星亮一 今日の一言

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2003年10月31日(金) 黄元書記頑張れ
北朝鮮から亡命した黄元朝鮮労働党書記、アメリカで頑張っています。
金正日総書記の独裁体制との共存はありえない。
こう語る黄さんの発言に拍手を送ります。

なぜ日本の議会は
黄さんをお招きし、公聴会を開かないのか。
自民党がやらないのなら
民主党がなぜ強力に働きかけないのか。

これが疑問でした。
人権に対して日本の政治は
無関心です。

社民党はそのさいたるものです。
拉致家族に対する冷たい対応、
土井さんが、どう叫ぼうが、
空虚な響きがして仕方がありません。

どなたか、
黄さんを日本に呼んでください。
そのときは
是非、
参加します。
△top
2003年10月30日(木) どこかおかしい
新撰組ブームです。
よくもまあと思うぐらい、新撰組の本が氾濫しています。
99パーセントは、新撰組を礼賛する本です。
でも新撰組の実態はどういうものなのか
一度、考えた方がいいように思うのです。
私もある時期、土方や沖田総司を誉めそやかして
文章を書いたことがあります。
でも昨今は少し、違います。

新撰組は会津藩の傭兵部隊でした。
京都守護職会津藩の管理監督下にありました。
鳥羽伏見の前からは
旗本ですから幕府の管理下になりましたが、
新撰組は会津藩にとってなんだったのか、
疑問の点が数多くでてきたのです。

新撰組が会津藩に役だったとすれば
ただ一回、
池田屋事件でした。

これは政府転覆の陰謀であり、未然に防いだ
新撰組の功績は大でした。

しかし相次ぐ内ゲバ、商人への脅し、金品の巻き上げ、
京都市民の評価は最悪でした。
会津藩の足をひおっぱったことも否めません。

新撰組が来て、かえって治安が悪くなったという人もいました。
その功罪を考えないと、
ただの暴力礼賛になりかねません。

滅びの美学からだけでは済まされない
いくつかの問題点があるのです。
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2003年10月29日(水) 旗巻峠の密書
この本を書いたのは、2001年です。
「ニ千部ありますよ」
つい最近、出版社に在庫の問い合わせをして
営業の方がおっしゃたのです。
かなりの部数です。
「エッ」
仰天しました

そういえばサイン会でも
あまり並べて来ませんでした。
ストーりィが自分のルーツと関係があり、
逆に遠慮した面がありました。

こうなったら積極的に販路の拡大が必要です。
宣伝も強化して、
売り込むこむ事に致しました。

いま本はなかなか売れない時代です。
しかし読者に支援がなければ、
次ぎの作品は生れません。
ご協力をお願いしたいと思います。

ただ書店にはもう並んでおりませんので、
廣済堂出版への注文になります。
お手数をかけて恐縮です。
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2003年10月28日(火) 京都町奉行、その他もろもろ
京都町奉行、
幕末においては無力だったようですね。知人から 
「御所の門の警備にもあたっていたようですが。
でも最後の東町奉行は実務につけないほどでした」
とのメールをいただきました。
なにせ派手に動くと、
目明し文吉のように殺されてしまうわけですから、
じっとしていたと思いますね。

さて、今朝の朝日新聞、平凡社の広告が出ていました。
私の
『山川健次郎伝』

『白虎隊と会津武士道』
も出ていました。
講演会をできるだけ多く開いて、本のPRもしたいですね。

いまの時代はじっとしていてはだめです。
著者も積極的に社会に出て
読者と対話が必要だと考えています。

11月27日、
山口県萩での意見交換会
楽しみです。この日は午後4時半から萩市の萩本陣で
「会津藩から見た長州藩」
と題して
スピーチします。
関心のある方はお出かけください。



 
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2003年10月27日(月) 新撰組
学研の歴史群像シリーズ「新選組」
に「京都守護職と新選組」を書きました。
ところが
意外なことが分からず手間取りました。

たとえば
京都所司代と京都町奉行の関係、
幕末は京都所司代も兵力とみなされ、
桑名藩の場合は400の兵を上らせました。

会津は最高の時で1800人でした。

問題は京都町奉行です。
どの程度のスタッフで
どこまで、
どのような仕事をこなしていたか
これはもう少し調べなければなりませんが、
二人の輪番制で、
十手を持つ与力は40人、
同心は100人、抱えていました。
まあ小さな警察署ですね。
その下に何人かの目明しがいました。
江戸では岡っ引です。

その日々の仕事振りはこれから調べます。
ご存知の方は是非、メールをお願いします。
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2003年10月26日(日) 北東文芸協会
私の所属する北東文芸協会、
今年の福島県文学賞に二人が入選しました。
橋本捨五郎さんが小説、ノンフィションの部で准賞、
詩の部門で岩田武昭さんが奨励賞
を受けたのです。
日ごろの研鑚が実ったわけです。

小説で正賞を取った方も会員におり、
恐らく福島県内では
実力ナンバ-ワンの文芸団体だと思います。

11月1日、郡山市内で祝賀会を開きます。
これを機会に入会される方の
ご来場をお待ちしております。


遠方の方でも歓迎いたします。
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2003年10月25日(土) 今日は仙台
母校、岩手県立一関第一高校の仙台同窓会に出席します。
席上、
「幕末仙台藩の誤算」
と題して講演します。
仙台のどこが誤算だったのか、
仙台は薩摩、尾張、和歌山、越前などと並ぶ雄藩でした。
しかし、幕末の日本の政治には登場しませんでした。
われ関せず、悠々と生きてきたのです。

突然、幕府が倒れ、
仙台も賊軍にされてしまいました。
なぜか、仙台でぬくぬくと暮らしている間に
薩摩、長州、土佐など西南諸藩に
先を越されてしまったのです。

情報と分析が大事です。
そんな事を話します。

午後10時、郡山に帰って来ました。
100人近い盛況でした。
旧制一関中学校の方も見え、
迫力ある同窓会でした。

幾つもの収穫がありました。
一つは岩手葛西研究会の立ち上げです。
同窓生には伊達家に破れた戦国大名葛西家の関係者が多く、
その研究会を作ることになったのです。

もう一つは
郡山の八重洲ブックセンターが、私の本を
出張販売してくれたのですが、
皆様の友情で、持参した75冊、完売でした。
本当にありがとうございます。
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2003年10月24日(金) 中曽根さん、みっともないよ
73歳定年制、中曽根さんは拒否、実にみっともないですね、
どうして国の金を使わずに、ご自分で政治活動をされないのですか。

世界平和研究所でも、
日本未来研究所でも何でも設立できるではないでしょうか。

なぜ国会議員でなければならないのですか。
情けないですね、

本当の意味での力がないのですね、
総理経験者は、当然、引退すべきです。
橋本さんもそう、羽田さんもそう、

一国民として無償で社会に奉仕すべきです。

皆さんには、その見本を作ってほしいですね、

国会議員の特権にしがみつく
精神が貧しいですね、

日本人は悲しいですね。



共同ニュース


公認せずの方針堅持 自民、中曽根氏説得に全力

 小泉純一郎首相(自民党総裁)と党執行部は23日、衆院比例代表候補への73歳定年制適用を拒否した中曽根康弘元首相(85)に対し、自発的に引退するよう引き続き説得に全力を挙げる方針だ。
 自民党は、衆院選公示前日の27日に全国11ブロックの比例代表名簿を発表する予定だが、執行部は中曽根氏を追加公認しないとの方針を堅持。ただ、中曽根氏が党に反旗を翻す形で小選挙区で出馬する事態になれば、首相の求心力が低下、高い内閣支持率を背景に選挙戦に臨もうとした戦略に大きな狂いが生じるだけに「円満な決着」(幹部)を図りたい考えだ。
 一方、引退を表明した宮沢喜一元首相(84)は23日午後、都内の堀内派事務所で記者会見し、首相の要請に応じた理由について「自民党は若返りが必要と考え、私が身を引いてお役に立ちたい」と説明した。(共同通信)
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2003年10月23日(木) 山川健次郎伝
九州福岡の柏木隆之助さんから『山川健次郎伝』50冊の注文がありました。
柏木さんは九州で山川健次郎の銅像建設運動をなっさっている方です。
山川健次郎は
明治専門学校、現在の九州工大の初代の総裁でした。
その関係で、九州には山川先生を尊敬する方が多いのです。

柏木さんは本を持参して関係者を回り、銅像建設の協力を依頼されるそうです。

地元会津若松では
会津高校の生徒会が30万円を集め
銅像建設期成同盟会に
寄付しました。

私も今回の本、『山川健次郎伝』の普及と
銅像建設運動のキャンペーンのために
各地を歩きます。

長州の萩にも行きます。

みなさのご支援をお願い致します。
△top
2003年10月22日(水) 宮沢賢治
今日はNHK文化センターの仕事で
花巻の宮沢賢治記念館に行って来ました。
郡山-花巻間はちょうど東京に行く距離と同じです。
少し疲れました。
ここをたずねたのは2回目です。
久しぶりに出かけたら宮沢賢治がずい分、
難しい人に変わっているような印象を受けました。

宮沢賢治を神格化するあまり、
世界から宇宙まで解釈が広がり、
もう手が届かない人になっていました。

雨にも負けず、風にもまけず

の人が哲学者になっていました。

ちょっと拡大解釈しすぎではないでしょうか。
そんな感想を持ちました。
△top
2003年10月21日(火) 記者懇談会
今日、郡山市に記者クラブで、萩との交流に関して懇談しました。
私が所属する北東文芸協会が主催し、11月27日、萩市で「会津と萩の歴史を語る会」
開くもので、その内容に関して質問がありました。
「なぜいま萩で」
「日本で会津若松と萩だけが、ギクシャクした関係にある、和解に道はないかと」
「なるほどね」
「具体的に何を」
「なぜ対立したのか、討論を」
「どんな形で」
「私が会津藩から見た長州藩と題してスピーチして、討議に入ります」
「だれでも参加できますか」
「もちろんです。ふるって応募ください。申し込みはわたくしにどうぞ」

というわけで来月、萩に出かけます。
△top
2003年10月20日(月) 丸ちゃんと松井、凄い
ゴルフの丸チャンは凄い。
アメリカで3勝は大変なものです。
日本人も国際的になりましたね、

ヤンキースの松井も大活躍,
ワールドシリーズ第2戦で、なんと3ランを放った。
丸ちゃんと松井、
もうスーパースターですね。
テレビが楽しくて仕方がありません。

プロ野球日本シリーズは、これからでしょう。
明日、阪神が勝てば、もう互角です。
まだまだ分かりませんね。

それにしても星野監督の辞任、
これはびっくりでした。
真相はなんでしょうか。

体調は表面的理由で、
阪神電鉄に問題ありの報道しきりです。

せめて日本シリーズまで、発表を押えてほしかったですね。
でもこうなった以上、
星野さん、
最後、びしっと決めてください。
△top
2003年10月19日(日) 野口英世と樋口一葉
二人は来年7月、千円札に登場します。
それを記念して、英世ゆかりの猪苗代町、会津若松市と
一葉ゆかりの東京浅草が
共同で観光開発をすることになりました。

浅草と会津は東武鉄道、野岩鉄道、会津鉄道で
結ばれています。
この企画、東京新聞と福島民報が共同で提案したものです。
新聞紙面で二人のつながりを
キャンペーンしようというわけです。

浅草は江戸開府400年でにぎわっており
会津は英世で盛り上がっています。

今度、ゆっくり
3本の電車に乗って見ましょう。
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2003年10月18日(土) 藤井総裁おやめなさい
道路公団の藤井総裁の連日のニュース、
不愉快な話ですね
死人が出るとか
脅されたとか
国会議員に不正があるとか

どこか異常としかいいようがありません。
今度は名誉毀損で提訴するそうですが
道路公団に働く人はどうなのですか

自分たちの意見も出して欲しいですね
新聞も大きく取り上げすぎだと思います。

藤井さん、潔く辞任して
あとの人に任せるべきです。
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2003年10月16日(木) 日本はおかしい
中国は有人宇宙船のうち上げに成功しました。
日本の宇宙開発はどうなったいたのでしょうか。
何か失敗したような記憶がある程度で
印象は薄いのです。
拉致も解決できず
中国に宇宙開発を越され、
絶望的ですね、

やはり政治がおかしいですね
有権者も問題です。

田中真紀子、鈴木宗男、加藤紘一、
そういった人々が当選するようでは
前途は暗いですね。

道路公団の総裁
この人もおかしいですね
はちゃめちゃです。

どの政治家とどう談合したのか
しゃべると誰に殺されるのか
いい加減にして欲しいものです。

この際、
国民が怒りを爆発させるしかありません。
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2003年10月15日(水) 拉致問題を解決せよ
拉致家族が帰国してもう一年がたちました。
この問題に関する小泉さんの発言は納得できません。

努力する。
粘り強く交渉する

そんな発言は聞き飽きました。

経済制裁をする
選挙後には
拉致問題担当大臣を任命する
万景峰号は入港させない

もっと具体的な行動を起こし
もう一度
北に行くべきでしょう。

民主党の菅さん、
小沢さん
あなた方も
もっとこうすると
いうべきです。

このまま放置しておけば
日本は重大な危機を招くでしょぅ。

国家不信
内閣不信
ついには国家崩壊につながります。

しっかりしてください。

参考
共同通信ニュース、15日
曽我さんが政府の対応批判 帰国から1年で会見
 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん(44)が、帰国から丸1年を迎えた15日、地元の新潟県真野町(佐渡)で記者会見し、政府の対応について「何もないときには何の連絡もなく、誰を信じていいのか分からない。見捨てられた気持ちになったときもある」と批判した。(共同通信)

まったくその通りだと思います。
△top
2003年10月14日(火) 新選組は一大ブームか
NHK仙台の文化センターから
新選組と東北
をテーマに
講座開設の打診がありました。
郡山でもやることになっており、
大河ドラマとしては
最近にない盛り上がりです。

何がそんなに人気があるのでしょうか。
土方歳三はまず格好がいい、
スターのプロマイドのような写真がまず凄い、
若い女性の人気の的なのです。

沖田総司も人気があります。
どこかミーハ-の感じはあるのですが
何かに賭けたロマンということでしょうか。

この連休、
京都に出かけた人はあまりの人出に
びっくりして帰ってきました。

私も12月早々に、京都で出かける予定です。

新選組と会津藩の旅です。

それから秋の高校野球東北大会
一関一高は
東北高校に敗れました。
ベスト4ですから
大善戦でした。

夏、頑張りましょう。
△top
2003年10月13日(月) 福島民報,ノモンハン
ワイド面に連載した「ノモンハンを旅して」は今日で終わりました。
来年には本にして、ノモンハン事件の全貌をまとめますが、
これはゆゆしき戦争でした。
なぜ敗れたのか
原因ははっきりしていました。
関東軍参謀の
見通しなさと、旧態依然たる日本軍の装備でした。
上層部の責任もあいまいでした。
「ガンと火縄銃の違い」
と見出しをつけてくれましたが、
戦闘の実態は、そのようなものでした。

今回、ノモンハンに出かけた人々で
郡山モンハン会を結成しましたが、その活動の一貫として、
12月6日午後2時から郡山市の磐梯熱海温泉「浅香荘」で
報告会を開くことになりました。
参加は自由です。
是非、いらしてください。
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2003年10月12日(日) 一関一高、準々決勝突破
来春の選抜高校野球の出場をかけた秋の高校野球東北大会、
母校の岩手第2代表、一関一高が
宮城の古川工業を破り、2回戦に進み、
今日、行われた準々決勝で、
秋田本荘高校を4対0で下しました。
快挙、
大快挙です。

過去に夏の甲子園に3回、選抜に1回、出ていますが、
この40年、甲子園には縁がありませんでした。
決勝まで進まなければ、出場は困難なようです。

次ぎは決勝をかけて東北高校との対決でしょう。
そこまで行けば
やはり勝ちたいですね。
負けても岩手勢は敗退したので
案外、甲子園にいけるかも。

「甲子園への遠い道」
という作品を書いたのは
同窓の作家
及川和男さんです。
毎年、毎年、敗れ続ける母校の野球部を追い続けた
力作です。
今回は是非、勝たせたいですね。

甲子園球場
見たことがないので
もちろん
応援に出かけます。
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2003年10月11日(土) 福島民報、ノモンハン掲載
今日から福島民報ワイド面に
ノモンハン旅紀行の連載をはじめました。
上、中、下の3回です。
今日はノモンハンまでの旅の模様を書きました。
ノモンハンはハルビンから夜行寝台列車で、一晩走り、満州里に着き、
そこから二百数十キロ、
大草原を走ります。

行けども行けども大草原です。
どうしてここで、
日本軍とソ連・外モンゴル軍との戦争があったのでしょうか。

私はそのわけを尋ねるベく
ノモンハンに向かったのです。
是非、福島民報をごらんください。
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2003年10月10日(金) 平太の戊辰戦争
私の作品「平太の戊辰戦争」を読んで、文章を書きたくなり、
各地を歩いて一冊まとめたという方から本が送られてきました。
愛知県の杉本さんです。
「無念の思い」(健友館、03−3310−6611)
という本です。
歴史は常に勝者によって作られるが、その陰で敗れた人々の心中は、いかばかりであったろうかと帯にありました。

杉本さんは遠藤平太を訪ねて会津を歩き、
さらには
会津藩流罪の地、下北半島にまで足を伸ばし
自分の目で
敗者の無念の思いを確かめたのでした。

いま考えているのですが、
歴史と文学の講座を開設しようと
具体案を練っています。
場所は私が住む郡山ですが、インターネットで全国を結び、
歴史の旅に出たり、文集を出したり
できないかなと思っています。

さて今日から連休の方も多いようです。
私も撮影に出かける予定です。
△top
2003年10月9日(木) 新選組とはなんだろう
明らかに二つの見方があるようです。
一つはロマンとして新選組をとらえる手法です。
小説は大体そうでしょう。
近藤勇、土方歳三、沖田総司、皆、悲劇のヒーローです。
私は若干、異なります。
幕末の政争に巻き込まれた
傭兵の悲劇です。
新選組は、会津藩の傭兵です。
尊皇攘夷が荒れ狂う京都の街は、幕府、会津か、薩摩、長州の討幕派か、
どちらが勝つかの争いでした。
新選組は会津藩の指令にもとずき、薩長の動向を探索し、
必要があれば血祭りに上げる
プロの警察集団でした。

会津藩は新選組にダーティな仕事を押し付けたといえなくもありません。
ある時期、薩長の過激派は
御所に乱入し、天皇を拉致せんとしていました。
京都の街に火を放って
混乱を起こし、
その隙に拉致せんとしたのです。
新選組が出動し、
それを未然に防ぎました。

ロマンなど、どこにもなかったと思います。
日々、すざまじい緊張でした。

会津藩もまた幕府の体制維持のために京都に
出動を命じられた、ある意味で犠牲者でした。
勝てば官軍、負ければ賊軍
新選組も会津藩も、負けたが故に、戦前、賊軍でした。

新選組と会津藩のどこにロマンがあったのか、
幕府が描く新制日本の姿がありました。
幕府官僚が描いた
徳川慶喜を頂点とする絶対主義国家です。
それはどのようなものだったのか。

考えることがいっぱいあるのが、
新選組と会津藩です。
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2003年10月8日(水) 東北と文学
昨日、新聞社から電話がありました。
私が会長を務める北東文芸協会に関してでした。
「どんな活動をしていますか」
「そうですね。ただのなかよしクラブではなく、
文章を書ける人間を育てています」
「作家を目指すということですか」
「そうです。東北から若手の作家を育てたい。そう念じています」
「どうすれば育つと思いますか」
「自分の部屋にこもって考え込む時代ではありません、まず行動です。東北には豊かな自然、
特異な歴史、たとえばエミシとか、飢饉とか、奇怪な民話とか、素材が幾らでもあります。
それを深く追求することです」
「東北の素材にこだわるわけですか」
「そうです。東北に住んで、九州を考えても無理があるでしょう。
地元をしっかり勉強することです」
「なるほど、今度取材に伺います」
「ハイ、どうぞ」

そこで電話は終わりました。
いま個人的にですが
歴史と文学の教室を開こうと思っています。
何かご意見をお聞かせ下さい。
△top
2003年10月7日(火) 秋ばれ
今日は秋晴れのいい天気です。
私の仕事場からは
安達太良山がよく見えます。

雲がかかって見えない日も多いのですが、
今日は雲の間から
美しい姿が望まれました。

先日、東京から転勤してきた方と食事をしました。
「只見川、大自然、素晴らしいですよ」
「ご存知なのですか」
「よく車で山菜採りに来ました」
「そうですか」
「ワラビやぜんまいの天婦羅、最高ですよ」
「ええっ」

私はびっくりしました。
ワラビもぜんまいも、採ったことがないのです。

その人は目を細めて
只見川周辺の大自然を礼賛したのでした。
いまからでは
遅い感じもしますが、
私もその方の案内で、只見川大自然に挑戦したいなと思いました。

あべこべな話ですが、
出かけたときには、
戦果をお知らせします。
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2003年10月6日(月) 新選組の原稿執筆開始
新選組の命名者は会津藩であった、といわれています。
会津藩にか以前、新撰組という部隊がありました。
選ではなく撰です。
天明八年、長沼流の軍役に改めたときに、制定されたもので、主君を守る本陣に
新撰組三十人がありました。

隊員は
諸芸秀俊の子弟
とありました。
幕末、この隊はなく
京都では
別撰組
編成されていました。
刀槍にすぐれた若武者を選抜し、
主君容保の警護に当らせました。

新選組は
武家伝奏、
朝廷から命名されたとも言われていますが、
これは箔をつけるための形式で、
実際は会津藩の命名でした。

多分、当初は新撰組だったかもしれませんが、
会津色を薄めるために
新選組になったかも知れません。

今でこそ新選組は
若者のヒーローですが、
当時は、ある部分、
殺し屋の集団でもありました。

会津藩のなかには、
会津藩預かりを薄めた方ガ得策という見方もあり、
新選組になったかも知れません。

しかし実態は会津藩の管理監督下にあり
会津藩の傭兵でした。

ロマンと現実にはひらきがあり、
戸惑う方もいるかもしれませんが、
それが実際の歴史でした。
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2003年10月5日(日) 長州萩への旅
私は11月27日から3日間、山口県の萩に旅する予定です。
青森県
の下北地方の人々と一緒で出かける構想です。
そう、
会津藩の再生を目指した斗南藩の末裔の方々です。
むつ、三沢、十和田を中心に会津会があり、皆さん、地道な活動を続けています。
会津藩は戊辰戦争で敗れたあと、
下北半島に
流罪という形で移住を命ぜられました。
そこでの暮らしは筆舌に尽くしがたい苦労の連続でした。

皆さん、
萩は初めてだとおっしゃるので、
ご案内することになったのです。

何人、いかれるかまだ分かりませんが、
画期的な旅になると思います。
萩では歴史関係者と懇談する予定です。

一般の方の参加も自由です。
是非、このメールに申し込んでください。
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2003年10月4日(土) 高校生はいいなあ
会津の高校生、星君からメールが入りました。
昨年の会津高校での講演会でもそこそこ反響があり、
どうも高校生には受けがいいと、自画自賛しています。

高校の時代は純粋です、
感動を覚える時代です。

いろいろの場で、積極的にトライすることですね。
問題を起こす高校生も、なかにはいるかも知れませんが、
私が会った高校生は、みんな実にいい顔をしています。

高校生に話すことが病みつきになりそうです。

どこにでも出かけますよ。
呼んでください。

さて今日はこれからNHK文化教室で、戊辰戦争の話です。
ここは年配の方が多いのですが、
皆さん、熱心ですよ。

今月の中旬には、教室で
宮沢賢治の跡を尋ねて花巻に行きます。

11月下旬には、別の企画で
長州藩の萩に行きます、
萩の方々と討論する予定です。

我こそはと思う方はメールをください。
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2003年10月3日(金) 高校生と文学
今日は福島県の高校文芸部の生徒を対象に
「青春と文学」
について話しました。
私は高校時代、
文学とは無縁でした。
美術部に入っていて、下手な絵を描いたりしていました。
本もまったく読みませんでした。
大学に進んで
少し文庫本を読みはじめました。
影響を受けた3冊は
フランツ・カフカの「変身」
アーネスト・へミングウエーの「老人と海」
サマーセット・モームの「雨」でした。

これが文庫本との出会いでした。
日本文学はほとんど読みませんでした。

その後、社会人になってからは
歴史書は読みましたが
文学は無縁でした。

それがいつころからか、もの書きになりました。

小説も書いて見ましたが、
ものにならず、
ノンフィクションが私の分野になってしまいました。

目下は新選組と
ノモンハンです。
そんなことをしゃべりました。
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2003年10月2日(木) 新選組と会津藩
毎週金曜日、ラジオ福島で午後2時から
私が書いた新選組を放送しています。

「面白いですね」

古書店の店長から言われました。
何がどう面白いのか、
会津藩が新選組に深くかかわっていることに
あるようです。
もともと新選組は幕府が編成したものでした。
官製の機動隊なのです。
近藤、土方が作ったわけではなく
背後で操っていたのは
幕府でした。
ですから
公的な組織の一つといえるのです。
会津藩はその窓口でした。

その面からもっと検証が必要です。
『新選組と会津藩』

このタイトルで一冊書きたいと思っています。
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2003年10月1日(水) 衣替え
今朝、郡山駅前で、福島中央テレビの小林記者に会いました。
会津出身、人気抜群の女性リポーターです。
「なんですか」
「今日から衣替えです。その撮影です」
「ああ、そうか」
もう10月1日なんだと改めて思いました。
「そうそう、星さんが書いた『平太の戊辰戦争』、うちの母が20冊も買いこんで、あちこちに配ってますよ」
「ええ、どうして」
「平太の家とは母は親戚なのです」
「そうなんですか」
私はびっくりし小林さんを見つめました。
彼女は会津の高田町が選んだ元ミスあやめでした。
あるいは別な名前だったかも知れません。
とにかく、福島中央テレビの顔でした。
もちろん、今でもそうです。

その人が私は最も感銘を受けた会津の少年兵、遠藤平太の一族とは
本当に驚きでした。

平太は当時15歳、父と一緒に越後の戦場に出兵しました。
平太は自分が体験した戦争を記録し、それをもとに私が角川選書から
『平太の戊辰戦争』
を書いたのでした。
父を悲惨な形で失い、それは読む人に感涙を与えずにはおかない見事な記録でした。
平太が後年、本郷町の町長を務め戊辰戦争は誤りであったと批判しました。
小林さんのお母さんに20冊も買っていただき感謝感激です。

本を書いていると
そういう感動をときどき
味わうことがあります。

本を書いてよかったなと思う瞬間です。
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