星亮一 今日の一言

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2007年1月31日(水) 戊辰戦争研究の課題2
いまダブルで原稿を書いている。

1冊は「パラオ戦記」である。

もうT冊は「白虎隊と二本松少年隊」である。

白虎隊と同じように、二本松の少年たちも戦場に散っていった。

二本松藩は実によく戦っている。

奥州街道に位置する二本松は、仙台藩兵が、しょっちゅう通り、

早くから戦場だった。

阿武隈川を隔てて対岸が本宮である。

その後方に三春藩があった。

三春も列藩同盟の同志であった。

板垣退助の土佐断金隊が、迫ったとき、

三春藩は同盟を離脱して寝返った。

仙台兵や二本松兵は突然、背後から銃撃された。

二本松の人々は長い間、三春人を嫌ってきた。

三春狐と呼んで、武士道を持たぬサムライと蔑視した。

三春藩はなぜ裏切ったのか、

これも研究課題の一つである。

私たちは会津戦争を戊辰戦争と考えがちである。

ところがそれはひとつの戦争に過ぎないのだ。

もうひとつの大きな戦争は北奥羽戊辰戦争である。

秋田藩が同盟を離脱、怒った庄内藩、南部藩が秋田に攻め込んだ。

これも大きな研究テーマである。

官軍に寝返って秋田はどうだったのか。

どんな恩賞をえたのか。秋田県が飛躍的に発展したのか。

これも検証しなければならない。

今年は手分けして個別研究を進めたい。

10日の研究集会、議題は山ほどある。

戊辰戦争に興味と関心のある方は、白石にお出かけ下さい。
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2007年1月30日(火) 戊辰戦争研究の課題
2月10日、白石集会で発表する骨子をまとめた。

会津若松の戦闘や白虎隊のことは書き尽くされたといってよいが、

この時の米沢藩、仙台藩の藩内事情は、分からない部分が多い。

具体的にいうと奥羽越列藩同盟崩壊の事情である。

誰からどのような働きかけがあったのか、

藩内でどのような論争があったのか、

調査、分析する必要がある。

新発田藩の藩内事情も参考になるだろう。相馬藩の動向も注目される。

第2点は、関東戊辰戦争である。

関東の諸藩が、どのような形で薩長新政府に荷担していったのか、

これも個別的に調べる必要がある。ここは手付かずの状態である。

第3点は武器の流れである。

イギリスの武器商人と薩長の関係

プロシャ人スネル兄弟と列藩同盟の関係

これも研究テーマとして大切である。

テーマはきりがないほど一杯ある。

以下、続く
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2007年1月29日(月) 悲劇の珊瑚礁
目下、原稿を書いているパラオのペリリュー島の玉砕戦。

参考資料のひとつがジョージ・ハント大尉の「悲劇の珊瑚礁」である。

硫黄島の前に行なわれたパラオ諸島のひとつ、

ペリリユー島の決戦は、一万八千人の日本軍が玉砕した。

米軍の死傷者は八千八百を数えた。

米軍の上陸作戦は空爆と艦砲射撃からはじまる。

空爆よりも恐ろしいのは、艦砲射撃である。

見る見るうちに大木が吹き飛び、山肌が裸と化してしまう。

山も野原も破壊し尽くしてから米軍の上陸が始まる。

日本軍は洞窟に隠れてじっと上陸する兵を待っている。

敵の上陸用舟艇が砂浜に近ずいた瞬間、日本軍の反撃が始まる。

日本軍の兵士は地雷を抱えて敵の戦車に突っ込む。

双方、死に物狂いで撃ちまくる。

ハント大尉は雑誌の記者だった、大尉の舟艇は後ろだった。

先陣を切った上陸用舟艇は、日本軍の野砲や、瑠弾砲で、

何台もやられ、けが人が浜辺に

のたうち回っていた。

内臓がはみ出て、頭を蜂の巣のように打ち抜かれた死体、

顔と体が引きちぎられ、それでも生きている兵士、

木のてっぺんまで吹き飛ばされ、引っかかっている兵士、

もう地獄だった、

日本軍は弾薬が切れるとバンザイ突撃である。

機銃でバタバタと撃ち殺す。

洞窟の穴は火炎放射器で焼き尽くした。

泣き喚き、取り乱し、動けなくなった米兵、

突如、日本軍の軽戦車が突進してきた。

バズーカ砲で、一発でし止め、バラバラになって炎上した、

珊瑚礁には日本兵の死体が何層にもなって重なっていた。

顔を硬直させ、歯を剥き出した死体、にやりとわらっている

ような表情の兵士、

手足がちぎれ、足や胴体が岩場に散乱していた。

ハント大尉は、浜辺の状況を克明に描写した。

これが戦争だった。

ハントはこれを雑誌に送り続けた。
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2007年1月28日(日) 新選組流山始末
なぜ近藤は捕縛連行されたのか。

水戸で取材した最新情報。

まずは流山観光協会の観光情報

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 幕末の一時期、一世を風靡した新選組は、

慶応4年(1868)正月鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸へ戻った。

2月16日、西郷隆盛を参謀長とする官軍が征東のために京都を出発。

近藤勇らは、これを甲府で迎え撃つため甲陽鎮撫隊を結成し、

3月1日江戸を出発。ところが官軍は3月4日に甲府入りし、

6日にはその先発隊と近藤勇らは甲州勝沼で激突することになる。

軍事力のはるかに勝る官軍にとって近藤軍はすでに敵ではなかった。

近藤・土方らは1日で再び敗走の旅を続ける。

 地元の言い伝えでは、その新選組残党が流山入りしたのは

3月20日頃といい、近藤は大久保大和・土方は内藤隼人と名乗り、

20数名であったといわれる。なぜ流山を選んだかは不明であるが、

当時の流山は江戸川の水運によって大いに栄えており、

幕臣や水戸浪士が付近にいたこともあって、

兵力増強のうえでも適地であったと思われる。

近藤勇が本陣に選んだのは酒造家長岡屋で、

日増しに集まる隊士のために諸家に分宿したという。

長岡屋は、当時流山きっての豪商だったが、

維新後に倒産し、そのあと志摩屋を経て

現在は株式会社秋元になっている。

同社内には当時の蔵が現存しており、往時をしのばせている。

一方、官軍の東山道隊は板橋にあり、参謀は香川啓三であった。

4月1日板橋を出発して粕壁(春日部)に宿陣したが、

流山に賊徒が集まっている、という情報を同隊は聴収した。

4月3日、香川の指揮する一隊が「羽口(はぐち)の渡」

を渡って長岡屋にせまって来た。香川は交渉のため、

先遣隊を長岡屋におくったところ、

大久保大和と名乗る代表が出てきた。
 
もちろん、このときは近藤や土方がいるとは夢にも思わなかったが

、かつて旧御陵衛土で伏見襲撃組のひとりであった加納道之肋

(または渡辺九郎衛門ともいう)という隊上が

近藤勇であることを見破ってしまう。

近藤勇はこの時すでに時勢の流れを見極め、

これ以上官軍と戦うことは徳川慶喜公の志にそむき、

また、流山に兵火をあげることは町の人々を苦しめることになるとして、

諸人を救い、自分一人死んでも恨みはないと決意をかためたという。

近藤勇が自首したのは、慶応4年4月3日の夕刻といわれている。

近藤勇は情の人、逆心のない人といわれ、

これを物語る勝沼の戟のエピソードがある。

 近藤軍が官軍とくらべていかにも小勢であったため、

民兵の一隊をおくろうとした人に、

「相手は先頭に錦の御旗を立てている

天朝方の軍であるからその必要はない」と、

民間人までを朝敵といわれないよう心づかったという。

幕末史に大きな波乱を残した近藤勇は板橋に護送された。

近藤の処置については、官軍の中でも賛否両論で紛糾したが、

ついに3週間後の4月25日板橋の霧と消えた。

時に近藤勇35歳の若さであった。

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これが通説である。

さて新説は

増田光明著「新撰組五兵衛新田始末」に書かれている。

流山の崙(ろん)書房の最新刊である、

近藤は流山に行く前、五兵衛新田に屯所を構えていた。


現在の東京都足立区綾瀬である。

屯所となったのは名主の当主金子健十郎宅で、

ここで近藤が過ごした日々を当主が記録していた。

それは膨大な量の古文書で、筆者はそれを分析、

近藤がなぜ流山でいともたやすく捕縛されたか

を分析した。

私は日ごろ、資料の重要性を唱えている。、

研究というのは、まず資料に当たることである。

新資料の発見、発掘で、まるで解釈が変わってくる。

もっともいけないのは、孫引きである。資料に当たらずに、

もっともらしい解釈をするやり方である。

健十郎が書き残した資料は、近藤の考えを明確に示すものだった。

近藤は会津に向かうべく

火薬の製造に当たっていたのである。

大量の炭を買い求め、硝酸カリユームや硫黄も調達し、

それをもって火薬を作り、会津に向わんとしていた。

薩長軍の探索が厳しくなったため近藤は流山に移り、

そのとき製造した弾丸と火薬を運搬業者に依頼した。

ところが手違いが生じ、火薬の到着が遅れ、

そこに薩摩の有馬藤太が乗り込んできた。

弾丸と火薬がない。

これでは戦闘は出来ない。

近藤は観念して捕縛されたと増田さんは

分析した。注目すべき見解である。

この本はおすすめの一冊である。

崙書房の電話04−7158−0033

フアックす04−7158−2316
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参考、有馬藤太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

有馬藤太(ありま とうた、天保8年(1837年) -

大正13年(1924年))は、幕末期の薩摩藩士。東山道総督府斥候。名は純雄。

薩摩藩砲術師範有馬藤太(同名)の長男に生まれる。

小野郷右衛門に飛太刀流を学び、十九歳で師範代になるほどの腕前だった。

特に抜刀術を得意としたという。伊地知正治に引き立てられた。

慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、

4月に東山道総督府の斥候を命じられ、

香川敬三率いる一隊に従軍して宇都宮へ向かった。

途中、流山に旧幕府軍が駐屯しているという報告を聞き、

不意をついて甲陽鎮撫隊(新選組)の陣屋を包囲。

局長近藤勇を越谷まで連行する。
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2007年1月27日(土) 土曜日は水戸です
ペリリュー島玉砕の取材のために水戸に出かけた。

茨城出身の人がペリリューに向い、玉砕したのです。

昨年夏、パラオに出かけ、ペリリューとアンガウルの玉砕戦を取材、

「もうひとつの玉砕戦」

も書いています。すでに原稿が大半仕上がり、目下、最後のまとめである。

あわせて

「水戸天狗党」

来年、書くつもりです。

天狗党関連の史跡も見てきた。

結果は来週、この欄に記載する。
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2007年1月26日(金) 硫黄島からの手紙
映画「 硫黄島からの手紙 」をみた。

大変、感動した。

ちょうど「山本五十六と山口多聞」(PHP文庫)を書いていたので、


一層、興味深く戦争とはこいうものだなあと

思いながら観賞した。

今朝の読売新聞によると、アメリカでは興行不振だという。

イラク戦争でもう戦争はごめんだ、

という国民感情も背景にあるのだろう。

渡辺謙の主演映画だけに、日本人は大いに

この映画を見て支援しなければならない。

映画は第2次世界大戦時の最も悲劇的な戦いと言われる

“硫黄島の戦い”を、日本側の視点から描いた戦争映画である。

硫黄島でアメリカ軍を悩ませた伝説の陸軍中将である

栗林忠道と彼の部下たちによる死闘が描かれる。

監督は『ミリオンダラー・ベイビー』のクリント・イーストウッド。

『ラスト サムライ』の渡辺謙、嵐の二宮和也ら、

日本人俳優が出演する。イーストウッドが日米双方の視点から

“硫黄島の戦い”を描く

“硫黄島プロジェクト”第2弾作品としても注目だ。

(シネマトゥデイ)にこうある。

迫力満点。もし自分が戦場に行ったらどうなるんだろう。

やはり死ぬしかないのか。

さまざまなことを考えさせる映画である。

おすすめしたい力作である。

今朝、車を運転しながらラジオを聞いていたら

硫黄島に行きたいという人が急増している。

聞き間違いでなければ、鹿児島県に同じ名前の島があり、

よく訪ねてくる人がいるというが、

これは全然、別の島。

本当は小笠原諸島の島で、

一般の立ち入りは禁止。

なぜかみることが出来ない。

何とか解放してほしいものだ。ぜひ出かけて見たい。
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2007年1月25日(木) 安倍離れ、これでは長州が泣く
安倍総理の支持率が下がっている。

テレビの会見を見ていても、迫力がないし、面白さもない。

それをカバーすべき官房長官が、テレビ的でない。

アメリカの報道官とか国務長官の説明は

それなり迫力がある。テレビを見ている人に、

なにか新しい物を提供している。

とことが安倍総理に迫力がなく、塩崎さんも味気がない。

これでは人気は出ない。

官房長官はミスキャストである。

栃木の渡辺さんの方がよかったと思う。

こうなると小泉さんが懐かしなる。

自民党をぶっ潰すなどの発言は。、国民にアピールした。

安倍総理は自分は長州藩の出だといった。

吉田松陰にしろ高杉晋作にしろ

迫力はあった。戦う姿勢があった、

会津を圧倒するなにかがあった。

安倍さんには長州の迫力がないように見受ける。

ガンガン行動してほしいと思う。

ーーーーーーーーーーーーーー
産経緊急世論調査】

安倍内閣支持率が急落47%↓

復党反対67% 内閣支持率は50%下回る 

 産経新聞社はFNN(フジニュースネットワーク)と合同で

11月30、12月1の両日、「政治に関する世論調査」を実施した。

郵政民営化に反対して、自民党を離党した「造反組」議員11人の

復党について「反対」と回答した人が67.2%に達し、

賛成の17.3%を大きく上回った。世論の厳しい反応を裏付けた結果で、

安倍内閣発足直後の9月に実施した前回調査で

63.9%だった内閣支持率は、47.7%と

16.2ポイント低下した。

 復党に反対した人の理由で最も多かったのは、

「来年夏の参院選目当てなのがあからさまだから」で45.1%。

「かつて郵政民営化に反対した」24.6%▽

「復党の理由がよくわからない」15.9%−が続いた。

 逆に、賛成と答えた人の理由では

「『造反組』議員はもともと自民党議員だったから」

が最も多く、43.9%。
「安倍政権に代わったから」「今回、郵政民営化支持などを約束した」がそれぞれ16.2%だった。

 「造反組」議員の復党願提出に際して党執行部が求めた

誓約書提出などの条件については「妥当」とする意見が

36.2%でもっとも多かったが、「甘すぎる」との

回答も33.4%に上っている。また、

復党問題に関して安倍晋三首相が指導力を発揮したか

どうかの質問に対しては「発揮したと思わない」

との回答が66.7%に達し、

中川秀直自民党幹事長に対応を一任した

首相の姿勢が国民には分かりにくかったようだ。

 復党問題が来年夏の参院選に与える影響についても、

「自民党にプラスだとは思わない」と答えた人が

57.6%と、「プラスだと思う」の23.4%の2倍を超えた。
自民党の支持率も前回の43.4%から

37.3%に低下しており、

安倍政権としては復党問題での

マイナスイメージ払拭(ふっしょく)のため、

政策面で一層の改革姿勢が求められそうだ。
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2007年1月24日(水) 白虎隊を考える
白虎隊というと、飯盛山で自刃した士中2番隊が有名である。

映画やテレビに登場するのは、すべてこの2番隊である。

これだけで白虎隊を見てしまうと、大きく間違うことになる。

上級武士の子弟で編制した士中T番隊の方が実は興味津々なのである。

この隊に永岡清冶という少年がいた。

父は権之助といい、会津戦争にはかならず登場する人間である、

火薬に詳しく、地雷を作ることが出来た。

敵が国境に迫ったとき、権之助は猪苗代に地雷を敷設した。

実際、爆発した記録もあり、彼は火薬の専門家だった。

猪苗代で地雷を敷設中に、母成峠に敵が攻め入り、国境が突破された。

その第T報をもたらしたのが権之助だった。

彼の嫡男が清冶といい、白虎士中T番隊の隊員だった。

父は馬を飛ばして城に駈け戻ったとき、清冶はばったり父に会った。

「敵が来るぞ」

父が怒鳴った。

清冶の一族からは多彩な人物が出ている。

永岡久茂がそうである。

斗南藩小参事を務め、思案橋事件で獄死している。

文才にも富み、数々の詩を残している。

清冶はその影響を受け、後年「旧夢会津白虎隊」を書いた。

これを読まずして白虎隊は語れない。

中身はいずれご紹介する。
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2007年1月23日(火) 戊辰戦争研究会会員募集!!
幕末維新史に関心のある方

戊辰戦争研究会に来たれ!目下、会員の募集を行なっている。

ところで、2月10日の白石集会、

今日、あらたに福島市の庄司雅子さんと、油井宏昭さんが研究発表

することに決まった。

庄司さんは福島市のふれあい歴史観に勤務する学芸員である。

専門がシリアの考古学だが、この三年は故郷の福島市に戻り、

地元の歴史の発掘に取り組んできた。今回の発表のテーマは

「世良修蔵と福島藩」

白石には世良の墓もある。タイムリーな発表である。

油井さんは、福島の中学を出て渡米、アメリカの大学で物理や数学を

勉強した。凄いキャリアである。

南北戦争に興味を覚え、調べるうちに

日本の戊辰戦争との関連を知り、おどろいた。

会津藩は使った小銃の大半は、南北戦争で使われた中古品である。

その結果、どうなったか。

その他、もろもろ多彩な話をしていただく。

これを機会に会員を募集している。

高校生以上であれば、特に制限はない。

ホームページを見て申し込んでほしい。

私のこの日、

「戊辰戦争研究の課題」

を申し上げることにしている。

当日の入場も歓迎します。
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2007年1月22日(月) 月曜日です、そのまんま東、凄いですね
「何かが変わるかもしれない」
新聞論評

毎日新聞

 「何かが変わるかもしれないと思ったから」。宮崎県の出直し知事選でそのまんま東氏に投票した有権者は口々にそう話した。選挙は事実上、東氏と中央官僚出身者2人の三つどもえの戦いとなったが、有権者は他の2人とは違う何かを東氏に見つけ、「変化」を期待したようだ。
 宮崎市の自営業の女性(59)は「初めは投票するつもりはなかった」という。だが、新規雇用創出1万人など東氏の約80項目のマニフェストを聞いて「意外に政策や数字が分かりやすい」と思った。同市の自営業の男性(33)も「まず人柄。そして政策に共鳴した」。そして県の官製談合事件に触れ「本当に談合をなくせるかどうかを見たい」と注文を付けた。
 「会社から他候補を推すよう言われたが、あえてそのまんま東さんに入れた」。そう明かすのは延岡市の建設業の男性(41)。「県を立て直してくれるだろう」という期待を一票に込めた。同じ延岡市の主婦(60)は「初めて政治の世界に飛び込み、一生懸命やってくれるはず」と新鮮さを理由に挙げ、宮崎市の男性会社員(37)は「どの政党にも属しておらず、地元のことを思ってやってくれそうだから」と語った。【甲斐喜雄、小原擁】


産経新聞

 宮崎知事選で無党派層の支持を集めたそのまんま東氏が当選、自民党は衝撃を受けている。民主党も3知事選に独自候補を擁立できず、地方組織の脆弱(ぜいじゃく)性を露呈した。4月の統一地方選、夏の参院選へ向け「東ショック」の波紋は大きくなりそうだ。(乾正人)

 知事選に徒手空拳で臨み、当初は泡沫(ほうまつ)候補扱いされた元タレントが勝利したのはなぜか。

 官製談合事件で前知事が逮捕された直後だから、保守が2派に分裂したから、などと一応の理屈はつけられる。

 自民党の中川秀直幹事長も21日夜、「敗因は保守分裂にある。保守が大同団結できないときに何が起こるか教訓として心に刻みたい」との談話を発表した。

 だが、「保守分裂」だけでは、かつて師匠のビートたけし氏とともに写真週刊誌の編集部に殴り込んで警察の厄介になり、女性問題でも世間を騒がせた元タレントの方が、霞が関のエリート役人よりも知事にふさわしいと県民が判断した理由を説明できない。

 高い投票率と投票行動から読み取れるのは、「政治や行政のプロ」は信用できず、「政官業癒着の既得権益まみれの古い政治をぶっ壊してくれ」という「破壊願望」の強さだ。そうした県民の怒りを既成政党は受け止められなかった。



 特に衆参両院5議席のうち自民党が4議席を占める宮崎県で与党の推薦候補があっけなく敗れた意味は小さくない。

 一昨年秋の「郵政解散」でピークを迎えた「小泉人気」は過去のものとなり、旧来の建設業界をはじめとする支持団体を基礎とした利益誘導型の選挙が通用しなくなったことも改めて明白となった。安倍晋三首相が胸を張るように「自民党は変わった」と有権者は実感していない。

 民主党に至っては宮崎、山梨、愛媛の各知事選に独自候補を擁立できないという“トリプル不戦敗”となり、自民党とは違う選択肢さえ提示できなかった。宮崎では県連独自に元官僚を支援したが敗北、無党派層にそっぽを向かれた。

 宮崎知事選は特異なケースではない。後を絶たぬ談合事件、与野党幹部の不明朗な政治資金、少子高齢化による老後の不安…。国民の政治不信はマグマのようにたまりつつある。各政党は「東ショック」を機に、政治不信払拭(ふっしょく)へ向け一歩踏み出せるのか。この流れを読み誤った政党は参院選で敗北することになろう。

                   ◇

 ■20代から40代の過半数が投票

 宮崎県知事選で共同通信社が実施した出口調査では、支持政党なしと答えたうちの56・0%がそのまんま東氏に投票し、31・6%の川村秀三郎氏や9・9%の持永哲志氏らほかの候補を圧倒、無党派層からの支持が集中した。

 男女とも20代から40代までの過半数はそのまんま東氏に投票。同氏は50代でもほかの候補より優位に立つなど、幅広く支持を集めた。

 一方で、政党の締め付けは効果がなかった。

 自民党支持層のうち自民、公明両党が推薦した持永哲志氏に投票したのは29・5%にとどまった。

 党の一部支部が支援した川村氏への投票は34・8%、そのまんま東氏へも34・8%が流れ、保守分裂選挙を裏付けた。

 調査は県内50カ所で実施、投票を終えた2000人から回答を得た。

                   ◇

 ■強い変化望んだ県民 「まっさらな人に」

 有権者の宮崎県民は、なぜそのまんま東氏を選んだのか。投票を終えた人に聞くと、官製談合事件で噴出した県政の腐敗に嫌気がさし、強い変化を望んだ心理がうかがえる。

 「前知事が談合とか汚職を引き起こしたので嫌になり、まっさらな人に知事になってほしかった」。これまで自民党を応援していたという宮崎市の無職、木村好宏さん(54)は今回、東氏にかけたという。

 「大阪府の(わいせつ事件で起訴され退陣した)横山ノック前知事のようにならず、清廉潔白な知事になってもらいたい。これからが大変だろうと思うが、精いっぱいやってほしい」

 また、同市の会社役員、野崎敬入子さん(63)は「だれがやっても一緒だと思ったが、東さんなら変えてくれると思う」と、“あきらめ”の中で、東氏に期待を込めた。「圧勝を期待していたので、とてもうれしい」と喜ぶ。

 知名度の高いタレントや作家の知事は過去にも誕生。平成7年、いずれもタレントで参院議員を経験した故青島幸男氏が東京都、横山ノック氏が大阪府の知事選で同時当選した。海外メディアは「有権者の反乱」と大きく取り上げた。

 青島氏は公約の「世界都市博覧会」中止を果たしたが、もう1つの公約として掲げた「(経営破綻(はたん)した)旧2信組救済のための支援はしない」は結局、都議会が支援を決めたため公約違反となり批判されるなど、1期4年の都政運営は精彩を欠いたものに終わった。

 横山氏も庶民的なイメージで人気を集め再選も果たしたが、その選挙運動中に運動員の女子大生にわいせつ行為をしたとして告訴され、辞職に追い込まれた。

 12年には作家、田中康夫氏が長野県知事選で当選。「脱ダム宣言」は国の公共事業見直しの契機にもなったが、県議会と対立。14年には不信任決議を受け失職したが、再選。3期目を目指した昨年8月、落選した。

星亮一の論評

これは既成の政治家に対する逆襲だろう。

知事のだらしなさは福島県からはじまった。

権威にあぐらをかき、金銭感覚が麻痺した県政に対する県民の

怒りが爆発したのである。

宮崎には格好の候補者がいた。

そのまんま東の前途を危ぶむ論調もあるが、さほどの問題はないだろう。

選挙でかかげた、公約実現に向って全力投球すれば、

そこそこ、いや期待以上の成果をあげるだろう。

参議院議員選挙も様相が一変した。

相当の波乱が巻き起こるに違いない。
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2007年1月21日(日) 今週のベストセラー
福島民友新聞、本日掲載の東北書店(郡山市)

調べの今週のベストセラーです。

1,DDDI 奈須きのこ 講談社

2、刀語1、絶刀・鉋 西尾維新 講談社

3、真説・会津白虎隊 早川広中 双葉社

4、なのに夢のよう 森博嗣 講談社

5、プレイクスルー・トライアル 伊園恂 宝島社

6、愛の流刑地 渡辺淳一 幻冬舎

7、たまには、時事ネタ 斎藤美奈子 中央公論新社

8、会津戦争全史、 星亮一 講談社

9、僕の歩く道 橋部敦子 角川書店

10、腐女彼女 ぺんたぶ エンターブレイン

というわけで、私の会津戦争全史、再浮上です。

テレビの白虎隊の影響でしょうね。

目下、6刷り、目標の10刷りまで、あと4刷り

可能性が出てきたかな。

皆さんのおかげです。
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2007年1月20日(土) 白石で戊辰戦争研究会
戊辰戦争に関心を抱く人々のサークルが戊辰戦争研究会です。

九州から青森まで幅広く会員がおります。

昨年は猪苗代町と奥会津で研究発表会を行い、

3回目の発表会になります。

日にちは2月10日、土曜日です。

会場は宮城県白石市です。奥羽列藩同盟が開かれた歴史的な場所です。

午後2時開会。6時まで研究発表があり、懇親会があります。

発表は現在、受け付け中ですが、

「長崎在住の会津藩御用商人足立仁十郎の生涯」、

「徳川慶喜と勝海舟」、

「北越戦争と民衆の動向」

「仙台藩鴉組の活躍」

「会津戦争と埋葬問題」

などの提案がなされています。

全体の申し込みを見て、若干、調整を行なうつもりです。

これを機会に入会希望者を募ります。戊辰戦争研究会のホームページ

を開き、申し込んでください。

このホームページでもかまいません。

皆様の参加をお待ちしております。

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事務局からのお知らせ

宿泊は、白石蔵王駅前『ホテルパレスリゾート白石蔵王』になります。 
会議室スペースを使用し、発表会を行ないます。 
翌日2/11にどこか良い温泉にバスで行きたいと思います。 

白石観光は、2/11にバスを貸切敢行します。 
全て込みで10、000円が会費になります。
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2007年1月19日(金) ナポレオンは胃がんで死んだ。
パリ18日配信、時事通信というクレジットで今朝の一部の新聞に

大西洋の孤島セントヘレナで51歳の若さで死亡したフランス皇帝

ナポレオン一世の死因が報道された。

長い間、毒殺説があり、そう思われていたが

米テキサス大のロバートジェンタ教授が、ナポレオンの遺体の

解剖記録を解析、胃の内壁10センチの潰瘍があり、それが死因と

断定した。

原因は軍隊の食事が偏っていたこと、プラス ストレスだった。

食事は満べんなく魚、肉、野菜、果物などを食べ、時には

ゆっくり温泉に入ることである。

幕末の日本社会でもっとも有名だったのは、ナポレオン一世だった。

徳川慶喜はナポレオン一世と同じ軍服に身を包み、

写真をとった。

榎本武揚がオランダに向ったとき、セントヘレナに立ち寄り、

訪れる人もいない墓前に茫然と立ち尽くし、

有名な詩をよんでいる。

長林の煙雨 弧棲に鎖す 末路の英雄 こころうたた迷う

今日、弔来の人を見ず 覇王樹のほとり 鳥むなしく鳴く

榎本の感性が読み取れる詩である。
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2007年1月18日(木) おけい物語2
会津藩の軍事顧問を務めたプロシャ人スネル兄は、会津が敗れたあと、

何人かの会津人を連れて、カリフオルニアにわたった。

北米に新天地を求めたのである。

福島民友新聞の藍原寛子記者が、現地を取材し、まとめたのが、

今回の連載だった。

今日で3回目である。

それによると、北米に渡った日本人は二十数人だった。

39歳のスネル、24歳の妻ジョー、娘のメリーのほかに、

ダイジロウ、トモゴロウ、キンタロウ、シンジロウ、アメサブロウなどの名前が

残っており、ジューは日本人妻の「およう]だった。

おけいという子守りの娘もいた。

スネルは逃亡し、日本人はここに取り残された。

おけいは病のために2年後に死亡した。

なんとも悲しい出来事だった。

この地はワカマツコロニーとなずけられ、

おけいらの墓はきれいに保存されているという。

スネルの家族はその後、どうなったのか。

詳細は分からない。
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2007年1月17日(水) 今日は、アメリカに渡った会津の娘、おけいの物語です
福島民友新聞が昨日から、「おけい物語]の連載をはじめました。

アメリカに取材したルポです。

これを紹介しようと思ったのですが、

夕方、所用が重なり、明日になってしまいました。

会津若松市の告知によりますと、

おけいは、明治2年に17歳でアメリカに渡り、

わずか19歳の短い生涯を終えました。

その墓は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ゴールドヒルの丘と

本市の背あぶり山の二カ所にあります。

 カリフォルニア州ゴールドヒルの丘に立つおけいの墓は、

おけいとともに渡米し、ワカマツコロニー崩壊後も

ビーアカンプ家で働いた桜井松之助によって建立された。

背あぶり山のおけいの墓は、戊辰90年祭を記念し、

募金などで昭和32年9月に建立された。

当時、農業研修で渡米中だった石原貞一さん(東山町)が、

ゴールドヒルの墓を拓本、採寸し、同じものを作った。

当初、おけいの墓は、市営ケーブルカー第一ケーブル山頂駅前の

水沢山にあった。ケーブルカーの廃止に伴い、

昭和62年、おけい顕彰会の皆さんの

ご尽力によって現在地に移された。

明日、ルポの中身を紹介します。
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2007年1月16日(火) 起き上がり小法師
鳥居三十郎さん、戊辰戦争研究会から次の投稿がありました。

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今日3月16日から、新潟市内の私立高校の入試が始まります。

私の勤務する塾の生徒たちにも、いよいよ受験がはじまりです。

うちの塾の玄関には、去年7月の会津集結!の際に頂いた

「白虎隊の起き上がり小法師」が飾ってあります。

以来ずっと生徒たちに転がされては起き上がり、愛されてきました

昨日は塾生の中学3年生38名全員に、

お守りとして小さな赤い起き上がり

小法師をプレゼントしました。

学校の荒廃、いじめ、そして格差社会と、

子供たちをとりまく状況は依然過酷です。

しかしそんななかでも、この起き上がり小法師のように、社会の壁に打ちの

めされても、また強く立ち上がってほしい。そう願わずにはおれません。

時代の流れがどうであろうと、

人生は自分の気持ち次第で大きく変えることができるですから。

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なるほど、それはいいですね、

起き上がり小法師は大変売れており、

品薄のようです。

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PRコーナー
山田民芸工房  
〒965-0044 福島県会津若松市七日町12-35
TEL:0242-23-1465

小さくてシンプルな表情。
だけど同じ顔はひとつも無い。
-
起き上がり小法師はダルマのような形の小さな張り子人形です。
底に粘土の重りがついていて、転んでもすぐ立ち上がるところから、
「粘り強さと健康」のシンボルとして縁起が良いといわれています。
家族の人数より1個多く買い、家族が増えて一家が
繁盛しますようにと願うのが慣わしとなっています。
会津の初市である十日市で会津の人が必ず買う縁起物です。
この愛らしい小法師に絵付けができます。

受入人数 20名(要予約)
所要時間 約1時間
料 金 700円
営業時間 7:00〜19:00
休 日 不定休
駐車場 2台
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2007年1月15日(月) 少年白虎隊
神崎清著「少年白虎隊」という本がある。

昭和18年に学習社から発刊された。

定価69銭、私の手元にある本は12刷りである。

これまで本棚の奥にあり、みることがなかったが、

改めて眺めて驚いた。

内容が正確で、よく取材をしていることだ。この前のテレビの主人公、

坂井峰次のこともよく書いてある。

当時のはやり歌も書いてあった。

芋はくされる 萩の花は散れる
五月葵の花ざかり

とか

都見たくば ここまでござれ
いまに会津が江戸になる

竹に雀を袋に入れて
後においらのものとする

またこの本の挿絵がすばらしい。

会津出身の画家渡部菊二である。

白虎隊士をひとりひとり描いている。

古書でインターネットを開くと、3千円から数千円で売られている。

これが絶対にほしい本である。

ちなみに神崎清は日露戦争非戦論を唱え、

40年後の日米開戦と敗北を予測した、明治の社会主義者

幸徳秋水の生涯を、「革命伝説」と題して描き、

評判の高い「大逆事件」の著者である。

その人が白虎隊を書いている。

凄いことである。
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2007年1月14日(日) 戦死者の遺体埋葬問題
戊辰戦争百話にこうある。

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城の内外でたおれた二千余柱の遺体は、

会津開城後も賊軍という汚名のもとに埋 葬することも許されず、

腐食するがままにまかされていた。これをみかねた滝沢村

の郷頭横山三郎・肝煎(きもいり)吉田伊惣治らは、

明治元年十二月二十九日、飯 盛山に自刃した白虎隊士の遺体四体を

妙国寺に仮埋葬したが、これが西軍に察知され、

彼らは罰せられて入牢するという事件も発生した。


伴百悦は町野主水・高津平蔵らと計り、

西軍の参謀らに対して何度かの嘆願を重ね

た結果ようやく阿弥陀寺と長命寺に埋葬することの許可をとりつけた。

しかしそれ は、百悦らの願いとはまったく異なるものであった。

会津藩戦死者は罪人として扱 われ、

埋葬地も罪人塚、埋葬にたずさわるのも罪人の埋葬に

あたってきた人々に限 られた。

このため百悦らは自らをその人々の列に落として戦友の遺骨収集にあたり

実に二千三十三体の遺体を埋葬したのであった。

伴百悦らには民政局の扱い方がおおいに不満であった。

なかでも旧越前藩士であ る監察兼断獄(行政官兼裁判官)

久保村文四郎の残酷な仕打ちに怒り、

同志の中原 成業・一柳訪・井深元治らと計り、

彼の帰国する機会に越後街道の束松(たばねま

つ)峠に待ち伏せてこれを斬殺してしまった。

百悦はそのまま旧会津領飛地であっ た新津に逃れていたが、

明治三年六月二十二日、新津郊外大安寺村の村松兵に包囲

され、遂にこの地で自害した。

ときに百悦、四十二歳であった。

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このような悲劇も生まれた。これはヤフーに掲載されている。

今村さんは全国の実態調査を行なった。

労作である。

東洋書林刊、インターネットで購入できる。



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2007年1月13日(土) 群馬県・石川薫記念地域文化賞
地方にはすばらしい地域独自の文化賞がある。

これを、見習うべきでである。

なぜ石川薫記念地域文化賞か。

私の知人、群馬県太田市の今井昭彦さんが

第13回 石川薫記念地域文化賞を受賞、

「この度、おかげさまで地元の賞をいただきました」

と便りを寄せてくれたからだった。

早速ホーム−ジを開いてみた。

概要は次のようにあった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第13回 石川薫記念地域文化賞贈呈式



1 概要
(1)日時   平成17年12月2日(金) 午後2時〜
(2)場所   群馬県立文書館 3階 研修室(前橋市文京町3−27−26)
(3)主催者  財団法人群馬地域文化振興会

2 石川薫記念地域文化賞について
  初代群馬県史編さん専門委員会委員長で郷土史研究に献身的に貢献された石川薫氏の業績を後
 世に伝えるため、石川氏の名を冠した賞を贈呈し、同氏の遺志である「県内の歴史研究者の顕彰
 と地域文化の振興」を図るものです。
  本賞には、次の功労賞、奨励賞及び研究賞の3賞があります。
(1)功労賞 地域の歴史・文化に関する調査研究実績が顕著であり、
   かつ後継者の育成等社会的貢献に功績があると認められた個人及び団体に贈られます。
(2)奨励賞 地域の歴史・文化に関する具体的なテ−マをもち、
論文等の実績を有し、研究者として将来を嘱望される個人及び団体に贈られます。
(3)研究賞 地域の歴史・文化に関する具体的な研究テ−マをもち、
多くの論文または著書等の実績を有し、その成果が学術的に
高い評価を受けている個人に贈られます。

3 受賞者
○功労賞   1名
 ○奨励賞   3名
○研究賞   1名

4 (財)群馬地域文化振興会について
  地域文化振興に多くの功績を残された先人の遺業を継承し、その充実発展を期すると共に地域
 文化の研究・助成並びに普及等により、本県における地域文化の振興と発展に寄与することを目
 的に、平成5年6月に設立されました。
○代表者等
・会 長         小寺 弘之
 ・副会長        唐澤 太市
 ・副会長         近藤 義雄
 ・副会長         横山  巌
・常任理事兼事務局長   山本 世紀
○役員
・理事30人、監事2人、評議員26人
○購読会員(16年度)
 ・一般会員720人、賛助会員38人

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というものだった。私の友人は研究賞に輝いた。

この会の会長小寺さんは、群馬県知事である。県の外郭団体の賞と言っていいだろう。

問い合わせ先 (教)文化課    電話 027−226−4682     FAX 027

−243−7785

となっていた。

今井さんの研究は。「近代日本と戦死者祭祀」である。

戊辰戦争で会津軍の戦死者は、まるで犬や猫の死体と同じように

扱われ路傍や山野に放置された。

今井さんは群馬県内の高校の教師である。

この問題を克明に調べ、ひどい実態にメスを入れた。

群馬県はそうした地味な研究に光を当てたのである。

賊軍の戦死者はどう扱われたか、

くわしくは明日、紹介しよう。





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2007年1月12日(金) ドラマ白虎隊効果
これは凄い反響なのである。

白虎隊記念館も藩校日新館も大入りなのだ。

今朝の福島民報が報じたもので、会津若松市の教育委員会には、什の掟

の問い合わせも殺到しているという。

両館とも例年の数倍の入りで、

起き上がり小法師の売上もうなぎのぼりである。

「白虎隊に感動した」

「会津の歴史をもっと知りたい」

メールや電話、フアックスも殺到している。

おかげで私の「会津戦争全史」講談社選書メチエも

書店から消えかかっている。



以下は会津若松市提供の

白虎隊の話(会津の子供達と日新館)

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会津藩の男の子たちは、10歳になると

日新館という藩の学校に入学するきまりになっていました。

 また、これとは別に 6歳から9歳までの幼い子供たちは

 入学前からりっぱな生徒になろうとして、

子供たちだけで集まりを作っていました。

この集まりを「お話の什(じゅう)

または「あそびの什(じゅう)」といっていました。

 まず、「会津武士のこどもは

 このようにしなければ、

ならなぬ」という心がまえから、

おたがいに、約束をきめ、

子供たちの家を順番に会場として、

そこで熱心に反省会をひらきました。

そして、その約束ごとに そむかないように努力したのです。

 いくつかある、約束ごとの終わりに、

「ならぬことは ならぬものです」

ということばがありますが、

将来、りっぱな指導者となる武士としての自覚と責任が 

こうして子供のときから 

しっかりとしつけられたのです。
 
「お話」が終わると「遊び」になって 

自由にのびのびと 今のこどもとおなじように、

鬼ごっこや、かくれんぼをして遊びました。

 日新館は寛政(かんせい)11年(1799)4月から

工事が始まり、5年もの長い歳月を費やし

文化元年(1804)に完成した立派な学校です。

場所は 鶴ヶ城の西側にありました。


 内部は、孔子をまつった大成殿(だいせんでん)

を中心として

素読所(そどくじょ:小学ともいった)

講釈所(こうしゃくじょ:大学ともいった)をはじめ、

そのほか たくさんの校舎がならび、

また天文台、開版方(かいはんかた:印刷出版所)、

文庫(ぶんこ:図書館)、

水練場(すいれんじょう:プール)まであるという、

全国でも まれにみる 設備のととのった学校でした。

 特に優秀な生徒は、ここを終えると

 藩の費用で江戸や長崎へも留学できましたから

自分の努力によっては 

いくらでも学問や技術をすすめていくことができました。

 これらのことからも、会津藩が青少年たちの教育に

どんなに熱心であったか 。

また、青少年の将来をどんなに大切に

考えていたかがわかります。
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2007年1月11日(木) 盛岡藩と戊辰戦争
「街もりおか」で見つけた佐藤竜一さんの文章を紹介したい。

佐藤さんは最近、現代書館から「盛岡藩」を刊行した。

シリーズ藩物語の一冊である。

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陸前高田市に生まれ育ち、一関一高に通った私自身にも藩意識はある。

岩手県の県庁所在地は盛岡だといっても、

高校を卒業するまで盛岡に行ったことは5度か6度しかない。

むしろ仙台の方が距離的にも精神的にも近い。

高校の同級生も同様で、岩手大学を志望する人は少ない。

圧倒的に南の大学を目ざすのである。

「盛岡藩」を執筆しながら常に念頭にあったのは、

なぜ戊辰戦争で、「賊軍」とされた盛岡藩が、

原敬、新渡戸稲造に代表されるような有為な人物を多く輩出したかだった。

これは私の想像に過ぎないのだが、廃墟と化した盛岡城の存在が、

原や新渡戸の反骨心に火を点し続けたのではないだろうか。
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とあった。

なるほど、そうだったろうと思う。

この前、ここに東條英機が徹底的に長州を嫌ったことを書いた。

東條の父は盛岡藩の出で、陸軍に入ると、

「お前は賊軍だ」

と差別された。

父の復讐に燃えた東條は、幕僚の登竜門である

陸軍大学校から山口県出身者を排除した。

これもどうかとは思うが、それぐらい強い憎しみだった。

明治の初めは、もっともっと強かったであろう。

原敬も確かにそうだった。

それをバネにして総理の座を射止めた。

会津だけではない。

東北人の根源には戊辰戦争がある。

追伸

私も高校は一関一高である。

彼は後輩になる。盛岡で文化活動を行なっており、将来有望の

文筆家である。
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2007年1月10日(水) 会津藩はなぜ「朝敵」か―幕末維新史最大の謎
つぼみさんのブログに、私の作品

会津藩はなぜ「朝敵」か―幕末維新史最大の謎(ベスト新書)の

感想が書かれてありました。

本日、つぼみさんからメールがあり、はじめて知ったのです。

皆さんにもご紹介します。

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『人情紙の如し、日本人の魂も地に墜ちた』という明治維新の時期に

会津に味方したのは東北諸藩だけ、というところがあります。

私は中学生のころに仲の良い友人が、

別な私のこれも仲が良い友人たち大勢から

いじめられるという事件がありました。

どちらも私には友達でしたし、

私が風邪で何日間か学校を休んでいる間に勃発した出来事なので

詳しい事情もわかりませんでしたが、

学校に出た途端に

「あの子は汚いからもう二度と近寄らないで、

一緒に帰ったり遊んだり口をきいたりしないでね、わかった?」

と、暗に“その子とつるんでるとあんたもいじめられるよ、

覚悟しといて”と言われている感じなのがわかりました。

だけど、私はそこで考えました。

「一人対一人の喧嘩ならわかる。でも一人対大勢というのは、

これは卑怯だ!どうしてもどちらかに味方しろ、

というなら私は一人のほうにつこう、

それで私のことをいじめたければいじめればいい」

と決意して、そのいじめられていた友人と

その後も変わらず仲良くしていたら、

私の行動が面白くなかった他のクラスメイトから再三に渡り、

その子をシカトするように言い続けられましたが、

私が断固として気持ちを変えないのでつまらなくなったらしく、

半年後にはあまり騒がなくなっていました。

私としては、自分の良心と照らし合わせて当然のことをしたまでなので

特に何とも思っていなかったのですが、

高校生のころに偶然、そのいじめられっ子だった友人と出くわし、

そのとき彼女は私にものすごく感謝していると言ってくれました。

「あのときあなたがいなかったら私はきっと死んでいた、本当に助かった」と。

自分は何もスゴいことはしていないのに、

そんなに感謝される人間じゃないのに、でも言ってくれて嬉しかった、

ありがとう、と逆に私。

東北人の正義感もこんなものなのかもしれないなあ、

とちょっと思いました。こちらの言葉で言えば「

なぁんも、なぁんも。」

情けは人のためならず、です。

さて、前にも一度河北新報の名前の由来について書いたことがありますが、

この本の中にも取り上げられています。

戊辰120年のときに同紙に掲載された文章が

また素晴らしいのでちょっとご紹介。

興味ある方は本を買ってご覧下さい。

「敗れた者には正義はなかったのか。

勝った者にのみ条理は求められるのか。

百二十年前、回天の時代、奥羽は無理強いされて戊辰の役を戦った。

非戦、平和の主張が一蹴された末だった。(中略)

いわれなき賊軍の汚名、侮蔑と軽視。旧西軍の藩閥政治は奥羽を軽んじた。

西高東低の人々の意識は時おり現代にも顔をのぞかせる。

あの激動の日々、奥羽は賊ではなかった。

奥羽にこそ正義と条理が存在した。」

著者の星亮一さんも、東北は人間のルーツが西日本とは違う、

歴史も文化も風土も独特であると書いていますが、

私も常々そう思います。負け組だから、ではなく、

古代からずっと東北は独立した東北共和国でありたいというだけで

中央政府から睨まれてきた存在なのだと感じてきました。

それが明治維新のときも、

そして密かに今も白河以北の人間の血の中に眠っている

遺伝子の中に組み込まれているような気がします。

この本の最後は会津と長州がいかにして

今後を生きていくか、という前向きな姿勢で終わっていますが、

希望の残る締めくくりで

怨霊のこもっていそうな会津の地から問題提議しているけれど、

決して読後感は悪くなく

、明るい気持ちで読み終えました

ああ、でもやっぱり長州の方が読むとちょっと凹むかもしれません。

どちらかというと、

ふだん凹んでいる北の民にこそ読んでもらいたい一冊ですね。

会津藩はなぜ「朝敵」か―幕末維新史最大の謎 ISBN:4584120463 星 亮一 星 亮一 ベストセラーズ 2002/08 ¥714

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私が書いた「会津藩斗南へ」(三修社)を読んだ方が青森県大間町の

斗南会津資料館に行かれたという連絡が大間からあり、

ありがたいなあと思っていました。

その方が、つぼみさんだったわけです。

東北人に勇気を与えてくれる書評だと思います。
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2007年1月9日(火) 南宜堂だより
古い友人の長野市在住の田中博文さんから、年賀状をいただいた。

出版社を興したというのである。この人は有能な編集者でした。しかし

務めていた出版社が倒産し、

何年にもわたって試行錯誤の日々だったようです。

よかったですね。

南宜社の成功を心より祈念いたします。

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明けましておめでとうございます。

一昨年末、『赤い馬、善草寺誘拐事件』を刊行以来、啼かず、飛ばず、

喰うや喰わずで過ごしてまいりましたが、この度、

ご協力いただける方がおり、

出版の仕事を再開いたすことになりました。

長引く出版不況、その中でも地方出版は

まさに風前の灯ともいうべき状況にあります。

例えばここで定価1500円の本を1000部刊行するとします。

今初版1000部というのは、

地方出版では多すぎるほどの数なのです。

書店マージンと流通経費で40%、印刷・製本代で40%、

残りの20%が印税と出版社の利益です。

あくまでもこの数字は作った本が、完売したと仮定しての話です、

それでも新春早々に、「nangi bukkus」シリーズ

「信濃三十三箇所めぐり」

「門善町長野を歩く」の2点が刊行になります。

また「書き込み式家族の年表長野県版」も鋭意編集中です。

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立派ですね。

頑張ってください。

南宜社イーメール

kohoosha@taupe.plala.or.jp


過日、寄せられた南宜堂 からのメール
 このサイトをたまたま発見いたしました。ご無沙汰しております。書店の
店頭で著書を拝見致し、ご活躍のことと喜んでおりましたが、このように多
方面で活動されていることは知りませんでした。
 昭和の終わる時、函館・木古内・福島・江差とご一緒させていただいた時
のこと懐かしく思い出しております。当時は現役のテレビ局の局長で、いつ
訃報が届いてもおかしくない時の旅でした。まだ携帯電話などという便利な
もののない時代、ゆく先々でテレビ局に連絡を入れていた姿が印象的でした。
 あれから幾星霜、私もあの頃の星さんの年をいくつも越えておりますが、
いまだに迷いの日々を送っております。
 お年(失礼)を感じさせないエネルギッシュなご活躍ぶり、地方出版にしが
みついております私としてもおおいに見習わせていただきたいと存じます。
私の故郷信州には高遠という地があり、コヒガンザクラや絵島・生島の悲話
で有名ですが、保科正之が治めた地であることはご存じの通りです。会津も
そうですが、高遠も明治維新に際して伊沢修二をはじめ教育畑で多くの人材
を輩出しました。そのルーツは高遠藩の藩学にあったのではないかと思って
おります。いつの日か星さんにはそんな物語を書いていただきたいと願って
おります。
 新年にあたり、益々ご健勝でさらなるご活躍をされますようお祈り申し上
げます。

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星より
懐かしいお便りです。
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しかし正直に申し上げますと
南宜社と田中さんは
結びつきませんでした。
20年ほど前のことでしたので、
一体、誰だろうと思っていたのです。
申し訳ないことです。

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2007年1月8日(月) 泣血氈
昨夜のテレビドラマ白虎隊に「泣血氈」と呼ぶ敷物が出てきましたね。

降伏の式典の時、城の前の路上に敷いたジュータンです。

あれを会津では、泣血氈と呼んでいます。

決してあの屈辱を忘れない。そういう意味で名づけられた言葉です。

戊辰戦争研究会の中村副長から昨夜、次のメールが寄せられました。

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白虎隊を見終わりました。

泣血氈の個所で、泣いてしまいました。
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私も同じです。

よく見ると分かりますが、会津藩の重臣たちが座ったのは、

ムシロの上でした。官軍、勝利者が腰掛けたところに敷かれたのは

赤いジュータンでした。

長崎の商人足立仁十郎から贈られた外国製のものでした。

ペルシャジュータンかもしれません。

ムシロとジュータンに敗者と勝者のコントラストが

ありました。

会津藩の首脳はあのジュータンを切り取り、

各自が懐に入れ、末裔の何人かは今日まで持ち続けています。泣血氈こそ

会津人の無念の思いをいまに伝えるものでした。

今回、内館さんは、見事にそれをドラマの中に盛り込みました。

その一部は会津若松市に寄託されています。

そして、私の仕事場にも、30センチ×25センチの泣血氈が飾られています。

どうして私のところに、以前にも書いたことがあるのですが、

青森県に住む会津藩重臣の末裔の方からいただいたのです。

思わず手が震えました。

あるとき、私の仕事場に見えた人が、泣血氈のまえで動かなくなりました。

「これは一体、なんですか。強い霊を感じる」

というのです。

これには驚きました。人の叫びを感じるというのです。

私が説明すると、「やはり]といって手を合わせたのです。

以来、私も泣血氈に手を合わせ、仕事をしております。

140年たった毛氈です。

色はくすんだ感じになりましたが、じっと見つめていると、

さまざまなことが脳裏に浮かぶのです。

私にとって泣血氈は執筆の源泉です。
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2007年1月7日(日) テレビ朝日の正月ドラマ「白虎隊」
史実にそっていて、非常にいい作品です。

さすが内館さんという感じです。

あの戦争を薩長新政府軍対奥羽越列藩同盟軍の

戦いとしたもの、よかったですね。 今夜も楽しみです。

ここに寄せられた感想

岐阜県、桜井さん
酒井峰冶の家庭を中心に描いたところがよかった。
今夜もテレビです。

東京の遠藤さん
今夜は盛り上がりそうですね、白虎隊の虎に字、
現代と違いましたね。
とにかくワクワクです。

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ヤフー、テレビより

第一夜あらすじ 
酒井新太郎(山下智久)は、どこにでもいるようなイマドキの日本男児。
携帯メールとにらめっこして、ろくに人とも挨拶もしない。
親の言うことも聞かない新太郎に、会津から上京してきた祖母の敏子
(野際陽子)の怒りが爆発する。敏子に頭が上がらない新太郎は、
友人の篠田雄介とともに逃亡。一番安全な会津へと身を隠す。
白虎隊士の血を引く2人は「会津魂」や「白虎隊」という言葉に
ウンザリしていたものの、暇を持て余して訪れた白虎隊記念館で
自分たちにそっくりな少年たちの肖像画に対面。
やがて2人は遠く幕末の世界へと引き込まれていく…。



第二夜

新政府と奥羽各藩との戦いが始まり、各地で激戦が繰り広げられた。
が、奥羽軍は新政府軍の最新鋭兵器の前になす術もなく、
奥州ののど仏と言われるほど重要な拠点・白河城がついに陥落した。
 そんな中、白虎隊に容保(東山紀之)の養子
喜徳の陣所見舞いのお供をせよとの命令が下る。
戦ではないが、白虎隊にとってはこれが初陣であり、
峰治(山下智久)らは己を奮い立たせた。
その夜、峰治、儀三郎(田中聖)、又八(藤ヶ谷太輔)ら
死んだときの埋葬料として金子を手渡す。
峰治は自らの髪をひとつまみ切り落とし、
しげに“遺髪”として手渡す。
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これは画期的なドラマです。
驚きです。


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2007年1月6日(土) 山本五十六批判
山本五十六は東郷平八郎と並ぶ、日本を代表する海軍提督である。

真珠湾攻撃を成功させた戦略は、世界の軍事史上に

さん然と輝いている。

真珠湾攻撃に続くミッドウエー海戦ともに、

攻撃を敢行したのは、第一航空艦隊、通称南雲機動部隊だった。

草鹿龍之介はその参謀長だった。

ミッドウエーで惨敗したとき、南雲と草鹿は

「挽回の機会を与えていただきたい」

と山本に平身低頭、謝罪した。

ミッドウエーの惨敗はまさしく南雲と草鹿の責任だった。

十分な索敵もせずに

敵空母なしと判断した。

そこを敵艦載機に急襲され、4隻の攻撃型空母を失った、

山本は二人を更迭すべきだった。しかし温情で留任させた。

結局、二人の挽回はならなかった。

山本は戦死し、南雲はサイパン島で自決、草鹿は生き残った。

戦後、草鹿は、山本を痛烈に批判した。

ミッドウエー作戦の惨敗の原因は山本にあるといい切った。

第一はまったくゆとりがなかった。

山本が東京を空襲されたために焦り、

米機動部隊との決戦を急がせた。艦船の兵器も十分ではなく

搭乗員も訓練が出来ていなかった、といった。

第二はミッドウエー島と米機動部隊の

双方の攻撃を山本は命じた。

これは機動部隊一本に絞るべきだった。

第三に無線である。

旗艦大和は米機動部隊の動きをキャッチしていた。

にもかかわらず空母赤城に連絡がなかった。

などをあげ惨敗の責任は山本にあると、

自分の回想録に書いた。

これは何だと私は思った。あの時謝罪しておいて、

それはないではないか。

こういう参謀長がいては勝てる戦も勝てない。

とんでもない話であった。

それをいま「山本五十六と山口多聞]に書いている。
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2007年1月5日(金) 連合艦隊参謀長の回想
ミッドウエー海戦の南雲機動部隊の

参謀長草鹿龍之介について書く予定だった。

ところが夕方急用があり、明日に延期せざるを得なくなった。

明日の朝、書き込みます。

中身は山本五十六批判です。ええ本当という内容です。

略歴だけ紹介しておきます。

これはヤフーからの引用です。
1892年9月25日生〜1971年11月23日没

東京市出身

海軍中将
海兵41期、海大24期
戦争中の大部を参謀長として務めた提督。
無刀流免許皆伝(居合抜き)の腕前を持つ。
敗戦までラバウルを守り通した草鹿任一中将の従兄。

1913年12月19日 海軍兵学校卒業
1914年12月 海軍少尉
1915年7月 戦艦「河内」乗組
1915年8月 装甲巡洋艦「八雲」乗組
1916年12月 海軍中尉
1917年10月 戦艦「金剛」乗組
1917年12月 砲術学校普通科学生
1918年5月 水雷学校普通科学生
1918年12月 駆逐艦「桑」乗組
1919年12月 海軍大尉・砲術学校高等科学生
1920年12月 戦艦「陸奥」分隊長
1921年2月 駆逐艦「薄」乗組
1921年10月 工作艦「関東」分隊長
1922年6月 戦艦「山城」分隊長
1922年11月 横須賀鎮守府参謀
1924年12月1日 海軍大学校甲種学生
1925年12月 海軍少佐
1926年11月25日 海軍大学校卒業
1926年12月 霞ヶ浦航空隊教官
1928年12月 軍令部第1班第2課参謀
1929年8月 米国出張
1930年12月 海軍中佐・第1航空戦隊参謀
1931年11月 軍務局出仕
1933年6月 臨時調査課員
1933年9月 海防艦「磐手」副長
1934年11月 航空本部第1課長
1934年12月 海軍大佐
1936年11月16日 空母「鳳翔」艦長
1937年10月 支那方面艦隊参謀副長
1938年1月 軍令部出仕
1938年4月 軍令部第1部第1課長
1939年11月15日 空母「赤城」艦長
1940年11月15日 海軍少将・第4連合航空隊司令官
1941年1月15日 第24航空戦隊司令官
1941年4月15日 第1航空艦隊参謀長
1941年12月 ハワイ作戦に参加
1942年1月20日〜22日 ラバウル・カビエン攻略支援に参加
1942年2月19日 ボートダーウィン攻撃に参加
1942年3月 ジャワ海掃討戦に参加
1942年4月 インド洋作戦に参加
1942年6月 ミッドウェー作戦に参加
1942年6月5日〜7日 ミッドウェー海戦に参加
1942年7月14日 第3艦隊参謀長
1942年8月24日〜25日 第2次ソロモン海戦に参加
1942年10月26日〜27日 南太平洋海戦に参加
1942年11月 横須賀航空隊司令
1943年11月29日 南東方面艦隊兼第11航空艦隊参謀長
1944年4月6日 連合艦隊参謀長
1944年5月1日 海軍中将
1945年4月25日 兼海軍総参謀長
1945年6月 軍令部出仕
1945年8月17日 第5航空艦隊司令長官
1945年10月15日 予備役編入
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2007年1月4日(木) 憲法改正、安倍首相年頭の会見
読売新聞の速報によると、安倍首相は4日午前、

首相官邸で年頭の記者会見を行い

憲法改正問題について、

「私の内閣で憲法改正を目指すということを当然、

参院選でも訴えていきたい」と述べ、

夏の参院選で自民党の公約として訴えていく考えを表明した。

いよいよ憲法改正の動きが本格化する。

私も改正には賛成である。

確かに憲法9条は貴重だが、もうこれは文化財のようなものであり、

人並みの自衛力の存在を認めた憲法でなければ、

国家の存立は危うくなる。

この60年間、日本には国家の防衛という意識も認識もなかった。

その間に国民が拉致され、北の海では日本の漁船が

拿捕されるままになっている。北朝鮮のミサイル攻撃に対しても

現行憲法では、心もとない防衛しか出来ない。

平和活動に日本の自衛隊が出かけても、他国の軍隊に

保護されて活動している。

米国のような軍事大国にはなりようもないし

望みもしないが、せめてフランス、イギリス並みの軍隊は必要である。

苦し紛れの自衛隊では、国際的に通用しない。

首相は「今年で憲法施行から60年で、

新しい時代にふさわしい憲法を作っていくという意思を

今こそ明確にしていかなければならない。自民党の草案は出来ており、

各党と協議を進めてもらいたい」と述べた。

 その上で、憲法改正の手続きを定める国民投票法案の扱いに関し、

「与野党で議論を深めることを期待したい」として、

通常国会での成立に期待を示した。

 政府の憲法解釈で禁じられている集団的自衛権の行使については、

「憲法との関係の整備について

個別具体的な類型に沿って研究を進めていく」

と改めて強調した。

明日の朝刊、今夜のテレビで詳しい解説があるだろうが、

日本もあらたな時代に向って舵を切ることになる。
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2007年1月3日(水) 歴史は作られる
坂本竜馬、さまざまな反応があった。

脇役が歴史に大きく登場するには、プロデユーサーが必要である。

坂本竜馬もそうだし、白虎隊もそうだろう。日本は明治に入ると、

全国各地に大小の新聞社が作られ、出版も盛んになった。

私も若い時代、福島民報の記者として会津若松に駐在、

会津図書館に潜りこんで、幕末維新の文献や

資料ばかり見ていた時期がある。

「会津若松史」に会津戦争を書いたのも、この時だった。

当時、20代の半ば、私のものを書く原点は、会津時代にあった。

地方でコツコツ書かれていたものが、中央の作家や研究者の目にとまり

それが大きくとりあげられ、メジャーになっていくことは

よくあることである。

当時、私は明治の初めの会津を代表する人間として

3人を上げ、会津産業懇話会報に寄稿した。

山川浩、広澤安任、永岡久茂である。三人は斗南藩の重臣であり、

当然といえば当然なのだが、その生き方に独自の個性があった。

山川は明治政府に仕官し、それなりの地位を得た。

広澤は青森県に土着し、日本最初の洋式牧場を開いた。

永岡は革命運動に走り、思案橋事件で獄死した。

三人三様の人生だった。三人ともに独自の考えがあった。

その後、某著名な作家がこれを大きくとりあげてくれ、

広澤も永岡も有名になった。

竜馬を売り出したプロデユーサーはどなたなのか、

調べて見たいと思う。

これに関してすぐメールがあった。

明治2年に竜馬と中岡慎太郎に特別表彰があったという。

なるほど、なるほどである。でもまた新しい問題が。

誰が立案したかである。

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資料を提供された方から訂正が入った。

表彰ではなく家名再興を許すということだった。

正確には以下の文書である。

三年八月十六日
高知藩士故坂本龍馬故中岡慎太郎等家名再興
高知藩知事へ達
(罪を許すから家を継ぐ血縁の者を申し出るようにとあります)

このあと、さまざまな動きが出てきたということだろうか。
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2007年1月2日(火) 坂本竜馬続報
坂本竜馬について各方面からメールが届いた。

薩摩黒幕説は根拠がないというのが多かった。

もうひとつ、注目される意見は、当時の竜馬は、

いま考えるほど知名人ではなかった。会津藩では特段、問題にも

していなかったという意見である。

ううん

これは驚きだった。いわれて見れば、会津藩の記録には、竜馬の

名前はない。そこから推察できることは、

さほど関心のある人物ではなかった。

となるわけか。

竜馬が有名にしたのは、司馬遼太郎の「竜馬はゆく」である。

ごくごく新しい話である。

高知にでかけた人は、桂浜に足を運ぶ。竜馬の像があるからだ。

大きな台石に、天にそびえるように竜馬が立っている。無造作に右手を

懐に入れ、よれよれの袴に、大きな靴を履いている。

あまり大き過ぎて写真をとるのが難しい。私も苦労した。

この巨大な竜馬像、何時できたのか。

高知市の観光ガイドに、昭和のはじめ、

本県の青年有志の募金活動によって建設された。本山白雲の作。とある。

竜馬が維新の功労者として売り出されたのは、

どうも昭和にはいってからのようである。

どこかで歴史のすり替えがあったのではないか。

したがって、会津藩では、さほど問題にしていなかった。

だから殺す必要もなかった。

京都見廻組の単独犯行で、手代木と佐々木の謀議もない。

ということになろうか。

皆さんのご意見を受け賜りたいものである。
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2007年1月1日(月) 明けましておめでとうございます。
安達太良山がくっきり見える、最高のお正月です。

今年はなにを目標に1年を過ごそうかな。

新聞を広げながら考えています。

皆様もさまざまな夢を描いておられると思います。

今年も私はトライです。

当たって砕けろの精神です。あきらめることなく、とことん

トライするつもりです。全国縦断講演もひとつひとつ実行します。

私のライフワークである戊辰戦争、今年は関東戊辰戦争を執筆します。

上野の彰義隊から始まって関東一円で繰り広げられた

戦争を追いかけます。

「白虎隊と二本松少年隊」

も早い機会にまとめることにしています。これまで書いたものを

再編し、あらたに書き下ろします。、

また北越戦争も1冊の本にまとめることをきめており、越後に出かける機会も

増えそうです。無念シリーズも何本か書きます。

「井伊直弼の無念」

「佐川官兵衛の無念」

いろいろありそうです。

昨今、取り組んでいる太平洋戦争、年末は南太平洋の戦いに

忙殺されました。パラオ諸島の玉砕戦です。

「もうひとつの玉砕戦」

として、いままとめています。太平洋戦争を考える仲間と

5月にはラバウル、ポートモレスビーに出かける予定です。

ラバウルには海軍航空隊の基地があり、

連合艦隊の山本五十六長官はここから飛び立って戦死しています。

同行ご希望の方はご一報ください。

NHK郡山文化教室の春のテーマは満州です。

これとの関連で旧満州の旅も企画中です。

多忙に動き回ることが健康の秘訣です。

今年もよろしくお願い申しあげます。
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