星亮一 今日の一言

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2008年3月31日(月) 波紋広がるTBS の不快放送
河北新報も今朝の朝刊で大きく報じました。

これはTBSの放送幹部の歴史認識の欠如によるもので、

謝罪、訂正を求める声はさらに高まると思います。

私も訂正を強く求めたいと思います。

あの戦争で会津人は三千人以上の死者を出し、

それは惨憺たる戦争でした。

し尿処理の問題は若干はあったことが事実ですが、

それが開城の理由では、まったくありませんでした。

会津若松の人々にとって、あれは聖戦でした。それを茶化すセンスは、

まさしく、会津人を愚弄するものです。

もっと歴史を大事にしてください。

これは会津人だけではありません。

一緒に戦った東北、越後の人々の気持ちでもあります。

このままでは系列局のスポンサーを降りる人も出てくるかもしれません。

TBSの対応は極めて遅いですね。

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河北新報の記事

会津人を愚弄、誤解「ならぬ」 市「不快」TBSに抗議

 TBS系列のテレビ局が放送したクイズ番組で出された戊辰戦争の問題に、

福島県会津若松市民から「史実と異なる内容で、不快感を覚えた」との声が噴出し、

市などがTBSと番組制作会社に謝罪と訂正放送を求める抗議文を送りつけた。

菅家一郎市長が「朝敵として戦わざるを得なかった会津藩を愚弄(ぐろう)し、

すべての会津人の心情を踏みにじった」と批判するなど、地元は激しく怒っている。

 番組は2月16日に全国放送された

「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」。

旧幕府軍が若松城(鶴ケ城)を明け渡した理由を尋ねる問題で、

「ふん尿が城にたまり、不衛生だったから」という答えが正解とされた。

 抗議文は、開城の理由を「ほかの藩からの応援の望みが絶たれたことに加え、

物資の枯渇、傷病兵の増加などいくつかの要因が重なったためだ」と主張。

「義を貫く会津武士道に生きた先人とすべての会津人の心情を踏みにじるもの」

と厳しく指摘した。

 番組で司会者が「旧幕府軍が城から逃げ出した」と表現したことについても

「降伏して城を出たのであり、『逃げ出した』というのは誤りだ」と猛反発している。

 抗議文は3月26日付で、

市と市観光公社、会津若松観光物産協会の連名で出された。

市によると、放送前に番組の内容を知り、制作会社に再三、見直しを求めたが、

受け入れられなかったという。

 放送後には、市民から「抗議すべきだ」とのメールが市に寄せられ、

市議会でも取り上げられた。菅家市長は「歴史をねじ曲げ、

視聴者に誤解を与えたことに憤りを覚える」と語気を強める。

 TBS広報部は「抗議文の内容を確認している段階」と話している。

2008年03月31日月曜日
△top
2008年3月30日(日) 東京は桜満開
東京はどこも桜が満開でした。

昨日、吉祥寺で講演会があり、周辺の桜を見てきました。

少し肌寒いですが、すっかり春爛漫です。

吉祥寺の商店街はどこも人でいっぱいでした。

東京は各駅ごとに商店街があり、買い物、食事、ぶらぶら歩き、

十分、その周辺で満喫できる仕組みになっているのは、

とてもいいですね。

書店に立ち寄ったら

「偽りの明治維新」

6刷りの本が、平ずみになっていました。

売れているのかな。

嬉しかったですね。

明後日から4月です。

「偽りの日米開戦」

、締め切りは15日、

カウントダウンの毎日です。
△top
2008年3月29日(土) TBS番組に会津若松激怒
TBS番組に会津若松激怒、鶴ヶ城開城「不衛生だから」?
 
福島県会津若松市は28日、東京放送(TBS)系のクイズ番組で

戊辰(ぼしん)戦争時の若松城(鶴ヶ城)のイメージを損なう放送があったとして、

TBSと番組制作会社に24日付で抗議文を郵送したことを明らかにした。

 抗議文によると、番組は2月16日に放送された

「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」。

若松城について「旧幕府軍が城を明け渡したとんでもない理由とは」

との出題に対し、「糞尿(ふんにょう)が城にたまり、その不衛生さから」

が正解とされ、理由のすべてのように放送されたとしている。

 菅家(かんけ)一郎市長は記者会見で、

〈1〉他藩からの応援の望みが絶たれた

〈2〉1か月に及ぶろう城による傷病兵の増加や物資の枯渇――

など様々な要因が重なった結果と説明。

「視聴者や市民らに著しい誤解や不快感を与えた」とし、

市民への謝罪と訂正を求めている。

 TBS広報部の話「抗議文が届いたかどうかを含め、内容を確認している」

(2008年3月28日13時44分 読売新聞)
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ううん、放送は事実とは異なりますね。

し尿処理の問題はありましたが、

城内は広いですから、

何とか処理したと思います。

さて今日は武蔵野市で講演です。

日曜日に帰ります。

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今日の日程

第152回幕末史研究会、

午後2時、武蔵野商工会館4階、吉祥寺駅中央口徒歩5分

講師、星亮一

演題、義に死すとも不義には生きず

 ー会津藩主松平容保の決断ー

星の講演の前にミニ講演会があります。

講師 遠藤由紀子、昭和女子大女性文化研究所特別研究員

演題 会津藩首席家老梶原平馬と水野貞

定員90人、先着順

会費1500円

幕末史研究会

事務所、武蔵野市中町2−21−16

電話0422−51−4727

この日、八重洲ブックセンター主催のサイン会が会場であります。

星と遠藤がサインします。
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2008年3月28日(金) 高校野球、女子も出場検討を…
高校野球、女子も出場検討を…文科相が高野連に要望
3月28日11時21分配信 読売新聞

 渡海文部科学相は28日、閣議後の記者会見で、

日本高校野球連盟の規定で女子が公式戦に出場できないことについて、

「アメリカでは一緒にプレーしている事例もある。男女の体力差を認めたうえで、

高校野球関係者の中で今後よく考えることではないか」と述べ、

日本高野連は女子の公式戦出場について検討すべきだとの考えを示した。

 第80回記念選抜高校野球大会に出場している華陵高校(山口)

の女子部員の高松香奈子さんは、

女子部員の大会参加を認めない日本高野連の規定があるため、

大会前の甲子園練習にすら参加出来ず、

結局、開会式の入場行進で同校のプラカードを持った。

 文科相は「私も(開会式で)グラウンドに立って感激した。

プラカードを持っても感激するかもしれないが。

練習くらいは女子を入れてあげたらどうか」と述べ、

練習参加を認めるべきとの認識を示した。

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賛成です。

大学野球ではありましたね。

トップバターは俊足の女子選手、そいう試合を見たいですね。
△top
2008年3月27日(木) どうなってるんでしょうかね
チベット暴動>西側メディアを「わい曲・虚偽報道」と非難
3月27日10時47分配信 毎日新聞


【中国総局】中国国営新華社通信(電子版)によると、

中国の報道関係者による全国組織「中華全国新聞工作者協会」が26日、

チベット自治区ラサで起きた暴動に関する西側メディアの報道について、

具体的な事例を挙げて「わい曲・虚偽報道を行っている」と

強く非難する声明を出した。

 声明は、(1)西側の著名メディアは、救急車が映っている映像に

「ラサに多くの軍隊」との説明をつけて「騒乱が続いている」と報じた

(2)あるメディアは、事実を誇張して「チベット人数百人が殺害された」

と報じた−−などと指摘。

 また協会は、中国のジャーナリストの職業倫理の発展に努力を続けている

と主張したうえで、「その一方で、一部の外国の同業者は、

真実性、客観性、公正性という基本的なジャーナリズム精神に反している」

と強く批判した。ただ、「虚偽報道を行った」とする報道機関を名指しはしていない。

ーーーーーーーーーーーーーー
であれば報道人を入れることですね
--------------

「チベットに自由ない」僧侶ら現地入り外国メディアに直訴
3月27日13時23分配信 読売新聞

【北京=牧野田亨】チベット族による大規模暴動が起きた

中国チベット自治区ラサで27日、中国政府に指名され現地入りしている

外国メディアの取材団に対し、地元の僧侶グループが

「チベットに自由はない」などと訴える直接行動に出た。

 取材団に加わっているAP通信が伝えた。

 中国当局の監視を破り、外国メディアにチベット族の

考えを訴えようとしたようで、僧侶たちは

「逮捕されるかもしれないが、それでも構わない」と話したという。

 AP通信によると、取材団は27日午前、ラサ中心部のチベット仏教寺院

ジョカン寺(大昭寺)を訪問。

そこで30人前後の若い僧侶が現れ、事前に当局が設定していた取材を遮った。

 僧侶のうちの1人は「チベットに自由はない」と大声で叫び、泣き始めた。

また、別の僧侶は、中国政府が暴動の黒幕と

非難するチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世について、

「中国当局は我々に対し、ダライ・ラマを非難するように要求するが、

それは間違っている。暴動と全く関係ない」と訴えた。
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2008年3月26日(水) 昭和史発掘
松本清張の本を読んでいる。

軍閥の暗闘、五・一五事件、相沢事件、ニ・ニ六事件、

これらをあざやかに描いている。

才能のすごさを感じるシリーズである。

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この中で私が注目しているのは相沢三郎である。

相沢事件と呼ばれる永田鉄山軍務局長斬殺事件を起こす。

北一輝の思想的影響を受けていたものとみられる。

妻の米子との間の娘は陸軍士官学校44期の志村陸城中尉に嫁ぐ。

とフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

にある。

実はこの人物、私の高校の先輩なのである。

なぜなぜ、それを解明したいと思っている。

相沢三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
相沢 三郎
1889年9月6日 - 1936年)7月3日

生誕地 福島県白河町
最終階級 陸軍中佐
賞罰 死刑 (相沢事件)

相沢 三郎(あいざわ さぶろう、明治22年(1889年)9月6日 -

昭和11年(1936年)7月3日)

は、日本の陸軍軍人。歩兵将校として階級は陸軍中佐に昇るが、

相沢事件と呼ばれる永田鉄山軍務局長斬殺事件を起こす。

北一輝の思想的影響を受けていたものとみられる。

[編集] 経歴
旧仙台藩士で裁判所書記・公証人となる相沢兵之助とまき子の長男として

福島県白河町(現白河市)に生まれた三郎は、

一関中学(現岩手県立一関第一高等学校)、仙台陸軍幼年学校・

陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入り、

明治43年(1910年)5月28日に卒業する。卒業期は第22期で、

同期には第2航空軍司令官の鈴木率道中将や、第3軍司令官の村上啓作中将のほか、

原田熊吉中将・寺倉正三中将・北野憲造中将等各軍司令官や

企画院総裁となる鈴木貞一中将がいる。

同年12月26日陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第4連隊付を命ぜられる。

大正2年(1913年)12月中尉に進み、

大正7年(1918年)6月台湾歩兵第1連隊付に移る。

大正9年(1920年)8月大尉に進級し、同9月陸軍戸山学校教官に就任する。

大正14年(1925年)5月陸軍士官学校付に移り、

大正15年(1926年)8月歩兵第13連隊中隊長を命ぜられる。

昭和2年(1927年)7月少佐進級と共に歩兵第1連隊付に移る。

この時の任務は所謂「配属将校」で、日本体育会体操学校(後の日本体育大学)

に配属され学校教練を担当した。昭和6年(1931年)8月歩兵第5連隊大隊長に移り、

昭和7年(1932年)8月から歩兵第17連隊付となる。

昭和8年(1933年)8月陸軍中佐、歩兵第41連隊付。

昭和10年(1935年)8月1日台湾歩兵第1連隊付で台北高等商業学校配属将校となる。

同年8月12日永田軍務局長を刺殺する。同23日待命となり、

同年10月11日予備役編入となる。翌1938年5月7日第1師団軍法会議

に於いて死刑判決が下される。上告するも同6月30日棄却され、

同年7月3日、代々木衛戍刑務所内で銃殺刑に処される。

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彼の行動はなんだったのか。
△top
2008年3月25日(火) 流山集会概要が決まりました。
方谷です。渋沢殿とで、新撰組流山隊事務局と打ち合わせをしました。
まだ、概要段階ですが紹介します。

流山集会 新撰組流山隊・戊辰戦争研究会 共催
予定 日時 6月28日(土)〜29日(日) 

1日目 13:00〜 流山商工会館
基調講演 星亮一
記念講演 松下英治
発表1  菊池牧人(龍馬会)
発表2  岩瀬隆(戊辰研)
その他
懇親会 割烹「柳家」 風情のあり和邸宅
宿泊 新松戸周辺

2日目 9:00〜 解散15:00頃
流山散策 ガイド 新撰組流山隊
昼食   勇弁当、勇丼
座談会  流山福祉会館
     新撰組流山隊メンバー・戊辰戦争研究会メンバー

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私は戊辰戦争と新撰組を語りたいと思います。
△top
2008年3月24日(月) 今日は5・15事件を書いている
 実行犯・三上卓らが車からまいたビラ全文公開です。
 
日本国民に激[檄]す!


 日本国民よ!

 刻下の祖国日本を直視せよ

 政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや
 
 政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と 

更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と 軟弱外交と堕落せる教育と

 腐敗せる軍部と 悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民労働者階級と

 而して群拠する 口舌の徒と……
 
日本は今や斯くの如き錯騒[綜]せる堕落の淵に死なんとしてゐる

 革新の時機!! 今にして立たずむば日本は滅亡せんのみ

 国民よ
 
武器を執つて立て! 今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外に何者もない
 
国民諸君よ!

 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!

 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!

 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 
農民よ、労働者よ、全国民よ……  
   
祖国日本を守れ

 而して……
 
 陛下聖明の下、建国の青神[精神に]帰り国民自治の大精神に徹して

人材を登用し 朗らかな維新日本を建設せよ
 
民衆よ!
  
この建設を念願しつゝ先づ破壊だ!
  
凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ!
  
威[偉]大なる建設の前には徹底的な破壊を要す
  
吾等は日本の現状を哭して赤手世に魁けて諸君と共に昭和維新の

炬火を点ぜんとするもの
  
素より現存する左傾右傾の何れの団体にも属せぬ
 
日本の興亡は吾等(国民前衛隊)決行の成否に非ずして吾等の精神を持して

続起する国民諸君の実行力如何に懸る
  
起て!
 
 起つて真の日本を建設せよ!


昭和七年五月十五日
陸海軍青年将校
農民同志

(『検察秘録 五・一五事件』より)

彼らはこのような主張で、現職の総理を射殺した。

彼らは日本国内を恐怖のどん底に陥れた。

にもかわらず死刑ではなかった。

ほどなく彼らは出獄し、軍隊に戻った。

無法国家、日本はそいう事態になった。

これぞ日本崩壊の始まりだった。
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2008年3月23日(日) 日曜日あれこれ
うっすらと雲があるが好天気である。

新聞を見てもこれといったニュースはなかった。

平凡な日曜日である。

いま八路軍、中国共産党の軍隊のことを書いている。

「偽りの日米開戦」

の執筆である。偽りシリーズを出すことになったのだ。

昭和十年代、日中戦争は中国全土に広がった。

南京事件が起こったのは、昭和十二年である。

日本軍は徹底的に八路軍を虐殺した。

広場に集めて機関銃で撃ち殺す。鎖で数珠繋ぎにして揚子江に落とす。

倉庫に入れて火をつける。

それはすさまじかった。

ただ中国は広いと思ったことがある。

北京では、八路軍が嫌いな市民が結構いて、日本軍に協力していた。

私有財産を没収する共産党は嫌いだというのだった。

最終的に地主や金持ちは皆財産を没収されてしまい、

中国は共産主義国家になるのだが、全国民が日本軍を嫌っていたと思いきや

そうでもない人がいたことは、

ふうん

という感じだった。

さて大好きなプロ野球、

楽天はどうしたのだろう。

早くタイに持ち込んで欲しい。

相撲はどっちが勝つのか、

朝青龍を応援しているのだが、どうなるのかである。

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万歳、朝青龍が優勝
△top
2008年3月22日(土) 旧満州列車の旅
旧満州列車の旅

司馬遼太郎の青春、旧満州陸軍四平戦車学校跡を尋ねるために

9月29日から10月3日の予定で旧満州に出かけます。

列車で移動するのが目玉です。

旧南満州鉄道での移動です。限定10人、日程は、この欄の上の方をごらんください。

司馬遼太郎は四平で、戦争を考えました。

そこに立って、日中戦争から太平洋戦争を考えたそうです。

司馬フアンの方、ふるってご応募ください。

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司馬遼太郎年譜

1940年 〔昭和15年〕ー17歳
 3月 中学4年修了で旧制大阪高等学校を受験したが不合格。

1941年 〔昭和16年〕ー18歳
 3月 旧制弘前高等学校を受験したが不合格。

1942年 〔昭和17年〕ー19歳
 4月7日 天王寺区上本町8丁目の国立大阪外国語学校(現、大阪外国語大学)
 蒙古語部に入学。17人のクラス。ロシア文学と史記列伝に傾倒し、「寒外の民族」の集団としての運命に強い関心を抱く。1年上級の印度語部に陳舜臣がいた。

1943年 〔昭和18年〕−20歳
 11月22日 大阪外語学校より仮卒業証書を授与される。(10月に理工課系統
 及び教員養成語学校学生の他は徴兵猶予停止)。
 12月 1日 臨時徴兵検査により中部第49部隊(兵庫県加古川市青野ヶ原の
 戦車第19連隊)に幹部候補生として入営。

1944年 〔昭和19年〕−21歳
 4月 満州の陸軍四平戦車学校に11期生として入校。
 9月22日 大阪外事専門学校(3月に校名改称)蒙古課を卒業。
 12月 四平戦車学校を卒業、見習士官として旧牡丹江省寧安県石頭の戦車第一
 連隊に配属。 第5中隊(1942年6月発令の軍令42号により新設の砲戦車中隊)
 の配属、第3小隊長。

1945年 〔昭和20年〕ー22歳

ーーーーーーーーーーーーーーー

司馬は2回、旧制高校の入試に落ちたわけです。

それがよかったんでしょうか。

弘前高校に進学していたら、どうだったのかな、

津軽三味線の世界、その後の司馬はなかったと思います。

外語だから司馬遷の世界に出会ったわけです。

人生、いたるところに青山ありです。
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2008年3月21日(金) 今日は仕事に忙殺
昨日は腰痛で寝ていました。

今日は超多忙、

南雲忠一の校正と野口英世の写真の件で、

出版社と電話、フアックス、メールのやりとりで、午前中は忙殺された。

午後も続き、その間に東京から編集者が見え、テレビ番組に関する本の

出版の打ち合わせがあった。

これを整理して、処理するには、冷静さが必要、同時に勢いも必要、

残業処理をして、いっぱい、飲みにで掛けよう。

といっても私はあまり飲めない。

生ビール1杯、焼酎水割り3杯、

そんなところである。
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2008年3月19日(水) チベットに取材班を入れるべし
チベット情勢は混沌としている。

取材をシャットアウトしている中国の姿勢は、いささか合点がいかない。

世界に事実を公表すべきではなかろうか。

以下は今朝の毎日新聞である。


【ダラムサラ(インド北部)栗田慎一】

チベット仏教最高指導者のダライ・ラマ14世は18日、

チベット亡命政府があるインド・ダラムサラで記者会見し、

中国のチベット人による暴動がさらに拡大し収拾不能となるなら、

「(チベット指導者としての地位を)退位する」と述べた。

さらに「暴力にかかわるな」と訴え、支持者や信者に非暴力を貫くよう求めた。

 ダライ・ラマは中国側の「暴動はダライ一派の扇動」との非難を否定する一方で、

中国政府とのこれ以上の関係悪化を食い止める姿勢を示したものとみられる。

 ダライ・ラマは、チベットの中国からの独立は現実的ではないと述べ、

「たとえ1000人のチベット人が命を犠牲にしても(独立を)助けることはない。

暴力は自殺行為だ」と訴えた。

また「反中感情をこれ以上強めてはならない。

我々は中国と良い関係を築き、ともに生きていかねばならない」と述べ、

対話を通し中国との共存を探るべきだとの考えを強調した。

 また、ダラムサラに拠点を置くチベット亡命政府の報道官は18日、

中国甘粛省の甘南チベット族自治州瑪曲で同日朝にデモ隊と治安当局が衝突し、

デモ参加者19人が射殺されたと述べた。AFP通信が伝えた。

 チベット自治区ラサで大規模な暴動が発生した14日以降、

亡命政府が公表した死者数は計99人となる。

最終更新:3月18日22時35分

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私は列車でラサに出かけたいと思っていたのだが、

これでしばらくはだめに違いない。

ラサには一度、出かけている。

高山病にかかり取材ができなかった。それを挽回しなければならない。

来年は出かけたいと思っている。
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2008年3月18日(火) めんごつうしん 
米沢のおけいさんから、下記のめんごつうしん  vol,5 発行 めんご舎

が今日、送られてきました。少し前、今年正月の通信のようです。

▼メリークリスマス!  あけましておめでとうございます 
  寒中お見舞いもうしあげます

 と、あいさつのおたよりをたくさんいただく季節です。

その中で印象に残るお便りがありました。ひとつは歴史l作家星亮一氏のもの。

氏はすこし前に「おれの命はあと一年」といっておられたから、

「そろそろ?」と思ったのに、年賀状にはなんと、

これから書きたいテーマがならべてあったのです。

これが作家魂というものなんだな、と思いました。

私なんか、何年先のことをおそれて、もう「まとめ」を考えていたのに、

 「まけた!」という感じです。

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へえ、全然、覚えていません。

今年で終わりというのは私の口癖です。

そのうち、本当になったりして、その時はその時です。

でもいやだなあ。


▼読者を子供としたのとは矛盾しますが、こどもの本の読者は、こどもとは限らず、

おとしよりにも絵本がいいのではないかと思うのです。絵本は疲れません。

なぐさめてくれます。いろいろな色の絵を見ることは脳を刺激し、

いわゆる脳トレになります。ヤンママたちが絵本をとおして仲間づくりをするように、

老人ホームでよんだり書いたりする仲間ができて,

孤独がいやされるのではないかと思うのですが・・・。

▼『めんご』創刊時から無理に読者になっていただいたWさんから、

宮沢賢治の最期の手紙のコtピーをいただきました。死の約二週間前のものです。

あとから気づいて驚いたのは(私はなるべく驚くようにしています。

脳トレのため)は、賢治の手紙が、ノーベル賞詩人(わたしにとっては

『キャッツ』を書いた人)のエリオットが絶賛したという、

詩人キ−ツの最期の手紙を思わせたからでした。

それも「また書くからね」と言外に思いをこめているという感じでした。

おそらく賢治もキ−ツも、これが最期と思いながら、相手を思いやって、

わざとなんでもないふりをしたのだ、ということでしょう。

 私はそんな手紙書けないし、あまりもらいたくもありませんが・・・。

▼TVドラマ『鞍馬天狗』を視ました。杉作という子役も、

まことに重要な役目をしています。鞍馬天狗という架空の世界の住人を、

現実界につれてくる、という。

 先にいったヤンママたちも子供によって読み聞かせとか

PTAとかコミニティにはいれるのでは? 

わたしだってチルドレンウォッチングで生きる勇気をもらっていたという

時代がありました。

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以上です。

また連絡があるでしょう。

「南雲忠一」の校正お見舞いということでした。

その校正、恐るべしです。

初校が終わり、今日、出版社に入り、次ぎが再校です。

お手柔らかにね。
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2008年3月17日(月) チベット人は可哀想だ
死体数えきれず」 ラサ 当局、一軒ずつ捜索
3月17日8時1分配信 産経新聞
 【北京=野口東秀、矢板明夫】

「あいつら(デモ隊)は狂っている」

四川省の衝突で、現地の警察官はロイター通信に話した。

チベット自治区ラサでの騒乱と連動する形で抗議行動は各地に飛び火し始めた。

チベット人はチベット自治区ほかに四川、青海、雲南、甘粛などの各省に

またがる形で人口が約540万人とされている。

当局が厳戒態勢を敷いてもチベット族の居住区は広範囲にまたがり、

連鎖騒乱を未然に防ぐことは難しく、一層の広がりを見せるとみられる。

 「ダライ・ラマの帰国を!」「自由を」「チベットの独立を」−。

 チベット支援関連団体のサイトなどによると、

四川省内のアバ・チベット族チャン族自治州内のアバ県

(約6万人の人口のうち9割がチベット人)でチベット寺院の僧侶ら

数千人が独立支持のスローガンを叫びデモ行進した。

阻止しようとした武装警官隊が発砲し、僧侶を含む7人が死亡したという。

 ロイター通信によると、アバ県では、チベット人約200人が

警察署や店を襲撃、店だけでなく、警察車両やトラックに放火、

警察官数人も大けがを負った。デモ隊らは火炎瓶や石を投げつけ、

これに対し、100人を超える武装警官隊らは催涙弾などで鎮圧、

5人を逮捕したと伝えられる。

 同団体などによると、甘粛省夏河県でも15日、

チベット寺院やその周辺で数百人規模の抗議行動が発生、

同じように治安当局は催涙弾などで解散させた。

 青海省の黄南チベット族自治州同仁県などでも16日、

300人ほどのデモが発生、僧侶のデモだったが

住民が次々と加わり当局者と衝突した。死傷者は不明だ。

同省平安県石灰窯のダライ・ラマ14世の生家周辺は当局が完全封鎖のもようだ。

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なんということだ。

実に痛々しい。

                   ◇

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2008年3月17日(月) 速報、「戊辰戦争140年in七ヶ宿」開催要項決まる。
「戊辰戦争140年in七ヶ宿」開催要項(案)

1.趣 旨  慶応4年(1868)春、七ヶ宿の関本陣で仙台藩、米沢藩、

会津藩等の重臣による戊辰戦争の方向を決める重要な会談が行われ、

奥羽越列藩同盟の結成に繋がった。その結成から140年となる今年

七ヶ宿で戊辰戦争と街道を活用した地域づくりフォーラムを開催する。

七ヶ宿に参集するため各藩の武士が駆け抜けた羽州街道(七ヶ宿街道)や奥州街道、

板谷街道、米沢街道、二井宿街道と七ヶ宿の関わりを検証するとともに、

街道が持っていた地域交流のエネルギーを“現在のみち”に置き換え、

街道を活用した地域づくりを模索するもの。
“古のみち”である街道と“現在のみち”である道路をリンクさせ、

風景街道や広域交流への取り組み、地域資源の発掘、食や祭りなどの

文化発信という具体的な活動を提案し、

七ヶ宿における交流人口の増加や地域活性化、

町が持つ魅力の再発見につなげたいと考えている。

概要は読者のページ
       
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2008年3月16日(日) 校正恐るべし
この二、三日、南雲忠一の校正をしている。

初校でいつも思うのだが、なんてへたくそな文章だろということである。

これは私の文章かいな

いつもそう思う。

原稿を書いているときは、それなりに、書いているのだが、

初校で見るとひどいのである。

ダブり、誤字、事実誤認、いっぱい出てくる。

校正者からもいっぱい指摘がある。とても一人では見切れない。

もうバサバサと削り、書き加える。

その作業は、魂をつめて、飯を食べるのも忘れて、一心不乱に行う。

つくずく思うのだが、物書きは職人だということである。

決して派手な世界ではない。

神経を極端なまでに使い、体はバリバリに疲労し、

目は真っ赤になる。

そういう世界なのである。

それだけに本が出来上がったときの

喜びはある。

とにかく頑張るしかない。日曜日などもう何ヶ月もない。
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2008年3月15日(土) 今日はNHK文化教室です
会津の籠城戦です。
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2008年3月14日(金) 蒋介石
今日は「偽りの日米開戦」を書きながら蒋介石を考えた。

いま蒋介石は評判が悪いようである。

たしかにこれ見よがしに、晩年の蒋介石は台湾のあちここちに銅像を作りすぎた。

英雄が陥りやすい弊害である。

終生のライバルだった毛沢東、彼も銅像をつくったが、もう消えつつある。

今日、あちこちにあり過ぎるほどあるのは北朝鮮の金日成の銅像だろう。

いつの日か、これもなくなるのだろうか。

さて蒋介石、彼は軍人になろうと日本の陸軍士官学校の入学を希望し、

日本に留学した。しかしなかなか入学を認めない。

予備校に3年も通う羽目になった。

高田の連隊で二等兵の訓練も受けた。

リンチも受けたらしい。

わざわざ中国から留学してきた青年である。

門戸を開放し、さっさと入学を認めるべきだった。

とても待てないと中国に戻り、孫文の革命運動に加わった。

その後、孫文の後継者となり、国民党の政治、軍事を仕切った。

昭和2年、日中間に横たわる諸問題を話し合うために来日した。

田中首相、犬飼毅、渋沢栄一、頭山満、梅屋庄吉らに会った。

犬飼と頭山は蒋介石の恩師孫文が日本に亡命したとき、

大いに援助した人物だった。

梅屋は長崎の貿易商で、孫文の辛亥革命達成のために

資金援助を行った。現在の金で2兆円といわれる。

このとき、日本は満州に関東軍を送っていた。

張作霖爆殺事件が起こるのは翌年である。

蒋介石は日中関係を何とかしたいと考えた。

しかし田中義一総理との会談で平行線をたどり、

日中戦争へと走り出す、

これが歴史のターニングポイントだった。
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2008年3月13日(木) 南雲忠一,機動部隊を率いた悲運の提督
5月発刊、

PHP 文庫「南雲忠一,機動部隊を率いた悲運の提督」

目下、校正作業中で、夜も眠れずです。

そこに米沢のおけいさんから祝メール。

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やったあ!

どおりで、今日あたしの気までぬけたような気

がしたんだ。

米沢の人に宣伝するかい?

校正、がんばってくださいね! ^○^

        おけい

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南雲提督は米沢の出身、はい分かりましたではありますが、

日本時間とハワイ時間の取り違え、

南雲提督の心境の描写、山本長官との確執、

山口多聞司令官との行き違い、

微妙な問題が多々あり、初校、これこそ正念場です。

今日は徹夜になりそうです。

ーーーーーーーーーーーーー
ところで、どなたか教えてください。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に関することです。

星 亮一(ほし りょういち、1935年 - )は、日本の作家、歴史家。

宮城県仙台市生まれ。岩手県立一関第一高等学校→東北大学文学部国史学科→日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程修了。

福島民報社記者、福島中央テレビ報道制作局長を経て文筆業へ。東北史学会会員、日本文芸家協会会員、日本ペンクラブ会員。現在は福島県郡山市在住。

戊辰戦争に詳しく、幕末の会津藩を舞台にした作品が多い。

彼の歴史哲学は、海外に於いてアイザイア・バーリン、ジャック・デリダなどビッグネームの哲学者から三木清以来の好評価が与えれられている。

2005年10月、戊辰戦争研究会を発足、主宰する。会でのハンドルは榎本武揚(総裁)。


とあります。

一体全体、アイザイア・バーリン、ジャック・デリダとはどんな方でしょうか。

恥ずかしながら、知りません、
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2008年3月12日(水) 今日はいい天気です。
午前中は、パラオの原稿の補足です。

九州筑後市で暮らす戦場からの帰還者のインタビュー構成です。

午後は日本の国際連盟からの脱退。松岡外相の動き、

夕方は南雲忠一の校正です。

天気がいいので、仕事は順調です。

間もなく正午。

パラオは送稿終了、

昼は最近、パスタにしています。これがナカナカうまい。

スープ、サラダ付きで,ナント500円です。
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2008年3月11日(火) いまが正念場だ、そして驚き、篤姫の手紙
3日間、九州に出かけたので、仕事がたまってしまった。

朝1番でPHP文庫「南雲忠一」の初校が送られてきた。

5日間しかない。

「大変、大変」

ページをめくった。校正者がよく見てくださっている。ありがたい。

「偽りの日米開戦」

午前中、石原莞爾のあたりを書いた。

日米開戦のそもそもの始まりは満州国である。

石原は其れに深くかかわっていた。今日の感覚で言えば、満州占領は

認めがたいものである。がしかし、当時の世界情勢は植民地ありだった。

日本もそこに向かって突っ走った。

満州からリットン調査団、国際連盟脱退、そこに書き進むことになる。

そこになんと、

直江兼続が加わった。来年の大河ドラマの主人公である。

ぜひお願いしますとS社から言われて、

「はい」

と答えた。すべての責任はこちらにある。

複数の仕事をどうこなすか。

そうそう、パラオの原稿の整理もあった。

私にとっては正念場である。

午前、午後、夜とテーマを分けるしかない。

トライしてみよう。

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天璋院の手紙

戊辰戦争研究会、照姫さんの報告


江戸東京博物館で開催している「天璋院 篤姫」展に

行ってきたんです。薩摩には何の興味もない私なので、

大河ドラマは見ているものの

篤姫のことはほとんど知りませんでした。

この展示が素晴らしいのは、素人が見ただけではほとんど読み取れない、

書簡や日記に口語体が添えられており、説明が充実していることです。

斉彬の手紙を見ていると人間の感情はいつの時代も変わらないんだなあ、

と親近感がわきました初めて目にする数多くの展示品のうちで驚いて、

目が釘付けになったものがありました。上野が攻撃され、

戦火を逃れた輪王寺宮は会津に逃れましたが、その宮に天璋院は使者を派遣し、

仙台・会津藩宛に出したという書状です。

書状では上野を攻撃した西軍の行為を「悪逆不法」その行為こそ

「朝敵は申すまでにあらず、神敵仏敵盗賊のような振る舞いである」

と痛烈に批判し、実家の島津家のことも激しく攻撃しています。

そして徳川家を再興させるため、輪王寺宮を盟主として、

格別の忠義の仙台・会津藩に薩摩藩らを「御征伐」してほしい

と依頼しているのです。これには驚きました

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これは大変な手紙です。私は知りませんでした。

これが戊辰戦争の実態でした。

次ぎの本にかならず書きます。
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2008年3月10日(月) 九州から本日、夜帰りました。
明日ご報告いたします。
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2008年3月8日(土) 今日から九州です。
朝7時の電車で東京に向かい、10時の飛行機で福岡へ

筑後に向かい、パラオの戦争の関連取材、

夜は久留米泊、

明日は久留米近郊の小郡で講演です。

古屋作佐衛門と高松稜雲を語ります。

二人は兄弟で、小郡出身、函館戦争を戦いました。

帰りは10日夜です。
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2008年3月7日(金) 中国の対応はまずい
中国製ギョーザで中毒症状

首相の融和姿勢背景? 中国「ゼロ回答」

 中国製ギョーザ中毒事件を受け、日本政府が中国政府に資料提出を求めた

約20項目のうち、中国側回答が製造元「天洋食品」

の消毒剤購入状況など3項目にとどまり、

ほぼ「ゼロ回答」となっていることが6日、明らかになった。

中国は速やかな資料提供を約束し、

温家宝首相も全国人民代表大会(全人代)で

「食の安全強化」を打ち出しているが、

中国側の不誠実な対応が改めて浮上した形だ。

福田康夫首相の中国への融和的な対応も背景にあるようだ。(産経新聞)

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これでどうなるかといえば、誰も中国の餃子を食べないということだ。

分かりきったことなのに

犯行を認めない。

何が背景にあるのだろうか、
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2008年3月6日(木) 朝のドライブ、そしてお茶
さて今日は何を書こうか。

今日は6時に家を出た。最近、朝のドライブをやっている。

車をちょろちょろしか運転しないので、どことなく調子が悪い。

加速、スピード、イマイチである。

そこで郡山南インターから高速に入り、須賀川まで飛ばすことを時折やっている。

今日も高速に乗り入れた。

須賀川までは何キロだろうか。

料金400円、あっといおう間についてしまう。

そこから国道4号線に入り、ゆっくり郡山に向かう。

すっきりしていい気持である。

1月までは日産のスカイラインに乗っていた。

スピードが出すぎるので、やめてしまい、今度はノロノロした頑丈な車に乗っている。

エンジンの音も高く、スカイラインとは大分違う。

新車ではない。年代ものの車である。

いずれ公開しますが、今日はそれしかいえない。

この車も高速にはいってしばらく走ると、滑らかになる。

大体、我が家から駐車場までは、10キロぐらい、15分もあればついてしまう。

調子が出ないはずである。今日は高速を走ったので、

車も生き生きしていた。

それから郡山駅東口の駐車場に車を止め、

線路を越えて仕事場に向かう。

まずお湯を沸かして、お茶を飲む、

これが実においしい。

昨日、仙台の有名なお茶屋さん、菅原園からお茶をいただいた。

先日、仙台で講演し、その主催者が菅原園だった。

いただいたのは九州の八女茶と、金粉茶である。

金粉はまだのんでいない。

八女茶は甘みがあってとてもおいしい。

ありがとうございます。

今日はこんな話です。
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2008年3月5日(水) 郡山もうひとつの戊辰戦争
福島民報、今朝の論説です。

私はここで11年間、記者生活を送りました。いい新聞ですよ。


郡山もうひとつの戊辰戦争(3月5日) 

 郡山市の歴史の1ページがこのほど出版された本で明らかになった。

「隠された郡山の戊辰戦争―今泉久三郎日記より―」(歴史春秋社刊)で、

郡山文化協会理事の七海晧奘(こうそう)さんが丹念に調べ上げて執筆した。

戊辰戦争で郡山宿が戦火に巻き込まれ、

家屋が焼失して多数の死傷者が出たという事実は

これまであまり知られていなかった。

出版を機に慰霊碑などの建立を検討してはどうだろう。

 戊辰戦争といえば会津、2本松の武士道に注目が集まる。

七海さんは江戸から明治という時代の大変革に巻き込まれた宿場町郡山

と商人にスポットを当てた。郡山市歴史資料館が収蔵している

「今泉久三郎日記」をもとに3年がかりで仕上げた。

 今泉家は旧家で本陣、上町、下町の3つがあり、今泉家御三家と呼ばれていた。

久三郎は、当時の郡山村で経済警察と名主的な町役人の検断役を務め、

代々大名主の上町今泉家に見込まれ、19歳で嗣子となった。

 日記は嗣子となった元治元(1864)年から

明治15(1882)年までの18年間の記録。

本では久三郎が体験した戊辰戦争の慶応4(1868)年を中心に振り返っている。

それによると、西軍に追われた徳川派の残党は8月7日、

現在の旧4号国道沿いの中町、大町などに火を放って逃走。

郡山宿の7割を焼き尽くし、

被害は約710戸、死傷者・離散者は600人に達したという。

如宝寺、善導寺、熊野神社などの寺社も被害に遭った。

 当時23歳で検断役の久三郎は「繁栄なる郡山市街、

一朝にして野原の如く相変じ、夜は土蔵に焼火の見ゆるのみ、

さびしき事いうべからず(中略)。老幼婦女は何れも親類縁故を頼り、

在村々へ潜伏せり」と悲惨さを記している。このあと久三郎は

戦争後の郡山を復興させ、初代郡山町長に選ばれた。

 戊辰戦争から77年後、再び悲劇が郡山を襲った。

昭和20(1945)年4月12日から14日、

7月29日、8月9、10日に起こったいわゆる第2大戦の郡山大空襲。

特に激しかった4月の空襲では郡山駅を中心に駅前商店街、

駅東の軍需関連工場、周辺民家などが爆撃を受け、

540人を超す市民や勤労動員の若者らが犠牲になった。

 ここでも市民が復興に立ち上がり、郡山は経済県都といわれるまでに発展した。

空襲の悲劇については市内数カ所に慰霊碑が建ち、

不戦の誓いを新たにしている。

郡山の戊辰戦争の歴史的事実も今回の本の出版を機にきっちりと

後世に伝えることが必要であろう。その手段の1つとして

慰霊碑といったものを建立すべきではないか。

 郡山市歴史資料館には、市内旧家の古文書が数多く展示され、

歴史愛好家が訪れる。

久三郎の日記も展示されているが市民にはあまり知られていない。

現在ある郡山は、先人の犠牲や並々ならぬ努力があった。

これを知るためにももっと多くの市民に見てもらいたい。

 今年は戊辰戦争から数えて140年の節目の年に当たる。

七海さんは「今泉久三郎の日記は、決して古びたものではなかった。

ここには、今にこそ伝えるべきメッセージがこめられているのである」

と締めくくっている。

(松崎 文彦)

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大変な労作です。

書店でお求めください。
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2008年3月4日(火) 小さかった本能寺
新説「本能寺の変」名場面はウソ?

 信長、宿泊は専用御殿

3月4日8時1分配信 産経新聞


 「本能寺の変」(1582年)で、

織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、

ごく小規模な専用御殿だったという新説を、

今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。

]昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、

「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。

 予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」

と推定。ドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は

虚像の可能性が出てきた。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に

「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

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となると、どういうことになるのだろうか、

歴史ががらりと変わることになる。

どんな具合になるのか、様子がつかめなくなる。
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2008年3月3日(月) 偽りの日米開戦
本日、執筆開始です。

これまで、日中戦争、ノモンハン事件、真珠湾攻撃、パラオの戦争、等を現地で

取材してきました。

これを再構築し、日本人にとって日米開戦はどういう意味を持つのか、

それをじっくり考えます。

今年は旧満州縦断の旅も企画しています。

日米開戦、すべてのスタートはここにありました。

腰をすえてかかりたいと思います。

と午前中に書いて、午後、パソコンに向かいました。

始まってみると,容易ではありません。

苦難の何ヶ月かになりそうです。
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2008年3月2日(日) 今日は日曜日
ひさしぶりに晴れた。

いい天気である。

実に気持がいい。

安達太良の白雪がくっきり見え、きれいである。

こんな日はドライブをしたいのだが、

悲しいかな、明日送る原稿が、まだできていない。

あせれば、あせるほど、進まない。

昨日からひとつ嫌なことがあった。

関係するホームページで、不快な投稿あった。

外部の研究者の本を乱雑な物言いで批判し、

間違いがあると言った。

若干の事実誤認があることは私も知っていた、しかし、言い方が悪い。

その人の人格を傷付ける言い方だった。

そこで私は削除を決断した。

ならぬものはならぬ 礼儀をわきまえよ、

である。

本を書いたことのある人なら分かることだが、

100パーセントセント、完璧な本はない。引用文献が間違っていれば

即、間違いになってしまう。

史料、史料と金科玉条のように言う人がいるが、

史料も人間がかかわっているので、これも完璧とはいえない。

だから総合判断が必要になるのである。

メールは顔が見えないので、つい言いたい放題になりやすい。

仕方がないとあきらめている人も多いが、

それはよくない。

時には削除も必要である。
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2008年3月1日(土) 九州に出かける
来週は九州です。

博多に近い筑後市と小郡市で、

取材と講演です。

九州の人は、陽性の人が多いという印象です。

気候やアジアに開かれた地勢もあるのでしょう。

飛行機で旅をすると、電車よりは、旅の実感があります。

筑後ではパラオのぺりリュー島で戦った元日本軍兵士の取材です。

太平洋戦争とは何かの取材です。

小郡は幕臣古屋佐久左衛門、高松凌雲兄弟を含めての戊辰戦争です。

古屋と高松は久留米の人間です。

彼らはなぜ、東北、北海道で戦ったのか。

今年は戊辰140年、小郡を手始めに各地で,講演、討論、花盛りです。

福島県二本松でも東軍慰霊祭が行われるようです。これに関連して

新人物往来社の大出さんから手紙をいただき

「二本松少年隊のすべて」

の編集の依頼を受けました。

これも頑張りましょう。
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