星亮一 今日の一言

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2008年2月29日(金) 仙台での反響
27日、仙台での講演、大変、反響がありました。

m 木 壯 夫さんから下記の投稿がありました。

仙台藩首席家老但木土佐につながり方です。

土佐は奥羽越列藩同盟結成の責任を問われ斬殺されました。

無念の出来事でした。


星亮一様へ

養賢堂正門が残っている泰心院での講演は、

大盛況でしたね。地元のものとしても大変うれしく

おもっています。(俄か勉強でないと良いのですが。)

会場で私が質問いたしました、戊辰の役敗戦での

戦後処理で犯罪者扱いをされ極刑を言い渡された

仙台藩関係者は何名いたのかが調べましたところ判りました。

但木土佐、坂英力の2名 慙死

玉蟲左太夫、若生文十郎、安田竹之輔、遠藤吉郎左衛門、

和田織部、斉藤安右衛門、栗村常連の7名 切腹

よく書物に出てくる人物についてはその人と成りを

知っていますが、そうでないと全く理解してない

状態でした。今後、よくよく調べてみたいと思って

おります。(以上)
ααααααααααααααααααααα
m 木 壯 夫 (橘  壯 行)

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中国側の対応「理解し難い」=ギョーザ事件で国家公安委員長

2月29日13時2分配信 時事通信

 泉信也国家公安委員長は29日の閣議後会見で、

ギョーザ中毒事件で中国国内での有機リン系殺虫剤「メタミドホス」混入を否定し、

日本側の対応を批判した中国公安省の記者会見について、

「信頼関係の上に捜査状況を交換してきた中で、理解し難い対応。

警察当局は事実に基づき解明していくべきで、政治的配慮はかかわるべきではない」

と不快感を示した。 
△top
2008年2月28日(木) 輸入餃子はもう食べない
中国製ギョーザ中毒事件で、

中国公安省が同国内での有機リン系殺虫剤「メタミドホス」

混入の可能性は極めて低いと発表したことについて、

警察庁幹部は「まったく理解できない」「科学的根拠を示してほしい」と話した。
 
同庁は詳しい内容を確認するため、大使館などを通じた情報収集を急いでいる。

 事件では警察庁の安藤隆春次長が25日に訪中し、

同省幹部と早期解決に向けた連携強化で合意したばかり。

同庁幹部は「連携もできるのか分からない。とにかく理解できない」

と繰り返した。

 中国側が、日本の警察当局が被害現場の視察や物証確認に応じなかったのは

遺憾とした点についても、

「視察は捜査と解釈でき、主権侵害になるため認められない。

物証は捜査状況の説明を受けた上で、


必要性があれば外交ルートで提供すると伝えている」と首をかしげた。

時事通信ニュース 

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実は夕べ、仙台で餃子を食べました、

もちろん、国産です。

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NHK八戸文化教室からのおしらせです。

【特別講座】会津と斗南

講師: 作家 星 亮一

今年は戊辰戦争勃発140年。戦に敗れた会津藩の人々は

斗南の地・下北・上北・三八地域に強制移住させられました。

人々は不屈の気概で地域の発展に尽くし、

尊敬の念をこめた会津衆という言葉が今も残っています。

斗南藩の苦難の歴史と地域への貢献を振り返る年4回シリーズです。



講座の詳細・お申込み

教室名八戸教室
講師名作家 星 亮一
開催日4/25から
曜日・日時指定金曜 18:00〜20:00
期間4〜6月
回数1回
残席有ります
途中受講できます
コース 受講料(税込み) 教材費(税込み) お申込み内容の確認
会員 3,150円

・[入会金不要]マークがついたコースは、入会しなくても受講できます。
・残席状況は変動しますので、申込時には異なる場合があります。
・この講座を初めて受講される場合は、終了している回数分の受講料はいただきません。
△top
2008年2月27日(水) 今日は仙台です。
昼夜2回の講演です。

昼は藩校養賢堂の関係者です。
演題は「戊辰戦争と養賢堂」

夜は仙台士道会の主催
これで2月の講演は終わり、いよいよ3月です。

ーーーーーーーーーー

 かつて仙台藩の藩校「養賢堂はすでに存在しないが、

正門だけが泰心院(たいしんいん)という寺に移築され、現存している。

今日はそこで講演である。

仙台藩の下級武士の末裔である私にとっては、身の引き締まる思いである。

以下、ヤフーから

 養賢堂は、3000名を収容できる大講堂のほか、

孔子廟、学寮、手習所、学頭役宅、武術道場、馬場など多数の施設を備えていた。
 
戊辰戦争の当時、仙台に集まってきた旧幕派諸藩の軍勢に宿舎として使われたので、

おそらく新選組の面々もここを訪れたと考えられる。

仙台藩の降伏後は、一転して新政府軍の本営となった。

 明治期に入り廃藩置県の頃、養賢堂が宮城県庁の庁舎となる。

この時、新しく洋風の門が建設されることとなり、正門は競売にかけられ、

泰心院に払い下げられた。

※ 一説には、正門が移築されたのは、

仙台藩が降伏し新政府軍が進駐してくる直前という。

仙台藩士らは、新政府軍に養賢堂を明け渡すことが忍びなく、

しかし建物全てを移す時間がなかったので、

せめて正門だけでもくぐらせまいとしたのだとか。

ただし、この説を裏付ける史料の存在は明確でない。

 昭和6年、養賢堂の東側に新しい庁舎が建てられ、県庁はそちらへ移転した。

養賢堂の敷地は、師範学校や陸軍病院の用地として使われたが、

大講堂は歴史的に貴重な建築として保存されていた。

しかし昭和20年、仙台空襲の際に惜しくも焼亡した。

 養賢堂の正門だけが、泰心院に移築されていたため、

結果的に戦災を免れたのである。

※ 大講堂のほか裏門や孔子廟門も、昭和初期までは残っていた模様。

昭和10年、大講堂とともに精密な実測図が、

仙台高等工業学校の建築学科生により製作されている。

 現在、泰心院の山門脇には「泰心院山門(旧仙台藩藩校養賢堂正門)」

と題して説明板が設置されている。

 それによると、この門は文化14年(1817)、

大講堂と同年に完成したものであり、養賢堂が宮城県庁の庁舎となった際、

ここに移築された。切妻造瓦葺の四脚門で、

伊達家家紋(三引両と九曜)を配した漆喰塗りの棟、

細部の彫刻が重厚な外観を成す。仙台市の重要文化財に指定されている。

 往時の養賢堂を偲ばせる唯一の現存遺構が、この門である。

仙台を訪れる機会があれば、ぜひ見てみたい史跡のひとつと言えよう。

泰心院
宮城県仙台市若林区南鍛冶町100
 地下鉄南北線 愛宕橋駅より:徒歩8分
           五橋駅より:徒歩10分
 「荒町」バス停より:徒歩1分
 (仙台駅前6番バス停等より六丁の目東町・閖上・霞の目・

沖野行きなど市営バス路線あり)
△top
2008年2月26日(火) なぜ三内丸山遺跡は衰退したのか
文明はいつかは滅びるものらしい。

三内丸山遺跡を訪ねた人は、なぜここから大集落が消えてしまったのか、

を考えるに違いない。

この遺跡は実に堂々としていて、日本列島の北端に

大国家としてそびえていた。

いま世界は温暖化だが、いまから約5900年前に

海流が2度下がる寒冷化現象が起こり、寒さでクリの実が、実らず

大集落が衰退したというのである。

2度ですよ、それだけで陸の食べ物が大減少、

三内丸山人は消えてしまったという。

これは東大海洋研究所の調査で分かった、

いま騒がれているのは温暖化である。

逆な現象である。

2度上がると、どうなるのだろう、

暑くて暑くて冷房にエネルギーを食い、

石油は枯渇し、石炭も泣くなり、水不足ととなリ、火力もだめ

穀物は取れず、家畜も養えず、

人類は滅びてゆくのか。

明快な指針をお願いしたいものである。
△top
2008年2月25日(月) 河北新報、拾い読み、寺子屋養賢堂 27日開催
荒町で寺子屋開設へ 生涯学習、地域を発信(27面)

22日、河北新報
 
仙台市若林区の荒町地区を学問の街にしようと、

地元住民が生涯学習塾を開設する準備を進めています。

「寺子屋の養賢堂」と題して27日に開かれる第1回会合は

明治維新と大きな関係がある戊辰(ぼしん)戦争と郷土の歴史を

振り返ることになりました。

講師はこの戦争について多くの著書がある郡山市の作家星亮一さん。

年4-5回の開催を予定、県内外から専門家を招いて講演会を開きます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
という記事が掲載されるや

主催者の寺子屋養賢堂に電話が殺到、50人が申し込んだと今朝、

私に連絡がありました。第1回は私が講師で、

仙台藩校養賢堂と戊辰戦争を話します。

いい企画だと思います。

事務局は仙台市荒町の文具店、幸洋堂

電話022−266−3331

です。

当日、私のサイン会もあります。
△top
2008年2月24日(日) 二十歳の玉砕戦、楠葉台場跡
2月の末だというのに、すごい雪です。

今日は幕末を離れて太平洋戦争を書いています。

8月の終戦記念日に向けて、

太平洋戦争を3本ほど書きます。

ひとつは、このページで紹介している

「二十歳の玉砕戦」

ようやく出版社が決まり、いま原稿の整理中です。

太平洋戦争で戦死した兵士は240万人、遺骨が収集されたのは、

124万人、のこりの126万人は戦場に放置されたままなのです。

しかも戦死者の7割は餓死というのだから

日本国がいかにいい加減だったのか

明白です。

その告発の書でもあります。

今朝の福島民友新聞

淀川の砲台「楠葉台場跡」で堀の一部が出土

楠葉台場跡で見つかった堀跡=

23日午後、大阪府枚方市 幕末の動乱期に淀川沿いに築かれ、

河川では全国で唯一遺構の残る砲台跡「楠葉台場跡」(大阪府枚方市)で

堀の一部が見つかり、同市社会教育課などが23日、現地説明会を開いた。

台場全体の詳細な設計図が近年、京都府立総合資料館で発見されており、

同市社会教育課は「設計図の正確さが証明された」としている。

 設計図によると、堀跡は幅約11メートルで、今回の調査では8メートル分を検出。

堀の深さは不明だが、堀の底に近い部分からは石垣も見つかっている。

 台場は幕末、外国船からの国防のため、江戸湾を守る品川台場(東京都港区)

など全国各地で築かれた。河川沿いに築かれたものは珍しく、

遺構が残されているものは楠葉台場だけだという。

 楠葉台場は幕末、京都防衛の責任者として幕府から派遣された

会津藩主・松平容保が提案。幕臣の勝海舟が設計責任者として築かれた。

実際には敵対する長州藩が京都に入ることを防ぐ関所としても利用されたという。

 同市社会教育課の竹原伸仁さん(41)は「全国で唯一残された貴重な遺産。

今後の研究で実像をより正確に明らかにしていきたい」と話している。

ーーーーーーーーーーー
これはすごいな、しかし鳥羽伏見ではまったく作用しなかった。

研究の要ありです。
△top
2008年2月23日(土) 山本帯刀に関する投稿
仕事がダブってしまい、休刊です。

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長岡藩山本帯刀に関する投稿をご紹介します。


前略

先生が書かれた中公新書「奥羽越列藩同盟(東日本政府樹立の夢)」

を興味深く読ませていただきました。徳川幕府の旧体制が崩壊しつつあるなか、

東北諸藩が薩長土肥と相容れぬ勢力として立ちふさがったものの、

錦の御旗がなかったことと全体を統率する卓越した指導者が欠けて、

各個撃破されたと言うのが私の通念でしたが、

今回、玉虫左太夫や梶山佐渡の名を知り、

人物は居たが有効に機能しなかったと言われる先生のご意見に共感しました。

私の家は代々越後長岡藩の藩士で、

私から五代前の安田多膳渡は槍長隊隊長として戊辰戦争においては

朝日山の合戦や津川口の戦いで奮戦いたしました。多膳の三男、

保四郎は牧野鋭橘君(後の忠毅公)について長岡から会津そして仙台に落ち延び、

鋭橘君の渡仏に同行する候補者でありました。そうした意味で、

ともすれば、長岡と会津の戦いでお終いの私の戊辰戦争観に

今回の先生の御本でそれ以外の奥羽越列藩の動きがわかり、

大変勉強になりました。

ただ、先生の記述で一箇所、指摘させていただきたく、ご無礼をお許しください。

それはp237最終行の山本帯刀が「長岡藩士渡辺家に生まれ、」と言う件ですが、

これは当 安田家の誤りです。安田家の生まれであることは

多くの郷土史料等から明確です。最近では長岡市が出版した

「ふるさと長岡の人々」にも安田渡と母「弓」の子としています。

参考までに以前、郷土資料に掲載された「鶴見保四郎の手記」を添付いたします。

ただ、筆者の斉藤茂吉氏(元 長岡互尊文庫館長)は

山本帯刀の父である安田多膳渡(7代目とします)と帯刀が山本家に養子に行った後、

秦家から迎えた多膳渡(8代目)を混同しています。

補足しますと、

山本帯刀の父である安田多膳渡(当家では江戸時代この多膳渡と伊兵衛の名前の

いずれかを襲名しています。)は山本家九代義方(1803年)の末弟、

鋼三郎として生まれ安田家に養子として迎えられました。

渡は1848年2月に亡くなりました。妻の弓(弓子)は安田家の一人娘でしたが、

当時まだ29歳で、帯刀と長女(帯刀の姉)の五百子(いおこ)が残されました。

山本 帯刀(たてわき),幼名、義路は安田渡(多膳)の子として

弘化二年(1845年)三月七日生れ、

主命で八歳のときに山本家に養子となりました。

戊辰の役での活躍は、よく知られている通りですので、省きます。

帯刀の妻は「千代」といい、二人の間には「たまぢ」と「かねぢ」(私の祖母は

「はつぢ」としていますが郷土資料等によります。)の二女が残されました。

「千代」は後に陸軍士官の富士不衛(かずえ)に嫁し、三子を得ています。

「たまぢ」は山本家を継いだが結婚しなかったので、

名門の山本家が断絶するのを恐れた渡辺廉吉氏等が計らって

高野(山本)五十六氏を養子に迎えて山本家を再興しています。

安田多膳渡(八代目),名前は正定(まささだ)、

維新後に赤川(あかがわ)哲造(てつぞう)を名乗っています。

明治2年(1869年)で四十二歳とのことなので,

多分1828年生まれです。帯刀が山本家に養子で出たため,

秦(はた)家から養子として迎えました。妻「雪」は奥山家から迎えています。

戊辰戦争の前は宗門奉行および江戸定府(じょうふ)の役にありました。

戊辰の役では槍隊隊長として朝日山の戦闘で活躍し、

長岡悠久山の戊辰槍隊戦没諸士碑に隊長としてその名前が刻まれています。

添付の手記は三男「保四郎」が残したものです。

先生の益々のご活躍を祈念しております。

敬具
安田 正史
(安田家 12代)

ーーーーーーーーーーー
ありがとうございます、機会を見て訂正いたします。
△top
2008年2月22日(金) 偽りの明治維新、5刷り決定。累計で2万7千部
昨日、東京の書店を見て回ったのですが、

偽りの明治維新、見当たりませんでした。

どうしたのだろうと思ったところ

5刷り決定のメールが今朝はいりました。

すごいことです。

皆様に感謝です。

さて昨日は東大での講演でした・

東大の構内を少し、歩いたのですが、

ここはどこかヨーロッパの街に迷い込んだような景色だった、

建物が古風で、どれも文化財の感じだった。

私が学んだ東北大学にも

赤レンガの旧制東北帝大時代の建物があるが、こちらは

はるかに数が多く大変なものだった。

ネットで調べてみたらキャンパスツアーがあった。

通常ツアー赤門をスタート、安田講堂をゴールとして本郷キャンパスを一周する

約2時間のコース。

赤門

江戸時代につくられた大学内で最も古い建築物。

安田講堂

東京大学のシンボルとも言える安田講堂。正式には大講堂。卒業式などに使われる。

三四郎池

正式名称は育徳園心字池。夏目漱石の小説から三四郎池と呼ばれている。

広報センター

学内広報施設です。ツアーでは団欒の場としてガイドが大学生活を紹介する。

御殿下記念館

学内スポーツ施設です。プールやサウナなど様々な設備が備わっている。

高校生ツアー※月に2回程度実施

歴史ロマンツアー(歴史・史跡。旧跡ツアー)※年に数回実施予定

東京大学のキャンパスは江戸時代には大名屋敷としての歴史を持ち、

近代においても数々の著名人がこの地に歴史を刻んできた。

本ツアーは通常のツアーでは飽き足らない、歴史的名所を思う存分味わいたい人向け。
一時間ツアー※年に数回実施予定

理系ツアー(工・農・理学部キャンパスツアー)※年に数回実施予定

理系ツアーは、通常のキャンパスツアーのコースには含まれていない

工学部や農学部、理学部などを中心に周るツアー。

もちろん赤門や安田講堂など、見所もしっかりご案内する。

ガイドは現役の理系東大生が勤めるので、理系志望の受験生や、

「東大ってどんな研究してるの??」という方にお勧め。

アカデミックツアー※年に数回実施予定

アカデミックツアーとは、東京大学内にある総合研究博物館や、

工学部の研究紹介スペース「T-Lounge」を中心に周り、

東京大学が保有する研究資料や研究成果に触れて頂くことの出来るツアー。

もちろん赤門や安田講堂など、見所もしっかりご案内。

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 さすがですね。今度、時間があるときに、出かけてみようと思います。
△top
2008年2月21日(木) 今日は東京
10時の電車で向かいます。

東大での講演に臨み、夕方は編集者と

赤提灯に出かける予定です。

最終電車で帰ります。
△top
2008年2月20日(水) 明日は東大で話をする
講演会、昨今、割と多いが、東大で話をするのは初めてである。

母校の東北大では一度、話したことがあった。

東大の講演は明日である。

東大の物理学教室の主催で、

テーマは山川健次郎である。

東大総長を二度、務めた人物である。

さて、ナニをどう話すのか、

夕方、考えることにしたい。

さて夕方になってしまった。

明日のテーマは

会津藩と山川健次郎である。

このテーマではこれまで、武蔵大学、九州工業大学で話したことがあるので、

ストーリィは決まっている。

話のポイントは、人間の生き方である。健次郎は東大総長をやめた後、

旧制武蔵高校の校長になった、

無給である、つまりボランテイで、高校生に英語や道徳を教えたのである。

昨今の人間は奉仕の精神が極めて欠如している。

健次郎を見習うべし、それを強調している。

後は、聞く方の反応を見ながら、話を進めることになる。
△top
2008年2月19日(火) 今日はなんと言っても週刊朝日
私も登場しています、

司馬遼太郎と新選組のコーナーです。

そこには、こうありました。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

会津を愛する人々の京都ツアーに同行した。

2008年は戊辰戦争140年でもある。

最後は会津人として生きた斉藤一を考えた。

2月2日、JR京都駅中央口に会津を愛する人々が続々と集まった。

「戊辰戦争研究会」の約30人で、『幕末の会津藩』『会津戦争全史』などの

著作がある作家・星亮一さんが主宰している。

郡山市在住の星さんはじめ、会員には福島県の人が多いが、

東京、仙台、新潟、京都などにもいる。

ふだんは、インターネットのホームページ上で意見を交換し、

ときどき戊辰ゆかりの地に集まっている。

今回は1泊2日で鳥羽・伏見や会津藩ゆかりのスポットをあるく。

・・・夜は懇談会となった。

「会津藩士はまじめですね。命令は絶対で、悲しい結果を招いています。

薩摩とはエネルギーの質が違ったでしょう。それから100年が過ぎ、

このまじめさがまた愛される時代になってきたという気がします。」

と、まず星さんがいう。

「ちょうど区切りの年の命日ということで、地下に眠る者たちも

喜ぶと思います。」

と、挨拶をしたのは、前号にも登場した青木繁男さん。

以下、続く、、、

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みなさん、是非週刊朝日2月29日号をお読みくださるようお願いします。

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投稿、


週刊朝日は我が家の宝 梶原 平馬

不義に満ちたるこの国でこれ程の豊かな心の持ち主が居られることに痛く感動しています!太田さん送本ありがとう御座います。

1)学者でもない研究者でもない「ただの人」のグループが日本でも権威のある週刊誌に掲載されることはまず考えられない出来事です。総裁初め方谷幹事長、勝支部長、足立支部長及び照姫様、皆々様の人脈の豊かさの賜物です。

2)会津人として祖先が一時期どういう理由で700キロも離れた京都へ行かなければならなかったのか?黒谷の地で多くを学びました。

3)太田さんへ、ささやかなお礼として今後会津において取材の機会がありましたらご協力いたします。毎日サンデーなので・・・どんなマイナーな所でもご案内いたします。TEL下さい。

4)2008.2月29日号は当家の宝物になりましたのでもう一冊購入して小生天国行きの際に是非同行させる旨愚息に厳命しようと思っています。

5)太田さんを4月12日竜馬会との屋形船集会へ招待しようと総裁と協議しました。方谷幹事長、連絡をお願いします。又別冊週間司馬遼太郎NO4発売日の件も宜しく。

6)当研究会へご参集の皆様、集会を未体験の方へ是非一度集会へご参加下さい。お金では買えないことが世の中にはいっぱいある事が体験できます。小生が保証します。

照姫様へ、小生も「藤沢資料」見学しました。隊士の最期のスケッチは感動物でした。

△top
2008年2月18日(月) 書評白虎隊と二本松少年隊 照姫
大阪の照姫さんから書評をいただきました。

今朝、戊辰戦争研究会のページを開けたらぱっと目に飛び込んできました。


今更ながら・・・ですが。星先生の表題のご本を読ませて頂きました。

本を読みながら、大粒の涙が止まらなくなるのは久しぶりでした。

戊辰戦争の悲劇、白虎隊や二本松少年隊の最期がどういうものか

よく分かっているのに、次のページをめくると

何が書かれているのか分かりきっているのに、何故だか引き込まれてしまいました。

でも、一番共感したのは実は最後の「あとがき」の部分です。

士族ではなかった遠藤平太は明らかに戊辰戦争に疑問を持ち、

上層部に不満を抱いていたのに、白虎隊は違っていて、

「最後まで会津藩の選択を悔やんだりせず、誇りを持って生き続けた。

永岡清治がそうであり、酒井峰治も会津の正義を語り続けた」

「会津藩の見事さはまさにその一点にあると思う。

多くの人々が飯盛山を訪ね、白虎隊の墓前に焼香するのも、

己を犠牲にした崇高な魂に感動を覚えるからである。」

星先生のこの文章を読んで、しばらく固まってしまいました。

この点はずっと疑問に思ってました。本当に不満は無かったのかしら?

でも幕末の頃の20代、30代が今と比べるととてつもなく大人であるのと同時に

10代の少年は今と比べるともっともっと純粋だったのかもしれない、

だから何の疑問も持たず突き進んだのかもしれない、と思い直しました。

そんな少年達を戦場に送り出さざる終えなかった上層部は辛かっただろう、

と思いました。

そして白虎隊に関して新しく学んだことがありました。

飯盛山にしばらく放置されていた遺体は誰なのか見分けは付かなかったのでは、

、違うんですね。遺族が飯盛山に登って、掘り起こしてみて陣羽織から見分けたり、

名前を書いた板札を身につけた遺体を見つけたりして、

見分けたと書いてあるのを見て、またため息が出ました。

そして実はまた会津に行っていたのですが、鶴ヶ城で特別展示されている

「藤沢資料」に目が釘付けになりました。

戦死した白虎隊の衣服、持ち物、髪型が事細かに記載されている資料が

あったからです。その両方がオーバーラップしてしばらく動けませんでした。

長くなりましたが、最後にもうひとつだけ。この本は二本松で購入しました。

二本松は飯盛山と比較するとなんだか悲しいくらい、ひっそりとしていました。

白虎隊ばかりが注目されて、

なんだか世間から忘れられてしまっている二本松少年隊に心が痛みました。

そんなことを思いながら二本松駅のすぐ近くにある小さな小さな本屋さんに

入ってみたらこのご本があったのです。

レジで本屋さんのご主人がちらっと私を見て小さく頭を下げました。

二本松の方々はこの本の出版がきっと嬉しかったのだろうな、と思いました。

星先生、またまた良いご本を読ませていただいてありがとうございました。

ーーーーーーーーーー

照姫さんは会津に20回以上、旅していると聞きました。

会津の皆さんに代わってお礼申しあげます。
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2008年2月17日(日) 戊辰戦争研究会は実に楽しい、今朝の皆さんからの便り
戊辰戦争研究会、会員便り
これを言いたかった。 伊達藤五郎

村田蔵六殿の言うように、長野集会の話で盛り上がっている時に、先週の下郷新年会の話題に戻るのは気が引けますが、私はこれだけは言いたいのです。
「会津のビールは美味しかった」
皆さんはビールに地域格差などあるわけない、日本中何処で飲んでもスーパードライは同じ味だ。と言うでしょう、私もそう思います、しかし実際民宿「星の井」と大内宿の蕎麦屋さんで飲んだスーパードライは、確かに美味しかったのです。なんと言ったら旨く説明できるかどうかわかりませんが、

「芯まで冷えている」
「泡まで冷えている」
「優しく冷えている」
「心地よく冷えている」
「まろやかに冷えている」

というように、会津で飲んだビールは確かに美味しかったのです。
私も自宅でビーリをキンキンに冷やして飲みますが、会津のビールとは全く違う飲み物です。会津のビールはいかにして美味しいのかを論ずる事は無益です。また会津に来て飲めばいいわけですから、よそで同じ事を求めてはいけません。
そんな訳ですから、いつもの私ならビールを飲み終えてから日本酒を飲むというのが、いつものパターンなんですが、「星の井」では、ビールを飲みながら日本酒を飲みました。つまり、

 「ビールをつまみにお酒を飲む」
という、状態でした、こんなことは経験がありません。このことだけで会津がますます大好きになりました。なぜお酒のことを「日本酒」といい、薩摩藩の「芋焼酎」のことを日本酒と言わないのでしょうか、それは「焼酎」は日本を代表していないからです。未来永劫、日本沈没があっても「焼酎」のことを日本酒と言われることはありません。

さて、大内宿「草鞋履き綱引き大会優勝」の賞品のお酒「大内宿」3本のうち1本は、私が持ち帰り、大内宿で買った「いろり焼き」のぐい飲みで晩酌しています。
晩酌しながら、下郷新年会は楽しかったなと追想しています。それもそのはずです、旅行と遠足と観光と宴会と西軍罵倒・・・東軍絶賛集会を開き、かつ「ある長州藩士の戊辰戦争」の話や、大内宿の興隆記まで聞けたのですから。

「草鞋履き綱引き大会優勝」の賞品である清酒「大内宿」3本のうち1本は私が晩酌中です、1本は村田蔵六殿が飲み終えたそうです、ではあと一本の行方は・・・。


1920 返信 長崎集結について 足立仁十郎
来年の計画がHPを賑わせておりますがこちらもおわすれなく!

「語ろう幕末!、さるこうながさき!!」
「さるこう」とは歩き回ろうという意味です。「さるく」の語源は「源氏物語」薄雲の「戯れ歩き(されあるき)たまふ・・」(子供の無邪気に戯れ遊んでいらっしゃる)
大いに「幕末・戊辰戦争・長崎」を語り、
次の日は、長崎の史跡を歩き回り、幕末の長崎に思いを馳せていただきたいと想います。OPとして鹿児島へも足を伸ばしたいと想います。「篤姫」の薩摩への旅も計画しています。

詳細はこれからですが、日程は次の通りです。
戊辰戦争研究会長崎集結」ー語ろう幕末!
さるこう長崎ー&「薩摩の旅」(OP)

11月22日(土)から23日(日)

OP:11月23日(日)から24日(月)祝日

よろしくお願いします。
 
  白河集会では「三重櫓ハンバーグ」を!!  村田蔵六

白河市最大の行事白河だるま市が11日開催されました。当日は天候にも恵まれ、15万人の人出でメインストリートは東京のラッシュアワーなみ。今年のメインイベントのひとつが「白河三重櫓ハンバーグ」のデビュー。(白河のシンボル小峰城の三重櫓をあしらったもの)

でも当日は即売り切れ。それで14日にバレンタインチョコの代わりにワイフに御馳走になりました。結構なボリュームで値段はスープ付きで750円。
米粉のパンと焼き豚・たまり漬けなど入ってなかなかのもの。

でもPRは足りないようで、7月まで続いていたら「白河戊辰祭」では皆さん楽しめるかも。

HPいつの間にか長野集会の話が盛り上がっていますね。コースの中に小布施の北斎館は無理でしょうか?アルピニスト蔵六も今月末には志賀高原でスキー。その帰りに東京吉祥寺にいけるかも。その途中佐久周辺を探訪しようかななんて考えております。まだ計画はできておりませんが。

3月には北関東自動車道の延伸もあるようですし、今年は北か南のアルプスまたは八ヶ岳予定できるかも。楽しみです。

竹との戦いが続いております。
下郷新年会の時の雪は、白河が一番多かったようで竹が雪のため折れて学童道等を塞いだりしているため、ここ2〜3日伐採に汗を流しています。

そして本日は雪で遅れた橋のペンキ塗りと灌漑用水の枯葉などの上げ方。寒すぎて凍結している用水路のゴミ上げは氷が多すぎてゴミが流れず途中で作業放棄。用水路の水質検査と花卉などによる景観形成が私の担当。汗を流し、適度の筋肉痛が健康の秘訣かも。

筋肉痛にはなりませんでしたが、その日一日全身がカッタルかった大内宿の綱引き、その時の賞品「大内の里」はもうなくなりました。ごちそうさまでした。「飛呂喜」とは違い会津の酒の趣でした。

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星より
戊辰戦争研究会、われながらすばらしい会だと思います、
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2008年2月16日(土) 土曜日ですね
早い、早い、もう週末です。

何をしていたのかな。

そう思います。野口英世、明日中に終わらせないと

次ぎの作業が始まりません。

時間刻みの週末です。

午後はNHK 文化教室でした。

演題は奥羽越列藩同盟。

仙台、会津が協議を重ね作り上げたのが、この同盟だったのです。

この時点で日本は二つの政治軍事機構が誕生したことになります。

薩長政権と同盟政権です。

この認識が従来の幕末維新史には大きく欠けていたのです。

関連図書

私の「奥羽越列藩同盟」中公新書をぜひ、お読みいただきたいと思います。。
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2008年2月15日(金) さて今日はなにを、
何を書こうか、

朝から迷っていた。

原稿は野口英世を書いていた。アフリカのアクラで死ぬ場面である。

黄熱病の病原菌をつき止るために、英世はアフリカに来ていた。

日日、実験をかさめ、病原体を発見したと自分ではおもった。

病原体が見つかれば、後は免疫の開発である。

当時、難病といわれた黄熱望、これの征服はもうまじかだった。

英世は予防注射もしていた。

とこるが、英世は黄熱病に感染した。

「なぜ、どうして」

英世は苦悶した。

英世は発見したと思ったのは別の病原体だった。英世は重態に陥り、

「わけが分からない」」

とつぶやいて息を引き取った。

人生は誰しもわけが分からないものである。

分かったという人は誰もいないであろう。

私など日日、分からない連続である。

英世の言葉は重い。
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2008年2月14日(木) 高校日本史を必修化=全国初、13年度には全校で−神奈川県
2月14日15時1分配信 時事通信

神奈川県教育委員会は14日、全県立高校で日本史を必修科目にすると発表した。

新学習指導要領では、引き続き世界史が必修科目となることが決まっているが、

同県独自の取り組みとして、日本史を加える。2010年度から一部高校で試行し、

新学習指導要領の施行が見込まれる13年度には、全約150校で実施する。

東京都は「奉仕」、茨城県は「道徳」をそれぞれ必修科目としているが、

主要科目である日本史の必修化は全国で初めて。

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当然です、

全国に展開させるべきです。 

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2008年2月13日(水) )「戊辰戦争140年in七ヶ宿」開催要項(案)決まる
「戊辰戦争140年in七ヶ宿」開催要項(案) 

1.趣 旨  今から140年前、慶応4年(1868年)

春の山中七ヶ宿通りの各宿場は仙台藩に会津藩追討の命が下されため、

米沢藩境の七ヶ宿へ出陣のため大変な騒ぎであった。

そのような中、関本陣で仙台藩、米沢藩、会津藩等の重臣による

戊辰戦争の方向を決める重要な会談が行われた。

やがて、白石城で、奥羽列藩会議がもたれ奥羽越列藩同盟の結成に繋がった。
      
 明治維新と言われる新しい時代の夜明けに起こった戊辰戦争の、

知られざる舞台となった七ヶ宿街道。あらためて、

「戊辰戦争」と言うキーワードで七ヶ宿の歴史を検証するとともに、

新しい情報を全国に発信し地域の活性化を図る。

2.期 日  平成20年5月24日(土)・25日(日)

3.主 催 「戊辰戦争140年in七ヶ宿」実行委員会

4.共 催  七ヶ宿町 戊辰戦争研究会 羽州街道交流会 みやぎ街道交流会

5.後 援  とうほく街道会議、奥州街道会議、七ヶ宿町史談会、
 (予定)  南とうほく街道ネットワーク、各報道機関

6.内容及び会場
  第1日目[5月24日(土)]
   第1部  七ヶ宿町活性化センター《宮城県刈田郡七ヶ宿町字関94》
          TEL 0224−38−1211
     ◇受  付(13:00〜13:30)
     ◇開会行事(13:30〜13:50)
1)主催者あいさつ 七ヶ宿町長
2)来賓祝辞
     ◇基調講演(14:00〜15:30)
      (仮)「戊辰戦争と七ヶ宿」
         作家 星  亮 一氏
            (戊辰戦争研究会主宰)
     ◇パネルディスカッション(15:40〜17:30)
       テーマ 「            」
パネラー(予定)@加藤 貞仁氏(作家)
A栗原 伸一郎氏(東北芸術工科大学
文化財保存修復研究センター)
               B遠藤 由紀子氏(昭和女子大学講師・戊辰戦争研究               会会員)
               C?(仙台藩関係)
       コーディネーター 星  亮一氏

   第2部 七ヶ宿町活性化センター
◇交流研修会(18:00〜20:00)
      ・希望者のみ(参加料あり)
      ・思い思いに戊辰戦争談議を語っていただきます。
 
  ◆宿 泊(希望者のみ:宿泊料あり)
       旅館 七ヶ宿館《宮城県刈田郡七ヶ宿町字関30》
          TEL 0224−37−2408
       民宿 大川屋《宮城県刈田郡七ヶ宿町字下八合2》
TEL 0224−37−2611
  
第2日目[5月25日(日)]
     ◇歴史探訪会(9:30〜14:30)
       ・七ヶ宿街道を中心にした戊辰戦争関連史跡や旧跡を探訪する
       ・バスや徒歩で廻って歩く、途中の昼食は山菜料理
     ◇閉会行事

7.参加費
  ◆第1部(基調講演・パネルディスカッション)・・・無料
  ◆第2部 交流研修会・・・3,000円
◆宿 泊 旅館 七ヶ宿館・・・5,000円(1泊朝食付き)
       民宿 大川屋 ・・・4,500円(1泊朝食付き)
  ◆歴史探訪会・・・1,500円(昼食代、保険代含む)

8.参加募集人数
  ◆第1部(基調講演・パネルディスカッション)・・・150名
  ◆第2部 交流研修会・・・50名
  ◆宿 泊 七ヶ宿館・・・25名、大川屋・・・20名
  ◆歴史探訪会・・・50名

9.申込先お問い合わせ先
   〠〒989−0512 宮城県刈田郡七ヶ宿町字関126
     七ヶ宿町教育委員会 戊辰戦争140年in七ヶ宿係
     TEL 0224−37−2112
     FAX 0224=37−2203
E-mail shichi31@town.shichikashuku.miyagi.jp

10.申込み期限
    平成20年5月13日(火)
     
11.申込み方法
所定の様式に記入の上、メール・FAX等で上記あて申込み願います。

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 偽りの明治維新、4刷り決まる

今朝、大和書房編集部からメールが入り、4刷りが決まりました。

累計で2万4千部になります。

発売1ヵ月で4刷りは驚きです。

続者の皆さんに御礼を申しあげます。
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2008年2月12日(火) 気合を入れて原稿執筆
京都集会、下郷集会と続き、今日も外部で会議があり、

なかなか原稿が書けません。

せめて夕方から気合を入れて原稿を書きます。

いま書いているのは

野口英世

母シカのことを書いています。

伝記では勝気で、積極的な女性に描かれています。

これに対して野口家の男たちは、ぐうたらで、酒飲み、

放浪癖、皆、ひどく書かれています。

シカが懸命に働いて英世を育てる、

そういう構図です。

これはどうも違うぞというのが私の説です。

祖父は会津藩主松平容保の京都守護職に

加わり2回にわたって上洛していました。

藩士の仲間、従者という立場ですが、戦争になれば、即、戦闘要員です。

大変な体験である。

戊辰戦争にも参戦していました。

これをぐうたらとかたずけるのは

誤りです。

博学の人物だったに違いありません。

父親は酒飲みとあったが、働きものだった。

意図的に不真面目な男とされてしまった。

どこかにからくりがあったのです。
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2008年2月11日(月) 湯の上温泉
戊辰戦争研究会新年会、

リポート


湯の上温泉 新年会 勝海舟

初日は総裁の講演に始まり、地元公民館の佐藤様による「大内宿保存」

の変遷等についての講演、

熱血鳥居三十郎殿の、いつもと趣向を変えた「ある長州藩士の戊辰戦争」の発表、

遠く福岡の地から参加され、古屋佐久左衛門殿も研究発表、

「戊申回廊福島」を提案して下さいました。


足立仁十郎殿は11月開催に向けての「長崎集会」の日程や、予算などの案を

実に6枚もの詳細を準備して説明して下さいました。

参加者の方を最善の対応で迎えたいとの、


足立殿の想いにとても感動しました。

2日目の本日は素晴らしい天気。白銀の世界の「大内宿」へ。

雪祭りが行われていて、

綱引きのイベントに参加。なんと「戊辰戦争研究会」が優勝!

賞状と日本酒3本をゲットしました。

「戊辰戦争研究会」の男性が逞しい「漢」達であることを目撃しました!!!

幹事の梶原顧問、おつかれさまでした。

参加者の皆さん楽しかったです、有難うございました。

ーーーーーーーーーーーーーー

というような新年会でした。

ともあれ大内宿、

すごい人出でした。
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2008年2月10日(日) 元時津風親方 ビール瓶で10回…序ノ口力士死亡事件
2月10日8時1分配信 スポーツ報知

あきれるほどひどい。

日本相撲協会は責任を取るべきである。

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 大相撲時津風部屋の力士傷害致死事件で、

元親方の山本順一容疑者(57)が9日、愛知県警の調べに対し、

斉藤俊(たかし)さん(当時17歳)=しこ名・時太山=の

死亡前日にビール瓶で10回叩いたと供述していることが分かった。

さらに死亡前日に山本容疑者と兄弟子による説教と暴行が約3時間続き、

亡くなる当日には兄弟子が斉藤さんを金属バットで4、5回、

殴打していたことも判明した。捜査本部はこの日、

山本容疑者と3人の兄弟子を名古屋地検に送検した。

 斉藤さんの死亡の裏側にまたも衝撃的な事実が発覚した。

死亡前日の6月25日、夕食の席で山本容疑者がビール瓶で斉藤さんを

10回も叩いていた。逮捕前は「軽く小突いた」と説明していたが、

捜査本部の調べに「ビール瓶で腹などを約10回小突き、1回は額を殴った」

と供述したという。

 衝撃はこれだけではない。捜査本部の調べでは午後7時ごろから

山本容疑者が夕食の席で、部屋から逃げた

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とにかくひどい。

これは殺人罪だ。
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2008年2月9日(土) 英世の祖父は、京都で薩長と戦う
意外な事実を発見しました。

野口英世アフリカ賞、3月に受賞者が発表になります。

賞金1億円、ビッグな賞です。

英世は

「おれは白虎隊の末裔だよ」

と語っていました。

どうだろうねえ。

彼は猪苗代湖畔の農家の生まれ、

広い意味での会津人という意味かなあ

そう考えてきました。

これは違っていました。

英世はれっきとした会津のサムライの血を引いていたのです。

祖父善之助が会津藩の上級武士、諏訪武之助の従者として

京都に向かい、御所の警備に当たっていたのです。

従者は戦闘になれば、もちろん兵員である。

これは英世の精神史を分析する上で

大変、大きな意味を持つものです。

目下、

あたらしい観点で

英世を書いています。

さて、今日はこれから戊辰戦争研究会野新年会で

会津下郷の湯の上温泉です。

明日は冬の大内宿を訪ねます。
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2008年2月8日(金) 相撲協会、役員は交代すべし
理事長交代ではないでしょうか。

新聞報道によれば、

昨年6月25日昼に愛知県犬山市の部屋宿舎から逃げ出した斉藤さんを

兄弟子たちが連れ戻し、同日夜に山本容疑者が説諭しながら、額をビール瓶で殴打。

さらに兄弟子たちに「おまえらもやってやれ」と指示した。

その際に「てっぽう柱に縛り付けておけ」と言ったという。

斉藤さんは約20分、てっぽう柱にひもで縛られるなど、

木の棒まで使った暴行は午後10時ごろまで続けられた。
 
翌26日は午前11時から兄弟子数人で囲み、

通常5分程度のぶつかりげいこを30分以上続けた。数十発の張り手や蹴りに、

この日は金属バットでの暴行も加わった。

「暴行を受けてる間はほとんど無言だった」(同課長)

と無抵抗で耐える斉藤さんは、多数の皮下出血やあばら骨を折るなどした。
 
同県警では、現役力士にぶつかりげいこをしてもらい、

血液中の乳酸値などを測定。「ぶつかりげいこの範ちゅうにないと判断した。

それを立証するため慎重な捜査を行った」(同課長)。

その結果、30分に及ぶぶつかりげいこが異常であると判断。

2日間にわたる暴行が斉藤さんを死に至らしめたと結論付けた。

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話のほか、理事総入れ替えですね。審議会の役員も

入れ替えです。

冗談じゃない、

これは集団殺人事件だ、




 
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2008年2月7日(木) 餃子問題
私は餃子が大好きである。

昨今、福島駅前の餃子店で食べたが、すごくおいしかった。

中国にも何度も行ったので、当地の餃子もずいぶん食べた。

今回の中毒事件、犯罪の様相が明らかになったが、

腹が立つのは、JTである、これまで異常があったのに、

問題なしとかたずけた。

日清食品が、統合をやめてのも当然である。

町を歩けば、タバコのポイ捨てがひどい。しかしJT の職員が拾っている姿は

見たことがない。

企業の倫理観が希薄だという印象は持っていた。

案の上である。

これでますますタバコ離れは進むだろう。

それにしても中国は、原因を明確にする必要がある。

犯罪であれば犯人を検挙し、なぜ犯行に及んだのか、

その理由を明確にすべきである。

それがなければ、

中国産の餃子は食べられない。
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2008年2月6日(水) 京都、金戒光明寺
長崎の足立仁十郎 さんから

今回の戊辰戦争研究会京都集会、下記の感想が寄せられました。

黒谷の金戒光明寺へは二度目でした。前回は「新撰組」が好きで訪れました。

しかし、今回は違いました。「戊辰戦争研究会」に入り、

いろんなことを知った上での再訪でした。容保公の思い、会津藩士の活躍、

そして、一番の「勤王」であるにもかかわらず「朝敵」の汚名・・・

もし、会津藩が、新撰組が必死で「攘夷」を押さえ込んだからこそ、

今の日本があるといっても過言ではないと思う。世界史的に見ても、

あの時代に諸外国の侵略を受けずに日本という国が新しい近代国家へと

変身出来たのは奇跡かもしれない。

その陰には会津藩が流した血と汗と涙が会ったことを忘れてはならないと思う。

そんな気持ちで光明寺では容保公のお心を思い、

会津墓地や鳥羽伏見では亡くなった方々の魂(こころ)と無念とを思い合掌。

三日の雨は、古の武士たちの涙雨でなかっただろうか?!

百四十年の思いと我々に対する思いの・・・・

黒谷金戒光明時にて

「黒き雲京都を覆う暗い影
        光明灯す一陣の風」

会津墓地にて
「千年の京都の華に貫く義
        熱き会津の武士の道」

鳥羽伏見にて
「ひえびえと面影空し古戦場
        武士たちの心知らずや」

「大砲に草木は燃えて鳥羽伏見
(おおづつ)  葵は枯れて栄華は空し」

旅館にて
「古に異人が呼びし冬のバラ
        積雪の庭赤い花咲く」 
         
シーボルトは椿を「冬のバラ」とよびました。

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足立さんは戊辰戦争研究会

副幹事長兼長崎支部長です。

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「会津藩VS薩摩藩」

この本はベスト新書から発刊されます。

過去に

「会津藩VS長州藩」

を出しています。

薩摩人の気迫、闘争心には敬意を表しています。

しかし、会津人の正義感も又素晴らしいものでした。

双方がぶつかりあったのです。

立場の違いでした。

問題は思想信条の違いを乗り越えて、

ともに日本を作るという寛容の精神に欠けていたことです。

会津人を流罪に処し,朝敵の汚名を着せたことは誤りでした。

これは一般の兵士ではなく、指導者の問題でした。
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投稿

たんぽぽ

偽りの明治維新読ませて頂ました。

会津戊辰戦争初心者には大変読みやすい、

分かりやすい本ですね。郡山在住の娘がこの本のプロローグを読んで感動

し納得していました。

今になってやっと会津VS長州薩摩の構図が見えてきたようです。

一般の人々は

そういうものらしいです。

残念ながら会津や箱館戊辰戦争のことすら知らない人が

います。少し前まで私もその一人でした。

会津のひとがこんなに苦しい目に

あっていたなんて。。。

これを機会に娘も巻き込んで会津戊辰戦争の勉強を

していきたいと

考えています。星先生、きっかけになる本をありがとうございました。
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2008年2月5日(火) 会津藩VS薩摩藩
今日、脱稿、

長い40日でした。

会津藩と薩摩藩

どこがどう違うのか。

いろいろありますが、いい悪いは別にして、薩摩にはいつも藩内抗争がありました。

藩主は親、兄弟で軋轢があり、島津斉興と斉彬、斉彬と久光、お由良も絡んで

血みどろの争いがありました、

西郷もそのとばっちりで、奄美大島や沖永良部島に流されました。

対立抗争、陰謀、のろい、恨みが藩内に充満していたのです。

そこでいかに生きるか、葛藤がありました。

日日、戦いだったわけです。

会津藩は藩内抗争はありませんでした。

主君松平容保を頂点に一糸乱れぬ団結を誇っていました。

それがよかったのか、裏目に出たのか。

修羅場の鍛錬が弱かったことは事実です。

異分子や対立抗争も時には必要なことでした。

幕末は激しい葛藤のなかから人材が生まれました。

会津藩は競り合いに弱かった、しかし誰にも負けない忠誠心をもっていた

ということでしょう。

最後の籠城戦は、日本の戦争史に残る見事な戦いでした。

人間、死を覚悟すれば、もう怖いものはありませんでした。

霊鬼となって戦ったのです。

玉砕しか残されていない戦いでした。

それを平然と見ていた薩摩の伊知地正治、土佐の板垣退助、

私は冷酷無情な二人に腹が立つのです。

続きは明日、
△top
2008年2月4日(月) 今日は最高の天気です。
今朝は最高の天気です。

仕事場から白雪の安達太良山があざやかに見えます。

素晴らしい風景です。

気持ちがいいですね。

ところで土日曜日の京都旅行、すごい収穫でした。

寒い、寒い、大変でしたが、

鳥羽伏見トレッキング

これは大満足でした。

後日、詳しくご報告します。

びっくりですよ。

--------------
在パリ、マサヨ本田

パリの子供たちに白虎隊を教えます。

これでいかがでしょうか。

白虎隊とは?

 1886年1月、戊辰戦争という薩長新政府対旧幕府軍の戦いが

始まりました。
 
会津藩は当時交流のあったフランスから軍政をならい、

年齢別に軍隊をつくりました。
 
軍隊の名前は中国の故事から方角の神様の名前をとりました。

 東 青龍隊 36歳〜49歳
 
 西 白虎隊 16歳〜17歳
  
 南 朱雀隊 18歳〜35歳
 
 北 玄武隊 50歳以上

会津の近くに薩長新政府軍が来ましたが、一番強い部隊の朱雀隊、

青龍隊はどんどん負けてしまいます。敵に囲まれ、苦しい戦いです。

白虎隊は予備兵です。町の中を守るのが仕事ですが、

白虎隊の助けが必要になりました。

会津藩主松平容保は白虎隊を戦争に行かせることについて大変悩みました。

彼らはまだ少年です。夢や希望に満ち溢れた未来があります。

しかし、松平容保は白虎隊を戦わせることを決断しました。

8月22日、薩長新政府軍は会津に入ってきました。

白虎隊は戸ノ口原で敵と戦いますが、負けて山の中へ逃げて行きます。

夜になると雨が激しくなりました。

戦い疲れましたが、食べる物がありません。

途中から、隊長が食べ物をとってくるといっていなくなりました。

次の日も山の中を戦いながら逃げ続けました。

皆、前の日から寝ていません。何も食べず疲れ切っています。

それでも、歩き続け飯盛山へ出ました。そのとき、

一人が町の中を見下ろすと鶴ヶ城が燃えています。

 会津が戦争に負けたと思った白虎隊は「ハラキリ」をします。

 しかし、本当に燃えていたのは会津の町の中で、鶴ヶ城ではありませんでした。

 前の日からの空腹と疲労で正常な判断ができず、

このような悲劇的最後をとげました。
 
それから、戦争は一ヵ月続きましたが、会津藩は負けました。
 
生き残りの白虎隊がこの出来事を話したのは年をとったときでした。

それにより、会津を守る家族を守るという純粋な気持ちで戦った

少年たちの悲劇が今に伝えられています。    

白虎隊は、今や日本中に知られています。

白虎隊が「ハラキリ」した飯盛山のお墓には、

今も訪れる人が絶えません。

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大変、結構です。

フランス人の反応を伝えてください。
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2008年2月2日(土) 2日、3日は京都です
戊辰戦争研究会の旅で、2、3日は京都です。

今朝は4時過ぎに起床、

荷物を点検して仕事場に向かい、

お茶を飲んで、少し、原稿を書き、7時18分の新幹線で

京都に向かいます。

京都着は正午前後です。

さすが新幹線、早いですね。

昨日、仕上げるはずだった

「薩摩藩VS会津藩」

の原稿、最終章が残ってしまいました。

4日送稿、編集者にお詫びもメールを送りました。

読み直すと、リズムの悪さが目立ち、時間がかかってしまいました。

今日、明日の行程は下記の通りです。

 2日 12:20 タクシー京都駅〜黒谷金戒光明寺、13:00着 昼食、

松平容保・近藤勇謁見の間見学

15:00 御所まで散策 16:30 ホテルへ(送迎バス) 18:30 懇親会

 3日  8:45 旅館発 JR 花園9:13発  JR京都駅荷物(ロッカーへ)
 
10:00京都発 近鉄線 竹田駅 10:15 約4時間散策。

お昼は、おにぎりの予定。
 
竹田駅〜鳥羽・伏見の戦い史跡〜淀駅15:00〜京都16:00 解散

という日程です。

3日は鳥羽伏見トレッキングです。

ここは2度目ですが、

今回は

「鳥羽伏見の砲声」

を書くことを決めているので、

真剣に見て回ります。

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鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい,

ヤフーから

[編集] 概要
慶応3年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた

王政復古の大号令により、大坂に退いていた前将軍・徳川慶喜に対し

辞官納地が命ぜられた。さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行う

(庄内藩の江戸薩摩藩邸焼き討ち事件)と、慶喜の周囲では

「討薩」を望む声が高まり、慶喜は軍事的な京の封鎖を試みた。

旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、

新選組などは伏見市街へ進んだ。

慶応4年正月3日の夕方に、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と

大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、

鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。

鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、

伏見では奉行所付近で佐久間近江守信久や

窪田備前守鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、

土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍の小銃火力に敗れた。

5日、淀藩への入城を拒絶された(下記参照)幕府軍は淀千両松に布陣するも惨敗。

なお、この戦闘の最中、新選組結成時からの主要幹部隊士の一人であった

井上源三郎が戦死するが、彼の甥である井上泰助が源三郎の首を

持ち帰ろうとしたものの、あまりの重さのために仲間の隊士から諭されて、

戦場の近くの寺院の境内に源三郎の首を埋葬したというエピソードが伝わっている。

幕府軍は敗走に次ぐ敗走の末、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に

分かれて最後の決戦に挑む。西側の橋本は遊郭のある宿場で、

そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張った。

東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ幕府軍にあった。

しかし、対岸の大山崎を守護する津藩の裏切り(下記参照)に遭い、

思いもかけない西側からの集中砲火を喰らった幕府軍は総崩れとなり

、淀川を下って大坂へと逃れた。この戦いで、

京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(のち死亡)、

新撰組諸士調役兼監察山崎烝が重傷(後紀州湾沖にて死亡)、

同吉村貫一郎が行方不明(後に大坂の南部藩藩邸で自害)となった。

旧幕府軍は淀藩主(京都市伏見区)稲葉正邦(慶喜の側近の一人で現職の老中)

を頼って、淀城に入り建て直しをはかろうとした。

しかし淀藩は新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ。

このため旧幕府方は15,000人の兵力を擁しながら緒戦にして

5,000人の新政府軍に敗れた。翌4日も戦闘が続き、

5日になると明治天皇が仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え

(岩倉具視が偽造したという説もある)、新政府軍が官軍となる。

これにより日和見を決めていた鳥取藩、

山崎にいた津藩兵(旧幕府軍先鋒)などの諸藩が新政府軍に付いた。

このため、旧幕府軍の劣勢は決定的になった。

8日、開戦に積極的で無かったとされる慶喜は大坂城におり、

旧幕府軍の敗戦が決定的となり、7日には慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、

その夜僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、

会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、

大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。

旧幕府軍の総大将の徳川慶喜の撤退と、新政府軍の砲兵力

、新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、

旧幕府軍の全面敗北となった。以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、

北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。
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2008年2月1日(金) 偽りの明治維新、3刷り
だいわ文庫

「偽りの明治維新」

おかげさまで3刷りになりました。

部数は3、000部、トータルで21、000部と2万の壁を越えました。

皆様に感謝いたします。

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偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実
だいわ文庫 93−1H
星亮一/著


出版社名 大和書房
出版年月 2008年1月
税込価格 740円
頁数・縦サイズ 268P 16cm

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■商品の内容 
[要旨]
日本史上稀に見る悲劇、会津戊辰戦争。死者の埋葬も許さず、財宝や女性を略奪した官軍の所業は、闇に葬られ、誰も知らず、教科書にも書かれていない。西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允…。明治維新の元勲たちは本当に英雄なのか?天皇を利用して戦争を仕掛けた薩長が官軍で、尽忠報国の会津が賊軍となった歴史の交差を紐解く。

[目次]
第1章 悲惨な実態;第2章 兵士たちの思い;第3章 会津藩の降伏;第4章 京都守護職;第5章 立ちはだかる男たち;第6章 大政奉還;第7章 挙藩流罪;第8章 地獄の日々;第9章 二つの道;第10章 屈折の明治


■書店レビュー   総合おすすめ度: ★★★★  

歴史が動く時、惨劇がつきものとは言え・・
鈴木書店  (岩手県奥州市)→当店のレビューを見る    おすすめ度:

平成にして、今尚消しえないでいる会津(福島県)人の長州(山口県)人への怨念。

京都守護職として、力の限りを尽くした会津藩を待ち受けていた最悪のシナリオは

不可欠だったのか?歴史が動く時の惨劇は、

我々の予想を遥かに超えるものだった!!官軍が守ろうとしたものは、

私的権力か?!国家か!?  (2008年1月11日)

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