星亮一 今日の一言

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2006年4月30日(日) パラオで思ったこと、それからベスト10
パラオからボートで1時間、

ペリリュー島のジャングルと海辺で2日間を過ごした。

1万人の日本兵が、ここの戦闘で命を落とした。

となりの島の戦闘で生き残った倉田さんがガイドしてくれた。

「武器さえあれば負けなかった」

と倉田さんは強気だった。

米軍が上陸したとき、日本軍は海岸線にトーチカを築き、上陸する米兵を撃退した、

猛烈な空爆と艦砲射撃のあと、上陸用舟艇の乗り込んだ米軍が、上陸作戦を開始した。

なぜこの島がねらわれたか、」

それは海軍の飛行場だった、

ここにはゼロ戦の基地があり、

沖縄侵攻のためには、どうしても

ここが必要だった。

上陸用水陸両用車の大群が沖合いから迫ってきた。

その数300隻

日本軍はサンゴ礁に地雷や機雷を埋めていた。轟音とともにそれが爆発、

米軍の舟艇は吹き飛んだ。

敵の舟艇が150メートルに迫ったとき、

日本軍のトーチカから火が吹いた。

野砲、速射砲、敵の水陸両用戦車の側面をぶち抜いた。

上陸用舟艇60数隻、

水陸両用戦車30を撃破、

米軍は1000人の犠牲者を出して敗退した。

問題は弾薬の量だった。

日本軍には補給がまったくない。

初日の戦闘で弾薬はなくなった。

あとはバンザイ突撃である。

補給のない戦争は勝てるはずはない。

洞窟に潜ってのゲリラ戦をよぎなくされた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

明日に続く、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今週のベストセラー

30日、福島民友新聞、郡山市東北書店調べ

1、東京タワー リリー、フランキー 扶桑社

2、国家の品格 藤原正彦 新潮社

3、オリエンタルラジオ ワニブックス

4、昭和史 半藤一利 平凡社

5、町長選挙 奥田英朗 文芸春秋

6、会津藩斗南へ 星亮一 三修社

7、こころのエンジンに マツダミヒロ サンマーク出版

8、この国のけじめ 藤原正彦 文芸春秋

9、食品の裏側 安部司 東洋経済

10、負けるのは美しく 児玉清 集英社

おかげさまで

会津藩斗南へ

6位です。

ありがとうございます。
△top
2006年4月29日(土) 戊辰戦争研究会投稿すごいね。
パラオ、ペリリー島取材から本日帰ってきた。

戊辰戦争研究会、投稿すごいね。

いくつか、紹介しよう。

和泉之守兼貞より

さて、私のハンドルネームは副長からも、人物名じゃないのは珍しいと言われましたが、土方歳三の愛刀の名前です。
 私が住んでいる場所は、戊辰戦争に縁がある福島県の県南地方です。 歩いて10分程度の所に戊辰戦争の碑が建っており、ここで戦があったことを静かに語っています。
 そして、40の戊辰戦争ゆかりの碑があります。
 私の夢は、土方歳三に縁が深い「京都・東京日野市・北海道函館」をゆっくりと歩くことです。
 これからよろしくお願いします。

31 返信 Re:和泉之守兼定殿へ… 副長 土方 27 Apr (Thu) 12:09
softbank221020210152.bbtec.net
投稿 ありがとうございます。

また「戊辰戦争を歩く」の紀行文を 送ってください。
歩いて得たモノほど 価値が高いのではないか と思います。
それらは、新しい資料となります。
西軍・東軍の戦を公平に受け止める和泉之守兼定殿の姿勢に 感銘を受けます。
折を見て、紹介されました土地へ 行きたいと思います。



36 返信 Re:和泉之守兼定殿へ… 和泉守兼定 29 Apr (Sat) 10:53
New p8087-ipad03fukuhanazo.fukushima.ocn.ne.jp
副長より直々にご挨拶を頂き、恐縮しております。(照)
 今日からゴールデンウイークですね。
 私は全く予定が無い(泣)ので、今日と明日「敗者の維新史」(星先生著)「写真で見る会津戦争」「戊辰白河口戦争記」を借りたのでゆっくり読もうかと思っています。また、知人が白河市内の慰霊碑地図をくれたので、自分用「慰霊碑巡り地図」を作成しようと考えています。
 さて、副長にご相談したいことがあります。
歴史に「〜たら・〜れば」は絶対ありませんが、私が戊辰戦争(特に新撰組)に興味を持ってからずっと考えていることがあります。
 それは、もし戊辰戦争(幕末の激動期含)がなく徳川時代があのまま続いていたら現代の日本はどうなっていただろう? あの戦争がなかったら今の時代、私たちの日本は外国と交流がなく時代から取り残されていたのでは?
 今よりも10年以上時代が遅れていたのでは?・・・と考えてしまいます。 戊辰戦争については議論があるでしょうが、あの戦争が日本の新しい時代を切り開き、今の私達の時代の基礎となったという事実は認めざるおえません。 しかし、私は土方歳三の生き方に感銘を受けているので、その事実を受け入れる事に抵抗が・・・・・
 是非、ご教示下さい。


35 返信 自己紹介 伴 百悦 29 Apr (Sat) 08:28
New actkyo041152.adsl.ppp.infoweb.ne.jp
会員のお仲間の皆様、はじめまして。
伴百悦を名乗らせていただくことになりました、新加入の山口と申します。
不勉強者ですがよろしくお願い申し上げます。
私の戊辰戦争(会津藩中心)研究はもうかれこれ20年近くになろうとしております。
しかし、なかなか不勉強で未熟のまま今日に到っております。星先生の執筆書は全て拝読しております。
自由な立場で勉強できる本会に賛同し加入させて頂きました。末永くよろしくお願い致します。
まず私の好きな幕末人(会津人)ベスト3。
松平容保公は別格です。
1 秋月悌次郎
2 広沢安任
3 町野主水
  伴 百悦
そんなわけで、先客もいらした都合で伴百悦殿にさせて頂きました。
伴百悦とはマイナーですね。
しかしこの方は、戦没者の埋葬に粉骨砕身の努力をした人、その功績はもっとたたえられるべきと考えます。
そんなわけです。
今後ともよろしくお願い致します。

34 返信 自己紹介 秋月悌次郎 29 Apr (Sat) 01:58
New flh1agx009.tky.mesh.ad.jp
こんにちわ。秋月悌次郎を名乗っております遠藤と申します。東京在住です。私も日テレの白虎隊がきっかけでした。それ以来会津藩の生き様に感動して何かと関心をもっております。
今現在は、京都において幕府、諸藩が相手をどう見て、外交を展開していったかに興味をもっております。特に会津藩が相手をどう分析し、またどうみられていたのか。これを知るについて、秋月悌次郎が鍵を握っていると思い名乗らせていただきました。
まだまだ勉強不足で、色々皆さんに教えていただきたいと思っております。何卒宜しくお願いいたします。

33 返信 はじめまして 山本八重子 28 Apr (Fri) 04:37
New 81tt103.omn.ne.jp
皆様こんにちは。
私が「山本八重子」というハンドルネームにしましたのは、鶴ヶ城の籠城戦の際に鳥羽・伏見の戦いで亡くなった弟の装束をまとい、7連発スペンサー銃を担いで鶴ヶ城に入場したことや、女の身でありながらも密かに夜襲攻撃に加わり、敵を倒したという、その勇ましさにとても感動したからです。
 また戊辰戦争後は、新島襄の妻として同志社大学設立に奔走したり、福祉活動に力を入れたりと、己のやるべきことを見据え真っ直ぐに進んでいく姿にも感銘を受けました。
 未熟者ですが、どうぞ宜しくお願い致します。

32 返信 自己紹介 高松凌雲 27 Apr (Thu) 06:14
softbank219172024077.bbtec.net
高松凌雲です。
40年振りに生まれ故郷の郡山に戻り、リタイア後の生活をしてます。
明治初めは人口4000人足らずの小さな村でした。明治初めの安積開拓がキッカケで今では34万人もの大勢の人が住むようになりました。
安積開拓の記念館の『開成館』でボランティアガイドをしています。
そんなことから、幕末から明治にかけての本を片っ端から読みました。
読む後からどんどん忘れていく中で、何故か3年も前に読んだ高松凌雲は頭に残りました。
西洋の医学を学んだ医者として、激動の中で志を貫いたところに感動しました。
昨今の様々な私利私欲につながる事件を見るにつけて、
幕末から明治を見直す必要があると思います。
よろしくお願いします。郡山へ来る機会がありましたら、一声かけて下さい。
開成館でもゆっくりとご案内します。

26 返信 一まして斉藤です! 斉藤 一 HOME 25 Apr (Tue) 11:25
softbank220057200247.bbtec.net
新撰組が大好きで会津まで追いかけてしまいました。そこで、星先生のサイトを知りましたし、我が市の初代市長が会津人だと奇しくも知るにあたって入会を決意しました。会津と戊辰戦争が新撰組と同じように
私の中に根付いてしまいました。斉藤一は
新撰組の中で、最も会津と関係が深いし、
新撰組隊士として、最後まで会津に義を貫きました。そんな彼の生き様を振り返りながら、彼の目で戊辰戦争を見つめ直したいと思います。よろしくお願いします。

30 返信 斉藤一 殿 初めまして。 林忠崇 26 Apr (Wed) 11:15
adsl219122097206.ucatv.ne.jp
名簿に載っている方々で一番西の方ですね。
新撰組隊士『斉藤一』に心酔されている様
ですね。
『壬生義士伝』の浅田次郎をして、新撰組
の中で一番好きな隊士だ、と言わしめていま
す。
お二人には共通する魅力が有ったのでしょう。

私的には嬉しいのですが、西の地に有って、
隊士に魅かれているとなると何かと肩身が狭
くなりましょう、十分ご留意の程を。

先日、掃除をしていましたら数年前にテレビ
東京が放映した『壬生義士伝(後編)』が出
てきました。
久し振りに見ました、涙涙涙・・・、目が腫れ
てしまい明日のゴルフはスコアーに成らない・・。

今後とも宜しくお願いします。


28 返信 返信 ありがとうございます。 副長 土方 26 Apr (Wed) 09:06
softbank221020210152.bbtec.net
会員の方々の 「声」を聞くのは嬉しいことです。

福島市にとっての『その時』は世良修蔵襲撃です。
和平的な色合いを残す「白石同盟」を軍事的な同盟にしてしまった出来事でした。
米沢の宮島誠一郎は世良斬殺の報を聞くなり愕然とし、『…縦令何等ノ辞柄アリトモ天朝ノ参謀ヲ殺シテハ罪償ヒ難シ。 此ニ至テ賊名免ル可カラズ。 嗚呼 京摂数旬ノ辛労モ一瞬水泡ト相成リ、唯々浩歎アル而已』(米沢市史より引用)と嘆いています。
私個人的に この世良修蔵は大嫌いです。
歴史とは 面白いもので、特定の人間に役割を与えてしまう。世良は歴史のなかで
の役割を死で以て果たしたことになります。
仙台の英邁な玉虫左太夫に「厠に浸けてやる」とまで言わしめた人物を調べてみたいと思いました。
世良斬殺は、宮島誠一郎が言う通り、戊辰戦争での「失敗」であったと思います。
捕縛であったなら、別の道が開けたのかもしれません。
また 暗殺ではなく、仙台藩が公然と「斬れ」と言ってしまった事 などが挙げられるかと思います。

東北に住んでいると、どうしても世良の所業の悪さばかりが目立ち、単なる「悪人」とうつりがちになります。
世良の長州時代・奥羽鎮撫軍下参謀として来るまでのことを知りたいと思います。

何かよい情報がありましたら、お教えください。





只今 総裁は取材旅行中で、日本にいません。帰っていらっしゃったら、取材のお話が聞けるだろうと 楽しみにしています。



24 返信 ハンドルネーム  なのに笑いが… 副長 土方 24 Apr (Mon) 11:56
softbank221020210152.bbtec.net
副長 土方です。
「お題」を出したら本当にまじめなコメントがたくさん来ていて嬉しい限りです。
事務局を預かっていて一番、得をしていると感じるときは 会員のみなさまのハンドルネームを誰よりも早く見れる ということです。
それぞれの思い入れがある人物の名前を戴くのです。
こうやって見ていると、「義」に生きた。または 「不器用だけれども 己の想いに殉じた」「正義を貫こうとした」という人物が多用されているようですね。
付けられてゆくハンドルネームを見ながら、ひとり「なるほど…」と頷いている次第であります。
件名の『ハンドルネーム なのに笑いが…』は私のことです。
実は命名は総裁です。
あれは昨年末のこと。
総裁を囲んでの酒宴の場でした。「月の花」という雅な名前。店のなかだというのに 清しいせせらぎが人の心を和ませてくれる。
総裁は焼酎をちびり…と一口召され、「投稿するときの名前をさぁ 幕末の人物の名前をつけるってのはどうかな? (事務)局長」。
それまで私は(事務)局長または(事務)総長と呼ばれてきました。私も程よく回った酒にあおられ、「局長はアタマですよ。私はあくまでも影ですから〜。事務局ですからね」
「じゃ 副長。決まりだね」
間髪いれずに答えがきました。(突っ込みとも言う) 以来 私は「副長 土方」です。 土方歳三は私の憧れの方で、謙信公と共に好きな人物ですが…。憧れの人であったからこそ『名乗れない』と思っていましたよ。全国の土方ファンからのバッシングが怖いと 心底思います。
総裁の講演とか、講座に出向くといきなり前置きもなく『戊辰戦争研究会事務局の中村さんです』と紹介され、PRやらシステムやらを説明せざるを得ない状況となります。
「この人のハンドルネームは『土方歳三』。で、なんかハンドルネームをつけるとその人物にちかくなっっちゃうんだよね(笑)」と総裁。
そうすると 講演にいらっしゃった方たちが笑うんですよ。
好きな人の名前なのに なぜか微妙〜ん…。(>_<;)
でも 名前を戴くからには「土方」の名に恥じないようにだけはしたいものだと思っています。


只今 会員用メールのIDとパスワード送信作業をしています。
順次送ってゆくつもりですが、遅れた場合事務局に問い合わせメールをください。
みなさまのメール投稿を心よりお待ち申し上げます。


27 返信 Re:ハンドルネーム  なのに笑いが… 大村益次郎 26 Apr (Wed) 08:03
p1025-adsau16honb13-acca.tokyo.ocn.ne.jp
次から次と会員の方からメールが届いてますね。
それを、読むのもまた大変楽しいですよ、副長が「素人だからこそ誇りに思いたい・・・」いい言葉ですね。
共に学び共に励ましあって戊辰戦争を学んで行きましょう。

23 返信 はじめまして 山田方谷 24 Apr (Mon) 11:32
p78a81b.sitmnt01.ap.so-net.ne.jp
山田方谷は、幕府最後の筆頭家老板倉勝静の備中松山藩の参政です。
河井継之助の師匠でもあります。
会津藩の秋月悌二郎も方谷を訪問しています。
今後ともよろしくお願いします。

25 返信 Re:はじめまして 山田方谷 25 Apr (Tue) 10:23
p78a868.sitmnt01.ap.so-net.ne.jp
>秋月悌二郎
秋月悌次郎
ですね。


22 返信 はじめまして 玉虫左太夫 24 Apr (Mon) 05:29
flh1abg172.myg.mesh.ad.jp
皆様こんにちわ。 星先生の読者書き込みページにたびたび顔を出させてもらっておりました玉虫です。
私がこの人物の名を名乗りたいと思った理由は幾つかあります。 まずは同じ仙台ということ。 そして、彼が先進的な人物で旧体制に凝り固まっていた仙台藩において稀有な男であったこと。 さらには彼は最後まで薩長と戦おうとした男であることです。
さて、私は実に知識に乏しく基本的なことですら知らないことが多々あるような若輩者です。 しかし、歴史を知る楽しさや仲間と語り合う楽しさは知っております。 どうか皆様宜しく御願いします!!

21 返信 自己紹介 西郷頼母 24 Apr (Mon) 04:38
p3139-ipad203funabasi.chiba.ocn.ne.jp
皆様こんにちわ。自己紹介と言う指定に、改まり何を書こうか迷いましたが(笑) まずは簡単に。
 以前にも記しましたが、会津との出会いは小学生の時NTVの時代劇でした。その時から数十年経ちましたが、西郷頼母にHNをさせて頂いたのは私が知って来た幕末に関する様々な人物の中で一際 不器用さが目立っていたからです。 諸事は皆様承知でしょうが、幾度も訪れた死に際に黄泉への切符を取り損ない、命全うし尽きる時の辞世の句は余りにも飾りもなく、叫びのようで…。自分と似ている所を感じます。

 これからも様々な事を調べ、知識とし皆様と切磋琢磨させて頂けたらと思っています。
 総裁、副長、皆様末永く宜しくお願いいたします。

20 返信 ハンドルネームの自己紹介をさせて頂きます。 下都賀郡、林忠崇・中山 23 Apr (Sun) 11:54
adsl219122106123.ucatv.ne.jp
私のハンドルネーム林忠崇(ただたか)は、1万石足らずの請西(じょうさい)藩主でした。
彼の生き様を語る代名詞『戊辰戦争での唯一人の脱藩大名』と激しい辞世の句『真心の あるかなきかは 屠り出す 腹の血潮の 色
にこそ知れ』等 彼の『真っ直ぐな激しさ』に魅かれ、選ばせて頂きました。

彼の晩年の恵まれなさは、新撰組と通ずるものを感じます。

あらためまして、今後とも宜しくお願い致します。


18 返信 よろしくお願いします! 藤堂平助 23 Apr (Sun) 04:08
221-186-221-194.ip1.george24.com
僭越ながら自己紹介させていただきます。
研究会の皆さん、こんにちは。私は地元のもと藩校で小1から剣道を学び歴史が好きになり今に至ります。今年大学に入学し居合道をはじめました。
私がなぜ新選組、藤堂平助をHNとして選んだのか・・新選組からも高台寺党からも大事に思われていたのと思えるからです。武士としてではなく人間として素敵な人だと思い、彼を選びました。私もそんな人になりたいです!
まだまだ勉強不足で知らないことも多いですが、星先生、副長、みなさん、よろしくお願いします!

19 返信 Re:こちらこそ よろしく 副長 土方 23 Apr (Sun) 10:51


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皆さんの入会を歓迎します。
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2006年4月24日(月) 29日までペリリュー島取材
25日早朝、郡山を出発、南太平洋の島、ペリリュー島へ取材に出かけ29日、帰国します。

クックス20世紀によると、

ここの戦闘はすごいものがあった、

アメリカ軍、ペリリュー島上陸1944/09/15

玉砕続きの日本軍の中で、中川大佐と水戸連隊 大健闘。 

物量に勝るアメリカ軍と死闘を展開。
       
1943/02/01   ガダルカナル島撤退開始 (02/07 撤退完了)

1944/02/17   アメリカ機動部隊、トラック島空襲

1944/03/08   インパール作戦開始 (〜07/09)

1944/03/31   海軍乙事件 (連合艦隊司令長官古賀峯一「殉職」/04/05 発表)

1944/06/15   アメリカ軍、サイパン島上陸

1944/06/19   マリアナ沖海戦 (〜06/20)

1944/07/07   サイパン陥落 (守備隊玉砕)

1944/07/21   アメリカ軍、グアム島上陸 (08/10 守備隊玉砕)

1944/07/24   アメリカ軍、テニヤン島上陸 (08/03 守備隊玉砕)

1944/09/15   アメリカ軍、ペリリュー島上陸

1944/10/12   台湾沖航空戦 (大本営、大戦果を発表)

1944/10/20   アメリカ軍、レイテ島(フィリピン)上陸

1944/10/24   レイテ沖海戦

1945/03/17   硫黄島守備隊玉砕

1945/04/01   沖縄戦開始 (アメリカ軍、沖縄本島上陸)

海軍はまだ率直に戦況の非を悟っていったが、

陸軍は一個師団対四十三個師団のサイパンの作戦にも、

なお望みを繋いで勝利を期待していた。

そして太平洋上至るところで玉砕に次ぐ玉砕を続けた。

その中で一きわ勇戦奮闘して、米軍の心胆を寒からしめ、

世界戦史に「驚嘆」の賛辞を残したのが、

昭和十九年九月十五日米軍が上陸したペリリュー島の守備隊中川州男大佐

(戦死後二階級特進、中将となる)の歩兵第二連隊(水戸)の戦闘であった。

幸い米軍の上陸までに、短いとはいえ四ヶ月の準備期間があった。

そのため数線の陣地を孤島の中に準備し、

第二線陣地には厚さ二・五メートルのセメントの掩蓋を作って大砲や機関砲を入れ、

水際での早まった突撃はやめて、徹底した奥行の深い戦法で、

米軍が奥に入ってくれば入るほど損害が多くなる戦闘を行った。

その結果、九月十五日以降、十一月二十四日の中川州男大佐の自決に至るまでの

二ヶ月以上を一個連隊を基幹とする部隊(約五千名)で、

米軍二個師団と押しつ押されつの戦闘を繰り返して、

文字通り米軍に悲鳴をあげさせただけでなく、

山口永少尉以下三十四名は、連隊があらかじめ作った最後の砦である

地下壕や洞窟を利用して、

ゲリラ戦に転じて昭和二十二年四月二十一日まで戦闘を続けていたのである。

堀栄三 「大本営参謀の情報戦記」  P.143

参考「クリック20世紀」

これを現地で取材、

戦記を書くつもりです。
△top
2006年4月23日(日) 久しぶりに晴れだが、しかし
昨夜、八重洲ブックセンターの店長や郡山自由大学の講師の方々と、

遅くまで「だいこんの花」で歓談した。

楽しい夕べだった。

今日の自由大学の講座は私が担当である。

演題は敗者の維新史。

私が世に出るキッカケになった本のタイトルである。

その準備もあって、早めに仕事場にはいった。

お茶を沸かし、白雪が残る安達太良山を見つめ、

新聞を読んだ。

久しぶりに晴天である。しかし、どこか心は晴れない。

高校生は中学生を殺害し、竹島は衝突は回避され、ネパールでは警官隊は発砲し、

市民が死んだ。

それぞれ何も関連がないように見えるが、

高校生の殺人と竹島は関連があるように思えて仕方がなかった。

日本の現状を象徴する出来事だったからである。

新聞は毎日、毎日、殺人事件を報道している。

道徳などどこかに吹きとんで、殺伐たる日々である。

人を殺したらどうなるのか、

もっと家庭や学校で教え込むべきなのだ、

竹島は一体、なんなのか、

日本の領土だというのに、実際は韓国の警備隊が占領している。

これを放置してきた日本という国、

拉致をみても、みぬ振りをしてきた日本と同じ構図である。

国家不在の日本、だから次々に問題が起こるのだ、

明治維新から140年、太平洋戦争から60年、

抜本的変革が必要な時代になりつつある。

そんな気がして仕方がない。

今日の講座では、そんなことも話そうと思う。
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2006年4月22日(土) バルトの楽園」先行上映
6月公開予定の映画「バルトの楽園」の先行上映が、5月10日に、

会津若松と郡山で開催される。

映画「バルトの楽園」は、会津で映画ロケも行われた、

第一次世界大戦当時の実話をもとに製作された超大作映画。

主人公の松江豊寿は会津若松の出身で、己の武士道を貫いた。

松江は、大戦で捕虜となったドイツ人に対しても、対等に接して交流を深め、

最後には日本で初めて第九の演奏が行われた。

「バルトの楽園」は、6月18日から全国一斉公開されるが、

会津若松と郡山で先行上映される。

■日時
5月10日(水)

会津会場:會津風雅堂 18:00 開演
郡山会場:郡山市民文化センター 18:30 開演
主催:「バルトの楽園」会津支援協議会 会津若松市

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私の新書
「松江豊寿と会津武士道」
 板東俘虜収容所物語ー
は5月下旬発売!
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2006年4月21日(金) 休載に問い合わせ殺到
どうしたんですか。

迷惑メールですか。

たちのわるい荒らしやがいますからね。

やめないで下さい。質問ができなくなります。

さびしいですよ、

先生、頑張ってください。

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たくさんメールがはいってきた。

ありがたいなあ、

つくずくそう思った。

いま原稿を3本から4本抱えており、

加えて25日からプレリュー島取材、

なかなか対応しにくい現実がある。

ちょっと待ってください。

その間は戊辰戦争研究会に投稿をお願いしたい。

いずれどがんと再開します。

ご心配なく。

さて今日は

「松江豊寿と会津武士道」

の再校です。
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2006年4月20日(木) そうなんです。風邪が治らないのです。
西郷頼母
こんばんわ。総裁、お体の具合は如何でしょうか?
お風邪の中、水戸への遠出は難儀でしたね。
ゆっくり養生なさって下さい。
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西郷さん、ありがとうございます。

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皆様へのお知らせ。

読者の声、メール通信は

戊辰戦争研究会のホームページの方に移行します。

長い間、ありがとうございました。

おりをみてまた復活することもあると思います。

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25日からプレリュー島取材のため

その準備でてんてこ舞いです。

夕方、補足します。

ところが出版社の方が見えたため、これから出かけます。

今日はまとまりがなく恐縮です。
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2006年4月19日(水) 今日はNHKの旅で、水戸に行ってきました。
水戸紀行はいずれまとめて書きます。

非常に疲れてしまったので、

一言も明日に延期です。

すみません。
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2006年4月18日(火) 会津藩斗南へ、八戸で第4位
デ-リー東北掲載、八戸市・伊吉書院西店調べ、4月2−8日

1、国家の品格、藤原正彦、新潮社

2、まっすぐに、青木あざみ、竹書房

3、霊界散歩、大川隆法、幸福の科学

4、会津藩斗南へ、星亮一、三修社

5、病気にならない生きかた、新谷弘、サンマーク出版

6、世界で一番面白い地図帖、青春出版社

7、希望の星、大川隆法、幸福の科学

8、あれもうふふ、これもうふふ、伊奈かっぺい、草思社

9、裏ワザ、日本テレビ

10、食品の裏側、安部司、東洋経済新報社


これはすごい、

青森県の皆さん、

ありがとうございます。
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2006年4月17日(月) 自費出版潜む危うさ
今朝の河北新報に東京の自費出版の会社、碧天舎の倒産が大きく報道されていた。

ここの特徴は共創出版という仕組みである。

著者費用負担で、出版社の広報力、書店流通機構などの付加価値を利用してもらい、

書店流通本として出版させるといううたい文句で客を集めた。

それがまた巧妙だった。

定期的に十数種類のコンテストを行い、

「あなたはあと一歩です」

といい、ついては本にする場合は、これこれの費用負担をしてくださいといって、

払わせていたらしい。

入賞した場合も同じだった。ある賞は賞金10万円だった。ただし、

本にする場合は、本来なら150万円だが、100万でいいですというような

商法らしかった。10万円はおとりだった。数字は不確かだが、これは

近い筋からの話である。

この問題は12日、読売新聞も報じていた。

それによると、神奈川県内の女性(46)は

今年2月、同社から30万円の割引を持ちかけられ、

120万円で乳がんの闘病記を出版する契約を取り交わした。

うち約40万円を支払っている。女性は「経営が苦しいから、

必死でお金を集めていたのではないか」と不信を募らせる。

 横須賀市の男性(74)は、太平洋戦争中にフィリピンで従軍した日本人兵士の証言を

7年にわたり集め、実話を題材にした小説を今月20日に出版するはずだった。

その直前の倒産に、「貴重な証言が形にならず、取材相手を裏切ることになった」

と憤まんやる方ない。支払った約130万円も戻ってきていない。

 近年、自費出版の作品数が増え、

中にはベストセラーとなってテレビドラマ化されるなど話題作も出ている。

団塊世代の大量退職を控え、出版界ではブームに拍車がかかることを期待する向きも

あったが、別の自費出版社の幹部は「自費出版に慎重になる人も多いのでは」と

不安を口にしている。

私は何人もの人から自費出版の相談を受けてきた。

基本的に賛成はしなかった。

自費出版の本を買う人ももちろんいるが、それは

はっきりいえば、親戚知人に限られる。例外はあるだろう。

そこからデビューした人も知っている。でもまれなケースなのだ。

専門的なものは別だが、普通の本はそう売れるものではない。

だから回収など度外視して出すのが自費出版なのだ。

そう考えないと危ない世界である。

私が薦めるのは大手出版社、新聞社の自費出版である。

仙台、福島、秋田など地方には良心的な会社もある。

よく話しあって決めることだが、書店流通などあまり考えずに、

こつこつ自分で売る、あるいは親戚知人にで配る、

その程度にとどめた方が無難である。

それと今回の事件は別である。

金を振り込んだ人には、絶対返済すべきである。

文章を書く人間として、絶対に許せないことだ。
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2006年4月16日(日) hongming漫筆
 「会津戦争全史」 【星亮一】
 講談社メチエ。2005.10.10。第1刷

 この著者の本は何冊か読んだことがある。

 いずれも、戊辰戦争を敗者側から描いている。

 勝った方にしてみれば輝かしい歴史なのかもしれないが、敗者にしてみれば、

いいがかりをつけられ戦争に追い込まれた上、苦汁をなめさせられた記憶なのである。

 昨年のNHK大河ドラマ『新選組!』を受けて書かれたものらしく、

「はじめに」で『新選組!』の名を出している。

 まず、会津を戦場としたあの戦いをなんと呼ぶべきか。
 
「明治新政府軍隊旧幕府軍の戦い」というのは誤りであるという。(p5)

 会津軍は「旧幕府軍」ではないし、

そのときはまだ慶応年間で「明治政府」など存在していなかったのだから、

明治新政府軍であるわけがない。いわれてみればまさにその通り。
 
本書では「薩長連合軍対会津軍の戦い」としている。

 手に入る限りの史料にあたり、新史料も取り入れつつ書いている。

長い時を経て再び人目に触れる史料もあるのだ。

 梶原平馬にちいてはよくわからないと述べている(p77)。

おそらく客観的な史料がない、ということなのだろう。

 この人のことは、曾孫が小説「会津藩最後の主席家老」を著しており、

事跡のあらましを知ることができる。

 意外だったが、列藩同盟はアメリカの南北戦争を研究し、モデルとしていたのだそうだ。(p90)

 戦争に残酷な話はつきものである。

 この本には、珍しく、人肉食のことがでてくる。

倒した敵の肉を食うのである。英数崇拝の迷信からだ(p161)というが、

薩摩あたりの風習だろうか。

 会津が物量において劣っていたのは言うまでもない。

しかし、敗因はそれだけではない。

 鳥羽伏見での戦いでは、将軍慶喜がもう少しまともな人間であったなら勝機はあった。

 白河まで攻めてこられた時も、仙台などが、

直接江戸に重臣を送って和平工作を行ったならば、もっと違う展開になっていただろう。

 会津藩では、実力よりも門閥がものを言う風潮があり、それも敗因の一つ。

 著者は、容保が優柔不断だったのも批判している。

 会津の降伏によって戦争は終わったが、それは新たな苦難の始まりでもあった。
 
明治新政府は会津人を「会津降伏人」と呼んだそうだ。

 そして長州主導で会津への処罰が決まる。

 言ってみれば、戦勝国が敗戦国を一方的に裁いたのである。
 
東京裁判を否定する人は、明治政府を批判しなくてはならない。

 斗南での苦労などは「ある明治人の記録」などでも知ることができる。

 もし、東西の各藩がむやみに敵対することなく

平和のうちに新政府が誕生していたなら、と著者は思いをはせる。

 そして、そのことが、著者の目を戊辰戦争に向けさせる。

 あとがきから引用しておく。


(ここから)
 こうしてできた薩長藩閥政権が歩んだ道は、武力によるアジアへの侵攻だった。

東西連合政権であったならば、明治以降の日本は他の民族にもっと配慮した

ハト派の政治が行われたに違いない。
 
明治維新はこうした側面から再検証しなければならないと私は考えている。
(ここまで)

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多くの方にご批評をいただき感謝感激です。
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2006年4月15日(土) 福島民報ベスト10
会津若松市・宝文館調べ

1、新谷弘実、病気にならない生きかた、サンマーク出版

2、山田真哉、さおだけ屋はなぜつぶれないのか、光文社

3、神坂冬子、戦争を知らない人のための靖国問題、文迎春秋

4、NHK時代劇の世界、NHK

5、星亮一、会津藩斗南へ、三修社

6、愛敬浩二、改憲問題、筑摩書房

7、小泉義之、病のい哲学、筑摩書房

8、栗本薫、流れ行く雲、早川書房

9、深見東州、磐梯、橘出版

10、ダン・ブラウン、ダビンチ・コード、角川書店


会津藩斗南へ

5位にアップした。
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2006年4月14日(金) 一関の文化新たに発信 文学の蔵」22日オープン
 岩手県一関市ゆかりの作家12人を顕彰する「いちのせき文学の蔵」が22日、

同市田村町の「世嬉の一酒の民俗文化博物館」にオープンする。

市民が17年間続けてきた設立運動が実を結んだ“市民立”の文学館。

関係者たちは「一関の文化の新しい発信地にしたい」と意気込んでいる。

 かつて酒の仕込みに利用してきた蔵の一角に開設。広さは30平方メートルで、

チャコールグレーの壁に、スポットライトを当てるなど、

文化の薫りが漂う空間になっている。

 紹介するのは、家庭教師として半月ほど一関に滞在した島崎藤村や、

中学時代に半年を過ごした井上ひさしさん、移り住んだ直後に亡くなった

川武大(阿佐田哲也)さんの3人と、三好京三さん、及川和男さん、中津文彦さんら

人の一関一高出身者。

 作家ごとのコーナーには、肖像写真や一関とのかかわりを記したパネル、

生原稿、手紙などを並べる。展示品は所蔵分も含めて1000点に上る。

 「文学の蔵」建設を目指す運動が始まったのは1989年。

明治時代初期の土蔵が都市計画事業で取り壊されたのをきっかけに、

地元の市民や作家が設立委員会(三好京三会長)をつくった。

 委員会は「公設民営」方式を目指し、市に建設を働きかけ、

資料収集に着手。一方で井上ひさしさんの作文教室や本の出版、

市民からの募金を募って自己資金も積み上げてきた。しかし

公設」の見通しが立たないため、自力で蔵を借りる「民設民営」

でスタートさせることになった。

 今後は作家12人の作品の朗読会や自費出版の講習会なども開催。

市民が気軽に文学に親しめる拠点にしていく方針だ。

 12人の作家の1人で、委員会副会長でもある及川和男さん(72)=一関市=は

7年の運動を経た開館に「感慨深いが、まだ道半ば。

公設民営の夢は追い続けていきたい」と話している。

(河北新報) - 4月10日7時5分更新

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という記事が河北新報に載った。

この12人の作家に中に私もはいっているのだ。

以下は文学の蔵のホームページ

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一関は多くの文学者を輩出している。一関一高(旧制一関中学校)出身者がその中心で、

ノンフィクション・児童文学作家の及川和男さん、直木賞作家・三好京三さん、

SF作家・光P龍さん、人情短編小説の内海驤カさん、江戸川乱歩賞作家・中津文彦さん、

動物と自然保護をテーマにした作品の遠藤公男さん、

明治維新と東北をテーマに書き続けている星亮一さんたちだ。

 読売文学賞の『狂人日記』などの純文学作品のほか

『麻雀放浪記』シリーズでも知られる色川武大(別名・阿佐田哲也)さんも

一関ゆかりの作家。ジャズ喫茶「ベーシー」にたびたび訪れて一関に惚れ込み、

一関に永住を決意して転居したが、一ヶ月後に病死。

色川夫人のご厚意や井上ひさしさんの働きかけで遺品約7000点が一関市に寄贈された。

 小説、芝居、評論にと幅広い活躍をしている作家の井上ひさしさんは、

昭和24年の半年間を世嬉の一酒造の土蔵の一角に住み、

一関中学校の校友会誌に詩を書いたり、

一時映画館だった蔵できっぷのもぎりを手伝いながら映画を見たそうです。

 井上さんも滞在した世嬉の一酒造の敷地は、

明治の大富豪熊文の跡地。熊文には明治の文学者・幸田露伴や北村透谷が

しばしば滞在した。若き日の島ア藤村が北村透谷の紹介で、

熊文の長男・大三郎の英語の家庭教師として半月ほど滞在している。

藤村は、熊文で過ごしたときのことを、小説『春』と『眼鏡』に書いている。

世嬉の一酒造の「酒の民俗文化博物館」近くには藤村の文学碑も建てられている。

 かって文人たちが散策した小径を歩くことができるまち一関。

このまちに「文学の蔵」を建設しようと、三好京三さん、及川和男さんたちを中心に

市民運動が始まり、文学を切口にした文化の発信地・一関にしようとしている。

そして、井上ひさしさんはこの運動の力強い応援団長だ。

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かくて今月オープンの運びとなった。

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2006年4月13日(木) 八戸からの通信
星亮一様


いつもながらのご健筆に敬意を表しています。
 
八戸の恩人である神田重雄を取上げていただきましたので、

みんなでよろこんでいます。先週、神田が生まれたところに住んでいる方が自費で

「神田重雄 生誕の地」という碑を建立されました。

手作りですが、りっぱなものです。

朝日が取材しました。神田重雄の姪御さんの「平尾てい子」さん83歳の方も

見えられました。彼女は古い写真をお持ちになり、

在りし日をしのび涙を流されました。

神田の俳句「細い灯も希望に充てる夜学かな」も掲示しています。
 
建立者は岩館さんという方で、相談すると時間がかかる公的機関を相手にしないで、

自ら「した」というところです。二人の方が応援しました。

この地は上ノ山」で八戸測候所への途中にあります。
 
このような気持ちが湧き出してくるところが神田の生地の地区でしょうか。

わたしはほとほと感心しました。また、おでかけください。

このあたりは会津系の明治のふるさとの一つです。
                   
 御礼まで。  

      八戸市 本田敏雄

本田さんは八戸高専の先生である。

今回の「会津藩斗南へ」

で大変お世話になった。

神田重雄は八戸市の2代市長、

会津藩士の2世である。

八戸の発展に大いに貢献した。
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2006年4月12日(水) 山川健次郎シンポジューム、11月23日に決定
星先生

本日、九工大の下村学長より連絡があり、シンポジウムの開催日が11月23日に決まったとのことです。改めて、九工大より星先生の方へご連絡があると思いますが、取り急ぎご連絡いたします。

山田 直

本日、ロンドンの山田さんからメールが入った。

第2回山川健次郎シンポジューム、九州工大で開催である。

ぜひ、皆さんも九州工大においでをいただきたい。

ちょうど、山川健次郎を主人公にした

「ならぬものはならぬ」
 ー会津武士道が日本を救うー

を書いていたので、本当に嬉しい。

九州で山川健次郎と会津武士道を大いに論じたい。
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2006年4月11日(火) バルトの楽園
会津出身の松江豊寿を描いた

バルトの楽園が6月に上映される。

私も時期を同じくして

「松江豊寿と会津武士道」
   ー板東俘虜収容所物語ー

をベスト新書から出版する。

実際と映画はストーリィが異なる。

ドラマなので、それは当然であろう。


物語は第一次世界大戦中の徳島県鳴門市の板東俘虜収容所を舞台にはじまる。

、第一次世界大戦で日本軍は3万人の大軍を送り込み、

ドイツの極東根拠地、中国・青島(チンタオ)を攻略した。

この戦いに敗れたドイツ兵4700人は捕虜として日本に送還された。、


ドイツ人捕虜達は、環境が劣悪な久留米の収容所で過酷な2年の時を過ごす。

その後、全国12ヵ所にあった収容所が6ヵ所に統合され、

捕虜達は渦潮の海を越え、徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所に移送された。

松江は俘虜たちを人間として扱った。硬く心を閉ざしていた捕虜達は、

所員や地元民の暖かい心にほだされ、

徐々に心を開く様になる。パンを焼く事も、新聞を印刷する事も、

楽器を演奏する事も、そしてビールを飲む事さえ許された収容所生活の中で

、捕達は生きる喜びをみいだしてゆく。

ここは捕虜にとって、まさに「楽園」であった。

松江所長の放任的な捕虜の扱いが軍上層部に糾弾され、

陸軍省から予算を削減される。

削減された経費の補充に役立て危機を逃れる。

松江は自力を目ざした。

そして、休戦条約が締結され、第一次世界犬戦が集結する。

敗戦国となり意気消沈するドイツ人達…。


開放され、自国に戻る事を許されたドイツ人達は、松江所長や地元民に対する

語り尽くせぬ感謝の思いを込めて日本で初めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する。

歓声と拍手の嵐が、奇跡的なこの美しい人間讃歌が、

祖国に届かんばかりに板東の大空に響き渡る。

という映画のストーリィである。

軍主人公・松江豊寿を演じるのは、今や国民的スターとなった松平健。

収容所所員に阿部寛、松江の妻・歌子に高島礼子が扮する他、

クライマックスで、第九が演奏される。歓声と拍手の嵐が、

奇跡的なこの美しい人間讃歌が、

祖国に届かんばかりに板東の大空に響き渡る。

なかなかよくできている。

ぜひみていただきたい。
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2006年4月10日(月) ペリリュー島玉砕、アサヒネットより
25日から訪問するペリリュー島の勉強をはじめた。

インターネットにこうあった。 

水戸歩兵第二聯隊

ペリリュー島を守備していた日本軍は、水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊

を主力とした地区隊(隊長・中川州男大佐)一万二千名。

ペリリュー島守備隊は完全に補給も途絶え、食糧もない中、

七十三日間にも亘る死闘を続けた。その最後を迎えた時、

中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた村井権治郎少将、

飯田義栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って割腹自決。

三人のあっぱれな最期に続けとばかり、根本甲子郎大尉以下

最後の決死隊が組織された時、残る兵員は傷だらけの五十五名のみ。

軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文

サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、二十四日の十六時。

このたった六文字の電文こそ、ペリリュー島守備隊全員が桜花のごとく

散ったことを意味するもので、一万人有余名の兵の死をもって謳いあげた

世界で最も短かく簡潔な詩と言われている。

中川州男陸軍大佐

米海兵隊公刊戦史

日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、二十四日の夜から

二十七日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕

 「ペ島の桜を讃える歌」

昭和五十六年一月、今でも大の親日国であるパラオ共和国が独立した際、

ペリリュー島守備隊を讃える歌もそれと共に作られた。

作詩者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオの両島民。



激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた

強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる


小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ

山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない


将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと

父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し


日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る

ペ島(じま)の”桜"は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は

永久(とこしえ)に


今守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡

古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る


平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に

教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る


どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは

椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる


戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく

必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを

 

C・W・ニミッツ

米太平洋艦隊司令長官、ニミッツ海軍元帥は自著『太平洋海戦史』の中で、

ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいる。

「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における

他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉

を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、

死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、

この島を占領したことは、今もって疑問である」

ニミッツは、この玉砕戦に感銘して詩を作っている。

平成 6年 9月13日、パラオ共和国は日米両国を招いて記念式典を開催。

ペリリュー神社の境内にニミッツの詩碑が建立された。

碑文

諸国から訪れる旅人達よ この島を守るために日本軍人が

いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ

 

靖國神社

東京都千代田区

照集団パラオ会献木「パラオ本島、ペリリュー島、アンガウル島 戦没英霊に捧ぐ」

 

茨城縣護國神社

茨城県水戸市



ペリリュー守備部隊鎮魂碑

碑文

明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して、赫々たる武勲に輝く

水戸歩兵第二連隊は、大東亜戦争酣の昭和十九年三月、北満の守りから、

中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、連隊長中川州男大佐は、

一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し、

敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共に、全島民をパラオ本島に避難させた。

九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、

想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇

群を迎撃して大打撃を与えた。

爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返

しつつ、持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、

軍旗を奉焼し訣別電報

「サクラ、サクラ」を打電して自決、

残る将兵は遊激戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。

守備部隊の武勲は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、

陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告さ

れ、世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。

ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、

五十年祭を期し、有志相図り、この碑を建立する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
だんだん興奮してきた。

玉砕、ペリリュー島戦記

に挑戦!

頑張ろう。 
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2006年4月9日(日) 福島民報、福島民友、朝日新聞掲載、最新ベストセラー
郡山市、東北書店調べ

1、藤原正彦、国家の品格、新潮社

2、芽田砂胡 大鷹の誓い、中央公論新社

3、手島龍一、ウルトイラ・ダラー、新潮社

4、福井晴敏、opローダスト、文芸春秋

5、青木あざみ、まっすぐに、竹書房

6、綾辻行人、びっくり館の殺人、講談社

7、宮部みゆき、ドリームバスター、徳間書店

8、劇団ひとり、陰日向に咲く、幻冬舎

9、星亮一、会津藩斗南へ、三修社

10、桂望実、県庁の星

星の「会津藩斗南へ」は9位でした。

健闘していると思います。
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2006年4月8日(土) NHKラジオ深夜便「心の時代」はすごい
ラジオ深夜便にでて、「皆さんに聞いてもらえたのかなあ」と思っていたら、

電話、はがき、メールをたくさん、いただき感動した。

「何気なく起きてラジオのスイッチを入れたら、どこかで聞いた声がする。

会津の話だ、そしたら、星さんではないか」

と電話を掛けてこられたのは、朝日新聞OBの方だった。

「のみすぎたときは、あの時間によくおきるんだ、そしたら星さんじゃないか」

外交官OBの方からの葉書だった。

東京周辺在住の会津高校のOBの方が、宣伝をしてくださり、何人かの方が、

聞いてくれた。

「会津出身でよかった、ますます誇りが持てた」

と、その方はおっしゃった。

私は薩摩、長州、会津の三藩は、幕末日本の雄藩である。

勝敗はときの運、敗れたからといって何も恥じることはない。

禁門の変では勝っているではないか。列藩同盟だってすごいものだ。

堂々と胸を張るべしといい続けてきた。

会津という強い砦があリ、それに戦いを挑んで、長州は強くなった。

そう思えば怨念の歴史から脱却できる。

私はそう説いてきた。

敗れた瞬間から会津の人々の頑張りも始まった。

青森県三沢地方の開拓を見れば、一目りょう然である。

いま会津武士道

「ならぬものはならぬ」

を書いている、15日までには書き終えたいと思っている。
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2006年4月7日(金) <民主代表選>小沢氏を選出 119対72で菅氏を破る
マスコミの予想通リだった。

小沢さんという人は私は直接、話したことはない。

たが小沢さんが自民党の幹事長時代、私はテレビ局の報道制作局長をしていた。

全国報道局長会というのが、系列局ごとににあり、

一度、小沢さんがゲストとして招かれ、話を聞いたことがあった。

彼の全盛時代である。

飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

小沢さんは岩手県水沢の生まれである。

高野長英の生地で、斎藤実、後藤新平の二人の政治家を出している。

斎藤は海軍大臣、内閣総理大臣をつとめ、2・26事件のとき

反乱軍兵士によって射殺された。

岩手県からは、原敬をはじめ多くの総理大臣を輩出し、

たしか長州の山口県についで二番目である。

小沢一郎が、郷里の大先輩原敬のあとをついで総理大臣になるのかどうかも

関心事のひとつである。

はたして、どうだろうか。

注目してゆきたい。
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2006年4月6日(木) 早朝のラジオ対談 「師の恩に報いるために」−私と会津戦争
今朝は随分、早起きしてしまった。

朝4時からNHKラジオで自分の放送を聞き、それからシャワーを浴び、新聞を読み、

ストレッチ体操をして、9時半に仕事場についた。

なぜ私は会津戦争に取り組むことになったのか。

今朝、ラジオでそのことをしゃべった。

二十代の半ばのころ、私は新聞記者として会津若松に駐在しており、

それがそもそものスタートだった。

当時、会津若松市では、「会津若松史」の編纂事業を行なっており、

恩師である東北大学の豊田武先生が編纂の責任者を務められていた。

そうしたことで私も編纂事業に加えていただき、

書いたのが、会津戦争だった。

豊田先生は中世史を専門とされていたので、私は、

東京大学の小西四郎先生に私淑して、文献を読み、幕末維新と会津藩を

考えた。薩摩、長州の文献も可能な限り、読んだ。

あれから40年である。

一時期、中断したこともあったが、一貫して会津藩にかかわることができたのは

あのときの豊田先生のおかげだった。

対談 「師の恩に報いるために」−私と会津戦争


をラジオでしゃべった。

明日7日午前4時、第二回の放送である。

また起きて聞くことになる。

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戊辰戦争研究会、の報告

ホームページ、一段とすばらしくなった。

土方副長の努力はすばらしい。

研究論文や歴史紀行のコーナーもある。

投稿の受け付けはこれからだが、楽しみである。

投稿される方は、自分が誰であるか、きちんと説明をし、入会の手続を

経て、参加していただく規定になっている。

会員間の中傷は禁止、それも全体での議決事項である。

われわれは伸びやかで楽しい会をめざしている。

読者の声、メール通信も

専門的なことは、そちらの方に回ってもらう。

ただし審査あり。ならぬものはならぬ である。
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2006年4月5日(水) 小学校の同級生、イワオちゃんの手紙
私は宮城県丸森町小斎小学校を卒業した。

父親が戦争に行き、仙台の上杉山通小学校から転校したのである。

イワオちゃんは、その時の同級生であった。小斎中学校にも2年まで在籍した。

ところで、イワオちゃんの手紙とはなにか。ここに転載する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー      星亮一君のNHKラジオ心の時代放送についてお知らせ

 野山に春の気配が感じられるようになってきました。皆様にはますます

お元気のこととお慶び申し上げます。
 
星君の会津藩を中心とする戊辰戦争の歴史小説は、

いよいよ磨きがかけられ大きな反響を呼んでおります。

中学校時代の恩師志間先生も高く評価されています。

星君は東北大学時代の恩師から、敗者の立場からの戊辰戦争をと声を掛けられ、

勤務のかたわら40年余作家の道を進んでこられました。

 河北新報でもその著作が数多く紹介されており、愛読者も多いようです。

古希同級会後もますます筆はさえ、「仙台戊辰戦史」(三修社)

「会津戦争全史」(講談社)満鉄総裁「後藤新平伝」(平凡社)

などが紹介されています。

 このたび、そうした活躍が認められ、NHKラジオ「心の時代」で

二日間にわたって放送されます。ぜひお聞きくださるようご案内申し上げます。

知人にもご紹介いただければ幸いです。

     平成18年4月2日
                      佐藤岩雄



NHK「心の時代」

4月6日、7日 朝4時のニュースのあと6分ごろから45分放送。

対談 「師の恩に報いるために」−私と会津戦争

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そう、NHKラジオに明日早朝、出演するのである。

イワオちゃんは、同級生にそれを知らせてくれたのである。

ありがたいことだ。

イワオちゃんは丸森町の収入役を退職し、目下は

「エゴマ」別名「じゅうねん」や「とろろ芋」の研究に没頭し、

6月10、11日には丸森町で、「全国エゴマサミット」を開く。

問い合わせは丸森町農業創造センター 電話0224−72−3028

大変なイベントのようである。
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2006年4月4日(火) 怖い、怖い、
昨今は怖いことが多すぎる。

マンションの屋上から小学生を突き落とした男は、

一体、何者なのか。

これは恐怖である。

その原因について、多くの方が解説している。毎日新聞に、

関西学院大教授の野田正彰氏(精神病理学)がこう述べていた。


容疑者は性格的に弱く、人生に消極的で、その場限りでこれまで生きてきたのではないか。

孤独感や絶望感を抱きながら、職を転々とし、最近リストラされるなど、

何をやってもうまくいかず、社会に対する強い復しゅう心を秘めていた可能性が高い。

人を殺すことで、自分の人生を終わらせることができると思い込んだのだろう。

どうもリストラではなったらしいが、

なぜ、何で、

さっぱりわからない。

こうなったら、防衛するしかないのかもしれない。

防犯カメラを増やし、かばんには、防犯グッズをつめこみ、

それがエスカレートすると、攻撃の道具を持つようになってしまうかもしれない。

こうなったらアメリカのように犯罪国家になってしまう。

にもかかわらず政治は貧困である。

民主党もお粗末だし、自民党も古手に悪い奴がいる。

どうしたらいいのだろうか。

本当に憂鬱である。
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2006年4月3日(月) 郡山自由大学、春の教養講座
日程は下記の通リ

4月20日、「下山事件の真相、その後」柴田哲孝、ノンフイクションライター

4月21日、「私のまちづくり」渋川恵男、会津若松商工会議所副会頭

4月22日、「きらり!、ハート・ライフ」遠藤教子、太田西ノ内病院循環器科医師

4月23日、「敗者の維新史」星亮一、作家

4月24日、「ハーブのある暮らし」滝田勉、ハーブ研究家

4月25日、「歴史に魅せられて」庄司雅子、福島ふれあい歴史館

4月26日、「漢字に秘められた物語」円満寺二郎、早稲田大講師

郡山市うすいデパート10階バンケットルームが会場、午後2時開会

対象は一般市民、誰でも受講できる。

問い合わせ

八重洲ブックセンター、郡山うすい店

024−927−1524
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2006年4月2日(日) 会津武士道とは
いま会津武士道を書いている。

国を愛し、家族を愛し、間違ったときは切腹する。

それが会津武士道だった。

日本は太平洋戦争に敗れ、アメリカによってすべてを解体させられた。

国よりも個人、国防は放棄、

親兄弟よりも小さなマイホーム、

社会主義が最高と知識人はマルクス主義を信奉した。

これにはアメリカも困り、下山事件、松川事件が起こった。

国家などどうでもいい、金さえ儲かればいい。耐震構造設計のごまかし、

ホリエモンも現われた。汚職、犯罪の多発、家庭の崩壊、末世に近い。

会津武士道の真髄を極めた人物は山川健次郎である。

白虎隊士として戊辰戦争を戦い、

のちに東大、京都大、九州大の総長、

明治専門学校の総裁、武蔵高校の校長を務めた。

フロックコートを着た乃木将軍と言われた。

明治以降、賊軍会津が生んだ最高の人物である。

山川が今日生きていれば、次のことを提唱したであろう。

1、国を愛する心の復活

2、教育制度の改革、中高一貫教育の大幅導入、寮制度の復活

3、国防意識の確立、

4、モラルの徹底

5、清貧の思想、

総理経験者は全員、晩年を教育に身をおくべし。高級官僚、あま下り禁止、

橋本元総理のように1億円の裏金を村岡さんになすりつけ、

自分は中国に行って、靖国参拝けしからんという中国の言い分を聞くなどは

言語道断、日本の恥じ。

健次郎は東大総長を退官後、中学生に英語を教え、時には寮に泊まり、

涙を浮かべて白虎隊を語った。

6、国際感覚を磨く、本人はアメリカの名門エール大学卒

7、科学技術を世界のトップに

8、アジアとの協調

9、若者よ勇気をもて

などなどである。

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ところで野球、

楽天はどうしたのだろうか。

野村さん、何とかしてください。

今日も負けてしまった。
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2006年4月1日(土) 朝日新聞福島、ベストセラー
本日掲載、会津若松・宝文館

1、建設業界への最終報告、倉見康一、中経出版

2、国家の品格、藤原正彦、新潮社

3、あなたが生まれてきた理由、高橋佳子、三宝出版

4、松江豊寿、横田新、歴史春秋社

5、会津藩斗南へ、星亮一、三修社

6、陰陽師、夢枕獏、文芸春秋

7、紅椿の谷、佐伯泰英、双葉社

8、蛍火の宿、佐伯泰英、双葉社

9、会津戦争全史、星亮一、講談社選書メチエ

10、第三の時効、横山秀夫、集英社

会津若松で私の「会津藩斗南へ」が5位、「会津戦争全史」が9位に入りました。

執筆の励みになります。

ありがとうございます。
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