星亮一 今日の一言

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2008年5月31日(土) 石田三成
二日ばかり石田三成を書いていた。

戦った相手が家康である。どう見ても格の違いがあった。

三成は官僚であった。暴れ者の武闘派ではなく、

生真面目で頭のいい三成を秀吉は側近にした。

天下統一はなったのである。

加藤清正や福島正則ではだめだと、戦争が不得意な三成をそばに置いた。

この武闘派が家康についたのだから、勝ち目はなかった。

三成は秀吉の小姓から秀吉政権の奉行に上り詰めた人物である。

万事、豊臣家のために滅私奉公した。秀吉の遺児秀頼を

将軍に据え、豊臣の天下を続けようと考えた。

「天下は実力者の回り物」

そう考えたのが家康である。

民衆は常に新しいものを求める。

一介の足軽から身を起こした太閤秀吉だが、

死んでしまえば、人々は新しい英雄を求めるものである。

人はなだれを打って家康に走った。

自分の身分が保証され、領民が安心して暮らせるのであれば、

親分が変わっても問題はない。

豊臣恩顧の武将達もそう考えた。

三成はそうした男たちを束ねるには小者過ぎた。

会津の上杉景勝は人気の薄い三成を支援し、賊軍となって

120万石を30万石に削られた。

会津、佐渡、庄内、白石を失い、狭い米沢に押し込まれた。

この前、七ヶ宿の帰りに米沢、喜多方を通ったが、米沢は

狭い盆地の中にあり、苦労がしのばれた。


家臣の給料は三分の一に減り、家には戸障子もなかった。

勝ち馬に乗らないと世の中は実に厳しいものだった。

そうしたこともあったが、

石田三成は結構、有名である。

処刑の日、市中を引き回された三成は、警護の兵に、

「お湯が飲みたい」

といった。

もうすぐ打ち首である。

いまさらお湯でもあるまい。

「お湯はないが、干し柿がある」

と兵士が言うと、

「干し柿は痰の毒だ」

といった。

兵士がいまさら何を言うと笑うと、

「大義を志すものは首をはねられる瞬間まで命を惜しむ」

といった。

格好はいいが、打ち首ではどうにもならない。

人生は難しいといつも思う。

その三成を「直江兼続」の文章に書いた。
△top
2008年5月30日(金) 中国への自衛隊派遣見送り
結局、見送りになった。

それでよかったと思う。

中国には日本に対するさまざまな感情があり、

軍の飛行機というと

抵抗もあるだろうと私は思っていた。

ただそうした話が出たというのは評価していいだろう。

他国の軍用機はいいが

日本はだめというのも、どうかなとも思う。

日本側は、自衛隊が調達したテントや毛布などの物資を

民間チャーター機で輸送するという。

自衛隊の物品では、テント約4000張り、

毛布約35000枚の拠出が可能だそうだ。

多い数ではないが、

中国の人々に役だつであれば、

大変、結構な事である。

それから日本が保有するテント、

そう多くはないようである。

いつ何が起こるかわからない。

もっと備蓄をふやすべきである。
△top
2008年5月29日(木) 書評、南雲忠一
直江兼続の原稿、追い込みのため、今日の一言は休載です。

書評を掲載します。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

南雲忠一(なぐもちゅういち) (PHP文庫) (文庫) 星 亮一 (著)

価格: ¥ 820 (税込) 、読みました。

第二次大戦は、幕末維新と重なり合うほどの革命だったと思います。

幸か不幸か、日本人の意識が180度転換した。

太平洋の国々には、日本軍の残骸が至る所に存在し、ニューギニアの海岸に

は、旧日本軍の機関銃がコンクリートでしっかりと固定され、日本に向けて照準

を合わせています。それほど、日本に対してあまり良い印象を持っていな

いことが分かりますけど。

ですから、太平洋戦争について、全く無謀だと言わんばかりの人が多い。

このような負け戦で、人が通り過ぎようとしている歴史に、私たちを

その場に引き戻し、いかに彼らが悩み苦しみ人生を生きたかという

ことを知らせてくれた、この一冊の存在感は貴重でした。

「ミッドウェー作戦は、山本にとって、戦争終結を賭けた大勝負だった」

「南雲は、神経質になっていた。敵の潜水艦が追いかけてくるような・・」

「すべては後の祭りだった」

アメリカという、戦う相手ではなかった大国と、一戦交え、散っていった。

ミッドウェー戦が鮮やかに再現されていて、

読んでいたら銃弾が飛んできそうなほど、臨場感があります。

「どうだ、しっかり生きているのかね」

と南雲に質問されているような、

そんなぬるま湯に浸りきっている私たちです。

南雲忠一、米沢出身、日本海軍、悲劇の提督。

高橋美智子
△top
2008年5月28日(水) 今日、横浜で野口英世アフリカ賞授賞式
投稿
ーーーーーーーーーーー

野口英世について

博士の命日は、5月21日でした。
ガーナ大学付属病院にある野口研究室は、80年前と変らず使用されていて、
彼が使っていた顕微鏡や家族からの手紙、新聞記事などが展示されています。
黄熱病ワクチンのお陰で、安全にアフリカへ旅することが可能になりました。
偉業です。私もはるか昔、この薬のご厄介になったことがあります。
その時は深く考えもせず、、、。アフリカのことも、博士のことも。
シュバイツアーと比較できる偉人だと言えますね。
帰国せず、アフリカに散ったという志が好きです。
じっくり拝読させて頂きます。
先の「南雲忠一」と同じく、博士は、きっとにこやかに微笑みかけて
くれるでしよう。

環境破壊を食いとめられず、ですか、確かに北極の臨界点は越えてしまった。
これから先、我々の評価が定まるのですね。毎日、心して生きていかないと
いけなくなりました。
博士のように散りたいです。


橋本左内
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野口英世

少し前に勝殿がご報告されていた星先生のご本「野口英世」を
七ヶ宿のフォーラム会場で購入しました。(総裁サインをありがとうございます!)
今日は早く帰宅したので一気に読み終えました。
頁をめくるたびにため息が出ました。
以前も投稿したように私は野口英世が嫌いでした。
「放蕩」が似合いすぎるあまりにもひどい私生活を書いた本を読んだことが
きっかけだったと思います。
でも好きとか嫌いとかそういうことを言える人物ではないですね。
そのすさまじい努力と執念を思えば、嫌いなんていう軽薄な表現はできません。

最近、ある会津人が某クレジットカードのCMで野口英世が軽薄に扱われて
いるのを見ると腹が立つ!と言っていました。
今でも会津のヒーローなんですね。

もちろん今でも会津出身の細菌学者のNo.1は小池毅だ、という自分の
考えは変わりませんが・・・それでも猪苗代の貧農出身で片手が不自由だった、
いくつものハンデを乗り越えてノーベル賞受賞候補者になった人物。
野口英世から学べることを大いに学べばいいんだ、と思いなおしました。

総裁、素晴らしいご本をありがとうございました。

明日からはいっしょに購入した「徳川慶喜の無念」を読み始めます。
会津贔屓な私はご他聞に漏れず、慶喜が大嫌いです。
何が嫌いって、あれほどのことをしておきながら、晩年は趣味人として
人生を謳歌したのが、ひっそりと暮らしていた容保公を思うと許せないからです。
でも、先日方谷殿が「慶喜は割りと好きな方だ。自分の立場で考えたら晩年は
そうなっても仕方ない」と言っているのを聞いて少し立ち止まることにしました。
考えてみたら慶喜だけを取り上げた本はあまり読んでいません。
私の知らない横顔が見えてくるでしょうか? 楽しみです!

照姫

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戊辰戦争研究会ホームページから
△top
2008年5月27日(火) 今日はMBA 21
経済の勉強会です。

一言は休みです。
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2008年5月26日(月) 原稿大幅に遅れ、大変、大変
イベントで飛び歩きが続き、どうも原稿が遅れる一方です。

どこで挽回するか、暦とにらめっこです。

今日は戊辰戦争に関して共同通信の取材も受けました。

どこかの新聞に出るかも知れません。
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2008年5月25日(日) 七ヶ宿、大成功
明日、ご報告します。

河北新報、今朝の長官

連携生んだ関の密談 戊辰戦争フォーラム 七ケ宿

「歴史と街道」をキーワードに始まったフォーラム

 奥羽越列藩同盟(1868年)の締結前夜、

仙台、米沢両藩などの重臣による「関の密談」

が行われた宮城県七ケ宿町で24日、

「戊辰戦争140年in七ケ宿」(同実行委主催)と銘打ったフォーラムが始まった。

 全国の歴史ファンら約300人が参加。

実行委員長の梅津輝雄町長は「先人の足跡を確認しながら地域間交流を深め、

七ケ宿に活力を生む原動力としたい」とあいさつした。

 初日は密談の場となった関本陣跡に近い町活性化センターで

シンポジウムがあり、戊辰戦争研究会の星亮一主宰が「戊辰戦争と七ケ宿」、

みやぎ街道交流会の高倉淳会長が「戊辰戦争下の七ケ宿街道」

をテーマに基調講演した。

 星氏は「関の密談が行われるまで東北に連携や連帯はなく、

まさに画期的な会談だ」と指摘。

高倉氏は七ケ宿町に残る史料を基に

「戊辰戦争を境に江戸の宿駅制度が役目を終え、

輸送の近代化が進んだ」と述べた。

 このほか、「戊辰戦争から七ケ宿のまちづくりを考える」と題し、

宮原育子宮城大教授をはじめ歴史研究家や、

地域団体の代表ら5人によるパネル討論もあった。

 フォーラムは2日目の25日、

七ケ宿町から山形県高畠町二井宿にかけての羽州街道を歩く探訪会が行われる。
△top
2008年5月24日(土) 七ヶ宿です
郡山10時22分のマックスやばびこ107号で、白石蔵王に向かいます。

駅には戊辰戦争研究会の仙台支部長が来ており、

彼の車で七ヶ宿に向かいます。

大会の模様は後日、報告します。
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2008年5月23日(金) 明日、戊辰戦争百四十年in七ヶ宿 〜奥羽越列藩同盟締結への道〜
星が基調講演をします!

戊辰戦争百四十年in七ヶ宿 〜奥羽越列藩同盟締結への道〜無料・自由参加
         
会場、七ヶ宿町活性化センターにて          

●日時
  平成20年5月24日(土)
   第1部 開催行事・基調講演・フォーラム
 午後2時 星が講演

   演題
     戊辰戦争と七ヶ宿

   続いて討論会
   
   戊辰戦争から七ヶ宿の地域ヅクリヲ考える。      
  
   第2部 交流会「街道談議」午後6時20分
         希望者のみ・参加料あり
         湯原ふれあい館にて
         18:20〜20:30

  平成20年5月24日(土)
   歴史街道探訪会 9:00〜14:30

●お申込みお問合せ
  七ヶ宿町教育委員会「戊辰戦争百四十年in七ヶ宿」係
  TEL 0224-37-2112
  FAX 0224-37-2203
  shichi31@town.shichikashuku.miyagi.jp
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2008年5月22日(木) 野口英世
投稿

昨日「野口英世」の本のランキングが載っていましたが、

今朝の新聞で、今月28日に内閣府が主催する『野口英世アフリカ賞』の

第一回授賞式に、天皇・皇后両陛下が御出席されることを知りました。

より一層「野口英世博士」への注目度が高まりますね!

これを機に沢山の方に星先生の『野口英世 ―波乱の生涯』を

読んで頂きたいなと思います。

福島県会津若松市

安西弘子

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「南雲忠一」

人はその発する言語によって顔付きまで違ってくる。

地域性・県民性、自ずから変ってくるのは当たり前ですね。

「南雲忠一」、拝読しました。

第二次大戦は、幕末維新と重なり合うほどの革命だったと思います。

幸か不幸か、日本人の意識が180度転換した。

広島・長崎を除いて、戦争の傷跡は余り残っていませんが、

太平洋の国々には、日本軍の残骸が至る所に存在し、ニューギニアの

海岸には、旧日本軍の機関銃がコンクリートでしっかりと固定され、

日本に向けて照準を合わせています。

ですから、太平洋戦争について、全く無謀だと言わんばかりの考え方が多い。

確かに、「図上演習によれば、南方作戦は四ヶ月ぐらいで片がつくはず・・」

と書かれていたように、実に無謀だった。人跡未踏のニューギニアの大

ジャングルに数万の軍隊を導入させ、全滅もさせた。

が、このような負け戦で、人が通り過ぎようとしている歴史に、私たちを

その場に引き戻し、いかに彼らが悩み苦しみ人生を生きたかという

ことを知らせてくれた、この一冊の存在感は貴重でした。

「ミッドウェー作戦は、山本にとって、戦争終結を賭けた大勝負だった」

「南雲は、神経質になっていた。敵の潜水艦が追いかけてくるような・・」

「すべては後の祭りだった」

アメリカという、戦う相手ではなかった大国と、一戦交え、散っていった

南雲、その肖像は、戦国の武士かと見間違うほどの風貌、私たちに

「生きるとは」という問い掛けをしてくれたように思います。


岡山県 橋本左内
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2008年5月21日(水) あれこれ、
<大相撲夏場所>

琴欧洲が朝青龍破り、全勝を守る
 
ついに朝青龍が二敗になった。

優勝は厳しいといわざるを得ない、これもやむを得ぬかも知れない。

野球は楽天を応援している。

順調に来ていると思う。試合終了後の野村監督のコメントが楽しい。

はやり名監督なのだろう。口述筆記なのだろう。

よく本も出している。それがまた売れるのだから

うらやましい限りである。

私はいま直江兼続に追われている。ちょうど関ヶ原のところを書いている。

三成は家康に決戦を挑む。

手紙をもらった兼続も二つ返事で、家康に挑む。

その辺の心理描写が結構難しい。人間はどこかで決断しなければならない。

右か左か。

結果は神のみぞ知るだが、のぼり龍と戦うことは至難の業である。

明智光秀もそうだが、石田三成には重すぎた勝負だった。
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2008年5月20日(火) 野口英世の本
野口英世の本

星の作品は関連書149件中第5位

まあまあの成績です。ほっとしています。

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2008年5月19日(月) 今日は企画書作成
戊辰戦争140年企画と銘うって、

「戊辰戦争を歩く」

を出そうと考え、今日は一日がかりで企画書を作成しました。

ハンデイな本で、これを見れば

一目瞭然という内容です。

鳥羽伏見から函館まで書き込みます。

戊辰戦争研究会のメンバーを大動員、各地の研究者にも

加わっていただきます。

秋には出したいですね。

急げ、急げです。

ーーーーーーーーーーーーーーー

鳥羽伏見

導入部分の原稿

京阪電鉄「淀駅」北側から石垣の一部が見え隠れしている。城の郭は駅前の雑踏を無視するかのように木立で覆われていた。横列縦隊に並べられたおびただしい数の自転車が城への通路を塞いでいる。淀城は市民の生活の場であるかのようだ。
歴史に登場する秀吉の旧淀城は破却された後、今の城は徳川の時代に移設されたもの。だが、見学者の私にとっては秀吉の心意気がこもる城である。
春たけなわ、石段を登るが草いきれで胸がつかえて立ち止まる。ツツジの鮮やかさが薄暗い城址に映えて、さらに鮮やかさが増していた。二の丸跡には城主を祭る神社があり、さらに進んでいくと南東と北西の隅には櫓台跡。子らの楽しげな歓声が響き渡り、庶民の安らぎの公園として、淀城は現代を生きている。

当時、この淀城の周囲にはいくつもの堀が取り巻き、城の西と北には直径8mの大型水車が廻っていたという。水車の下で捕れた鯉の味は格別美味で、「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」と歌われた。今でも、淀城にはかわいい小さな水車が廻っている。淀の川も細々だが、しっかりと流れ続けている。最近、淀城本丸と大水車の復元の計画があると聞くが、将来どんな姿が見られるのか楽しみである。

淀の歴史は古い。水の流れがゆったりと淀んでいたことで名づけられた淀。この地は、桂川、宇治川、木津川に囲まれ、古代から貢納物を集積する商業地。京都・大坂・奈良・近江などの接点であり、京洛に入る拠点を占めていた。かつての宇治川には淀小橋が架かっていた。木津川の淀大橋は今もある。
駅前商店街を抜けて行くと、「淀小橋」の石碑がある。
京阪電鉄の線路伝いに伏見方面へ向かう。京都競馬場の駐車場を過ぎたあたり、「鳥羽伏見之戦跡地の碑」が見てとれる。この付近は、秀吉が愛でた松並木の続く堤だったが今はない。川も埋め立てられている。
突如聞こえてきた競馬場の歓声は往時の庶民のざわめきか、いや、さながら、戦の雄たけびのようでもある。地下の戦没者たち、思わぬ騒ぎで眠りを妨げられているかもしれないと思った。

ここから、桂川堤防は近い。堤防周辺に点在する東軍戦没者の埋骨墓標。幕府軍関係者は、自分達を「東軍」と呼んだ。遠き地より来て、命を散らした多くの名も知れぬ若者達。その戦いの激しさ、悲惨さが胸に迫ってくる。思わずため息を付いてしまう。
鎮魂の墓石の何と小さいことか。追い立てられるように、歴史の見印を探して路地をさまよった。彼らは、バスの停留所の脇、民家の勝手口の前、そして庭の片隅に暖かい陽射しを受けて眠っている。地元の方々は彼らを手厚く弔っておられた。
「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻まれた碑があちこち建つところ、それが淀の「納所」である。

北に6キロほど移動して鳥羽離宮に入る。子供達が草野球をしている。公園の置石に座って一休み。さて、始めることにする。目を閉じて往時を偲ぶのが私の慣わし。今は、慶応4年1868年一月三日午後五時ごろの夕暮れ時。
おお、轟音一発、数メートル先の薩摩軍の大砲が放たれた。問答無用の意思表示である。直後、地響きを立てて小銃の一斉射撃が始まった。伏見の方角からも砲声が聞こえてきだした。戦いは熾烈を極めた。
湿地帯であるこの地方、1月の寒さは、また格別で、両軍の兵士達を苦しめたとある。
明けて、一月四日、薩摩軍の駐屯する東寺に錦の御旗が翻る。錦旗の威容に圧倒されてしまったのか。形勢は薩摩軍有利に展開した。幕府軍は、態勢を立て直すため淀へ向けて退却して行く。しかし、頼りとした淀城は門を閉ざし、淀藩は寝返る。中立を保つためなのか、裏切りなのか。津藩にいたっては武士の義を反古にしたやりよう。「最後の侍」たちはいったいどうしたのか。
鳥羽に始まり全国を転戦する最強の薩摩軍。思わず横にいる人の良さそうな紅顔の兵士にそっと告げ口をした。あなた方はやがては賊軍となり、仇討ちの抜刀隊により散々な目にあわされるのよ…………….。
戦はこれまでにしましょう、草野球少年らの歓声が休戦の合図です。

鳥羽離宮に沿った鴨川沿いの道は、鳥羽街道(千本通り)といい、平安時代の古より京に通じるメインストリート。薩軍は小枝橋を渡り東西に展開して待ちうけ、縦隊の幕軍は鳥羽街道に沿って北上してきた。旧小枝橋は、老朽化のため、平成14年に撤去。新小枝橋のたもとに「鳥羽伏見戦跡」の碑がある。橋のすぐ横に医院があるのでそれと判る。当時、橋のたもとには三軒の民家があり、そのうちの一軒は野戦病院に使われたという。
史跡巡りの一団と出会う。彼らもまた戦没者達の志に感銘し、維新動乱の無常を心に刻んだ様子で通り過ぎていった。

 淀藩とゆかりの深い寺が納所にある。妙教寺という。旧淀城の本丸跡を拝領して、寛永三年1626年建立。この付近は、両軍の打ち出す砲火の間に挟まれた激戦地であった。妙教寺は危機一髪で消失を逃れた。戦の最中、本堂に砲弾が飛び込み、壁板を破り、柱を貫通した。仏壇には戦死した旧幕府軍の位牌が安置されている。その時の砲弾や銃刀は、戦の様を後世に伝えるため大切に保存されている。
本堂を右手に、境内には榎本武揚の筆による「戊辰役東軍戦死者之碑」の石柱がある。天に向かってそびえ立ち揺るぎがない様子、その姿、誠に美しい。碑に対面している私に
妙教寺前住職の松井東祥さんが近づいてこられた。目がお優しい。92歳にしてお元気なご様子。「洛南の鐘」 という季刊紙を約70年近くにわたって檀家向けに発行し続け、また同時に、僧侶でありながら太平洋戦争に駆り出された辛い体験を語り継いでおられる。今は、楽しみにしている読者も多いことであろう。毎年二月四日、徳川・会津・桑名・新選組など合計七十六名の東軍の戦死者の戊辰ノ役戦死者埋骨地墓回向が行なわれている。
現在は、ご長男の現住職が活躍しておられる。平和を願う心が親から子へと引き継がれている。

伏見周辺の史跡を見て歩く。最寄り駅は、京阪電鉄伏見桃山駅、近鉄桃山御陵前駅、またはJR線桃山駅である。
京阪電鉄、伏見桃山駅の駅前には洛南最大のショッピングセンター街がある。道筋は広く、活気があり、ゆったりと買い物のできる庶民の町である。
大手筋の中ほどに、珍しい川魚専門店を見つけた。他では見かけない伏見ならでは地場産品が並んでいる。上品な茶色に煮られた鯉や鮒の砂糖煮を見ていると、この店秘伝の味付けだという。種類の多さに驚く。残念ながら伏見産ではなく、材料魚は琵琶湖産だそうだ。これこそが庶民の味のような思いに駆られて、一折、買い求める。

伏見は戦で市街地の大半を焼かれ、その後は衰退の一途をたどることになる。歴史に再度登場するのは戦役後しばらく経ってからのことで、その窮地を救ったのが奇しくも官軍の後継者達であった。伏見奉行所跡は、帝国陸軍第16師団工兵大隊の駐留地となっていた。宇治川、桃山泰長老の傾斜地は塹壕や陣地の構築演習に、そして渡河作戦の場として使用された。明治から昭和の大戦前の時期、伏見は日夜訓練に励む兵隊さんたちの溢れる町であったという。
城下町のような活気を取り戻したが、そこに登場するのが「伏見の酒」である。灘に次ぐ酒どころとして、江戸時代にはかなりの生産量を誇っていた。
「月桂冠」「神聖」「名誉冠」「日の出盛」など軍隊好みの銘柄が並ぶ。地下水が芳醇な甘さを演出するらしい。酒蔵事業者の絶えざる研究と努力の甲斐あって、今や天下国家の銘酒の名をほしいままにするに至っている。紀伊徳川屋敷跡に建つ「月桂冠昭和蔵」、薩摩島津屋敷跡には「玉乃光酒造」、寺田屋近くの「黄桜」や「神聖」といったそうそうたる酒造メーカが軒を連ねている。「神聖」のラベルの文字は富岡鉄斎の筆によるもの。酒造蔵の一棟を改装した「鳥せい」は鳥料理専門店で有名。店の横では湧き水を飲ませてくれる。ここでは大勢の人がペットボトルを持って行列を作っていた。

伏見の町並みは古く、時代劇映画のセットに使えそうな感じ。突如、目の前に侍が登場しても驚かないかもしれない。町筋には、吹屋ベンガラ格子の酒屋商家が軒を連ねている。格子の隙間は狭く通行人から家の中を覗き込めない。暗い側の室内からは外がよくみえるのが格子構造の特徴である。杜氏達は秘伝の麹菌の製法を小声で話し、商売の密談をしていたに違いない。
伏見奉行所の外周の町割りは独特である。その一部が現在に残されている。その当時、奉行所防衛のために区割りされた路地は実に歩きにくかったろうと思う。通りは突き当たるまでは左右どちらに曲がるのか分からない。遠見遮断の構造となっている。運良くT字路に行き当たっても、左右両側から狙い撃ちされそうな感じがする。「四ツ辻の四ツ当り」の呼び名の由来がここにある。鳥羽伏見の戦いの最中、伏見奉行所内に会津藩は本陣を置いた。西から大坂町通を来ても、東から油掛通を迂回しても、北からの道を辿っても、南からの道を探し出したつもりでいても「突き当たりを曲がらない」といけない。事実、それぞれの突き当たりや筋道の両端で銃撃戦が行なわれた。まさに、あっちこっちの街角での断片的な銃撃戦である。
奉行所から離れた場所では、京都の街にならい、東西南北の地割りで、街路は碁盤の目のようになっていた。

ショッピングアーケードの端を左折して暫く行くと寺田屋に辿り着く。薩摩藩士が定宿としていた旅籠であった。藩は倒幕の雄であったため、大事件の多くはこの地で演出される。他藩の志士たちもこの地を居場所とし、京都の動向をうかがいながら入洛の準備をした。さながら水の流れの如く、多くの侍たちが行きかった要衝の地である。
寺田屋には龍馬の写真が展示されている。男の本能なのか、戦の前にはみんな自分の陰影を残していった。鳥羽伏見の戦に先立ち、出兵する兵士達は京都四条通りの写場(写真屋)に最後の雄姿を写真にとどめようと連日訪れたという。写真代は、現在に換算して3万円也。撮影時間の三十分間、1点を見つめたまま身動き取れない不動姿勢の間、彼らは何を思ったのだろう。
寺田屋では、藩主島津久光の命をおびた使者たちが、説得に応じない倒幕の急進派9名を抹殺した上意討ち事件があった。薩摩藩は詫び料として金子百両を差し出している。この事件により寺田屋の名は周知され、商売も繁盛するようになる。写真に見る女将のお登勢は、面倒見の良い、商い上手な利発さを感じさせる。お龍に出会うまでは龍馬も甘えていた姉さん役の人である。
寺田屋の傍は淀川を行き交う三十石船の発着点で、常に二、三艘が停泊していた。
宿泊中に捕縛されかかった龍馬は川沿いに材木倉庫まで逃げ、薩摩藩の舟に救助される。川沿いの宿は緊急時には逃げ場を確保しやすいので好まれたらしい。今に残る川幅は狭く広い道路が走っている。川は一部を残して埋め立てられた。細々と流れる川面は、浅い川底から上を見上げていた。
 鳥羽伏見の戦により、このあたり一帯は全焼した。寺田屋は再建され、今も現役の旅館として活躍し観光客で賑わっている。

京阪電鉄、伏見桃山駅の近くに羊羹の駿河屋がある。室町時代にさかのぼる店で、寺社茶会用に菓子を作っていた。竹の皮に包んだ羊羹風の蒸し菓子ながら、千利休の指導により考案されたものとはすごい話である。秀吉が聚楽第において大茶会を催した折に、諸大名への引き出物に使われた品だそうだ。
 魚三楼は駿河屋の向かいにある1655年創業250年の老舗。鳥羽伏見戦の時、この付近は激戦地の一つとなり、方々が焼けた。外の格子に弾痕が生々しく残る。この店は、古くから御香宮神社へ出入りしている仕出し屋であった。御香宮の官軍陣地への炊き出しである。薩摩軍兵士の防火協力もあったのかもしれない。腹が減っては戦ができない。この店は特別に焼け残った。
明治政府高官となった西郷の一番の楽しみは昼食だった。お昼のドーンという合図が聞こえたら、その大きな体を楽しげにゆすって食堂へといそいそと急いだという。

駅より斜め左手に行くと公営団地に出くわす。団地一帯が伏見奉行所の跡になる。巨大な敷地である。その敷地は、公園を越え、ずっと先にある中学校にも広がっていた。一角に「伏見奉行所跡」の碑があり、当時の石垣の一部が残されている。団地正面の塀の壁面には、奉行所の茶色の板塀がデザインされているので一目で分かる。奉行前町、西奉行町、東奉行町などの地名が現在も使われていた。

近鉄桃山御陵前駅を降りて東を見ると、赤い大鳥居が見える、御香宮神社である。社中に入り、伏見城外郭の石垣に沿って歩くと、御香宮神社の神門が出迎えてくれる。移築した伏見城大手門である。極彩色の模様が絵付けされ、壮麗な伏見城の雰囲気を感じさせてくれる。朱色を基調に艶やかな色が鮮明で、見上げると心が晴れやかになる。平成の修復によって約三百九十年ぶりに息を吹き返した。
本殿の近くには水汲み場がある。清水がこんこんと湧き出し、ペットボトルを手にした人が行列していた。この桃山丘陵から地下を逃れる水脈は、酒造りに欠かせない。水質は昔と変わらず、酒造りに適した中硬度の水。マイルドできめ細かくソフトな風味、まさしく、伏見酒を作り出すための神の御水である。昭和六十年一月、環境庁より京の名水の代表として「名水百選」に認定された。その清水を一口飲んでみたが、口当たりがまろやかでサッパリした味である。
主要な建造物が徳川家と深い関係を持っていることは、棟瓦の上に三つ葉葵の定紋が配列されていることからも窺い知れる。孫の千姫は伏見で誕生した。御香宮を産土神としたため、安産祈願のお札が目に付く。御香宮神社は伏見の守り神的な神社で、古来より何か事が起こると伏見の住人はここに参集して談議しているとのことです。地元では「ごこうぐうさん」と呼ばれている。

本殿左横の社務所の奥に、小堀遠州の手による庭園がある。遠州は、伏見奉行所に25年在職した。千利休の弟子でもあり、秀吉を始め徳川家にも使え、奉行所内で幾たびの茶会を催し、江戸初期の大名茶人、最高の文化人であった。
作事奉行も担当していたため、名古屋城・大阪城・二条城御殿・伏見城の行事作法を受け持ち、また建築造園家として庭園の造営なども行っている。奉行所の役宅には文化的な施設が多く設けられていたという。造園を特技とする遠州であるから、赴任後、早速に奉行所内に、伏見城の庭石や樹木をもって新しい庭園を作り上げたものと思う。維新以後、奉行所跡には新兵隊が置かれ、その後に工兵隊が配属されるに及んで、この庭園も壊されてしまった。戦後、敷地内にはアメリカ軍の兵舎が建設された。その後の国道拡幅工事に伴い、庭を取り潰し庭石が御香宮に寄附された。遠州ゆかりの庭園といわれる。こじんまりとしてはいるが、構成が緻密で個性美に溢れる庭だ。目が行くのは、その中央にある戊辰の役の火災跡が残るという手水鉢、黒々とした箇所が目に付く、またそれが微妙な色合いと化した風景となる。文明九年(1477)の銘があり、在銘のものとしては非常に珍しい。その品は、貴人が身を浸した薬湯、湯船であったという。物言わぬ岩の歴史が随所に存在している。
藤棚の後ろに椿がある。遠州が御香宮に参詣のおり、この椿の花盛りを見て感激し、「おそらくこれほど見事な椿は、ほかにあるまい」と感想を漏らした。「おそらく椿」の銘を賜った椿、桜色のその可憐な色合いは目に染み渡り、心に和やかさを呼びおこすという。
境内を一巡して再び、神門の前に立つ。右奥の樹木の中に天明伏見義民の碑が建っている。天明年間1781年、伏見奉行に任ぜられた小堀政方の暴政に、直訴に及んだ事件である。事は成功したが、そのほとんどは牢内で病死した。小堀政方は大久保加賀守へお預けの身となり、お家は断絶した。明治20年、その100年祭を記念してここに顕彰碑が建てられた。額文は三条実美が、本文は勝海舟がみずから筆を取って書いている。

薩摩軍は御香宮神社の境内に砲台を築き、ここから南百四十メートル離れた旧幕府陣営の伏見奉行所に大砲を撃ち込んだ。
桃山善光寺(龍雲寺)にも、薩摩軍の陣営が置かれ、伏見奉行所を砲撃した。御香宮から伏見城にかけては閑静な住宅地である。JR奈良線桃山駅下車、踏切をわたり石段を登ると龍雲寺の門が見えてくる。お寺は小さな構えで、ここに薩摩藩大山弥助(巌)の指揮する薩摩大砲隊が陣取り、旧幕府軍の徳川家の歩兵伝習隊・会津藩兵や新撰組に対して熾烈な砲撃を加えたという。
 アーネスト・サトウが会津の傷病兵と会話した記録が残っている。彼が言うには「もし、適当な援護があったら、敵を破ったであろうが、津藩は最も大切な防御地点の山崎で寝返りをうった。慶喜方の総指揮官の竹中も淀で敵に投じた。洋式訓練歩兵は、何の役にも立たず、一人が逃げ出すと他の者もみな後を追う始末だった。薩摩軍はわずか千人ぐらいだったが、前哨戦がすこぶる巧妙で、それに後装銃を持っていた」。

龍雲寺から一陣の風が眼下に吹き抜け、汗を乾かして心地いい。鳥羽伏見は一通り見て歩いた。私は心の中で彼らのことを思い一人つぶやきながら坂を下っていった。

ーーーーーーーーーーーーーー

現在の視線で鳥羽伏見をガイドします。

ここに写真、地図が入ります。

私はこれでいいと自信を持っています。
△top
2008年5月18日(日) 阿呆と気違い
いま直江兼続の山場を書いている。

石田三成徒一緒に徳川家康といかにして戦うか、

あれこれ秘策を練っているところに差し掛かっている。

それに関連した話である。

阿呆と気違いほど怖いものはない。

家康がそういったと司馬遼太郎が『関ヶ原』で書いている。

本当か嘘かは定かではない。

家康がそういったのは、会津征伐に出かけようとする直前だった。

石田三成と会津の上杉景勝が手を組み、家康の会津下向をいまや遅しと待っていた。

家康が会津に向かえば、三成は待ってましたとばかり挙兵する。これを見て、

「世に阿呆と気違いほど怖いものはない」

と家康がつぶやいたというのである。

阿呆とな上杉景勝、気違いとは直江兼続である。

なぜ阿呆と気違いなのか。

天下の形勢は、もう家康にある。三成がいくら頑張ったところで

天下は取れない、そんな器ではない。

にもかかわらず上杉の二人は三成に加勢している。

馬鹿もいい加減にしろと言うのである。なるほどそうかもしれない。

なぜ二人が三成に加勢するのか。

危なく信長に滅ぼされそうになっとが、秀吉と三成は

上杉を立てて五大老の一人にしてくれた。この恩を忘れることはできない。

それも分かるが、そんなことで家をつぶしてもいいのか。

馬鹿な男どもだと家康は言う。

時代が変わって幕末維新。

会津藩は律義に幕府のために奉公し、最後は慶喜と海舟に裏切られて

すべてを失った。

ううん、会津という土地柄もあったのだろうか。

複雑な思いで『関ヶ原』を読んだ。

しかし世の中すべて利口者では、味わいがない。

利口者は悪いことをするに決まっている。

豪邸に住んだり、別荘をつくったり、賄賂を取ったり、油断も隙もない。

これに関連して戊辰戦争研究会関西支部長の投稿があった。

こちらの投稿の方が早く、小生の文章はそれを追いかける形で書いたものである。
--------------------------------------------------------------------------------
戊辰、今日の独り言・・

京都の友達が、約二万坪の名園椿山荘(ちんざんそう)

に泊まってきたと画像を送ってくれました。

ここは、かの山県有朋の別邸、木戸孝允の京都三条の本宅・別邸も

旅館になっています。明治の政府高官は、このような豪邸に住み

贅沢の限りを尽くして、、、日経の「私の履歴書」に民俗学者の

谷川健一さんの手記が連載されています。

数日前から、あの宮本常一さんのことが書かれていて、

和服の生地を黒く染め、それで洋服を作り、布製の靴を履いて

全国を訪ね歩き、司馬遼太郎を感化し、谷川健一さんと共に仕事をして

数々の名著・名作本を世に出す。

雑誌「太陽」の編集長も谷川さんはしておられて、学生時代に

むさぼり読んだ「太陽」が懐かしい、幕末維新も多く取り上げて

くれて、そのカラー写真で鮮明に時代を写し取り、私たちに

植えつけてくれた。

一部のお金持ちが行く施設を残すのも、それなりに価値はあるだろう。

しかし、明治の高官たちは、汝の環境を作り上げるより、万人が平等に

手に取ることができる「文化」を残すべきだったと思います。
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2008年5月17日(土) 今日はNHK 文化教室
演題は薩摩・会津同盟

京都で両藩は同盟を結び、長州を京都から追放したのです。

ここから会津と長州の関係ハ一層こじれ、気がついたら薩摩は長州と手を組み

会津は朝敵になっていました。

怖いですね。

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おしらせ

中公新書春のセレクションに星の『幕末の会津藩』がはいり、全国の書店にならびました。


この本は、幕末、京都守護職として風雲急を告げる京都に入った会津藩の人々が幕府の崩壊と運命を共にし、引きあげるまでの五年間を描いた作品です。
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中公新書「奥羽越列藩同盟」が7刷になりました。


初版は2万5千部、累計で4万部のロングセラーです。
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2008年5月16日(金) 戊辰戦争研究会会員募集
戊辰戦争140年を記念し、

戊辰戦争を多角的に分析、考察するために広く会員を募集します。

官軍、賊軍、会津、薩摩、長州、そういうこだわりは一切ありません、

入会ご希望の方は住所、氏名、年齢、職業、興味ある問題などを書き添え、

読者通信からお申し込みください。

-----------------------
戊辰戦争研究会関西支部長の
  
みちこの幕末日記

ーーーーーーーーーーーーー

戊辰戦争研究会、会員、募集しております!
2008年5月16日 19:26
今年は、戊辰戦争140周年です。

今年になって、ご縁があり、戊辰戦争研究会会員になりました。
作家の、あの、星亮一先生が主催されておられます。
以下、先生の紹介文です。

****************************

戊辰戦争を多角的に分析、考察するために広く会員を募集します。
官軍、賊軍、会津、薩摩、長州、そういうこだわりは一切ありません、


****************************

ご参加をお待ちしております。
星先生と言えば、「その時、歴史が動いた」によくご出演なさいます。
7月に、あの松平アナウンサーとまたまた共演されるとか、
幕末維新は熱いですよね。

松平アナウンサーと星がNHK番組出演以来の再共演!!
白河戊辰祭 「戊辰戦争の真実とその心を探る」

●平成20年7月27日(日)
   講演会「義に死すとも不義に生きず」
   講師 星亮一
  開場13:00
  講演13:30〜14:40
   
   パネルディスカッション「戊辰戦争と白河・東北」
   パネリスト 松平定知氏(元NHKアナウンサー)
  講演14:50〜16:40

^-----------------------

みちこ先生の幕末講義


伏見史跡巡り [2008年04月14日(月)]

つい先日、伏見の史跡巡りに行きました。

小雨で、いつも人気の寺田屋には数人程度、龍馬通りのお土産屋には、行く度に

なんとか龍馬と命名されたお土産品が増えています。

で、その龍馬、やはり暗殺という言葉が浮かびます。

聞くところによりますと、龍馬の思案する新政府構想に幕府側人物の登用がないと危惧

した彦根藩が、京都見廻組に暗殺を依頼したのではないか、その証拠まで京都で出てき

たとのこと。

誰が本当の犯人か、、、?

明治政府はカスばかり残ったと言われていますが、龍馬が生きていたら、

どう言われたのでしょう。

龍馬がいたら、その明治も変えていたのか。

幕末維新は運命のパズルを見るようで、日本史の中で虹色に輝く宝石だと思えるのです。

その中で、燦然と輝いているのは、龍馬を初めとする「命を絶たれた」無念の志士たち

や戊辰戦争で命を落とし明治を生きられなかった人々たち!  

心から彼らに感謝するのです。

いつも、そんなことを考えながら、往時を偲んで史跡巡りをしています。
△top
2008年5月15日(木) 日本からの緊急援助要員を受け入れる
毎日新聞
 【北京・西岡省二】中国外務省は15日、

四川大地震で道路事情などを理由に受け入れに難色を示していた

国際救援隊などの人的援助に関して「日本からの緊急援助要員を受け入れる」

と発表した。各国から申し出がある中で、

日本は中国が人的援助受け入れを決定した最初の国となった。

ーーーーーーーーーーーーーーー
せっかく出かけた救助隊が、門前払いで戻ったニュースを見て

「水くさい、なにか怖れているのか」

と中国に不信感を抱いたが、これで氷解しました。

あとはは日本隊の皆さん、頑張っていただきたいと思います。
△top
2008年5月14日(水) amazonから、南雲忠一、順調な出足
南雲忠一(なぐもちゅういち) (PHP文庫 ほ 2-9 大きな字) (文庫)
星 亮一 (著)

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会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書) 星 亮一


商品の説明

内容紹介
日本海軍最強の「空母機動部隊」を率いて、

太平洋戦争の序盤を支配した提督・南雲忠一。

ハワイ作戦、南方作戦、インド洋作戦、ミッドウェー作戦、

第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦……

南雲ほど数多くの作戦を指揮した提督はいなかった。

真珠湾攻撃で世界戦史に輝く一大勝利を挙げながら、

南雲は常に不信の目で見られていた。それは南雲が魚雷の専門家であり、

航空機に不慣れだったにも関わらず、

年功序列人事で空母部隊の指揮官に選ばれたからだった。

結局、ミッドウェーで虎の子の空母4隻を失う大失態を犯したことで

南雲のイメージは決定的となり、以後「凡将・愚将」のレッテルを貼られてしまう。

しかし南雲は一切弁明せず、南太平洋海戦に出撃、

米空母に一矢を報いて司令長官の座を去っていくのだった。

最後はサイパン島で玉砕して果てた南雲の評価は、本当に妥当なものなのか?

日本海軍の勝利と敗北、その中心にいた“悲劇の提督”の戦いを描く!

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商品の詳細

文庫: 388ページ
出版社: PHP研究所 (2008/5/1)
ISBN-10: 456967027X
ISBN-13: 978-4569670270
発売日: 2008/5/1
商品の寸法: 15 x 10.6 x 2 cm
おすすめ度: まだカスタマーレビューはありません。 今すぐどうぞ。
Amazon.co.jp ランキング: 本で26,002位 (本のベストセラーを見る)
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四川大地震:「校舎ばかり手抜きでは」質問に当局否定

 【北京・西岡省二】中国・四川大地震で相次いだ校舎の倒壊について、

13日に北京で行われた民政省の記者会見で中国紙記者が

「報道で倒壊した政府庁舎を見ることはない。

校舎などの安全対策を強化するのか」と質問。

当局側が「倒壊したのは校舎だけではない」と釈明し、

手抜き工事で被害が拡大したのではないかとの疑いを否定する一幕があった。

 中国では、地方政府が競って豪華な庁舎を建設する一方

、学校など住民に身近な施設については業者と役人の癒着で建設費を低く抑える

「豆腐渣(とうふさ)(おから)工程」が社会問題化している。

 毎日新聞


△top
2008年5月13日(火) 戊辰戦争研究会に関西支部発足
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関東支部に続いて関西支部が発足しました。

支部長は橋本左内さんです。

多方面に活躍されている方です。

戊辰戦争研究会のホームページをぜひご覧ください。

戊辰戦争研究会は全国規模の研究団体です。

幅広く東西両面から戊辰戦争を見つめています。

以下は橋本支部長のコメントです。

全国規模に!!
みなさん、
関西支部長という重職に、参加してまだ日の浅い私をご指名して頂き、
身に余る光栄です。さて、私は、あまり頻繁には、本部へお邪魔することが
できませんので、それだけが心苦しい点です。
その代わり、関西での集会は、二、三ヶ月に一度は開催致します。
総裁を軸に全国規模へと広がりますよう、祈るばかりです。

もう、6,7年前になるでしょうか。司馬遼太郎記念館オフをした時、
某龍馬会会長に無理やり、司馬さんの散歩道の地図を作らせ、
司馬さんの日頃慣れ親しんだ町並みを歩くことにしました。

ここか、いや違う、こっちだと、みんなで悩み、考えて進んで行き、
『21世紀に生きる君たちへ』の碑がある公園にたどり着いた時の
感動は、今でも忘れません。あの時の、方谷先生の楽しそうな表情も・・!

その時の「司馬さんの散歩道」の地図は、まだしっかりと保存してあります。
こちらのみなさんと、再度歩ける日まで、大切に持っておりますね。
△top
2008年5月12日(月) スポーツチャンバラ:愛好家ら技術競う 福島市で選手権大会 
スポーツチャンバラ:愛好家ら技術競う 福島市で選手権大会 /福島
5月12日11時1分配信 毎日新聞


 福島市岡部の市東部体育館で11日、県内のスポーツチャンバラ愛好家たちが

技術を競う第8回福島市スポーツチャンバラ選手権大会が開かれた。

4歳から70歳までの約200人が日ごろの練習の成果を披露した。

 競技は「スポチャン」の愛称で親しまれ、県内の競技人口は約1000人という。

競技はゴムチューブに空気を入れた剣を使い、相手の体を打てば勝ちとなる。

渡辺栄美・大会委員長は「打たれても痛くなく、

誰でも気軽に楽しめるところが魅力」という。小太刀一般女子の部で優勝し、

同男子の部にも飛び入り参加した大越朋子さん(43)は「優勝できてうれしい。

男子は動きが速くて楽しかった」とさわやかな汗を流していた。【今井美津子】

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子供と一緒に遊べてこれはいいかもしれません。
△top
2008年5月11日(日) 今日は白河
八重洲ブックセンターの石塚店長の送別会である。

今回、郡山店長から都内の店長に異動する。

この方は大宮から新幹線通勤をしていた。途中、白河に降りて

おいしいそばを味わっていたようだった。

白河に知人もでき、白河で送別会となった。

白河は郡山からは在来線で40分ぐらいである。

私も今夜は、おいしそばと日本酒である。

四時過ぎの電車で白河に向かう。楽しみである。
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2008年5月10日(土) カゼアメ、専門家の意見
星様

結論から言いますと「かぜ、あめ」です。

参考文献にある、真珠湾攻撃直前にスパイとして活躍した

吉川猛夫の手記「東の風雨」のことのようですね。

これは「ウインド・メッセージ」と呼ばれる日本の在外公館あての暗号で

海外向けラジオ放送に「天気予報」を装って紛れ込ませるものです。

開戦時のワシントン駐在武官・實松讓氏の手記「回想九十年」(私家版)

のなかに――


「この天気予報とは、開戦の時機が切迫したならば、

若干の時日の余裕をもたせるよう、

機密物件処分の発動を中央が指令する。

それは『明日の東京地方は西の風、晴』と
いうような天気予報を隠語とし、

これを海外向けラジオ放送の中に織り込むことになっていた

“ウィンド・メッセージ”(風のたより)である。」

「十一月二十日、東京から在外公館あて、

(1) 日米関係が危険になった場合……東の風、雨

(2) 日英関係が危険になった場合……西の風、晴

(3) 日ソ関係が危険になった場合……北の風、曇

という“ウィンド・メッセージ”の予報があっていらい・・・」

――という記述があります。

したがって、お尋ねの「東の風雨」は、「かぜあめ」と読むものと思われます。
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光人社出版製作部
坂梨誠司

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さすが、素晴らしいご回答です。ハワイにも転送いたします。

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南雲忠一
 
南雲中将をさっそく購入しました。私は、太平洋戦争にも興味があるので、

興味深く読みました.戦争前には、第一航空艦隊の司令長官の候補は、

幾人かいたようですが、結果からみれば、

第一航空艦隊の司令長官になった時点で悲劇の提督は、

運命づけられたものだと言うことになってしまいます。

たとえ、ミッドウエイ海戦で勝ってもその次、

もしくは、その次の航空艦隊決戦で、いつかは負けてしまいます。

残念ながら一度負けると立て直せるほど日本の国力はなかったでしょう。

結局誰が、第一航空艦隊の司令長官になっても同様なことになるのが

悲しい現実だと思います。

山田方谷

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たしかにそうですね。

あの戦争、どう考えても無謀でした。

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セブンイレブン

本 > 文芸 > 人物評伝 > 人物評伝(日本人)

野口英世 波乱の生涯 志を得ざれば再び此地を踏まず

お客様オススメ度 ★★★★★
著者/訳者名 星亮一/著
出版社名 三修社 (ISBN:978-4-384-04159-0)
発行年月 2008年05月
サイズ 247P 20cm
価格 1,890円(税込)
発送時期 当日〜2日で発送 発送時期について

目次
医聖英世の誕生
黄熱病
わけが分からない
英世の原風景
大火傷
医学への道
渡米の夢
アメリカ大陸
蛇毒の研究
細菌の狩人
憎めない人柄
今よみがえる野口英世
米国取材

著者情報

星 亮一(ホシ リョウイチ)
1935年仙台市生まれ、岩手県立一関第一高校、東北大学文学部卒。福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長を経て作家に。この間、日本大学大学院総合社会情報研究科修了。福島民報出版文化賞、NHK東北ふるさと賞受賞

この著者の他の本

1. 南雲忠一 空母機動部隊を率いた悲劇の提督
2. 幕末史 激闘!薩摩・長州・会津
3. 偽りの明治維新 会津戊辰戦争の真実
4. 彰義隊 われら義に生きる
5. 山川健次郎の生涯 明治を生きた会津人 白虎隊士から帝大総長へ
この著者の他の本一覧へ
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2008年5月9日(金) カゼアメかフウウか
ハワイ在住の方から以下の質問がありました。

皆さんのご意見をお聞かせください。


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星亮一さん著書の本の内容について質問があり連絡しました。

PHP研究所発行の「山口多聞: 空母「飛龍」に殉じた果断の提督」

(ISBN 4-569-57141-7)という本です。

中には「東の風雨−真珠湾のスパイとして−」という記述がありますが、

この「東の風雨」が日本に真珠湾攻撃を知らせるための暗号らしく、

当時のその読み方が「東のカゼアメ」だったのか

「東のフウウ」だったのかだけを聞きたかったです。


いま真珠湾攻撃についてドキュメンタリーの製作をしてまして、

困ったことにそのドキュメンタリーのタイトルが正しくも「East Wind, Rain」、

「東の風雨」そのまんまなんですが、

翻訳する上ではやはり「風雨」の読みが問題になっています。

アメリカのサイトや文献を参考にしてもどれも「カゼアメ」と振られていますが、

現代の日本語でどう考えてもこれは「フウウ」としか読みようがないのではないか

と疑問に思っています。

第二次世界大戦当時の日本語で「カゼアメ」と言うこともあったのか、

あるいは暗号に使用する際訓読みに変えたのか、

様々な可能性がありますが実際に使われた読み方だけわかれば十分です。

ご協力よろしくお願いします。

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私は〇〇だと思っているのですが

皆さんはいかがでしょうか。
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2008年5月8日(木) 野口英世
百姓の小せがれ、貧乏、独学、マイナスの条件がそろっていますね。

そこから這い上がる力、これはもうすごいの一言です。

彼の反逆精神、それが会津魂なのです。

俺は会津のサムライだ。

いつも叫んでいました。

今回、私は会津武士の精神的末裔、英世を描きました。

皆さんの感想をお伝えします。

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星先生の最新作「野口英世」を早速拝読しました。

短所と思えることを沢山取り上げているのに、

読後は魅力的な人間として鮮烈に心に残り、

読者は普通の物差しでは計れない野口英世のスケールの大きさについて、

感慨新たにすることだと思いました。

先生もこの本の中で取り上げていらっしやった英世の評価の変遷・・・

私は渡辺淳一氏の「遠き落日」で、

それまでの自分の中に定着していたイメージが、

崩れていくショックを受けたことを鮮明に覚えています。

その後、先生の「野口英世の生き方」を読み、

今回この「野口英世 波乱の生涯」を

読ませて頂いたことで、より大きく偉大なる『野口英世』が、

揺らぎなく私の心に

居座りました。英世を再顕彰させていただけた素晴らしいご本でした。

構成もすごく良かったです!皆さんにも是非共お読みいただきたく存じます。

追加  

「野口英世」の本のおびがインパクトがありいいんです!

英世と母シカが描かれている会津鉄道の車両が帯になっています。

私はこんな電車があることを知りませんでした・・・

なんと、「新千円札発行記念列車」というらしいのです。

2004年12月から走っていました。

乗ったことがある方、いらっしゃるでしょうねえ・・・

私は福島県人、恥ずかしいです。

福島県、安司

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猪苗代湖近くにある野口英世記念館に行った時、カラー写真の

ポートレートがありました。遠い存在の英世が、横を向いたら

立っている様な親近感を感じ、一筋縄にはいかない彼の人生に

とても興味が沸きました。

岡山県 橋本

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今まで何となく野口英世は好きではありませんでした。

会津に行っても猪苗代に行っても意識的に避けていました。

私生活の乱れが眉を潜ませるというか・・・

同じ細菌学者だったら会津出身の小池毅を尊敬しています。

生涯、父親が松平家の御側医だったことを誇りに思い、野口英世と

違ってその私生活には乱れがないどころか、会津ならではの高潔そのもの・・

北里柴三郎のペスト菌発見も小池氏がいなければありえなかったように

思います。

まさに「会津医魂」を貫いて短い生涯を閉じた彼を私は心の底より

尊敬しています。だから会津出身の細菌学者イコール野口英世という

図式が寂しいです。

でも私の野口像は間違っていたのかも、と

思い始めました。

大阪府 村井
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2008年5月7日(水) 連休明け
少しぼんやりしてますね。

人間は、というよりは私は、どうもマダ機動に乗らず、原稿のペースは

回復しません。

何ををしているかといえば、

文庫「直江兼続」です。

来年の大河ドラマの主人公、

なぜこの人が主人公なのか、じっくり取り組んでいるところです。

戦国時代は、一瞬の読み違いで、敗者です。

兼続の読みは関が原をのぞいては適確でした。

判断を誤った関が原も

見事に乗り切り、米沢に領地を得るのです。

そこが彼の真髄なのだろうか。

現在、秀吉について朝鮮に渡ったところを書いています。

主役は小西行長、加藤清正らですから完全に脇役です。

これはしかし、ひどい戦争でした。

朝鮮の人々の苦しみは想像を絶するものでした。

会津戦争もそうですが、侵略戦争は残酷です。
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2008年5月6日(火) 今日は休日
一言は休載です。
あすから書きます。

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投稿、鶴ヶ城1

戊辰戦争研究会、村井

鶴ヶ城は、その技巧的で戦闘的な構造により難攻不落の天下の名城と言われていた。本丸と帯郭を合わせた全体の形は五角形に近い形をしていた。五角形の城と言えば、函館の五稜郭が有名だが、一般的に五角形の城郭は死角がなく防御には最適の形と言われている。実際に1ヶ月の籠城戦では、敵兵は1人も城内に入ることができなかった。城の東側には濠を隔てて二の丸があり、さらに濠を隔てて三の丸があった。一方、城の西側には西出丸が、北側には北出丸がある。そして南側は複雑に石垣が組んであり、守りは完璧であった。
 北出丸が、幕末当時の鶴ヶ城の正面玄関であった。現在は北出丸通り(旧甲賀町通り)が鶴ヶ城へ向かう表通りである。正面には「鶴ヶ城跡」の石柱が立っている。目の前には東西に伸びた石垣が見え、さらに深い濠が広がっている。お濠沿いを進むと左側には土産店や茶店が並んでいる。


西軍が侵入して来られたのはこの茶店付近までだったと言われている。茶店の右横に会津戊辰戦争慰霊の碑があり、供花が絶えたことがない。左に目をやるとお堀の向こう側に土塁が広がっているのがみえる。これは二の丸の北方にある伏兵郭である。北出丸側からは分からないが、この郭からは大手門入り口が丸見えで攻め入ってくる兵士を狙い撃ちするには最適の場所だった。内側は梨園で籠城戦の初期には埋葬地としても利用されていた。

その先が城の正門である大手門(追手門)だ。落城の際、降参の白旗がここに掲げられた。
現在も両脇に大腰掛が残っている。大腰掛とは連発銃がない場合に、火縄銃で順番に交替して打った場所である。鶴ヶ城は他の城と違い、門は一重である。大手門の石垣には今も門の跡がくっきりと残っている。

大手門から中に入ったところが北出丸、またの名を皆殺し丸と言う。北出丸の形は長方形だ。その一辺には大手門があり、その反対側に西門がある。たとえ大手門、西門を突破しても、そのまま直線状に本丸にはたどりつけない。大手門から入ると左側、西門から入ると右側に、両側を水濠に挟まれた、約40mの椿坂と呼ばれるゆるい坂があり、それが出丸から本丸に入る唯一の道だ。


椿坂の奥には太鼓門の枡形があった。枡形とは土塁や石垣を通路の要になる場所に積み上げて通路を意識的に屈曲させ、枡のような形に周囲を取り囲み、進入してきた敵兵を四方の城壁の上などから攻撃できるようにしてあるものだ。つまり大手門や西門を突破した敵兵はその長方形の地形に面食らい、椿坂に進んだとしても三方向から攻撃されることになる。それが皆殺し丸と呼ばれるゆえんだ。

北出丸には鶴ヶ城を語る際に欠かせない記念碑が建っている。大手門をくぐり、すぐ右側にあるそれだ。旧会津藩士であった遠藤敬止氏は競売にかけられた鶴ヶ城を私財を投じて落札し、旧主君の松平家に献納したのだ。その功績をたたえ建てられたのがこの遠藤敬止頌徳碑だ。しかし一般的に遠藤氏一人の功績と思われているが、実際に献金に立ち上がったのは長尾和俊ら、松平家に出入りしていた豪商であった。これまでの恩に報いたいと大募金活動をしたらしい。その際に、競売の窓口となっていた第2師団と交渉したのが遠藤氏であった。恐らく当時、第七十七銀行の要職などを勤め社会的信用が高かったことから代表に押し上げられたのではないだろうか。その時に同時に買い戻されたのが土津神社と御薬園だった。なお、現在の鶴ヶ城は松平家から若松市に寄付された後、昭和九年に国指定の史跡となっている。
 
椿坂の西側は馬走りになっており、中央には敵が侵入してきた際に足元を乱す役割をしていたと伝えられる十五段の石段が作られていたが今は観光客の足元を配慮し、上を覆ってしまっており両端にその跡が辛うじて残っているのみになっている。

この坂を上がり切る直前、右側の石垣に縦およそ二b六〇a、横およそ二b八〇aもある大きい石がある。この石は遊女石と呼ばれるもので、石垣建築の際、石を引く人足を鼓舞するため、遊女が上に乗り、芸を見せたり、声をかけたりしたといわれていることに由来する。これほどの大きな石をここに据えたのは、城を訪れる者に城主の威光を示すためのものと推測される。さらに正面にも大きな石が使われている。これは鏡石と呼ばれ魔物を映すと言い伝えられている。いわゆる魔よけのようなものだ。


遊女石、鏡石を過ぎたところが太鼓門である。ここの櫓には約百九〇aの太鼓が置かれ、藩士の登城のとき打ち鳴らされたと言われている。この石垣にも門の跡が見て取れる。太鼓門を入った正面には番所があった。現在はお手洗いや休憩所が建っている。この太鼓門の南側の石垣にはV字の階段がついている。これは合坂と呼ばれる武者走りで、太鼓門の上に兵士を昇り降りさせるための階段である。緊急時に大人数が昇り降りできるよう機動的な構造をしている。

 
太鼓門を通り過ぎるといよいよ目の前に本丸の天守閣が姿を見せる。
天守閣には本丸防衛のために東側、南側に走長屋が伸びていた。その内側が本丸と呼ばれ、お殿様の御寝所や大広間、大書院、長局と呼ばれたいわゆる“大奥”などがあった。かつて競輪場が作られてしまったせいですっかり破壊され跡形もない。唯一お庭にあった池の跡だけが残っている。
現在の鶴ヶ城は干飯櫓と天守閣をつなぐ走長屋(南側)だけが再建されている。この天守閣は昭和三十九年の会津まつりに着工され、翌年の九月に竣工した。見た目には六層に見えるが、実際は五層である。それを長さ五十四bの四本の鉄柱によって支え、天守台の石垣に負担をかけない構造になっている。天守閣の高さは二十五b、石垣の高さは十一bである。石垣は慶山、天寧、小田山(主に慶山)から切り出してきた石と河原石が積み重ねられてできている。隙間があるのは水はけをよくするためだ。注意して見るとくさびの跡や測量に使われたのでは、と推測されている十字の印を見つけることもできる。
天守閣への入り口は地下室にあたる塩蔵から入るようになっている。ここには常時千七百俵余りもの塩が貯蔵されていた。戊辰戦争時にはよく煮て乾燥させたタニシも蓄えられており、多くの人々を飢餓から救ったという。


塩蔵から階段を上がると天守閣の一層から四層までが博物館になっている。そして五層が展望台になっており城下町はもちろんのこと、白虎隊士中二番隊の自刃の地である飯盛山、西軍が大砲を打ち込んできた小田山、さらに遠く飯豊山まで見渡すことが出来る。この展望台からは走り長屋と干飯櫓もよく見える。走り長屋はおもに武器庫として使用されていた。個人の武具も納められており、平服でかけつけてきても武装ができるようになっていた。しかし戊辰戦争時には、その武具も時代遅れでほとんど役に立たなかったという。

干飯櫓は食料の貯蔵庫であった。城内にあった十一の二重櫓の中で最も大きい。干飯とは炊いたご飯を水洗いし、ぬめりを取った後で天日に干して乾燥させた保存食である。水やお湯に浸ければすぐに食べられるいわゆる当時のインスタント食品で戦時中の兵士の重要な食料であった。また櫓はお堀に面し、石落としを備え、敵の侵入を防ぐ役割を果たした。なお干飯櫓と南走長屋の外壁は、鉄砲の弾を通さないほど圧塗りの土壁で仕上げられており、敵の来襲に備えて、石垣より迫り出して造られた「石落し」や壁に小さな穴をあけて敵を銃撃するための「銃眼」などの設備を設けていた。この干飯櫓と走長屋は、コンクリート造りで再建した現在の天守閣とは異なり、発掘調査や資料調査に基づいて復元された建造物である。

 
走り長屋の中間地点には帯郭と本丸をつなぐ出入り口がある。この門は鉄で覆い包んであることから鉄門と呼ばれている。戊辰戦争では西軍の砲撃が激しく、至るところに砲丸が落下したと伝えられている。そのため城内には安全な場所は限られており、松平容保公、そして重臣たちはこの鉄門で作戦会議を行い、指揮をとったと言われている。鉄門を入った正面には番所があり、左手には兵器倉、そして更に西奥には台所があった。ここにある井戸のうちの二つに多くの籠城戦犠牲者のご遺体が葬られたと言われている。
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この原稿は「会津籠城戦の30日」に掲載する予定です
 
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2008年5月5日(月) 投稿、会津藩の塹壕、戊辰戦争研究会、村井
今年のGWは・・・

私にとって恐らく一生忘れることの出来ない一日となりました。

日本考古学協会会員であり、会津古城研究会長である方が昨年の12月に

「国境に造られた攻守の遺構」という素晴らしい論文を会津若松市史研究に

発表されたのをご存知でしょうか。

この方は平日は会津若松の市役所の職員として勤務しながら、休日は全て

昔の山城や戦で築かれた防塁、塹壕の調査にあてておられます。

昨年の12月に発表されたのは会津若松近郊に残っている戦国時代の

「伊達vs葦名」、関が原の戦いの「徳川vs上杉」、そして戊辰戦争の

母成峠、中山峠、勢至堂峠、戸の口原峠等々に残る遺構を文献を参考に

探し出し、正確に測定した内容になっています。

昨日はこの方と一日ごいっしょさせていただき、鶴ヶ城の石垣や構造の

変化を解説していただいたあとで、戸の口原の遺構に連れて行って頂きました。

街道沿いには、戦死者のお墓や、大きな碑がありますが、そのすぐ近くです。

いくつかポイントはあるのですが、そのうちの新政府軍が掘った塹壕、そして

佐川官兵衛の指揮の下、諸隊と白虎隊が掘って身を潜めていた塹壕2箇所を見て

きました。140年経過しているとは思えません。草で覆われているものの

はっきりと人の手で掘られた塹壕であることが素人目にも分かりました。

その塹壕にしゃがみこんで下を覗けば、確かに二本松裏街道を通る敵兵を

鉄砲で狙い打ちするには最適の場所でした。少し高くなった場所は明らかに

平に踏み固められており、そこが陣地だったようです。苔むした大き目の石が

真ん中にひとつだけ転がっていて、ここに佐川官兵衛が座った可能性はゼロでは

ない!と思いながらなでてきました。少なくともそこから見える景色を彼らも

見ていたのです。

新政府軍の方は、そこから一山向こう側、現在は県立会津レクリエーション公園

内にありました。そこも前述と同様、板垣退助らが造った陣地と塹壕の跡が

はっきりと確認できました。ただしこちらは明治時代に若松連隊によって再使用

され掘り直されているようです。さらに文献上はもうひとつ山があって、

その2箇所に分かれていたようですが、そちらは山ごと崩れてなくなっているそうです。

ここから東軍が潜んでいた山が木や草越しに確認することができました。

恐らく間に今も原っぱ(あるいは田畑?)になっている平地で小競り合いを

したあと、滝沢本陣の方に走り抜けて行ったのでしょう。

140年前の塹壕が、そしてまさか白虎隊が掘った塹壕が残っているとは・・・

とても驚きました。発見し、文献にした方もまだ10人は案内していないと

おっしゃっていました。とても貴重な体験をさせて頂きました。。。

そこで提案なのですが、来年のGW、当戊辰戦争研究会で見に行きませんか?

戸の口原だけでなく、母成峠、中山峠なども。。。こちらは砲台跡もはっきり

残っているそうです。ちょっと先走って、万が一そう言う話があったら

案内して頂けるかを伺ったら、喜んで引き受けてくださるとおっしゃって

くださっています。

なぜ1年も先のGWなのか・・・140年も残った理由のひとつでもあると思いますが

普段人が全く通らない場所にあります。昨日も足はどろどろ、手や腕は笹で

傷だらけ、何度も転がり落ちそうになりながら登ったのです。この場所は、

これからの時期はさらに草で覆われとても登れる状態ではなくなります。

さらに雪です。つまりここに登れる期間はとても限られていて4月まで・・・

昨日は限界ぎりぎりだったようです。

だから来年のGWに・・・というご提案です。

幹部のみなさん、ぜひご検討いただければと思います。

前述の文献、コピーをご希望の方はご連絡ください。

それと当時の鶴ヶ城の復元図・・今までのものは間違っている箇所が

多かったようで、同じ方が自ら文献と照らし合わせながら測定し、新しく

書いたものも頂きました。そちらもご希望される方がおられたら

ご連絡ください。

最後に・・・当時の鶴ヶ城の屋根瓦の破片を入手してしまいました。

今と違って屋根瓦は赤かった、と言われていますが、まさに赤瓦です!

陶器の鑑定が出来る方がご覧になって、これは「本郷焼」とのこと。

私の一番の宝物です!!!

ーーーーーーー

すごい、新発見です。

私も知りませんでした。
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2008年5月4日(日) 小瀬甫庵の太閤記
今日はこの本を読んでいる。

岩波文庫本である。

資料として信憑性に乏しいという批評もあるが、

へえと驚く記述がいくつもある。

読んでみると決して荒唐無稽な本ではない。

小瀬は秀吉のおい秀長に仕えた時期もあり、晩年は前田利常に仕えている、

利常の祖父は秀吉の親友利家である。

彼らから聞いたことが骨子となっている。

以前にも読んだことがあり、今回、直江兼続を書くために読み返して

いるのだが、秀吉は信長から微に入り細にわたる教育を受けている。

三十代のころの信長の判断、主張は、素晴らしいものがあった。

現在の大手企業も社長も十分、勤まる感覚だった。

秀吉は信長の高弟だった。そのことがよく分かる伝記である。

信長と秀吉、日本を代表する偉人の伝記は、

さすが素晴らしいものがある。

ぜひ、一読あれ。
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2008年5月3日(土) 会津藩VS薩摩藩
今日は休日なのに宅急便が何便かあった。

そのなかの一通が、ベスト新書

「会津藩VS薩摩藩」

の初校である。当初の予定は5月刊行だったが、

諸般の事情で、6月か7月の刊行になった。

ベスト新書の編集者の方と東京でお茶を飲み

あれこれしゃべっているうちに

この本の企画ができ上った。

「会津の人は長州というと身構えるが、薩摩になると、表情が穏やかになる」

「へえ、どうしてですか」

「いろいろありますが、一つは中村半次郎の涙ですね」

「あの人斬り半次郎ですか」

「そうなんです」

「それはどのようなことですか」

「会津の降伏の式典を仕切ったのは中村半次郎です」

「長州jじゃないんですか」

「そうなんです。長州の奇兵隊、干城隊野幹部は、あの時、

会津若松にいなかったのです」

「ええ、なぜですか、長州の会津攻撃部隊は、新潟経由で会津を目指した。

ところが長岡の河井継之助に足止めを食って、ひどく破れ、とても会津攻撃

どころではなかった。会津に入ったとき、戦争は終わっていたのです」

「えええ、本当ですか」

「そうなんです」

というわけで降伏の式典は薩摩の独壇場で行われた。

中村半次郎は会津がかわいそうだと、涙を流しながら式典を仕切った。

会津の人々も感動した。

この気配り、演出をしたのは西郷隆盛だった。思い切って泣け、

西郷は半次郎に指示した。西郷もまた実に細やかな

神経の男だった。

それを書いた原稿の一部が届いた。

連休中の仕事がもう一つ、増えたことになる。
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2008年5月2日(金)  明日から4連休
いいですねえ、

ただし私は校正が2本はいり、

加えて原稿もあり、読書三昧のはずが崩れてしまいました、

何たることや。

こうなったらどうしようか。

しかし、そこで生まれた欲求不満を解消する手立てはありません。

一つ一つ、仕事をこなすしかありません。

そう思って、酒ではなくお茶をがぶ飲みしています。

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食べ残し別の客に 刺し身やアユの塩焼き 船場吉兆

 牛肉の産地を偽装表示していた高級料亭「船場吉兆」(大阪市中央区)が、

本店の料亭部門で客が残した刺し身やアユの塩焼きなどの料理をいったん回収し、

別の客に提供していたことが2日、関係者の証言でわかった。

料亭経営を取り仕切っていた当時の湯木正徳前社長(74)の指示で

昨年11月の営業休止前まで常態化していたとみられる。

一連の不正表示とともに、老舗の高級料亭としてのモラルが改めて問われそうだ。

大阪府警も従業員らの事情聴取で、こうした証言を把握している。(産経新聞)

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この店は閉鎖ですね、
△top
2008年5月1日(木) 野口英世は会津のサムライだ
今朝の福島民報に

私の野口英世が紹介されました。

英世は会津のサムライだ。

私が述べたことが大きく掲載されました。

そうなんです。

彼の精神的バックボーンは

会津の武士道だったのです。

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これは驚くべきニュースです。

中国海軍高官が太平洋の米中分割管理“提案” 米司令官明かす
03/12 14:38更新

 米太平洋軍のキーティング司令官(海軍大将)は11日の

上院軍事委員会公聴会で、昨年5月に司令官として初めて中国を訪れ

中国海軍高官と会談した際、太平洋を分割し米国がハワイ以東を、

中国が同以西の海域を管理してはどうかと中国側から

“提案”されたことを明らかにした。

 司令官は「面白半分の冗談」と断りつつ、こうした“提案”は

「中国人民解放軍が抱いているかもしれない戦略構想」

の一端を示しているとも指摘。

中国は「明らかに自国の影響力が及ぶ範囲を拡大したいと考えている」

と証言した。

 具体的には、中国はその気になれば

「中国から1000−2000キロ以内(の海域)で他国軍の行動を制約する」

海軍力を整備できるなどと指摘した。

共同通信

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前知事に懲役3年6月求刑=「潔白装い、地位悪用」−福島汚職で論告・東京地裁
5月1日16時30分配信 時事通信

 福島県発注のダム工事をめぐる汚職事件で、

収賄罪に問われた前知事佐藤栄佐久被告(68)と、

同罪と競売入札妨害(談合)罪に問われた実弟祐二被告(65)の論告求刑公判が1日、

東京地裁(山口雅高裁判長)であり、

検察側は「清廉潔白を装いつつ、知事の地位を悪用した」として、

栄佐久被告に懲役3年6月、祐二被告に同2年6月、

両被告に追徴金約1億7372万円を求刑した。

 両被告とも捜査段階で事実を認めたが、

公判で一転して否認。無罪を求めている。
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