ作戦で、大功績を上げた空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍を気に

失ったのだ。

敵空母を発見しながら、攻撃のタイミングを失い、爆撃されてしまった。

最初は雷撃の準備をしていた。

空母がいないというので、爆弾に積み替え、ミッドウエー島を爆撃した、

すると空母発見の知らせがはいった。

「魚雷に積み替えよ」

南雲長官は、爆弾を魚雷に積み替えさせた。

この間、2時間、

ヤッと作業が終わったとき、頭上に敵機の姿があった。

加賀がやられ、赤城がやられ、蒼竜、飛龍もやられた。

ばかげた戦争だった。

アメリカ海軍は日本の空母を発見するや、

「いけるものはいけ」

と爆撃機、雷撃機、戦闘機、何でもすぐに飛ばした。

その差だった。

弁解の余地のない作戦ミスだった。

しかし山本は、南雲長官や鹿下参謀長らの責任を問わなかった。

自分の責任も明らかにしなかった。

これをを巡ってさまざまな意見がある。

山本も凡将だ。

自分の責任を隠蔽した。

いや南雲らにもういち度、機会を与えたのだ。

替わるべき連合艦隊司令長官がいなかった、

どう考えるべきなのか。

戦争のさなかである。

山本が辞職すれば、日本の惨敗が国民に明らかになる。

それを隠す為には、

山本が引き続いて司令長官でなければならなかった。

真珠湾の英雄を傷つけることもできなかったろう。

そこで山本を慰留した。

私はそう解釈する。

本当は辞表を出したかったのだ。

だが許されなかったのだ。

この後、日本は連戦連敗、負け続ける。

やはり国民に情報を開示して、どうすればいいか、

論議を高めるべきだった。
△top
2006年11月17日(金) 山本と南雲は不仲か
皆さんから真珠湾攻撃に関する投稿があった。

戊辰戦争研究会の大村益次郎さん。
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司令長官はまず南雲中将ではなく、

山口少将にさせるべきではなかってでしょうか?

南雲中将のほうが上ですから無理でしょうネ

それか山本五十六自ら指揮するか、

たぶんしたかったと思いますが

連合艦隊司令長官自らは難しいですかね、

海軍は永野大将の軍令部(作戦を計画)

島田大臣の海軍省(陸軍との関や政治など)

山本五十六大将の連合艦隊(作戦を実行する)

海軍や陸軍はもともと真珠湾攻撃を無理、無謀、失敗した時のリスクが

あまりに多き過ぎる為反対してましたが

山本が辞めると言ったので、そこまで言

うならと永野軍令部が許可だしたと思います、

南雲司令としてはこれからアメリカと戦う中で被害を

できるだけ少なくしたかったのと成果があったので

3波攻撃を止めてたのだと思います。

もともと山本大将と南雲中将は不仲だったと思いますし

すいません名前忘れましたが山本の親友で

海軍の宝とまで言われた方が予備役になった時

南雲中将も一枚絡んでたと思います。

南雲としては山本長官の作戦はとりあえず

成功させたし艦隊を無傷で日本に

戻らせるほうを選んだと思います。

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そうかもしれませんね。

ほかにどなたか投稿をお願いします。

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山田方谷

なぜ第3波攻撃をしなかったかである。

 当時の日本の工業力の非力なことが影響していると思います。

当時日本には、現存する軍艦が沈められたら、もうおしまいです。

現に、太平洋戦争中に就役した正規空母は、大鵬と信濃だけでした。

だとすれば、敵に最大の打撃を与えるよりも、

どうしても自軍の温存を考えてしまいます。珊瑚海海戦でも、

もう一撃を加えれば、ヨークタウンを沈められたはずです。

南太平洋海戦でも、あと一発エンタープライズに爆弾が当たれば、

沈められたかも知れません。

しかし、日本海軍の指揮官は、引揚げてしまいます。

 それにくらべ、米軍は、生産力をバックにもっていますから、

日本軍を徹底的に攻撃します。現に、

ミッドウェイ海戦でも4隻目空母、飛龍を沈めるために果敢に攻撃しています。

自軍の軍艦が沈められても生産できると言うことあったからでしょう。

昭和18年後半から米軍の空母は、数えられないぐらい就役しています。

 あくまで個人的意見ですが!

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なるほど、その部分はありますね。
△top
2006年11月16日(木)  真珠湾攻撃はなんだったのか
山本五十六を書いていると、疑問点が一杯出てくる。

ひとつは真珠湾攻撃の際、なぜ第3波攻撃をしなかったかである。

飛行隊長の淵田美津雄中佐は、巡洋艦,駆逐艦がまだ残っているとして

第3波攻撃を主張した。

蒼龍にのっていた山口多聞少将も、修理工場や燃料タンクの爆撃を

求めて第3波攻撃を求めた。その準備は完了していた。

敵の燃料タンクには、半年分の重油が貯蔵されていた。

しかし南雲司令長官は、

「第1波、第2波で、敵の戦艦は叩いた。これで十分だ」

さっさと北に針路を取り、すたこら帰国の途についた、

ハワイのキンメル提督に代わって米太平洋艦隊の司令長官になった

ニミッツ大将は、すぐハワイに入って損害を調べた。

沈んだ戦艦は旧式のもので、お払い箱寸前のものだった。

沈んでくれてかえってよかった、

高速機動部隊を編制できたからである。

空母は3隻とも無事だった。

皆ハワイにいなかったからである。

巡洋艦,駆逐艦はかなり残った。燃料もある。

太平洋艦隊はすぐ復活した。

「リメンバ−・パールハーバー」

アメリカ人は燃えに燃え、本気で日本にかかってきた。

ハワイ攻撃は,なんだったのか。

もう一度、考えて見る必要がある。
△top
2006年11月15日(水) 今日は星亮一と行く歴史街道
午前8時、郡山駅前出発、

磐越道、常磐道経由で、北茨城に向かいます。

岡倉天ゆかりの六角堂、茨城県立天心記念五浦美術館、野口雨情記念館

を見学する。

主催、NHK郡山文化センター

参加者約30人。

午後5時半

帰ってきた。

何度見ても岡倉天心は凄い。

彼が美術に関心を持った時代、洋画こそ美術の最先端だった。

天心は文久2年12月26日(1863年2月14日)生まれ、

-明治、大正期に

美術家、美術評論家、美術教育者として大活躍した。

本名岡倉覚三。幼名は角蔵。弟は英語学者の岡倉由三郎。横浜生まれ。

福井藩士だった父親岡倉勘右衛門は貿易商で、

幼いころから英語に慣れていた。東京開成所入所。政治学・理財学を学ぶ。

英語が得意だったことから、同校講師のアーネスト・フェノロサの

助手となり、東洋美術に開眼した。

「日本には日本の美術がある」

天心は東京美術学校校長として、日本画の復権に努力した。

やがて洋画派との対立もあって、東京美術学校を去り、

茨城県五浦(いずら)に移り、、横山大観、下村観山、

菱田春草らと一緒に輝ける五浦時代をきずいた。

日本美術院の創設である。

晩年はニューヨークにも住み、英語で「茶の本」を出版し、

ボストン美術館中国・日本美術部長も務め、世界に日本美術を紹介した。

この間、五浦とボストン市を往復した。、

アトリエの跡地は現在、茨城大学五浦美術文化研究所となっている。

五浦は絶対おすすめのポイントである。

とにかく凄い人物だ。
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2006年11月14日(火) 吉田松陰という人
20日ほど東京拘置所に拘留されていた前福島県知事の

佐藤さんが保釈された。

拘留中、読んだ本が吉田松陰に関するものだったという。

自分は無実であるという意味をこめて、読んだのだろうか。

会津藩の悲劇を抱える福島県の前知事が

長州藩の吉田松陰に救いを求めたのは、

皮肉なことであった。

吉田松陰は何度も獄舎にとらわれた。

いずれも思想的なことでの逮捕であり、

談合疑惑や金銭に関することではない。

私がおすすめしたいのは昭和11年、岩波書店から

発刊された「吉田松陰全集」全10巻、

松陰の書簡、文集は読み下しもあるが、多くは難解な漢文である。

その中に「護送日記」というのがある。

密航を企てて捕らわれ、江戸の伝馬町牢につながれ、

五ヵ月後に釈放され、戸板に乗せられ、萩まで運ばれる途中の

記述である。

長州藩の扱いは過酷だった。

従者の金子は地面に置いて食事を食わされ、

着替えも認めなかった。

夜は裸同然で小布団一枚に寝せた。

松陰も似たような扱いだった。

幕府ではない、長州藩の扱いはこのようなものだった。

松陰が死んで門人の若者たちが怒った。

藩の上層部に反乱を起こした。

それが高杉や山県有朋、伊藤博文らになるのだが、

長州藩の歴史も複雑で難しい。

佐藤さんはどのような感想を持ったのだろうか。
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2006年11月13日(月) 福島県知事は佐藤雄平さん
選挙通の予想通り、前参議院議員の佐藤雄平さんが圧勝した。

開票即、当選確実というのだから、早い。

午後8時の段階で、当選確実のテロップが流れた。

世論調査と出口調査で、結果がわかってしまったのである。

実は私も朝の段階で、佐藤さんの勝利の可能性大だと思った。

午前8時、投票所に行き、

あるテレビ局の出口調査に出くわした、

協力するかわりに何気なく聞いた。

「どうですか」

と聞いても答えてはくれなかった。

「まあ、佐藤さん、森さん、多分、佐藤さんでしょうね」

と誘導質問をしてみた。

首を振れば、そこでは接戦、うなずけば、そうなる。

調査員は大きくうなずいた。

「これはどうも決まりかな」

と一瞬、思った。

朝の時間帯は年配者が投票に訪れる。

年配者は、現職の参議院議員に投票する傾向がある。

しかし若者は挑戦者の森さんに入れる様子が見られた。

勝負は午後かなと思った。

ところが、何人かに電話すると、

午後になっても、佐藤さん優勢の出口調査は続いていた。

これで決まりだった。

出口調査、だれが考えたのか、すごいものですね。

森さんの敗因は知名度の低さと、自民党県連の動きの悪さだった。

自民党の関係者は佐藤前知事の金まみれの選挙に、

大なり小なり関係していたと噂されていた。

動きがつかず、自民党自体が県民から疑惑の目で見られていた。

一方、佐藤さんはさっさと民主党の

党籍を離れ県民党を名乗ったのは正解だった。

今回、自民党では勝てなかったのである。

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読売新聞ニュース

出直し福島知事選、佐藤雄平氏が初当選

佐藤栄佐久前知事の辞職に伴う福島県の出直し知事選が12日投開票され、

新人の前参院議員・佐藤雄平氏(58)(民主、社民推薦)が、

弁護士・森雅子氏(42)(自民、公明推薦)ら4新人を破り、初当選を果たした。

 投票率は58・77%(前回50・76%)だった。

 各候補は「県政刷新」を掲げ、

入札制度などの改革への実行力が焦点となった。

佐藤氏は、参院議員時代に培った知名度と地盤を生かして

自民党支持層にも食い込んだ。一方で、民主党を離党し、

「県民党」を掲げて政党色を薄め、幅広い支持を得る戦術を展開。

「改革派」知事らの応援を受け、無党派層にも浸透した。

 森氏は、自民、公明両党の幹部や閣僚が連日のように県内入りし、

組織の引き締めを図ったが、知名度不足が最後まで響いた。

また、事件の影響で、建設団体が選挙活動を自粛。

農業、商工団体など頼みの業界団体も動かなかった。

(読売新聞) - 11月13日10時25分更新
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森さんはまだ若い。

国政を経験するのもいいのでは。

佐藤新知事

明るい県政を期待します。


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2006年11月12日(日) 福島知事選、投票始まる=午後10時すぎ大勢判明
全国注目の福島県知事選挙は、今日である。

自民、公明か民社か。

夜の10時には結果がわかる。

自民党、公明党推薦も森候補か、民主党の佐藤候補か。

ほぼ互角の戦いとなっており、予断は許されない。

電話で各地の情勢を聞くと、選挙通は佐藤候補優勢を伝えている。

でもどうかな、

逆転も十分にありえる。

最後の最後までもつれれば、森候補の勝利もあるだろう。

今夜はテレビにくぎずけである。

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時事通信速報

 福島県発注の公共工事談合に絡み、

佐藤栄佐久前知事=収賄容疑で逮捕=が辞職したことに伴う

出直し知事選の投票が12日午前7時から、

同県内1476カ所の投票所で一斉に始まった。

同日午後8時に投票が締め切られ、

即日開票される。同10時すぎには大勢が判明する見込み。

 県選管によると、午前11時現在の投票率は19.14%で、

前回知事選の同時刻(14.08%)を上回っている。 

(時事通信) - 11月12日13時0分更新

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読売新聞ニュース

福島知事選、午後2時現在の投票率は30・71%

 佐藤栄佐久・前知事(収賄容疑で逮捕)の辞職に伴う

福島県知事選の投票が12日午前7時から始まった。

 無所属新人5人が立候補し、「県政刷新」が焦点。

投票は午後8時までで、即日開票され、深夜には大勢が判明する。

 午後2時現在の投票率は30・71%で、

前回の同時刻(24・59%)を6・12ポイント上回っている。

 5期18年続いた佐藤県政は、

共産党を除くオール与党体制が築かれ、過去4回の知事選は、

佐藤前知事と共産党系候補の一騎打ちだった。

今回は、自民、公明両党と、民主、社民両党の推薦候補の対決に、

共産党の推薦候補や元県議も絡み、接戦が予想される。

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ということはきわめて関心が高いことになる。


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2006年11月11日(土) 今日はNHKふくしまで講座
帰りが遅くなり、本日、一言は休載です。

星亮一の戦争の本

紀伊国屋書店、ホームページ

満州歴史街道―まぼろしの国を訪ねて
ISBN:4769809697
221p 19cm(B6)
光人社 (2000-09-07出版)

・星 亮一【著】
[A5 判] NDC分類:292.25 販売価:\1,890(税込) (本体価:\1,800)


BookWebの取扱い店舗には在庫がございませんのでお取り寄せになります。
但し、「各店在庫案内」で表示されている店舗には在庫がございます。別途、当該店舗へご注文が可能です。大陸紀行3,800キロ。
日露戦争、満鉄、関東軍、ラストエンペラー、王道楽土、ソ連侵攻、残留孤児…。
幻影の帝国「満州国」は現代に何を遺したのか?時の帳の向こうに消え去ったまぼろしの国・満州国。
かつての大陸の玄関口・大連から瀋陽、長春、そしてハルピンへ―。
中国東北部の広大な大地を行く者の眼前に次々に現われる歴史の痕跡。
帰国直後に急逝した文芸評論家・尾崎秀樹とともに知られざる旧満州の道を歩いた歴史作家が綴る異色のルポルタージュ。

大連から旅順へ
二〇三高地
水師営
瀋陽への道
満州族
満州事変
平頂山での記憶
長春の風景
愛新覚羅溥儀
ハルピンの百年
満蒙開拓団
シベリア抑留
満州で考えたこと

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2006年11月10日(金) 太平洋戦争の感想
何人かの方から感想があった。

戊辰戦争研究会、大村益次郎


太平洋戦争は当時の国民は勝てると思っていたのでしょうね。

大本営からの発表を信じて日本は連戦連勝このままではアメリカまで占領す

ると本気で考えていたと思います。

東条英機ではなく他の人が指導者なら勝てたか?

同じでしょう

確か陛下は米内を総理に推していたと何かで読んだことがありますが

米内ならまた違った方向に持っていけたんではないかと

思いますが当時は陸軍の力の方ありましたし

海軍の発言力は弱かったのでは。

実現しませんでしたが。

また陸軍には長老という(杉山元帥など)ばりなりの

明治、大正、昭和を生きてきました軍人などがいて

日本は神国で絶対負けないと軍国主義の塊みた

いな人達が裏で指導し戦争に突入していったんだと思います。

東条英機は日本の軍国主事のそのものだったのではないでしょうか?

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私はアメリカの蔑視も根本にあり、その挑発に載せられ、

日本が開戦に踏み切った部分もあると考えている。

アメリカのノインフイクション作家、ジョン・トーランドの

「大日本帝国の興亡」

は必読の文献のひとつである。それを読むと、

当時、アメリカ政府首脳は日本に対してひどい偏見を抱いていた。

「奴らの軍艦はトップヘビーなので、

おそらく第1回の海戦でひっくりかえるだろう」

「パイロットは皆、めがねをかけており、

ひどい近視だそうだ。空中戦もできまい」

そういってゲラゲラ笑っていた。

中国とインドネシアからの即時撤退も、見境ないものだった。

アメリカ、イギリス、フランス、かれらはアジアでなにをしてきたか、

日本だけを責めきれるものではなかった。

武力で侵攻し、植民地を作っていった。

人口が多く、資源のない日本がいかに苦労しながら、

欧米列強に追いつこうとしてきたか、

それをしらなすぎた。

黄色い日本人が、われわれの真似をするのは認めない、

戦争に持ち込めば、勝てる

そう考えていた。

どこか戊辰戦争に似ていた、

薩長軍の不当な要求に立ち上がった東北軍に似ていた。

別の開戦をせずに、長引かせる戦法もあったろう。

しかし日本人は熱すると余裕がなくなる。

それいけと真珠湾を叩き、アメリカはしてやったりと

日本たたきに全力をあげた。

日本の外交は下手だった。

そこをアメリカにつけ込まれた。

太平洋戦争も多角的に見る必要がある。
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2006年11月9日(木) 東條英樹論
開戦時の首相は陸軍の東條英樹だった。

東條とはどんな人物か。

東條というと極悪人、戦争犯罪者、卑怯者、いいイメージはない。

対米交渉が暗礁に乗りあげると、近衛内閣は総辞職した。

「東條しかいない」

と陸軍大臣の登場が首相になった。結果は惨敗し、

戦後、A級戦犯として死刑になった。

一体、東條はなにを考えて太平洋戦争に突入したのか。

佐藤早苗著『東條英樹・封印された真実』(講談社)に

東條のメモが掲載されている。

市ヶ谷の極東国際軍事裁判での東條は、

「欧米が人道、人権、自由、平等、法の支配などを唱え、゛

民族主義゛といっていた十九世紀は、アジア人にとって欧米による

゛アジア隷属化の世紀゛ではなかったのか」

「欧米が資本主義と世界自由貿易によって

文明と繁栄を享受したといっても、

その陰には原料産地及び製品市場として植民地

もしくは半植民地としての地位を強いられ、

愚民政策によって民族意識を抑圧されたアジア、アフリカの

十数億の有色人種の隷属があったことを忘れてはならない」

 と訴えた。そして太平洋戦争の原因を、

「大東亜戦争の根本原因は歴史的矛盾の累積であるが、

最たる直接の原因は、世界経済の構造変化によって起こった

世界恐慌のなかで、持てる国が経済的国家主義、

排他主義による資源封鎖の経済戦略を行ったために、

持たざる国が窮地に追い込まれ、

資源獲得を実力(武力)でせざるを得なくなったことにある」

と訴えた。そして、戦争は

「外圧によって防衛の必要上起こった結果である。

東亜は過去数世紀にわたってロシアを含む欧米列強の侵略と、

今世紀になってソ連の東亜赤化戦略にあい、安定をはかる必要があった。

しかも日本は東亜における唯一の独立国家としてその中心的地位にあり、

日本は日本自体と東亜の民族国家全体のため、

それら侵略に対して防衛する必要があった。

そのために自衛措置を頻発させたのである。

よってきたる原因は外部の圧迫にあり、自ら求めたものではない」

と主張しようとしていたと言う。

また勝利国の一方的な理論によって裁かれた東京裁判の在り方について、

「世界大戦が勃発するには、

それ相当の歴史的に根深い要因があるのであって

、戦争責任を一方の指導者にかぶせ、国際法上、

外交上の開戦責任を論じても、

戦争の本質的原因を究明することはできない。

一方の国だけが犯罪として戦争を起こすことはあり得ないし、

一方が百パーセント平和的だとする主張も問題である。

戦争の本質的原因は謙虚に歴史的に反省し、

根深い歴史的矛盾まで掘り下げなければ、正しく把握することができない」

 とも訴えようとしていた。

結局、これらの見解はこの裁判では日の目を見ることはなかった。

日本は無罪であると言うのが東條の本音だったようである。

それはさておき、開戦決定時期の日本国の指導者には

かなりの欠陥があったことは間違いない。

戦争は所詮、勝つか負けるかである。

御前会議では陸軍、海軍ともに絶対勝てる自信はなかった。

2年ぐらいは戦えるという程度だった。

ただ国民が日本が無敵と信じていた。

石油を止めたアメリカを倒せと叫んだ。

マスコミも開戦派だった。

ドイツは強い。いずれ欧州はドイツのものになる。

勝ち馬に乗るべし、

最終的に東條はドイツ頼みの開戦に踏み切った。

なんと言う皮肉であろうか、

まさにその時、ドイツはソ連に攻め入って敗れた。

一体、日本の外務省はなにをしていたのか。

陸軍参謀本部の情報収集はどうなっていたのか。

聖戦かどうかを考える前に

問わねばならないことが山ほどある。

 
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2006年11月8日(水) 今日は山口多聞の取材
晴れ、さわやかな朝である。

昨夜は福島県知事選挙の個人演説会を聞いた。

流れを変えようという婦人候補である。

バリバリの弁護士である。

迫力、説得力は十分に感じられた。

さて今日はミッドウエーで戦死した第二航空戦隊司令官、

山口多聞少将の取材のため相模原市に出かける。

ご遺族に会い、父山口多聞を聞く。

山本五十六の後継者と目された人物はが山口多聞だった。

どんな思いで彼はミッドウエーを戦い、空母「飛龍」と運命をともに

したか。

以前、私はPHP文庫から「山口多聞」を書いているので、

初めてではない。

今回は山本五十六との関連、家族を思う軍人の苦悩

そういった部分を取材したい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

ヤフーから

提督の中の提督 山口多聞
 
明治25年東京生まれ。旧松江藩士の父が、楠木正成の幼名、

多聞丸から、命名する。海軍兵学校第40期、

入学時は150人中21番。卒業時は、144名中2番。

同期には連合艦隊参謀長・宇垣纏、特攻隊生みの親・大西瀧次郎らがいる。

山本五十六の秘蔵っ子で米内光政のラインでもある。

山口はプリンストン大学に留学している。

因みに、山本はハーバート大学で学んでおり、

両者とも、駐米武官を経験した国際派である。

また、愛妻家、子煩悩としても知られている。

 山口が2年間の駐米武官の際に、最も関心を抱いたのは、

日米の歴然とした国力の違いであった。開戦前昭和15年時、

米国の原油の生産量は日本の150倍。

日本の石油の消費量の90%は輸入に依存していたが、

その内の70%は米国からのものであった。また、

備蓄量は連合艦隊の2年分しかなかった。石炭の産出量は、

米国は日本の約9倍弱、鉄鋼に至っては、日本の500万dに対し、

米国は6500万dであった。こうした、我国の資源不足(国力)で、

。米国の現状をつぶさに見た山口もまた、米内、山本、井上らと同様に、

日米避戦論であった。
 しかし、第2航空戦隊司令官として、山口は航空母艦「飛龍」に乗り、

真珠湾攻撃に出撃することになる。

この時、旗艦「赤城」には、

東郷艦隊のZ旗にあたる「DG」

(皇国のの興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ)

の信号があがった。

第1次攻撃に成功した淵田美津雄中佐は「われ奇襲に成功せり」

(トラ、トラ、トラ)と「赤城」に発信した。

 米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が戦後記した

『太平洋海戦史』によると「攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、

機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。

日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた

450万バレルの重油を見逃した。

この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、

真珠湾から作戦することは不可能であったろう」とある。

山口は、2ヶ月前の「長門」での図上会議の際、

第3次攻撃として燃料タンク、修理施設への攻撃を主張したが、

南雲忠一司令長官は黙ったままだった。

実際の真珠湾でも、山口は第3次攻撃の体制に入ったが、

旗艦「赤城」からの応答はなく、やむなく断念し、

北北西に進路を反転することになる。

山口は、地団太ふんで悔しがった。

また、米海軍の空母は全く無傷であった。
 
ミッドウェー海戦に先立ち山口は

「ここは日米両海軍の決戦と見なければならない。

従来の艦隊編成を抜本的に改め、空母を中心とする機動部隊を編成し、

空母の周辺には戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、

敵機の襲来に備え、少なくとも三機動部隊を出撃させるべきである」と、

「大和」での研究会で述べた。しかし、山口の提案はうやむやされ、

採用されることはなく、アリューシャン作戦による戦力の分断により、

ミッドウェーは真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻での空母での作戦となる。

日本艦隊の動向を完全にキャッチしていた米海軍に対し、

日本海軍は連戦連勝による慢心から、

いくつかの米艦隊の情報を把握しながら見過ごし、

作戦に生かすことがなかった。そして、

不用意に敵陣のまっただ中へ突入することとなる。
 
ニミッツは後年この海戦について次のように述べている。

「ミッドウェー海戦の勝利は、主として情報によるものであった。

奇襲を試みようとして、日本軍自身が奇襲を受けてたのである。

その上、日本軍は重大な過失を犯し、

米軍指揮官はたいした誤りもなく、日本軍の誤りを巧みに利用した。

この敗戦は日本にとって大敗北であった。

空母「ヨークタウン」と駆逐艦「ハンマン」の米軍損失に対し、

日本は四隻の空母と一隻の重巡を失った。

米国は150機の飛行機を失ったが、

日本は空母とともにその乗組員を失い、飛行機の損失は322機に達した。

米国の戦死者307人に対して日本は3500人の生命を捧げ、

そのなかに100名の第一線パイロットが含まれていた」
 
空母「赤城」「加賀」「蒼龍」を瞬時に失ったあと、

山口は「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ち、

無傷の空母「飛龍」を率いて、「ヨークタウン」を大破炎上させ、

一矢を報い良く戦ったが、「飛龍」は、満身創痍となり沈没を待たず、

。山口提督、加来艦長は、提督精神の発露から、

全員を避難させ(後日談がある)「飛龍」と運命をともにする。

国民の戦意低下を恐れた大本営はミッドウェー海戦の敗北を隠蔽すべく、

山口の死の公表を1年後の昭和18年4月22日にした。

情報漏れを防ぐため、負傷し帰国した者は、

1年近く各地の海軍病院に軟禁された。
 
参考文献 『山口多聞(空母「飛龍」に殉じた果断の提督)』

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この参考文献は私の作品です。

紹介していただき感謝します。

 
△top
2006年11月7日(火) 保科善四郎中将
太平洋戦争にいたる国策の決定は、大本営政府連絡会議や御前会議で

決められていった。

海軍中将保科善四郎回想記と言う資料がある。

保科は宮城県角田市の出身で、旧制角田中学から

海軍兵学校、海軍大学校に進み、

その後、エール大学に留学、開戦の時、海軍省兵備局長だった。

私の父の実家は、角田のとなり、丸森町にあり、父も含めて

親戚の人々は、角田中学校に進学したので、保科善四郎は

角田中学の誇りであり、郷土全体の誇りだった。

山本五十六と長岡の関係に似ている。

末は連合艦隊司令長官と角田周辺の人々は、

保科に大きな期待を寄せた。

戦後、この人は衆議院議員を4期務め、海上自衛隊の

発足にも尽力し、自民党の国防部長の要職にもあった。

選挙となればわが親戚は、保科善四郎の当選を目指して、

何時も熱烈な運動員になった。

そんなわけで、私は子どものころから、

この人の名前を知っていた。

秀才の保科は詳細なメモを残していた。

「勝てるかどうかわからない」

陸軍も海軍も首脳は、弱気だった。

ドイツが勝てば勝算ありという、情けないはなしだった。

「どうすればいいのだ」

東條首相は、決めかねていた。

アメリカの要求は中国からの撤兵だった。

他国を侵略すべからずというクレームだった、

それがいやなら石油も止める。鉄も入れない。

資産も凍結する。

次々に要求が出された、

結局、ドイツが勝利することを願って

日本は対米戦争に踏み切った。

そのドイツはロシアにコテンパンに敗れた。

陸軍はドイツが勝つと信じていた。

一体、情勢分析はどうなっていたのか。

対米戦争で勝利するシナリオは

どのようなものだったのか、

わからないことが多すぎた。

いま保科の回想をじっくり読んでいる。

それを「山本五十六と山口多聞」

のなかで詳しく紹介したいと考えている。
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2006年11月6日(月) シェイクスピア・カンパニー
シェイクスピア・カンパニー の 下館和巳(しもだてかずみ) さんから

公演のご案内をいただいた。

星先生はじめまして。シェイクスピア・カンパニー主宰の下館と申します。

先生には、だいぶ以前から、お目にかかりたいと思っておりましたが、

脚本や舞台製作、プロデュースに追われるうちに

、今、になってしまいました。

今日は、大変失礼ながら、仙台市イズミティで行われます

「破無礼」公演に、是非、先生をお招きいたしたいと存じまして、

メールをさせていただきました。11月24日からの3日間で、

24日の夕方7pm、25日の1:00pm・6:00pm、

26日の1:00pm・6:00pmでございます。

もしお越しいただくことができますならば、ご都合のよい日時をお知らせ

いただければ有難く存じます。

ーーーーーーーーーーーーー

というものでした。

ちょうど、この時期、私は九州工業大学で、山川健次郎の

シンポジュームがあり、出席はできないのですが、このようなすばらしい

集団が仙台にあることを知り、

凄いと感心いたしました。

仙台の方はぜひ、ご覧になってください。

シェイクスピア・カンパニー

インターネットに次のようにありました。

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所在地 宮城県仙台市

シェイクスピア・カンパニーは、東北地方に木造のぬくもりのある劇場

《グローブ座》(仮称)を建設しようというスローガンのもとに

集まった人々の組織です。

 そこから劇団シェイクスピア・カンパニーが生まれ、

直接原作から翻訳、翻案した脚本をもとに、

新たなシェイクスピア劇の可能性を模索しています。

 私たちの目標は、東北地方から文化を発信し、

誰からも愛される劇場を建設することです。


★私たちの目標である劇場建設のために1997年から、

主に上演会場で基金活動を行っています。

シェイクスピア・カンパニー代表者 下館和巳(しもだてかずみ)

設立 1992年

活動目的 東北地方に木造のぬくもりのある演劇専門の劇場を建設する

サポート会員 約600名

劇旗揚げ公演 1995年9月『ロミオとジュリエット』

主な活動目標 基本的に1年に1作品のシェイクスピア劇の

制作・公演を目標とする

主な活動内容 新たなシェイクスピア劇を創造する過程で

東北地方の歴史文化を掘り起こし、地方から文化を発信してゆく。

そしてその活動を通して劇場建設への力を集結してゆく。

(東北各地の出身者で構成され、一般の勤労者中心、数名は学生)

技術スタッフ約15名(一般勤労者)

◆なぜ方言を使うのか
 私たちはこれまでの共通語の翻訳の中に方言の魅力を加えることで、

にも色々な地方の言葉が登場しますが、

日本語に訳されたシェイクスピア劇は全て共通語でした。

そしてそれは特に東北人のわれわれにはどこかよそよそしく感じられます。

日本語の方言に宿っている豊かな生命力を劇の言語として用いることで、

新しいシェイクスピア劇を作り出しています。

◆なぜ東北地方を舞台にするのか
 シェイクスピア劇の中に方言を使うとき、

翻訳者や役者の中にある言葉、主に東北地方の方言を使うことになり、

自然に舞台は東北地方となります。

そして東北地方には豊かな文化的な伝統が受け継がれています。

そうした東北地方の風土や歴史をシェイクスピア劇の舞台とすることで、

もともとシェイクスピアの劇が持っていた魅力を

新しい形で表現しようとしています。

また同時に舞台の制作過程において、

東北の歴史や文化を発掘するという作業も行っています。

◆これまでの公演

■第一回公演 『ロミオとジュリエット』
1995年●8月19日(土) ブリティッシュヒルズ(福島県天栄村)
9月09日(土)、10日(日) エルパーク仙台スタジオホール(宮城県仙台市)
9月24日(日) 登米祝祭劇場(宮城県登米郡)

□アトリエ公演 『海へ騎りゆくものたち』
1996年 3月 9日、イベントフォーラムYAMAGUCHI(宮城県仙台市)

■第二回公演 『夏の夜の夢』
1996年08月31日(土) 浦戸諸島開発総合センター(宮城県仙台湾野々島)
9月21〜23日(土〜月) エルパーク仙台スタジオホール(宮城県仙台市)
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2006年11月5日(日) 西南戦争の旅
今月24日から熊本に出かける。

西南戦争の戦場めぐりである。

23日に小倉の九州工大で、山川健次郎のシンポジュームがあり、

そこに出席し、「会津と山川健次郎」を講演したあと、

熊本に向い、西南戦争で戦った会津抜刀隊の戦跡を巡る。

熊本ははじめての旅である。

旅行社がこれを聞いて、羽田発で、企画を立ててくれたが、

なかなか団体は成立せず、

個人的な旅になりそうである。

それでもいいと言う方が何人かおり、

熊本で一緒になり、見学することになるかもしれない。

羽田−熊本間の割引チケット

旅行社の方でまだ持っており、

興味のある方は、ご連絡ください。

熊本に詳しい方が参加してくださると、助かるのだが、

人頼みはいけない。

自分で計画を立てることが肝心、

山本五十六の合間を縫って、

西南戦争を考えることにする。
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2006年11月4日(土) 嬉しいニュース
今朝の産経新聞を見ていたら、嬉しいニュースがあった。

会津高校と山口県萩高校の交流である。

私は3年ほど前、会津高校に招かれ講演した。

「長州が嫌いだというセクト的な発想ではいけない。

彼らのことも知る必要がある」

これは非常な反響を呼び、

何人もの生徒から幕末史の見方についての質問を受けた。

その時の印象は、高校生の幅広い感受性だった。

なぜ薩長の若者が幕府を倒せたのか、

これはこれで、十分に調べて見る必要はあった。

同時に会津の正義も知る必要があった。

歴史は平面で見てはならなぃ。

多チャンネルで見なければならない。

そう説いた。

今回の交流は、この11日に萩市で開かれる国民文化祭で、

両校が共演するのだという。

萩高校から申し入れがあり、

会津高校がこれを受けいれ、両校の合唱部が

「友情! 時を越えて」

を合唱する。

これはすごく嬉しいニュースである。

私自身、萩に行き、和解の重要性を訴えたこともあった。

会津、薩摩、長州の三藩は幕末日本の雄藩であった。

たまたま会津は敗れたが、

長州にとって会津は、ハードルの高いライバルだった。

勝敗は時の運である。人生、敗れるときもある。しかし会津藩の

戦いも見事だった。これはもう国民が認めている。

双方、死力をつくして戦ったのである。


会津高校の合唱部の諸君、胸を張って唄って来てほしい。

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戊辰戦争を精力的に書いている加藤貞仁さんからメールをいただいた。

今度、ぜひ、戊辰戦争研究会で、

会員の皆さんと一緒に、しゃべり、かつ飲みましょう。

また郡山自由大学、一度、講義をお願いします。

事務局から無明舎の方に連絡してもらいます。

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星先生 ご無沙汰しております。相変わらず旺盛な執筆量には敬服します。

さて、私の方も、新刊『幕末とうほく余話』(無明舎出版)が出ました。

あの時代に、自分の生き方をしようとした人々に

思いを馳せたエッセイ集です。鹿児島から始まって、

箱館までの歴史紀行でもあります。

以前に、無明舎出版のHPに連載中、

「ある暗殺者の行方」と言う話を、

このウェブで取り上げてくださり、とても励みになりました。

ほかの皆さんにもお読みいただければと思います。

 今、東北地方の主要書店にはあるはずです。

  加藤貞仁
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2006年11月3日(金) 今日は休日、山本五十六を書く
下界は晴れているのだが、山はガスがかかっていて見えないようだ。

私の仕事場からは、安達太良山が普段、よく見えるのだが、

今日はまったく見えない。

昼頃になれば、見えるのかもしれない。

今日は山本五十六の原稿を書く。

書いているのではなく、これからである。

現在、午前10時半、新聞を見て、書き出すのは11時かな。

山本五十六がいつからハワイ攻撃を考えたのか。

伊藤正徳という海軍記者がいた。

「連合艦隊の最後」「軍閥興亡史」など多くの作品がある。

伊藤は昭和16年の5月だと書いている。

真珠湾攻撃は12月である。

わずか半年しかない。この間に艦隊を編制し、搭乗員を鍛え、

浅海用の魚雷を開発し、あの真珠湾攻撃を成功させたのだ。

そのヒラメキ、もう訓練、凄いの一語に尽きる。

いまなぜ山本五十六か。問題はそこである。

日本は経済封鎖をされ、追い詰められていた。

戦っても負けると山本は判断していた。

だから最後まで日米戦争に反対した。

しかし日本は戦争に舵を切った。

ならば軍人として、やるしかない。

ハワイを奇襲攻撃し、世界の度肝を抜いた。

本当にハワイ攻撃でよかったのか。

あのとき日本は沸いた。

これはアジアの独立を目ざす聖戦なのだ。国民はそう考えた。

だが結果はアメリカが燃え、大反撃を加えてきた。

日本はコテンパンにやられ、負けた。

ハワイ攻撃が本当によかったのか、どうか、これから書くことにする。

難問の部分である。
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2006年11月2日(木) 箱館戦争の反響
箱館戦争、の表紙を掲載したら、早速、反応があった。

「なかなかいいですね」

好意的な反応が多い。

どのような表紙にするか。これは実に大事である。

人はみた目が9割というではないか、

本が書店に並んだ際、まず見るのは表紙である。

「いいなあ」

「よくないなあ」

「印象は薄いなあ」

「買おうかな」

さまざまに分かれる。とにかく、いいにこしたことはない。

今回の表紙、まあ合格点かなと思っている。

次は中身である。こちらが本当は1番である。

私は2つの問題提起をした。

1つは箱館戦争、そのものへの疑問である。

榎本は北海道の開拓と北門の警備を、薩長新政府と朝廷に願い出た。

戦争をしようというのではない。開拓したいというのだ。

「それもいいじゃないか」

西郷や大久保、木戸らは、なぜ、もう少し、

おおらかに対応できなかったのか。

日本人は狭量だ。

日本人というよりは、明治の元勲と称された薩長の最高首脳部

西郷、大久保、木戸らの

懐の狭さが気になった。

要するに、自分たちの利益第一主義というか、

他も認める度量がない。

臆病と裏腹の関係にある。

榎本が反乱を起こしたら自分たちの政権が危ない。

それしか頭にない。

ずばり言えば臆病だね。寝首をかかれては大変と、

相手を殺しにかかる。

結論からいえば、これは無駄な戦争ではなかったか。

それが第1点である。

次は松前藩の対応である。榎本艦隊の襲来に恐れおののき、

城下に火を放って逃げた。

再上陸したときは、榎本軍に協力したものを徹底的に弾圧した。

その結果、松前はなにを得たのか。

深い傷跡と、小さな地方の町への転落だった。

かつて松前は蝦夷地の中心だった。それが函館に移り、

札幌に移った。

いまは漁業と観光の町である。

それはそれでいいのだが、榎本は和平交渉の使者を送ったが、

それを斬り捨てて、戦争に踏み切った。

迷惑したのは、庶民である。

松前藩首脳に判断の誤りがあったのではないか。

私はそう考え、これを指摘した。

反論があるかも知れないが、無駄な戦争はよくない。
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2006年11月1日(水) 北朝鮮の偽造紙幣「スーパーノート」
犯罪国家とはよく言ったものだ、

北朝鮮は北朝鮮の偽造紙幣「スーパーノート」の存在を認めたという。

拉致、偽造紙幣、核開発、国家全体で犯罪行為や人が嫌がることを

やるというのだからひどいものである。

日本は、どんなひどい状態になっても、

紙幣の偽造は行なわなかった。

それにしてもアメリカの圧力は凄い。

たちまち自白に追い込んだのは、軍事力の差だろうか。

今日の朝鮮日報によると、

米国政府が今月16日、北朝鮮による偽造紙幣のドル製造の証拠だと

説明した内容が、少しずつ具体化している。

北朝鮮の外交官が第3国の銀行に偽造紙幣を振り込んでいる写真などのほか、

北朝鮮がスーパーノート(超精密100ドル偽造紙幣)を

外国駐在の北朝鮮公館を通じて大量流通させているという事実も

説明したことがわかった。

 北朝鮮はまた6か月ごとに偽装紙幤の欠点を補完し

、すでによほど高性能の機械でなければ、

確認が不可能なほど精巧になったという内容も含まれたという。

われわれはこういう国家と隣り合わせの関係にある。

日本は隙だらけの国家である。

北のゲリラは日本海の町に侵入し、

電線を爆破したり、電車を転覆させたりすることは、

さほど難しいことではないに違いない。

先日、亡国のイージス

という映画を見た。

海上自衛隊のイージス艦が、どこかに人間にのっとられ、

東京が爆破されそうになる。

まさか、そんなことはありえないと思うが、

油断は大敵である。

やっぱりガードは固めなければならない。

これまでのような平和ボケでは危ない。

いじめ、殺人、犯罪も多発している。

日本という国家は、いま容易ならざる状況のもとにある。

教育改革、防衛力の整備、治安対策、

やるべきことが実に多い。
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