星亮一 今日の一言

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2006年1月31日(火) 鴉組
細谷十太夫は、仙台藩の探索方だった。

江戸の探索を命ぜられ、生糸商人に扮して二本松までくると、

白河の戦争で仙台が負けたという。

「何たることだ」

と郡山に急行した。いま私が住んでいる街である。奥州街道の宿場

だったので、情報が集まる。大隊長の瀬上主膳が逃げてきた。

「もうだめだ」

という。

「冗談じゃないよ」

十太夫は江戸探索を止めて白河に向った。

仙台がこれほど弱くては話にならない。サムライはだめだと実感した。

仙台にはもうひとつ佐藤宮内の大隊があった。大隊長宮内の家来の一人が、

私の先祖の家だった。このため一族は白河に参戦していた。

これも負けて白河を離れたが、郡山までは退却しなかった。

白河郊外に避難し、翌日から何度も白河の薩長軍を攻撃した。

仙台藩の最強部隊がわが佐藤宮内の大隊だった。

私の先祖は砲術を教えており、大勢の門下が参戦していた。

結局、白河を回復できなかったので、私もこれ以上のことは言えない。

そんなサムライに三行半を突きつけたのが十太夫だった。

十太夫は街道筋の顔役だった。そば屋に入ると、掛田の善兵衛がいた。

桑折の和三郎もいた。

「どうだ。俺と一旗あげないか」

と周辺の博徒を集め、須賀川に向って妓楼を買いきり、

「仙台藩細谷十太夫本陣」

と看板を上げた。どんどん人が集まってきた。

それが鴉組だった。

ゲリラ部隊である、その活躍は目覚しかった。

以下続く。








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2006年1月30日(月) 郡山自由大学、本日、開校です。
オープンカレッジ郡山自由大学は、次の日程で春の講座を開きます。
いずれも午後2時開会、会場 うすいデパート10階、バンケットルーム
です。
星が本日、トップバッターを務めました。

1月30日 会津戦争全史 星亮一(作家)
1月31日 家庭・仕事・子育て・嫁姑・人権問題 川崎葉子(双葉町教育委員)
2月 1日 現代人の性的トラウマ 富永国比古(ロマリンダクリニック院長)
2月 2日 書籍編集とはどのような仕事か 井上威朗(講談社学芸局選書出版部)
2月 3日 命拾いの脳ドック 竹内東太郎(南東北医療クリニック院長)
2月 4日 ラストサムライの群像 遠藤由紀子(昭和女子大大学院)
2月 5日 オペラエンジョイ講座2 大槻順一(郡山オペラ愛好会会長)

初日は50人、皆さん、意欲に燃えて受講しました。

来月は2月25日午後2時、
郡山駅前、ビッグパレット7階、特別会議室で
星亮一の特設講座があります。

連絡は024−933−5020へ。
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2006年1月29日(日) なぜ榎本武揚か
戊辰戦争研究会における私の名前は榎本武揚です。

なぜ榎本なのか。

実は来年、箱館戦争を書くことにしているためです。

あの戦争はなんだったのか。どうしてもそこに迫りたいのです。

会津藩からも数十人の兵士が参戦しましたし、仙台藩からは額兵隊が参戦しました。

榎本はなにを考え、蝦夷地に向かったのか。

榎本の理想は薩長政権とは異なる蝦夷共和国の建設でした。

もうひとつの日本の建設でした。私はそう解釈しております。

その政権はわずかに半年間の命でしたが、その間、

紛れもなく蝦夷島政権は存在したのでした。

アメリカの国立公文書館に一通の手紙があります。

差し出し人はアメリカの箱館副領事ライスです。

イギリスの介入によって榎本は敗れた。榎本の自由主義的な共和国家は

崩壊したと述べていました。

イギリスの不当な介入でつぶれた、そう書いてあったのです。

なぜアメリカは榎本を見殺しにしたのか。フランスはどうだったのか。

国際関係から箱館戦争を描きたいのです。

そのためにも当分は榎本の心境でいたいのです。
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2006年1月28日(土) 会津藩 斗南へ
今日は上記の本の校正です。

原稿を三回は見たのですが、見るたびに誤りが見つかるのです。

何で、何で、こうなの。

首をかしげながら見ています。

文章は書くときはスピードも出るのですが、字句を一字一字、チェックするのは

時間がかかり、大変な作業なのです。

校正者もいるのですが、かいた本人の目が重要です。

辞書を引き、年表を見直し、原典にもう一度あたり、それはそれは

苦しい何日かです。それだけに本が完成した時の喜びも大きく、

その一瞬のために頑張っているわけです。

夕方からは坂東俘虜収容所の執筆です。気分転換のためでもあリます。

俘虜収容所については鳴門教育大学の方々が研究されており、優れた論文を多数発表

しています。

それらにも目を通しながら、執筆を進めます。

頭の体操にもなり、私にとっては、楽しい作業です。
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2006年1月27日(金) 渋沢栄一滞仏日記
上記の本を探しています。

日本史籍協会叢書です。昭和3年に発行されています。

渋沢栄一を研究したい、そうなると

滞仏日記は欠かせません。

古書店にも照会しているのですが、いまのところ応答はありません。

渋沢は将軍慶喜の秘書的な仕事をしていました。

慶應3年、慶喜の実弟民部昭武についてフランスに渡ります。

パリの万国博覧会を見たあと、4、5年、フランスに滞在して

欧州事情を勉強する予定でした。

しかし幕府がつぶれ、2年で帰国するのですが、

幕臣である渋沢が、なににどう感動したかは

大変、興味があります。

朗報があるといいのですが、
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2006年1月26日(木) 南太平洋の激戦地、パラオ5日間の旅
4月25日から29日まで、パラオに出かける。

太平洋戦争の激戦地、ペリりュー島を見学するためである。

私はこれまで何度か戦跡をみてきた。

中国東北部、旧満州には3度出かけた。

ノモンハンにも出かけた。

この島にはゼロ戦の残骸や戦車の残骸、海軍の司令部跡、飛行場跡などがある。

そこに立って太平洋戦争を考えたい。そう思った。

旅の概要、日程は以下の通りで、

旅のタイトルは、「星亮一と行くパラオ5日間」

ー南太平洋の激戦地ペリリュー島の戦跡を巡るー

主催はNHK郡山文化教室。

電話024−933−0022

料金は成田発着238、000円、福島発着250、000円

旅行実施は三矢トラベル、電話024−956−7116

4月25日 成田発 10時30分 パラオ共和国コロール島へ
4月26日 高速船でペリリュー島へ、島内観光と慰霊
      ゼロ戦、日本軍戦車、米軍戦車の残骸、海軍司令部跡、平和記念公園、
4月27日 戦跡博物館ほか
4月28日 コロール島観光
4月29日 帰国
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2006年1月25日(水) なぜ戊辰戦争研究会か
私はこの40年ほど戊辰戦争に向き合ってきた。

本の中で何度か述べたが、20代に会津若松で記者として過ごしたこと、

自分の先祖が仙台藩の兵士として、この戦争に参戦していたの二つが動機だった。

会津若松で最初に白虎隊を聞いたとき、正直、疑問視する部分の方が多かった。

もっと違う選択肢はなかったのか、ということだった。

しかし徳川幕藩体制下におけるもっとも優秀であった会津藩の少年としては、

それは肯定されるべき行為であった。

私の戊辰戦争史観の根底には、悲惨な会津戦争があるが、そこから浮かびあがってくる

人間の残酷さ、集団的ないじめ、作り上げられた朝敵というレッテル、

国民すべてが、犯罪者として会津人をみて行く、虚構のシナリオが、

許しがたいということだった。

すくなくとも会津のサムライたちが京都で朝廷を守護してきたことは事実だった。

それが政治的カラクリによって朝敵になり、おかしいではないかと会津を支援した

仙台までもが、朝敵にされ、

「白河以北一山百文」と東北はある時期、差別された。

冗談じゃない。勝てば官軍の歴史に風穴を開けたい。

そう考えて戊辰戦争に取り組んできた。

ただし、私は会津と長州の対立をあおる立場ではない。

薩摩、長州の若者たちの爆発的なエネルギーには敬意を表しているし、

山口県には多くの友人もいる。

萩生まれの転勤族の人とは週1回はあっている。彼と話すと違う部分も見えてくる。

ではなにが問題なのか。

その時代の大人たちのいい加減さである。

ホリエモンはある時期、よってたかって時代の寵児ともてはやした。

警鐘を鳴らす人間は皆無に近かった。

ところが一転、極悪人である。この間の落差は何か。

依然として日本は成熟していない。国家の品格がないということだろう。

そのはしりが戊辰戦争であった。それが私の持論である。

では日本の近代国家の誕生をどう考えるか。それを否定するのか、いやそうではない。

これについてはいま「明治の群像」を執筆し、問題を整理している。

最近、強く思うのは明治時代、賊軍といわれた人々の中から多くの改革者が現れ、

近代国家の建設に貢献した事実である。

ここから新明治国家論が生まれてくる。

そう考えている。

戊辰戦争研究会の会員は40人を超えた。

楽しく語りあいながら、大げさに言えば、日本、日本人を論じていきたいと、

私も副長の土方さんも考えている。

藤原正彦さんの「国家の品格」は目下、ベストセラーである。

われわれの研究会も時代にあっているのではないかと思う。

自画自賛かも知れないが、

何もしないよりは、遥かにいいことである。

以下は副長のメッセージ


それぞれの 歴史へのこだわりや価値観や疑問や 想いを…

話し合う。ぶつけ合う。

笑いあう。

楽しむ。    

人との出会いは まさに至福。

『友 遠方より来たる。亦 楽しからずや』



なるほど、これはうまい表現である。
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2006年1月24日(火) ホリエモンの悲劇
人間の社会は一瞬にして転落することがある。

魔がさしたという言葉がある。

交通事故を起こしたり、仕事でミスを犯したり、人生はいつなにが起こるか分からない。

そいう意味では人間は不確かものであり、絶えず自戒しながら生きることが大事なのだろう。

私は新聞記者を10年やり。テレビの仕事を20年近くやった。

失敗は数限りなくあった。

文章を書くようになってからも、誤字、脱字、解釈の間違い、随分あり、昨今は

なるべく多くの方の協力をえるようにしている。

校正は複数の方に依頼しているし、時おり各方面に電話をして、教えてもらったり

している。その意味ではメールはきわめてありがたい。

本当にこれでいいのか、

疑うようにしている。

多忙だと配慮が至らない場合がある。

その結果、ひどくしっぺ返しをくったりする。

そういう意味では、ライターも集団でことに当たる時代にきているかも知れない。

出版社との関係ももっと密接でなければならないと思う。

社会派のライターは弁護士の意見も時々聞く必要があるだろう。

どこの世界も大変な昨今である。

それからホリエモン、

まだ30代の若者です。今後、彼はどいう人生を歩むのか、

みたいですね。
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2006年1月23日(月) 今日は月曜日、緊張します。
一週間が始まると思うと、緊張しますね。
「女たちの会津戦争」
昨日、書き上げて、今日からは、「坂東俘虜収容所」と「明治の群像」の二本立てです。

「坂東俘虜収容所」は徳島県鳴門の物語です。
第1次世界大戦の時、ドイツ人の捕虜が、日本に送られてきて、鳴門に収容されました。
その所長、松江豊寿は会津人で、彼らは祖国のために戦った戦士だと、寛大な扱いをしました。
東映がいま映画を製作中です。

「バルトの楽園」です。

「明治の群像」
は「ラストサムライ」の第2弾です。
渋沢栄一でトップを飾ります。
徳川慶喜が残した遺産、渋沢栄一はその一人でした。

旧幕府、会津と薩摩、長州、土佐、そうした人々の連合体として明治の社会はできた、
そいう構成です。

私はこれまで徳川慶喜を疑問視してきましたが、
渋沢や福沢諭吉を通して明治の日本に貢献した部分がある、そう思うようになりました。

歴史観は年齢とともに、すこし変化するかも知れません。
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2006年1月22日(日) 自己紹介から
昨日、福島市で開いた戊辰戦争研究会の新年会には10人の方が出席されました。
東京から秋月悌次郎、仙台から玉虫左太夫さんが見えました。

「え、東京からですか」
「はい」

秋月悌次郎が姿を見せたときは、皆、びっくりでした。
仙台の玉虫左太夫は、いつも投稿してくれる寒河江君です。
お二人とも若い方で、20代と30代前半でした。

地元勢は新たにお二人が佐久間象山、永倉新八で入会され、顔を出してくれました。
ともに歯科医師の先生です。
というわけで、大いに盛り上がり、夜遅くまで酒を酌み交わしました。

ホームページはもう少し、かかりそうですから、その間、ここの
読者の声メール通信で、皆さんの声を収録したいと思います。

なぜ私は玉虫左太夫か、
なぜ河井継之助か

を投稿してくださるとありがたいですね。
自己紹介です。
その場合、
地域が全国ですから

仙台、寒河江・玉虫左太夫

とかいて下さると、完璧ですね、
そこからはじめましょう。
よろしくお願いします。
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2006年1月21日(土) 今日は戊辰戦争研究会です
今日は戊辰戦争研究会の新年会です。
福島市で開くため、福島市周辺の方しか集まれませんが、
大いに懇親を深め、正式の発会式、研究発表会などを立案していきたい
と思います。

この会は開かれた勉強会です。
薩摩、長州、土佐、会津、仙台、米沢、長岡、地域も好みの藩も一切、といません。

自由闊達に幕末維新をホームページで論じ、そして年、何回か研究会を行い、懇親旅行
をする集いです。

職業まさまざまです。
高校教員、医師、歯科医師、大学教授、定年退職した自由人、主婦、OL、大学生、事業の経営者、ごく普通のサラリーマン、本当に幅が広く、多彩です。

全員がもうひとつの顔をもっています。
私は榎本武揚、事務局長の中村さんは土方歳三です。

そのほかのハンドルネームを公表しますと、
榎本武揚・土方歳三・前原一誠・照姫・松本良順・坂本龍馬・秋月悌次郎・
玉虫左太夫・村田新八・坂英力・朝比奈茂吉・河井継之助・ユキ・長井雅
楽・山本八重子・中野竹子・小笠原長行・町野主水・二関源治・山川捨松・
三善長道・輪王寺宮公現法親王・藤堂平助・梶原平馬・新城途信・大村益次郎、
梶原平馬、立見鑑三郎、山本覚馬、鳥居三十郎、白虎隊などなどです。


まだ徳川慶喜、松平容保、西郷隆盛などはないようです。
偉い人が多くて大変な感じもしますが、
すべてユーモアです。ふるって御参加下さい。

自分がそれになりきることで、歴史がより身近になるのではないでしょうか。
今日の結果は、明日、ご報告します。
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2006年1月20日(金) 自己改善で輝く人
「AERA」を読んでいたら、
「自己改善で輝く人」
が特集されていた。

ううん

これはタイムリーかも知れないと思った。
日々、世界が変わっているのだから、自分も変えていかないと、
のり遅れてしまう。

これは同感だった。
周囲を見渡すと、輝いている人はごろごろいる。ここに出ていた
元Jリーガーはなんと司法試験に合格した。

トヨタはいかに創意工夫をしているか、それも書いてあった。

私のような仕事の場合、ひとつは切り口である。
いま「ラストサムライの群像」で共同執筆した遠藤君と
「明治の群像」の構成を考えている。

明治というとすぐ連想されるのは西郷であり、大久保である。
それもそうだが、もっと違う切り口がないのか。
政治は所詮、権力闘争であり、この世界は、どこまでいっても怨念めいてくる。

いま国民が求めている切り口はなんだろう。
私は経済とか技術開発とか、学問ではないか。
その辺にスポットをあてて、明治の群像を組みたてられないか。

そんな討議をメールで交わしている。
皆さんの意見も聞きたいと思う。
読者参加型の本作り、これもひとつの創意工夫かなと思う。

戊辰戦争研究会設立のねらいのひとつは、新しい視野で考えることだ。

薩長対会津の怨念も乗り越えたい。
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2006年1月19日(木) 閑話休題、一豊と千代
毎日、ここに書くのもしんどい作業である。

一体、なにを書いたらいいのか、しばし、指が動かなくなる。

こういう時はどうしたらいいのか。

ひとつは書店周りである。

書棚をあれこれのぞいて歩き、一冊ぐらいは購入するのである。

今日は雑誌を買った。

『歴史街道』と『AERA』である。

歴史街道の特集は「山内一豊と千代」だった。

どれもこれも千代の評判はすこぶるいい。

こんな女房が自分にいたら出世間違いなしと書いてある。

ぽんと金を出して馬を買ってくれる。

上司である信長の気にいるような行動をサジェストする。

大変なものである。

しかし千代を見習えと女房にいってはならない。

こちらは一豊ほどの努力家でもないし、非凡な男でもない。

これは別世界の話なのだ。

これが読後の感想だった。
  
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2006年1月18日(水) 戊辰戦争研究会と新潟県
新潟日報に研究会のことが出て、新潟県内から何人かの方が入会した。

メールを読んだ感想は、すごく歴史に詳しい方ばかりで、驚きだった。


福島県の戊辰戦争は会津若松が中心だった。

一ヶ月の篭城戦である。すさまじい戦争だった。いま「女たちの会津戦争」という本を

書いているが、目覚しい活躍をしたのは女性だった。

同志社大学の創立者、新島襄の妻となる山本八重子は、七連発銃を担いで篭城し、

敵と撃ち合った。


彼女の兄山本覚馬は会津藩の砲術師範で京都に在勤していた。

戦後、京都府の顧問となり、京都の発展に貢献し、新島襄を支えて同志社を設立した。

同志社は新島襄と会津藩士山本覚馬の合作だった。

兄を頼って京都に出た八重子は新島襄と結婚し、夫と兄を支えた。

すこし余談になったが、新潟の場合は、全県が戦場になった。

長岡は激烈な戦いの末に敗れ、河井継之助の悲劇を生んだ。

新潟の港は武器弾薬の補給基地だった。仙台、会津、米沢、庄内の参謀が常駐した。

新発田藩は悩みに悩んだ末、同盟を離脱、会津藩兵を追撃した。

村上藩は庄内に退いて戦った。各地にそれぞれの思いがあった。

それが新潟の戊辰戦争だった。

夏には会津若松で研究集会を行う。、新潟の方には、ぜひ発表していただき、

会を盛り上げてほしいと願っている。

戊辰戦争研究会、多くの方の支援を受け、まずは順調なスタートである。
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2006年1月16日(月) BS特集、日米関係
昨夜、BS特集、日米関係を見た、

コロンビア大学の学生たちの討論会だった、

学生はアメリカ人、中国人、シンガポール人、韓国人、台湾人、日本人、さまざまだった。

さすがアメリカの大学は、国際的だと思った。

アメリカの学生は、日本よりも中国に興味があると一様に語った。

日米同盟は将来的にいうと弱くなるという学生もいた。

韓国、中国の学生は小泉首相の靖国参拝を批判した。

台湾の学生はそれは日本の国内問題だといった。

一体、日本がどうすべきなのか。

いまのままの中途半端な国家では通用しなくなったことは事実だった。

自分の国を自分で守れない国が、独立国であるはずもない。

憲法9条があるから集団的自衛権は発揮できない。

そういう国と同盟を結んでも意味がない。

そういうアメリカの学生もいた。

口で平和を唱えれば、世界が平和になるわけではない。

いつまでも自衛隊では、世界に通用しないとアメリカの学生はいった。

日本人も昨今はそう思っている。

憲法改正は、時の流れであろう。

私はそう感じた。

日本は正念場を迎えている。
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2006年1月15日(日) 小さな記事
今朝、新聞を読んでいたら、小さな記事が目にとまった。

小さいというのは記事の扱いで、本当はもっとおおきな扱いでもよかった内容だった。

それはカリブ海の島国、バハマのビミニ島での出来事だった。

私は行ったことはないが、知ってはいた。

そこには世界の文豪、へミングウエーの博物館があったからだ。

彼はこの島で「老人と海」を執筆した。

読んだ方も多いだろう。私も漁師の執念というか、老人の執念というか、

その中身に圧倒されたのだった。

それは彼自身の哲学でもあった。

どうもここの博物館は木造のホテルを改造したもののようであった。

ここで火災が発生し、へミングウエーの写真や遺品が燃えてしまったのだ。

こよなく愛したバーも消えてしまった。

私は各地を取材して歩く。

気になるのは、歴史上の遺品や文献である。

末裔の方々が大切の保管されているケースが多いのだが、

地震など災害が起こると、一瞬にして消えてしまう。

防火、対震装置のある公共の施設に寄託した方がいいのではないか。

いつもそんなことを思っている。

どうもバハマの博物館には、そうした装置がなかったらしい。

残念なことである。
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2006年1月14日(土) スターリンは毒殺、となると孝明天皇は
スターリンはべりヤに殺されたと共同通信が伝えた。

大殺人鬼だから、最後はそうかも知れない。

これで連想するのは、孝明天皇である。天皇は会津藩を支持していた。

孝明天皇がいる限り、討幕の革命政権は作れない。

かくて毒殺した。

といわれたものである。

私の恩師の一人、石井孝教授もその説だった。

黒幕は岩倉具視で、薩摩の西郷や大久保らがかんでいた。

という説だった。

孝明天皇のカルテにもそれをにおわせる記述があるというのだった。

結局、これは迷宮入りだった。

歴史には闇の部分が必ずあるものだ。

怖い話である。 
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2006年1月13日(金) 戊辰戦争研究会の新年会
日時 1月21日土曜日午後5時

会場 福島市栄町11−3 ゼビオビル1F
   「月の花」
電話 024−522−6188

会費 4000円

幹事 事務局中村です。

現在、12人の出席です。

ご希望の方は中村までメールください。

中村由香里
E-MAIL: nakamura-toh8@hotmail.co.jp
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2006年1月12日(木) 戊辰戦争研究会はサイバーコミュニティーです
戊辰戦争研究会、インターネット時代を痛感します。

大阪でも四国でも九州でも、どなたとでも交信できるのです。

私はこの手法を日本大学大学院の総合社会情報研究科で学びました。
この大学院はインターネットとゼミで学習する大学院で、通称サイバーキャンパスと呼んでおりました。

ここで2年間、勉強したので、全国に何人もの知人ができました。
この手法を応用したわけです。

研究会はすべてこれからです。
しかし、ホームページさえ立ち上がれば、大丈夫です。

あとは日々の投稿、そして旅行と勉強会です。

今朝、会津若松の坂内さんから電話をもらいました。

「まだパソコン、いじれません。女房にやってもらっています。メール着いたでしょうか」
「着いてますよ」
「心配で電話しました」
「ご心配なく」
「それから名前ですが、梶原平馬を名乗りたいのですが」
「会津藩の家老ですね、もちろん、大丈夫です」
「よかったです。今年60歳です、定年退職して、歴史の勉強をはじめています」
「そいう方、多いですよ。パソコン、頑張ってください」

という電話でした。
実は私もはじめはそうでした。
心配で電話をしたものでした。
それもすぐに慣れました。

楽しい会にしましょう。
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2006年1月11日(水) 安井さち子の歯切れのよさ
ジャズピアニスト安井さち子の文章は、すごく歯切れがいい。
この人は文章でも飯が食えるとおもうぐらい、テンポがいい。

今日のコメント、新聞記者の取材不足を手厳しくやっつけていた。
これはよくある話、取材記者は気をいつけるべきだ。

2006/01/10  学歴詐称??

本日、毎日新聞夕刊に、安井さち子記事が載りました。
そこで書かれていたことに「国立音大を終えて、バークリーへ」

ち・ち・ちがうのだ!!

私は、日本では音大出身ではないし、日本の音大出身ではなくバークリーへ行った事を、一つのキャラにしている。
なんと、日本では大学で法学部を卒業していたりする。
大学では、全然勉強しなかったので、あ法学部(阿呆学部)と、呼んでいたけど(笑)

大学で法学部を出て、いったん就職して会社員をして、それからバークリーなのだ。意外と、ここまで来るのに、遠回りした。
遠回りとは思っていないけど、色々、人生経験できたことが、今の音楽となっているから。特に、社会経験をしたことは、私自身、よかったと思っている。わが人生、悔いなし!????と、今は思っている。

だけど、ファンの方から「学歴詐称ですか?」というメールが…。

ち・違うんだ!!
それは、きついっす!笑って素通りすると思っていたのに、そこについてくるとは、いや〜、きついっす。
私は「学歴詐称」出来るほどの、図太さはありません。
そういう図太さがあったら、もっと世渡り、うまいです。
こんなに不器用に生きてきている安井なのになぁ。

多分、インタビューの時、記者の方が、私が国府弘子さんに習っていたということで勘違いされて、国府さんと同じ国立音大出身だと思われたんだろうと思います。

ここで明言しておきます。

「安井は、国立音大出身ではありません。バークリー音大出身です」


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2006年1月10日(火) 今日から仕事開始
今日が今年の仕事開始、

そう思うと神経が張り詰めて、頑張ろうという気持ちが全身にみなぎります。

今年は

「会津藩と長州藩」

を書くつもりです。

萩在住の研究者に共同執筆を申し込むつもりです。

お互いに

会津とはなにか

長州とはなにか

を論じ、日本人とはなにかを考えたいと思っています。

会津と長州は日本人に内在する思想だと思っています。

これが年頭のご挨拶です。
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2006年1月9日(月) 閑話休題
昨夜から「功名が辻」始まった。
信長の演技、
どうだろうか。
雰囲気は出ていたようにも思うが。

信長は随分、多くの人が演じている。
どの人も一様に凄みがあった。

昨夜はほんのさわりである。
これからに期待しよう。

さて戦国時代といえば、どの人物も個性的である。
強烈な個性がなければ生きてはいけない。
そいう時代であった。

山内一豊もそうした一人であったのだろう。
妻が助けたという部分が現代にはぴったりなのかも知れない。

今日は斗南藩の校正である。
従来、斗南藩は失敗だった、
薩長藩閥政府の見せしめだった、
という見方が圧倒的だった。

その部分を考察した。
移住した人はよく頑張ったように思う、

広沢安任は牧場を開いたし、
三沢や八戸の町長や市長も輩出した。

主君容保は「向陽処」を目ざせといった。

陽の当たる大地である。
日本列島最北端の大間にその書がある。

世の中、否定的にばかり見てはいけない。
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2006年1月8日(日) 産経新聞読書欄
午後、コンビニに出かけて産経新聞を買って驚いた。

会津戦争全史
  不可解な維新の真実に迫る

とおおきな見出しで、読書欄に私の「会津戦争全史」の書評が出ていた、

本の写真も入り、迫力満点であった。

その直後に東京の知人から
新聞を読んだと電話があった。

朝日に続いて産経、
ありがたいことである。

筆者は作家の大野芳さん、
産経新聞と大野さんに御礼を申し上げたい。
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2006年1月8日(日) 日曜日の午後のひと時
ものを書いている人間は、絶えず次はなにを書こうかと考えている。

それは編集者との戦いでもある。

「ううん、どうでしょうか、独創性がありませんね」

「面白いけで、類似本がありますね」

「営業がなんと言うかなあ」

「やってみますか、やりましょう」

のいずれかである。

だから本にまとまるまでは、結構、大変なのである。

いま構想を練っているのは、二つある。

ひとつは箱館戦争である。
これをどう描くか、切り口をどこにもって行くか、
思案中である。

もうひとつは
武田信玄である。大河ドラマがらみである。

以前、上杉謙信にからむ「越後風雲録」という本を書いた。

そんなこともあって川中島を中心に
武田と上杉の攻防戦を、これまでとは違う角度で書きたいと思っている。

問題はどこがどう違うの、
である。

まだまだ人に話せる段階ではない。

日曜日の午後のひと時である。
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2006年1月7日(土) 今日はいい天気ですね
今年はどこに旅をしようか、
それを考えている。
発想の転換には旅が一番である。

国内は夏に知床半島に行くことは決めている。

まだ行ったことがない未知の自然である。
外国は南の島がいいと思っている。

といいながら
あわよくば本にしようとひそかにねらっている部分もある。
友人の佐竹さんが
太平洋戦争の激戦の島がいいという。

バカンスなのに太平洋戦争は重いが、それもわるくはないかもしれない。

安達太良の白雪を眺めながら、そんなことを考えている。

すると時間がどんどん経過する。

やっぱり原稿だ。

コーヒーを飲んでまた古ぼけたワープロに向かう。

なにを書いているかは、秘密である。
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2006年1月6日(金) どっちもどっち
という投稿がありました。
なるほど、どっちもどっちかもしれませんね。
ただ歴史観には明確に立場があり、私は東北の人間ですから、あくまでも東北であり、長州でも薩摩でもないのです。
東北の人間の多くは、あの戊辰戦争に、義憤を感じており、世良修蔵を憎んでいることは事実です。
あの戦争はどっちもどっちではなく、明確に仕掛けられた戦争なのです。それが私の歴史観です。
これはご理解いただきたいと思います。

いま南部藩出身の原敬を調べていますが、
「戊辰戦争の仇は俺がうってやる」
というのが原敬の心情でした。

薩長藩閥政治の打倒を目指して政治運動を繰り広げ、
ついに長州閥の元老山県有朋をねじ伏せ、初の平民宰相になるのです。

原敬がなぜ総理の道を目指したか、
その根本は戊辰戦争にあったのです。

政治は権力闘争ですから、負けた者がどうこういったところで、
負け犬の遠吠えですが、あの場合、
会津は明確に被害者であり、決して加害者ではないのです。
戦争を強要され、死にもの狂いで戦った、そういうことだと思います。

戦争は狂気です。
日中戦争、太平洋戦争、すべての戦争で虐殺がありました。日本軍の虐殺も在りましたが、アメリカは原爆まで落としたのですから、これほどひどいことはありません。
これは案外、どっちもどっちかもしれませんね。

さて、会津と長州、
その討論会を今年の夏、あるいは秋に会津若松で開くことを考えております。


これはお互いに自由闊達に話し合う会です。ぜひ、お出かけになり、意見の交換をしませんか。

どっちもどっちなのか、
どこか違うのか、

顔を見ながら話し合う、これが大事です。
夜は酒を酌み交わす。

そんな会を持ちたいのです。

日本海軍、創設期の頃、士官の多くは幕府海軍と薩摩や長州などの海軍の出身者だったそうです。
会津出身の水兵が記録を残しているのですが、
函館の港に入ったとき、双方で五稜郭にでかけて宴会をしたそうです。

大いに盛り上がったとありました。
ともに戦った相手は案外、そうなのかもしれません。
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2006年1月5日(木) ジャズピアニスト安井さち子さんの新年の挨拶
2006/1/1  新たな気持ちで…

あけましておめでとうございます!

2006年がスタートしました。

私、「安井さち子」も新たな気持ちで頑張る所存です。

2006年から、新しいマンションに引越しし、新しい家具、そして、新しい携帯電話で、環境も、持ち物も変えて、ステップアップした安井さち子です!

そして、新しいCDもリリースされます。

そして新しい音楽仲間や、新しい人間関係も、出来たらいいなぁ…と思っています。

3月には、千代田区立内幸町ホール(200人収容)、紀伊国屋ホール(420人収容)があります。

今までのライブハウスでのライブはもちろん、大きなホールでのコンサートも積極的に行っていきたいと思っています。

2006年の年末には、笑って過ごせるように、頑張ります。

2006年、私の音楽で皆様の幸せをお届けできますように、そして、みなさまが健康で素晴らしい一年でありますように、お祈りしています。

2006年も「安井さち子」をどうぞよろしくお願いします。

2006年元旦

安井さち子

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この人、なかなかのライターです。
ホームページを時おりご覧下さい。



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2006年1月4日(水) 歴史の勉強の方法
歴史をどのような方法で勉強するか。
これは簡単なようで結構、難しい。

たとえば会津戦争を勉強しようと思ったら
まず会津図書館に出かけて文献目録を自分でつくることである。
研究雑誌まで目を通すことである。

周辺地域から探ることも大事である。
猪苗代、喜多方、田島、只見、あるいは郡山、各地の市町村史にも目を通すことである。
すべて自分でやる、これが肝心である。

研究者の論文に当たることも大事である。
奥羽越列藩同盟になると、東北大学、あるいは岩手大学、山形大学などの雑誌に論文が出ていることがある。

とにかく中途半端ではその道の探求者になることは無理である。

次に自分の研究である。
白虎隊なら白虎隊の編成、実際の戦闘、装備、指揮官、彼らの思想、すべて調べあげなければならない。
大変ですよ。
私はあまりすすめることはしない。

もうひとつのアプローチは
趣味として楽しむことである。
なにもすべての人が研究者や評論家になる必要はない。

歴史を楽しむ、これこそが、もっともいい方法なのである。
その場合、大事なことは
自分の見方を持つことである。
土方が好きだ、
榎本がいい、
どこが好きだ、
それでいいのである。

戊辰戦争研究会はこの方式である。
私自身、そのタイプであり、学会のようにほじくりまわすことは好きではない。

気楽にのんびりと勉強する。
これが最高である。
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2006年1月3日(火) 校正は重い
今日の午後は新聞を読んで過ごした。
斗南藩の校正があるのだが、一向に進まない。
人間は機械ではないので、計算通りにはいかない。
そこで校正をいったん中断し、新聞を読んだ。

おかげで頭が軽くなった。
校正はかなりしんどい作業である。
自分としては書く方が楽である。
リズムが取れるからである。

それに対して校正は重い、重い作業が続くので、非常に疲れる。
人間は完璧ではないので、誤りがかなりある。

どうしてこうも違うのか、そう思うと憂鬱にもなってくる。
それが校正である。

明日、明後日には
何とか終わらせたいものである。
そう思いながら新聞を読んだ。
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2006年1月2日(月) 品格のなさ
新聞各社の元旦の社説を読んだ。
朝日が武士道をとりあげ、品格を競いたいと訴えていた。

数学者藤原正彦氏の『国家の品格』はいまベストセラーである。

確かにいまの日本は品格がない。
構造設計を偽造し、そこに政治家の影もあり、
殺人事件は多発し、最悪の事態である。

いま私が書いている
『女たちの会津戦争』
これほど品格のない国内戦争も稀有である。

会津の女性には品格があった。
全面的に賛成はしないが、敵に辱めを受けてはならぬと集団で自決した。

男には負けぬと切り込んだ女性もいた。
子どもを守り、必死の逃亡を図った女性もいた。
それぞれにすごい。
下手な男よりも女性の方が強かった。
それが会津軍だった。

品格がまったくなかったのは官軍である。
あえて官軍の名前を使うのは、天皇の軍隊だからだった。
天皇の軍隊、イコール国軍、正義の軍隊と言う触れ込みだった。

会津の女性はその実態に愕然とし、これが官軍かと、悔しがった。
官軍には女分捕り隊と略奪隊があって、近在近郷を荒らしまわった。

捕まえた婦人を慰安婦とし、炊事、洗濯、看護をさせた。
略奪部隊は食料、衣類、家具、牛、馬、鶏、何でも略奪した。

戦争が終わったというので、ほっかぶりをして会津若松にでかけた勇気ある婦人は
泥棒市が開かれ、何でも売っているのを目撃した。
至るところに博打場があり、兵士は博打に興じていた。

何のためにこんな連中と戦争したのか、
負けたことが悔しいとその女性は泣いた。

日本人には品格が欠如していた。
板垣退助、
伊知地正治、
最後の段階では
山県有朋も会津に来ていた。

彼らはすべて黙認した。
日本陸軍の源形がこれだった。

何度も言うようだが、日本の近代史はスタートから間違っていた。
会津戦争の再検証が必要なのである。
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2006年1月1日(日) 謹賀新年
いい天気ですね。
仕事場から安達太良山の白雪がくっきり見える。
風一つない穏やかな正月である。

いまなにをしているかといえば、
雑誌の原稿を書いている。
仙台に「とうほく財界」という月刊誌があり、そこに「東北旅紀行」を連載している。

すぐ締め切りが来てしまう。
昨年秋、青森に何度か出かけ、昨今はもっぱら青森を書いている。

今日は三内丸山遺跡である。

これほど痛快な遺跡はない。

なんと言ってもスケールの大きさである。縄文の遺跡としては国内最大級である。

吉野ヶ里も出雲大社も見たことがないので、私にとってはここが日本最大のものである。

広い、広い、高さ17メートルの巨大柱があり、その上には大神殿があったかもしれない。

なにせここには夢がある。
東北は田舎という先入観をぶっ飛ばし、
世界に通じる文明があったのだから、これが痛快といわずになんと言うか。

いま、そう書いている。

正月元旦にふさわしい原稿である。
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