星亮一 今日の一言

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2005年12月31日(土) 来年もよろしく
ついに大晦日です。
今年も終わったのかと思うと感無量です。
一体、この一年、なにをしたのか、
反省もありますが、
でも本は何冊か書きました。

後藤新平伝
仙台戊辰史
悲劇の英雄源義経と奥州平泉
会津戦争全史

あとは
ラストサムライの群像
かな。

前年に比べると少なかったですね。
来年はもっと頑張る必要ありです。
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2005年12月30日(金) 新聞社から取材
今朝、新聞社から電話があった。
戊辰戦争研究会を取材したいという。
「どうぞ、どうぞ」
とインタビューに応じた。

この研究会、学問的に戊辰戦争を研究しようと言うわけではない。
基本的には歴史が好きな人の集まりで、
わいわいがやがや
時々集まって酒を飲み、
あるいは旅に出かけ、
楽しくしゃべる

まあ、そういう会なのである。
研究を期待する向きもあるが、そうではない。
研究している人も皆無ではないが、それが条件ではない。

その事を強調した。

もうひとつはネットで交流も図ることである。
だから全国、どこからでも会員になれる。
すでに東京、鹿児島、新潟、埼玉、
各地の方が入っている。

ただしネットでの無責任な誹謗中傷は排除する。
それぞれ好きな名前を名乗ってはいるが、
事務局には住所、氏名、職業などが登録されており、
それ以外の方はお断りである。

会員の方は新撰組が好きだったり、
白虎隊が好きだったり、
高杉晋作が好きだったり、
坂本竜馬が好きだったり、
そいう方々ばかりだ。

ヘンな理屈はいりません。

よろしければ、どうぞ、どなたでも歓迎します。
そう新聞社の方に話をした。

新聞は福島民報
どう出るが
楽しみである。
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2005年12月29日(木) 女たちの会津戦争
会津藩の婦女子のレベルの高さは、男性以上である。
婦人たちの手記を読んでつくづく、そう思った。

たとえば、ある重臣の夫人は娘三人を連れて逃亡生活のやむなきに至った。
何処にいっても敵兵の影があり、山奥に逃げた。

ところが薩長軍から触れが回っていて、「会津藩の関係者をかくまってはならぬ」という。

彼女はにべもなく玄関先で追われ、
一日に三里、も四里も歩いて、宿を探した。
しかし「お前らは賊軍だ」と追い出される。

つい数日前まで会津藩の高官の妻子といえば、皆、頭を下げた。
それが手のヒラを返したように、邪険に扱われた。
彼女ははじめて世間の冷たさを体験し、世の中の変化を痛感する。
この一家は江戸常詰めだった。
会津の出身ではあるが、会津では付き合いが少なく、娘たちは江戸弁だった。それが一層
違和感に写ったのかもしれない。

ついに彼女は自害せんと懐剣に手をかけた。
しかしとめられて思いとどまった。夫から娘の命は守れといわれてもいた。

親切な老人が現れて山中に掘建て小屋を建てて住んだ。
娘は垢だらけになって、食べ物を求めて山野を飛ぶように走った。

幸い篭城した夫と十五歳の長男は無事だった。
夫は藩の責任者ではなかったが、会津藩が責任者の自刃を求められたとき、
自ら自刃を申し出て、会津藩を救おうとした気骨ある人物だった。
妻と長男に遺書も残していた。

篭城戦の最中、これ以上、戦争はすべきでないと主張し、城を出て米沢藩や土佐藩の陣営に向かい、降伏の段取りをつけたのもこの人物だった。

私は従来、この人物にそれほど注目はしてこなかった。
しかし家族の行動をみて、考えを改めた。こういう人物が家老であったならば
もっと違った選択もあったのではないか。

会津では、すぐ自害する人が多かったが、生きて生きて生き抜くことに
本当の勇気があることを痛感した。

そんな事を感じながら執筆している。
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2005年12月28日(水) 戊辰戦争研究会、課題は大きい
人気先行で、責任重大です。
新たに

前原一誠、長州藩参謀
坂英力、仙台藩軍事総督
朝比奈茂吉 郡上藩凌霜隊長
村田新八 薩摩藩士

が加わりました、

昨夜の日本テレビ
河井継之助よかったですね。
河井もいい名前ですよ。

これも早いもの勝ちですね。


私の「女たちの会津戦争」

毎日、かなりのペースで進んでいますが、
会津若松の篭城戦、すさまじいですね。
一日、1000発、2000発と砲弾が撃ちこまれ、
城内の人々が吹き飛ばされて行きました、
頭に破裂弾が当たると
脳みそごと周囲に散乱し、その惨状は地獄でした。

何人もの女性がそのことを証言しています。
戦争はやってはならぬ
そういう日々でした。

しかし、
その後も数限りなく戦争が続いてきました。

人間には戦わねばならぬときもある。
継之助はそうもいいました。

大変、難しい問題です。

戊辰戦争研究会、
われわれが抱える課題は大きいのです。
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2005年12月27日(火) 戊辰戦争研究会
会員の方も増えてきました。
私のモットーは楽しく歴史を語ることです。
片ひじ張って論じるのではなく、ユーモアたっぷりに歴史を語りあうことです。

ペンネームではありませんが、
自分が歴史上の人物に変身して、
夢を語る、あるいは反省の弁を語る、
あのときはこうだった。
もう一人の自分が発見できて、
楽しいと思うのです。

事務局長の中村さんの特技は弓道です。
今度は弓を刀に替えて、りりしい姿で写真に撮り、発表するそうです。
仮装大会も面白いでしょうね。

そこから何かが生まれてくる。
そう思っています。

現在まで決まった名前

榎本武揚、土方歳三、沖田総司、坂本竜馬、松本良順、玉虫左太夫、秋月悌次郎、
照姫、白虎隊です
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2005年12月26日(月) 寒いですね
風が冷たい。
びゅうびゅう吹きまくる。
飛ばされそうになることもあります。
電車の脱線もむべなるかなですね。

なぜ運休しなかったのか。
上層部の判断ミス。遺族の方は気の毒です。

今年もあと5日、
もうすぐ2006年です。
年内中に

「女たちの会津戦争」

150枚は書く予定です。
このペースで行けば、1月末には脱稿です。

問題はその後ですね。これは新春に発表します。
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2005年12月25日(日) 戊辰戦争研究会からのお知らせ
昨夜、福島市で幹事会を開き、次のことを確認しました。
なるべく早い時期にホームページを開設する。
ホームページはもちろん事務局長の中村さんが管理する。

次に会員それぞれが、歴史上の人物を名乗ることができる。
たとえば
事務局の中村さんは、土方歳三、
酒井さんは沖田総司、この方は欲張りで坂本竜馬も名乗りたいとか、
伊藤さんは照姫、会津藩主松平容保の義姉です。
歯科医師の佐久間さんは幕府の医師松本良順
といった具合です。
これは面白いですね。

この名前、時々変わることもできます。
あれになりたい、これにもなりたい、
隊の名前もいい、いろいろでました、
額兵隊、義集隊、奇兵隊、彰義隊などなど。


寒河江さん、
志津さん、
麻生さん、
東京支部の遠藤さんら、
ほかの皆さんは如何されますか。
早いもの勝ちのようです。

ところで私は当面は
榎本武揚
なぜなら来年、
「箱館戦争全史」
を書くためです。榎本の気分になって書こうと思います。

それから夏頃、会津で集会を持つことも決めました。
その他京都旅行、函館の旅も企画することになりました。
名前に関して入会希望の皆様の投稿をお待ちしております。
地域密着
薩摩の方、
長州の方、
西郷隆盛、桂小五郎をぜひ、名乗ってください。



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2005年12月24日(土) クリスマスイブ
今日はNHK福島教室の皆さんと、クリスマスイブです。
講座のあと、午後5時、居酒屋でスタート、
楽しみです。

新春発足の戊辰戦争研究会の事務局設置も今日、話しあいます。

これも期待されますよ。

皆さんも楽しいイブをお過ごしください。
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2005年12月23日(金) 東北学は、まやかしなのか
田中英道という論客がいる。
東北大学の名誉教授で、専門は美学である。
東北大学には以前、美学美術史学科というのがあり、私も一時あこがれたことがある。
ただしドイツ語やフランス語ができないと勉強できないことが分かり、断念した。
そこで国史学科に進学した。

国史は外国語ができなくとも勉強はできると思った。
大体進路の選択はそんなものである。
でもこれも間違いで、日米交渉史を学ぼうとすれば、英語は必要だし、
日中問題になれば、中国語は必要になる、

どんな学問でもいまや外国語は必須なのだ。
私が東北大学で学んだ石井孝教授は、ロンドンの外交文書を使って明治維新を解明した。
これから勉強しようとする若者は外国語を勉強しなければならない。
読むだけではなく、しゃべることもである。


さて田中さんは東北大学を代表する論客の一人で、長く「新しい教科書を作る会」の会長もつとめた。
昨今「新しい日本史観の確立」
を文芸館から発刊した。

その田中さんが、このところ大流行の「東北学」を「東北大学学生新聞」の12月20日号で
厳しく批判した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「学」とつけば何やら体系的で、真面目に見える。そのことを利用していまや「東北学」とか「仙台学」「青森学」「岩手学」など、やたらに地名を配して、なにやら地元の人を喜ばせている大学の動きがある。
それが「東北文化センター」などと名付けられていると、アカデミックな研究の中心ができたかに見える。

しかし一方ではなんやら東北の考古学でのあの素人の捏造事件にすっかり騙された学会に似て「まやかし」に過ぎないかもしれない、という気にもさせる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

という書き出しで東北芸術工科大学の赤坂憲雄教授を批判した。
赤坂さんは福島県立博物館長でもある。
これは他人事ではない。
どこがどうまやかしなのか、
私は大変、興味をいだいた。
田中さんの言い分は、随時、掲載し、皆さんのご意見を伺うことにする。
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2005年12月22日(木) ラストサムライの群像
本日、見本がおくられてきました。
ソフトカバー
やわらかい感じの仕上がりです。

あとは読者の皆さんがどう評価して下さるかです。
まな板の鯉ですね。

読んで下されば、中身は結構、斬新で面白いと思います。
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2005年12月21日(水) 女たちの会津戦争
「男たちの大和」
の向こうを張って、「女たちの会津戦争」を書いています。
之まで正面からこの問題に取り組むことはありませんでした。しかし、つぶさに調べると、実にさまざまなことが分かってきました。

自刃して殉難すべきか、薙刀を取って戦うべきか
その判断は各家の男たちにゆだねられていました。
娘に死ぬまで戦えと命じた父親もいました。

敵の辱めを受けては成らぬ、即刻自害せよ
という父親や夫もいました。

なぜ自刃をする必要があるのか
というのは現代人の感覚で、当時の状況からすると、どちらにも言い分はありました。

ただ明確になってきたのは、一般の婦女子を戦争に巻き込まなかったことです。

武士として恥ずかしくない戦争をする、それは会津藩首脳部の考えでした。
沖縄戦の時、日本陸軍は沖縄の住民を盾にして、自分たちの安全を図りました。

満州で開拓農民を捨てて軍部が逃亡しました。

それがないのが会津戦争でした。
ラストサムライの戦争だったのです。

会津藩のすばらしさはこの一点にあります。
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2005年12月20日(火) ラストサムライの群像、1月10日、発売です。
星さま

印刷終了。製本所に入ってます。
22日見本完成予定です。
発売は1月10日頃。

光人社出版製作部
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2005年12月19日(月) 「近代日本と戦死者祭祀」
今井昭彦氏が東洋書林から発刊しました。
慰霊とは誰のためなのか。
顧みられることがなかった金石文にスポットをあて、
社会学、歴史学、民俗学の視座から読み解いた力作です。
今井さんとは
古くからの知り合いで、会津戦争における戦死者の埋葬問題を以前から調査され、
この道の第一人者です。
まずは発刊、おめでとうございます。

今回、これまでの研究を集約され、発刊したもので、
第一部、内戦における反政府軍戦死者の祭祀
第二部、対外戦争における戦死者の祭祀
にわけ詳細に論じています。

今井さんは成城大学の出身、修士課程を経て、総合研究大学院大学で、博士号を取得しました。
現在熊谷女子高校教諭、歴史民俗博物館共同研究員
一読をお薦めします。
東洋書林は
03−5206−7840

定価は6、000円プラス税
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2005年12月18日(日) 一日早く帰りました。
鳴門は雪で、車も思うように動かず、取材を短縮して今日夜、帰ってきました。
板東俘虜収容所、収穫はありました。
いずれご報告いたします。
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2005年12月16日(金) 今日から鳴門
板東俘虜収容所取材のため
19日まで留守します。
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2005年12月15日(木) 最近聞いたはなし。
郡山出身の大学生が新幹線で乗り合わせた人とよもやま話になった。
その人はかなり年配だった。

「君は何処の出身ですか」
「郡山の生まれです」

「あっそう、学生ですか」
「はい」
「何年生ですか」
「四年生です」

「というと就職」
「はい」
「どこに」
「福島県の銀行です」

「それはよかった、何処の大学ですか」
「明治大学です」
「優秀だ」
「いやまあ」

「ところで星亮一という作家、知ってますか」
「いや聞いたことないです」
「そうか、俺の高校の同級生なんだ。残念だなあ、郡山に住んでいるんだよ」
「すみません」

「今度、読んでくれよなあ」
「はい」

という会話だったそうです。

その大学生、家に帰って親に言ったら
「おじいちゃんが何冊も本買ってるよ」
と母親に言われたそうです。

同級生、誰れだろう。でもありがたいね。じんときたよ。

ちなみに私の高校は
岩手県立一関第一高校

野球が結構強く、昨年巨人に投手が入団した。
まだ登板はしていない。
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2005年12月14日(水) 板東俘虜収容所
幸運なことがありました。
冨田弘著「板東俘虜収容所」(法政大学出版局)がほしいと思い、メールで古書店を当たりました。
すぐ1冊みつかり注文しました。
しかしメールが入り、品切れとのことでした。
かなり以前の本なので
版元にはないと思ったのですが、念のため電話すると、なんと1冊、在庫があるというのです。
驚きでした。
宅急便で送ってもらい、今入手しました。

鳴門の板東俘虜収容所の取材は、16日からです。
これは幸先がいいと、気持ちがのってきました。

鳴門の取材の成果は、
後日、ご報告します。
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2005年12月13日(火) ラストサムライの群像
新春、正月3日発売の予定です。

武士道とは何か、

新渡戸稲造の武士道は、理念であった現実には存在しないのではないか、

それが私の感想です。

では誰が真の武士道を貫いたのか、それをまとめて見ました。

郡山出身のライター遠藤由紀子さんも参加しています。

新進気鋭のライター兼研究者です。
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2005年12月12日(月) 週末は鳴門市へ、ドイツ館を見学
鳴門市のホームページより
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
大正3年、第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの租借地であった青島を攻撃し、約4,700人のドイツ兵を俘虜として日本各地の収容所に送りました。このうち四国の徳島、丸亀、松山にいた約1,000人が大正6(1917)年から同9(1920)年までのほぼ3年間を、鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)の板東俘虜収容所で過ごすことになりました。

この収容所では、松江豊寿所長をはじめとする管理スタッフが、俘虜たちの人権を尊重し、できるかぎり自主的な運営をみとめたため、自由で快適な収容所生活を楽しむことができました。彼らの活動は驚異的で、所内に80軒余りの商店街、レストラン、印刷所、図書館、音楽堂、科学実験室、公園、別荘群などの施設を造るほか、健康保険組合、郵便局などの互助的活動も行いました。また、学習、講演、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も盛んで、とりわけ音楽活動では、ベートーベンの「交響曲第九番」の国内初演をはじめ、複数のオーケストラや様々な楽団が100回を超える演奏活動を行いました。

所外においても、俘虜製作展覧会や各地での演劇、演奏会活動など、ドイツ文化を広く市民に紹介しています。その他、 牧畜、製パン、洋菓子、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど様々な技術をもたらし、なかには現在もそれが受け継がれているものもあります。これらのイベントや技術指導によって、俘虜たちは地域社会に受け入れられ、板東の町やその周辺では、地元の人々と日常的に交歓する風景が当たり前のようになりました。

ドイツ館は、このようなドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を顕彰するため、昭和47(1972)年、元俘虜たちから寄贈された資料を中心に建設されましたが、築後20年をこえて施設の老朽化や収集資料の増加により手狭になってきました。そこで平成5(1993)年、東四国国体のメイン会場の1つが鳴門市となったことを記念して、新ドイツ館の建設が計画され、同年10月13日に現在の地に新築移転されました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なぜ出かけるのか、
もちろん取材です。
△top
2005年12月11日(日) 今日は日曜
久しぶりに日曜日の気分を味わっている。
この何ヶ月間か、土曜も日曜もない生活を送ってきた。
私にとって休日は一日もなかった。

なぜ今日は日曜日か。
昨夜、「斗南藩」の原稿を書き上げ、今日は宅急便で送るだけだからである。

しかし、多分、午後からは次の原稿の準備に入るに違いない。
のんびりとしていられない。
そういう癖がついてしまったのだ。

悲しむべきか、
喜ぶべきか。

先程、いつも出かける東北書店に顔をだした。

「会津戦争全史、ベストテン7位です」

といわれた。先週は10位だった、すこしあがったことになる。

「本が足りなくて困っています。何とかしてください」

ともいわれた。
すぐ講談社にメールした。

というわけで、またうずうずしてきた。

次の本は
「会津戦争の女たち」
である。

「会津戦争全史」では書ききれなかったので、
1冊にまとめようと思う。

また日曜日はなくなる。
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2005年12月10日(土) 小泉首相、私は長州藩、熱情?非情?
今朝の福島民報に次の記事が出ていました。

「長州藩のやり方、突破力は私に似ている」
小泉首相は九日、幕末の長州藩などを題材にした歴史小説を執筆している山口県下関市在住の作家古川薫さんと首相官邸で昼食をともにし、歴史談義に花を咲かせた。

首相は、幕末の志士の吉田松陰を「維新を招き寄せた大きな原動力だ」と絶賛。
討幕運動の要だった長州藩士について、
「自分に相似したものがある」と語った。

古川さんが「長州藩の強みは人材育成だ」と水を向けると、首相は
「現代にも言える。若い人を大切にし、若い人に働いてもらう。そういう世の中にしたい」
と応じたという。


ーーーーーーーーーーーーーー
うううん、
基本的には私も否定はしません。
会津を書いているから
長州はけしからんと、一方的に非難はしません。
『幕末史』(三修社)
にそのことを書きました。

会津サイドの人間としても、相手のいいところは認めなければなりません。

私が問題にしているのは
明治維新のあり方です。
数々の謀略、だまし討ち、明治維新は革命運動ですから、それは謀略もあるでしょう。
がしかし、薩長独裁体による明治藩閥政治はひどいものでした。

調和を欠いた日本、そこに問題がありました。
敗れた会津にもいいところはいっぱいありました。
人材も育成もしていました。
国家への忠誠心、武士道の面からいえば、レベルの高いものでした。

ただ開花するのが遅く、明治以降でした。

小泉首相にお願いしたいこと。
長州を誉めるのはいい。
しかしそれだけでは、一国の首相としては問題があります。

敗れた者への配慮、言われなき偏見、
今日の高校の教科書にも残っている朝敵という呼び方。

「それはいけない。勝てば官軍の日本の歴史教育は間違っていた」

と同時に発言してほしいのです。

私は来年、
『会津藩の怨念』
と題してこれらの問題をまとめたいと考えています。

小泉首相にお会いする機会はないものかなあ。
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2005年12月9日(金) 木戸孝允関係文書1
上記の本が東京大学出版会から発刊された。
明治維新のキーマンの一人は間違いなく木戸である。
幕末までは桂小五郎である。
今日なら電話、メールなどさまざまな通信手段があるが、当時は手紙だった、

この刊行物は全5巻、1冊12、000円、全部で6万円という高価な本である。
ここに収録される手紙は3、500点、
膨大な数である。

1巻は、ア、イの人々から手紙である。
驚いたことに
会津藩士秋月悌次郎の手紙が7点、収録されていた。
時期はいずれも文久2年である。

京都守護職就任に当たり、秋月は
長州藩桂小五郎に手紙を送り、協力を求めていたのである。
桂からも返事が来ており、
いまその内容を分析している。

幕末会津史が少し変わる可能性がある。

いや大きくかもしれない。
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2005年12月8日(木) 東北戊辰戦争論
戊辰戦争論をまとめてみようかなと思っている。
私の恩師である石井孝先生も多くの本を出されている。どれもすごい迫力である。

先生を乗り越えることは最初から無理ではあるが、東北戊辰戦争論ならば、
「まあ、いいだろう」
と先生もおっしゃってくれるかもしれない。

歴史を論じるときに
一番、困るのは
作家が書いた文章の引用である。
司馬遼太郎がこういった、藤沢周平がこういったでは、文学評論であって学問としての歴史ではない。

そういう私も使ったことがあり、
大見得は切れないが、その場合は、歴史文学評論のような読み物に限っている。

私が嫌いなのは偏った理屈である。
感情的な理屈ほど始末が悪いものはない。

歴史の基本は実証である。資料を丹念に読み込んで
検証する。これが基本である。

そういう東北戊辰戦争論を書きたい。
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2005年12月7日(水) 八戸市長神田重雄の銅像
八戸市の2代市長神田重雄は、会津藩士の2世です。
戦争に敗れた会津藩士は、陸奥の地、斗南藩に流され、
神田一家は現在の八戸市に住みました。
そこで生まれたのが重雄でした。

三沢から斗南藩の重臣広沢安任がしばしば顔を出し、揮毫したそうです。
「重雄、墨をすれ」
と父親にいわれたと伝記にあります。

長じて政治運動に入った重雄は八戸市長になり、今日の八戸の基礎を築きました。
その功績で港が見える公園に銅像が建っています。
実はその写真がなく
八戸市役所観光課にお願いしましたら、すぐ手配してくれました。

立派な銅像です。
「斗南藩」の本に掲載させていただきます。
ありがとうございます。
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2005年12月6日(火) 雪が降った
私が住む郡山はぐんと冷え込み、昨日も今日も雪混じりの天候である。
慌ててスノータイヤにしようと思ったが、スタンドは何処も予約でいっぱい、
昨日はタイヤの交換ができなかった。
今朝、修理工場に持ち込み、車を置いてきました。

冬はいやですね。
寒いのが大変です。
いま斗南藩を書いていますが、タイトルが意外に難しいですね。

「会津斗南藩」

「斗南藩」

「会津藩、斗南へ」

とかいろいろあります。

「斗南藩史」

も」ありますね。
皆様のご意見を聞きたいですね。
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2005年12月5日(月) NHK大河ドラマ義経
昨夜のテレビ、義経が頼る奥州の秀衡が死んだ。
4代泰衡の狼狽した様子がテレビで演じられた。
どうしていいか分からないという表情だった。

結局、泰衡は頼朝の謀略に乗り
義経を殺し、自らも部下に惨殺され、平泉は崩壊する。

昨夜の泰衡の演技は迫真にみちていた。
おどおどしていて自信がなく、ああいう人だったのかも知れない。

その泰衡の首が中尊寺の金色堂にある。

鼻と耳を削がれ、数回、首を切りつけられた無残な姿である。

情けない姿である。
泰衡には奥州平泉の意地を示してほしかった。
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2005年12月4日(日) 今朝の福島民友新聞
郡山東北書店、今週のベスト10

会津戦争全史も入っています。

1、クラッシュブレイズ・パンドラの檻 中央公論新社
2、生協の白石さん 講談社
3、ネコソギラジカル 講談社
4、東京タワー 扶桑社
5、スッキリ、たった5分間ーー 幻冬舎
6、鈴木貫之編集 新潮社
7、、下流社会 光文社
8、意味がなければーーー 文芸春秋
9、悪魔の種 幻冬舎
10、会津戦争全史 講談社
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2005年12月3日(土) 会津戦争全史 3刷り
講談社選書メチエの編集部から電話があり
「会津戦争全史」3刷り決定という事でした。
発売1ヶ月、大変なことです。
皆様に深く御礼を申し上げます。

私はこの本で、多くの方が讃美してやまない会津戦争の実態を赤裸々に描きました。
白虎隊の少年たちは確かに立派でした。
娘子軍もよく戦いました。見事な篭城戦であったことも事実です。
しかし待てよというのが私の考えでした。

第一に指摘したのは、薩摩、長州軍の徹底的な残虐行為です。
薩長に歯向かえばこうなるという見せしめの戦争でした、
そのため無抵抗の市民に砲撃の雨を降らせたのです。

会津軍の作戦は、全員玉砕でした。
死んで会津の正義を後世に訴える作戦でした。
このためには女性も子供も巻き添えになりました。
一億玉砕です。太平洋戦争と同じです。

どちらもその後の日本を象徴するものでした。
太平洋戦争のミニ版といっていいでしょう。

日本のアジア戦略は薩長そのものでした。
国民は全員、会津藩士とその家族でした。

近代日本の矛盾した原形、それが会津戦争だと私は考えたのです。
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2005年12月2日(金) 会津斗南資料館はすごい
東京の美術系大学の芸術人類学の研究員の方から
「大間の会津斗南資料館、すごいですね。
お花屋さんを経営されながら、史生の役職もうけつがれているわけですね。
素敵なことだと思います。
というよりも、とても立派ですよね。

恐山、わたくしもあの地に足を踏み入れたとき、あの世、異界を感じました。
でもどこか、カラっとしていて、あの場所の特異性を感じたこと、思い出しまし
た」
というメールをいただきました。
確かにそうですね。
会津斗南資料館、私も見るまではまさかと思っていました。大間は日本最北端の海ですよ。そこに会津藩があったのです。
会津の侍は実に広範囲に移住したことが分かります。

いま大間はマグロの一本釣りと観光で有名ですが、
140年前は、まったくの寒村でした。
会津の侍がどんな思いで海を見つめていたか。

亡国の民の悲哀を日々、感じていたに違いありません。
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