星亮一 今日の一言

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2008年6月30日(月) 明日から7月です
6月は多忙でした。

原稿が3本ほど重なり、てんやわんやでした。

加えて流山集会があり、講演と散策で2日間、名古屋では中京大学で講演と

名古屋城、岡崎城の取材で3日間、費やし、本当に東奔西走でした。

明日からは

会津篭城戦の30日、

本格的な執筆です。

かなり時代が異なるのですが、

注文した「大坂冬の陣図 夏の陣図」が

本日、配達になりました。

「逃げ惑う女たち」

「追い首・にせ首と婦女の惨禍」

など夏の陣の惨憺たる光景は先日、テレビで見た人も多いと思います。

それをまとめた本です。

実は会津の戦争でも似たような光景が展開されたのです。

惨憺たる戦争でした。

それを精密に描くつもりです。
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2008年6月29日(日) 夕方、流山から帰る
流山の講演会、大勢の方がお見えになり、ありがとうございました。
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2008年6月28日(土) 今日、明日は流山です。
月曜日に報告します。
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2008年6月27日(金) 明日、流山で講演
星が基調講演をします!
新選組と戊辰戦争 〜流山140年ぶりの再会〜

●日時
  平成20年6月28日(土)

●会場
  流山市商工会館
  (総武流山電鉄流山駅より徒歩3分)

●  新撰組と戊辰戦争


   ●入場無料
  希望者のみ資料代500円

●お申込みお問合せ
  e-mail snap@at-town.com
  FAX 04-7154-1489
  URL http://www.at-town.com/snap内容詳細

06月28日(土)講演会・座談会・発表会

12:30 開場

13:00 開会挨拶    小名泰裕氏 戊辰戦争研究会幹事 5分

歓迎のことば 新選組流山隊(女性隊士)5分

13:15 基調講演  演題「新選組と戊辰戦争」プロジェクター使用

星亮一氏  作家・戊辰戦争研究会代表 55分

14:10 講演終了

(準備・休憩)

14:15 天然理心流演武  近藤勇生家子孫 宮川清蔵氏

  井上源三郎子孫 井上雅雄氏 20分

14:35 新選組流山隊   殺陣 10分

14:45 休憩    5分

14:50 記念講演  演題「新説・流山での新撰組」

松下英治氏 新選組流山隊・隊長 55分

15:45 休憩    10分

15:55 研究発表  演題「千葉の戊辰戦争 撒兵隊」

          菊池牧人氏 歴史探究家   20分

16:15 研究発表  演題「新潟町の戊辰戦争」プロジェクター使用

          岩瀬隆 戊辰戦争研究会   20分

16:35 龍馬と愉快な仲間たち

          阿納裕次郎氏 龍馬探究家  15分

16:50 休憩    10分 

17:00 来賓紹介  司会 佐藤広和 10分

17:10 抽選会 5分

17:15 御礼の言葉 新選組流山隊

17:20 閉会の挨拶 寒河江昌英氏  戊辰戦争研究会仙台支部長 10分

17:30 解散    以上



06月29日(日)流山巡察会・座談会

09:30 集合・点呼

09:45 出発 流山周辺散策

12:30 昼食 割烹「柳家」

13:30 出発 流山周辺散策

14:30 福祉会館にて交流座談会

15:30 解散



**********************
星亮一事務所
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2008年6月26日(木) 会津藩vs 薩摩藩
今日が校了の日、

編集の方は工場につめ、そこから電話が来て、何箇所かチェックしました。

校正おそるべし

という言葉があります。

何度か見たはずなのに

白河以北一山百文

が一山百夕になっていたり、冷や汗ものでした。

何せ何万という活字です。登場する人名も

何百人です。

年号あり、複雑な地名あり、西暦への換算あり、

絶対がない世界です。

担当者はこの二、三日、あまり寝ていない様子でした。

これで一段落、明日からは

新しい原稿の執筆に入ります。

テーマは

「会津籠城戦の30日」、

大坂夏の陣のような

略奪、暴行の戦争です。

会津版ゲルニカです。

昨夜のテレビ、

その時歴史が動いた

「戦国の“ゲルニカ”〜大坂夏の陣、惨劇はなぜ起きたのか〜」

松平定知アナが司会をつとめる重厚感あふれるNHK歴史ドキュメント番組

「その時 歴史が動いた」 2008年6月25日は、大坂夏の陣でした。

これは衝撃でした。

 大坂夏の陣は「大坂夏の陣図屏風」にその実像ガ描かれていたのです。

戦火を避けて逃げ惑う民衆の姿が生々しく描写されており、

大阪の民衆を敵味方に分裂させるまで

血みどろの抗争が繰り広げられたという「大坂夏の陣」、

これはショックでした。

ゲルニカはピカソが描いたスペインの民衆の苦悩です。

ナチドイツの残虐行為を糾弾した作品です。
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2008年6月25日(水) 今日は筑波山です
水戸天狗等を求めて筑波山に出かけます。

詳細は後日。
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2008年6月24日(火) 今日は異業種交流の勉強会
福島県に進出する自動車関連企業、デンソー東日本の社長をお招きしての

講演会である。

私はこうした勉強会も行っている。

毎月なので結構、多忙である。

久しぶりの大手企業の進出なので、80人近い方から参加申し込みがあり、

盛会の見込みである。

午後6時開会、午後から準備の為、原稿はストップである。

生きてる社会とのふれあいが大事である。

歴史にとじこっもっていては、いいものは書けない。

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道徳とマナー

終わって帰ってきたら、次の出来事を知った。

女子短大生6人、フィレンツェで大聖堂の壁に落書き

 岐阜市の市立女子短大(松田之利学長)は24日、学生6人が

今年2月に海外研修旅行で訪れたイタリア・フィレンツェ市で、

13世紀から15世紀にかけて建設された

「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の壁に、

自分の名前などを落書きしたと発表した。(読売新聞)

何たることや、

日本人の芸術性ゼロを暴露した事件、

国民全体で考えることです。

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2008年6月23日(月) 自己紹介
最近、戊辰戦争研究会のホームページに書いた自己紹介のコメントです。
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戊辰戦争をもう何十年と追いかけてきました。

あるとき、「研究会があるといいね」という話になり、

戊辰戦争研究会を立ち上げました。

数人ほどのちいさな研究会でした。ハンドルネームが面白いと、会員が増え、

猪苗代が最初の集いでした。ちなみになぜ榎本武揚か。

そのとき、私は箱館戦争を書いていました。

私の経歴は50代後半までサラリーマンでした。

退職後ものを書くようになり

年間8冊を目標にがんばっております。

研究会のモットーは、集いあう楽しさです。

戊辰戦争もいろいろ見方があります。

「お前の作品は東北に偏っている」

という批判もありますが、昨今は薩摩、長州も書いています。

太平洋戦争も書いています。

戊辰戦争とはいったい何か、

議論のための議論も多いのですが、私は資料を基に

客観的に考えることが一番だと思います。

近々、長州在住の研究者と、会津と長州の文明、文化論について語り合い、

大手出版社から1冊の本にまとめる企画が進行中ですす。

比較研究は大変、大事です。

趣味は何でしょうか。歴史探訪、酒は日本酒、少々。

といったところです。10月には中国東北部、旧満州の探訪に出かけます。

興味のある方は、どうぞ、ご案内しますよ。

ーーーーーーーーーー

と書きました。戊辰戦争研究会、

ホームページ、ありますからごらんください。

現在、会員、五十人ぐらい、全国ネットです。
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2008年6月22日(日) 新刊、アンガウル、ペリリュー戦記
星亮一の新刊

アンガウルペリリューセンキ
アンガウル、ペリリュー戦記
玉砕を生きのびて
星 亮一 著


● 216頁
発売日 2008.06.19
発行日 2008.06.30 単行本

定価2,100円(本体2,000円)
ISBN 978-4-309-01869-0

河出書房新社

元陸軍上等兵の倉田洋二は、パラオで米軍に敗れ、玉砕を生きのびた後、

帰国後、パラオで暮らすことを選び、帰ってきた。

倉田と同じような運命を生きた元兵士たちを通してみた、極限の戦闘と、

その後の逃亡生活の記録。


星 亮一 (ホシ リョウイチ)   




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2008年6月21日(土) 暑い日ざしです
夏の暑さです。

午前中、直江兼続の補足を書いて、夕方は

大学の同窓会、持ち回りでスピーチをする。

今日のゲストは新聞社の編集担当の役員、

楽しみである。

時折、原稿の枚数に間違いを起こす、

400字、300枚の注文を受けたのだが、

勘違いをして200枚で出してしまった。

「100枚足りません」

「えええ」

びっくり仰天である。

それをやってしまったのだ。

大変である、1日、10枚書いても10日かかる。

誤算、誤算、

後の仕事にも影響し、頭を抱えて原稿を書いている。

ーーーーーーーーーーーーー
オンライン書店

アンガウル、ペリリュー戦記
玉砕を生きのびて 

著者:星亮一
出版社:河出書房新社 判型:B6  発行年月:2008年6月 
価格:2,100円(税込)
 
在庫あり(通常1〜3日以内で出荷)

内容情報

元陸軍二等兵の倉田洋二は、パラオで米軍に敗れ、玉砕を生きのびて帰国するが

、再びパラオへ帰る。何が彼を呼び寄せたのか。

倉田と同じ様な運命を生きた元兵士たちを通して見た、極限の戦闘と、

その後の逃亡の記録。
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2008年6月20日(金) 四日ぶりです、
名古屋に二泊し、昨日は東京で出版社の方と打ち合わせをして、

夜遅くかえってきました。

だいぶ、リズムが異なってしまい、勘を取り戻すのに、

若干時間が必要です。人間は微妙ですね。

機械のようには、いきません。

名古屋では岡崎城、名古屋城を見てきました。

いずれカメラルポでご紹介します。
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2008年6月16日(月) 明日から名古屋です。19日まで休載です。
このページ、3日間、休載します。

名古屋周辺を取材して回ります。
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2008年6月15日(日) せめてもの救い、楽天勝利
巨人
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
楽天
0 0 3 0 0 0 0 0 X 3

昨日は地震で試合は中止、今日負けたら東北の楽天フアンは

がっくりというところだったが

岩隈はすごいね、完封とは恐れ入りました。

何を隠そう、私は楽天フアンなのです、

今夜の野村監督のコメント、楽しみです。

舌戦を展開していたので、何が飛び出すかです。

さて、地震、被害は増える一方です。

亡くなった方は本当に気の毒です。

さて、今日は日曜日、会津の原稿を少し書き、後は新聞を読んですごしました。

日曜日は書評が多い。

毎日新聞は古川薫「斜陽に立つ」と永井路子「岩倉具視」が目立った。

二冊とも主人公をほめている。乃木は決して愚将ではない、名将だとし、

岩倉具視が孝明天皇を毒殺するはずがないと否定した、

永井ぼ作品はすでに読んだ、乃木大将も読んで見たいと思う。

日経新聞の書評では

「ペレ自伝」と林洋子「藤田嗣治作品をひらく」が目にとまった。

2冊とも面白そうである。

残念ながら読書の時間はあまりない、それでは感性が鈍くなる。

できるだけ読むようにしたい。
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2008年6月14日(土) 地震は怖い
原稿を書いていると、グラグラと揺れた。

最近、時々、地震があったので、

たいしたことはないだろうと思った。

ところが、大きく2回、横に揺れ、本棚から

バラバラと本が落ちた。まだゆれは続いている。

大きな揺れだ。

どうしよう、どうしよう、

とりあえず立ち上がった。

ひどく揺れる。これは廊下に出た方がいいと思った。

私の仕事場のビルはかなり古い建物だが、柱が太い。

少々の地震では崩れないという安心感はあった。

しかし、揺れが続く。

廊下に出たらおさまった。

パソコンで速報を見たら仙台がひどそうだ、

すぐ知り合いに電話した。

「大変です、大変です」

彼の声が上ずっている。

「ビルのエレベーターが全部とまっています。9階、10階から歩いて避難しています」

というではないか、

ここで長話はできない。

「気をつけてください」

すぐ電話を切った。

原稿はストップ、昔の新聞記者の癖が出てしまい、電話取材である。

地震、雷、火事、親父、

といったが、昨今の親父はまったく怖くはない。

やはり地震なのかなあ、

びっくりの一日だった。

被害はどんどん拡大している。

被災者の皆さんには心からお見舞い申し上げます。
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2008年6月13日(金) 校正でバタバタ
偽りの日米開戦、

再校で朝から机に向かい、気がついたらもう6時、

一言、休載の日が増えてきた。

やむを得ないかな、

明日は書きます。
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2008年6月12日(木) 中京大学の準備で多忙
演題は後藤新平である。

前にも書いたがバランス感覚にとんだすごい人材である。

NHKの初代総裁というのも後藤らしい。

須賀川病院の医師をしていたときである。

妙齢の女性が次々と原因不明の病気になった、

新平は往診で飛び回った。

腹が痛いというので、診察しても、別に悪くはない。

胸が痛いという。

見たところ何でもない。

いいところの娘さんに

病気が蔓延した。

仮病であった。

須賀川は江戸時代から繁栄した商人町である。

女性は積極的だった。
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2008年6月11日(水) 今日も休載
直江兼続の追い込みです。

一言を書く心境にあらず、文章が浮かびません。
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2008年6月10日(火) 憂鬱な日々、教育を変えるべし。
今朝の新聞は、秋葉原一色だった。

青森県出身というと、余計やり切れない感じである。しかも

青森県のナンバー1高校である。

社会構造が悪いという論評があった。

そうかも知れないが、それを言い出したら、きりがない。

ひとつ気になるとすれば、

高校の教育である。

青森高校は1学年360人だという、

今回の犯人の成績は300番台とあっては、印象が薄く、

あれ誰だっけということだろうが、

一流大学にいけない奴はだめという風潮が問題である。

300番台の生徒はみな、そういう思いだろう。

ここで開き直った教育はできないのか

よし社会に出て働け、金をためて、それから大学へ行け、

4、5年遅れてもどうということはない、

30までに何とかなればいいではないか、

自衛隊で鍛えるべし、とか、外国にボランテイアに行くべし

それでいいのではないか。

大学も勤労経験者を受け入れる、そいうシステがほしい。

アメリカはそんな感じの社会のようである。
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2008年6月9日(月) 怖い、怖い
どこに行っても無差別殺人の話である。

警官が銃の発射をためらっている。

そのために殺される人が増えている。

即座に対応すべきだ、

という声も多かった。もはやアメリカ並みということだろう。

ピストルでは間にあわずライフル銃も必要になってしまうのか。

身震いする時代になってきた。

今回はメールで予告されている。

それをキャッチし対応するシステムがないように感じられる。

警察のあり方を抜本的に変えないと

とても間に合わない。

今回、けが人を介護している警官も刺された。

警官という職業は、危険と隣あわせである。

大変な職業である。

ただこの場合、先にやることは

人を跳ね飛ばしたトラックの運転手を追いかけることではないのだろうか。

そういう声もあった。

日本はどうなって行くのか、

不安が募る日々である。

犠牲者の中に大学生が3人もいた。

無念であったろう。

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当然、世界にも配信された。

「血だまり、戦場のよう」

秋葉原通り魔、写真付きで報道−米紙

6月9日16時0分配信 時事通信

 【ワシントン9日時事】9日付の米ワシントン・ポスト紙は、

東京・秋葉原の通り魔事件について「現場には血だまりが残り、

まるで戦場のようだ」と報じる記事を掲載した。

 ーーーーーーーーー

外国人が襲われた可能性も十分あった。
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2008年6月8日(日) 今日は日曜日
休載です。

時には

何も書かない日が必要です。
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2008年6月7日(土) 朝日新聞、福島ベストセラー、福島岩瀬書店、野口英世9位
1、夢をかなえるゾウ、水野敬也、飛鳥新社

2、女性は話し方で9割変わる、福田健、経済界

3、婚活時代、山田昌弘・白河銚子、ディスカバートゥエンチティワン

4、熟年革命、渡辺淳一、講談社

5、B型自分の説明書、ジャメイスジャメイス、文芸社

6、A型同

7、O型人間の頭の中、三田モニカ、青志社

8、東大の国語力、川渕圭一、イーストプレス

9、野口英世波乱の生涯、星亮一、三修社

10、おひとりさまの午後、上野千鶴子、岩波書店
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2008年6月6日(金) 国宝常長像、真贋いかに 学界巻き込み論争
今朝の河北新報に注目すべき記事が掲載されていた。

国宝常長像の、真鴈論争である。

仙台藩士、支倉常長が祈りをささげている像を皆さんは

見たことがあるに違いない、

それは 仙台市博物館が所蔵する国宝の肖像画「支倉常長像」である。

河北新報の記事によれば、この像に対して青森中央学院大(青森市)

の大泉光一教授(日欧交渉史)が「博物館の現存画は模写」と偽物説を打ち出し、

博物館の浜田直嗣前館長が「現存画が本物なのは史実的に明らか」と反論。

学界を巻き込んだ議論に発展しているというのである。

 大泉氏は、現存画は本物が1900年前後に東京美術学校(現東京芸大)に

預けられた際、同校出身の画家黒田清輝、北連蔵、児島虎次郎

のいずれかによって模写され、本物と入れ替わったとする仮説を唱える。
 

では本物はどこに。

本物は処分され、現存する史料では、

明治政府の指令で慶長遣欧使節を調べた平井希昌の著「欧南遣使考」(1876年)

に載っている別の模写が、時代考証で正しく、

本物を忠実に再現しているというのである。

本物がなぜ処分されたのか。

処分とは具体的にどういうことなのかは

記述されていない。

 大泉氏は、この模写で常長の顔がやつれていることに着目。

本物は常長が渡欧中に描写されたとされることから、

「当時、常長は長旅で体調を崩していた。本物もやつれた顔で描かれたとみられ、

模写の信頼性を高める」と論じる。

と記事にある。
 
現存画はその点、顔が端正に描かれ、不自然だと主張。

「欧化を進める明治政府と、戊辰戦争の敗北から立ち直るために

英雄を祭り上げたい仙台藩の意を受け、画家が顔を意図的に整えて模写した」

と推論しているという。

 大泉氏は著書で持論を展開し、2006年度に和辻哲郎文化賞を受けた。

新説を加えた新著を今月に出す。国際日本文化研究センター(京都市)

の山折哲雄前所長も「多くの史料を読み込み、通説を打破した」

と評価している。

山折さんが後押ししているようである。

 さあ一方、浜田氏は今年3月発行の博物館の研究報告書で反論した。

欧南遣使考の模写で常長の顔がやつれていることについて、

「模写が上手でなく、正確に描写できなかった」とみると記事にある。

明治中期―昭和初期に本物を撮影したとされる写真を系統的に並べ、

「どれも現存画と同様に整った顔をしていて、

現存画が本物である裏付けになっている」と指摘

大泉氏の説は憶測から抜け出ていない」と結論づけている。

 東大の五野井隆史名誉教授(キリシタン史)は「現存画は一部修復されたが、

大規模な改作があったとは考えられない」と本物説を支持するという。


 文化庁は「真贋論争が起きていることは聞いているが、

国宝指定を見直す議論に発展しているとは考えていない」と見解を述べている。


[支倉常長像] 縦80.8センチ、横64.5センチ。

常長が慶長遣欧使節の一員として渡欧中の1615年ごろに

スペインかイタリアのローマで描かれ、日本人を描写した最古の油彩画とされる。

常長は20年に画を持って帰国したが、禁教令によって仙台藩に没収された。

明治以降、所有権が宮城県から伊達家に移るなどし、

1964年に仙台市が買い取った。

2001年、他の慶長遣欧使節関連資料とともに国宝に指定された。

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以上が今朝の記事の概要である。

伊達政宗の大フアンである私としては、

無論本物であったほしいと念じている。

いわれてみれば、きれいな絵なので、

修理の可能性はあるかも知れないが、

本物がなくなったというのはミステリーである。

その追跡が大事だと思う。
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2008年6月5日(木) 後藤新平語録
NHKそのとき歴史が動いた、

昨夜は後藤新平だった。

私も後藤新平にほれ込んでいる一人である。

新平語録がいい。

金を残して死ぬ奴は下だ。

仕事を残して死ぬものは中だ。

人を残して死ぬものは上だ。

なるほどねえ。

後藤は台湾総督府民生長官の時代と

南満州鉄道総裁時代、

若手の官僚や商社マンを呼んで鍛えた。

その人たちが、関東大震災後の東京復興や

東海道新幹線の実現などに、大きな貢献をしていった。

さて自分はどうなのだろうか。

金はない。

後世に残すほどに仕事もない。

人はどうだろ。一人ぐらいは弟子を作らなければならない。

皆無ではないが、もっと弟子を育てなければならない。

その意味では戊辰戦争研究会も大事である。

がんばろう。

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下総流山探訪記 
    
    渋沢

総武流山電鉄の終点、流山駅。松戸市と流山市を結ぶ、単線、5,7qと短い路線は、大正五年に創業した私鉄でその形態は今もほとんど変わっていない。

昭和を感じさせる車両に揺られながら見る長閑な街並みは、首都圏内という事を思わず忘れさせてくれる。

 流山駅に着くとお世辞にも広いとは言えないロータリーの正面に、大きく目立つ新選組の案内板。

今やここを訪れる人の多くが、まるで新選組の史跡が目あてであるかのようだ。



江戸時代、流山は江戸に物資を運ぶ江戸川水運流通の要所として栄え、「天晴」や「万上」などといった銘柄で味醂の町としても知られることとなり、味噌や酒、醤油などの醸造も盛んになっていった。この頃の味醂は飲料として、江戸周辺では酒の飲めない人などに大変好まれたらしい。

また、享和年間の頃には、俳人として知られる小林一茶がこの地の醸造家を何度も訪れており、一茶が寄寓していた枯山水のある庭園が現在「一茶双樹記念館」として公開され、市内各地に一茶の歌碑が建てられている。

 

慶応四年三月一日、勝海舟の命により甲陽鎮撫隊として甲州に出陣した新選組は、ほとんど戦いの態をなさないうちに敗走、主要メンバーの永倉新八、原田左之助らの脱退という事態にまで追い込まれた。しかし、その後の三月十三日には江戸の五兵衛新田(現、足立区綾瀬)の名主金子左内家に集結し始めた。ここで新たな組織作りが行われ、火薬調合の為なのか大量の炭などを買い入れている。

そして、流山へ。

なぜ、流山なのか? 流山には何があるのか?

古くは、“会津に向かう途中”という説から、“更に兵を募り調練を行う為”などと様々だが流山でなくてはならない理由ではない。

今日、流山に関する研究は加速度的に進み、旧幕府軍の動向などと共に、新たな史料も発見されている注目の場所であることは確かなようだ。



二〇〇四年のNHK大河「新選組!」の放映以降、流山市内には多くの案内板が建てられるようになり、探索を行う者には大変有りがたい。

まずは、駅から当時は道すらなかった現代の流山街道を横断、徒歩3分程の「新選組流山本陣跡」へ。

慶応四年四月三日、新政府軍によって完全に包囲された大久保大和こと近藤勇はこの場所で降伏出頭、盟友土方歳三との離別の地となった。

現在は、流山市内にあった他の倉が移築され石碑と案内板が建てられている。

この本陣は、司馬遼太郎著「燃えよ剣」により“長岡屋”として知られているが、その屋号に関しては「鴻池」「嶋屋」など諸説ある。本陣跡としては細い路地沿いにあり不思議な感じもするが、旧街道沿いに正門があったとする説もあり、相当な敷地であったと思われる。

この本陣跡は、現在の土地の所有者である酒造問屋「秋元」により大切に保存されている。店舗もあり、お勧めの辛口淡麗の清酒「本陣・長岡屋」や新選組関連グッツがあるので必ず立ち寄り言葉を交わす。

本陣跡の路地沿いに、江戸時代の閻魔大王の座像が祀られている「閻魔堂(えんまどう)」がある。また、同じ敷地内に天保六花撰の一人で博打好きの剣客“金子一之丞”の墓もあり、祠の上の石を回すと金運が良くなると云うのだが…。



路地を抜け、旧流山街道に出る。

老舗や商家の土蔵などが散在する旧街道は、繫栄した当時の往来を偲ばせる。

街道と並行する江戸川の土手に、新選組が入宿した際に使ったとされる「丹後(たんご)の渡し跡」、近藤勇が去っていった「矢河原(やっから)の渡し跡」などの標柱が案内文付きで建っている。

新選組が五兵衛新田から流山に入宿した経路については、水戸街道を使った松戸宿経由や、埼玉県の三郷宿経由など所説あり、また、滞在期間についても様々だが、いずれにしても慶応四年(一八六八年)四月一日から三日までの非常に短い時間内での出来事であった。



当時はこのような土手などは無いはずで、街道から直に船着場や川面、対岸の三郷宿なども見えたのだろうか。

現在の土手は非常に高く矢河原の渡し跡からは、流山宿の全景を見渡すことが出来る。丹後の渡し跡からは、上州(群馬県)の赤城山が利根川の氾濫により、その一部が流れ着いて出来たといわれる「赤城神社」の山が綺麗に見える。流山という地名の由来である。

赤城神社は、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る鎌倉時代創建の山頂の神社をはじめ、多くの神社が山全体に移築鎮座されて何とも厳かだが、行ってみると数百キロはある“大しめ縄”にまず驚かされる。



赤城神社の近辺に、新選組隊士が分宿したと言われる「流山寺(りゅうさんじ)」「光明院(こうみょういん)」「長流寺(ちょうりゅうじ)」がある。

「流山寺」は、火災により再建され当時の面影を偲ぶことは出来ないが、「光明院」には新選組分宿の案内板や一茶の歌碑などがある。通説では、香川隊に配属された岡田家の兵士、富田重太郎の日記により「称名院(しょうみょういん)」とされてきたが、流山周辺にその名の寺院は無く、市の研究では聞き間違いと判断し光明院とされている。「長流寺」では、近年になって、毎年四月の第二日曜日には「勇忌」が執り行われ、新選組隊士ご子孫の方を始め多くの人が訪れる。しかし、どの寺にもその伝承さえ残っていないというのは何故なのであろうか。

戊辰戦争から百四十年後に当たる二〇〇八年の流山新選組まつりでは、近藤勇生家の宮川家、土方歳三、井上源三郎、佐藤彦五郎、榎本武揚のご子孫がパレードに参加、本陣から赤城神社までの道のりをファンと共に歩き注目を浴びた。また、赤城神社の境内で殺陣や演武、居合切りなどが披露されることもあり、当時来流していたとされる相馬主計や市村鉄之助、野村利三郎などとつい重ね合わせて観てしまう。

彼らは、何を目的にここで汗を流したのだろうか。



その目的とされる一つとして、田中藩陣屋の占拠がある。

文久三年(一八六三年)三月、駿河国田中藩本多家は、飛地領内の加村と呼ばれていたこの地に、新たな屋敷を建て江戸下屋敷の藩士等を移住させていた。陣屋は、明治になって葛飾・印旛県庁が置かれた現在の流山市立博物館が建つ場所にあった。

近郊の関宿藩や結城藩がそうであったように、この田中藩からも上野の彰義隊に参加した人物がいたという。房総から古河までの利根川(江戸川も利根川の支流とみる)流域の諸藩には、会津藩密偵の影を残す文書や史談会記録が残っている。この田中藩の一部の人間が、新選組田中陣屋占拠計画に加担していた可能性があるとの説もある。



飛地山と言われる小高い丘の北側にある博物館館内には、流山の歴史と共に新選組のコーナーがある。近藤・土方が最後に談合した際使用した「長岡屋の階段」や近年の研究の基となっている「恩田家文書」が展示されている。また、図書館も併設されており新選組に関する書籍は充実しているので必ず立ち寄りたい場所である。



一方、西軍の動きはどの様なものだったのか。

流山宿中心部より、江戸川上流約1,500mの土手に、新政府軍が侵入してきた渡しと説明された「羽口(はぐち)の渡し跡」の標柱が建つ。辺りはあまり民家も無く、目立つのは浄水場と常磐自動車道の陸橋だけでなんとも長閑だ。

千住から宇都宮を目指し、日光街道を北上していた東山道総督府大軍艦、香川敬三(水戸藩出身)率いる一行は、粕壁宿(現、埼玉県春日部市)まで来たところで、流山での不穏な動きをキャッチした。慶応四年(一八六八年)四月三日早朝、香川隊主力の一部、彦根隊・岩村田藩の小隊・岡田兵半小隊、二百〜三百名(恩田家の文書によればの八七〇〜八十名…?)余りが、この渡しを使い街道を南下、流山宿へと急行した。

実際にこの地に立つと、これだけの人数と武力が明け方に忍び寄る様は、今なお、ゆったりとした時間が流れる清閑な場所だけに想像し難い。

一行は、現在の流山市役所と博物館を南北に分ける諏訪街道が、旧流山街道と接する三叉路「流山追分」と呼ばれた現在の流山広小路まで来たところで、香川敬三、有馬藤太(薩摩)、上田楠次(土佐)の三名が馬上姿で軍議を開いた。

この「流山追分(広小路)」には、国登録有形文化財、弘化三年創業の「呉服新川屋」の店舗があり、鬼瓦に彫刻された恵比寿・大黒さまが威光を放っている。明治二十三年建築の建物をそのまま持ち上げて基礎を打ち直したというご主人の努力により、今日も当時の面影を偲ばせている。

新川屋の斜め向かいにある「浅間神社」裏の富士塚に、香川隊は“菊の紋付きたる旗”をたて砲を据えた。近藤等の本陣とは、百五十m位であろうか。

更に、一隊を本陣南方に位置する隊士分宿寺院「光明院」「流山寺」をけん制しながら表街道へ、一隊を裏街道、そして一隊を飛地山(現、流山市役所)の三隊に分け、本陣を完全に取り囲んだ。明治になってから更に高さを増した浅間神社の富士塚に登ってみると、まさに目と鼻の先である。

この間に、新選組・新政府軍双方に発砲があったとする記述があるが、詳細は定かではない。しかし、慌てふためき避難する住民の様子が「恩田家文書」「吉野家文書」などに記されている。

幕末、将軍不在が長く続いた江戸だけに、特に水戸街道に近いこの地域では治安の悪化が日を追うごとに進んでいった。ついに戦争が始まったのかと逃げ出した者もあったようだ。     

新選組隊士が残した『立川主税戦争日記』『島田魁日記』『中島登の覚え書き』などから、四方を完全に抑えられた本陣には、大久保大和を名乗る近藤勇と内藤隼人こと土方歳三の他、数名の側近しかおらず応戦することなく、土方が有馬藤太との対応にあたったとされている。

香川隊岡田家の兵士、富田重太郎の日記によると、有馬藤太が交渉にあたり近藤が出頭に応じ流山を出立したのは午後十時過ぎ。それまでの本陣内の様子は新選組隊士「近藤芳助書翰」から次のように推測されている。

割腹を決意した近藤は暫くの猶予を乞い、先に紹介した博物館内にある「階段」を昇り土方ら三,四名と会合。

土方は「ここで割腹するは犬死なり 運を天に任せ、板橋総督府へ出頭し、あくまで鎮撫隊を主張し、説破する得策ならん」と近藤を説得。

近藤はそれを受諾し、二名を従え馬上にて板橋に出頭することを決めると、使者はあくまで温順を装い、大兵も残らず引き揚げたという。

最近の研究では、この時点で近藤たちが意図していた出頭先は板橋総督府ではなく、埼玉県の越谷宿とするものも有るが、野村利三郎と村上三郎の隊士二名を従えた近藤は、三日夜半流山を静かに去り、住民を驚愕させた騒動は二日あまりで治まった。



翌四日、日光街道沿い越谷宿の名主富田屋伊左衛門宅(埼玉県越谷市本町)にて仮眠の後、有馬藤太に板橋までの出頭を命じられた。その後、土方などの救命行動は報われぬまま板橋に送られた近藤は、慶応四年四月二五日斬首となった。



近藤は板橋へと向かう中、越谷の藤棚や田島宿の庄屋宅の梅などに詠を残した。これらの樹木は今も移植され存在している。さすがに当時詠まれた時程の美観はなく、時の流れを感じずにはいられない。

今となっては、近藤や土方の心中を思い知ることは難しいのかもしれない。しかし、少しでも同じ場所に立って考えてみたい。そう想い私は江戸川沿いの土手を再び歩きながら帰路を辿った。

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2008年6月4日(水) 日々、矢のように過ぎて行く、大槻順一のシャンソンカフェ
早い、早い。

今日はFM福島で録画撮りがあった。

今週土曜日と来週土曜日の二本である。

午後6時半からの放送、タイトルは

大槻順一のシャンソンカフェである。

シャンソンを聴きながらあれこれしゃべった。

私はゲスト

「小説を書いたきっかけは何ですか」

「ええとそれはですねえ」

という具合に進行し、あれこれしゃべった。

「ところでどんな曲が好きですか」

「ええと、暗い日曜日、はどうですか」

「渋いですねえ」

「まあ」

などとしゃべった。

私も結構、シャンソン通なのである。
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2008年6月3日(火) 今日は偽りの日米開戦の初校締切日
偽りの明治維新

に続く第二弾がこの原稿です。

私は戦前派ではありませんが、

小学生のときに太平洋戦争を体験しました。

宮城県の丸森町に疎開していて、

仙台空襲を目のあたりにしました。

日米開戦の経過をたどって見ると

鬼畜米英

を叫んで、国民は戦争一色でした。

この戦争は何だったのか

を書きました。

簡単にはいえませんが、

日本人のあせり、攘夷思想のようなものがありました。

日本人が最高で、米人は鬼畜という発想は、

幕末を引きずっていました。

軍事力でも負けましたが

外交戦略がだめでした。

諸外国といかに協調して、日本の立場をアピールするか

その発想はありませんでした。
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2008年6月2日(月) 朝日新聞,天声人語、玉虫左太夫とビール
幕末、将軍の使節として渡米した仙台藩士、玉虫左太夫(さだゆう)が、

船で知った「ビールト云フ酒」の味を『航米日録』に記している。

米船の食事や楽隊に顔をしかめた玉虫も、

祝宴で「一喫」したそれについては「苦味(にがみ)ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」

と評した▼飲める口であれば「湿スニ足ル」季節を迎えた。

玉虫の寸評から150年、日本のビールは百花繚乱(りょうらん)だ。

昨今の新製品に驚きはなしと思っていたら、のどがちょいと鳴る話が届いた。

「宇宙ビール」である▼06年、岡山大の杉本学准教授が

ロシア科学アカデミーの研究に参加し、

国際宇宙ステーションで大麦の種を5カ月寝かせた。一部は発芽もしたそうだ。

これをサッポロビールが殖やし、

先週末、群馬の試験農場で大麦45キロを収穫した。

秋にビールと麦茶にするという

▼原料は、無重力と強い宇宙線に長くさらされた遺伝子を継ぐ。

正常な一品ができれば、宇宙基地で自給自足する夢が膨らもう。

味の確認には体を張って協力したいけれど、

今回は大瓶100本分ほどで札止めらしい

▼宇宙での栽培に猛進するのもいいが、宇宙ビールの量産という脇道もある。

とびきりの非日常と、ありきたりの飲料の出合い。

グラスを満たす別世界に、地上の憂さは光速で晴れるかもしれない

▼南極の氷でオンザロックを作ると、


零下に封じられた太古の空気が弾(はじ)けるそうだ。


「宇宙の泡」に口先を埋めれば、天の川で遊泳する気分に浸れようか。

シャトルで精勤中の星出さんには申し訳ないが、

飲んべえの欲と夢は天井というものを知らない。

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なるほどねえ、

玉虫の航米日録

読みましたが、ビールのことは気がつきませんでした。

これは参ったです。

こうなったら

玉虫ビール、

売りださなければならない。

ちなみに日本で最初にカレーライスを食べた人は

会津白虎隊の山川健次郎、明治4年、訪米のとき

船の中で食べました。

辛くて食べられない。それが最初の印象でした。
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2008年6月1日(日) 今日は日曜日
いい天気です。

私の仕事場の下は

郡山駅につながる大通りです。

そこで太鼓フステバルが開かれました。

県内各地から太鼓の集団が登場し,勇壮な響きを繰り広げました。

原稿は明日に延期です。
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