星亮一 今日の一言

2014年11月
2014年10月
2014年9月
2014年8月
2014年7月
2014年6月
2014年5月
2014年4月
2014年3月
2014年2月
2014年1月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年9月
2013年8月
2013年7月
2013年6月
2013年5月
2013年4月
2013年3月
2013年2月
2013年1月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年9月
2012年8月
2012年7月
2012年6月
2012年5月
2012年4月
2012年3月
2012年2月
2012年1月
2011年12月
2011年11月
2011年10月
2011年9月
2011年8月
2011年7月
2011年6月
2011年5月
2011年4月
2011年3月
2011年2月
2011年1月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年9月
2010年8月
2010年7月
2010年6月
2010年5月
2010年4月
2010年3月
2010年2月
2010年1月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年9月
2009年8月
2009年7月
2009年6月
2009年5月
2009年4月
2009年3月
2009年2月
2009年1月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年9月
2008年8月
2008年7月
2008年6月
2008年5月
2008年4月
2008年3月
2008年2月
2008年1月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年9月
2007年8月
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2007年2月
2007年1月
2006年12月
2006年11月
2006年10月
2006年9月
2006年8月
2006年7月
2006年6月
2006年5月
2006年4月
2006年3月
2006年2月
2006年1月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年9月
2005年8月
2005年7月
2005年6月
2005年5月
2005年4月
2005年3月
2005年2月
2005年1月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
2004年9月
2004年8月
2004年7月
2004年6月
2004年5月
2004年4月
2004年3月
2004年2月
2004年1月
2003年12月
2003年11月
2003年10月
2003年9月
2003年8月
2003年7月
2003年6月
2003年5月
2003年4月
2003年3月
2003年2月
2003年1月
2002年12月
2002年11月
2002年10月
2002年9月
2009年1月31日(土) 会津籠城戦の三十日」反響
「会津籠城戦の三十日」を読み終えて(続)
■倉沢右兵衛(95) 投稿日:2009年1月30日<金>13時15分
 小生の郷里に近い釜子陣屋兵士参戦の経緯や籠城中に水戸藩
天狗派の武士が潜んでいて殺害された記述など興味深いものが
あり、今後自分なりに調べてみたいと思います。

照姫様
 鶴ヶ城の解説、的確で判り易い説明に城内の各場所を思い浮か
べながら読ませて頂きました。椿坂の石段は初めて知りました。
今度行ったときよく見てきます!


■ 「会津籠城戦の三十日」を読み終えて
■倉沢右兵衛(94) 投稿日:2009年1月30日<金>13時02分
 過日掲示板で紹介された総裁の近著「会津籠城戦の三十日」を
一昨日夕東京上野で購入、帰りの車内と昨日一日がかりで読了。
某TV局の放送内容は論外として、今まで断片的にしか知らな
かった籠城戦下の城内、城下郭内外の悲惨な状況と、背景の分析
に感動しました。
 手元の幕末城下郭内絵図、近郊図をなぞりながら本書各章毎に
悲憤やるかたなく、また小生と同じ年頃の隠居組の武士たちが廊
下橋から決死の出撃をする心境を想うとき目頭が熱くなる思いで
した。   
 西軍ながら元来友藩であった大垣藩の戦史に会津の真情を理解
する記述にいささか救われる思いと共に近年の昭和43年時点の
戊辰戦争展においてすら長州閥の親玉、故山形有朋の意向の影響
で、かの御宸翰の公開が妨げられたとのことに 驚きました。
△top
2009年1月30日(金) 今日は八戸です
夕方、NHK八戸文化教室で、斗南藩の最終講義です。
△top
2009年1月29日(木) 会津籠城戦の三十日
星亮一様

厳寒の候、益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。

本日、最新のご著作「会津籠城戦の三十日」を拝読させていただきました。

多くの資料を精査の上、詳細に考証された内容に感動を新たに致しました。

鶴ケ城の籠城戦に関してTBSが報道した「糞尿処理限界説」は、

とにかく言語道断であると思います。

会津武士道の誇りを守るため、これに対して敢然と抗議をし、

謝罪放送をさせた菅家一郎 会津若松市長ほか関係者の皆様に、

心から拍手を送るものであります。

さて、些細なことで失礼かとは存じますが、

このご著書の73頁と224頁に載っている山本八重子の和歌についてですが、

山川健次郎監修の『會津戊辰戦史』 の.626頁には

  明日の夜はいつこの誰かなかむらん
  なれし大城(おしろ)にのこす月影

とありますので、「みそら」より「大城」のほうがいいのではないかと思います。


            1月29日          千葉市  丸山 義雄

-------------------------

ありがとうございます、山本八重子の和歌については、

勉強させていただきます。
△top
2009年1月28日(水) 会津籠城戦の30日、末裔の方から
はじめまして、東京の小松と申します。

私は白虎隊士中1番隊小松佐津美の子孫です。

先日、「会津籠城戦の三十日」を読まさせて頂きました。

私の先祖もその中の一人だったので、とても感慨深かったです。

昨年、問題となったTBSの例の番組もたまたまリアルタイムで観ておりま

した。

食事中だったのですが、余りの回答の酷さに食事を取りやめ

直後にTBSに電話入れ抗議をしました。(こんな事をしたのは初めてでし

た)

どうやら、まだ抗議の電話など一本も入っていなかったらしく

電話に出た番組担当者は、抗議の内容も良く分かっていないようでした。

私は「正解は間違っているのです。

もちろん一因ではあったのかも知れないが

それは主因ではない。これは籠城を通した方々の名誉に関わる問題です」と。

担当者は、今後気をつけて製作します・・・と言っておりました。

まだまだ、戊辰戦争は正しく理解されていないのが実情ですね。

今後の執筆も楽しみにしております。

どうぞ、お元気で!

-------- ここまで -------------------------------------

ありがとうございました。
△top
2009年1月27日(火) 鳥羽伏見の砲声
写真張り込み作業で、終日、終わりです。

本は手間がかかります。
△top
2009年1月26日(月) 朝青龍、おめでとうございます。
私は一貫して朝青龍を応援してきました。

マナーも大事ですが、まず勝つことです。

これで相撲が面白くなりました。万歳です。
△top
2009年1月25日(日) 今日は岩手県一関市
岩手県南史学会にお招きをいただき、講演します。

会場は一関市総合防災センター、午後1時です。

テーマは『偽りの明治維新』

私は高校の3年間、一関で過ごしました。母校の一関第一高校は、今年から

中高一貫校となり、かわいらしい1年生が入校してきます。

岩手県の公立高校としては初めての試みです。

同窓会も支援に乗り出しているようですが、

私も今日はしっかり、話しをして来たいと思っております。
△top
2009年1月24日(土) 優勝決定は千秋楽の直接対決に
ヘッドライン優勝決定は千秋楽の直接対決に.

大相撲初場所14日目 大相撲初場所14日目(24日、東京・両国国技館)
 
優勝決定は千秋楽の両横綱の直接対決に持ち越された。

朝青龍は魁皇を寄せ付けず14連勝。白鵬は千代大海のつきひざで1敗を守った。

 (時事通信)

素晴らしい
△top
2009年1月23日(金) 今日は終日、仕事場
薩摩のことを書いています。
△top
2009年1月21日(水) 朝青龍、
勝ちましたね、応援しています。
△top
2009年1月20日(火) 今日は福島で新年会
相撲、朝青龍、10勝

万歳です。
△top
2009年1月19日(月) 二本松少年隊のすべて (単行本) amazon調べ
二本松少年隊のすべて (単行本)
星 亮一 (編集)

--------------------------------------------------------------------------------
価格: ¥ 3,150 国内配送料無料 詳細
ポイント: 31pt (1%) 詳細はこちら

在庫あり。 在庫状況について
この商品は、Amazon.co.jp が販売、発送します。 ギフト包装を利用できます。

2点在庫あり。ご注文はお早めに。

2009/1/20 火曜日 にお届けします! 今から14 時間 と 47 分以内にレジに進み、「お急ぎ便」オプション(有料)を選択して注文を確定されたご注文が対象です。 詳しくはこちら
一部サイズが大きい商品の場合、上記の日付が適用されない場合があります。配送オプションを選択する画面、もしくは注文確定するときに必ず配送予定日をご確認ください。

△top
2009年1月18日(日) 北朝鮮、韓国と「全面的な対決態勢」…参謀部声明で警告
北朝鮮、韓国と「全面的な対決態勢」…参謀部声明で警告
1月17日21時9分配信 読売新聞


 【ソウル=前田泰広】朝鮮中央通信によると、

朝鮮人民軍総参謀部報道官は17日、韓国政府が北朝鮮との対決の道を

選んだとし、「我々は全面的な対決態勢に入るだろう」

と警告する声明を発表した。

 総参謀部が公式声明を出すのは異例。

対北朝鮮融和政策を見直す李明博(イミョンバク)政権を強く揺さぶる狙い

とみられる。

 声明では、韓国政府が先制攻撃の準備や黄海上で北朝鮮領海の侵犯を

続けていると決めつけ、

「強力な軍事的対応措置が伴うだろう」などと強調した。

 韓国の聯合ニュースによると、韓国軍当局はこの声明と関連し、

全軍に警戒態勢強化を指示した。朝鮮人民軍の動向を注視、分析しているという。
△top
2009年1月17日(土) 今日はNHKの講座
黒船来航について話しました。
ここからの日本の混迷がはじまりました。
△top
2009年1月16日(金) 松平さん、お疲れさんでした。
NHK「その時歴史が動いた」が終わる
1月16日8時2分配信 サンケイスポーツ

 NHKの歴史情報番組「その時歴史が動いた」

(水曜後10・0)が3月いっぱいで終了することが15日、分かった。

9年間続いた長寿番組。同局の番組編成全体の見直しの中で決定した。

司会を務めるフリーアナ、松平定知キャスター(64)の名調子も見納めになる。

4月8日からは、内容を一新した歴史情報番組

「歴史秘話ヒストリア」をスタートさせる。


私も一度、出させていただきました。

また白河でご一緒に討論しました。

ご一緒の機会があればと念じております。

△top
2009年1月15日(木) 今日も夕方から雪
寒いです。

事件が多いですね、いやな季節です。
△top
2009年1月14日(水) 戊辰戦争140年in白石 パネルディスカッション最終回
戊辰戦争140年in白石 パネルディスカッション2つづきです。

渡辺(秋田藩)
 地元でも戊辰戦争140年と言うことで、意見がいろいろでましたし、秋田の戊辰戦争のことでは、意見がもめています。通史として形作られえたものが怪しくなってきています。明治維新後、官軍側に立った郷土史に編纂されてゆきます。功名を政府に提出するためです。都合のよい歴史にしてゆきますが、当然、矛盾もでてきます。東北の仲間のなかでは、秋田は冷遇されます。その結果で、歴史を編纂しました。これが、今日の定説になっています。奥羽越列藩同盟の加盟には、横手の家老が独断で同盟に参加したことになっているが、昭和になって藩主の許しを得て同盟に加盟したことが分かってきました。

佐藤(盛岡藩)
 盛岡藩では、奥羽越列藩同盟に参加するかどうかは、藩論がまとまらず藩政運営の勢力も分裂します。楢山佐渡は、戊辰戦争は理不尽な戦争と言うことで、奥羽越列藩同盟から離脱した秋田藩を裏切と言うことで秋田に侵攻します。楢山佐渡などは、奥羽越列藩同盟側に勝算があったと思っていたようです。旧幕府海軍が動いて連携ができれば十分勝てると見込んでいます。しかし、戦争の準備不足は否めません。準備が整わないうちに戦争になりました。盛岡藩は、奥羽越列藩同盟では、最後に降伏した藩となります。しかし、このことが、東北初の首相の原敬に受け継がれた。反骨精神の生まれる元になったのです。

稲川(長岡藩)
 長岡藩が戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に参加したのは、小千谷談判のあとです。河井継之助は、西軍参謀に、「なぜ、会津を討つのか」と嘆願書を出しますが、西軍参謀は、受け入れませんでした。河井は、地方あっての日本、新しい国家観を持っていました。勝機を見つけるためにも薩長に刃向かったのです。間違ったことを指摘するのが大事と言う考えです。新政府軍は、大同小異できましたが、奥羽越列藩同盟は、捨てるべき物を捨てることができなかったのです。薩長は、野望を持ってきたが、長岡藩は農地を守ると言う立場でした。負けた方にも正義がある。負けても正義を貫くべきであると河井は考えていましたし、私もある意味賛同できます。戦争は、犠牲を伴います。犠牲者のことを悼んで活かしてゆくことが大事だと思っています。新潟は、北越戦争の負の遺産が残っています。それは、行政がバラバラです。あるときは、東北、あるときは、信越、あるときは、関東圏です。天気予報の区分けや電力会社など、いろいろなことで、区分けが異なっています。加来先生は、山本五十六のことを批判していましたが、山本五十六は、あくまで軍人であり、政治への関与をさけました。だから、政府の決定事項から戦争の勝機を見出そうとしたのです。

星(司会)
 戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に勝てるチャンスはあったと思います。榎本艦隊の東北行きを勝海舟が止めたのです。奥羽越列藩同盟は、徳川家のために戦ったのではなく、自分たちのために戦ったのです。

風間(白石市長)
 白石の人々は、北海道の登別や札幌白石の開拓をしています。戊辰戦争後、自分たちの身を挺して新たな土地を作ったのです。

星(司会)
 今日は、梅原仙台市長も会場に来られています。最後に一言お話を伺いましょう。梅原仙台市長、ご登壇願います。

梅原(仙台市長)
 梅原でございます。今日来られている各藩言うか、各市長とは仲良くさせていただいています。戊辰戦争では、仙台藩は、イニシアティブをとれることが出来ず、最後まで頑張ることができませんでした。私の感想を三つ述べさせていただきます。1つは、戊辰戦争では、東北人はよく戦ったと思います。もっと、誇りを持つべきです。そして、死者を悼み、鎮魂することが大切です。二つ目は、現代人の尺度で安易に歴史は見てはいけないと思います。三つ目は、東北人は、故郷を離れるとハンディを感じる。例えば、東京に出ると東北弁を直そうとします。しかし、東北の人は、戦前の三国同盟を反対しています。米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官などです。東北人は、もっと誇りを持つべきです。

終、編集、戊辰戦争研究会、山田方谷
△top
2009年1月13日(火) 戊辰戦争140年イン白石、1
パネルディスカッションの備忘録です。

2008年11月23日 主催 白石市・白石市教育委員会・(財)白石市文化体育振興財団
白石市生涯学習フェスティバル実行委員会
戊辰戦争140年in白石
演題「〜いま奥羽越列藩同盟の歴史的意義を再考する〜」
パネルディスカッション
パネリスト 秋田藩 渡辺英夫氏  秋田大学教育文化部教授
       盛岡藩 佐藤竜一氏  編集者・ライター
       仙台藩 水野沙織氏  仙台市博物館学芸員
       米沢藩 角屋由美子氏 米沢市上杉博物館主任学芸員
       長岡藩 稲川明雄氏  長岡市河井継之助記念館長
       会津藩 野口信一氏  会津若松市立図書館長
       白石市 風間康静氏  白石市長
コーディネータ 星亮一氏 作家
会場 ホファイトキューブ コンサートホール 15::10〜16:30

星(司会)
 今日は、郡山から来ましたが、仙台生まれの星です。私は、戊辰戦争について、講演や本を書いています。加来さんは関西出身、私たちは東北ですので、考えは決定的に違うように思います。戦争がなければ白虎隊の悲劇もなかった。しかし、薩長から戦争を仕掛けられたのです。東北では、戊辰戦争140年のシンポジュームですが、下関でもイベントがあり、そちらは、明治維新140年シンポジュームが行われました。同じ年でも、東と西ではまったく捉え方がちがいます。下関のシンポジュームでは、遅れていた東北を征伐し発展させたと言っています。しかし、会津戦争では、長州の主流派は、会津に来たときもう戦争は終わっていました。先ほどの加来さんの話しを含めながら、自己紹介を兼ねて発言をお願いします。

渡辺(秋田藩)
 秋田藩代表と言われると困るが、私は、栃木出身です。もともと水戸天狗党を調べたかった。海運のことを調べていました。そのときに、秋田県横手市を担当していました。秋田藩は、残念ながら奥羽越列藩同盟からは裏切と言われています。藩内の藩政改革、経済力など、広い視点で見るのが重要だと思います。

星(司会)
 10年前にも、今日のようなイベントをしたのですが、秋田藩の裏切が話題になったことを記憶しています。今日は、裏切には拘らずにパネルディスカッションを進めたいと思います。

佐藤(盛岡藩)
 南部藩も代表しています。2年前に南部藩の本を書いています。いまでも販売しています。南部藩のことを書いたのですが盛岡で仕事をしています。盛岡市では、戊辰戦争140年と言ってもピンときません。原敬が戊辰戦争50年祭を行っていますが、原敬が首相になったことで戊辰戦争の恨みは治まってしまった。岩手県は、南が盛岡藩で北が南部藩です。戊辰戦争の意識が違っています。これが、140年後の今も反映しています。なぜ、こういう生い立ちの県になったのかを考えたいと思います。

水野(仙台藩)
 仙台藩の水野です。実は、私は静岡出身です。しかし、東北に想いいれや憧れを持っています。修学旅行での行き先投票では、東北に一票をいれましたが、残念ながら、行き先は、長崎になってしまいました。なぜ、東北に憧れを持ったかと言いますと、大河ドラマ「炎立つ」で感動したからです。奥州平泉のことは、教科書では3行しか書いていなかったのですが、ドラマで良く知ったのです。その後、仙台城下で研究しました。仙台博物館では、近世〜近現代を専門にしています。歴史からは、学ぶべきものは学ぶと言う立場で、今日は参加したいと思います。禁門の変以後、長州藩は朝敵になりますが、許されています。長州藩が許されているのですから、会津藩も同様に許されるべきではないかと思います。しかし、世良修蔵が却下します。これは、理屈が通っていないと思います。奥羽越列藩同盟もどうしたらよかったかは、難しい問題ですので、考えて行きたいと思います。

角屋(米沢藩)
 私は、雲井龍雄の姉の子孫にあたります。今、米沢では、大河ドラマ「直江兼続」の影響で大変忙しくしています。」今日は、米沢から福島経由で来たのですが、福島駅で、現在の上杉家の当主にばったり出会いました。どこへ行くかを訊かれたので、白石でシンポジュームがあると答えました。そうすると「白石会議ですか」と言っておられました。米沢藩は、幕末、内部事情が複雑でした。雲井龍雄は、幕末の米沢藩の対応には不満であったようです。下級武士であったのですが、「討薩の激」を書いています。しかし、藩内では取り上げられませんでした。下級武士のミヤジマセイイチロウは戦争反対でしたが、藩の中枢に取りがあげてられていません。米沢藩では、下級武士の方が危機意識を持っていました。戊辰戦争では。奥羽越列藩同盟の一翼を担っていた米沢藩だったのですが、早々に降伏したため敗戦を加速させてしまいました。のちに、雲井龍雄は、処刑され、ミヤジマセイイチロウは、新選組に参加しています。

稲川(長岡藩)
 先ほど、加来先生からは、コテンパンにやられましたが、河井継之助は、戊辰戦争については、当初見守っていました。奥羽列藩同盟に最初は入っていませんでした。私が今日、なぜ来たかですが、私は、以前は、反河井派でした。それが、どうして、長岡市河井継之助記念館長になったかと言いますと、市長が、私に館長を依頼してきたのです。市長は、反河井派の人の方が、河井のことがよくわかるからふさわしいと考えていたようです。河井継之助記念館は、2年経ったが3万人の来館がありました。これをどう感じるかですが、今の世の中では、「義」を必要とされているのだと思います。河井継之助の母の貞さんや奥さんのすがさんは、河井継之助がいつ復権をするのかを待ち望んでいるのだと想います。長岡藩は、先ほど申しましたように最初は、奥羽列藩同盟に入っていませんでした。奥羽越列藩同盟を、ここ、白石で考えたいと思います。先ほど、加来先生が、河井継之助と小林虎三郎が、反対の立場と言うことであったのですが、侍の義を守ると言うのは同じ考えでした。農民を守る、町民を守るのは、同じ考えであったと思います。

野口(会津藩)
 私の実家は、野口英世の生家の近くです。しかし、親戚などではありません。子供の頃は、親の転勤が多かったので、逆に、会津、会津藩を冷静に見ることができるようになったと思います。奥羽越列藩同盟は、31藩からなりますが、会津藩、庄内藩は入っていません。もともと、会津藩、庄内藩を助ける同盟だったのですから。作家の司馬遼太郎氏は、生前に、こう言っています。「幕末期、会津藩がなければ、日本を信用できない。会津藩があったからこそ日本、日本人を信用できる。」

 風間(白石市長)
 140年前、ここから半里向こうの白石城で東北14藩の藩士が集まっている。言葉も、文化も違うのに集まった。理のみで動いていたら、ここに集まらなかったでしょう。会津救済と言う義で集まり、署名して帰った。これは、凄いことだと思います。

つづく

編集、戊辰戦争研究会、山田方谷

メモと記憶から、内容を起こしています。記憶違い、誤り等は、ご容赦ください。
△top
2009年1月12日(月) 「作家 星亮一が語る玉蟲左太夫」 1,
2009年01月10日(土) 人生銀行主催
演題 「作家 星亮一が語る玉蟲左太夫」
講師 星亮一氏 作家
会場 仙台市荒町昌伝庵 11:30〜12:30

 ただいま紹介に与りました星亮一です。私は、仙台生まれです。父は、マルモリ町で、母はワタリ町の出です。しかし、私は、中学3年の時に岩手に移り、一関を経て、仙台に戻って大学に入りました。先ほどの落語は、良く出来ていました。玉虫左太夫のことをよく調べておられていました。会津の山川健次郎のエピソードを紹介しますと、私が山川健次郎のことを調べていたときに、今の武蔵大学、旧武蔵高校のとき、山川健次郎も武蔵高校の先生をしていたのですが、健次郎が教授のころ助手として玉蟲ブンシチがいました。ブンシチが山川に会った時、山川は、「会津は、玉蟲左太夫にはお世話になった。」と言ったそうです。その後、山川は、玉蟲ブンシチを傍においています。そして、ブンシチは、武蔵高校の先生にもなっています。
 玉蟲左太夫とアコウグンシロウが会津に来たとき、会津藩主・松平容保が杯として大杯を授けようとしたところ、「大杯では、なく小盃を頂きとうございます。」と言ったそうです。大杯は、大敗につながり、小盃は、勝算につながると言うことでしょう。玉蟲左太夫と仙台藩は、会津を助けることを約束します。
明示維新は、謀略に満ちています。私は、今、幕末維新史を書いている。戊辰戦争は、昨年140年でした。白河、白石で、戊辰戦争140年イン白河、戊辰戦争140年イン白石のイベントが開催されました。これらのイベントは、120年、130年の時も開催されています。戦前、東北は文化が低いから官軍と敵対したと言われた。東北諸藩は判断を間違った。だから、官軍に弓を引いたと教えられた。今でも、その考えの流れが続いている。そのことが、東北、会津の討論会でもよくでる。
会津の討論会では、「どんなことがあっても長州とは手を結ばない。長州を許すことが出来ない。」と今でも言います。戊辰戦争140年イン白河のゲストで、元NHKアナウンサーの松平定知さんが登壇され、「会津と長州の和解はするべきでない。」と言う話題で、松平さんは、「そのとおり。会津は、長州と手を結ばなくてもよい・。」と断言されました。松平定知さんは、先祖は、四国の大名の流れで、幕臣の後子孫です。徳川家贔屓なのでしょう。東北、会津のイベントでは、長州、薩摩のことばかりでは、話が続かないので、秋田のことが話しのねたになることがあります。そのときは、奥羽列藩同盟を裏切った秋田藩は、悪いと言うことになります。
玉蟲左太夫は、アメリカを知っていたので、いろんな人が政治に関与できる政府が望ましいと考えていました。しかし、新政府は、このままだでは薩長政府でしかないと感じていました。防衛、教育、財政など早くから議会で決めるべきと言う考えでした。仙台に来た世良修蔵は、会津を討てと仙台藩に勅命だと言って命令します。しかし、玉蟲は、このようなことは本来議会で決めるべきであると思っていました。もともと孝明帝に信任のあった会津藩は、官軍ではないか。会津を討つとはおかしい。玉蟲は、会津藩を守ると言う立場で意見しました。玉蟲は、維新後、話し合いの政治をしなくていけないのに、薩長の独裁ではないかと言及します。今でも、このことは、論争になります。140年経った今でも未解決の問題です。昨年、鹿児島、山口では、明治維新・日本建国140年のイベントをしています。輝かしい日本を作った維新の偉人を見習い、受け継いでより良い日本を作ると言うイベントです。彼らは、今でも会津は良くない。負けた側の僻みであると言います。東北、越後のイベントでは、賊軍と言われるのは心外。そもそも、薩長藩閥政治が、日本軍国主義の始まりではないかと言い、幕末・明治維新史を見直せと主張します。おなじ140年でも、140年経った今でも、明治維新の捉え方が東西で全く違う。明治維新・戊辰戦争の見方が今でも異なります。
 東北でも、幕府は制度疲労していると言うことを指摘している人物はいました。その一人が、玉蟲左太夫です。玉蟲は、仙台藩でも、能力があっても重役になれない。世襲の60〜70人の人たちが藩政を牛耳っている。仙台藩の重役は、それぞれに領地を持っており。その領地では、お殿様と言われていました。例としては、片倉小十郎などです。ですから、仙台藩では、各地の領主を殿様と言いました。では、藩主のことは、どう言ったかと言いますと、お屋形様と言われていました。玉蟲左太夫がどれだけ頑張っても能力があっても当時の制度では100%重役になれませんでした。玉蟲左太夫は、アメリカからの帰国後、文を残していますが、自藩である仙台藩には送っていません。いくら勉強して出世できないこの幕政、藩政制度を、西国の薩摩藩、長州藩が打ち破ったが、明治政府は、薩摩長州の藩閥政治になっています。このような新政府に対抗しようとしたのが奥羽越列藩同盟です。奥羽越列藩同盟は、31藩が加盟しました。しかし、数こそ多いのですが、逆に統一できないと言うことがおこりました。意思の疎通ができないのです。そして多くの藩が参加していたんですが日和見的な藩もありました。そうなると、戦争で一度負けると各藩の思惑がバラバラになってゆきます。薩長は、2藩ですので意思お統一がしやすかったのでしょう。また、一心同体の運命共同体だったのです。
白河で、奥羽越列藩同盟は、新制府軍を向かえ撃ちます。白河は最初の防衛線です。玉蟲左太夫は、このころ白石に詰めていました。白河には、仙台藩を含めて2,000人で守りましたが、頑張れず、防衛線の初戦で敗北します。白河では、奥羽越列藩軍、新政府軍では武器が違っていました。戦(いくさ)と言うことで東北諸藩は、鎧、兜、刀、弓、槍、火縄銃など戦国時代さながらのいでたちです。鎧兜では、重くて動けません。負けたときには、鎧は捨てて帰っています。部隊は、50人〜60人で編成しましたが、火縄銃、新式銃、刀槍などまとまりのない部隊でした。また、戦争の意識も、仙台は、最強の軍隊(と思われていた)の会津藩が中心でやってくれるはずと思い、会津は、伊達政宗を藩祖とする仙台が助けてくれる。などなど、他人まかせでした。このような状態で、奥羽越列藩同盟が結成されたわけですから、戦争は、まず勝つことが大事でした。会津藩は、義、正義と言う言葉で戦おうとしました。藩主容保は、不義(謀略)はしない。正々堂々と戦う。そうすれば勝てると思っていたようです。しかし、実際には、義、正義だけでは勝てない のが実情です。白河には、白河城がありますが、その城を東軍は拠点にしました。その白河城ですが、堀から鉄砲、大砲を撃てば天守閣に届く距離でした。会津の西郷頼母はこの城で構えると言いましたが、それは昔の戦いでしかありませんでした。新選組などは、ゲリラ、夜襲をしないと勝てないと進言しますが、会津藩は受け入れません。新選組は、こんな人たちと戦えないと撤退します。西軍には、西洋の文献を翻訳していた大村益次郎が軍事参謀として新政府軍全体を指揮します。軍事参謀とは、実質的な総大将です。西洋の戦いを大村益次郎は知っていました。物陰に隠れて敵を新式銃で撃つ作戦を指示します。また、武器を統一して弾の供給が簡単にできるようにしました。同じ銃なら同じ弾を供給すればよいので補給が簡単になります。薩摩藩が、イギリスのグラバーから武器を買うときは、「この鉄砲にする」と言って同じ銃を買い付けました。補給がしやすいことを知っていたのでしょう。西軍は白河に来たとき、農民に金をばら撒いて周辺の地理をまず調べました。そして夜のうちに狙撃兵を伏せておきました。まず、西軍は、敵から見えるように布陣します。白河城から、奥州街道を攻めあがってくる新政府軍を見た奥羽列藩同盟軍は、新政府軍に向かって街道から攻撃します。しかし、それはわなで、街道の両側に隠れていた狙撃兵が銃で狙い撃ちしました。仙台藩の重臣は、自分の偉さを見せつけるため華やかな陣羽織を着ています。西軍は、目立つ兵を狙い撃ちします。指揮官が撃たれた軍隊は、軍隊ではなく烏合の衆となり支離滅裂で軍隊の機能をはたしません。そう崩れです。また、奥羽列藩同盟軍が布陣している場所も戦国時代さながら旗を立てていました。新政府軍は、そこを大砲で狙い撃ちしています。旗が標的になりました。東軍には、ドンゴリと言う言葉ができてしまいます。「大砲がドンと一発うたれると、東軍は五里(ゴリ)逃げる」と言う意味です。
奥羽越列藩同盟も初戦で勝てばもう少しなんとかなったのではないかと考えてしまいます。白河で大敗した会津藩は、米沢藩に援軍を頼みます。しかし、米沢藩は、話が違うと突っぱねます。白河口は、会津藩、仙台藩の受け持ちで、米沢藩は、越後口を受け持つと話がついていました。そのようなことで、奥羽越列藩同盟内部で揉め事がはじまります。そのような話は拡大してゆき、秋田藩のような裏切もおこりました。負けると仲間が割れると言うことです。水沢藩など、このままでは、やられてしまう。なんとか自藩に戻りたいと考えます。そこで、一計を案じて、盛岡藩が水沢藩に攻めてきたと言う嘘のデマを流します。そのデマを口実に自分の藩に急ぎ戻ります。結局、初戦の負けが奥羽越列藩同盟にひびを入れてしましました。私が思うには、武器の性能が相手より劣っているのであればゲリラ戦しかなかったのではないかと思います。地の利を知っている東軍にはゲリラ戦は有利です。夜襲など効果があったと思います。事実、会津藩でゲリラ戦法をとっている部隊あり、負けていません。
徳川家は、慶喜が鳥羽伏見の戦いで逃げ帰り戦う意欲がない。慶喜ではどうにもならないと言うことで、勝海舟と西郷隆盛が談判します。勝の交渉で江戸城は無血開城し、江戸は戦場になりませんでした。しかし、戦争に勝って領土がないと論功行賞ができません。これが戦争の本質です。子分に報酬をだすのが戦争です。江戸無血開城では、取り分がない。そう言う状況のなかで勝は、「東に領土はたくさんあるではないか。」と呟きます。勝は食わせ者でした。また、薩長には膨大な借金があり、100万石は必要でした。私は、江戸無血開城には、勝と西郷の密約があったと思っています。
薩長西軍は、会津藩を標的にします。絶対に飲めない要求を会津藩にします。「藩主・松平容保の首を出せ。城を明け渡せ。領地を差し出せ」と三つの要求をします。会津藩士がのめる要求ではありません。死ぬまで戦うことを誓いあいます。死んで後世に審判を委ねる。我々は朝敵ではない。死んでも無実を晴らすと言います。仙台藩、米沢藩も徳川家が許されているのに、おかしいではないかと会津藩を擁護します。しかし、戦に負けると見放してしまいました。薩摩藩・長州藩・会津藩の中で、好きな藩の人気投票をするとどうでしょうか?今は、篤姫の影響で、薩摩藩の人気が高いかもしれませんが、そのうち会津藩に一番になると思います。東京では、山口県は人気がありません。それは、会津の人が、山口の悪口を言うからでしょう。また、江戸っ子は、幕府贔屓であるからでしょう。
長州藩は、関ヶ原の戦いのあと「幕府を倒す」ことが憲法になります。会津藩は、初代藩主保科正之が「幕府を守ることが第一」と言う憲法を作ります。まったく異なる憲法を持った藩が京都でぶつかるのは当たり前です。
安倍晋三首相が、参議院選挙の時に会津若松に来ました。その時、「長州人が会津でご迷惑をおかけしました。」とお詫びしました。しかし、会津人は、安倍首相は、「飯盛山まで行って白虎隊の前で謝っていない・」とこんな程度では許せないと言っています。会津若松の議員が国会で追及して欲しかったですが、そうこうしているうちに安倍晋三は、総理大臣を辞めてしまった。国会で話題になれば、歴史観は変わったかもしれない。

(戊辰戦争研究会、山田方谷氏まとめ)
△top
2009年1月11日(日) 「話し合い解散」
「話し合い解散」に前向き=自民離党組と選挙協力も−

民主・小沢氏 民主党の小沢一郎代表は11日午前、NHKの番組に出演し、

2009年度予算案の年度内成立などと引き換えにした「話し合い解散」

の可能性について「早期に国民の意思を問えとずっと主張している。

衆院解散を前提にしての話なら、話し合いをしてもいい」と述べ、

麻生太郎首相から呼び掛けがあれば、前向きに応じる考えを示した。

(時事通信)

そういうことでしょうか。
△top
2009年1月10日(土) これから仙台です
雪で真っ白。寒いですね
△top
2009年1月9日(金) 明日は仙台です。
玉虫左太夫の集会には仙台市長もみえます。

歴史に造形の深い方です。白石集会でお目にかかり、またお話ができ、

すごく楽しみです。明日、朝の電車で仙台に向かいます。
△top
2009年1月8日(木) 寒い一日
仕事場にこもっています。
△top
2009年1月7日(水) 今日は電話が多く
原稿が進まなかった。

こんな日もあります。
△top
2009年1月6日(火) 今日6時半からFM会津です
今日から毎週火曜日、午後6時半から

「星亮一の歴史百話」です。時間は6分ぐらい。

岡田友子アナとの対談形式です。きょうは作家、早乙女貢さんをしのんでです。

午後7時頃、聞いた方から電話をいただいた。

早乙女さんの話がよかったということでした。

早乙女さんのお別れ会は2月4日、東京會舘です。


△top
2009年1月5日(月) NHK大河ドラマ>初回は24.7% 
<NHK大河ドラマ>初回は24.7%

 妻夫木主演「天地人」初回は「篤姫」を上回る

1月5日10時6分配信 毎日新聞

 4日にスタートしたNHK大河ドラマ「天地人」の初回の平均視聴率は

24.7%、最高視聴率は午後8時48分で26.6%

(ともにビデオリサーチ調べ、関東地区)だった。

昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」の初回の平均視聴率は20.3%だった。

【デジタルメディア局】
△top
2009年1月4日(日) 穏やかな日曜日
特にどうということなく、時間が過ぎてゆきます。

こういう日があっても、いいかも知れません。
△top
2009年1月3日(土) 福島市・西沢書店新書、正月ベスト10
1  ― 悩む力 姜尚中 集英社 680円

2  ★ 強欲資本主義ウォール街の自爆 神谷秀樹 文藝春秋 710円

3  ↑ 会津藩VS薩摩藩 星亮一 ベストセラーズ 781円

4  ★ 人間の覚悟 五木寛之 新潮社 680円

5  ★ できそこないの男たち 福岡伸一 光文社 820円

6  ★ 子どもの貧困 阿部彩 岩波書店 780円

7  ↑ 閉塞経済 金子勝 筑摩書房 680円

8  ↓ 本質を見抜く力 養老孟司 PHP研究所  760円

9  ↓ <勝負脳>の鍛え方 林成之  講談社 700円

10  ★ 正倉院

星の 「会津藩VS薩摩藩 」ベストセラーズ 781円 が2位に迫る勢い。

----------------------------
朝の読書

北海道稚内のHN 097 さん

2009年1月 3日 (土)

幕末の会津藩―運命を決めた上洛  星 亮一 (中公新書)

“京都守護職”…幕末の歴史を紹介する本や、その時代を背景とした小説、

映画、テレビドラマなどではなかなかに頻出する、当時の役職名である。

これはどうも「不穏な情勢になっていた京都に派遣された治安維持軍の司令官」

のことらしい。そして幕末期に特設された役職だという。

私は以前から新撰組に関心があって、関係の本を読んだり、

映画やドラマも愉しんでいるが、その中にはこの“京都守護職”という用語は

必ず出てくる。何故なら、新撰組は“京都守護職”の

“御預”(おあずかり)ということ―配下のようなもの―になっていたからである。

そういう訳で、新撰組関係の物語では幹部達を呼んで「大儀であった…」

などと褒章を授けるお殿様が時々登場する。

そのお殿様こそが“京都守護職”であった会津侯である。

(一寸話しが逸れるが、最近読んだ新撰組関係の小説では

『輪違屋糸里』というのが非常に面白かった!!作中でヒロイン達が

“会津”を「あいづ」ではなく「かいつ」と呼ぶ場面があるが、

そうした呼び名も知られていない京都で会津の御家中が奮戦した様が

本書のテーマだ…)

そういう具合に、“京都守護職”という存在に何となく馴染みはあるのだが、

他方で会津侯の人柄や、彼の下で活躍した会津の人達の物語等には

意外に馴染みが薄かったことに思い至った。

更に最近の旅行で会津若松を訪ねたことが切っ掛けで、

会津が“マイブーム”(やや旧い表現で恐縮だが…)になって

『会津藩はなぜ「朝敵」か―幕末維新史最大の謎』や

『奥羽越列藩同盟』を相次いで読了してしまい、

余勢で更に本書にも手を出した…非常に興味深い内容だった!

江戸時代、幕府は各地の大名に土木工事の施工や、

様々な役目を果たすことを申し付け、大名達は資金を工面し、

人員を割いてそれらを遂行した。私が会津に関心を寄せる切っ掛けとなった

“北方警固”もそういうような、幕府が大名達に命じた役目の一つだった。

そして、会津の武士達が稚内や樺太に足跡を残した“北方警固”から

半世紀余りを経て、今度は“京都守護職”という厄介な役目が会津侯の下へ…

という次第だ…

本書は、会津侯が“京都守護職”を引き受けることになった辺りから、

苦労しながら京都で活躍をして孝明天皇の信任を勝ち取り、

辞任して会津若松へ引揚げようとして慰留され、

最後は戊辰戦争に突入というような辺りまでの通史が、

会津侯を支えた家中の人達の様子を交えて詳しく紹介されている。

江戸幕府が大名を任命したような役職というものは、

現代風に考えると、「それなりに大きな複数のセクションを一手にこなす」

ような雰囲気がある。例えば時代劇に頻出する町奉行は、

「市長兼警察署長兼裁判長」のような雰囲気さえあった。

会津侯が引き受けた“京都守護職”と言えば…敢えて私流にまとめると

「軍事衝突に即応する実戦部隊の維持(兵員の衣食住確保、装備の確保・更新)

とその動員」、「“テロ特捜班”と“テロ鎮圧チーム”を兼ねた新撰組への

支援・協力(資金や便宜の提供・応援要員の派遣など)」、

「各大名の下で動く人々からの情報収集」、「江戸の幕府との連絡・調整」、

「皇室との関係の良好化・強化」などなど、なかなかに途轍もない…

そして会津侯は領主であるので、あの鶴ヶ城の御城下や、

美しい山間に田園が広がる領地の経営もしなければならない…

会津は格式を重んじる家風であったらしいが、

“京都守護職”を引き受けた当時の会津侯松平容保(まつだいらかたもり)は、

当時としてはオープンな心優しき人で、才気溢れる若手を重用し、

難しい情勢に真摯に対応していたようだ…松平容保侯は写真を残していて、

幕末の歴史を紹介した本で何度も見たことがある。本書にもそれが出ている…

「多少神経質そうな、細身の青年」という印象を与えるものだが…

彼は上述したような多岐に亘る課題を抱えて神経を擦り減らしていたのか、

頻繁に体調を崩しながらも、家中の働きが天皇に認められたことに

感涙しながら努力を続けるような、或る意味で

「なかなかの器」だった様子が本書の記述から伺える…

歴史は勝者が綴るものかもしれないが、

こうした“敗者目線”の歴史もあり、それもまた興味深いものだ…

何かに興味を覚えて旅をすると、更に興味が深まって書物を紐解くことがある。

私は今そういう状況下にあるのだが、そうしている中で

「再訪…」という思いも高まる。何かこの年末年始は

“面白い”本と出合うことが叶っている感じだ…
△top
2009年1月2日(金) 今日は初ドライブ
ただし郡山南インターと須賀川インターの間、せいぜい15キロぐらいかな、

天気が良かったので、思いきって飛ばしました。

途中で缶コーヒーを飲み、ささやかなドライブは終わりました。

午後は会津と長州の対談の校正、結構、面白い本になりそうです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

河出書房新社からのお知らせ

「会津籠城戦の三十日 」

星 亮一 著

定価1,680円(本体1,600円)

発売、1月15日

某テレビ局が報じて物議をかもした鶴ヶ城陥落屎尿処理限界説に、

戊辰戦史研究の第一人者が真っ向から反対。

豊富な証言・資料をもとに、会津戦争の実際を、克明に描く。

戊辰戦争終結140年記念企画。

星 亮一 (ホシ リョウイチ)   

1935年仙台生まれ。福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長を経て

文筆業に転じ、幕末維新史、日本近現代史をテーマに執筆する。

著書に『山本五十六と山口多聞』『会津藩と新選組』『会津戦争全史』他多数。


△top
2009年1月1日(木) 謹賀新年
今年もよろしくお願いいたします。
△top

株式会社メディアハウス