星亮一 今日の一言

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2004年6月30日(水) 広沢富次郎
大河ドラマ新選組
に会津藩士広沢富次郎が、よくできます。
会津藩士松平容保と新選組との
パイプ役という設定です。

私は二十代の前半のころ
会津産業懇話会雑誌に

近代会津人の生き様を書いたことがあります。
最初の歴史評論です。
私は
会津には3人の人物がいて、
それぞれが、なるほどと思われる道をたどった、
と書いたのです。
一人は山川浩、旧名は山川大蔵
二人目が広沢安任、旧名広沢富次郎
三人目が永岡久茂、旧名永岡敬次郎
です。

3人は斗南藩の役員でした。
山川は大参事、広沢と永岡は小参事でした。

斗南が崩壊すると
山川と永岡は東京に出ました。
山川は新政府の一員となることで、明治におけるか会津人の地位向上に努めました。

永岡は長州の奥平謙輔らと手を握り、反政府運動を起こし、
思案橋事件で捕らえられ、獄死しました。
これも会津人の気持ちを代弁したものでした。

もう一人
広沢は下北の大地に残り、
わが国、最初の洋式牧場を作り
会津武士の意地を貫きました。

三者三様の人生でした。

あるとき
某作家が
私の評論を、さも自分が考えたかのように
論じているのをみて、何だこれはと思いました。

その作家はもう亡くなりましたが、
そいうこともあるんですね。


今回の『幕末史』
最後の章は
下北の大地ー
広沢のことを書きました。

さて、今週は
「戦う政宗」
の校正です。

ワープロで打った原稿なので
活字の感じで
みてはいるのですが
初校になると
文章の妙な部分がよく見えてくるもので、
かなりの
直しが出てきます。

印刷の方には申し訳ないのですが、
やむを得ないことなのです。

それではまた明日、お目にかかりましょう。
△top
2004年6月29日(火) 週刊東洋経済・仙台特集
昨日は仙台でした。
NHK文化教室の仕事です。
仙台駅に降りたら
すごい雨でした。
399円の傘を買い、
雑誌を買って教室に向かいました。
雑誌は週刊東洋経済の地域経済特集「仙台」です。

仙台は知的環境がよいと書いてありました。
東北大学の理科系は
世界的水準にあるし、
起業家にもやさしく
「起業家王国仙台」
とありました。

私の関心はプロ野球
仙台だけがありません。

これについて
浅野知事が「誘致の可能性はあります」と述べておりました。

プロ野球再編のいまこそチャンスです。
是非頑張ってほしいものです。

帰りに
本の森社の
大内さんと
打ち合わせをしてきました。
杜の都の出版社です。
非常に多忙だそうで、この分野でも
知的レベルは高そうでした。

私も実験的な意味合いも込めて
同社から
『戦う政宗』
を出版します。

出版は何が何でも東京ではなく
仙台に全国レベルの出版社があって当然
と考えた訳です。
私のルーツは宮城県丸森町の小斎というところです。

ここに父の生家があり、政宗の時代から
先祖が住んでおりました。
それ以前は
福島県の小高の住人でした。

小斎と言っても知る人は少ないのですが、
かつてここに小斎城があり、
伊達と相馬の間で、争奪戦が繰り広げられてきました。

もともと
私どもの先祖は相馬家の家中だったのですが、
ある事情によって伊達家に帰属し、
政宗の初陣のときから
伊達の一員として、戦いを続けてきたのです。

少年時代、私はここで暮らし、
小斎の小学校を卒業しました。

そうしたことを織り交ぜて
『戦う政宗』を
インターネット歴史小説として、
このホームページで発表して来たのです。


連載が完結、といってもホームページには全部、だしてはいないのですが、
今回、出版することになったのです。
友人の松本君が
装丁をしてくれます。完成はどうでしょう。
10月ぐらいかなあ、

丸森町の皆さん、特に小斎小学校同級生の皆さん、
もう少し
お待ちください。
△top
2004年6月28日(月) 幕末・会津藩士銘々伝
友人の伊藤 さんから
『幕末・会津藩士銘々伝』
発刊の知らせをいただきました。

新人物往来社の発刊で、知人の小桧山さん、間島さんの監修です。
早速購入しましたが、新資料が一杯入っていて、
素晴らしい出来栄えです。

伊藤さんは
倉澤平治右衛門と大庭恭平を書いており、
ライター多くは
知り合いの方でした。

会津のフアンとしては
大歓迎の本で、
大勢の方が読まれることを期待しております。

9月25日、
会津若松で
新選組の
ディスカッションが開かれます。
私が司会進行を担当することになっています。
皆さんのおいでをお待ちしております。


ところで
昨夜の芹沢鴨
なかなか見せましたね。
演技力が抜群で、
芹沢抜きの
新選組

これからどう演出するのか
楽しみでもあり
不安でもあります。

新らしスターを出してほしいですね。
たとえば
佐々木唯三郎の復活、
佐川官兵衛の登場
など
期待したいところです。
△top
2004年6月27日(日) 芹沢鴨の暗殺
今日の大河ドラマ
新選組
は芹沢鴨の暗殺です。
芹沢は水戸の郷士で、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司らと浪士組に
加わり、上京、新選組筆頭局長になったのです。
しかし、
平野屋、加嶋屋、鴻池などから借金を重ね、
力士との乱闘、大和屋の打ちこわしなどを重ねたため
会津藩の指令で
暗殺されるのです。

手を下したのは
土方と沖田でした。

犯行現場となった
壬生の八木邸は
非常に狭いところです。
とても斬りあい
なでできる場所ではありません。

泥酔して
寝込んだところを
上から刺したのでした。

今夜のテレビ
どう描くのか

注目されるところです。
△top
2004年6月26日(土) 幕末史続報
幕末史 激闘!薩摩・長州・会津
店頭に並びはじめました。
平ずみというほどではないかも知れませんが、
是非、探してみてください。

ただし本の配本はばらつきがあり、会津若松の書店には
並んだというのに、
郡山の東北書店では、30日配本という具合で
ばらつきがあります。

どうしてなのかは、
よく分かりません。

昨日と繰り返すことになりますが、
会津が勝者と敗者の歴史を乗り越え、
日本の近代国家の建設に大きく貢献した
部分を取り上げました。

装丁もシンプルで
評判がよく、
販売の専門家は
「いけますね」
と太鼓判を押してくれました。

次の作品は7月、
『出羽重遠伝』
光人社NF文庫です。
以前、同社から出した
『天風の海』
を改題したものです。
会津出身の海軍軍人で、
日本海海戦で東郷を助け
活躍しました。
△top
2004年6月25日(金) 幕末史-激闘!薩摩、長州、会津
今週末から店頭に並びます。
幕末維新を
新しい視野で展望した
作品です。

従来、
薩摩、長州、会津の暗闘のみに
焦点が当てれれてきましたが
そうではなく
その暗闘のなかから何が生れたのか
それを書いて見ました。

冗談じゃない
日本の近代国家は
薩摩、長州だけで出来上がったわけではない。

朝敵の汚名を返上した
原敬や後藤新平、山川健次郎らが
作り上げたのだ、
という理論構築ですが
決して
我田引水ではありません。

読んでいただければ
分かります。
△top
2004年6月24日(木) 奥会津文化フォーラム
今年も7月10日に
福島県大沼郡三島町の
三島町交流センター山びこ
で行います。
記念講演会、
討論会
研究発表会のほか
民俗行事虫送り見学、
生ビール飲ながらの懇親会など、
盛りだくさんのイベントがあります。

日程は次ぎの通りです、

午前11時開会、星がごあいさつします。

1部
午前11時15分
講演会
野口英世の素顔
講師 野口英世記念館学芸課長 小桧山六郎

2部
午後1時
パネルディスカッション「野口英世」
出席者 小桧山六郎、麻生弥、(漫画家)照島敏明(会津一番館)
司会 高見沢功(北東文藝協会)

3部
20代が語る、20代女性作家・文学
網藤幸恵(福島県文学賞奨励賞作家)
伊藤裕子(大妻女子大大学院学生)
水上富美子(只見高校教諭)
司会 奥羽大文学部教授

4部
荻野ファミリーの研究発表
荻野準二(八重洲ブックセンター)
東京における地方出版社の販売
沢藤法枝
アルバム本「スナオくんとりんご」制作
荻野和臣(早稲田大学理工学部学生)ほか
西会津・奥川茶房設計

懇親夕食会
午後6時
山びこ食彩房
会費2000円

問い合わせ
三島町交流センター山びこ

電話0241−52−2165
メール
yamabiko@town.mishima.fukusima.jp
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2004年6月23日(水) NHK歴史の旅
今日はNHK歴史の旅で、これから宮城県の白石、槻の木、岩沼です。
白石は伊達政宗の家臣、片倉小十郎の町です。
槻に木には伊達騒動、もみの木は残ったの遺跡があります。
岩沼では民家で食べる手打ちそばの店に寄ります。

くわしくは
帰ってからご報告します。

とにかく朝から猛暑です。
帰ったら生ビールかな。
△top
2004年6月22日(火) 東北文化学園大学
ようやく再建の方向が決まったようですね。
私が住む郡山市も薬学部を誘致し、それもつぶれてしまっただけに、
関心の深い問題でした。

率直に言って
日本全体で見ると
大学の配置がアンバランスですね。
大都市にある大学がモット地方に分散すれば
日本全体のレベルアップに大きく貢献すると思うのです。

地方に大学はどうしても経営規模が小さく、
ネームバリューも低く、経営破たんを招く一因にもなっています。
今度の問題も、そうした背景があるのではないでしょうか。

これを解決する方法は、
有名大手大学の地方分散です。

たとえば
日本大学
郡山に工学部があります。

郡山では大変、重要な大学になっています。
このように
大手の大学が
地方に学部を分散してくれると、
地方の子供にとっては
ありがたいですね。

以前は東京に遊学するという意識がありましたが、
銘柄のいい大学であれば、
別に東京でなければならないということは
ないと思います。

ただ経営的にいえば
やはり東京の方が学生の
人気、教職人員の確保の面で、いいのでしょうが
国や地方自冶体が支援すれば
十分、補填は可能だと思うのですが、

政治家の皆さん
この問題も考えていただきたいですね。
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2004年6月21日(月) 幕末史-激闘薩摩、長州、会津
三修社刊の
上記の本が出来上がり、
送られてきました。
装丁もすっきりし、
なかなかの出来栄えです。

発売は25日前後です。
この本で私は、
薩摩、長州、会津のどこに違いがあり、
幕末の動乱になったのか。
を人物を通して書きました。

そして
明治国家は
薩摩、長州だけではない。
会津もこれに加わり
作り上げたことを書きました。

是非、ご覧下さい。




田中角栄元総理の秘書
早坂茂三さんが亡くなりました。

私はこの方に大変、思い出があり、あの人がと驚いています。

何年前だったでしょうか。
田中元総理を郡山にお招きして
磐越自動車道建設促進の
一万人集会を企画しようということになり、
私が田中元総理の秘書、早坂さんと交渉に当ったことがありました。

目白の御殿に何度も行き、
郡山で1万人集会を実現したのでした。

そんな縁で
その後
一度、早坂さんが
郡山に講演会に来てくれました。

ご冥福を祈ります。
 
早坂さんの経歴
 1930年(昭5)6月26日、函館市生まれ。早大政経学部新聞学科卒。55年東京タイムズ入社、社会部記者を経て政治部記者。62年12月に田中角栄大蔵大臣秘書官となり、その後23年間、政務、政策担当秘書、スポークスマンを務める。85年7月に独立し、世界各国を歴訪。14冊の著書がある。趣味はゴルフ(ハンディ28)、クラシック鑑賞、温泉めぐり。
△top
2004年6月20日(日) チベットに行きませんか
私は8月21日からチベットにでかけます。
詳細はこのホームページに書いてありますが、
チベットの人々の暮らしと
チベット仏教の
奥義を探求せんとするためです。

河口慧海という人がいます。
日本最初のチベット入国者です。
慧海は明治三十年、
インドにわたり、山奥のダージリンで一年、
チベット語を学び、
カルカッタからネパールに向かい、
カトマンズからチベットを目指しました。

道のない岩と岩との間を
猿が木わたりするように、
雪が残る
ダウラギリ8172メートルを越え、
明治三十三年七月、日本を発ってから三年かかって
ついにチベットに入ったのです。

冒険に次ぐ冒険、
命がけの日々でした。

わずかな雰囲気でもいい、
河口慧海に触れたいのです。

ラサではチベット大学の研究者との
討論も予定しています。

値段が少し高いですが、
価値はあると思います。
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2004年6月19日(土) 今日は出羽重遠の校正
光人社文庫から7月出版予定の
『出羽重遠伝』
の校正に追われています。

出羽は元会津藩士
幼少組の隊員として
篭城戦を戦いました。

当時の会津の少年は皆そうですが、
彼も静岡の旧幕臣の家に預けられ
沼津兵学校で勉強し、その後、
海軍兵学校に進みました。

薩摩の山本権兵衛に
かわいがられ、
海軍軍人として
エリートコースを進み
日露戦争では
東郷平八郎の片腕として戦いました。

後に会津人初の海軍大将になりました。

柴五郎と並ぶ
会津出身の軍人です。

以前
『天風の海』
と題して出したものを今回
改題しました。


お知らせ

6月14日
この欄で
禁門の変について
ヤフ-から転載しました。
正しくは
下記のホームページからの
転載でした。
素晴らしい内容で、よくまとまっていて
感心しました。
出典の記載が遅れ
お詫びします。

「今日」元治元年7月19日:禁門の変(蛤御門の変)
... 日(1864年8月20日) 禁門の変 ... 砲火をまじえ、禁門の変が勃発しました ... させたました。 禁門の変で類焼した家屋 ...
http://bakumatu.727.net/kyou/8/082064-kinmonnohen.htm - 7k - 2004年5月8日- キャッシュ
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2004年6月18日(金) 野口英世と千円札
新札への切り替えが11月に決まり、
ふくしま県内は
野口英世ブームに沸いています。

新聞を見れば
必ず
どこかに英世が出ています。
今朝の福島民報あぶくま抄には
借金魔のことが書いてありました。

留学資金を一晩で使ってしまったこと
それも結婚を条件に得た資金でした。


面倒を見てきた歯科医の血脇守之助

高利貸しから借りて渡航費用を作ったこと
などが書いてありました。

金銭に関しては
いろいろあった人ですが、
それを有効に使って
世界の医聖になったわけで、
今となっては、すべて時効でしょう。

11月からは財布を出すたびに、
毎日、
英世と顔を合わせることになるわけです。
△top
2004年6月17日(木) 会津藩はなぜ朝敵か-が3刷りに
KKベスト新書からだした
上記の本が3刷りになりました。

改めて読んでみましたが、
分かりやすく
よく書けていると
われながら
思いました。

新書は分かりやすくないと、だめですね。
それからライターに主張がないとだめですね、

星亮一はどう考えるのか
これが基本です。
時にはいかり、
時には笑い、
時には疑問を呈し
時には誰かをやっつける
時にはほめる

いろいろに要素がなければ
人は読んでくれません。

新書は
そう言う風に書けるので
好きですね。

目下は新書ライターに徹しています、

これからだす
日本最後のサムライ
河井継之助

自信はあります。

何度
越後長岡に足を運んだか分かりません。

それだけ魅力に富んだ男です。
△top
2004年6月16日(水) 編集者の方々とミーティング
昨夜は東京で、久しぶりに出版社の方々と
懇談しました。武士道が話題になりました。
日本のラストサムライは誰かです。
これに論議が集中しました。
さあ誰でしょうか。

文庫が頭うちになり、新書がいいと言う報告もありました。
出版も厳しい時代への突入です。

それから
私が関係している
奥会津文化フオーラム
皆さんにおいでくださいと宣伝しました。
奥会津文化フオーラムは
7月10日、福島県大沼郡三島町で開きます。

野口英世の素顔、
女性と文学

さまざまなテーマで討論します。
民俗行事
虫送りもあります。
問い合わせは
三島町交流センターやまびこ
電話
0241−52−2165
斎藤さんです。


東北福祉大
全国大学野球で優勝

明治、日大を破り
これはすごい


(決勝)

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
日本大学   0 0 1 0 0 0 0 0 0 1
東北福祉大学 3 0 0 0 0 0 0 0 × 3

(日)那須野−上田
(東)小原、福田−井野



△top
2004年6月15日(火) 今日は出版社と打ち合わせ
これから東京です。
神田の古書店で
本を探しながら
編集者の方々にお会いし、
情報交換をしてきます。
最終電車で帰ってきます。


神田書店街の変遷

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神田書店街の変遷 神田古書店街の神田とは、いわゆる神田という地域の範囲より狭く、神保町交差点を中心とした、だいたい半径600メートルの中にある。もともと江戸時代この周辺は武家屋敷であり、江戸で盛んだった書籍出版や販売は、京橋、日本橋方面が多く、この地域には一軒もみられなかった。明治維新ののち今日に至る百余年の間にあらゆる書物の生産、流通、販売に関係のある機関が、ここ神田に集まり日本最大の書籍街、巨大な同業者街となった。

いわゆる書肆街は世界でもロンドン、パリ、ニューヨークなどに存在するが、集中度、総合性、専門性において神田とは比較にならない。

現在神田古書店は136軒ある。他に本の問屋の取次店が30店余、新刊書店が30店余、出版社と編集プロダクションが多く営業している。また、現在は多くが郊外に移転したが、かっては印刷、製本所の工場も多数活動していた。この書店街がどのように形成されていったか、時代の大筋の推移を追っていきたい。

明治期
安政3年、幕府は藩書調所(東京大学の前身)を一ツ橋に移転、つづいて明治維新ののち、官立、私立の各種学校がこぞって神田界隈に設立された。また幕末頃、大名屋敷、侍屋敷が多く存在したこの界隈は、維新 政府の手により新政府の高官、華族、医者など知識階級の居住する場所となった。これら学生と知識階級の書物の需要の増加により本屋が誕生することとなった。明治20年東京書籍商組合が組織され、組合員131名の内、神田は15名であったが、明治39年の統計には384名中104名が神田の組合員である。新しい思整、新文芸活動の活発化と新しい製紙、印刷、製本技術の発達とともに出版活動が盛んとなり、そして洋装本が古本として多く出廻るようになった。明治24年に御茶ノ水橋ができ神田と本郷との間が交通至便になった。しかし、九段から須田町に至るメインストリートは橋から南神保町を通る現在のさくら通り、すずらん通り、表神保町、小川町にぬける道であり、九段下から乗合馬車もこの道筋を走り、書店もこの通りに沿って店を開いていた。明治25年の神田の大火以降、錦町、神保町などに住居していた華族は急速に神田から移転していったが、駿河台にはいぜんとして知識階級の集中が続いていた。我が業界も明治42年秋、現組合の母体となった神田同志会が会員40人で結成され、市会の運営が行われるようになった。

大正期
大正2年、再び大火事がおこり三崎町から錦町までのほとんどを焼きつくした。この火災を契機として、市街の整理が行われ、神保町から駿河台に至る電車路がこの時拡張され現在の靖国通りが開通し、南側に古書店街が開業しはじめ、本屋も様相が一変し、近代化がに始まった。大正3年から始まった第一次世界大戦の好景気と民主主義のたかまりが学校教育機関の拡大となり、学校の整備、充実につなっがていき、これが教科書需要となり、神保町の古書店の商いの大きな対象になっていった。また財界人で古書を蒐集する人が増え、それが現在の東洋文庫、大東急記念文庫など大きなコレクションとなっている。

また遠く中国、朝鮮へと古書を大量に仕入に行く古書店もでてきた。大正5年小川町に東京図書倶楽部会館(現在の東京古書会館の前身)が設けられ、業者の会合や市会をすべてこの会館で行い、ここが取引きの中心となっていった。

大正9年現在の古書籍商組合の前身が設立されたが、大正12年に関東大震災がおこり、古書店街もほとんどが焼失もしくは崩壊したが、古書店もはやばやとバラックの仮店舗を造り再営業に着手していった。東京市における復興計画の中で官庁、学校図書館の復興が重要課題として組み込まれ、神田古書業界はこれらの需要を契機に全国を市場として飛躍的に発展していった。販売方法も店頭売りの他に目録販売、外売、共同即売展が盛んになり、商売を広く行うようになった。

昭和戦前期
震災の復興も着々とすすみ日本の経済もゆるやかな安定期となり、駿河台の高級住宅地の移転跡地に中央大学、明治大学、日本大学などのキャンパスができた。しかし、昭和の大恐慌がおこり、また大量生産、大量販売の安価な円本の出現などにより古書業界も打撃をうけた。不景気の中で著名人、旧華族の売立が続出し、デパート等での即売展の開催や、目録販売など積極的に商いを行った業者が発展した。神保町にも万崎洋服店、一誠堂書店、富山房などの本格的建築のビルができた。

昭和16年に太平洋戦争がはじまり、書物が空襲などで焼かれ、また古書店主も微兵され、古本にまで公定価格が制定され、市会という名称は物の値を上げるので交換会と改称されるなど、業界は縮小していった。東京が焼土とかす中で、奇跡的に神田書肆街は戦火を免れた。それには、ロシアの日本研究者エリセーフ氏がマッカーサー司令官に、日本爆撃に際して貴重な文化財のある神保町一帯を避けるよう進言したからだと言う逸話がある。(鈴木敏夫筆「週間読書人」昭和51年9月20日号)

昭和戦後
終戦後は売るべき書物も少なく、物々交換などが行われ、また神田日活館(現在のタキイ)駿河台下丸善(現在の東京都民銀行)の前の歩道に露店ができ、マッカーサーの露店禁止令がでる昭和25年頃まで続いた。神田古書店街の復興も、店主が順々に復員、営業を再開していき、市会も開かれ、展覧会も開催された。前述のように神田書店街が羅災をまぬがれていたため、営業の再開は非常に早かった。そして新制大学の新設、拡充にともない、新刊の不足ともあいまって古書への需要が増大し、目録での販売、古書展も盛んに行われ、業界は発展拡大していった。

世の中が落ち着いてくると経営も安定してきたが、テレビなどの普及で活字離れがいわれるようになって、読者拡大のため千代田区の助言もあって、昭和35年に神保町交差点において、第一回神田古本まつり青空古書展が開催され、現在まで毎年、東京神田名物として秋の読書週間に催されてきている。 昭和42年には現在の東京古書会館が東京と全国の古書流通の中心として建築され、現在に至っている。都電の廃止により一時人並みが減少した書店街も、地下鉄の相次ぐ開通とともに、都心の交通至便な専門店街となり、平成のバブル経済下にも落後する店は少なく、徐々に店数も増えてきている。

今、神田の古書店街は、洋本、学術書、稀覯本、珍書、和書、漢籍、洋書など、ありとあらゆる書物の集中する場所であり、新しい時代の流れを追った扱う書物の専門化などによって、ユニークな店がひしめく書店街として発展している。

「今後もし彼らが、一方では個人主義の伝統の上に立って専門化をますます進めるとともに、他方では相互の協調・協力を増進して、集団の力を強化するならば、必ずや神田の古書肆街はながく生き残るであろう。望まれるのは個人主義と集団主義の均衡ある共存である。」(脇村義太郎著『東西書肆街考』(岩波新書))より


1999 神田古書店連盟 All rights reserved.
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2004年6月14日(月) NHKふくしま浜・中・会津
今日6時から放送の
NHKふくしま
浜・中・会津のテレビ放送に
私が出演、
禁門の変後の
新選組と会津藩
を話します。

月1回の放送で、今月分の放送です。
昨夜の大河ドラマ新選組、
長州追放の場面、なかなかよかったですね。
会津藩主松平容保が
あれほど活躍する
テレビははじめてです。

京都守護職が何であったか、
よく分かるテレビでした。
孝明天皇が
いかに会津に信頼を寄せていたかも分かり
会津の人は大喜びだったと思います。

大河ドラマ新選組

好調ですね。

元治1年7月19日(1864年8月20日) 

禁門の変
やフーから

元治元年7月19日(1864年8月20日)未明、伏見を進発した長州兵と、守備についていた大垣藩兵が砲火をまじえ、禁門の変が勃発しました(会津の守衛していた蛤御門が最激戦地だったので、蛤御門の変とも呼ばれています)。

★公武合体派の動き
有栖川宮以下、長州派公卿が急遽参内したことを知った中川宮は異変を察知し、京都守護職松平容保、禁裏守衛総督一橋慶喜、及び二条関白に報せました(容保も慶喜・関白に参内を促した)。慶喜は、公卿には容保を憎むものが多い上、長州の武威を恐れて容保の守護職御免の沙汰でもでれば一大事と、御所に乗り切りで駆けつけました。
★長州誅伐の勅
おりしも、伏見で大垣藩が長州勢と戦闘に入ったとの報が朝廷に届き、これを聞いた孝明天皇は「速やかに禁裏守衛総督(慶喜)以下、諸藩の兵たちが討伐し、朝権を輝かすこと」という勅を出しました。御所九門は閉じられ、守護職(会津藩)・所司代(桑名藩)を始めとする諸藩の兵も配置につきました。長州勢との戦闘は御門をめぐる攻防となりました。
★慶喜の陣頭指揮
御所の防御状況を巡検した慶喜は、守護職の容保と所司代の定敬(容保の弟)に玉座の警備を任せ、自分は御所の外に陣を構えて指揮しました。慶喜は、実の兄弟である因幡侯池田慶徳、備前侯池田茂政(ともに長州より)の家臣がどう動くか測りがたいので自分が指揮をとるほうがよかったのだといっています。容保・定敬が病中推して参内したため指揮を思うようにとれなかったためともいいます。

★遷幸(天皇立退き)の動き・講和の提議
鷹司邸にひそんで御所突入を図る長州兵のうつ砲弾がしばしば常御殿の玉座近くにあたり、立退きの準備が始まりました。これをみた容保は天皇に謁見を請い、「誓って玉体を守護し奉らん」と立退きを諌止したといいます。

また、慶喜が再び参内したときには、公卿から口々に「天皇に万一のことがあれば総督の責任だ。長州と和睦すべきである」との提議があり、激怒した慶喜は「禁闕(御所)に発砲せる賊徒に和睦などは思いもよらず」と退けたそうです。その間にも、長州派公卿(中山忠能や橋本実麗)は容保の九門外追放を主張してやまず、慶喜は拒絶の談判を繰り返したといいます。

★鷹司以下諸邸に放火→長州勢の退却
慶喜は遷幸・講和論を退けたものの、天皇の身の危険、及び時間がたてば朝廷から長州の入京御免の沙汰のでることを恐れ、会津・桑名に命じて、長州勢の潜伏する鷹司邸以下諸邸に放火させそうです。(会津藩家老山川浩は、鷹司邸に大砲をうちこんで進入したところたまたま火が起こったといっており、永倉新八は新選組が放火したのだといっている)。この日は風が強く、諸邸はたちまち炎上し、町屋へも延焼しました。火から逃れ出るところを諸藩の兵に追撃されて、長州勢は多数の死傷者を残して敗走しました。京都藩邸留守居役乃美織江は藩邸を焼いて京都を脱出しました。鷹司邸には長州の久坂義助・寺島忠三郎などがいたのですが、両者はのがれきれないものと自刃しました。真木和泉はからくも逃れました。

★残兵追討の沙汰
残兵追討の沙汰を受けた慶喜は諸藩に探索させましたが潜伏先が知れず、怪しむべき場所はすべて大砲を打ち込んで火を放たさせたました。

禁門の変で類焼した家屋は4万3千軒に及んだといいます。

★新選組は・・・
さて、京都守護職会津藩御預かりの新選組ですが、隊士が後年書いた回想録等にははなばなしい活躍が描かれていますが、『京都守護職始末』によれば、実際はそうでもなかったようです。

九条河原に布陣していた会津藩のうち長坂隊と新選組は最初伏見に向かったが戦闘が終了しており、九条河原に戻ったそうで、次に蛤御門で砲声がするのでそちらに向かうと、そちらでも戦いは終わっていたそうです。鷹司邸を攻撃したのは会津の坂本隊や彦根兵とのことで、鷹司邸から敗走する長州兵を追撃し、多くの者を斬ったのも彦根兵だといいます。

仙台藩士の記した『官武通記』によれば、やはり、会津藩と新選組は敗走する長州兵に備えて九条河原を動かずにを守っていたが、近藤が「御所で戦いが始まったようだ」と知らせたので、出陣したが、御所の戦闘はほとんど終わっており、残敵追討しか残っていなかったとしています。

関連:
◆6月5日(7.8)池田屋事件(1) ◆6月6日(7.9)池田屋事件(2)◆6月15日(7.18)−長州藩、進発開始 ◆6月27日(7.30)−長州、京都来襲の噂。容保・会津藩兵御所内に。孝明天皇、長州兵入京拒否の勅。 ◆6月29日(8.1)−慶喜に長州処分諸事委任の朝命(慶喜1度めの長州退京勧告) ◆6月29日(8.1)−禁裏守衛総督慶喜に長州処置委任の朝命(慶喜一度目の長州退京説諭) ◆7月1日(8.2)−長州藩福原越後の嘆願 ◆7月2日(8.3)−嵯峨屯集の長州軍探索の新選組隊士の報告。東九条宿陣の土方、故郷へ書簡。 ◆7月4日(8.5)−伏見の福原越後に撤兵の朝命(慶喜2度目の長州退京勧告) ◆7月5日(8.6)−長州派五卿、長州の要求を受け入れるようにとの建白書/新選組、西瓜売り変装の不審人物逮捕 ◆◇7月17日(8.18)−新選組・会津藩士、慶喜の宿舎
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2004年6月13日(日) 山本五十六と河井継之助
後藤新平から
一転、山本五十六に話が飛びます。
考えることがあって、いま反町栄一の
『人間山本五十六』
を読んでいます。

山本五十六に関する作品は
すべてこれが原本になっています。
反町は
長岡中学の後輩で、山本との付き合いの深い人でした。

昭和十年
ロンドンで海軍の軍縮会議がありましたが、
そのときも反町は山本に会っていました。

「私は河井継之助先生が、小千谷談判におもむかれ、
天下の和平を談笑のうちに、決せられんとした。
あの精神を持って今回の使命に従う決心だ」

山本はそういったといいます。

ご存知ない方もいるかも知れませんが、
会津攻撃に向かう官軍が、長岡に迫ったとき、
河井は単身
敵陣に乗り込んで
和平をといたのです。
しかし出てきた土佐の
岩村精一郎に拒絶され、
戦いに踏み切ったのでした。

山本はその勇気をたたえ、
自分もその心境で臨むと
反町に伝えたのでした。

いま
ラストサムライを
探しています。
日本のラストサムライは誰かです。
河井継之助
この人こそ
ラストサムライにふさわしい。
そう言う結論に達しました。

いかがでしょうか。


リコール隠しはすぐクビ ゴーン社長、法令順守強調
 【サンフランシスコ11日共同】リコール(無料の回収・修理)隠しをした社員はすぐクビ−−。日産自動車のカルロス・ゴーン社長は11日(日本時間12日)、米サンフランシスコ郊外で共同通信などの取材に応じ、リコール隠しをした関係者は解雇するなどと、社員に法令順守を強く求める方針を明らかにした。(共同通信)



近鉄とオリックス合併交渉 球界再編へ加速か

 プロ野球の近鉄とオリックスが合併の方向で話し合いを持っていることが、13日分かった。
 近鉄の小林哲也球団社長はこの日、「合併の方向で進めている」と認め、オリックスの小泉隆司球団社長は「お互いの話し合いの中でこういう結論(合併案)に至った」と説明した。近鉄球団は同日中に何らかの発表を行うものとみられる。
 プロ野球の最高決定機関であるオーナー会議は7月7日に予定されており、両球団は今季終了後の合併を目指し、オーナー会議の議題に挙げるものとみられる。合併が成立した場合、パ・リーグ球団は6から5に減り、セ・リーグを含めて1リーグ制などへの球界再編が加速する可能性もある。
 近鉄球団は入場者数の減少、年俸の高騰、年間10億円といわれる大阪ドームの使用料などが経営を圧迫し、年間40億円近い赤字を出している。(共同通信)
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2004年6月12日(土) 水沢の風景
水沢を見てきました。
地元の方々が
水沢城と呼ぶ、
伊達藩の要害の跡を中心に点在する
高野長英の生家、
後藤新平記念館
斎藤実記念館を見てきました。

どこもゆったりとしていて、
じっくり見学することができました。

ここは民主党の小沢さんの地盤です。
あちこちに
小沢さんのポスターがありました、

今回
水沢を訪ねたのは
公表すれば、
後藤新平の伝記の執筆のためです。

これからが大変です。
来春発刊を目標に苦闘が始まります。


後藤晋平記念館の
ホームページ

明治維新の大業期はすぎたが、まだ日本の社会情勢は安定しない時代であつた。視野の広い新平は常に実態を調査したうえで世界の伸展を凝視し政治にあたった。しかしその深遠な配慮は必ずしも当時の世評に合致せず、批判もされたが後世高く評価をうけている。


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 東京駅、銀座通り、昭和通りと関東大震災以降今日まで東京が息づいてきたのは、東京市長の後、内務大臣兼帝都復興院総裁として「大風呂敷」の異名をとった後藤新平の偉業によるものであるが、新平は単なる大風呂敷ではなく、その裏で調査、計画、実行の合理性をもって実践した政治家であつた。

  後藤新平は1857年(安政4年)6月4日に生まれた。新平の家は高野長英の生まれた分家筋にあたり、母利恵は留守家医師・坂野長安の娘である。斎藤實とは竹馬の友であり、胆沢県庁の給仕同士でもあった。11歳頃まではガキ大将で暴れまわっていたことは後々迄の語り草であった。

  明治4年15歳で出郷し、18歳で福島県須賀川医学校に学び、25歳で愛知病院長に任ぜられた。明治15年刺客に襲われた板垣退助を治療し、後内務省に入り、自費でドイツ留学を経て、42歳で台湾総督府民政長官。

  明治41年には逓信大臣兼初代鉄道院総裁となり、3年間で日本の鉄道全部を広軌(新幹線のレール幅)にすることを提唱したが、一般の人にはその真意が理解できなかった。また、大正13年には東京放送局(NHKの前身)初代総裁となっており、それが「鉄道・放送の父」とも言われるゆえんである。

  日本ボーイスカウトの初代総長でもある。生前「水沢には墓をつくらないから墓代りにあの家を長く残しておけ」と言い残したのが吉小路の「生家」であり、県指定文化財で江戸中期の下級武士の住宅として貴重なものである。


 
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2004年6月11日(金) 水沢に取材
水沢にある
高野長英記念館
後藤新平記念館
斎藤実記念館
の取材のために
これから水沢人でかけます。

目的はいまの段階では
あくまで取材、
いずれ発表致します。

昨今のニュース

三菱の車

私の家族はゴーン社長にあこがれて
ニッサンの車に乗っています。
三菱の車にも過去に乗っていました。
三菱ギャランという車でした。
別にトラブルもなく
満足していましたが、
昨今の三菱は怖いですね。
経営者がよくないですね

金さえ儲かれば
それで良しという風潮は最悪です。

三菱に乗っている方は
肩身が狭いでしょうね。
ニッサンは最高です。
どこかプライドがあります。

ヘッドライン
欠陥隠し、役員で申し送り 三菱自の大型車事故
 山口県で2002年に起きた三菱自動車製大型車の死亡事故の引き金となったクラッチ系統の欠陥は、1992年に同じ山口県で起きた炎上事故をきっかけに、三菱自の上層部が隠ぺいを「申し送り事項」としていたことが11日、神奈川、山口両県警の共同捜査本部の調べで分かった。(共同通信)
[記事全文]

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2004年6月10日(木) 会津若松
今日は久しぶりに会津若松に出かけます。
県立博物館に行って
戊辰戦争の展示を見ます。
弓矢を使った白河口の戦闘の絵、列藩同盟の旗なで
実物を見てきます。
10時の快速列車で出かけると
11時過ぎには
会津若松につきます。
ゆっくり見て来ます。

追伸
ゆっくり見て来ますが
そうでもありませんでした。
用事ができてしまい、
3時に事務所に戻ってきました。
意外なところに
意外な資料があることが分かりました。

群馬県館林市教育委員会に
会津城下難戦の図
や進撃絵馬、凱旋絵馬
があり、
どれも迫真に富んだ構図でした。

白虎隊自刃の図も各所に
かなり多くあることも
分かりました、

企画展は13日でおわりますが、
図録がありますから
購入されると
大変参考になると思います。

福島県立博物館の電話は
0242−28−6000


こわい話しです。

ヘッドライン
平安の井戸から男女の人形 リアルに作り呪いかける?
 京都市右京区で確認された平安時代初期の邸宅の井戸跡から、呪詛(じゅそ)に使ったとみられる男女の木製人形一対が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が10日、発表した。
 男女の人形は夫婦和合などのまじない用とされるが、胴に丸みを持たせ、ひげや髪形を表現した写実的なつくり。平安京では発見例のないタイプという。名前を書き込み後ろ手にしたとみられ、同研究所は「リアルに作ることで強い恨みを込め、のろい殺そうとしたのだろう」としている。(共同通信)
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2004年6月9日(水) 高速バスの事故
昨日、郡山-仙台間の高速バスが事故を起こしました。
前方を走っていたトラックに追突したのです。
私は月2回、高速バスを使っていました。
この区間を確か3社走っており、競争なのですが、
先日、このバスに乗ったら
30分ほど先に出た某社のバスに
終点近くで追いついたのです。

そのとき
これはどういうことだと、思いました。

次々に追い越して走ってきたのです。
少し無謀だなと、そのとき思いました。
その会社のバスが
追突したのでした。

やはり安全運転が大事ですね。
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2004年6月8日(火) ラスト侍
いま幕末のラスト侍は誰だろう、と考えています。
自ら戦ったという意味で、私は長岡の河井継之助が
最もふさわしいと考えています。

司馬遼太郎は『峠』で
河井を描きましたが。
私はノンフィクションで
河井を描こうと今準備中です。

ガットリング機関砲を自ら操って戦う様は
まさに
ラスト侍です。
年内には本にしたいと
思っています。

越後の戦争で、長州藩の奇兵隊は
壊滅的打撃を受け、
河井のすごさにたじろぎました。

河井継之助
山本五十六は
越後が生んだ英雄です。


人物評
徳富蘇峰 「西郷と大久保と木戸を足したより大きいとはいえないが,この三人を足して3等分したより継之助の人物は大きかった」
司馬遼太郎 「日本最後の武士です。       

「幕末の人材を考えてみて,河井継之助は木戸孝允より3倍ほど上の人物です。
もし,西軍側の人物 であったら,今頃お札になっていたであろう人物」 
 三島中洲   
 何ぞぞ敢えて王師に敵せん 賊と呼び忠と呼ぶ彼も一時 惜しむべし東洋多事の日 黄泉地下起こし難し大男児」
佐川官兵衛
河井君と話をするときには,息の油断もできない,あんなによく理屈が見えて話に切り込みの烈い人は少ない.確かに近代の豪傑である.
勝海舟
彼はなかなかの人物であったが惜しいことをした.河井の様な者は少ない.
西郷隆盛
イヤイヤ東北にもなかなか人物がある,長岡の河井継之助は得易からざる人物である.不幸順逆途を異にしたので,賊名を負うてたおれたが,もしも今日世にあるならば,臺閣に立つべき一人である.確かに一代の傑物である
大久保への建白書(明治元年) 東北の河井と勝とを手に入れなければ天下の大乱は免れない

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2004年6月7日(月) 大河ドラマ新選組
今回の新選組
発想の斬新さは
驚くばかりです。
昨夜は会津藩主松平容保が
壬生の相撲にお忍びで
姿を見せていました。

本当にそうなら
素晴らしいことです。
それはともあれ、松平容保をまったく新しい切り口で
描き
びっくりというか
驚きの連続です。



偶然というか、私の
『松平容保』
学陽文庫
は来週発売です。
是非
店頭でご覧になってください。

ヤフー
会津藩と新選組

 新選組の誕生には歴史的必然性があり、会津藩との関わりは宿命的と言えるものがある。会津藩は、藩主松平容保公が京都守護職を拝命するにあたり、徳川三代将軍家光の異母弟である藩祖保科正之公の遺訓がその運命を大きく変えることとなる。「大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし。列国の例をもって自らを処るべからず。もしニ心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。面々決して従うべからず。」この家訓第一条の「徳川家への忠誠」が、いかなる諸事情があろうとも徳川家へ「忠義」を尽くす会津藩の根源であり、第9代藩主容保もこれを貫こうとしたのである。
 一方、多摩の郷士であった近藤勇ら「壬生浪士組」の本意は、武闘行為ではなく「尽忠報国の誠」を果たすことにあった。また、彼らは出自が郷士であるだけに武士として士道に生き、軟化した武士達よりも武士らしい生き方を望む。そして彼らが武士(もののふ)として理想としたものは、連綿と受け継がれた会津藩の士道「忠義」であったのである。
 この宿命的で至純な誠心から出た「義」によって会津藩と壬生浪士組は幕末の京都で結ばれ、会津藩御預として「新選組」が誕生することとなる。彼らは、王城の護衛者として粉骨砕身、ともに働き、薩長土肥の画策による「大政奉還」という徳川家への理不尽な行為に抵抗し、会津・函館へと続く戊辰戦争へ突入していくのであるが、将軍徳川慶喜が屈服し、敗戦に継ぐ敗戦の身にありながらもなお、彼らは士道に殉じることで、その筋を通し「忠義」を尽くしたのである。




開国から京都守護職まで〜会津藩の宿命〜


    
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2004年6月6日(日) 民主党のレベルの低さ
年金改革法の国会審議を見ていますと
とても政権を託すに値しない政党
それが民主党であることがはっきりしました。
あの牛歩とか牛タン戦術はなんですか
困ったものですね。

あんなことをして
何かプラスになるのでしょうか。
経費の無駄使いをしている政党
それが民主党の印象大でした。
菅さんの方が
まだしも
よかったと思います。

岡田さんは幼稚の感じがしますね。
あんな戦術で
得意になってはいけません。

岡田さん
もっと大人の戦略で臨んでください。




秀吉と桃山文化

今回、京都の旅で
秀吉に桃山文化の一端を垣間見て来ました。
秀吉、最後の居城が伏見城でした。
慶長三年、
秀吉は寝たきりの状態になり、伏見城に徳川家康ら五大老を招いて
我が子秀頼をくれぐれも頼むと、
遺言し、62年の生涯を閉じました。

その伏見城の遺構が
西本願寺にありました。
ここにある国宝白書院、あるいは飛雲閣などは
伏見城からの移建とも言われてきましたが、
そうではなく
新造だったと言われています。

ともあれ
伏見城の絢爛豪華さを西本願寺で見ることができ、
すごい収穫でした。

皆さんも一度
西本願寺を訪ねてみてください。
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2004年6月5日(土) 京都薪能
毎年6月1、2日に行われる京都薪能、2日の
絵馬と祇王
を見て来ました。
京都の薪能は1200年を超える歴史があるそうで、昭和二十五年から
6月に開かれております。

平安神宮という会場も抜群の雰囲気があり、
3000人近い人が入っておりました。
地方ではなかなか見る機会がなく
大変、いいものを見たという満足感で一杯でした。

能の魅力は幾つもありますが、
一つは装束でしょう。
足利時代に完成を見たという能の華麗な装束は
見ていて楽しいですね。
格調高く、なんともいえない贅沢感もあります。

謡と囃子も大変な魅力です。
笛、小鼓、太鼓、これもたまりません。

薪能は
夕暮れが段々迫り、
真っ暗になると
最高に盛り上がってきます。
ぱちぱちと薪が燃え、
幽玄の世界に観客を導いてくれるのです。

毎年6月1、2日に行っており、
一度はお出かけになってはいかがでしょうか。
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2004年6月4日(金) 京都から帰りました。
4日夜、京都から帰ってきました。
今回は平安神宮での薪能を観賞し、
南禅寺、金地院、本願寺などを見てきました。
明日から
連載で報告致します。

どこに行っても大変な人出、
修学旅行の生徒で一杯でした。
天気もよすぎて、カンカン照り、
真っ黒に日に焼けました。
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2004年6月1日(火) 明日から京都
福島民報社の
新選組と会津藩の旅で
明日から4日まで京都に出かけます。
今日の一言
休載させていただきます。

京都最近事情は
追って掲載致します。

携帯電話は禁止、すべて没収=外国人との接触規制か−北朝鮮
 【モスクワ1日時事】中国・北京発のタス通信は1日、北朝鮮の消息筋の話として、北朝鮮当局が国民の携帯電話使用を禁止し、1週間前、携帯電話を保有するすべての組織や個人から一方的に没収したと報じた。(時事通信)

やはりひどい国です。
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2004年6月1日(火) 戦う政宗
私のインターネット歴史小説
『戦う政宗』
いま表紙の制作を進めております。
表紙は非常に重要です。
これは是非、読んでみたい
そう思わせる第一印象が表紙です。

主人公が奥羽のヒーロー
伊達政宗です。

明るく
のびやかで、
天下獲りを、目指す
夢を感じさせる表紙です。

新進デザイナーが製作中で、
この出来栄えが
まず最初の関門です。

出版社は
仙台の
本の森社

いろいろの意味で実験です。
できるだけ
多くの情報を皆様に提供し
皆様と一緒に本をつくってゆきたい
そう考え手おります。

表紙のレオアウト
案が固まったら公表致します。

<ゴーン日産社長>「退屈な人間はCOO後任失格」

 日産自動車のカルロス・ゴーン社長兼COOは31日、都内で講演し、年内にも指名する予定の後継COOについて、「何千人の社員が次の話を聞きたいと思うような人でないといけない。どんなに実績や能力があっても、退屈な人間には務まらない」と語り、「話の面白さ」がポスト・ゴーンの重要な選考基準になると強調した。(毎日新聞)

まったくその通りだと思います。


<イラク日本人殺害>橋田さんと小川さんの家族が遺品を公開
 【クウェート市・青木英一】イラクでフリージャーナリストの橋田信介さん(61)と小川功太郎さん(33)が襲撃された事件で、2人の家族は31日、滞在先のクウェートのホテルで遺品を公開した。橋田さんはまだ身元確認されていないが、銃撃されて炎上した車から黒く焦げた橋田さんのビデオカメラが見つかった。(毎日新聞)

ジャーナリストの一人として
お二人のご冥福をお祈り致します。
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株式会社メディアハウス