星亮一 今日の一言

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2006年6月30日(金) 今日は北東文芸協会の総会
戊辰戦争研究会のほかに、北東文芸協会の会長という役も務めている。

こちらの方は、十数年の歴史がある。

郡山在住のもの書きの集まりである。

月1回集まり、お互いが講師になって文学論とか歴史論を話しあっている。

「会津の武田惣角」などの著書がある福島民報サロンの執筆者池月映さんや

義経を追って近々、モンゴルにでかける「ボルテ・チノ」真・義経記、の著者

七海コウゾウさんら多彩なメンバーである。

コウゾウは難しい漢字で、すぐには出てこない。

いま一番、張り切っている人物である。

わが会では北東文芸賞なるものを5年前から出しており、

これまで

作家、風野真知夫さん、福島県出身

作家 熊谷達也さん、宮城県在住

作家 北上秋彦さん、岩手県在住

作家、古川日出男さん、福島県出身

の4人に差し上げた。

読者が選ぶささやかな賞で、賞金は10万円、日本一、小さな賞である。

対象者は新潟を含めた東北の出身者か在住者である。

熊谷さん、古川さんは受賞後、メジャーな賞をいくつのとられた。

われわれに先見の明があったということだろうか、

総会なので、遅ればせながら今年度の活動方針を決め、

北東文芸賞の選考開始ということになる。

門戸は常に開放してるので、

どなたでも入会は大歓迎である。

ローカル線を追い求める画家の松本君、埼玉在住も会員である。


△top
2006年6月29日(木) 山川健次郎伝、4刷りに
本日、平凡社から「山川健次郎伝」4刷り決定の連絡があった。

単行本の増刷は久しぶり、本当に嬉しい。

私が伝記を書いた最初の人物は海軍軍人の山口多聞だった。

山口多聞のご子息のご協力をいただき、数多くの書簡を見せてもらって

執筆した。これは文庫だったので、手軽さもあって、12刷りにもなった。

山川健次郎伝、取材したのは、山口多聞よりも早かった。

テレビ局時代に健次郎のドキュメンタリー番組を作ったのが最初だった。

まだ三女の照子さんが健在で、健次郎の素顔を聞くことができた。

それをもとに2001年に産経新聞の東北版に連載し、

2003年に平凡社から出していただいたのが山川健次郎伝だった。

ある賞の最終候補にもなった。

山川健次郎を書いたことで、会津を書く星亮一が認知され、

以後、多くの本を書くことができた。

私にとって山川健次郎は恩人になった。

今度出す「会津武士道」も山川健次郎語録である。

山川健次郎伝を世に出してくださった産経新聞の牛久保さん、平凡社の土居さんに

改めて謝意を表する次第である。

いっそう努力し、これからも作品を書き続けて行きたい。
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2006年6月28日(水) 会津武士道の校正
今日は朝からねじり鉢巻である。

青春出版社の新書、「会津武士道」−ならぬことはならぬ

の初校である。30日、締め切り、明日送らないと、

手島編集長はおかんむりのはずである。

初校はいつもかなり直しが多い。

活字になって見ると、冗漫な表現、間違った言葉使い、いくつもの欠点が

見えてくる。それを削り落とすのである。

この削り方が足りないと、歯切れの悪い文章になる。

大胆に削る。これが大事である。

この本の主人公は白虎隊士から東大総長になった山川健次郎である。

健次郎の生き様こそ会津武士道であるというのが、この本の内容である。

健次郎の60代後半の人生は、圧巻である。

東大総長の退職者が中学生に英語を教え、熱心に人生、

いかに生きるべきかを説くのである。

報酬はもらわない。

3億円もためこんだ日銀総裁とはまったく違う人である。

自宅には何時も数人の書生をおいた、

会津の貧乏学生である、おかげで住まいもぼろぼろだった。

すべての面で清貧なくらしだった、

何時も国を思い、全国を行脚し愛国心をといた。

これこそ武士道の人であると私は書いた。

「ほう、そうか、ならぬことはならぬだな」

会津黄門の渡部恒三代議士が、この本の帯びに登場してくれることになった。

渡部さんとは40年來のお付き合いをいただいている。

私は福島県庁の県政記者クラブに所属していた駆け出しの時代に

渡部さんは颯爽と県会議員になって、現われた。

弁舌のさわやかさに、すっかりほれ込んだものだった。

最近はご無沙汰しており、先日、ひさしぶりに議員会館でお会いしたが、

新聞社、テレビ局、雑誌社の人が廊下で待っていた。

会津黄門の印籠をいただき、校正にも熱が入る今日、明日である。

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夕方、編集長からメールがはいった。


星先生
>
> ねじりはちまきで頑張ってくださっているようで
> 何よりです。
> こちらのほうは、写真の借用にあっちこっち連絡中です。
>
> ところで、ゲラですが、分量的にはちょうどいいので、
> 削るのはいいのですが、削ったら、その分増やしてください。
> カバーは全体を208ページのサイズで作ってしまいましたので。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ああ、やはり編集長は厳しい。
この調整が大変である。
編集長、微調整は写真でおねがいいたします。
>
△top
2006年6月27日(火) 暑いときはやっぱり昼寝だ
今日は夏の暑さである。

暑い、暑い、頭の回転が鈍く、ぼんやりしてくる。睡魔が襲ってくる。

そうなると昼寝をするしかない。

いつも机の下に潜りこんで、1時間ほど寝る。

なぜ机の下か。

地震対策である。

部屋の周囲にうずたかく本を積み上げているので、グラツとくると、本が落下する。

分厚い県史や市町村史もかなりあるので、頭に当たったら間違いなく怪我をする。

そこで机の下に潜りこむことにしている。

もうひとつは机の下しか空いていないという事情もある。

本、写真、資料、周囲にばらばらと散乱している。

机の下だけが空間になっている。

加えて机の下は暗いので、すぐ寝ることができる。

アットいう間に寝てしまう。毛布はないので野球の楽天の応援の時に使った

タオルケットをかけて寝る。

すいすいと寝てしまう。

起きると実に爽快である。

原稿がスムーズに書ける。昼寝の効用は大きい。
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2006年6月26日(月) アウトレンジ戦法
マリアナ沖海戦は、アメリカと日本の科学技術の差が明確に出た戦争だった。

飛行機には航続距離があった。

日本の飛行機の方が、遠くまで飛ぶことができた。機体が軽量だった。

これを応用すると、日本の飛行機は遠くの敵艦隊を叩くことができる。

マリアナ沖で、両国の艦隊が接近した。

索敵機からの報告だと、その距離は300カイリ、550キロあった。

アメリカの攻撃機は届かない距離である。

「よし」

と日本海軍は攻撃機を発進させた。

それをアウトレンジ戦法といった。

ところが米軍にはレーダーがあり、250キロの地点で、

日本軍の飛行機の機影を捕らえた。

即、戦闘機が飛び立ち、日本軍の攻撃機を上空で待ち伏せした。

爆弾を積んでいた日本の攻撃機は、たちまち餌食になり、撃墜された。

かろうじてそれを逃れ、敵空母に到達した攻撃機を待っていたのは

砲弾の嵐だった。

砲弾に信管がついており、飛行機に向って飛んでくるのである。

この二つの電子兵器に日本軍の飛行機は壊滅した。

損害は140機、完敗だった。

「マリアナ沖の七面鳥撃ち」

米軍はそういって快哉を叫んだ。

これほどの差が日本とアメリカにあった。

太平洋戦争は実に重苦しい。

日本とは何か、

日本人とは何か、

私はかなり深刻に考えている。
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2006年6月25日(日) 今日は日曜日
毎日、書くのは時として苦痛である。

休載も悪くはない。

そう思い、午前中、筆を折った。

ゆっくり、ゆっくり新聞を読んだ。

午後、マリアナ沖海戦をひもどいた。サイパン島を巡る攻防戦である。

以前、NHKテレビが太平洋戦争 日本の敗因を放送した。

その時、マリアナ沖海戦をとりあげた。

絶対国防圏サイパン、それを守る死闘だった。

どんなな戦いだったのか

それは明日、述べたい。
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2006年6月24日(土) 今日は郡山自由大学歴史講座
郡山自由大学は、年4回、一週間の連続講座を開いている。

1月、4月、7月、10月である。

これだと2、3、5、6、8、9、11、12の8ヶ月は空席になってしまう。

そこでこの8ヶ月を穴埋めするために、星亮一の歴史講座を開いている、

会場も変え、うすいデパートではなく、

郡山駅前のビッグアイの7階特別会議室を使っている。

6月の講座が今日である。

テーマは下北の魅力。

下北半島は実に豊な自然に恵まれている。大間のマグロは超有名だが、北限の猿も見る

ことができる。

霊峰恐れ山も名勝である。ここに行くと地獄、極楽の世界が目の前に現われる。

亡くなった肉親の霊を求めて恐山に来る人も多い。そういう人に何人も出会った。

温泉もある。恐れ山の中にある温泉は、いつでも自由に入れる。

たまらない雰囲気である。

そしてもうひとつ、大事なことがある。

会津藩の人々の暮らしの跡である。

柴五郎が暮らした落としの沢、開拓に当たった斗南ヶ岡、藩庁を置いた円通寺、

新潟から船が着いた安渡の港、会津フアンには欠かせないポイントである。

今日はパワーポイントを使い、映像で紹介する。

できれば9月に現地講座を開きたいと考えている。

ちょうどマグロ漁の季節である。本マグロを食べながら、下北の酒を味わうのも、

いいのではないか。

そう思っている。ご希望の方はメールをください。

日程決まり次第、ご連絡いたします。
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2006年6月23日(金) 日本はいま閉塞状態
またも少年の重苦しい事件が起こった。

いろいろのひずみやストレスが背景にあるのだろう。

サッカーも意外な大差で敗れ、自民党の総裁選もイメージが暗い。

でるのか、でないのか、実像が見えない福田さんに引きずられている感じがする。

この人の表情は、国民の方を向いてはいない。

自分だけ偉そうにふんぞり返っている印象が強い。

本当は違うのかもしれないが、あまりにも素っ気がない。

それだけで人間を評価するのは問題だが、もっと国民サイドに降りて来てほしい。

そう思えて仕方がない。

ここは日銀の福井総裁には辞めていただき、福田さんも自分の意志をはっきり表明し、

いきずまった社会を転換させなければならない。

社会の潤滑油である政界の水戸黄門、渡部恒三さんも早くに全国行脚にでかけ、

ユーモアあふれる演説で国民をほっとさせてもらいたい。

しかし情勢はすべてにわたって厳しい。

北朝鮮はテトボンの発射準備をすすめ、一緒の脅しだろうが、

アメリカには先制攻撃の声もある。

戦争も辞さずというわけだ。

中国もなにか不透明である。

日本はどこに行くのか。次期総理には明確にビジョンを示してほしい。

言論界にも新しいスターがほしい。

テレビの司会者も、みのもんたを除いては陳腐になりつつある。
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2006年6月22日(木) 南部鉄瓶
昨日、盛岡で原敬記念館を見たあと、本場盛岡南部鉄器「岩鋳」に立ち寄って

鉄瓶を一個を買い求めた。

ここには工場があり、盛んに鉄瓶を作っていた。

ずっしりと重く、結構値段は高いものだった。

その中から、お買い得品を見つけ、原敬の記念に買い求めた。

この鉄瓶でお湯を沸かし、お茶を飲みながら、原敬を考えようと思ったのである。

私の夢、それはいつの日か「原敬伝」書くことなのだ。

そのためには、精神を統一し、

日本近代史の中で東北最高の偉人、原敬に立ち向かう必要があった。

鉄瓶には使用上の注意書きがあった。

1、はじめて鉄瓶を使用するときは、鉄瓶の内部を一〜二回すすぎ、

何回かお湯を沸かして、 無色透明になれば飲めるようになる。

2、使用後一週間くらいになると、ところどころ赤い斑点が出てくる。

さらに二週間くらいたつと白い湯あかがみられるが、

これは鉄瓶独特の特性なので心配はない。

鉄瓶の内部は錆びにくくするため南部鉄瓶独特の錆止めがされている。

3、手入れは、乾いた布で拭くだけ。また、鉄瓶が熱いうちに濡れた布で表面を拭くと

独特の光沢がでてくる。

4、空らだきした場合、急に水をかけたり、中に水をいれたりすると

鉄瓶がわれる恐れがあるので、自然に冷やす。

5、お湯を沸かすときは、蓋をすこしずらす。

などだった。

 早速、三回ほどお湯を沸かしては捨て、四回目のお湯でお茶を入れた。

実にまろやかでおいしいお茶だった。

これから日々、私は原敬を思いながらお茶を飲むことになる。

参考までに「岩鋳」はフリーダイヤル0120−004471

電話019−635−2501

である。
△top
2006年6月21日(水) 今日は盛岡です。
原敬遺蹟めぐりで出かけます。

これは予定稿です。

帰ってから報告します。

午前7時バスで盛岡に向かいます
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2006年6月20日(火) 残酷な事件が多すぎる
私は新聞記者のあと、テレビ局で報道制作関係の現場の責任者を務めた。

新聞とテレビが、長い間、自分の職業だった。

だから新聞とテレビがない生活は考えられない。朝は新聞を読み、

夜はテレビを見る日々である。

原稿の執筆は昼やるので、夜はもっぱらテレビなのだ。

そこでいつも気になるのは、残酷な殺人事件である、それがあまりにも多い。

犯人には極刑で臨む必要があるのではないか、いつもそう思う。

山口県光市のアパートで1999年4月、会社員本村洋さん(30)の

妻子が殺害された事件は、いつも胸が痛んだ。

本村さんは、殺害された妻子の写真を胸に、いつもテレビの前で無念を語ってきた。

それを見るたびに、こんなことがあっていいのか、と私は思ってきた。

「男は腹を切る覚悟が必要だ」、

「白虎隊は腹を切った」

といったのは民主党の水戸黄門、会津の渡部恒三さんである。

これがどこに行っても凄い人気である。正義を求める世相と

関係があるのではなかろうか。

幸せに暮らしていた妻子を無残に殺害した以上、犯人は当然、

腹を切らねばならないと、私は思う。

最高裁第3小法廷は今日、無期懲役の2審広島高裁判決を破棄、

審理を同高裁に差し戻したという。

犯人は18歳になって1カ月しかたっておらず、内面の未熟さが顕著で、

更生可能性があると判断し、死刑を選択しなかったとされた裁判である。

しかし、今日の無期懲役破棄、差し戻しは当然のように思えて仕方がない。

今夜のテレビ、解説者はどう論評するのか

注目したい。
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2006年6月19日(月) 原敬の墓前になにを祈る
6月も19日、あと10日で7月である。

早すぎて、どうしてどうしてという感じである。

明後日はNHKの旅行で盛岡に出かける。

原敬の跡を訪ねる旅である。

原敬は東北を代表する偉人である。

明治以降では最大の人物だと私は思っている。

彼が少年時代に戊辰戦争が起こった。南部藩の上級士族の子弟だった原敬は、

戦争の責任を負って自刃した南部藩家老楢山佐渡の霊に誓った。

この無念は自分が晴らしてやる。その一念で政治家になり、

日本最初の平民宰相になった。

薩摩、長州、皇族以外でははじめての総理大臣だった。

薩長藩閥政治を打破した男、それが原敬だった。

原敬の墓前になにを祈ろうか、いま考えている。
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2006年6月18日(日) 地域によって読書傾向は違う
今朝の福島民友新聞、今週のベストセラー、郡山・東北書店調べ

1、逆説の日本史、井沢元彦、小学館

2、国家の品格、藤原正彦、新潮社

3、松江豊寿と会津武士道、星亮一、ベストセラーズ

4、深山木薬遊説集、高里椎奈、講談社

5、ザレゴトデイクショナル、西尾維新、講談社

6、明日の記憶、萩原浩、光文社

7、誰?渡辺謙、ブックマン社

8、うそうそ、畠中めぐみ、新潮社

9、東京タワー、リリー・フランキー、扶桑社

10、ハリウーポッターと謎のプリンス、静山社

昨日の会津若松と比べると、随分違う。

郡山の1位、逆説の日本史、会津若松にはベスト10に入っていない。

ハリーポッターも会津では売れていない。

共通しているのは「国家の品格」、

渡辺謙、来週は会津若松でも伸びてくるだろう。

郡山と会津若松は1時間の距離である。

でもこれだけ違う。

文化は地域によって違うと言うことだろうか。

私の「松江豊寿と会津武士道」

郡山でも3週連続の3位である。

地域限定の感じもするが、善戦である。

読者に支えられて私も存在するということである。

日々、感謝しなければならない。

しかしベストテンの上位もいつまでも続くわけではない。

厳しいことは百も承知である。

さあどうなるのか、神のみぞ知るである。
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2006年6月17日(土) 松江豊寿と会津武士道、会津若松で1位
今日の朝日新聞、福島県版、ベストセラー、会津若松市宝文館調べ

1、松江豊寿と会津武士道、星亮一、ベストセラーズ

2、パロへの長い道、栗源薫、早川書房

3、国家の品格、藤原正彦、新潮社

4、ダ・ビンチ・コード、ダン・ブラウン、角川書店

5、人はみた目が9割、竹内一郎、新潮社

6、社会学入門、見田宗介、岩波書店

7、日本語の歴史、山口仲美、岩波書店

8、中流絶滅、小林よしのり、小学館

9、ヒストリアン1、日本放送協会

10、ヒストリアン2、同

私の1位は映画「バルトの楽園」の影響大ですね。

ありがとうございます。
△top
2006年6月16日(金) 今日も東京で仕事
今日は衆議院の議員会館に行ったり、出版社の方と打ち合わせがあったりで、

東京である。ひどい雨なので、本当はじっと仕事場にこもっていたいのだが、

そうもいかない。

私が住む郡山は新幹線で東京までは1時間半の距離にある。

東京に近いところが、気にいっている。

しかも仙台には40分、会津若松には1時間、東北を探求の舞台にする私には

便利な場所だ。

朝の新聞タイム、福島民報は東映映画「バルトの海」の上映を大々的に報じていた。

私の「松江豊寿と会津武士道」も、売れ行きが伸びている。

それにしても福井日銀総裁は歯切れが悪い。

さっさと辞職すべきだと思う。

明るいニュースは産学連携に関する調査で、

地元の東北大学が全国2位に入ったことである、東北のために嬉しいことだ。

1位は立命館大学、3位は九州大学、4位筑波大学、5位大阪大学、6位北海道大学、

全国に散らばっていることが、健全な傾向だと思う。

運命のクロアチア戦まであと二日、勝ってほしいね。
△top
2006年6月15日(木) 今日は休刊
蒸し暑くて、考えがまとまらない。

そうだ、無理をせずに休刊にしよう、

そう思いました。

仕事までは休みではなく、パラオの松永さんと、メールの交換をしがら、

南の海の戦争の取材を進めています、

このとき、倉田さんはどうしていたか、

どう思ったか、

をメールで送り、倉田さんの話を聞くわけです。

ある部分、倉田さん、私、松永さんの共同制作ですね。
△top
2006年6月14日(水) 今日はこんな具合
いま「会津武士道」を書いている。

ーならぬことはならぬー

の教えである。

会津出身の民主党の国対委員長、渡部恒三議員が、国会で会津魂を言ってから

にわかに流行語になった。

昨今、大活躍の渡部議員にお会いし、最近の政界の話を聞きたくなり、

午前中は、そのことに追われた。

アポイントが取れて、近々、お会いすることになった。

昔はよくお会いしたが、昨今、ご無沙汰してしまった。秘書の方が昔の私を知っていて

時間を取ってくれた。

ありがたい。

すぐお昼になった、

昼は自由大学の打ち合わせである。

講師を何人か固定して専門色を出そうと思っている。

事務局長の石塚さんと昼食をはさんで、ミーテイングである。

午後はガダルカナルの戦闘について原稿である。

戦史叢書「ガダルカナル」や従軍記者の記事などを参考に執筆である。

夜は特に何もない。

8時ぐらいには帰宅の予定である。

テレビは何をみようかな。

やっぱりサッカーをみてしまうのかな。
△top
2006年6月13日(火) サッカー、惨敗ですねえ
後半の豪州の怒涛の攻撃、完敗でした。

日本の選手がひ弱に見え、残念無念でした。

前半の1点を守りに行き、積極さに欠けた展開のように思えた。

東京の会津人、御薬園OBからは次のメールが届いた。


-------------------------------------

星先生、はじめまして。東京在住の会津人です。

先生の会津関係の書籍は全部読んでおります。

愛がありながらも、冷静な立ち位置をキープする先生の論評が大好きです。

会津研究以外は、音楽とサッカーが好きで、度々中田選手の試合観戦に

海外へ出かけております。

さて、先生はワールド・カップの初戦、オーストラリア戦をどのように

ご覧になられましたか。

私はと申しますと、小野の投入が白河での西郷頼母の起用と重なって

見えてなりません。守備力のある稲本が正解だった、と思います。

ジーコは冷静さを失い、戦況よりも期待値を優先してしまいました。

才能はあるものの、走れず守備が脆い小野がボランチに入り守備が

崩落しました。最後は、まるで小田山からの絶え間ない砲撃のように

繰り返されたロングボールに屈しました。相手の汚いマークの中、

中田、俊輔は善戦しました。しかし薩長は戦術に長けて適材適所が

できていました。サムライ達の歴史は繰り返すのでしょうか。

無念です。ジーコが先生の本を一冊でも読んでいたら…泣笑。

「サムライ・ブルー」とは、まさに今の気持ちです。

前回のトルコ戦の後と同じ空虚さにおそわれています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そうですね、

確かにそういえますね。砲弾の雨でした。

次の戦いに期待しましょう。
△top
2006年6月12日(月) 今日は東京です。
古書店廻りと、編集者との打ち合わせです。

9時半の電車で出かけ、サッカーの時間には戻ります。
△top
2006年6月11日(日) 嬉しいメール
星先生

こんにちは!

松江豊寿と会津武士道、2位なのですね。おめでとうございます

でも、6月9日の「読むところがないよ」・・・・これは厳しい。

でも、厳しい読者をいっぱい持ってらっしゃるのが先生の強い所ですよね!

ダメをきちんと言ってくれる人を私もたくさん持ちたいと思っております。

来週、お休みをもらうので、この週末から出発までにかけて、私は休みなし

のようです。1泊2日の日本でも、日本は日本。みんなにやっかまれておりまして、

お土産リストがいっぱいになっております。そんな、買い物なんかしてる時間、

ないのになぁ。と思いつつ、とりあえず、引き受けておりますが。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
パラオの旅のコンダクター松永さんからである。

嬉しいメールである。

でも日本滞在は1泊2日とは厳しいですね。

松永さんにはパラオ取材でお世話になり、その後も取材のバックアップを

おねがいしている。

パラオで太平洋戦争を戦った倉田さんへの継続取材である。

倉田さんは南の島にあこがれて、二十歳前に東京からサイパンに渡った。

南洋庁の職員である。

昔、冒険ダン吉という漫画があった。

南の島にあこがれ小舟で漕ぎ出し、やっとたどりついたら

人食い島だった。しかし持ち前んの頓知で、島の人に愛され王様になったという

ストーリーである。それにあこがれた。

しかし、すぐに太平洋戦争が始まった。

倉田さんは、まさか日本が負けるとは思わなかった。

サイパンからパラオに移り、徴兵された、

そしてアンガウル島に送られ、米軍と戦った。

島の守備隊は玉砕し、倉田さんは何人かと洞窟に入り、

持久戦に出た。小野田少尉と同じである。

やがて米軍に発見され、アメリカの収容所に送られた。

そういう稀有な体験の持ち主である。

倉田さんを主軸に書きはじまったのはいいのだが、取材不足が随所にあり、

しょっちゅう書けなくなる。。

その時、たすけてくれるのが、松永さんである。

私はいくつかの質問事項をまとめて松永さんにメールする。

すると松永さんは時間をみて、倉田さんに会い、インタビューしてくれる。

たとえば、


ミッドウエー海戦で日本が敗れたときの感想は?

負けたことは知らなかった、勝った、勝っただけだった。

じゃ、日本が負けるという意識はなかったわけですか?、

そうです、勝つと思っていた。


という具合です。

松永さんには、本当にたすけられている。

短い日本滞在、すこしは楽しんでください。

ーーーーーーーーーーーーー
追伸

この原稿のタイトル、

「なぜ太平洋戦争は負けたんだ」
  パラオの海で考えた

といったところかな、

あるいは

「玉砕、パラオ戦記」
  南の海で太平洋戦争を考える

もあるかなあ、

ともあれ、いま原稿を書いている。

出版社はまだきまっていないが、

どこかに落ち着くだろうと思っている。
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2006年6月10日(土) ベストテン2位
本を出すと気になるのは、売行きである。

今日に福島民報の読書欄に会津若松での本の売れ行きが出ていた。

「松江豊寿と会津武士道」はどうだと新聞を広げたら2位だった。

大善戦である、読者の皆さんにまず感謝したい。

1、藤原正彦、国家の品格、新潮社

2、星亮一、松江豊寿と会津武士道、KKベストセラーズ

3、佐々木俊尚、グーグル、文芸春秋

4、新谷弘実、病気にならない生きかた、サンマーク出版

5、橘玲、臆病者のための株入門、文芸春秋

6、藤原正彦、この国のけじめ、文芸春秋

7、山口仲美、日本語のい歴史、岩波書店

8、赤坂憲雄、イザベラバードの会津紀行、会津学研究会

9、養老孟司、超バカの壁、新潮社

10、久保田麻琴、世界の音を訪ねる、岩波書店、
  
              宝文館調べ

藤原さんは強いですね、
百万部はとうに超え、どこまで行くのだろうか。
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2006年6月9日(金) 精神主義の限界
私は新聞記者の出身、原稿を早く書く訓練を受けてきたので、書くことは苦にはならない。

しかし問題は中身である。

「最近、今日の一言、読むところがないよ」

とよく言われる。

読ませる一言を書こうと思うと、下手をすると午前中かかったりする。

そこで、出典を明記して、これはと思うニュースを転載し、

コメントをつける手法もときおりとっている。母校一関第一高校野球部の話、

小泉総理の会津の旅、シネマノートなどである。

そんなものは読んだよという人もいるので、これもあまり使うことはできない。

厳しい指摘も受けたりもする。

自分の文章を書けというわけだ。

メールは相手の顔は見えない。こちらは丸裸である。

やられっぱなしということもある。

そこで、ひとつのテーマで連載する方法もとったりしている。

太平洋戦争がそうである。

今年パラオの海に取材に行ったので、それに関連して何回か書いて見た。

ただ今日の一言なので、長い連載は違和感が生じる。

あれやこれや試行錯誤の日々である。

正直なところ、一週間に1回、なるほどと思えることがかければ、

いいのではないかと思っている。

そんな感じでみていただくほかはない。

今日は

「だから太平洋戦争は負けたんだ」
  玉砕、パラオ戦記

の執筆である。太平洋戦争に際し、日本人は数限りない失敗を重ねた。

最大の失敗は自分を知らないことだった。

一体、日本にはどのくらい資源があるのか、石油はどのくらいあるのか、

アメリカと比べて工業生産のレベルはどうなのか。

軍の参謀にどの程度の認識があったのか、はなはだ疑問だった。

「戦史叢書」を丹念に読むと、精神主義が跋扈し、作戦の多くは

非合理的だった。気合で戦えというのである。

たとえば戦闘機の搭乗員に対する考え方である。

戦場に出れば当然、被弾することもある。不時着もある。

ところが救助体制は皆無だった。搭乗員は高度な技術者である。

それをいとも簡単に殺してしまった。搭乗員から要望のあった頑丈な機体は、はねられた。

頑丈にすれば燃料を食う、コストも上がるというのだ。

搭乗員はまるで虫けらのように扱われた。

真珠湾攻撃でも方向を見失った搭乗員は見殺しだった。

ミッドウエーでも、判断ミスでベテラン搭乗員の大半を失った。

真珠湾攻撃を指揮した源田実は神さまのように扱われいるが、

救助体制については冷淡だった。

人間を軽視した軍隊は最後、負けることになる。

それは当然の報いだった。
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2006年6月8日(木) 小泉総理の会津リポート,小泉内閣メールマガジンより
らいおんはーと 〜 小泉総理のメッセージ]

● 野口英世博士のふるさと

 小泉純一郎です。

 先週末、野口英世博士のふるさと、会津を訪問しました。北陸、沖縄と続

いて、3週連続しての国内出張になりました。

 金曜日の夜7時に東京を出発し、会津の奥座敷と呼ばれる東山温泉の伝統

ある日本旅館に夜遅く到着。翌朝、会津西街道の宿場町として栄えた大内宿

を訪ねました。

 ここは、伝統的な建物の保存地区に選定されたのをきっかけに、かやぶき

屋根をきれいにふき替え、電柱をとりはらい、舗装をけずって砂利道にして、

かつての景観をとりもどしたとのこと。

 昔の景観を復元し、外国人をはじめ観光客が急増している。会津の人は知

恵があると思います。

 会津若松に戻って、室町時代から続く庭園でたくさんの薬草を栽培してい

る御薬園で昼食。白虎隊の隊士たちが自刃した飯盛山に登った後、猪苗代町

にある野口英世記念館を訪れました。

 先月ガーナで会談したクフォー大統領も、日本に来たときに、ここを訪れ

たことがあるそうです。私は行ったことがなかったので、それ以来、是非一

度訪ねてみたいと思っていました。

 記念館には、博士の生家が多くの遺品とともに保存されており、子供の頃

にやけどを負ったという囲炉裏や読んでいた書や机、お母様の手紙などを拝

見し、改めて野口英世博士の偉大さに感銘を受けました。

 博士の没後、福島県の方々や野口英世博士の関係者の方々は、記念館を建

て、永年にわたって野口英世記念医学賞を続けています。これは非常に貴重

なことだと思います。

 アフリカの医学、医療に貢献した方々を表彰するため野口英世博士にちな

んだ賞を創設することは、既にこのメールマガジンでもお話ししましたが、

ノーベル賞を超えることは僭越と思いますので、ノーベル賞に匹敵するよう

な賞にしたいと思います。

 今から2年後の2008年は、博士が亡くなってから80周年に当たりま

す。ちょうどこの年には、5年に1回のアフリカ開発会議(TICAD)が

東京で開かれ、アフリカ各国の首脳のみなさんが集まりますので、このとき

に第1回の授賞式ができるようにしたいと考えています。

 野口英世博士の志を継いで、アフリカ・世界の医療の向上と保健の増進の

ために、日本としてもできる限り努力していく考えです。

* 編集部注:小泉総理の福島県視察は、政府インターネットテレビ2CH
 でご覧になれます。
http://nettv.gov-online.go.jp/

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私の「野口英世の生きかた」ちくま新書

もよろしくお願いいたします。
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2006年6月7日(水) 粉川哲夫の【シネマノート】
バルトの楽園 10日上映開始です。

以下は粉川哲夫の【シネマノート】 です。


◆マツケンサンバの松平健が出て、ベートーベンの第9が使われ、

ブルーノ・ガンツが出るというので、一体どんな映画になるのかと思ったが、

けっこうまともな映画だった。いや、なかなか悪くないのではないかと思う。

スペースFS汐留の会場に30分まえに入ったら、ほとんど人がいなかった。

入口には、黒ペンギンのようないでたちのスタッフが勢ぞろい。

最近この会場で、スタッフは勢い込んで来ているのに、

観客の方はいまいちというケースを見かける。宣伝の誤算なのだろうか?

開場10分まえぐらいになって、ぞろぞろと「マスコミ関係者」とは

ちがった感じの集団が入ってくる。動員したのか? そのなかの若い女の子が、

わたしの前の席に早くから来てすわっていたおじさんに、「つめてくれません」と言い、

その人は唖然。そうだよね、好きな席を早く来てとったのに、

開場まぎわに移動させられてはかなわない。

背広を着込んで下げカバンを持った人たちの一団も前の方に

とりあえずといった感じで座る。

これで一応、席は7割り方埋まった。わたしの横には、「おばさん」の一団が座った。

やはり、反応が全然ちがう。浮虜収容所長を演じる松平健が、慣れぬ自転車に乗り、

ふらふらしたり、転んだりするわざとらしいシーンで、判で押したようにゲラゲラ笑う。

松平が出演するとなれば、こういう松平ファンも相当来るであろうから、

普通の劇場でこの映画を見るときの雰囲気を味わえるという意味では、貴重な体験か?

◆まえおきが長くなった。映画が始まってまず感じるのは、

映像の安定性と美しさである。これからはじまる映画の内容はともあれ、

しっかりした映像は、これならどちらへ転んでも、

そうひどくはならないだろうという予感をあたえる。戦争がメインではないが、

日本が戦勝して、ボロ儲けをした第1次世界大戦のチンタオの戦闘シーンから始まるのと、

この映画の主役・松江豊寿(松平健)が、会津藩士の長男という設定で、

映画のフラッシュバック・シーンで、会津戦争のシーンがあるので、

戦闘シーンが何ヶ所か出る。そこで弾がさく裂したりするのだが、

そのシーンが実にサエている。エンドクレジットを見たら、ガンエフェクトの担当は、

納富貴久男氏だった。さすが。

◆日本映画であり、極めて日本的なテーマをあつかっているように見えながら、

意外に脱国家的(ネイション国家が無意味になったいま、

「インターナショナル/国際」という言葉も注釈付でなければ、使えなくなったので、

「脱国家」という言葉を使う)なのだった。ドイツ人が登場していることよりも、

主役が、「会津藩」の出身であることで、日本の主流に距離を置いている点がその1つ。

それから、「板東俘虜収容所」の地域(徳島県鳴門市大麻町)性への意識である。

まあ、パターンと言えばそうだが、映画はどのみちパターンを描くのだから、

どうせパターンを描くのなら、単一よりも複合的の方がいい。

◆会津藩は、明治の王政復古に反対した「反体制」の藩であり、

「戊辰(ぼしん)戦争」で負け、「反逆」の罪で「滅藩」の処分を受けた。

松江豊寿の父(三船史郎――若いときの敏郎にそっくり)は、新政府に「反逆」して、

ひどい目に会った。わたしが子供のころ、

親の家で働いていた人の一人に会津藩出身の人がいたが、誇り高く、頑固な人だった。

◆ドイツ人の俘虜たちが敵対的でなく受け入れられたのは、

四国にもともとあるホスピタリティの文化と関係がある。四国の四十八カ所巡りでは、

地の人々が遍路に食べ物などを提供しているが、

こうした無償の援助の習慣がこの地では強い。わたしは、いまでも、

パターン的に四国の人にはそういうものを感じる。その意味で、このドラマは、

会津の「つっぱり」と徳島の「ホスピタリティ」とが相乗効果をあげることによって

出来上がったとも言える。

◆会津(福島県)も含めて、昔から、東北からは、すぐれたドイツ文学者が輩出している。

東北弁とドイツ語に共通性があるのかもしれないが、それとともに、

ある種の「筋」文化というか、筋を通す=論理性重視の文化が東北にあり、

それが、ドイツ的な論理重視の文化とどこかでかみあうのかもしれない。

松江豊寿は、「わたしが預かっているのは、収容所であって、刑務所ではない」、

戦争俘虜は、ハーグ条約では罪人ではないのだから、

その人権を重んじなければならないという論理を守り、

軍部の圧力をガンとして聞き入れない。その頑固さは、きわめて論理的なのだ。

◆面白いと思ったもう一点は、松江豊寿は、武士の息子でありながら、

日本の「平和国家」的な方向を先取りするような意識の持ち主である点だ。

収容所のドイツ人たちを無差別に働かせるのではなくて、

パン作りのマイスターがいるとわかると、それを優遇し、パン作りに専念させる。

リバー・ブーツが演じるカルル・バウムである。彼は、のちに神戸に住み、

パン屋を開き、日本におけるパン製造に貢献するらしいが、その事実はともかく

、海外から新しいものを積極的に取り入れ、

それを自己流に発展させる日本の「商い」文化のパターンが見えるのである。

支配し、管理するよりも、受け入れ、取り込むことによって、

積極的に学ぶという――鈴木孝夫先生が『日本人はなぜ日本を愛せないのか』(新潮社)

でご推奨の――パターンだ。

◆『北の零年』と『SAYURI』で天才的な演技を見せた大後寿々花は、今回も悪くない

。大後に甘いわたしは、プレスを見て、「すごいなぁ、目つきが他の俳優とは全然違う」

と思い、映画を見たら、それも当然、ドイツ人の父と日本人の母とのハーフを演じるので、

コンタクト・レンズをしているのだった。

◆収容所を守る大尉(國村隼)は、通訳も兼ねるのだが、

國村のドイツ語の発音がなかなかいい。松平のは、暗記の産物。

◆最初、ナレーションは、俘虜の一人ヘルマン(コスティア・ウルマン)が、

故郷ドイツの母親(イゾデ・バート)への手紙を読んでいるスタイルで行なわれる。

ところが、手紙を日本語で書いているわけではないのに、ナレーションは、

たどたどしい日本語なのである。途中で、歴史的な説明のシーンで、

別の「客観的」なナレーションも入り、なんか統一がない。

◆「バルト」というのは、ドイツ語のBartつまり「髭」のことを指す。松江豊寿が、

会津藩の出自を意識してはやしている髭のことだが、ちょっと見にはわからない。

「楽園」も「がくえん」と読ませる。


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私の「松江豊寿と会津武士道」ベスト新書もよろしく、おねがいします。
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2006年6月6日(火) 竜馬暗殺、深まる謎
今日は竜馬に関する講演である。

慶應3年11月15日、夜の9時ごろ、京都の醤油商近江屋の2階で惨劇は起こった。

中岡慎太郎とともに何者かに暗殺されたのである。

竜馬は176センチ、当時としては体の大きい人物だった。

28歳で脱藩、独自の政治構想打ち出し、薩長同盟を完成させた。

大政奉還の原型となったのが、船中八策だった。

竜馬は幕府からねらわれていた。前年、寺田屋事件が起こっていた、

このときは妻お龍が機転で竜馬は助かっている。

それ以後、6連発の拳銃をもっていた。名前も才谷梅太郎、高坂竜太郎、犯人は誰か

実行犯7人説

二階に3人、1階奥に1人、入り口に1人、外に1人、階段上に1人、これが指揮官、

犯人、札名詞を使う、十津川郷士の名前を名乗った。、

二階8畳間の惨劇は小太刀を使ったのではないかとされている。

1人が最初に額に一撃、背中に2の太刀、中岡はみていた。

2,3人ガ中岡を襲った。

犯人像

1、新選組 アリバイがあった。

2、見廻組、犯行を自供、

3、薩摩藩の説もある

パート1で私は見廻組説に疑問を呈した。

しかし、意外な資料があった。出典は「佐々木只三郎伝」である。

編者高橋一雄、昭和13年の発行である。この人の詳細はわからない。

この本では只三郎ガ指揮官となって、近江屋に入った。

下僕が名詞を持って2階に上がったところを2人が飛び込んで、竜馬を斬った。

そして実兄の手代木直右衛門は、死の直前、暗殺を指示したのは

主君松平容保だったと告白したとある。

ううん、これはどうなのだろうか、

これはありえないように思う、会津のサムライは主君を陥れるような発言が絶対にしない。

まして重臣である手代木がするはずはない。

この本には裏がありそうな気がする。

歴史は絶えず闇である。

私はうなるばかりである。

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竜馬の業績

竜馬は日本に近代国家をつくろうとした。

商人としての竜馬

1、海援隊 脱藩の人々で、運送業、商取引、スポンサー岩崎弥太郎、三菱の創業者、

最初土佐商会、武器の販売、

2、いるは丸事件、海援隊の船いろは丸は紀州藩の明光丸に衝突され、沈没した。

悪いのは紀州藩、竜馬は7万両をせしめた。

紀州藩は1万両で済ませようとしたが、竜馬は西郷、木戸にも頼み、

紀州藩を徹底追究して、賠償金をせしめた。金を積んでいたと主張した。

これは詐欺まがいのふんだくりだったといゆ見方もある。

3、謎、仙台藩から商取引があった。

仙台の産物の輸送販売である。1万両で仕入れ販売する。、現在の価格で数億円

その1ヶ月後に暗殺された。

ここから推理されることは、やはり幕府と薩長の平和的解決路線である。

竜馬暗殺の謎は深まるばかりである。

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参考資料
人名辞典、和泉 坂本竜馬

この刺客に関しては「新撰組説」「京都見廻組説」が有名だが、

有力候補の新撰組説は別として、見廻組説の根拠は、

明治時代になって元京都見廻組だった今井信郎が政府に

「自分が竜馬を斬った」と名乗り出ているため。

しかし、この話は今井の売名行為だとする意見が多い。

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それ以外の容疑者として、その事件直後に土佐藩の中島信行が近江屋に駆けつけ、

そこの女中から刺客が薩摩弁を話していたと言う証言を得たことから、

西郷隆盛が関係しているのでは?と言うものもある。

実は竜馬と渡り合えるほどの剣の達人は、新撰組にも京都見廻組にも存在していない

(新撰組で渡り合えそうな沖田総司はこの時期すでに病による療養生活に入っていた)

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薩摩藩には竜馬と渡り合えるほどの剣豪・人斬り半次郎(後の桐野利明)がいた。

その彼が動くと言ったらその裏には西郷隆盛がいるとしか思えない。

西郷は多くの人の信望を集めていた人物だが、

それ以上に竜馬は不思議な力で人々の信望を集めていた。

その為に、新政府を自分の思い通りに動かそうと考える西郷にとって

一番邪魔な相手だと思っていたのではと考えられる。

さらに西郷は武器を売り込んでくるグラバーの存在がある。
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実はグラバーは、竜馬が日本初の会社「亀山社中」を作り、

長崎を中心にうまく商売をしていたために敵対していたらしい。

その為にグラバーが西郷に入れ知恵をして竜馬暗殺に踏み切ったと言う説が存在している。

が、あくまでも説と言うだけで実際の犯人は闇の中なのです。

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★険の達人とされていた竜馬が、突然だとは言え応戦する事もできずに、

暗殺者に斬られたのは、刀を離れた所においてあった為。

実は坂本龍馬と中岡慎太郎は議論をするとき、カッとしてしまうので、

なるべく刀を離れた所においてから議論を始めるようにしていた。
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これもなるほどと思われる見方である。

それにしても不思議なのは、佐々木只三郎伝の存在である。

誰がこの伝記を書かせたのかである。
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2006年6月5日(月) 会津斗南資料館!地球人ネットワーク、つぼみさんのリポート、
幕末維新ってなあに?
海外旅行とお料理と映画と語学・世界史・美術が好きなつぼみが2004年、突然「幕末〜明治維新」に嵌まってしまいました。ちょっとずつ日本のことを学んでいこうと思っています。(つぼみ 女) [プロフィール][HOME]

より転載させていただきました。


会津斗南資料館!(3)
会津藩 斗南へ―誇り高き魂の軌跡 2006-05-06

へぇ〜こんな説があったんですか!私は知りませんでしたが、

斗南藩士の子孫の方たちは第2の説が本当の心情に合ったものだと思っているそうです。

朝敵となった自分達が表向きは第1の説を唱えておいて、実は真の意味を心の中に隠して、

強く生き抜いてきたんだということなのでしょう。子孫の方に第2の説が伝わっている

ということは、やはり本当はそちらの意味があって名づけたのを、立場上、

明らかにするのを憚られて第1の説を広めたのかな、と思いました。

そう思って改めて絵を見るとそこには、会津の人たちが今でも

薩摩・長州を許さないという気持ちがこもっているようで、

星空を描いたロマンチックな絵というだけではない、

熱い魂の気迫を感じました。スゴイな〜と思って眺めていると、館長さんすかさず、

「とうとう、この(名前の)お酒まで作っちゃったんですよ!」と嬉しそうに一言。

もう、買うしかないでしょう、これは!館長さんの斗南藩にかける熱意と、

自分に与えられた使命と誇りに、私も胸を打たれました。

展示を一通り見終わった後、座卓の上に置いてあった古地図を眺めました。

お城があって、家老宅があって、今も残る御薬園があって、

「人参役場」なるものがあって(会津特産の高麗人参を扱う役所??)、天寧寺があって・・・。

卓の上には、訪問者の記帳ノートがありました。

皆さん、結構遠くからいらしていて、もう2回目という人もいました。

私は受付で「青森から来た」と告げたとき、

館長夫人が「まあ、青森市から?わざわざ遠いところをありがとうございます」

とおっしゃっていましたが、京都や神奈川からいらしている方が多かったです。

階段を下りるとき、ふと正面を見ると、階段の上の方に、

新選組のだんだら羽織と局中法度てぬぐいが飾ってありました。

これは階段を上るときには見えないので帰る際に最後の展示として

目に入る仕掛けになっています。この資料館全体に言えることですが、

凄惨な戦争と過酷な運命を経験した人たちの資料を展示しているのに、

暗い気持ちにならないんですね。暗い中にも希望があるような雰囲気があります。

闇夜の中にも光が射しているような・・。「向陽處」という名前の示すとおり、

未来へ向けての光明を感じる場所でした。

1階へ下りると、立派なテーブルの席にコーヒーを淹れて持ってきてくれました。

館長夫人がこの資料館を維持している苦労を語ってくれましたが、

当初、資料館をオープンすること自体で夫婦喧嘩になったそうです。

でも今では資料を現代語に訳したりすることが楽しくて・・・

という感じでなかなか面白かったです。作家の星亮一さんが訪ねてきたときの話も出て、

最近出版された本の中に写真も出ているのでぜひ読んでみて下さい、と言われました。

実はその本、5日に本屋さんで買ったばかりでまだ読んでいないんですが、

近いうちに読もうと思います。

県内の歴史家では葛西富夫さんという方が熱心に調べて書かれているということも

教わりました。青森県内に葛西さんの書かれた資料や本もあるはずだから

探してみるといいという話でした。

帰りに、『斗南藩』を買いました。

純米吟醸酒で、むつの関ノ井という酒屋さんに頼んで作ってもらったものだそうです。

家に帰ってから夕食のときに飲みましたが、フルーティーで結構飲みやすいお酒で、

美味しかったです。

青森県内には会津関係者が多い割にはきちんとした資料館がないのが残念だったのですが、

この資料館は見応えがあって、とてもよかったです。

会津・斗南藩に興味のある方にはスゴクお勧めなんですが、如何せん、

交通の便は悪いです。むつから車で約1時間ですが、

むつに行くのも結構大変なので。もうちょっと道路事情がよくなってほしいな、

と切に思います。しかし、逆にそんな辺鄙なところだからこそ、

これだけ貴重な資料が保存状態もよく今まで残っていたのかもしれません。

中央にあった資料はほとんど残っていないのですから、何が幸いするかわかりませんね。

斗南の人の体には普通の会津人以上に濃い士魂が流れているのかもしれないなあ、

と感じる旅でした。

会津斗南資料館「向陽處」: http://hanaya.ojiji.net/index.html


会津藩 斗南へ―誇り高き魂の軌跡 ISBN:4384038003 星 亮一 星 亮一 三修社 2006/03 ¥1,890
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つぼみさんの愛情のこもったリポートでした。

私のことも書いていただきありがとうございます。

大間はこれから最高の季節です。

皆さん、ぜひ、お出かけください。

マグロもおいしいですよ、

つぼみさん

戊辰戦争研究会

会津集会、

7月15、16日、ぜひ、会津にもお出かけください。

お待ちしております。
△top
2006年6月4日(日) 竜馬暗殺と会津藩
全国に坂本竜馬の会がある。

福島県だけがなかったが、このほど結成され、6日に郡山市の東洋健康センターで

旗揚げすることになり、私のところに講演の依頼があった。

会津藩と坂本竜馬というテーマであった。

どうもこれまで見た史料からは、会津藩と坂本竜馬が接触したことは、なさそうなのだ。

私はまったくないとは言い切れないように思っているが、

史料的には見えないのである。

巷間、伝えられる接点は竜馬暗殺である。

京都見廻組の佐々木只三郎が暗殺の下手人と言われている。

佐々木は会津人で、旗本の養子にはいった人物である。

只三郎の実兄は会津藩公用人の手代木直右衛門だった、

重厚な人物で、京都では薩摩、長州にも知られ太外交官である。

この人は幕府、会津との共存をもくろむ竜馬に好意を示していたはずである。

只三郎はすべて兄に相談しており、

「竜馬は斬るな」

といわれていたはずである。

つまり竜馬暗殺の犯人は京都見廻組ではないというのが私の推理である。

しからば誰が犯人か。

それは薩摩が濃厚になる。討幕を目ざす西郷隆盛にとって、

もはや竜馬はいらない存在なのだ。

「消せ」

と薩摩筋から暗殺グループに指示が下ったのではないか。

只三郎は鳥羽伏見の戦争で重傷を追い、江戸に引き上げる途中で死んでしまう。

弁明の機会もないまま、犯人にされてしまった。

ところが実兄の直右衛門は、弟が犯人でないことを知っていた。

西郷にとって兄は煙たい存在だった。

会津が落城したとき、直衛門は切腹を申し出た。しかし家老ではない。

切腹は認められず、会津藩の再興に尽力するが、程なく薩長新政府から

仕官するよう求められた。会津の人は全員、罪人だった。

新政府に仕官するなど夢の夢だった。

なぜだ。

坂本竜馬暗殺の口封じだったのかもしれない。

なんとなくありそうな話ではござらぬか。
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2006年6月3日(土) NHK歴史講座、太平洋戦争
7、8、9の夏季講座は太平洋戦争です。

郡山、福島の二つの教室で行います。

第1回は「真珠湾攻撃」です。

これは世界の戦争史に残る大勝利でした。

あまり勝ちすぎて日本海軍に気の緩みを起こり、ミッドウエーで大敗するわけです。

近々、PHP文庫から私が書いた「山口多聞」が、リニュアル発刊されます。

これは真珠湾攻撃に参加し、ミッドイウエー海戦で戦死した山口多聞中将の伝記です。

ここに私の見た真珠湾攻撃とミッドウエー海戦が掲載されています。

発売は今週末の予定です。

なぜ日本は米国と戦うことになったのか。本にも書きました。

背景には日本バッシングがありました。

講座でも、もちろんそのことに触れます。

夏期講座に御期待ください。
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2006年6月2日(金) 戊辰戦争研究会での講演と研究発表
7月15、16日、猪苗代町で開く会津集会、私は

「戊辰戦争研究の課題」

と題して講演します。講演の骨子は

1、今後、研究すべき分野

2、薩摩、長州も含めた全国規模での討議

3、会津、長州の和解への道程と展望、

の3点です。

従来の戊辰戦争研究の最大の欠点は、偏りがちな傾向があることです。

当事者である薩摩、長州、土佐、そして会津、長岡、仙台、秋田など広範囲な人々の

参加が必要です。

今回、研究発表も多彩な内容となっています。

土方副長の「世良修蔵論」、どういう新しさがでるのか注目です、

最近、携帯にも出ずに研究に没頭、長州人が書いた「世良修蔵」を手に、

「いやな奴に変わりはないが、意外にいい男かもしれません」

などといい、

「ええ、マジですか」

と皆をおどろかせています。しかし土方副長、最後は居合で、

びしっと、決めてくれるでしょう。

大鳥君の「木戸孝允と伊藤博文」、これは長州藩の大物の人物比較論です、

わが研究会の幅の広さを示す発表です。

仙台玉虫君の「仙台藩の情勢」これも期待されます。

漏れ聞くと「鴉組細谷十太夫論」に変更もあるとのこと、面白そうですね。

沖田君の「検証―開国に携わった 幕臣たちの力量」

これも本格的ですね。

中 山 林 忠崇 さんの 「強い集団作りへの提言」のエントリーもあり、

学会顔負けの発表です。

多分、発表はもっと増えるでしょう。

まだ公表できませんが、長州藩萩からゲストがくるかもしれません。

となると、朝まで生討論の公算大です。

スペシャルゲスト→「壬生 新選組記念館」の 青木繁男氏 の話も楽しみです。
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玉虫君の最新報告

副長の発表[世良修蔵論]は各方面から注目されていますね!

私自身、考えが変わるかも知れません!

さて、私の演題、

数日間悩みまして、[鴉組と額兵隊に見る仙台藩の情勢]を題にすることにしました。

ここ数日星恂太郎関係の書を色々読んでいます。

皆皆様、どうか温かい目で見てください・・・

事務局 nakamura-toh8@hotmail.co.jp
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2006年6月1日(木) 真珠湾攻撃と日本のサッカー
ドイツとの国際親善試合は、衝撃だった。

私は太平洋戦争の時の真珠湾攻撃を連想した。

日本海軍の奇襲攻撃にハワイの米国太平洋艦隊は壊滅した、

今回のサッカー、最初の二本は、まさしく真珠湾の奇襲だった。

どがんと相手を粉砕した。

ただし敵の空母は演習に出かけており、まったく無傷だった、

日本海軍も日本国民もこれを無視し、勝った勝ったと万歳した。

そして考えたのがミッドウエー海戦だった。

残っていた米空母部隊を引きずりだし、全滅させる作戦である、

参謀の中には、連合艦隊に恐れをなし、米空母艦隊は雲隠れするだろう。

その時はミッドウエー島の航空基地を叩けと指示し、航空機は爆弾を積んで飛び立った。

ところが空母部隊がいることがわかり、爆弾を魚雷に積み替える作業中に、

攻撃を受け日本の空母部隊が全滅する大失態を演じた。

索敵の失敗、情報分析の甘さ、臨機応変の対応のなさ、

せっかくの勝ち戦がこれで崩壊し、日本は連戦連敗、玉砕する。

サッカーも気をつけなければならない。

幸い、外国でプレーしている選手が多いので日本海軍の失敗はないだろうが、

慢心しないことが第一であろう。

スポーツ紙を読むと、ドイツのショックは大きいいという。

今後は牙をむいて向ってくるだろう。

他の国も日本を警戒するだろう。

ミッドウエー海戦にならないように祈るばかりである。

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ドイツ「日本となんてやりたくなかった」…国際親善試合
2006年6月1日(木) 8時0分 スポーツ報知

 ◆国際親善試合 日本2−2ドイツ(30日・ドイツ・レバークーゼン)

 ドイツ代表が大混乱に陥った。試合後、クリンスマン監督(41)は

疲れ切った表情で言った。

「本当は日本となんてやりたくなかったんだ。W杯に向けて欧州スタイルの国とやりたかったん

だよ」

なぜか、試合の開催自体を批判。指揮官のストレスがピークに達した証拠だった。

 1次リーグで対戦するのはコスタリカ、ポーランド、エクアドル。

どのスタイルにも当てはまらない日本と戦うメリットは少ない。

ドイツ代表監督に就任する前から決まっていた親善試合

で、断り切れなかった経緯がある。

それでも最終的な実施に同意し、入念に準備を進めてきた。

故障を抱えるMFバラックも起用。

内容で圧倒され、2失点するという結果は全く予期していなかっただろう。

 バラックが「日本人はすごく速くて、あっという間にゴール前にくる。

自分たちのサッカーをするまでに時間がかかった」と脱帽すれば、GKレーマンも

「日本のプレーは最高だった。10番の中村や右サイド(駒野)がすごかった」

と振り返った。調整試合とはいえ、

格下と見ていた日本にあわや敗戦という展開に、

ホスト国としての自信が揺らぐ結果となった。
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