星亮一 今日の一言

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2006年8月31日(木) 榎本と仙台藩
榎本艦隊が仙台の海に姿をみせたとき、仙台藩は

戦争か和議かで藩論は真っ二つに割れていた。

榎本は仙台城に上って、ともに戦おうと演説した。

奥州は日本の国土の四分の一を占める。

兵の数も決して薩長に負けることはない。

フランス軍事顧問団を常駐させ、機敏に動けば、勝利すると激励した。

星恂太郎の洋式部隊、額兵隊も実戦配備につく段階だった。

大砲、小銃を完備した歩兵部隊である。

だが仙台藩は和議の道を選んだ。

敵が国境に迫り、数日で、市街戦になる公算が大だった。

伊達政宗が築いた仙台の街を戦火にさらすことはできない。

主君伊達慶邦の判断だった。

宇和島藩、米沢藩、相馬藩から和議の使者が訪れ、

必死の説得工作も行なわれた。

すでに会津藩も落城寸前だった。

仙台藩の和議は、庶民の立場からみても、順当なものだった。

仙台の街は戦火を免れ、杜ノ都仙台を保つことができた。

私は仙台人である。

この判断は残念ではあるが、正しかったと思っている。

榎本はこの後、蝦夷地に向けて出航する。

そこには仙台藩額兵隊の姿もあった。

榎本の壮挙をひそかに支援した仙台藩の餞別であった。
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2006年8月30日(水) なぜ舵が折れたのか
江戸湾を出帆した榎本艦隊は、房総沖で台風に遭遇した。

艦隊はばらばらになり、輸送船美賀保は座礁して転覆、

咸臨丸は清水港に逃れたが、銃撃され、拿捕された。

最大の問題は旗艦開陽丸の舵の破損である。

竣工してまだ二年そこそこに新鋭艦である。

台風で舵が破損しては、軍艦としては欠陥品であった。

舵の心棒はむろん鉄製である。

十分に強度を計算してつくられたはずであった。

設計ミスか、材質が悪かったのか、

あるいは乗員も含めて積荷が過重だったのか、

さまざまな要因が考えられた。

気になるのは、設計段階よりも大砲をかなり増やしていることだった。

積荷の過重ということだろうが、

これは開陽丸の大ウイークポイントになった。

仙台で修理し、問題はなかったように見えたのだが、

函館に入港してほどなく、江差の海で沈没してしまう。

このときも北の海特有の烈風に流され、座礁し、

二度と起き上がることはなかった。

実にあっけない最後だった。

舵の効きが悪かったのか。

原因は推察の域を出ないが、これで榎本の命運は尽き、敗北する。

軍艦開陽丸は不運な軍艦といえた。

新しい時代を開くという開陽の名前が、実を結ぶことはなかった。

開陽丸は江差の岸壁に復元されて浮かんでいる。

二度ほど出かけたが、榎本の無念がしのばれ胸が痛んだ。
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2006年8月29日(火) 勝海舟と榎本武揚の関係
箱館戦争を書いていて最大の謎は、勝と榎本の関係である。

海舟日記によると、榎本が北海道に行くことを勝に相談したのは、

慶應4年の4月である。

「だめだ」

と勝が答えたとある。薩長軍は幕府の軍艦の引渡しを求めていた。

むろん旗艦開陽丸も含まれている。

榎本は渡さぬといって、海上で頑張っている。

無理に奪うとなれば戦争である。

どうするか、

西郷と勝は考えたに違いない。榎本は絶対に手放さない。

あまり難題を吹きかけると、

鹿児島を砲撃することも選択肢としてはある。

かといって仙台に行って奥羽越列藩同盟に荷担してもらっても困る。

榎本艦隊が太平洋と日本海の防衛に当たると、

東北の戦争は予断を許さないことになる。

一番いいのは、榎本に開陽丸を預けておき、東北を征伐してから

好きなように北海道に行ったらいい。

行ったところで軍資金もないのだから、そう長くは続かない。

その後でゆっくり叩けばいい。

そういうシナリオではなかったか。

そこに勝も荷担していた。

勝は、ひそかに榎本が勝つことも期待していたろう。

どっちに転んでも勝はいい訳である。

私は最近、榎本はそういうシナリオの上を転がされて北海道に行き、

自滅したのではないか、

そう思いはじめている。

歴史の裏に隠された真実を探りあてたい。
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2006年8月28日(月) 今日は福島市で知人の葬儀
一日、出かけておりました。
一言は休ませていただきます。
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2006年8月27日(日) 海舟嫌いの所以
今日は慶喜逃亡を書いている。

鳥羽伏見の戦争のさなかに、将軍慶喜は敵前逃亡をして江戸にもどった。

唖然呆然、悲憤慷慨、腹を切る人まで現れた。

わが榎本副総裁は、断固、決戦を叫んだ。

軍艦を率いて鹿児島を砲撃し、関門海峡に軍艦を進め、長州をやっつける。

がんがん怒鳴った。

しかし肝心の将軍慶喜は謹慎である。

榎本は腰抜けめと慶喜を罵倒し、畳に突っ伏して泣いた。

「こうなったら海軍だけでも戦う」

榎本は決心した。海軍はほぼ全員がこれで固まった。

東北では会津、仙台が立ち上がった。

「一日も早く仙台に来てほしい」

催促が頻々とあった。

「釜さん、どうせやつらは負けるよ、行くことはねえよ」

といったのは勝海舟である。

「上さまの行く先が決まるまでは、ここにいてくれ」

と勝が引き止めた。榎本はどこかに善人のところがあった。

勝の甘言に乗せられてしまった。

「いってもいいよ、どうぞ」

と勝がいったとき、会津の城下に敵が乱入していた。

榎本の決断の遅れが、東北戊辰戦争の勝敗の分かれ目になった。

会津の人々の海舟嫌いの所以はここにある。
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2006年8月26日(土) ベストセラーにも地域差
今朝の朝日新聞、福島県版、会津若松市・宝文館調べのベストセラーが掲載された、

1、会津の峠、笹川寿夫、歴史春秋社

2、会津人群像、小荒井実、歴史春秋社

3、オシムの言葉、木村元彦、集英社

4、松江豊寿と会津武士道、星亮一、kkベストセラーズ

5、美しい国へ、安倍晋三、文芸春秋

6、かばいいばあちゃんの笑顔ーー島田洋七、徳間書店

7、佐賀のおばあちゃん、島田洋七、徳間書店

8、会津武士道、星亮一、青春出版社

9、病気にならない生きかた、新谷弘実、サンマーク出版

10、超一流じゃなくともーーー長谷川滋利、新潮社

1、2位が地元の出版社である。

私は2冊入ることができた。

会津若松はやはり会津ものが強い、
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2006年8月25日(金) 増刷の知らせ
ベスト新書から増刷の知らせがはいった。

>ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
> お世話になっております。
>>
この度、ベスト新書のフェアをやることになり、

『会津藩はなぜ朝敵か』

『会津藩VS長州藩』

を各3000部ずつ増刷することになりました。
>>
ありがとうございました。取り急ぎお知らせ致します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

というメールだった。

本の販売は厳しい状況だけに、大変ありがたい話である。

『会津藩はなぜ朝敵か』は4刷り

『会津藩VS長州藩』は3刷りになる、

やはり会津にちなんだ作品は強いですね。

いま書いている『箱館戦争』

ここでは会津遊撃隊が登場する。箱館戦争の主人公榎本武揚という男、

今回、迫って見たが、なかなかの人物、

黒田清隆がほれるのも無理はないと思うところが多々ある。

年内に出せればいいが、どうだろうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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会津藩VS長州藩―なぜ“怨念”が消えないのか (新書)
星 亮一

内容(「BOOK」データベースより)
明治維新の前夜、会津若松で激しい戦闘があった。薩摩、長州の両藩を主力の新政府軍と、会津藩を含む奥羽越列藩同盟軍が戦った戊辰戦争は、会津若松城下の戦いが最大の激戦となり、白虎隊ら多数の会津藩士が命を落とした。会津藩の死者は数千人ともいわれ、戦闘は残酷を極めた。その怨念は深く、百三十数年以上たった今日に至っても関係修復は図られていない。この本は会津と長州の和解を念頭に、双方に横たわる根本問題を追い、今後の展望をシミュレーションしたものである。

おすすめ度、☆☆☆☆☆
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レビュアー: 勇太郎 (東京都) - レビューをすべて見る
会津と長州の現代に至る遺恨はずっと気になっていた。これまでどちらかと言うと会津側から観て善し悪しを判断していたが、
この本を読んで長州に対する見方も変わり、新選組の存在位置についても納得が出来た。
是非、会津若松・萩の遺恨を抱いた方々に読んで欲しい本だと思う。

レビュアー: サルヲ (神奈川) - レビューをすべて見る

新撰組を知るためにはいろんな側面から知りたいと思って読みましたが、非常に面白く感じました。新撰組の記述はそんなに多くはありませんが、幕末の流れや動乱、藩の動き、いろんなことを分かりやすく勉強でき、もっと幕末について知りたくなりました。

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2006年8月24日(木) 文章は覇気である
何事も覇気が第一である。

文章にもそれは表れる。覇気がうすいと、文章も淡白になる。

突っ込みが足りず、表現が平板になる。

たとえば、いま書いている「箱館戦争」

ポイントは、なぜ榎本が蝦夷地を目指したかである。

そのカギはオランダ留学にあると私は考えた。

そのためにはオランダ時代の榎本を徹底的に追いかける必要があった。

覇気に乏しいと、途中で投げ出してしまう。

オランダの文献には当たれないので、それはきわめて困難なので、

日本に残る文献を洗うことになる。

あちこち資料をめくっているうちに

「旧幕府」や赤松大三郎の半生談にたどりついた。

ここに幕府留学生の夢が描かれていた。

帰国したならば、日本のために貢献したい。

皆そう思っていた。国費留学生としては当然だった。

しかし帰国すると革命が起こり、夢ははかなく消えた。

榎本は蝦夷地に新たな国土を作る、そういう夢に挑戦した。

いま、そのことを原稿に書いている。

結果は失敗した。しかし榎本のトライがなければ、旧幕臣の意地も、

国費留学生の夢も、どこにもなかったであろう。

喉が痛いなどといっている場合ではない。

今日は朝から気持が全面にあらわれ

四日ぶりに文章にはりが出てきた。
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2006年8月23日(水) ついに病院へ
ウガイ程度で済ませていたが、一向に喉の痛みは消えない。

今朝、かかりつけのドクターの所に行った。

「運動不足ですねえ」

とドクターがいった。

「体力が落ちてますよ」

ドクターは血圧をはかったり、脈を診たり、聴診器を当てたりして、

そういった。

多分、抵抗力が弱まって、喉がやられてしまったのだろう。

「ストレッチをやるといいですよ。それから散歩ですね」

ともおっしゃった。

トロ−チと風邪薬をもらって、トローチはなめ、薬はのみ始めたが、

たいした病気ではないとわかったせいか、

午後からは、気分もよくなり、

いま榎本とアムステルダムのことを書いている。

私も一度、アムステルダムに行ったが、こじんまりした綺麗な街だった。

歩道、車道、自転車道に分かれていて、

いいなあと思った。水車も街の中にあったように記憶している。

運河がいっぱいあり、遊覧船にも乗ったりした。

さて、これから指圧に出かける、

腰と肩、首筋の治療である。

これだけは週、1、2回欠かさず続けている。
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アムステルダム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
所属国: オランダ
所属州: 北ホラント州
面積: -
人口: 742,951 (2005年)

アムステルダム(Amsterdam)はオランダの首都。但し、政治の中心はハーグにある。アムステルダムは、商業と観光が中心の町。北緯52度22分、東経4度54分に位置する。

元々は小さな漁村で、13世紀にアムステル川の河口にダムを築き、町が築かれた。「アムステルダム」という名前はこれから由来している。 16世紀には海運貿易の港町としてヨーロッパ屈指の都市へと発展。以来アムステルダムは、アムステルダム中央駅を中心に市内に網の目状に広がる運河と、その運河に沿って並ぷ17世紀の豪商の邸宅、自転車、アンネ・フランクの家、飾り窓の女性たちで広く知られる。

アムステルダム中央駅は、明治の初め、東京駅を作る際のモデルになったという俗説があるが、根拠は薄弱であり、1988年以降、藤森照信らを始めとする西洋建築研究者により、設計者の系譜、建築様式の両面から、現在ではほぼ否定されている。

また、この町は自転車に乗る人が多いことでも知られる。中央駅付近には巨大な駐輪場があり、絵葉書なども自転車をあしらったものがある。
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2006年8月22日(火) ぼくととうさんの、かぐやひめ
昨日、「もう歳なんだから」と引導を渡してくれた

米沢のお恵さんから、上記の本が送られてきた。

「そう遠くない、未来のお話、自らのあやまちが原因となり、人間たちが

地球に別れを告げました。

そして、宇宙で新たな生活をはじめていたのです」

と帯びにあった。

どうやら人間は地球を食い尽くしてしまい、新たな星で

暮らしているようだった。

たしかに、いまの地球は危機的状況にある。

地球温暖化がすすめば、人間が住める場所は極端に少なくなる。

一体、地球はどうなるのか、これはすべての人が思い悩むテーマである。

そこにお恵さんは、挑戦したらしい。

かくて大変説得力のある童話が出来上がった。

文章は鮮やか、加藤千尋さんの絵もすばらしい。

お恵さん、ありがとう、そして出版おめでとう。

新風舎刊、900円+税

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ところで小生の喉の痛み、

まだ続いている。喉飴は手放せない、カリカリとかじっている。

いくらかじってもなおるわけではない。

憂鬱な日々が続く。
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2006年8月21日(月) 喉ますます痛い
昨夜、

水割りをのんで、大河ドラマを見る予定だったが、喉が痛くてダウン。

早々に寝てしまった。

今朝も具合が悪く、ひどい状況だった。

何とか起きて、10時ころ、仕事場にたどり着いた。

どんどん仕事が遅れている。


本来、榎本のオランダ時代を書くはずなのに、まだインド洋を漂っている。

小型船舶の船長は悪戦苦闘である。

正午、昼食のために外出。

体がふらふらする。

戻ると米沢のお恵どんからメールがはいっていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
親分、年なんだから
大事におしよ
オレンジジュースをあっためてのみな

おけい
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
という内容だった。

わがはい、確かに歳なんだと自覚した。オレンジジュースを暖めて飲む、

案外、いいのかもしれないね。

ありがとう、お恵どん。

ところでなぜインド洋か。

榎本は文久三年九月、長崎からオランダに向った。

最初の航海は長崎、ジャワのバタビア間である。ここのガスパル海峡で

船が遭難し、沈没した。無人島に逃れて助かり、

やっとバタビアにたどりつく。

現在のジャカルタである。

ここでアイスクリームを食べて仰天し、十一月二十日にインド洋に向った。

喜望峰の周辺は貿易風が吹き、船は波しぶきを上げて走った。

喜望峰を回ってセントヘレナに着き、ナポレオンの墓にお参りする。

長崎からオランダまで何日、かかったか。

二百十五日だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
インド洋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
地球の五大洋
太平洋
大西洋
インド洋
北極海
南極海

インド洋(インドよう)は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つ。三大洋中最小範囲である。
北はインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカから、西はアラビア半島およびアフリカに接し、紅海とつながる。東はマレー半島、スマトラ島、ジャワ島の線、およびオーストラリア西岸、南は遠く南極大陸に囲まれた海洋である。

インド洋上にある主要な島々には、上記に上げたほか、マダガスカル島、コモロ諸島、セーシェル諸島、モルジブ諸島、モーリシャス島、クリスマス島、ココス諸島などがある。

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2006年8月20日(日) 夏風邪で喉が痛い。
クーラーのせいで風邪を引き、喉をいためた。

ガラガラ声で話ができない。

それを理由に原稿は休み、高校野球を見た。

凄い決勝戦だった。

明日は案外、大差がつくのかもしれない。

両投手ともへとへとのはずだ。多分、乱打線だろう。

午後6時、今日はこれで仕事は終わり、焼酎の水わりを飲んで、

大河ドラマを見ることにする。

小型船舶の船長も今日は元気がない。
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2006年8月19日(土) 今日もすこし多忙
朝10時から郡山で小型船舶操縦士の講習会、

4級ですが、昔、ヨットに乗っていたとき、使いました。

免許の更新です。

正午に終わってすぐ郡山駅、新幹線で福島のNHK文化センターへ、

太平洋戦争、パラオ諸島の戦いがテーマです。

米海兵隊と日本軍のすざましい戦いがありました。

玉砕戦です。

検証太平洋戦争が各地で行なわれています。

当時の東條首相は「自衛のための戦争だった」と語りました。

アメリカから戦争に追い込まれた部分があったことも確かです。

しかし問題は勝てるのか、どの時点で戦争を止めるのか、

そういう詰めは何もなく、単なるムードで開戦に踏み切ったのではないか。

問題多々ありです。

仕事場に戻るのは午後4時過ぎでしょう。

今日の原稿は榎本武揚のオランダ留学時代です。

「太平洋戦争」

ー南の島で暮らす元日本兵の証言ー

昨日、出版社に原稿を送ったので、次の原稿

「箱館戦争」

に着手したわけです。

国際人、榎本の原点はオランダにありました。

彼はそこでなにを学んだのか、

それが目下のテーマです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小型船舶操縦士、

講習会に行ってびっくりした。

法律改正で私の免許は、なんと2級に格上げになっていた。

平成16年11月1日から
5トン限定廃止。⇒こちら!!

 1級小型船舶操縦士

 航行区域の制限なし。

区域制限なし 外洋小型船(20トン未満)
 1級小型船舶操縦士(船長)

隠岐の島に行く船は、一級免許が必要です。
(海岸から100海里を越える区域を航行する場合は、六級海技士(機関)以上の資格を持った機関長を乗せる必要があります。) 

 2級小型船舶操縦士

 平水区域・又は海岸から5海里まで。(湖川小出力限定を除く)

平水区域・又は陸岸から5マイルまで 沿岸小型船(20トン未満)
 2級小型船舶操縦士(船長)
湖川と運輸大臣指定の海域のみを航行する5トン未満・出力20馬力未満の小型船
 2級(湖川小出力限定)小型船舶操縦士(船長)
美保湾、島根半島などの沿岸で遊べます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

つまり20トン未満の船を5カイリまで運行できるのだ。

20トンというと結構大きい、漁船なんか操縦できるわけだ。

5カイリというと、1カイリは、1858メートルなので10キロ未満だが、

講習を受ければ、すぐ1級になれる。

そうなればどこまででもいける。

これはどこかの漁村に出かけて見習いをして船長になるのもいいかもしれない。

ペーパー船長の夢物語です。
△top
2006年8月18日(金) 今日は所用で外出
時間があれば、夕方書き込みます。

やはり無理でした。

明日にします。
△top
2006年8月17日(木) 太平洋戦争,嬉しいメール
今朝、下記のような嬉しいメールが届きました。

星亮一先生 様
お忙しい中、ご連絡差し上げますことお詫び申しあげます。
私は、宮城県出身の丹野と申します。

昨年より、機会を得て「パラオ・海底の英霊たち」(監修倉田洋二先生)写真展・写真集制作実行委員会のプロデューサーを拝命され活動しています。

倉田先生と打合せをしている中、星先生のことを伺い、私も戊辰戦争に以前から興味を持ち、先生の著書も拝読させていただきました。また、この度、パラオのことを取材されていることを伺い、パラオに携っているものとして嬉しく思います。

写真展開催目的は先の大戦のことを伝える方が年々少なくなり、また、知りたくとも学ぶ場所がなくなっている現状です。私どもは薄れていく事実、戦争の悲惨さを若年層に継承しなければと考えます。

6月13日より、1週間千葉県市川市にてパラオ大統領も来市され通常の展示会では100人位のところ約3,000人ほど来館され、ご年配の方は写真の前で嗚咽を漏らす方も数多く見られ関心の大きさを痛感しました。これら写真展を市川市だけではなく一人でも多くの方に見せたく全国展開を考えています。

今後、来年3月14日〜6月30日まで靖国神社で写真展開催決定し、各県遺族会・護国神社にて開催予定を組んでいます。
星先生の御意見を賜りたく、一方的なお話で大変恐縮ですが、ぜひ、ご面会可能なチャンスをいただければ幸いです。

パラオ・海底の英霊たち写真展・写真集制作実行委員会
丹野 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

願ってもないメールです。私の

「太平洋戦争」
南の島で暮らす元日本軍兵士の証言

丹野さんのご協力がえられれば、凄い写真を掲載することができそうです。
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2006年8月16日(水) 戦争終結の難しさ
今朝の読売新聞の論壇に「戦争終結の難しさ」

という一文があった。

寄稿したのは米カリフルニア大学サンタバーバラ校の長谷川毅教授である。

「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」

で今年の読売・吉野作造賞を受けた論客である。

戊辰戦争の時もそうだったが、いったん戦争がはじまると、

もう止めることができない。

どちらかが、降伏するまで戦うのが戦争だった。

抵抗力を失った会津をなぜあそこまで攻撃したか。

私は参謀の一人、板垣退助を責めたことがあるが、

無理だったのかもしれなかった。

戦争終結の難しさを長谷川さんは述べ、

太平洋戦争終結の際,努力した東郷外相の労苦をたたえていた。

太平洋戦争を書いている私にとっても、まったく同感であった。

硫黄島が陥落し、沖縄に米軍が上陸、

どこからみても日本に勝ち目はなかった、

ポッタム宣言が発せられ、世界は日本に無条件降伏を求めた。

それでも軍部は敗戦を認めなかった。

本土決戦を叫び、「米軍を撃退する」と主張した。

これが原爆投下とソ連の参戦を招いた。

日本の軍部は米国が原爆を完成させていることも知らなかったし、

ソ連の野望も知らずにいた。北海道占領である。

日本という国家そのものの存立が危うかった。

原爆を落とされ、ソ連が参戦して軍部ははじめて、現実を知った。

軍部だけではない。マスコミも知識人も同罪だった。

昭和天皇が戦争を止めると宣言しなければ、日本の国はなくなっていた。

恐ろしい時代だった。
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2006年8月15日(火) 終戦記念日に思う
小泉総理は今日、靖国神社に参拝した。

これは総理の信条であり、アメリカ政府が、

「これは日本の問題」

とコメントしたのは印象的だった。

私が強く感じたのは、日中間に横たわるわだかまりである。

江沢民政権時代、江沢民は徹底して、

日本帝国主義を批判する政策をとった。

旧満州で、私は日本人に憎悪を抱く、何人かの中国人に出会った。

いくつもの戦争記念館で、日本軍の残虐行為をこれでもか、

これでもかと見せつけれた。

一方、日本の戦後世代は、戦争を知らない時代を過ごした人々であり、

逆に反発する人もいた。率直にいえば、

自分は加害者ではないということだった。

双方には深い溝ができてしまった。

いま日本人の半数は中国人が嫌いという統計もあった。

これでは元も子もない。

もう一度、原点にかえって人間対人間の

草の根の交流が必要なのだろう。

中国にも憎悪をかき立てる歴史教育の再考を希望したい。

日中戦争については多くの日本人が反省謝罪して来た。

その事実も伝えてほしい。、

私は自分が研究テーマである戊辰戦争について、

何冊かの本を書いてきた。

そのなかで会津戦争における薩長軍、

いわゆる官軍の残虐行為も明らかにしてきた。

と同時に、会津軍の上層部の時代認識のずれ、

戦略なき戦争の部分も指摘し、

特に婦女子の災難は会津藩首脳の人為ミスであるとも指摘した。

戦争は一方的なものではなく、相互に絡み合ったものであり、

冷静に分析する必要があった。

私はいま太平洋戦争を書いているが、

この取材を通じて痛感していることは、

なぜ太平洋戦争がおこり、なぜあそこまで悲惨な戦争になり、

世界の誰もが止められなかったという事実である。

太平洋戦争の発端は日中戦争であり、この問題はいまだに未解決のまま、

中国の人々は日本に憎悪を抱いている。

同じことが戊辰戦争、なかんずく会津戦争にもあるのではないか。

最近、強く感じるのはこのことである。

私は会津戦争の残虐行為のみをを強くとりあげることは、

少なくとも私自身は止めたいと思っている。

もう十分だという思いである。

長州の人、薩摩の人、現在、山口県や鹿児島県に住む人々にとって、

140年前の憎悪をぶつけられても、いかんともしがたいことなのだ。

大事なことは、過去は過去として認め合いながらも

現在を未来を、どう生きるかである。

戊辰戦争の和解を具体的にどうすすめるか。東北人の心の奥になある

官軍への不信感をどう取り除くか。

私の戊辰戦争研究の今後のテーマはこの一点に尽きる。

憎悪から和解へ、戊辰戦争研究会の皆さんにも

これを考えてほしいと願っている。
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2006年8月14日(月) 徳川慶喜の無念
『ラストサムライの群像』(光人社)の第2弾の予告です

目下、遠藤由紀子君と共著で、

「徳川慶喜の無念」の編集作業を進めています。

徳川慶喜は身勝手で無責任な最後の将軍というイメージが強い人です。

会津藩を切り捨て、さっさと恭順するあたりは、

なかなかの政治家という面もないわけでは在りません。

もともと慶喜は改革派でした。

近代国家を模索し,幕府をぶっ潰すことも考えのなかにはあった人でした。

ただし小泉総理に比べると、最後の所の勇気がなく、

旗色が悪くなると逃げ出す癖が在りました。

中途半端な改革者だったと思います。

だから結局は無念の思いで引退を迫られるわけです。

最後の将軍らしい責任感があれば、

日本は大きく変わっていたでしょう。

そういうことを書いています。

遠藤君は、明治以降、政権を握った人々の生涯を描きました。

権力は一瞬の輝きであり、彼らもまた歴史の中に埋没していったのです。

人間社会は絶えず世代交代や権力闘争があり、永遠はないのです。

遠藤君からもコメントが届いています。




遠藤由紀子
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『ラストサムライの群像』(光人社)の第2弾の予告です。

今回も、星先生と共著として書かせていただきました。再び、光人社の坂梨

さんにお世話になります。年内に出版できればいいです!!

今回の内容は、徳川慶喜や勝海舟の生き様を追っています。

そのなかには、長州藩士木戸孝允について書かれた節もあります。

この部分は私が担当しました。

木戸孝允とはどのような人か。

あまりにも有名な人ですが、彼の最期をみると、とても悲惨です。

明治政府の重要なポストにあった木戸孝允は、 脳梗塞で倒れたあと、

左半身が不自由になり、 政治の場へ出かけられなくなりました。

そのため、伊藤博文に代理を頼みました。

伊藤は、あくまで「代理」として、政府の重役を担ったのですが・・・

しかし、 伊藤は木戸へ政治の進行状況の情報を流さなかったり、

情報を巧妙に曲げたりして、自分のいいようにしていったのです。

ふたりは、若い頃、兄弟以上の関係をとっていました。

伊藤を政治の場へ導いたのも木戸でした。

そうして、伊藤は木戸の恩で政府の中核に上り詰めたにもかかわらず、

木戸と馬があわなかった大久保利通と密接な関係になり、

木戸を追い込みました。

だんだん、木戸のストレスは増大し、逃避のために、

盆栽や書画に打ち込むようになりました。・・・・・。

「情報」は、人によって発せられるものですが、

その情報は確かなものか見極めが必要です。

はたまた、その情報すらが伝わらないこともあります。

それは、平成の世にもいえること。

木戸孝允は、その後、政治に復活できず、ストレスをためたまま、

45歳で生涯を閉じました。 木戸は、青年期に可愛がった伊藤を、

権力欲から、大久保の配下となった裏切り者としました。

木戸孝允の最期は、悲惨なものでした。

そのような最期から、感じ取れるメッセージとは・・・。

新しい本の出来を楽しみにしていてください。
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2006年8月13日(日) 福島民友新聞ベストセラー,13日朝刊,会津武士道3位
郡山・東北書店

1、オンタロスの剣、茅田砂胡、中公新社

2、美しい国へ、安倍晋三、文芸春秋

3、会津武士道、星亮一、青春出版社

4、山猫、神永学、文芸社

5、赤い指、東野圭吾、講談社

6、まほろ駅前多田便利軒、文芸春秋

7、瀕死のライオン、麻生幾、幻冬舎

8、風に舞い上がるビニールシート、森絵都、文芸春秋

9,日本沈没、小松左京、小学館

10,世界で一番面白い地図帖、青春出版社
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2006年8月12日(土) お盆休暇
今日から4日間、ときどき休載します。

でも案外でてきて、何か書くかもしれません。

皆さんも帰省、あるいは旅行と、一家団欒と有意義な日々をお過ごしのことと思います。

小生の家もにわかに家族が増え、大変です。


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戊辰戦争研究会の方は、皆さん大変活発で、にぎわっています

これから越後へ 佐々木只三郎

渋滞でしょうねぇ(汗)

大村殿情報ありがとう御座います。時間次第ですが、訪問してみようかと思います。

皆さんの近況お聞きするのは良いですね!

様々な方の歴史への思いが伝わります。

まずは、二日間の連休?ですが楽しんで参ります。

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とさまざまなニュースが掲載されています。

ぜひ、ご覧ください。
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2006年8月11日(金) 暑い,暑い、
本格的な夏の到来である。

凄く暑い。

この暑さに負けてはならと頑張っている。

今日はペリリュー島の戦いを書いている。

緒戦は日本軍の大勝利だった。

弾薬の補給があれば、双方、伯仲だった。

食料が切れ、弾薬が切れ。あとはバンザイ突撃だった。

これは本当に人間無視のひどい戦争だった。

玉砕とは、まったくの捨石だった。

日本人の人命軽視はいまにはじまったものではない。

太平洋戦争は大本営、参謀本部、おえらい人々の無責任な戦争だった。
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ペリリュー戦記、ヤフーから

1944年9月12日、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、

周囲のジャングルを焼き払った後の9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、

約28,000名の米軍が上陸。しかし、日本がそれまで見せてきた「万歳突撃」は一切行われず、

ゲリラ戦法による徹底的な組織的抵抗を行い、米軍側に大きな損害を与えることになる。

特に米軍上陸直後の水際戦闘は凄惨を極め、

大損害を蒙った米軍が煙幕を焚いて一時退却する羽目に陥った。

この戦闘で、敵味方両方の血で海岸が赤く染まり、

今でもこの海岸には「オレンジビーチ」の名が残る。

10月30日には米軍が一時撤退し、師団を一時交代する場面も現れた。海兵隊の司令官はこの戦いを気に病んで、心労から心臓病を発病したという。

しかし、圧倒的な米軍の物量の下で日本の抵抗も衰えを見せ始め、

11月24日、地区隊長中川州男大佐と師団派遣参謀村井権治郎少将、

飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の打電が送られ、

翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた後、

11月27日に米軍はペリリュー島の占領を果たすこととなる。

なお、戦闘終結後も生き残りの34人が洞窟を転々として生き延びており、

終戦後になってから米軍へと投降した。この生き残りの34人は

「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成している。
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2006年8月10日(木) 渡部恒三代議士と起き上がり小法師
昨日、衆議院議員会館におじゃまして、渡部恒三代議士にお会いしてきました。

このところ会津黄門ということで、全国から引っ張りだけ、いま高校生に一番

人気のある政治家は渡部さんです。

「星君ねえ、いや水戸にいったら驚いたね、水戸黄門の起き上がり小法師があるんだ。

これにはまいったね」

とおっしゃった。

起き上がり小法師は会津の特産品である。

民主党が混乱したとき、民主党の幹部会に持ち込み、

「どんなに苦難な時でも、これこのとおり、会津の小法師は起き上がる」

と前原さんや鳩山さんに配った、

その場面がテレビに映った。

ところがところが、前原さんの小法師が起き上がらない。

「どうしたのかなあ、ううん、転び方が悪かったのかなあ」

とおしゃったので視聴者は思わず笑った。

以来、起き上がり小法師は大人気、

先日、会津若松に行ったら、どこに行っても店頭に起き上がり小法師があり、

しかも白虎隊起き上がり小法師など新商品もあり、飛ぶように売れていた。

それがなんと、水戸にまで飛び火したというのだから驚きでした。

もっと増えるかもしれませんね、

昨日は渡部代議士と一緒に写真に収まり、

「会津武士道」

の宣伝もしてきました、今朝の福島民報に掲載されています。

「会津武士道」の制作担当、

青春出版社の手島編集長からもメールがありました。


星先生

昨日はお会いできなくて残念でした。
福島民報の記事、拝見しました。
お二人が「会津武士道」を持ってにっこりしていたので
ビックリしちゃいました。
ありがとうございます。
宣伝に使わせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。

手島智子
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2006年8月9日(水) 硫黄島玉砕戦NHKスペシャルの反応
西郷頼母

硫黄島玉砕戦NHKスペシャル、私も拝見いたしました。
 竹やりと少しの手榴弾を持たせ口減らしのために 帰ってくるなと壕を追
い出す。元兵士だったご老体の「同士」と言う言葉があんなにも深く耳につ
いたのは初めてだったと思います。

 硫黄島全域に張り巡らされた地下の要塞迷路は本国から見切られたことも
知らぬまま、人としての理性をも狂わす深層要塞に成り下がったのかもしれ
ません。
 「死んでもまだ戦わなくてはいけない、死ねば終わるわけではなかった」
 上官からの、国からの教えはそこまで深い物だったのでしょうか・・・。

先生の仰るとおりそれは現代的な考えなのかもしれません。亡くなった祖父
は海軍の輸送艦に乗っていましたが、今春亡くなるまで 戦争の話は一切し
てくれませんでした。

過去一度だけ私の「あなたも天皇陛下のために死のう
と思ったのか?」と言う問いに長い沈黙の後「そう教えられていたからなぁ、
そのときはな」と言った目が記憶に有ります。
 
出演されていた方も瞬間同じ目をされていました。
 触れてはならない傷、晒す事の出来ない傷を、あえて見せてくれた事に感
慨を覚えました。
 
元米兵の「戦争が終わった後、地下壕に入ったみたんだ、そこには石の台
があってそこに横たわった日本兵はどんな思いだったろうかと感じたよ」 

海水の表面にガソリンまいて火つけて、何を言う、瞬間思ったのですが他局
に出ていた90歳の二重被爆された方の言葉を聞きはっとしました。 

日米双方 根底は人であったのにただ理性の消失した海原に投げ出され、
生きるための藁を掴んだだけに過ぎないんだと思えました。
 
戊辰の役にしろ、大東亜戦争にしろ 生き残った方が苦しみだったとご老
体の手を振る姿を見て思えてなりませんでした。日本人の血に流れる潔さも
忠義も士道も 剥ぎ取られ
 
投降も自決も許されない追い詰められた孤島の中で、統計の数でしか数え
られる事の無い日米の兵士達は、その目に何を最後に映して命を落としてい
ったのでしょうか。
 深く深く考えさせられる番組でした。

 靖国神社についても、他国の目を気にしすぎるのはどうかと思います。現
在の論争は核心の問題から逸脱しすぎまた、戦犯合祀の問題も異論あるなら
ば外せば良いだけなのかもしれません。複雑に事がねじれてるのは承知の事、
しかし答えは単純な場所にあるのかもしれませんね。
 
「他国の兵士も祭っています」だけでなくもっと様々な視点で 国外に靖
国の存在の意味を広めるべきだと思うのですが。
 ともかく靖国の参拝を総裁選に利用するのはどこか違うような気がします。

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皆さんの投稿を期待します。
 
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2006年8月8日(火) 硫黄島玉砕戦
生還兵が語る日米軍激突、長さ18キロの地下要塞、守備隊2万人全滅の真相、

昨夜のNHKスペシャルは、強烈だった。

なんと言っても衝撃を受けたのは、米軍の地下要塞、全滅作戦である。

海水にガソリンを混入して地下要塞に流し込み、そこに火を放ったのだ。

それで何千人という人が、焼け死んだ。

米軍はいきなり、それをやったわけではない。

何度か降伏の勧告を行い、

そのあとで最後の殲滅作戦に出たというのだった。

生き残った三人か四人の人が出演した。

途中で泣き出す人もいた。

もう負けたのだ。

そこまで頑強に抵抗する必要がどこにあったのか、

ここの司令官栗林中将は名将とされているが、

惜しむらくは、

完敗を認めたあとは、兵に自由な裁量を認めるべきではなかったか。

と思った。

それも現代流の解釈かも知れない。

戦争は悲惨であり残酷である。

そういう状況に一般の兵士は追い込まれてゆく、

司令官もそうであったろう。

太平洋戦争61年、私もいまパラオ諸島を舞台に戦争を考えている。
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2006年8月7日(月) 週刊朝日に「松江豊寿と会津武士道」の書評
松江豊寿と会津武士道 板東俘虜収容所物語 [著]星亮一

[掲載]週刊朝日2006年7月21日号

[評者]青木るえか

 松平健主演「バルトの楽園(がくえん)」。ふだん映画なんか見ないが、

これは封切り翌日に映画館に行った。徳島のドイツ人俘虜収容所を舞台にした映画で、

撮影当時徳島に住んでいてローカル局のトップニュースになったりしてたので

「封切られたらぜったい見よう!」と思ってたのだ。良さそうな話だったし。

 それで見にいったところ、ものすごく素直な、

今どきあるまじきケレン味皆無の「イイ話」な映画だった。

第一次大戦で俘虜になったドイツ人を、会津出身の収容所長が人道的に扱い、

俘虜たちは土地の人と文化的交流をし、そして日本で初めてベートーベンの第九を演奏した、

という実話なんです。「世界のどこに、マツエ大佐のような

ラーゲル・コマンダー(俘虜収容所長)がいたでしょうか」とまで言われた人なわけだ、

松平健扮する松江豊寿大佐は。

 映画の帰りに本屋に寄ったらこの本があったのでただちに買いました

『松江豊寿と会津武士道』。帯には松平健の写真がどーんと載っている。

 一読する。この本が「バルトの楽園」の原作本なのか。

あるいは映画のノベライズなのか。といいたいぐらい、

映画をもう一回見たような気にさせられるほど、映画で見たのと同じエピソードや、

映画そのままの当時の写真(逆か。

映画のセットがものすごく当時を忠実に再現していることがわかる)が満載だ。

 映画で見たところ、当時の収容所の生活は、私の今の生活よりも文化的に高い。

すくなくとも食生活はうちより上だ。ゲーテやイプセンの演劇なんかも上演されている。

オーケストラもある。ワイドショー見ながら明治のカールを食べている自分は

うつむくしかない。

 映画で見ても、本で読んでも、本当に奇跡のような収容所だ。

こんな場所が、第一次大戦後の、日本の、四国の、徳島の片田舎にあったとは

(板東って、今でもすごい田舎である)。

もしかして、隠された陰惨な事件とかあったんじゃないか、

と邪推してしまいたくなるぐらいだ。

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ありがとうございます。

さて、今日は月曜日

午前中、ざいかい東北の原稿をまとめ送稿した。

薩長をきりきり舞いさせた男

「仙台藩鴉組隊長細谷十太夫伝」

である。

10回ぐらいの連載になるだろう。

午後ハ太平洋戦争の原稿である。

外は凄く暑い。

本格的な夏到来である。
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2006年8月6日(日) 日曜日の朝
今日は団地の草むしりだった。

あまり出たことがなく、迷惑をかけていたので、鎌を持って参加した。

出席をとることになったせいもある。

今日の草むしりの場所は子どもたちが遊ぶ公園だった。

団地の皆さんとはなししながら、公園をきれいににするのは、

大変、意味おのある作業だった。

逃げ回らずに参加する。

これが大事。

今日は会津武士道のささやかな実践だった。
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2006年8月5日(土) 今朝のメール
高校の後輩、作家の馬里邑れいさんから

星様

”おんなたちの会津戦争”朝日新聞に載っていました!
平凡社で大きく星さんの名前発見。
先輩諸氏の名前を発見するたびに私も頑張らねば、と思います。
明日は花火の審査員です。足利は人口16万ですが、花火にはいつも30万人ぐらい集まるそうです。
いつか個人名で仕掛け花火打ち上げるのが夢です。


                                    馬里邑れい
ありががとうございます。
足利の花火、見たいですね。
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馬里邑れいの日記、ヤフーから

郡山へ
投稿日:2006-07-13 19:32

七月二十日木曜日、郡山の駅ビルにある八重洲ブックセンターに行きます。

ハズカシナガラ講演です、、…誰も来てくれなかったらどうしょう…

千円も払って来る人いるかしらん … 一人もいなかったら壁に向かって喋るのかなあ …

お近くの方いらして下さい … 笑わせるのと泣かせるの得意です… 二時です 、

真夜中じゃなく昼の …

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過日、郡山自由大学で講義しました。

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岩淵恵さんから

書中お見舞い申し上げます

このたびは『雲井龍雄評伝エッセイ』のことではおせわになりました。

私も、あれは歴史研究会の宿題のようなものと追っていたので、肩の荷が下りた気分です。
 
あれを書いている間に、どういうわけか米沢図書館に雲井龍雄の本ふえていました。

今の私はそれらを読みこなすことはできませんので、

どうぞわれと思わん方は一冊書いてください。

星先生におかれましても、ご健康に留意なさり、ますますのご健筆をお祈り申し上げます。

    かしこ   岩淵恵

追伸 最後だからいちおう礼儀正しくしました

それと私から宿題。南雲忠一。

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これは大変な宿題です。

来春早々、PHP文庫から「山本五十六と山口多聞」を出しますので、

そのなかですこし書きます。

本格的には岩淵さんですね。


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2006年8月4日(金) 雲井龍雄評伝、最終回、岩淵恵、米沢在住
七、雲井龍雄

明治二年ころから龍三郎は雲井龍雄を名乗ったといわれる。

それには二つの契機が考えられる。一つは、その年の六月、

藩校興譲館の助教に任命されたときである。

当時の米澤藩士にとってはかなり栄誉なことだったろう。

しかし龍三郎はこれに満足せず、さらなる東京遊学を望んだ。

三計塾が今の大学にあたるならば、大学院進学を望んだようなものである。


願いかなって上京したのはいつなのか、これもまたはっきりしない。  

このころ米澤の有能な人物の中央政界への登用があいついだ。

七月には甘糟継成、八月には宮島誠一郎、斉藤篤信がいずれも待招院に出仕している。

このころおきた事件に、「そんぴん」龍三郎の姿が見えるような気がする。

それは、共に江戸に派遣された千坂高雅の突然の「そんぴん」な行為である

江戸遊学後年少にして家老抜擢というのは長岡の河合継之介と同じであるが、

千坂は家老の子だから家老になったにすぎなかった。

そんぴんとは米沢独特のもので、「つむじまがり」のことだが。

ただのつむじまがりでなく、品格を尊ぶ意味があるようだ。

薩長の政府機関に招かれて喜ぶ米澤藩士よ、誇りを忘れるなということだろうか。

高雅は誰の説得にも応じずごね続け、

ついに政府が任命する家老にあたる大参事の職につくことを拒むのである。


八 最期、そして伝説

かつての江戸に現れた龍雄は。進学はせず、そのまま集議院にはいる。

名をかえる二つ目の契機はこのときであろう。集議院とは明治新政府の立法機関で、

現在の衆議院にあたる。ああそうか、と、やっとわかった。

戦後の衆議院議員k氏が雲井龍雄のレリーフを寄贈したのは、

米沢最初の国会議員、雲井龍雄を顕彰したのだろう。

さて、明治にもどろう。集議院で龍雄は吠えた。薩長の横暴を鋭く批判した、

といわれる。それの何が誰の怒りをかったのか。

国会図書館あたりで調べて見れば面白そうだが、それではなかなか終わらない。

龍雄の死は目前なのである。

一度逮捕され米沢に謹慎中、だった龍雄は、

明治三年七月龍雄は武力による政府転覆を計った国事犯として再逮捕される。

同年八月東京に搬送され、一二月二八日小塚原にて斬首される。

それ以後西南戦争の西郷の死まで続く、

「武士の不満を一身に負うて」の死のはじめとなったのである。

明治二二年になって名誉が回復される。

時代は大日本帝国憲法発布の年、法治国家として諸外国に認められたい

という姿勢のあらわれだろうか。龍雄が赦されたのを見届けたかの様に、

かつての師であり上司であり戊辰戦争時には対立もした斎藤篤信が世を去る。

昭和五年になってようやく、龍雄は東京谷中墓地から常安寺に帰る。

ひきとったのは上泉幸吉という人物だった。あの、最初の師、上泉先生の家の人だろうか。

常安寺には奇しくも斎藤篤信の墓もあるという。二人の先生に護られて、

今、龍雄の魂は安らいでいる。

龍雄の生涯は、そのあまりに特異な終わりかたのために、

米沢の正史からほとんど抹殺された。昨今のマスコミ風に言えば、

「名門校の教師、国会に乱入、国事犯として逮捕!!

さらに武力クーデターも?!」という大事件である。

しかし、米沢にある本はみな読んだだの、

議会ではさながら旧約聖書のダビデのごとく、一人で薩長に立ちむかったなどの

「伝説」は残っている。米沢にもこんな人がいたと誇りをもちたいのだろう。

さて、最後にここで、もし龍雄が生きていたら、という、

自由な歴史愛好家にゆるされた問いをしてみよう。

龍雄は大臣になるような柄ではない。万年野党でほえ続けたか、

評論家として、安井息軒門下の中村正直の『明六雑誌』などに健筆をふるったであろうか。

あるいは、若き日の武勇伝など生徒に語り、

「諸君も続きたまえ!」などと檄をとばす、

ただの田舎教師に終わっていただろうか。しかしこの先生、

漱石の「坊っちゃん」のように正義感が強く、不正を正すが辞表を書くはめになる。

龍雄ならきっとそうするだろう。

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これは非常にレベルの高い論考であり、雲井龍雄研究に一石を投じるものです。

今回の寄稿に心から感謝申し上げ、今後の、ますますのご活躍を祈念いたします。

星亮一
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2006年8月3日(木) ボクシング、ひどい判定だね
TBS系で2日、生中継された「亀田興毅VSフアン・ランダエタ」

テレビを見たが、どうみても亀田の負けだった、

あの判定は日本の恥じだね。

ボクシングは、ショウなのか。

ひどすぎる判定だった。

アレは一体、誰の責任なのか。

明確にすべきだね。

亀田もベルトを返上すべきだと思うが、どうだろうか。

不愉快なテレビだった。

テレビ局に対して「判定に納得がいかない」といった電話が、

同日午後7時半から3日午前9時までで計3万7225件に上り、

同様の電子メールも3655件あったというのは当然だろう。

主催者はこれについてコメントを出すべきだろう。

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スポーツナビ、非常にあまいね
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「WBA世界ライトフライ級王座決定戦 亀田伝説 夢の始まり[1章]」

で同級1位のファン・ランダエタを判定で下し、見事世界王座を獲得した

“浪速乃闘拳”亀田興毅が3日、都内TBS局内で一夜明け会見を開いた。

興奮冷めやらず、「2時間しか寝てない」と語る19歳の新王者は、

詰め掛けた報道陣のフラッシュに「目が痛いわ」と満面の笑みを見せていた。

 前夜の激闘を振り返り、「1ラウンドにダウンしたのは、オレ流のサプライズやな。

最悪の状況で勝てたから、次はもっと強くなるよ」と話した興毅。

世界タイトル初挑戦のプレッシャーで、序盤に動きが固い場面も見られたが、

(世界との)壁は感じてない。ただちょっと緊張しただけや。

はもっと楽にできるし」とコメント。ランダエタの再戦要求にも

「何回やっても勝てるけどな」と絶対的な自信を見せた。
 
だが一方で、「減量はうまくいったけど、パンチがのってなかった。

フライ級の方がいいのかなとも思った」と率直な心境を吐露。

協栄ジム金平桂一郎会長は、

「今は少し休ませたい。色々話し合って決めていく」
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2006年8月2日(水) 雲井龍雄評伝6、岩淵恵
六、戊辰戦争

このころ龍三郎は米沢藩貢士(藩の代議人)に任ぜられ遠山翠と名乗っていたが、

五月奥羽列藩同盟成立を知ると、輪王寺宮に従い京を放れ、

大阪沖に停泊していた榎本艦隊に乗って江戸へくだる。新撰組もこれに乗っていた。

電話もない時代、都合よく両者の行動が合ったものだ、と思うが、

予定の行動だったのだろう月か。五月十五日、輪王寺宮を旗印とした彰義隊が

敗北すると輪王寺宮はさらに北へ、会津へと向かう。

龍三郎は輪王寺宮を会津まで先導し、六月一七日米沢に帰り、


改めて輪王寺宮を米沢にむかえる。

六月二〇日上野輪王寺宮一品親王と上杉茂憲の会見が成った。平時なら下級武士の、

特に家族にとっては、最高にはれがやましいことだったろう。

この数日前の六月十二日、長岡藩の家老河井継之助と米澤軍総督千坂高明が会見するが、

その時河合継之介は『討薩の檄』という躍るような字の檄文を目にする。

龍三郎が書いたものだった。

龍三郎はこのような激務の中いつこれを書いたのだろう。

檄文とはいえ長文のものである。短時間に書きなぐったものではない。

龍三郎の行動で詩作のためのまとまった時間がとれたのは

京から江戸に向かう船の中ではなかったか。坂本龍馬の「戦中八策」というものがある。

それに対応しているようにもとれる。

しかしすでに敗色は濃く、八月長岡を陥落させた官軍が、

次に米沢に向かうことがあきらかになり、新潟に出陣していた色部長門が戦死すると

、厭戦ムードは上杉軍をおおった。

そこに土佐,安芸,高鍋など姻戚関係にある藩から降伏勧告がくる。

藩上層部にとって、これは降伏の格好の正当化づけになった。

九月二日の御前会議で降伏が決定したが、

正式に降伏を伝えたのほ同月十一日だった。

二十二日には会津が降伏して戊辰戦争は終結する。

米澤藩は函館出兵を申し出ることと「奥州有罪在一身」の建白書を提出することで

新政府の穏健な処遇を得んとした。しかし「在一身」のアイデアも、

裏切者が何を言うかと嘲笑されただけだった。

「奥州有罪在一身」

は後に雲居龍雄において現実化する。

龍雄は「佐幕側の不満を一身におって」国事犯として処刑されるのである。

歴史の非情なアイロニー性からいって、

これの下書きをしたのは龍雄自身であったかもしれない。

龍雄のことが長年タブーであったわけがわかるような気がする。

奥羽の裏切り者という歴史の恥部なのだろうか。

さて、当時の龍三郎にもどろう。次に龍三郎の名が見えるのは翌明治二年の三月である。

このころ龍三郎は、東京の上杉麻布邸に身をよせていた甘糟継成の処遇を頼む書簡を、

土佐藩貢士の寺脇という人物に送っているのである。ということは、

東京にいたのだろうか。神出鬼没というものだろう。
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2006年8月1日(火) NHK文化教室、10月以降のテーマと雲井龍雄評伝6
NHK文化教室、郡山、福島、10月以降のテーマ

「箱館戦争」
一寸の虫にも五分の魂、榎本武揚奮戦記

10月、軍艦開陽丸誕生
11月、榎本艦隊北へ
12月、蝦夷島政権

となります。

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雲井龍雄評伝6 岩淵恵

六、峠越え

以後龍三郎は、しゃにむに登る。名を変え地下活動するのである。

地下活動というと左翼運動のようだが、この時代は佐幕派が保守右翼、

倒幕派が左翼だった。

それが明治維新で左右が逆転する。大雑把にいえば、

この二派が互いに地下で抗争していた。

龍三郎は、どこで何をしていたのか一切はつまびらかでないが、

三計塾時代の人脈をたどって人に会い情報を収集し、

それを米沢に書き送っていた。

陸奥宗光のつてで桂小五郎や坂本龍馬にもあったことも考えられる。

「桂香逸」の偽名は桂小五郎を慕ってのことか、

あるいは情報を霍乱しようとしてか。

もともと米沢は長州人に対しては近感があったらしい。

後の戊辰戦争での降伏勧告は、土佐、安芸、高鍋、

いずれも姻戚関係がある藩からだった。

その中で安芸はかつて長州毛利家の地である。

さらに長州の吉田松陰が米沢を訪れている。

東北の長崎といわれるくらい蘭学が盛んだったから、

米沢藩医のだれかにまねかれたのであろう。

龍三郎自身、松下村塾の俊英、久坂玄瑞を彷彿とさせる。

事態は目まぐるしく推移し、その年の一〇月には幕府側から大政奉還すれば、

一二月には朝廷側から王政復古の大号令がくだされた。一一月には龍馬が

京都近江屋で暗殺されている。

翌慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いがおこる。

以後九月に会津が降伏するまでが戊辰戦争だった。n
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